私がインディーズ文芸創作誌を出し続ける理由

2019年5月13日
posted by 多田洋一

あれは2009年の、たぶん11月なかば。知人宅の寒いベランダで煙草を吸いながら見上げた夜空には、噛みつかれそうなくらい白い月が光を放っていた。当時はあまり調子がよくなくて…というのも、前年の区の健康診断でやっかいな病気に引っ掛かり春先は入院生活。その後、シャバに復帰はしたが、どうも仕事に気が乗らないままだったし、さらにその夏には、いわゆる「持ち込み原稿」というのを某文芸誌にしてみたものの、散々な言われよう。わりとめげない性格だが、さすがに「このまんまじゃ、ちょっと」との思いを抱えていた。

流され続けているかぎりは、なにもかもがこのまんま。そして、どこかにきっとサドンデスが待っている。それはちょっと嫌だから、自分の意志で本をつくってみることにした。

2010年に文芸創作誌「Witchenkare(ウィッチンケア)」を創刊し、以後、年に1冊のペースで発行している。毎年4月1日に発売。桜咲く季節なのと、エイプリール・フールだっていうのが気に入ってこの日にした。今年も第10号が出たばかり。35人の書き下ろし寄稿作が掲載されている。

「ウィッチンケア」最新号(10号)の表紙(クリックすると目次が見られます)。

10、という区切りの号なので、創刊号以来の便覧を付けてみた。そこにはこれまでの紆余曲折というか暗中模索というか、についても…まあ、いろいろ正直に書いてみた。たとえば創刊号の項には、寄稿者/作品名とともに、こんな一文を。

〈発行人(多田洋一)が、草の根BBS「ぱらねも」での知り合いや古くからの友人に声をかけて創刊。発行部数は500。いままでにない雑誌を、との志で誌名をKitchenware のアナグラムの造語「ウィッチンケア(Witchenkare)」と命名… しかし、この覚えにくい名前のせいで後々、数多の苦労を背負うことに。また制作時には雑誌を「つくること」に夢中で「売ること」にまで考えが及んでいなかった(裏表紙には定価ではなく「頒価」と記されている)。発行後、いくつかの書店との直取引が始まり、ジュンク堂書店新宿店での取り扱いをきっかけに地方・小出版流通センター(取次会社)とのご縁ができ、さらに販路が広がる。〉

ただ、便覧に書いたのは、おもに「ウィッチンケア」という本に直接関わることがらだ。発行人がどんな体験をしてきたか、雑誌を10年出し続けるとどんなことになるか、などについては最小限の言及にとどめた。…だけど、もうちょっと書きたいことがある。自分自身のこと、そして「ウィッチンケア」の出版体験を通して見えた「本の周辺事情」についても語ってみたい。

誌名を造語にしてわかったこと

私が雑誌の仕事を始めたのは20代後半。1959年生まれなので、ちょうどこれからバブルがやってくるぞ、というころだった。最初に見開きタイアップ広告(スポンサーはヤマハ)の、1000字ほどの文章を担当したのが『ターザン』。以後、なりゆきでフリーランスのライター/エディターとなり、雑誌記事の企画/編集/取材執筆、映画やドラマのノベライズなどもこなしながら現在に至っている。これまで署名記事はほとんどなく、名前が出てもスタッフのクレジットとして、ということでやってきた。

ウィッチンケア、という造語の誌名だが、当時の私は「自分がつくる雑誌はいままでないものにしたい。だから名前もいままでにない言葉にしよう!」と燃えていた。クロワッサン、とか、マリクレール、とか、ロッキング・オン、とか、他誌の名前の字数を思い浮かべて、おお、7文字くらいならいけるんじゃないかな、じゃ、ウィッチンケア! と。…しかし、10年経っても、この誌名をまだ正確に覚えてもらうことに苦労している。ウッチンケアとかウイッチケアとかウッチン・ケアとか、惜しい…でも自分が覚えづらい名前にしたんだからなにも言えねぇ、と忸怩たる思い。

なので、もしあなたがこれから紙の雑誌を創刊しようと思っているのなら、やはり誌名は明瞭簡潔なほうがいいかもしれない。書店や取次会社とのやりとりのさいに、ホント、無為な負荷が発生するのだ。検索にも出てこないし(まあ、その苦労を楽しむ、という「気の持ちよう」も、あるけれども)。

その「ウィッチンケア」の創刊号は、世田谷区の松陰神社近くにある啓文社で印刷/製本した。刷り部数500。ロゴが表紙の下のほうに配してあるのは、当時「雑誌はコンビニで扱ってもらったさいにロゴが見えるように」という〝業界の常識〟のような話を人づてに聞き、いや私がつくるものはコンビニなんかで売ってもらえるわけないからべつにいいや、みたいな反抗心もあって…と言うか、とにかく「本をつくること」が楽しくて「本を流通させる」ことに無頓着なまま制作してしまった。手売りするぞ、という気概を持っていたわけでもなく(気質としては「ゲラを戻したら次の原稿のこと考える」「あっ、掲載誌見てない」みたいな、ライター寄りの人間である。そんな人間が発行人になって、果たしてよかったのか…)。

2010年に刊行した創刊号。刷り部数は500。

お菓子を作るように本を作ろう

2010年頃はミニコミというかリトルプレスというかジンというかが元気で、『ミニコミ2.0』(KAI-YOU/2011年)という本が出版されていた。それ以前に『ミニコミ魂』(晶文社/1998年)も読んでいたし、パルコブックセンター渋谷店や都内の個性的な書店で「これ、どこが出したんだろう」という雑誌を見かけると買ったりもしていたので、そんな流れに背中を押されて「オレもいっちょやったろか」と踏み出したのだと思う。

つくるさいの参考にしたのは『プチブックレシピ リトルプレスの作り方』(毎日コミュニケーションズ/2007年)という可愛らしいムック本。帯に〈お菓子を作るように本を作ろう。〉とあって、そんな簡単なもんじゃないだろ、と思いつつも、なにしろよくわからないので…とても参考になった。

「ウィッチンケア」創刊へと背中を押してくれた本たち。

校了して、いよいよ家に500冊が届く、という段になって初めて「できあがった本を、なんとかしなくちゃ」と思い至り、簡単なレジュメをつくって都内の書店への営業を始めた。厳しい目にも遭ったが、それでも、けっこう話を聞いてくれる書店員さんもいて、実物の創刊号が拙宅に届いたころには、直の取引で模索舎、タコシェ、古書ビビビ、古書音羽館、いまはビックロになった、新宿三越アルコットのジュンク堂書店新宿店など都内の数店舗に並べてもらえた。

その後、「他の書店で見かけた」という書店員さん経由で三省堂書店神保町本店からも声がかかり、そこに置くには取次会社を通して、と言われて、今度は地方・小出版流通センターさんを訪ね、その担当者のご厚意で、都内の大型書店10店舗に置けるようになり(そのうちの6店舗が2019年現在ではなくなってしまった…)、と、ものごとが進み始めた。

書店主は一国一城の主

この創刊号での営業体験は、かなり勉強になったというか、いまに生きている。まず、どんなでかい本屋さんでも「最初から無理」と怯まず、扉を叩いてみること。大きいところほど間口が広いというか、いろいろな人がいるというか、運がよければ、理解者に巡り会える。反対に個性的(店主の顔が見えている)な本屋さんは、顔見知りだったり知人などがいる場合以外では、細心の注意(というより一国一城の主に対する敬意)を払ってコンタクトをとったほうがよい。最初に「ボタンの掛け違い」が起きてしまうと、お互いにとって、とっても不幸である。

私の場合、創刊時点で50のおっさんだし、また、広い意味での同じ出版業界人とはいえ、どちらかというと商業的な立ち位置の人間だったので、自分のキャリアのことはほとんど語らずに、ただ「新しい本をつくったんです」という感じで歩き廻ったが、何度かは、なかなか、キツかったな。

じつは、7〜8号連続で店に見本誌を直接届けたものの、いまだ道が開けず、な強者(←私にとって)書店もある。むかしながらの本の世界は、良くも悪くも人なつっこいというか、人間くさいというか、〝ムラ社会〟というか…たとえば「○○さん」(苗字)と言うだけでそれがどこの誰であるかわかる、みたいな人たちのなかに、無防備に飛び込んでいくと、いろいろツラいものがある。そして2011年の第2号は、印刷会社から本が届いた2時間後に地震が起きた。このあたりの話は、ぜひ「ウィッチンケア」第10号の便覧をお読みいただければ幸いである。

音楽の未来と本の未来

今回あらためて語ってみたかったのは、10年間「ウィッチンケア」を続けてみて、ほんとうに本を取り巻く環境が変わったなぁ、ということだ。私は以前代々木上原に仕事部屋を持っていたが、小田急線を降りるとまず幸福書房を覗いて新刊や雑誌をチェックしていた(発売日に買う雑誌もけっこうたくさんあった)。それは完全に生活習慣の一部、朝起きて顔を洗ったり歯を磨くようなことだったが、その幸福書房は昨年、なくなってしまった。

近年は私(いまは町田市在住)も書店に足を運ぶことが少なくなり…電車に乗って週刊誌の中吊りが気になったら、アイフォーンで検索してしまう。実感としては、いまネット環境のために携帯キャリアに月々払っているおカネが、当時の雑誌(やムック系の本)と入れ替わっている。

「ウィッチンケア」は、これを手にとらなければ読めないおもしろいものが詰まっている、との自負を持ってつくっている。また個人的にはいまでも「読みたい本は紙のを買う」な人間ではある。しかし、私が朝の身だしなみを整えるように書店に立ち寄り、財布を開いていた、そのような習慣は、はじめから生活動線に本屋さんがない人にはよくわからないだろうな、とも思う。

また、私は音楽も好きで、どこかに出かけるということはつまり「その町にあるレコード店をチェックする」と同義な生活を15歳くらいから続けていたが…10年前くらいからレコード屋さんもどんどんなくなっていった。本の歴史は音楽の記録媒体のそれよりもずっと分厚いので、10年前に音楽の世界で起こったことと同じ未来が本の世界にも訪れる、とは思わないが、しかし、時代の変化なんてあっという間なんだな、という思いは強い。

豪華執筆陣と私

「手にとったのは、ほぼ知り合いだけ」からスタートして、10年。最近は、少しずつではあるけれど、「知ってますよ」「おもしろいですね」「買いました」と言ってくれる人に会うことが増えた。「豪華な執筆陣ですね」と褒めてくれる人もいて…でもこのフレーズは、私が創刊号を模索舎に持ち込んだときに言われたのと同じなのである。そのときは、こんな続きの問いかけをされた。「あの、それで多田さんはなにをしてるんですか?」。いやいや、販売員じゃないんです。この本は私がつくって、しかも小説を書いてもいますから、と言いたかったがぐっと堪えて、10年。短くはない歳月が流れた。

じつは、当時もいまも、私と「ウィッチンケア」を取り囲んだ状況はあまり変わっていない、と感じている。執筆者の総和に遠く及ばない媒体の認知度、ブルーな気分を日々加速させるアマゾンの「売れ筋ランキング」、そして、おそらく私は含まれていないだろうと容易に想像できる、「豪華」という賞賛の言葉。この体たらくの主因はひとえに私なのだ、と胸が詰まり、10年前に見上げた月を思い出すこともある。

しかし、インディーズ文芸創作誌と名乗ったからには、自身が積み重ねた現在の力で、次の一歩を見出していくしかないのだ。本を売ることの難しさ、しみじみ身に沁みたが、一人出版者(出版社ではありません)として、これからもできる限りのことをやっていこうと思う。

執筆者紹介

多田洋一
フリーランスのライター&編集者。サンケイリビング新聞社にてOL対象の「シティリビング」リニューアルに関わった後、退社〜渡米。帰国後は雑誌記事の企画制作/取材/執筆。また「踊る大捜査線」シリーズや「ごくせん」「アンフェア」など映画やテレビドラマのノベライズ、バラエティ番組(「SMAP×SMAP」「めちゃ×2イケてるッ!」etc.)の公式本制作にも関与。2010年より文芸創作誌「ウィッチンケア」を個人主宰。