新しい野蛮状態の先へ

2022年8月18日
posted by 藤谷 治

第33信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

降れば水害、照れば灼熱という日本の夏を、青息吐息というほどではないにせよ、息苦しく暮らしているうちに、広い社会では恐ろしい出来事が次々に起こりました。七月には元首相が選挙の応援演説中に殺害され、八月にはアフガニスタンでアル・カイーダのザワーヒリがアメリカ軍に殺害され、そして昨日(8月12日)は、ニューヨークでサルマン・ラシュディ氏が刺されました。

元首相殺害の動機は、犯人の家族が宗教団体「統一協会」(旧、だそうです)に多額の献金をしたために家庭が崩壊し、元首相がこの宗教団体と深く関わっていたことにあると報じられています。

ザワーヒリ殺害は、9.11テロの首謀者の一人としての「報復」でしょうから、これにイスラム教がどのように関わっているかは、僕には複雑すぎて、ここにあっさりと書くことはできません。

ラシュディ氏への襲撃は、かつてホメイニ師が発布した「ファトワー」が関係していると思われます。「ファトワー」とはイスラム法学者が発する布告だそうですが、僕はまったくの無知です。ラシュディ氏の死刑を宣告したファトワーが出されたのは1989年、今から33年前のことです。昨日氏を刺した犯人は、24歳だそうです。

そんなことに驚いてはいけないのかもしれませんが、僕は衝撃を受けました。日本で『悪魔の詩』の翻訳者が殺害されたのは1991年の7月で、犯人は遂に見つかりませんでした。これもまた31年前の悲劇で、今度の犯罪者が生まれる前のことです。僕はおそらく、愚かに過ぎるのでしょう。ラシュディ氏への宣告は過去のものになったとばかり思っていたのでした。

僕はいずれの事件も報道を追いかけたり、詳細を調べたりはしていません。たまたま広げたインターネットやテレビをほんの少し見るだけですが、元首相殺害犯の母親が、統一協会に申し訳ない、と語ったという報道を見かけました。

元首相殺害事件以来、政治家が「旧統一協会」を集票組織と目していたらしいことが明るみに出て、ワイドショーなどは盛んに報じているようです。政治家たちも報道も、あの団体が人々を「先祖が地獄で苦しんでいる」とか「子供に災いが降りかかる」と言って脅し、多額の献金を搾取していることを、これまでは見て見ぬふりをしていたのでしょう。あからさまな洗脳であり恐喝ですが、しかしその恐喝をしている側も恐らく、信じていた(いる)のです。あるだけの金を吐き出さなければ、その人の先祖は地獄で苦しみ続けると。

ラシュディ氏にナイフを向けた凶漢もまた、「ファトワー」は絶対であり、遂行されなければならない神の法であると信じ切っていたのでしょう。彼がラシュディ氏の著作を読み、みずから判断して凶行に及んだとは、僕は思いません。

つまり宗教とは、ある種の人たちにとっては、自己の判断の外にあるものなのです。彼らのやっていることは恐喝でもなければ殺人未遂でもなく、神に与えられた振る舞いであり、そのように振る舞う自己を彼らがどう感じているか、考えているかは、彼らにはそう重要ではないのではないかと、僕には見えます。

彼らに感じ、考えるものがあるとすれば、それは「祝福」でしょう。この世の基準でそれが恐喝であっても、殺人であっても、それを為すことによって神には祝福され、天界の座を得るのです。彼らの感情と思考は神に直結しており、現世は神意を具現化するための場所であり、その具現化は神に試みられている自分によって為されなければならないのでしょう。彼らは結局、神の触媒のつもりなのです。

僕は何をだらだら書いているのでしょう。書きながら考えているとはいえ、こんなことは仲俣さんはとうに考えつくしているに違いありません。最近仲俣さんが論じている橋本治氏は、同じことを、僕よりはるかに深刻に考察しています。

僕はどこまでも自分の頭でしか考えていないのです。大のオトナが青臭いことを申しますが、僕はデビュー作から一貫して、自分の内なる神に質問しながら小説を書いてきました。どちらかというとキリスト教らしきものをネタにしてきましたが、聖書などろくに開きもせず、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』のヨシュアとか、遠藤周作『おバカさん』のガストン君を念頭に置くことが多いです。

しかし、いくら「内なる神」にぶつくさ問いかけようと、「宗教」については何一つ理解できないんだと、最近の事件でつくづく思い知らされました。彼らの神は彼らの外にあるからです。ここで慌てて書き添えておきますが、「彼ら」とは宗教者のことではありません。「宗教」を動機とする犯罪者のことです。元首相の殺害者はこれに該当せず、殺害者の母親は犯罪者ではありませんが、宗教団体への献金によって家庭を崩壊させておきながら、いかなる法にも触れないというのは、僕には不可解です。

彼らは彼らなりに神を内面のものとしているのだ、という解釈もあるのかもしれません。しかしそれとこれとは似て非なるものです。僕が言う「内なる神」とは同時に、神は「外」にはいない、という認識でもあるからです。

神というのはまったく訳の判らないものです。何をしているのか、なんのつもりなのか、はっきりこうと答えられた人は、一人もいないんじゃないでしょうか。洗脳や恫喝、政治的な同調圧力、無反省な慣習の踏襲によって語られるのでなければ、神は「オカルト」、すなわち神秘的体験でのみ実感できるものなのでしょう。内村鑑三やパスカルのような高い知性による著作を読んでも、僕はそれを感じます。

神秘的体験は再現不可能なものであり、個人的なものです。本質的に他者と共有できるものではないはずです。誰かから神の実在について問われたら、僕ならこう答えるでしょう。いるかもしれないが、いたってしょうがないものだと。勉強しないで菅原神社に手を合わせたら試験に合格したという人はいません。人事を尽くして天命を待つというのは世渡りの真実ですが、人事を尽くさず天命にすべてを任せるのはただの愚か者です。

だから僕には宗教「団体」というのが判らないのです。僕の小説が読者の「共感」を得られにくい一因でもあるでしょう。実に多くの人間が、宗教とは(新興か古来のものかに関わらず)宗教団体のことだと思っていますから。自分以外の人間と神を共有できるとは、どう考えても思えない。駅前に立って通りすがりの人に「あなたは神を信じますか?」と尋ねてくる人間は、最近あまり見かけませんが、あんな愚問がほかにあるだろうかと思います。信じていたら、なんだ? 信じていなかったら、どうだというんだ? 「あなた」についても「神」についても何も得るところのないこんな質問が、ひところ冗談のように嘲弄されていたのは無理もありません。宗教とは宗教団体のことだと思いこんでいるから、こんな愚問が宗教者の口から出ていたのです。

恐らくこれは、旧「統一協会」におもねっていた政治家たちの目論見にもつながるのでしょう。しかしそれよりも深刻なのは、これがそもそも人間の「一人で考える」ことへの無関心、ないしは放棄に根差しているということです。一人で考えるということの難しさ、面倒臭さを、人々はあらかじめ知っているのです。一人で考えるより、誰かに考えて貰って、その人に判断をゆだね、その人につき従っておく方が、はるかに楽で「効率」がいいのです。その隷従が極端化することで、種々の、取り返しのつかない悲劇にもつながっていく。このひと月ほどの間に起きた社会的な事件は、僕にはそのように見えてしまうのです。

こうなるともはや、話は「啓蒙の自己崩壊」(ホルクハイマーとアドルノ『啓蒙の弁証法』序文)の問題で、神だの宗教だのとはかけ離れているのかもしれません。しかし「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(同)という、第二次世界大戦下に問われ、こんにちなお有効な問いの淵源には、本来なら他者と共有できない神秘体験であるはずの宗教が、なぜか同調圧力として作用し、国家の統一や敵味方の峻別にもちいられたという歴史があると思います。

こんにち宗教は、その集団性というか、団体としての性格や成立要件がひたすら問われているように見えます。僕はそこから何とかして「一人で考える」ことの重要性を、それこそ「啓蒙」しなければいけないんじゃないかと思いますが、そこまでで僕の思考は払底してしまいます。仲俣さんにこの手紙の、マーそれなりな苦悶が届いてくれるといいのですが。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信|第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第34信につづく)

井上ひさしの蔵書はその後、どうなったのか ── 遅筆堂文庫山形館訪問記 

2022年8月15日
posted by 西牟田靖

コロナ禍に入って2年以上がたち、感染状況が落ち着いてきた2022年の6月、僕は旅に出た。目的地は山形県。ここは僕にとって、ずっと心残りだった地域。47都道府県の中で唯一宿泊したことがなかった。それに井上ひさしの蔵書を収めている遅筆堂文庫をまだ訪れたこともなかったのだ。なので今回は10年越しの訪問記をお伝えしたい。

その前におさらいをしておこう。

井上ひさしの自宅の床が抜けてしまった話や、遅筆堂文庫の存在については、10年前、本連載の2回目と3回目に記した通りだ。このとき、話を聞かせてくれたのは、ひさしがまだ駆け出しだった時代をよく知っているかつての妻、西舘好子さんだった。好子さんは、連載時の取材で、床が抜けたときのこと、蔵書が増殖していくときのことを次のように語ってくれた。

昭和42年(1967年)ごろの話かしらね。市川の国分に建て売り住宅を買ったのよ。床が抜けたのはその家での話です。家の庭の一角に8畳ぐらいの書斎を建て増ししていたんですよ。大量の本を置き、仕事をしているという状態でした。パネル状の四角い建材をはめ込んで作った床が、ある日、本の重みで「ぼんっ」と落ちた。3月ぐらいのことかしら。おっこちたのは部屋の端。本棚の下あたりでした。「なんだなんだ」って書斎に駆けつけると、本を積んでいたその下の部分がこのぐらい(直径1メートル強の円)にわたって陥没してたのを見つけたの。そこには鉛のような百科事典が積んでありました。重いものを積み重ねているので、床が痛みはじめ、ゆがんでしまって、すき間が広がって、最終的には抜けてしまったんでしょう。抜けたところには本がダダダッて入っちゃってるんです。だけど、床下は空洞で空気孔があって、そこからよく蛇が飛び出すっていうんで、誰も近寄らなかったわね。お寺が近かったのよ。(以下、とくに出典のない引用は連載時の記事より)

建て売りの一軒家が土地込みで約500万円だった当時で、床の修理代に20万円ほどかかったという。今の物価が当時の10倍だとすると200万円ぐらいということになる。当時、井上家は大工をしばしば家に呼び、窓をつけさせたり、本棚を作らせたりした。

ベストセラー作家としての地位を揺るぎないものとした後、井上ひさしは千葉県市川市内の別の場所に豪邸を建て、家族と共に引っ越した。驚くのはそのスペックだ。敷地の広さは200坪、建坪120坪の豪邸で、部屋数19、トイレの数6を誇っていた。さらに蔵書家の夫の書籍を収めるために、25坪ほどの家を書斎兼図書室として建て増しした。極めたのは広さだけではない。強度も図書館並みとした。

そのときは土台から掘って、本の重みに耐えられるだけの鉄骨をあるだけ全部入れました。木造なんてとんでもない駄目だってことで完全に図書館を作るつもりでそこは作ったわけ。お金は倍かかりました。2000~3000万円かかったんじゃないですか、書庫だけで。その後レール式の書庫を入れてそこに本を置きました。

そこまでしっかり建て増しをすれば本がいくら入っても大丈夫ではないか、と思ったらとんでもなかった。それ以上に本が増えるスピードが勝った。建てて数年後には、家族の部屋の枕元まで本で埋もれたという。

「亭主の仕事部屋と、書庫。そして家族の生活する場所。初めはそれぞれきちっと決まっているわけですが、こういう調子で本を買っていきますから、本は書庫からも仕事部屋からも溢れ、廊下へ這い出し、家人たちの枕許まで窺い、インベーダーみたいに家中を占拠していく。別にもう一棟、書庫を建て増ししても追いつかない。」(西舘好子・著『表裏井上ひさし協奏曲』より)

こんなことになるのも、夥しい量の本を買い続け、しかも買った本は一切捨てないからだ。

建て増しした書庫は、最初のころは余裕があると思っていたんです。ところがそのうちに、神田の古本屋さんがトラックに本を積んでくるのよ。「こういう系統の本を探そうと思うんですよ」と電話すると、「いらっしゃらなくて結構です。こちらからうかがいます」って、山ほど積んでくる。それこそ店ごと持って来たんじゃないか、という量です。いちいち選んでる時間がないので、「じゃあ全部置いてってください」ということで、本代が何百万円にもなったんです。

二人は1986年に離婚、蔵書(その大半が古本)に埋めつくされた豪邸は売りに出されることとなった。

離婚するかしないかという時期から、ひさしは郷里である山形県の町、川西町に本を寄贈している。トラックを何度も往復させて運搬した際、数えてみると約13万冊にのぼったという。さらに亡くなる少し前の『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(2011)に掲載されているインタビューでは、約20万冊まで増えたと語っている。

いざ、遅筆堂文庫山形館へ

前置きがずいぶんと長くなった。

最終的に、井上ひさしの蔵書は22万冊にまで増えた。そのうちの約20万冊は、ひさしの生まれ故郷・川西町に1987年に建設された遅筆堂文庫に段階的に収蔵されていった。そして残りの数万冊は山形市の外れにある、遅筆堂文庫山形館に収蔵された。

僕が今回訪れたのは、山形市にある分館のほうだ。というのも同館が併設されている劇場「東ソーアリーナ」(522人収容可能)で、西舘好子さんが講演会を催す予定であることを知ったからだ。久しぶりに好子さんにお目にかかりたい。その一心で、山形館を訪れた。

「東ソーアリーナ」は、ひさしが生前、縁があったご当地の洋菓子メーカー「シベール」の社長、熊谷眞一氏が私財を投じて建てた施設だ。同アリーナに併設された遅筆堂文庫山形館は、川西町の遅筆堂文庫から2 万2 千冊の蔵書を借りて開館した。「東ソーアリーナ/遅筆堂文庫山形館/母と子に贈る日本の未来館」を紹介したパンフレットによると、次の通り。

東ソーアリーナ(旧・シベールアリーナ)と遅筆堂文庫山形館は2008年9月に開館しました。(略)作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます。1Fには親子でゆっくり本を楽しめるスペースがあり、2Fには井上さんの全著書を展示しています。(館内閲覧のみで、貸出しは行なっていません)2ヶ月に一度、トークショー「図書館トーク」を開催しています。

その他、ひさしが亡くなった後の2012年3月には、「母と子に贈る日本の未来館」が完成している。ここは、ひさしが初期の頃に脚本を手掛けた出世作の人形劇『ひょっこりひょうたん島』(NHK総合テレビ、1964年〜1969年)の熱心なファンだった伊藤悟さんが集めたものを中心に、ひさしにまつわる人々の資料が展示されている。

同パンフレットの表紙には、施設の誕生の意義や開館にあたっての決意表明が記された、生原稿の写真が用いられており、そこにはこう書かれている。

利益が生まれたときはその一部を社会に提供する。それが社会によって生かされてもいる企業の責務である。つまりどのような会社であれ一人ぽっちで立っているわけではなく、社会といっしょに生きているのだという哲学。このシベールの哲学が、アリーナ(劇場にもなる)と図書館を合わせ持つ複合施設を誕生させることになった。金もうけ第一主義と自分さえよければ良い主義が全盛の昨今には珍しい奇蹟である。

この奇蹟を一瞬の美談だけで終わらせてはいけない。だいたいそれではもったいない。例えば私は蔵書と演目を持ち寄って奇蹟が一秒でも長く輝くよう努めよう。そしてこの奇蹟が永く輝きつづけて日常そのものになり、この国に欠かせない社会共通資本になるためには、その最終最大の決め手は、みなさまの参加である。ここへ来ていただくだけで、奇蹟がわたしたちみんなの日常そのものになる。門は広く、そして大きく開かれている。

シベール・アリーナと遅筆堂文庫山形館が開館して1年半あまりがたった2010年4月、井上ひさしは亡くなった。触れると火傷しそうなほど情熱あふれる、この文面。もしかすると、彼はこのとき、自らの死期を悟っていたのだろうか。

上の引用文が記された井上ひさしの生原稿。

西館好子さんとの再会

6月26日(日曜日)の朝、遅筆堂文庫山形館のある山形市へ向けて僕は出発した。車を借りた酒田から、出羽三山や最上川を越え、会場のある山形市南部へ。さくらんぼが収穫される時期だったため、産地である山形では、さくらんぼの木を覆う、大ぶりなビニールハウスがあちこちで目立った。

会場前の駐車場に到着したのは、講演開始の30分ほど前の午後1時半。遅筆堂文庫山形館や東ソーアリーナのそばには、シベールのラスク工場があり、近くには、さくらんぼ狩りが楽しめる農場があった。

駐車場は、あらかた乗用車で埋まっていた。階段をあがると、左が東ソーアリーナ、真ん中は母と子に贈る未来館、そして右は遅筆堂文庫山形館となっていた。

ホールには地元の井上ひさしファンが高齢者を中心に集結しており、522席を有するホールのかなりが埋まっていた。平均年齢は60歳超というところ。ひょっこりひょうたん島世代なのか、それとも吉里吉里人ファンなのかはわからないが、井上ひさしの作品にリアルタイムで親しんできた人たちであることは間違いない。

午後2時、舞台に登場した西舘好子さん。目の覚めるようなオレンジ色のスプリングコートを着て、上手から登場した。ステージ真ん中の椅子と丸いテーブルがあるところまで歩いていくが、やや足取りがおぼつかない。というのも、最近まで、車椅子だったそうなのだ。彼女は昭和15年(1940)年生まれだから今年で82歳。うちの母親と同い年の後期高齢者。年齢を考えると無理もない。

「山形に入れる日がくるなんて夢にも思っていませんでした」と感慨深げの好子さん。しかしそう話す声はやや弱い。お身体の調子は大丈夫なんだろうか……などと心配していたら、そこは、下町生まれの江戸っ子。話しはじめたら、止まらなくなり、話せば話すほど元気になり、滑舌が滑らかになっていった。

離婚後にはじめた、子守唄の保存や普及をめざす日本子守唄協会(現・日本ららばい協会)での活動、シングルマザーの支援など、現在の活動について話したいだろうに、そこはグッと抑え、ここに集っている人たちが求める話を披露した。つまりそれは、好子さんと井上ひさしとの関係についてだ。2人がどのようにして出会い、結婚したか、ひさしが作家として成功するまでにどのように二人で頑張り、成功を収めたか、ということだ。さらには、なぜ仲が悪くなり、離婚に至ったかということにも話が及んだ。

1960年代から70年代にかけて二人は無我夢中だった。ひさしが書き、好子さんが資料を探したり、編集者の対応をしたりする。そうした連携によってテレビや舞台の脚本から小説まで、さまざまな名作が次々と生み出された。ときには三日三晩寝ないで机にかじりついていたこともあったという。そして、ひさしの念願だった劇団、こまつ座を旗揚げするに至った。

ところがだ。こまつ座の窓口を好子さんが担うようになってから、二人の関係はギクシャクした。劇団を回していくため、好子さんはそれまでのようにひさしを守るのではなく、好子さんからひさしにいろいろ注文する必要が出てきた。そのことが二人の関係に亀裂を生じさせた。

すべてを夫の創作のために捧げていた壮絶な結婚生活。好子さん自身は、夫に尽くすという感覚はなく、そうした状況を面白がってやっていたという。とはいえ、同居していた好子さんの両親、そして2人の間に生まれた娘たち3人のほうでは、巻き込まれたという感覚を持っていたのかも知れない。まさに、ひさしの創作を中心に、井上家はまわっていたのだ。

その点については、好子さんも思うところがあったようだ。「井上家は後悔だらけの欠陥家族」(西舘好子・著『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』より)と振り返りつつも、ひさしとの結婚生活については、達観したようなところがある。

「過去に対して悔しいとか、許さないといった愛憎は越えています」(同著より)

1時間半、話し切った好子さん。講演が始まったときとは、別人のように顔色がつやつやとしているようにみえた。

終わってから楽屋に伺うと、好子さんは弾んだ声で言った。

「シングルマザーが安心して身を寄せられる場所を作ろうと思っているの。やりたいことが他にもあるのよ。まだまだ元気でいなくちゃね」

そんな好子さんの姿に僕は安堵した。

楽屋にて。西館好子さん(左)と筆者。

大江健三郎との友情

楽屋を後にした後、遅筆堂文庫山形館を訪れた。ここは東ソーアリーナと同じフロアにある、閲覧専門の図書館だ。

さきほど記したパンフレットの文面には、「作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます」「2Fには井上さんの全著書を展示しています」とあった。

入ってすぐ左手壁面の書棚には、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の書籍がまとまっておかれていた。その棚には、同じ山形の文豪、藤沢周平の書籍や、東ソーアリーナでイベントを行ったことのある作家たちの作品なども収められていた。

なかでも目をひいたのは、大江健三郎のビニールカバーに包まれた本だ。『大いなる日に』『揺れ動く(ヴァシレーション)』『救い主」が殴られるまで』。この3作品には、次のような言葉を記した手書きの付箋が挟まれていた。

「神を定義する」「救い主が成就される日」「祈りは無力か」

ハネや止めが柔らかい文字全体が丸みを帯びた、万年筆で書かれたであろうメモが挟まれていたり、数行にわたってマーカーがひかれていたり。そこからは、ひさしの思考の形跡が垣間見えた。

大江健三郎の本にはたくさんの付箋が差しはさまれていた。

開館から2ヵ月がたった平成20年(2008年)11月には、大江健三郎と二人でこの場所に来たこともあるようで、二人が並んで映っている写真のパネルが書架の上に置かれていた。この1年5ヶ月後にひさしはガンで逝去する。このときはまだ病が発覚する前であった。

「乱読」から名作が生まれた

この図書館の特徴はそのユニークなカテゴリー分類だ。例えば「対人怖症・脳の仕組み・老人・医療」、「食物・家族」、「神話・伝説」、「野球・スポーツ」といったふうに、書棚の本が独特の並びをしているのだ。そのほか、1階で目立ったのは、夏目漱石全集、西田幾太郎全集、和辻哲郎全集などの全集もののほか、『鎌田慧の記録〈1〉日本列島を往く』や『鎌田慧の記録〈2〉繁栄と貧困』、『鎌田慧の記録〈3〉少数派の声』などの「記録」シリーズや、『蒋介石秘録』『法華経大講座』『中国の歴史』(陳舜臣)といったシリーズものだった。

2階の壁面には、井上ひさしの全著作が置かれていた。医学各種の国語辞典や古典の全集はもちろんのこと、『医学大辞典』や『科学大事典』といったさまざまな分野の辞事典、もちろん古典の全集も揃っていた。

2階の書棚全景。奥の壁には井上ひさしの全著作が陳列されていた。

どの棚からも、ひさしの思想的一貫性を濃厚に感じた。たとえば、本の並べられ方に独特の癖がある。「日本共産党の党首に担ぎ上げられそうになったことがある」というだけあり、護憲についての本や戦争反対の書籍が目立つ。並んでいる本のタイトルをみるだけで、ひさしの思想遍歴をたどっているような興奮があった。

本の状態はそこそこ保たれていて、ひさしの本の扱い方が丁寧だったことも垣間見えた。特徴としては、洋書がほとんどなく、和書、つまり日本語で書かれたの本がほとんどだということだ。

「(一緒に住んでいるとき)一ヶ月に書籍代が数百万円分かかりました。もちろん全部は読んでいませんよ」(西舘好子さん)

とはいうものの、常人には想像がつかないほどの本を読んでいたことは疑いえない。膨大な読書が、数々の名作を生み出す源泉だったのだ。

同じ世代に活躍した山崎豊子や松本清張のように、どこかに出かけて人に会って書くタイプの作家と井上ひさしは違っていた。彼が話すのが得意ではなかったということもあるのかも知れないが、それよりも資料を読むことで、物語世界を膨らませるのが得意だったからではないだろうか。

名作『吉里吉里人』は、東北地方の一寒村が突然、国として独立する話だが、これも一切取材をせずに書き上げたと、西舘好子さんに聞いたことがある。

現場に行って取材をすると、その場の持っている磁場のようなものに引っ張られがちだ。あえて現場に行かず資料を読み込むことで、現場の磁場に左右されず自分自身の描きたい世界をバランスよく作り出そうとしたに違いない。

書庫に並んだ書籍を眺めながら、僕は確信した。井上ひさしはあえて取材に出ず、資料を乱読することで、広大な作品世界を構築したのだと。


[編集部追記(8月19日)]本記事の公開後、遅筆堂文庫山形館さまより、事実関係に一部誤りがあるとの指摘をいただきました。そのため、記事の内容の一部を、公開時のものから修正しました。謹んでお詫びいたします。

文学フリマで文芸創作誌を売ってみたら

2022年6月20日
posted by 多田洋一

「マガジン航」への寄稿は約3年ぶり、2度目になります。文芸創作誌「ウィッチンケア」発行人・多田洋一です。小誌については過去に『私がインディーズ文芸創作誌を出し続ける理由』というエントリを寄せましたのでぜひご参照ください。どんなやつが、どんな経緯と思いで年1回の雑誌を刊行しているのか、かなり率直に記していますので。それで、今回は先月末(5月29日)に開催された第三十四回文学フリマ東京への出店体験記、および出版活動を続けるなかで徒然と思いが巡る「文学」についての雑感を書いてみようと思います。

*  *  *

今年も4月1日に「ウィッチンケア」第12号を発行することができた。寄稿者は前号より10人増の42名。ビジュアル(写真)とエディトリアル・デザインでは1990代半ば以降生まれの、いわゆるZ世代(ともに女性)にお任せして新しい方向性を探ってみた。2010年の創刊から基本的な枠組みは同じだけれども、制作メンバー&寄稿者は緩やかに変動し続けていて、主宰者としてはそのことに楽しさも感じている。

文芸創作誌「ウィッチンケア」第12号。

そんな私は1959年生まれ。幸いまだ町を歩いていて「おじいちゃん」と声がけされたことはないが、かなりのロートルではある。学校の国語から庄司薫〜W村上などの読書体験に移行して「自分に近しい時代感覚の小説家がいる」と感じ始めた世代。文学フリマに絡めて言えば、その発端となった『不良債権としての「文学」』(2002年)を書いた大塚英志さんはひとつ歳上だ。

当時、純文学界隈で論争があったことを知ってはいた。だが、そのころの私にとっては遠い場所でのできごとだった。当時手掛けていた仕事といえば、たとえばフジテレビの人気バラエティ番組の公式ブック『めちゃイケ大百科事典』の制作。同書は初版が10万部、番組での初告知直後に10万部増刷が決定し、以後もしばらくは書店のレジ横に山積みだったから、それなりにペイした〝優良〟な本であるとは思うのだが……。もう少し「文学」に近い仕事としては、「文藝春秋」の芥川賞受賞作掲載号に出稿されるシリーズ・タイアップ広告『メルセデスベンツで訪ねる、芥川賞、直木賞の舞台』の取材執筆を数年間担当していて、掲載された20回のうちの何度か、事前打ち合わせで作者に会うこともあった。しかし、これはあくまでも商業記事のスタッフライターとしての任務遂行業務。でもまあ、小説家の人となりを身近で垣間見られたことは、おもしろかったかな。

初回のチャレンジは惨敗……

2010年に「ウィッチンケア」を創刊し、「漫画批評」の主宰者・渡瀬基樹さんと知り合った。そのご縁で第十三回文学フリマ(2011年)ではみずから1ブース(エ-52)を確保し第2号をテーブルに積んでみた。2冊しか売れなかった。すっかり萎えてしまい、超文学フリマinニコニコ超会議2(2013年)では渡瀬さんのブースの隅っこに第4号を置かせてもらったものの、このときも数冊しか売れず。若い人たちの凝ったディスプレイや楽しそうな来客者とのやりとりを、眩しく見つめていた記憶しか残っていない。

文学フリマでは惨敗するウィッチンケア……それでも号を重ねることで、雑誌としての自力は少しずつ蓄えてきているようには思えた。よーし、じゃあもう1回チャレンジしてみようと決心したのが、第10号を発行した年の秋に開催された第二十九回文学フリマ東京(2019年)。早い時期からの寄稿者・仲俣暁生さん、木村重樹さんとの共同主宰で、1日限りの【ウィッチンケア書店】と謳い2ブースを確保(ウ-47〜48)。このときは他の寄稿者も手伝いにきてくれたりして、その時点での最新号(第10号)が20冊ほど売れた。

そして、今回の第三十四回文学フリマ東京。前回と同じく仲俣さん、木村さんと共同主宰での1ブース(ウ−1)出店。当日仲俣さんが健康上の理由でこられなくなってしまったが、寄稿者・谷亜ヒロコさんが常時手伝ってくださり……最新号(第12号)が14冊売れた。

第三十四回文学フリマ東京の会場風景。

会場をくまなく観察する時間はとれず、ざっと見て回った感想としては、やはり「ここでしか入手できない」「この日のために(正式発売前の先行販売etc.)」というプレミア感のある品揃えができたブースに、人が多く集まっていたように思えた。具体的には、「ウィッチンケア」第12号の寄稿者でもあるすずめ園さんのブース。すずめさんは今回、出雲にっきさん、せきしろさんとともに【ひだりききクラブとせきしろ】として出店(チ-25〜26)。この日に合わせて制作した『ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol2』等を販売していた。私が挨拶に伺ったさいにも数名の行列ができていて、会計とサインが間に合わない忙しさ。私のすぐ後ろに並んだ《アイドルにも詳しいYさん》が、すでに1万円札を握りしめていた姿が忘れられない。

4月1日が発売日、と決めている小誌にとって、文学フリマは本の存在を知ってもらうための場所、小誌を知っている読者や関係者との交流の場、でよいかと思っている。いやいや、もう少し知恵を絞れば、より「本を売る場所」になるかもしれず……頑張ります! SNSで「○○完売!」みたいな書き込みを見ると、やはり羨ましいです。

文学への気負いがなくなった

文学フリマの公式サイトには「3分でわかる文学フリマの歴史 – 純文学論争から百都市構想まで」という項がある。そこのリンク先には前述した大塚英志さんの『不良債権としての「文学」』が全文掲載されていて、いくつかの提案のうちの《(4)既存の流通システムの外に「文学」の市場を作る》が礎となって現在の文学フリマは存在し、その場所に私は文芸創作誌と称する「ウィッチンケア」を携えて参加している。この流れに沿って〝解答〟を導き出すと、私が2010年から続けている出版活動は、かつて遠いと感じていた「文学」の、どこか一端に含まれていることになるのだろう。

ただ、短くもなく出版業界でしのいできた人間の実感として、文学(面倒くさいので「」をとってみる)という場所はいまでも、たとえば毎月7日付の朝日新聞第2面下段に並んだ、相撲の「蒙御免」番付のような広告のなかにあるようにも感じている。今回の文学フリマの盛況ぶりを鑑みると「自分の考えは古いのかな」とも思えるのだが、なにか、自身のなかに引き摺っているものがあるのは確かだ。

じつは小誌は第2号から第10号まで表紙に「すすめ、インディーズ文芸創作誌!」というフレーズを使用していた。しかし、思うところあって第11号からは「すすめ、インディーズ」と「!」を削除した。「〜に対する」みたいな気負いがなくなって、これまで以上に身軽に動けているような気がしている。

この春の「文学フリマ」に参加した際の筆者。ブースではバックナンバーのほか、寄稿者の一人である木村重樹さんの個人誌などを販売した。

*  *  *

数年前、ひさしぶりにリアルで会った長らくの知人に「すすめ、インディーズ文芸創作誌!」が付いたころのウィッチンケア最新号を手渡したことがあった。彼は作家で、笑顔で受け取ったものの、少しページを繰って、ふと素の顔つきになり、私を慮るような口調で「なぜこんな、無駄なことをしているんですか?」と尋ねた。私は「いや、いまはこれをつくるのが楽しいんですよ」とだけ平穏に答えて、こちらから話題を逸らした。

そういう話はもう、あまり好きじゃないんですよ、正直。20年前の私だったら「失礼だな!」と言い返してバトルったかもしれないけれども、短くもなくひとつのことに熱中しているうちに、そちらでの可能性について思いを巡らすことのほうが、すっかり楽しくなっちゃって。彼なりの私への慮りは、虚心で受け止めました。

……それでも、2022年の文学フリマに参加し、あらためて大塚さんの文章を読み返してみたりして、あのときの彼の「無駄」という言葉の意味をいま考えてみている。それは私(の出版活動や創作物)だけに向けられたものなのか、プロ作家の矜持みたいなものとして「既存の流通システムの外」は認めない、という意味だったのか。真意はわからないが、受け止めた私はその両方を含んだニュアンスだったように感じていた。やはり文学はややこしいんだな。一度外した「」を戻して、「文学」については判断保留のまま、来年4月1日に発行しようと目論んでいるウィッチンケア第13号の構想を練っていきたいと思っている。

帯に短し襷に長し?――尾形大『「文壇」は作られた』書評

2022年6月1日
posted by 荒木優太

※このエントリは、某媒体に依頼された尾形大『「文壇」は作られた――川端康成と伊藤整からたどる日本近代文学史』(文学通信)の書評だが、内容が否定的なので没になってしまった。編集方針は自由なので依頼主に恨みがましい気持ちはないが、お蔵入りにするのももったいないのでここに公開する。前提として、この本の著者や編集者に対する敵意は一切ない。また、ここで指摘した弊を私自身の著作が免れているかどうか定かでないことも告白せねばならない。ただ、(勿論これも私見でしかないが)最近の日本近代文学系の著作物は端的にいって面白くないのではないか、言い換えれば、一般読者にリーチする工夫のないまま成果が必要なために一般向けに出版されているのではないかという疑念がある。

断っておけば、すべての本が一般読者に向けて書かれねばならないと思っているわけではない。専門家数人だけが読むだろう本があっていいし、そういう本を書きたいという願いがあってもいい。むしろそこにこそ学術出版の意義がある気さえする。その上で、「なぜ読者はこれを読まねばならないのか?」の問いかけは、近代文学の研究者が自分の書くものに対していま一度自問してみていいと思っているのだが、どうだろうか。

*  *  *

最初に書きにくいことを書いてしまえば、本書に関して、根本的に失敗しているのではないかという疑いを拭うことができなかった。以下、活発な議論の種になることを願ってその想うところを率直に記したい。

本書は、川端康成と伊藤整、一方はノーベル文学賞をいただいた国民的作家と他方はいまや忘れられつつある小説家兼文芸評論家の仕事を同時に振り返りながら、そこで立ち現れた「文壇」の実際を年代順に読み解いていく一種の啓蒙書である。伊藤整は昭和初頭に活躍したモダニズム小説の名手としてよりも、何巻にもわたる『日本文壇史』の著者、文壇史・文学史の紡ぎ手として記憶されているかもしれない。近所のブックオフを訪ね、講談社文芸文庫となった全二四巻のうちの何巻かの『日本文壇史』を発見することは容易でも、その小説となると心もとない。が、そんな文学史家にも、自身がそこに投げ込まれたところの客体視しえない文壇的現実との格闘があった。川端との連絡や比較のなかでそれを掘り起こしていく。

本書の方法を支える根本的アイディアは、第一章に引かれるクローチェの言葉、「あらゆる歴史的判断の根底に存在する実践的欲求は、あらゆる歴史に「現代史」としての性格を与える」に要約される。時代や場所を俯瞰して構築される歴史は、しかし、その俯瞰の着眼点や角度それ自体が当の歴史家がいまもっている利害関心に縛られている。自らの立場として提出した「新心理主義」が、同時に伝統にも列するかのように見せるため、逍遥や四迷といった先行する文学者たちの仕事を「心理小説」として伊藤が括ったように。『日本文壇史』の印象が強ければ強いほど戦略的に躍動する評論家の姿が鮮やかに浮かび上がってくるだろう、そういう目当てが的外れだとは思わないし、また、かなり似たような問題意識をもつ近刊、木村政樹『革命的知識人の群像』(青土社)と並べてみれば、近代文学研究の領域でいまなぜ共通のアプローチがつづくのかという「現代史」的課題が見えてきて興味深い。

個人的には、川端の代作として伊藤が執筆した『小説の研究』が実は当時伊藤が翻訳したスコット・ジェイムズのThe Making of Literatureの完全な引き写しでしかなかったと喝破する第八章が最も刺激的だった。

そのような美点を認めた上でなお不満が残るのは、そもそもなぜこの本を読まねばならないのか、一般読者にとって動機が不明だからだ。序に相当する部分では、いきなり各章の要約からはじまる不穏のなか、第一章でその予感の的中を見る。文壇構築のメカニズムを扱う書でありながら、「今日もはや文壇は存在しない」ことがさらりと確認される。今日存在しないものをどうしてわざわざ知らねばならないのか。キャリアの最初期、伊藤は詩集『雪明りの路』によって頭角を現したが、詩壇と(小説中心の)文壇とを同一視していいのだろうか。言い換えれば、文壇メカニズムの歴史は論壇などもふくめたメディア的共同体に関する一般理論と連絡して初めてその意義を獲得するのではないか。

また、各章のつながりが体系的深まりを感じさせないのも歯がゆい。たとえば、伊藤が訳した『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻文書の疑いで摘発・押収された、通称「チャタレイ事件」を論じる第一一章では、当事者の立場から公判を記録した『裁判』での伊藤のメディア戦略や事件を念頭に創作されただろう川端『舞姫』論などに示唆を受け取るものの、やや尻切れトンボのまま「こうして戦後の文壇は再建の道を歩みはじめる」と小括され、日本近代文学館設立事情を論じる第一二章へと突入してしまう。各章で得た知見が、以降の章とどのように連続し、どのように切れているかについて、本書はなにも教えてくれない。物語的文学史を相対化する以上、必然的な構造だったのかもしれないが、ここまでエピソード的だと豆知識の愉しさに留まって一書を読了したときの満足感は遠い。

あとがきによれば、編集者の「伊藤整を広場に出すにはどうしたらいいか」の問いかけのもと、「研究論文と読み物の中間を狙」ったという。いくら読み物だからって参考文献表くらいつけてもいいのでは、と思ったりもするが、とまれ結果的にその中間性は帯に短し襷に長しという中途半端さとして印象づけられた。いうまでもなく私見である。著者は勿論のこと、読者諸賢の反論を待ちたい。どうだろうか?

尾形大『「文壇」は作られた――川端康成と伊藤整からたどる日本近代文学史』
文学通信刊
ISBN978-4-909658-74-6 C0095
四六判・並製・256頁
定価:本体2,000円(税別)

荒廃を描くことを恐れぬ大人の小説を

2022年5月30日
posted by 仲俣暁生

第32信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

5月の連休前に偶々手に入れたレイモンド・チャンドラーの新訳版『長い別れ』(田口俊樹訳、創元推理文庫)が思いのほか新鮮で面白く、SNSでもつぶやいたとおりゴールデンウィークはこの小説の新旧訳を読み比べたり、以前から藤谷さんに勧められていたハメットの『マルタの鷹』にとりかかるなど、ふだん読まないハードボイルド小説の「古典」とされる作品を読んでいました。

最後にこちらから藤谷さんに往復書簡の便りを送ったのは3ヶ月前、ウクライナ領土内へのロシア軍の侵攻が始まった直後のことでしたね。先遣部隊が首都キエフ(いまはキーウとウクライナ語読みをすることが多いですが、私なりの理由でこのままで参ります)近郊に達し、すでに市街地でも一部では戦闘が始まったとも報じられましたが、その後にウクライナ軍が押し戻して首都陥落という事態を免れたのは藤谷さんもご存じのとおりです。しかし南部や東部ではいまなお戦火が止むことなく、多くの人命が失われています。

戦時下ではメディアの報道がどのようなものになるのか、これまでにも湾岸戦争やイラク戦争、その他の出来事で経験してきたとはいえ、いま起きている「戦争」についてはあまりにも確実な情報が少なく、見る人の心をかき乱すような映像や画像ばかりが流布しています。それらが伝える事実があるとしたら、ひとたび戦争が起きてしまえば起きることはいつでも同じ、弱者の蹂躙だということです。

二度にわたる藤谷さんからの手紙に返事をしそこねている間、知人の編集者が送ってくれたチャンドラーの新訳でも読むかと思った自分の心の動きとして、目の前のそんな現実から逃避したい気持ちがあったかもしれません。しかしチャンドラーを、そして続けてハメットを何作か読むうちに、ああ、これらの小説はおよそ百年前に起きた戦争の「戦後文学」だったのか、と思い当たりました(前回にいただいた藤谷さんからの手紙も、そのことを再確認させてくれました)。

1918年に終わった第一次世界大戦が、十九世紀を完全に終わらせて二十世紀への扉を開いたとはよく言われます。新型コロナウイルス感染症がパンデミック化した2020年から翌年にかけて、約百年前に起きたスペイン風邪の世界的流行についての本もよく読まれました。スペイン風邪と第一次世界大戦は並行して起きた出来事で、この二つのいずれかのために命を落とした文学者や芸術家は幾人もいます。日本では劇作家の島村抱月がスペイン風邪で死んだことを知り驚きましたが、西欧では私が若い頃に好きだった画家のエゴン・シーレとクリムトがともにスペイン風邪で死んでいます。シーレは第一次世界大戦にも参戦しており、その他にイギリスのすぐれた短編作家サキ(この作家も好きでした)がこの戦争で死んだとWikipediaにありました。

百年前のパンデミックの後に20世紀が本格的に始まったのと同じように、今回のコロナウイルス禍が社会に与える大きな変化は、私たちがまだその全貌を知るよしもない21世紀の本格的な始まりを告げるものかもしれない──そんな気持ちがこの2年の間、私の中にはずっとあり続けています。でも、というか、だからこそ、歴史ある諸都市が戦車や航空機で破壊され、一般市民が長期間にわたり恐怖に打ち震えながら生活しなければならないような事態が、世界の注視するなかで起きうるとは思いもしませんでした。

チャンドラーとハメットの代表作を読み、その背景が第一次世界大戦後の時代(いわゆる戦間期)のアメリカであったことを思い出すと、とっつきにくかったハードボイルド小説の「古典」との距離が少しだけ縮まりました。そしてパルプフィクションとも呼ばれるとおり、紙の質の悪い大衆向け雑誌に掲載された、なによりもまず第一に娯楽作品であるハードボイルド小説と、同時代の西洋文学の潮流として知られる「失われた世代」の作家とは実際に交流があるだけでなく、表現手法にも類似性があることを、この時代の英米文学についてのすぐれた解説を読むことで私なりにようやく理解しました。

考えてみれば1920年代から30年代にかけての「戦間期」は英米ミステリーの黄金時代であり、ハードボイルドではない──つまり純然たる「謎解き小説」としての──探偵小説であれば、十代の初め頃にずいぶんむさぼり読んでいたのです。でも当時の私は、チャンドラーやハメットにはなぜか手が伸びませんでした。アガサ・クリスティやエラリー・クイーンと違って、ハードボイルドは自分にはまだ早い「大人の小説」のように思えたのだと思います。それから40年以上たってようやくハメットやチャンドラーを読んでみて思うのは、やはり大人の小説、つまり大人が書いた小説であり、大人を描いた小説だなということでした。

*  *  *

ところで、いまの日本でウクライナとロシアの間で起きている「戦争」と文学や芸術との関わりについて、創作者(とりわけ文学者)が何かを語ることはとても難しいようです。そしてそのことには、いくつかの絡み合った理由があると私は考えています。

最大の理由は、ロシア文学が日本の近代文学の起源の一つであるという紛れもない事実です。二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳がどれほど大きな衝撃を当時の文学者に与えたか、そのことを記述しない日本文学史の教科書はありません。ロシア文学は日本の近代文学の故郷であり、その故郷との距離はいまも十分に近いのではないでしょうか。

二つ目の理由は、(文学者もそのうちに含まれるはずの)日本の知識人に社会主義とりわけロシア革命後のマルクス・レーニン主義があまりにも大きな影響をもちすぎたことです。人類の歴史と社会をトータルに把握し理解したい知識層の青年の切実な欲求に対し、十全に応えてくれる理論がそのほかになかったのは思えば不幸なことでした。そして現在もなお体制批判の論理として、これにかわるものが日本ではほとんど見当たらないのも事実に思えます。

そして三つ目が──これが今回の手紙の本題になるのですが──日本ではいまなお、大衆(生活者)の生活感覚と知識人の生活感覚とが乖離していることです。この問題も、最終的にはロシアにおける知識人層(インテリゲンツィア)と日本の知識人との類似性に行きつくように私には思えます。日本の小説が大衆向けの純然たるエンタテインメントと、「純文学」と呼ぶ以外に位置づけようのない作品とにいまなお──というより、いっそうはっきりと──分断されているのもそうした経緯と無縁ではないはずです。

チャンドラーやハメットは、彼ら自身は十分に知的でありながら、大衆向けに書かざるを得なかった人たちだったようですね。しかも英国風の純然たる「謎解きミステリ」──これは大衆的読み物というよりも中産階級の知的な慰み物であり、それゆえ日本の文学者の多くにも愛好されました──ではなく、まだ野蛮さの残る新興国アメリカの、それも西の果ての新開地(ロサンゼルスやサンフランシスコ)を舞台に、政治とカネという実力本位の世界に生きながらも、そこから自身を引き離して冷静に観察する「目」をもつ人物を主人公に据えた物語を書くことを選んだ人でした。当時のアメリカの大衆が、彼らの作品をよろこばなかったはずはありません。

戦間期の時代を象徴する大衆向けの表現として映画があること、ハードボイルド小説の書き手たちが映画産業と運命的ともいえる深い関係をもったことについては、藤谷さんのほうがはるかによくご存じでしょう。20世紀は大衆の世紀であったのと同じ程度に映画の世紀でした。映画がもつ一種の「全体性」やテクノロジーとの深いかかわりは、20世紀という「総力戦」後の時代にあって、映画が戦争のメタファーであり戦争が映画のメタファーでもあるような密接な関係を持ち続けてきたのではないですか(余談ですが、日本や韓国で昨今問題にされている映画制作現場における「暴力性」は、映画という表現形態が本来的に呼び寄せる性質であるように私には思えます)。

そしてこれはまったくの幸運といってよいでしょうが、私たちは戦争というものを劇映画に描かれた以外のかたちで知りません(私たちが子どもだった頃には、戦争を知る「おとな」たち──藤谷さんが先の手紙で触れていたような──まだ社会の現役でしたが)。

この手紙を書きあぐねていた間に、アマゾン制作のオリジナル・ドラマ・シリーズでフィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』を観ました(つい最近、村上春樹訳『最後の大君』が出ましたが、こちらは未読です)。この小説も若い頃に少しだけ読み、よくわからずに途中で放棄したままでしたから、どこまで原作に忠実なのかわからずに──なにしろフリッツ・ラングやマレーネ・ディートリヒまでドラマには実名で出てくるのです!──観ていました。最後まで見終えてから、未完に終わった原作と作者自身の構想メモにあたってみたところ、やはり大幅にアレンジされていました。

ドラマの冒頭で、原作では語り手となる大学生セシリア(大物映画プロデューサーの娘)が、主人公モンロー・スターにスペイン内戦で戦う共和国政府軍への募金を求める場面があります。フィッツジェラルドはもちろんハメットやチャンドラーの同時代人ですが、「失われた世代」の作家たちが欧州での戦争と同じくらい、ハリウッドとも深い関わりがあったことを、このドラマを見てあらためて思い出しました。アメリカのアイデンティティが、欧州と西海岸との間で引き裂かれていた時代なのかもしれません。

もちろんいまの時代に文学者は義勇兵になどならないし、なるべきではないと私は考えています。それでもかつて文学が戦争と不可分だった時代、文学者が自ら志願して戦争に赴いた時代があったのは事実です。そしてこんな評価が彼らにふさわしいとも思えませんが、その時代に義勇兵になることではなく、ハードボイルド小説を書くことを選んだ作家がいたことを、いまチャンドラーやハメットの作品を読んで心強く思ったりもします。

先の手紙で藤谷さんは、「チャンドラーやハメットの描いた人物に、僕は過去から届く未来の荒廃を見るような気がしています」と書いてくれました。しかし荒廃した人間を描くことができるのは、荒廃を免れた表現者、あるいはそこから距離を置けた表現者だけではないですか。

いまの時代にこそ、荒廃を描くことを恐れない「大人の小説」を読みたいと、私は切に願い続けているのですが。

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