雨雲出版を立ち上げる

2023年11月7日
posted by 横山仁美

「どうして出版したいんですか」

初対面の編集者から単刀直入に訊かれた。どうして? 一瞬、戸惑ってしまう。

作家ベッシー・ヘッド作品の日本語訳を出版したい。熱い思いを胸に多くの出版社に持ちかけたが、そのように根本的な問いを投げる編集者はいなかった。でも、不意を突いたその言葉は、わたしにもっとも大切なことを気づかせてくれた。自分は純粋に、敬愛する作家の圧倒的な素晴らしさに感動してほしかったのだということを。

南アフリカ/ボツワナの作家ベッシー・ヘッド

ベッシー・ヘッドは南アフリカ出身の作家である。1937年、ピーターマリッツブルグの精神病院で生を受けた。母親は白人で父親は不明だ。生まれて間もなく白人夫婦に養子に出されるも、肌の色が濃いと突き返されてしまう。時代は人種隔離政策アパルトヘイト下の南アフリカ。カラード(*1)の夫妻に引き取られ、この夫妻を実の両親と信じて育つも、13歳でダーバン郊外の孤児院に入れられると宣教師が出生の秘密を告げる。

ベッシー・ヘッド(1937-1986)

「あなたの実の母親は白人女性でした。アフリカ人の子どもを身ごもったから精神病院に入れられたのです。あなたも母親のように頭がおかしくならないよう気を付けなくてはいけません」

この言葉は、生涯ベッシーの孤独な人生に影を落としてしまう。その後、ベッシーはケープタウンやヨハネスブルグでジャーナリストとして働き、同じくジャーナリストのハロルド・ヘッドと結婚して息子のハワードが生まれるが、反アパルトヘイト闘争が激化した1960年代半ば、結婚は破綻しベッシーは幼い息子を連れて隣国ボツワナ(当時の英国保護領ベチュアナランド)に亡命する。何年もの間、貧しい生活で苦労を重ねるも、英国や米国の雑誌等に記事を投稿し、やがて1968年には小説When Rain Clouds Gatherを発表する。これをきっかけに世界に名が知られ、1971年にMaru(邦題『マル:愛と友情の物語』)、1974年にA Question of Power(邦題『力の問題』)を発表し、その他多数の短編小説やエッセイを執筆した。作家としての活動が軌道に乗ると様々な国に招聘され活躍の幅を広げていった。

しかし、自伝の執筆に取り掛かった1986年、彼女は48歳の若さで亡くなってしまう。南アフリカに戻ることもなく、アパルトヘイトの終焉も見ることがなかった。


*1:主にケープタウン周辺を中心とした南アフリカ西部の民族集団とオランダ系白人を含む様々な由来の人々との混血グループを指し実際は人種ではないが、アパルトヘイト時代にはひとつの人種グループとされた。

アフリカ人生の始まりとボツワナ

わたしが作家ベッシー・ヘッドを知ったのは大学3年生のころだ。

アフリカ地域研究のゼミで卒業論文のテーマを探していたときに偶然出会った本に夢中になった。文学専攻ではなく国際学部だったが、この作家をテーマに作品の社会的背景、とくに人種差別や作品の政治性について論じることにした。

そして大学4年生になった1998年、卒業論文の調査のためボツワナと南アフリカに旅立った。初めてのアフリカだ。ベッシーが暮らしたボツワナ中部のセロウェという小さな町にあるカーマ3世メモリアルミュージアムには、彼女の遺した大量の原稿や書簡がアーカイブとして整備・保管され、研究者に開かれている。大学生のわたしは研究者用に用意されたロンダベル(*2)に宿泊し、タイプライターで書かれた書簡を読みふけった。学部卒業後は英国エディンバラ大学アフリカ研究センターで修士課程を修了した。

カーマ3世メモリアルミュージアム


*2:円錐形の草ぶき屋根と円筒状の壁で作られたアフリカ風の住居。

開発コンサルタントとしてアフリカ実務へ

仕事でアフリカに行きたい。そんな思いが芽生えていた。

研究の世界は面白かったけれども、むしろ実際のアフリカで社会に触れ、人々と関わりダイナミックに案件を動かす国際協力の実務に従事してみたかった。留学を終えたわたしは、一般企業に勤めた後、外務省専門調査員として在ジンバブエ日本大使館に赴任した。帰国後は、国際協力の政府系機関に勤め、仕事でアフリカに行く目標は達成した。その後は開発コンサルタント(*3)となり、ケニア、タンザニア、ウガンダなど行ったことのなかったアフリカの国々も訪ねた。

そんなふうに慌ただしく働きながら、いつしかわたしの中で学生時代に出会ったベッシーの小説を自ら日本語に翻訳し出版したいという考えが生まれていた。アパルトヘイトという非人間的な環境で生きたベッシーは、ボツワナの農村での暮らしを舞台に、貧困や差別、農村開発、政治、ジェンダーの課題を、人間の内面を追及し文学という形で描き出す。社会課題そのものを描くのではなく、彼女自身が人間を愛する作家であることが作品を通して伝わってくるということに、自分の実務経験を通じて改めて気づかされたからだ。

そこからわたしは、翻訳スクールに通ったりもしながら少しずつベッシーの小説の訳出を進め、伝手をたどって出版社への持ち込みも行いはじめた。2007年にはベッシーの生誕70周年を記念したベッシー・ヘッド・フェストが開催され、わたしもボツワナを再訪した。各国から集まった研究者やファンとの交流を通じて翻訳出版への思いはますます強まった。

しかし、開発コンサルとしてのキャリアを積んで、一か月以上のアフリカへの長期出張が年に数回続くこともある生活の中で、翻訳作業はずるずると後回しになっていった。自分のキャパシティ不足もあって、いつしか十数年の月日が流れていた。

そんな2022年の秋、様々な要因が重なり、わたしは心身ともに調子を崩して開発コンサルタントの仕事をしばらく離れることになった。ちゃんと仕事をしなくてはと思うほど翻訳ができなくなるという強迫観念が、少しずつ重圧となっていたのだと思う。

翌2023年の初夏、わたしは16年ぶりにボツワナを訪ねた。セロウェのミュージアムでベッシーが遺した膨大な手紙を読み、研究者や生前の彼女を知る人々と話すうちに、ベッシー・ヘッド研究者としての自分がようやく戻ってきたような気がした。

ベッシー・ヘッドのアーカイブ調査(2023年)


*3:主に国際協力機構(JICA)や国際機関が企画立案する途上国援助プロジェクトに関し、専門技術をもって現地における調査や実施運営等を行う。

雨雲出版を立ち上げる

何故、出版したいのか。誰に読んでほしいのか。

ボツワナに行って気付いたが、20年以上のあいだ仕事をしながら翻訳出版を目指す中で、いつしかわたしは多くのものを手にしていた。作品の著作権者であるベッシー・ヘッド・ヘリテージトラストのメンバーになり、組織内では日本語訳をわたしが出版するという共通理解までできていた。長年、どこかの出版社でないと出せないと思い込み探し続けてきたが、必要なカードは実はすでに手元にあったのだ。

出版は手段だ。ベッシー・ヘッド作品を日本の読者に届けたい。遠い国の出来事ではなく自分事として受け入れてもらいたい。それがわたしのやりたいことだった。

翻訳出版に向けて奮闘し始め20数年。わたしは、自分自身で雨雲出版を立ち上げて作品の日本語訳を世に出すことにした。

現在翻訳中の『When Rain Clouds Gather』の原書。Waveland Press – When Rain Clouds Gather by Bessie Head

ベッシーの作品では農業・農村開発の経験に基づく詳細なリアリティが描かれている。未だ開発の世界で議論される課題について、ベッシーは人間の内面を絡めて鋭く描く。開発はセオリーではなく人間を相手にするものだ。開発コンサルタントとして働きながら、開発課題の深い理解に文学は非常に有効だと常々思ってきた。どれほど報告書や論文を読み、開発プロジェクトを通じて知見を深めても、文学が放つパーソナルな領域への強烈なメッセージが心に与える影響力は絶大だ。開発ワーカーほど文学作品に触れてほしい。

ベッシー・ヘッドに出会って四半世紀余り。研究や文学の世界とは違う実務の世界で生きてきた中で、ひと回り巡って人生が縒り合さり始めた気がしている。

現在わたしは、ベッシー・ヘッドが最初に出版した1968年の小説When Rain Clouds Gatherの日本語訳を、来年を目途に雨雲出版から刊行する準備を進めている。その前段階として、11月11日に開催される文学フリマ東京37に出店するための本づくりに夢中だ。ベッシー・ヘッドに出会ってから開発コンサルとして仕事し現在に至るまでのアフリカ人生を描いたエッセイと、ベッシー・ヘッド作品の引用を集めたものだ。

わたしなりのアフリカとのかかわりを通じて、世界に伝えたい大切なメッセージが誰かに届くことを願っている。


【お知らせ】
11/11文学フリマ東京37にて出店
出店名: 雨雲出版(小説|海外文学・翻訳)
ブース: し-58(第二展示場 Fホール)

『雨風の村で手紙を読む』
『雨雲のタイプライター』
ブックデザイン 吉崎広明(ベルソグラフィック)

執筆者紹介

横山仁美
1976年生まれ。ベッシー・ヘッド研究者。明治学院大学国際学部(アフリカ地域研究)、英国エディンバラ大学アフリカ研究センター修士課程修了。外務省専門調査員(在ジンバブエ大使館)、JICA 専門嘱託、JETRO 専門嘱託等を経て開発コンサルタント。現在は、ベッシー・ヘッド・ヘリテージトラストのメンバーとして活動。

note:横山仁美 |【雨雲出版】Amelia|note
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