運動体としての「文芸誌」に未来はあるか

2018年12月28日
posted by 仲俣暁生

第9信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

早いものでこの往復書簡をはじめて3ヶ月になります。そのほかにも秋にはNovelJamという創作合宿イベントで審査員をお願いし、先日は本屋B&Bでの「文学の教室 年末番外編」でご一緒させていただくなど、藤谷さんとは顔を合わせる機会の多い一年でした。

思い出してみると、僕が「マガジン航」を創刊した2009年の秋に南青山のボイジャーの事務所を借りてささやかな創刊パーティを開いたときにも、藤谷さんは来てくれたのでした。あのころは電子書籍をめぐる議論がとても盛んな時期で、この新しい技術がなんらかのよきことを出版や書物に付け加えてくれると信じる、楽観的な雰囲気が多分にありました。日本でアマゾンのKindleをはじめとする電子書籍の各種サービスが本格的に始まるのは、それから3年後の2012年ですが、実際にその時代が到来する前のほうがそういう気分が横溢していたように思います。

ただ、いま思えば藤谷さんはあのとき、電子書籍というものにあまり乗り気ではない態度をとっておられたように記憶しています。電子書籍自体に対する不満ではなく、そうしたものが書物のありかたを本質的に変えるといわんばかりの、時流にのった軽薄な議論への懐疑だったかもしれません。この問題についてはその後、お互いに突っ込んだ話をしたわけではありませんが、案の定というべきか、日本では電子書籍はまださして普及していません(マンガという特殊な出版物をのぞいて)。そしてこの先もしばらくはこんな状態――つまり、ドラスティックに出版を変えるほどではなく、あくまでも副次的なものとして――存在していくのだろうなと、いまの僕は思っています。

ただ、それとはまったく別の理由で、出版や編集という営みがいま大きな過渡期、変革期を迎えている。時候の挨拶のように繰り返されてきた「出版不況」という表現では言い尽くせないほどの、盤石だと思っていた地面が崩れ落ちてしまいかねないような不安を、この業界で働く人の多くが感じている。そうした前提に立ちつつも、この往復書簡では短期的な業界動向にとらわれることなく、文学と編集とを二つの焦点とした楕円軌道のような対話を、もうしばらくはゆるゆるとやっていきたいと思っています。

ただ編集の問題については、まだうまく核心に踏み込めていない、というもどかしさをいまだに感じています。今年の秋からある大学院の文学部で編集理論を教える機会を得ました。広い意味での「編集」の仕事はもう30年もやってきたのだから、それなりに教えられることはあるだろうと安請け合いをしたのですが、いざ授業計画を立ててみると、とても「理論」などと呼べるものを提示できない自分に気がつきました。

僕が受け持つことになった講義の前任者は、以前にも話題にした『編集者 漱石』の著者、長谷川郁夫さんです。文芸編集者としても出版者としても多大な功績を残された彼のような経験をもたない負い目以上に、そもそも文芸編集(とりわけ書物の編集)と、僕が多少なりと経験したきたような雑誌の編集とでは、同じ「編集」でもまったくことなる仕事――それを「技術」と言い換えてもいいでしょう――なのだということを痛感させられました。

今年の講義では仕方なく、特徴的な編集技法をもつ過去または現存の雑誌をそのつど取り上げ、その雑誌の成り立ちに深くかかわった編集者の事績を紹介しつつ、彼らが採用した――ある場合には「発案」した――編集技法を論じる、というかたちをとりました。文学研究を専門とする大学院生に多少でも役立つ講義でありえたかこころもとないまま、なんとか半年を切り抜けたばかりです。

前回の手紙でNovelJamという創作合宿における「編集の不在」、そこまでいわないまでも、少なくとも「不可視」であったことを藤谷さんが指摘されたとき、僕が思ったのも実はこのことでした。短期間に、しかも電子的なかたちでのみ「出版」される小説を編集するという行為は、書物の編集というよりも雑誌、さらにいえばウェブメディアの編集に近い行為なのかもしれないな、と。

僕が考える「編集者」の理想像は――多くの場合、雑誌の、ということになりますが――、これも前に漱石と子規の関係に触れたときにも述べたとおり、なんらかの運動体の主唱者であり組織者であること、そして多くの場合、自らも書き手であることです。今年の講義で扱ったなかで分かりやすい例を挙げるなら、「文藝春秋」の菊池寛、「暮しの手帖」の花森安治、「ユリイカ」の三浦雅士、「本の雑誌」の椎名誠と目黒考二といった人たち。彼らがいまの時代に若者であったならば、いったいなにをするだろうか、と想像するのは楽しいことです(直近の例としては「ゲンロン」で東浩紀がやってきたことが、その一つの解といえるかもしれません)。

ところで僕からのひとつ前の手紙で、「フィクショネス」というお店も一つの編集されたメディアだったのではないか、藤谷さんはいまは「小説」という実作のなかでそれを継続しているのではないか、というようなことを書きました。書物と雑誌の編集はまったく異なるなどと言っておきながら、本屋という空間と小説作品とを「編集」という言葉で結びつけようとするのが強引なことだとはわかっています。ただ、行き詰まっている出版の世界を打開するために「編集」という技術や行為を可視化させ、露呈させるには、伝統的な「文芸編集者」のイメージから思い切り離れたところに光をあてたほうがよい気がするのです。

本屋が文学的な共同体の母体であった例は、海外では枚挙にいとまがありません。パリのシェイクスピア・アンド・カンパニー、サンフランシスコのシティ・ライツ、須賀敦子が描いたミラノのコルシア書店などがすぐに思い浮かびます。藤谷さんがフィクショネスという本屋をはじめたとき、こうした先例を思い浮かべたりはしませんでしたか。

とはいえ、「雑誌」的な編集と文学とを愚直に結びつけるなら、そこにまっさきに見出されるのは「文芸誌」です。話を少し戻すことになりますが、今年は文芸誌受難の年でした。藤谷さんにはいま、文芸と雑誌の関係がどんな風にみえていますか。大手出版社が出すいまの文芸誌、小説誌だけを念頭に置く必要はありません。かつてあこがれた文芸誌(海外でも、他の時代でも)はありますか。そしてご自身を、なんらかの運動体(文学運動でなくてもかまいません)のなかに位置づけたいと思ったことはあるでしょうか。

個々の作家の独立した営為を恣意的にグルーピングするのは評論家の悪弊ですが、文芸誌がそれなりに実質的に運動を担っていた時代が少なくとも過去にはありました。そのようなことが今後はもうありえないのかといえば、実は僕はやや楽観しているのです。むしろ、いまこそ新しいタイプの運動体としての「文芸誌」が必要なのではないか。

海外では文芸誌もさかんにウェブで活動しています。「マガジン航」では以前に秦隆司さんが「エヴァグリーン・レビュー」という伝統ある文芸誌がオンライン版として再始動したことを紹介してくれました。また日本の「早稲田文学」ともコラボレーションしたことがある「グランタ」もネットでの活動に熱心です。これらに掲載される英語の小説をそのまま楽しめないのは残念ですが、こういう動きは日本でもこれから当然でてくると思います。

日本では紙媒体として、「たべるのがおそい」「しししし」をはじめとする小さな文芸マガジンが次々に生まれています(ご存知のとおり前者は書肆侃侃房という福岡の出版社、後者は双子のライオン堂という東京・赤坂の本屋が発行しています)。また、文学フリマという即売会の活動も息長く続いています。こうしてみると「文芸誌」という運動体にはこれからも一定の意味があるのではないか。当然、そこではウェブや電子書籍といった見慣れたテクノロジーも、それに見合った編集技術とともに力を発揮していくのではないか。せめてそのくらいの楽観主義をもちたいと、いまあらためて僕は考えています。

このあたりは実際に手を動かしてみないと分からないこともあるので、文芸と電子媒体を組み合わせた活動を、来年は自分でもちょっとやってみようかと思っているところです。

今回も長くなりました。よいお年をお迎えください。

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コンピューターのパラダイム転換から半世紀

2018年12月25日
posted by 服部 桂

「〇〇周年」という言葉は、普通は企業などがマーケティング用に連呼する常套句だが、今年2018年はパーソナル・コンピューターの歴史上、こうしたセールスとは無縁だが、忘れてはならない重要な「事件」が起きて50周年という意味深い年だった。

「すべてのデモの母」

1968年12月9日、サンフランシスコ市庁舎脇のブルックスホールでは秋季合同コンピューター会議の年次総会(FJCC)が開催されていた。この会合で基調講演を行ったスタンフォード研究所(SRI)の研究者ダグラス・エンゲルバートは、1200人もの観衆が集まる暗いホールに設置された当時は珍しかった大型プロジェクターの前で、NLS(オンラインシステム)という奇妙な仕掛けのデモを挙行した。

彼の発明したマウスというデバイスで動くカーソルが、文字をその場でコピペしたりリンクを張ったり、ウィンドウという画面を開くのを見て、タイプライターのようなキーボードから文字や数字を打ち込んで操作することしか知らなかった聴衆は仰天し、ある研究者はエンゲルバートが「両手で稲妻を操っているモーゼのように見えた」と書き残している。

このデモの映像はその後「すべてのデモの母」と呼ばれるようになり、YouTubeにも残されている。それを見るとわれわれが現在パソコンで普通に行っている操作そのものだが、当時は未来(=21世紀)のSFの世界そのものに見え、ちょうど同年公開されたスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」の世界が現実にそこに出現したような感覚だったという。

画面には遠くシリコンバレーのメンロパークで同じシステムを使うチームのメンバーも映像で登場し、遠隔地に存在するコンピューター同士をネットワークでつないで、リアルタイムで情報を共有したり共同作業したりすることが可能になるというビジョンが語られた。

エンゲルバートの起こしたパーソナル革命

エンゲルバートは日本ではマウスの発明者としてしか知られていないが、彼こそが当時の大型電子計算機が支配していたコンピューターの世界のパラダイムを根本からひっくり返した、ダーウィンやフロイトにも匹敵する偶像破壊者だった。

当時のコンピューターはほとんどの人にとって、人間と関係なく一方的に計算を効率よく行う機械、もしくは社会を管理する権力の道具としか考えられておらず、それが人間と対話しながら他人とも結びついて表現力を高め、ひいては人間の知力そのものを拡張するという話は考えも及ばなかった。多くの専門家も当初は、仮にNLSのようなシステムが一般に普及しても、オフィスで秘書の文書作成の効率が上がる程度としか考えず、コンピューターと人間が一体となって新しい世界を切り開くなどと考えるのはSFオタクぐらいだった。

当時はコンピューター科学の講座を持つ大学はまだ少なかったが、1956年にはすでにダートマス大学で人工知能会議が開催されており、未来のコンピューターは人間の知性にせまる能力を持ち、チェスを指したり会話したりするばかりか、いずれは人間に成り代わって世界を支配するという、現在のシンギュラリティー議論のような話が語られていた。同じスタンフォード大学にはダートマス会議で人工知能(Artificial Intelligence)という言葉を提唱したジョン・マッカーシー教授がスタンフォード人工知能研究所(SAIL)を設立しており、コンピューターが人間のように高度な判断をし、ロボットが労働を代替するオートメーションが支配する世界を実現しようと研究していた。

ところがその同じスタンフォードにあったSRIで働くエンゲルバートのオーグメンテーション研究所は、人間を置き換えるのではなく、人間自体の能力をコンピューターによって拡大しようというまったく逆の発想で運営されていた。まさにこれは機械を知的にするAIとは逆の、人間の知性を拡張するIA(Intelligence AugmentationもしくはAmplification)の発想だった。

「MEMEX」の衝撃

エンゲルバートがそう考えるようになったのは、大戦終結当時に駐在していたフィリピンで、MIT(マサチューセッツ工科大)のヴァネヴァー・ブッシュが書いた「思うがままに(As We May Think)」という論文の紹介を雑誌で読み、その機能をそのまま実現できるマシンを実現しようと考えたからだ。

ブッシュは原爆開発のためのマンハッタン計画を主導した科学者で、開発過程で山のように集まる情報を人力では処理できなくなる事態を経験したことから、将来は多量な情報を整理し関連付けていつでもすぐに利用できなくては社会が麻痺してしまうと考え、人間の記憶の拡張系としてのMEMEX(Memory Extender)というシステムを、当時のテクノロジーだったマイクロフィルムなどをベースに構想した。

必要な情報をキーワードですぐに見つけ出し関連項目をすぐに探し出すというのは、現在のグーグルなどの検索サイトが実現している機能だが、当時の研究者の多くは、コンピューターは数値計算を行うものでしかないと考えていた。エンゲルバートはコンピューターこそが、人間の知的活動を整理して強化してくれる道具になると信じて、独自にNLSというシステムを開発していたのだ。

いずれは大型電子計算機がスーパーコンピューター化し、ジョージ・オーウェルが小説『1984年』で描いたビッグ・ブラザーのようにトップダウンで世界を支配するかもしれないと考えていた研究者も、小さなコンピューターが個人の力を引き出し、その小さな力同士をネットワークでつないで全体として大きな知の体系をボトムアップで組み上げていくという提案に、コペルニクス的発想の転換を見て仰天したに違いない。

「パーソナル・コンピューター」の誕生

この会議に参加していたユタ大学のアラン・ケイという大学院生には、そのデモからコンピューターの未来が明確に見えた。

彼を指導していたアイヴァン・サザランド教授は、MITで防空システムSAGEを元にコンピューターと画像を介して対話できるCGの元になるシステム(スケッチパッド)を作っており、この年にHMDを使って空中に三次元画像を表示して操作できる初のVRのシステムを稼働させていた。当時の米国の大学は、1957年に旧ソ連が初の人工衛星スプートニクをICBMで打ち上げたことにショックを受け、国防総省の研究機関ARPAが新しいテクノロジー研究を奨励して若い研究者を交流させており、1969年にはインターネットの元になったARPAネットの実験も開始されている。

ケイはARPAの資金を元にAIや発達心理学の専門家などとも共同研究することで、CGや平面型ディスプレーなどを駆使した、タブレットのような形で、誰もが気軽に本のように情報を読んだり、絵やメッセージをやり取りしたりできる、教育や創造的な活動のために使える「ダイナブック」という未来の本型のコンピューターを発想するようになった。そのスケッチが残っているが、いま見るとiPadの出現を予見していたように思える。

このデモはブラウン大学で同じような発想で研究していたテッド・ネルソンという若者をも仰天させ、彼はテキスト同士を有機的にリンクさせる「ハイパーテキスト」という概念を提唱する。結局、その発想は、WWWを発明したティム・バーナーズ・リーに引き継がれ、インターネット全体のアーキテクチャーに拡張され、それがグーグルに代表される検索サービスの中心的な機能として実現している。

アラン・ケイはその後、NLSのシステムを独自の方法で実現しようと、ゼロックス社の作った未来のオフィス研究所PARCに移り、そこでALTOというコンピューターを作り、誰もが個人で使えるコンピューターを「パーソナル・コンピューター」と呼ぶようになる。そして、それを1979年に見学に来たスティーブ・ジョブズが見てマッキントッシュを作るという有名な伝説を生み出すこととなる。

アラン・ケイも参加した50周年イベント

今年の12月9日には世界の関係者が集まって、各地でこの「すべてのデモの母」50周年を祝った。日本でもクリエイシオンの高木利弘代表が発起人となったイベント「IT25・50」が慶応大学で開催され、ここにはアラン・ケイ本人がロンドンからオンラインで参加して、当時のデモの様子やパーソナル・コンピューターのビジョンを語り、その映像が日本全国にも配信された。

アラン・ケイ(右上)もオンラインで参加。右下は有名なダイナブックのコンセプト・スケッチ。

アタリやディズニー、アップルなど有数の企業でコンピューターの未来の姿を探った後、アラン・ケイはMITメディアラボで世界の子ども一人一人に100ドルコンピューターを支給して教育のレベルを上げようとするOLPCというプロジェクトにも加わった。いまは研究生活から退き、子どもが簡単に使えるプログラミング言語の開発や、物理世界を誰もがコミュニティーを組んでシミュレーションできる機能を提供するダイナミックランドというNPO団体を支援しているが、あの50年前の驚きがすべてを変えたことをいまでも鮮明に覚えているという。

そして彼の唱えたパーソナル・コンピューターは、普及するにつれパソコンやPCと呼ばれて日用品化し、いまではモバイルからスマホやウェアラブルへと進化したが、そのルーツにあたる事件が50年前にすでに起きたことをわれわれは知らない。それはコンピューティングの世界に鮮やかなパラダイム転換が起きた瞬間だったのだ。

アラン・ケイはアインシュタインが「あるものを創造したレベルの思考法ではそれから生じた問題を解決することはできない」という言葉を引用し、情報時代に生じる世界の複雑化した問題を解決するには、これまでにない新しいレベルの方法で思考を助ける必要があると説く。それこそがエンゲルバートが夢見たコンピューターの理想の姿で、アラン・ケイの夢見るまだ実現していないダイナブックに象徴される本当のパーソナル・コンピューターの姿なのだろう。

* * *

パーソナル・コンピューターとは一見関係なさそうに見えるが、15世紀のグーテンベルクの活版印刷術の発明は、一般への書物の普及を促し、約50年経ってコロンブスのアメリカ発見や、カトリックの知識や権威の独占に異を唱える宗教改革を起こし、ひいては中世を終わらせる近代の科学革命を起こしていった。

現在のパーソナル・コンピューターやネットが起こした革命も、これと同じように徐々に人々の知の力を開放しつつあり、われわれの知る現代の社会自体を大きく変えてしまう可能性を秘めている。パーソナル・コンピューター50周年の機会に、次のビジネスのチャンスを論じるだけではなく、歴史的な観点からこれからの時代の大きな流れの変化を論じることも必要なのではないだろうか。

なお、ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイの仕事については拙訳書、ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」 〜カウンターカルチャーが育んだ夢』(2007年、NTT出版)に詳しい。

作用し変化し合うこと——NovelJam観戦記

2018年12月13日
posted by 伊川 佐保子

わたしがNovelJamに申し込めなかった理由

合計しても、そこに居合わせたのはたった8時間程度だった。

それなのに、その様子を見守り、自分自身もなかば参加した気になって、満足げに観戦記を書くことにした。

だが実は、そもそもわたしは観戦するのではなく、参戦者側に回りたかった。回りたかったが、諦めたのだった。

NovelJamは「著者」16名、「編集者」8名、「デザイナー」8名の計32名がチームを組み、2泊3日の中で短編小説を完成させ、しかも電子書籍として出版せねばならないという、なんとも無茶なイベントである。その第3回が、2018年11月23日から25日までの3日間で開催された。

NovelJam2018秋の制作中風景(写真提供:日本独立作家同盟)

はじめてこのイベントの存在に気づいたのはおそらく2018年の2月に開催された第2回のときだったように思うが、そのときからわたしはこの取り組みの無茶さ加減に惹かれていた。

正直に言ってデザインのことはさっぱり分からないから、「デザイナー」枠は無理。でも「著者」枠か「編集者」枠だったら、素人にしろ多少なりとも楽しめるのではないか、だめなら落選するのだろうし応募してみるくらい……、いや、でもやはり無理だ、やめておこう。

そんな風に何度も申し込みを検討し、そして何度もあきらめた。

”面白い”短編小説を著者1人につき1作品、会期中に完成させる

NovelJamの参加要項の冒頭にあった言葉だ。わたしはここにつまずいた。

わたしには面白い小説がどういうものなのか分からない。

高校1年生のとき、文芸部で書いた小説を担任のD先生が読み、「よく分からないし面白くなかった」と感想をくれた。わたしは咄嗟に「じゃあ『ハリー・ポッター』だけ読んでいてください」と悔しまぎれの返事をしたのだが、それから10年以上経っても、自分の小説がわたし以外の人にどう面白く読んでもらえるかというイメージはまったくついていない(念のため補足をすると、『ハリー・ポッター』も担任教員もわたしは大好きだった)。

そんな状態で面白い小説を書くなんて無理だ。ましてや編集をするなんてどう見ても不可能ではないか。わたしにはそう思えてならなかった。

NovelJamを2日間観戦した後になって考え直したとき、参戦者としてあの場にいなかったことを後悔していないかと言えば嘘になる。事実、NovelJamは面白い企みであった。随所で様々な反応が起き、それによって新たな小説が多数生まれた。同時多発的な反応は、その念入りに仕組まなければ発生し得ないものだろう。念入りに仕組まれたゲームの上で本気で戦う面白さは、何ものにも代えがたいことだろう。

それでも、わたしが観戦者という立場で巻き込まれたことは幸運であった。「ほんやのほ」という小さな本屋の開店準備をしているわたしにとって、小説と面白さについて真剣に考えたことは大きな意味を持つものだったからだ。

「面白い小説とはなにか」

さて、「面白い小説とはなにか」。

わたしは「小説が好きだ」と言って生きてきたが、先に書いたとおり、面白い小説がなんなのかはまるで分からない。読まない人よりは本を読み、読む人よりは読まずにやってきたのだろうと思う。同じように、書かない人よりは書き、書く人に比べればほとんど書かずに生きてきた。しかしいまだ「面白さ」の輪郭はちっとも見えてこない。D先生の呪いかとも思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

「この小説、半端じゃなく面白い」と思ったことがないかと言えば、そんなことはないのだ。むしろ日々なにかしらを面白がっていると言った方が正しい(なんならD先生につまらないと言われた自分の小説についてだって、なにかしらの面白さを受け取っている)。

ならば「面白い小説とはなにか」という問いの設定そのものに間違いがあるのかもしれない。

どうも「面白さ」というものは小説側にはないのではないか。面白さはむしろ感情を動かされる人間側に位置しているようである。

もちろん、人がなにかを自発的に面白がっているわけではない。静的な素材である小説が、動くものであるところの人間の認知に作用することによって面白さが生まれているといった方が、より正確なのではないだろうか。

面白い小説、美しい絵画、恐ろしい道具。この修飾は反応として生まれる評価だ。たしかに、ある環境で比較したときに面白いと評価されやすい小説は存在することだろう。だが、それは環境や状況という大きな前提によって成り立つものでしかない。

わたしたち人は皆、作用を受けている。数多くのものによって刻一刻と変化する。しかもそれは目的の到達のための進化ではなく、「変化」「動き」と言った方がよい。

パブリッシングの面白さ

絶対的に面白い小説は存在しない一方で、動きはそれそのものが面白い。

動きと変化こそがこの世界の醍醐味だとは言えないか。反応し変化していくことが、世界の一部であることを示すものだとわたしは信じてやまない。というか、自分も他者もそういう一部であるらしいということが、なにより面白いではないか。

生きていくための平和、生きていくための諍い、生きていくための優劣がある。

それが大局的にみれば差のないことであろうと、わたしたちはその中で生きていくしかない。それならば、心地よくありたいと思うのは自然なことだ。

心地よくあるためには、今この瞬間に心地よくあることと、明日、来年、10年後に心地よくあることを考えなければならない。そのために、小説は書かれればいいと、わたしは思う。書けば気持ちがいいから、書かねば苦しいから書く。よい作用を受けたいから書く。そういうものではないだろうか。

NovelJamは一つの装置だ。面白い動きをする企みだ。さまざまな事情と興味によって集まった数十人が、ただただ同じルールに沿って、他のすべてのことを投げ打って作品を仕上げていく。時には意図を読み違えたり、空回りしたりもする。普通では起きないようなことが、この短い時間の中では容易に起こり得る。それはNovelJamという仕掛けと、参戦者同士の反応によって成り立つものだろう。

だからこそ、振り返ればNovelJamでは絶対的な面白さが求められていたのではなく、この場で「”面白い”短編小説を定義する」という行動が求められていたようにも思われる。なにせNovelJamに参加するのは「著者」だけではないし、生み出されるのはテキストだけによって成立するものではない。NovelJamで行われるのは、「ライブライティング」ではなく「ライブパブリッシング」なのだから。

パブリッシングとはまさに動的なこと、行動である。NovelJamは1人ではなく「著者」「編集者」「デザイナー」という複数人で分業することによって成立するイベントだ。NovelJamが謳う「ジャムセッション」の意味するところでは、以下の2点が肝となるだろう。

・複数人で行われること。
・あらかじめ念入りな計画をせずに実行すること。

問われるべきは狭い意味での、テキストとしての小説ではなく、パブリッシングの即興的な面白さなのではないだろうか。即興の中では、一般性・絶対性に期待する必要は薄れる。それよりもこの状況だから現れるなにかから、ひしひしと作用を受けることがかなえば、その作用によって評価することもむずかしくはないはずだ。

様々な戦略が交錯していた、ように見えた

初日の自己紹介タイムから、戦いはしっかりと始まっていた。わたしは北野駅に向かう京王線の中で、YouTubeのライブ中継を見、Twitterのハッシュタグを追っていただけだ。それでも、印象に残りやすいラップや演奏、フリップ芸だけでなく、自分のアピールポイントを90秒間で伝える様々な試みが見て取れた。怖いくらいだった。

わたしが小説を書こうというとき、それはどこまでも個人的な思考の整頓術、身体のわだかまりの発散法のようなもので、社会性とは縁遠いものだった。発表にしたって、高校文芸部の部誌を除けば、仲のいい知人に押しつけるくらい。しかし、ここではすべて違うのだ。

「著者」も「編集者」も「デザイナー」も、得意不得意にかかわらず、皆なんらかの見せ方で自分を集まった小さな社会の中にアピールすることが求められ、なんらかの方法でそれを行った。この自己紹介がその後のマッチングに大きく影響することは間違いないのだから、当然でもある。その社会的でまっとうな努力に、わたしはどきどきしながら目を見張っていた。

ようやく急ぎ足で会場に到着した14時半ごろ、会場ではマッチングが行われていた。投票と最終的にはじゃんけんでチームが決められる。期待通りの結果に喜ぶ人、そうではないことにショックを受ける人がいる。それでも、決まったならその中で最善を尽くすことになる。

チームメンバーのマッチング中。(写真提供:日本独立作家同盟)

チームが決まると、わたしが座っていた席からでも、初対面の緊張をほぐそうと話す声、打ち合わせスケジュールなどを念入りに相談する姿のあることが分かった。お題が発表されると、すぐさま考え出す表情も見えた。わたし自身は初日そこで帰ることになっていたため、その後のことは分からない。

「作用」と「評価」

次に会場を訪れたのは3日目の作品提出が終わってからだった。後から参戦記を読めばドラマの断片だけは見えるが、3日目再び会場を訪れたときは、空気が初日と比べてよほど落ち着いていることに驚いた。会場でただ審査結果を待つのみという状況は、想像していたよりも和やかに見えた。

じきに審査員らが登場し、席に着く。1人1人の審査員が賞を授与し、講評を行う。すべての賞が贈られると、全体評が交わされた。おや、と思った。それはパブリッシングそのものへの評価というより、各視点から見たテキストへの評価に終始しているように思えたからだ。

だがそれも無理はない。現状電子書籍と呼ばれるものはプラットフォームの厳格な仕様に沿ってはじめて活用が可能になる。それらプラットフォームの一歩外に出てしまえば、それは金銭的な流通からも足を踏み外したようなものだ。ともすれば、制作者側はプラットフォームが許容する行動しかとれない、場合によってはそこから外れる想像すら許さないような状況に陥ってしまう。結果として、小説以外に作用するものを持つことがむずかしいのだ。

だがそれでは、そこで生み出されたものは、長い時間をかけて誕生した他の小説に比べて捉えどころのないものになりがちではないだろうか。小説だけで「戦い」に興じなければいけないのであれば、少なくともそれを今後長く時間をかけて変化するものの種と見て赤ん坊のようにかわいがるか、あるいはまったく別の行動の仕方によって小説を書くほかない。

審査員による講評風景。右から二人目が小説家の藤谷治さん。(写真提供:日本独立作家同盟)

NovelJam審査員の1人である藤谷治さんが、「文学というものが著者によるだけではなく、編集者によっても、デザイナーによっても手を加えられて、初めて「文学」になる」と書かれていた。NovelJamがその体験の場であるならば、2泊3日の中で生まれたものの評価も、それ相応に行われる仕組みを持つべきではないだろうか。またパブリッシングの自由度への模索は、いくらされてもいいものだろう(なお、次回まで待たずとも2月に行われるグランプリ発表まで、NovelJamは続く。その中で総力がいかに発揮されるかというところも、もちろん無視してはいけない点だ)。

制約と自由のせめぎ合い

イベント終了後の打ち上げでは、張り詰めていた身体をほぐすように楽しむ会話が行き交っていた。中には「こんな連携がしたかったができなかった」と振り返る参戦者の声もあった。そこからは作品のテイストなど創作物に関する齟齬ではなく、性質や行動特性の理解までの時間不足による不自由が感じられた。

それを聞いて、こんな想像をした。

もし、NovelJamに枠がなかったらどうだっただろう。

「著者」「編集者」「デザイナー」という枠を設けなくても、成立する方法はないのだろうか。

例えば、なんらかのWeb診断テストを受けてもらうのものいい。あるいは特性の軸がより多岐にわたっていればいいのかもしれない。

編集にしてもどういう進め方が得意なのか、どういう性格でなにが苦手なのかということが分かっていれば、短い時間でより作品に専念でき、相乗効果も生まれやすいのではないか。

「著者」が必要なのではなく、「小説を書く役割の人」がいればいいのかもしれない。「デザイナー」ではなく「デザインができる人」という方がいいのかもしれない。そんな風に思う。

小説を書ける人がもし2人いるならツーサイド小説が生まれるかもしれない。発想が得意な人がいれば、デザインと小説を絡めることも可能になるかもしれない。執筆、編集、デザイン、すべての要素は必要だが、それが1人1要素ずつと決められている必要もないように思えた。

そういえば自己紹介の時に「車で来ているので同じチームになると買い出しがラクです」というアピールをしている人がいた。これもまた立派な特性だ。ようは「どういう時間を一緒に過ごせるか」がイメージしやすい方がいい。などと書くと、はやりのマッチングアプリのようだが、もしかすると近いところはあるのかもしれない。

どうせなら、面白いことをしたい。それは参戦した誰もが思っていたことだろう。そのための制約と自由のバランスが、よりかみ合えばいい。きっとそのためにイベント自らも反応し変化していくのがNovelJamなのだろう。主催者側と審査員、参戦者、わたしたち見学者までもがごちゃ混ぜになって談笑する打ち上げの中、そんな気がしてきて、わたしは安心しながら缶チューハイを飲んだ。

NovelJamのような本屋があるとすれば

もしNovelJamのような本屋があるとすれば、「ほんやのほ」がそれであればいいと思う。

大切なのは「そこでなにが作用したか」「自らどう変化できるか」である。そのために運営者はなんらかの企みを持たねばならない。

それは「ほんやのほ」に限った話ではない。本屋に限った話ですらない。本屋の企みはすべて「お金を得るための施策」に過ぎないと思われるかもしれないが、今時本気でお金を稼ぎたいだけのために本屋をやる人なんていない、と思う。もちろんお金も稼ぎたいだろうが、それよりなんらかの装置として社会の中にありたいのだろうと思っている。少なくともわたしはそうだ。

NovelJam参戦記を読むと、それぞれの試行錯誤が見える。基調講演では編集者の三木一馬さんが「人は他者の追体験をしたいものだ」と話されていた。それは小説について語られていたことだったが、参戦記もまた一つの物語に違いない。それらをぼんやりと眺めていると、NovelJamがわたしにもたらした作用は大きかったのだと分かる。わたしには参戦記、観戦記が面白くてならなかった。藤谷治さんの評も、自分のことのように読んだ。それはわたしが気づけばNovelJamの動きに巻き込まれていたということだ。

NovelJamの直の熱、動きに感化されて、わたしは今この文章を書いているのだと気づくと、それもまた面白い。

出版ジャーナリズムの火を絶やしていいのか

2018年12月3日
posted by 仲俣暁生

1949年の創刊以来、出版界が置かれている状況を刻々と報告しつづけてきた「出版ニュース」が2019年3月で休刊することが決まった。また『出版年鑑』も今年8月に出た2018年版で終了し、2019年版は刊行されないことも出版ニュース社のサイトと「出版ニュース」11月下旬号で正式に告知された。

「出版ニュース」は1949年に日配(日本出版配給株式会社)の解体に伴い独立した出版ニュース社が刊行する旬刊(月三回刊)の雑誌で、戦時下の出版流通を担った統制会社である日配時代に刊行されていた「新刊弘報」「出版弘報」の流れを組む。また当初は博報堂が出資者となっていたが、現在はそのような資本関係はないという。

日配時代には戦時下の物資窮乏のため、書籍が完全買取・買切制になった時期があった。「出版ニュース」の前身「出版弘報」は、そうした時代に販売店(当時すでに1万5000軒あったという)が本の現物を見ることなく注文できるよう、一種のブックカタログとして刊行されていたようだ。日配は戦後、商事会社としてしばらく存続した後、占領軍の指導のもとで解体され、現在のトーハン、日販ほかの取次会社に分割された。しかし戦時下にできた合理的な出版物流システムは戦後も存続し、日本の高度成長期の出版業界を支えたとされる。

こうした日配時代の日本の出版業界の姿を知ることができるのも、出版ニュース社がその出自である日配についての詳細な資料をまとめた『資料年表 日配時代史――現代出版流通の原点』(荘司徳太郎、清水文吉・編 1980年刊)や『私説・日配史――出版業界の戦中・戦後を解明する年代記』(荘司徳太郎・著 1995年刊)といった労作のおかげである。いわば出版ニュース社は、日本の現代出版流通史の生き証人といっていい。

出版ジャーナリズムの基礎が失われる懸念

今回の発表により、「出版ニュース」だけでなく『出版年鑑』の刊行が止まってしまうことを知った衝撃は大きかった。日本の出版業界の現状を知るための基礎資料として、その役割はきわめて大きいものだったからだ。

出版市場の統計データであれば、全国出版協会・出版科学研究所が発行する「出版月報」や『出版指標年報』によって知ることもできるし、電子書籍市場の動向も上記資料やインプレス総合研究所が発行する『電子書籍ビジネス調査報告書』でカバーできる。しかし『出版年鑑』はこうした報告書類が伝える市場動向だけでなく、著作権法を始めとする法規・規約、出版社・編集プロダクション・取次・書店などの名簿、『出版ニュース』の主要記事をまとめた縮刷版、書籍や雑誌だけでなく、オンデマンド本やオーディオブックまでを含めた目録といった、出版業界を構成するあらゆる要素を盛り込んだ総合カタログだった。

『出版年鑑』の発行のためには日常的な活動として「出版ニュース」の刊行は不可欠であり、同誌休刊が報じられたときに私がもっとも懸念したのは『出版年鑑』の継続が不可能になることだった。「出版ニュース」休刊を伝える新聞記事で、同社の清田義昭代表は「出版業界が厳しい中での休刊にじくじたる気持ちはあるが、社員4人の小さな会社で私自身も高齢になり、潮時だと感じた」と述べていた。

昨今の出版業界の厳しさは、日配時代にまで遡ることができる雑誌の全国流通に適合した「合理的」な出版流通システムが、雑誌というメディア自体の崩壊によって意味を失い、その結果、書籍を含めた出版流通システムが自壊しつつあることに起因している。おなじく日配に歴史的な起源をもつ「出版ニュース」の休刊は、その意味ではたしかに一つの「潮時」が訪れたことの象徴なのかもしれない。

しかし現在の「出版ニュース」は、創刊時のような出版業界の広報宣伝誌ではなく、在野の様々な書き手(出版人や編集者だけでなく、作家や批評家、ジャーナリストや図書館人なども含まれる)を起用した、出版ジャーナリズムの貴重な媒体となっている。いわゆる「出版業界紙」とは一線を画したその誌面には、再販制度や有害図書規制といった重要テーマをめぐって、意見を異にする論者にも公正に場が与えられていた。

出版ニュース社は来年、創業70年を迎える。そして出版業界はいま、日配が解体された戦後まもない時期とおなじくらい大きな激動期にある。にもかかわらず「出版ニュース」と『出版年鑑』の休刊によって、報道や研究の基礎となる信頼度の高い一次資料と、それをもとに活発な議論が行えるジャーナリズムの場を私たちは失うことになる。

こうした営みの後を継ぐ義務は、より若い世代の出版人や、広義の「出版」を担うIT系の企業も含めた後進のパブリッシャーにもあるのではないか。小誌もささやかなその一端を担っていきたいが、せめて『出版年鑑』だけでも継続刊行できる仕組みを、出版業界の側でも真摯に考えてほしい。

編集を経なければ、文学は存在できない

2018年11月28日
posted by 藤谷 治

第8信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

先日、仲俣さんから依頼された、「NovelJam」というイベントの審査員をやりました(実は「先日」どころではなく、これを書いている僕にとってはつい昨日のことなのですが)。

参加費を払って集まった数十人が、その場でお題を与えられ、2泊3日で短編小説を仕上げるだけでなく、それを電子書籍として販売すらする、という、まあ乱暴といっても過言でない、べらぼうなイベントです。2泊3日の3日目には僕たち審査員が朝から審査を始めるのですから、参加者には実質1日半ほどしか「小説の制作」には充てられません。

しかもそれはあくまでも「小説の制作」です。これが「執筆」ではないところがまた、このイベントの興味深くも暴力的な特徴です。参加者にとって「執筆」は、目的達成ではなく通過点でしかありません。彼らは執筆した小説を編集し、表紙(電子書籍でも「表紙」というのかどうかは知りませんが)をデザインし、作品をプレゼンテーションして、「商品化」にまでこぎつけるのです。

初日前夜にオペラの序曲を書かなければならなかったというモーツァルトやロッシーニの逸話、あるいは1日で映画1本撮影したというマキノ雅弘の伝説(いずれも真偽不明ですが)を想起させるような離れ業に、ロッシーニでもマキノでもない人たちが一心不乱に取り組んでいました。

僕たち審査員は最終日に行っただけ、しかもそのかん1作1万字の小説を16作、4時間以内に読むという、参加者たちに負けず劣らずの無理難題を強いられていましたから、彼らの現場は殆ど判りませんでしたが、垣間見るだけでもその切迫した雰囲気は充分に伝わりました。

ここで「NovelJam」の詳細を語るつもりはありません。ただあのイベントには、僕たちがこの往復書簡でまさに語ろうとしていることそのもの、という側面がありました。つまり参加者は、全員が小説を書いたわけではないのです。彼らは「著者」のほかに「編集者」「デザイナー」と役割を分担し、チームになって小説の電子書籍化に取り組んでいたのです。

ここまで書いたものを読み返して、誤解されるかもしれないと恐れたので申し添えますが、僕は「NovelJam」を大いに楽しんだのです。また種々に意義のある試みでもあると思います。参加者が「小説を商品化する」というプロセスの一端をでも、実地に垣間見ることができるのは、それだけでも大きな経験でしょう。その意義を認めたうえで、あの場で感じ、また驚いたことを、これから書きます。これはあの催しについてというより、いわば「『編集啓蒙』の弁証法」とでもいうようなことです。

彼らのプレゼンテーションを見てから気がついたのですが、イベント参加者のうち、「著者」は普段から小説を書いている人が殆どでした。プロとして活躍している人もいたようです。また「デザイナー」もプロであったり、ヴィジュアルな制作を日常的にしている人ばかりでした。ところが「編集」を担当した人の中には、あの場で初めて編集をすることになった人が、ちらほらいたようなのです。

それを知って僕は、そうなの? と驚くと同時に、作品を読みながら感じていた疑問が氷解もしました。最終決定稿として渡された小説に、誤字脱字、遺漏や体裁の不統一が散見されたからです。誤字脱字の訂正は、編集ではなく「校閲」の仕事だ、ということなのでしょうか? 審査の途中で受けたインタビューで、僕は思わずいってしまいました。「編集担当の人は何をしているのですか?」と。

その時点ですでに僕は、このイベントは「完成度」を求める場所ではない、と理解はしていました。「Jam」です。勢いと情熱で突進すること自体が目的でもあるはずです。だから僕の「何をしているのですか?」は、何やってんだよキチンとしろ、という意味ではありませんでした。文字通りのことを尋ねたかったのです。「編集」を担当した人は、あの即興で小説を制作するチームの中で、どんな役割を担っていたのか?

恐らくその答えの中に、今「文学」が――「書いた人間が読者を特定できない文章の総称」としての「文学」が――、編集というものをどのように捉え、どのように位置づけ、そしてどのように「あしらって」いるかが、如実に反映されているはずです。僕たち審査員は、作品を即興小説として評価しました。しかし実際には、あそこに提出された作品はどれもチームの作品であり、本来ならば著者と同時に編集者にも、デザイナーにも、評価と評言がなければならなかったはずです。

もちろん主催者の皆さんは、それをよく理解していました。だから表彰は作品の最優秀賞だけでなく、優秀なチームに対しても与えられましたし、賞状には個人名ではなく、作品名と共にチーム名が記されたのです。しかしそれでも、参加者の皆さんに、文学というものが著者によるだけではなく、編集者によっても、デザイナーによっても手を加えられて、初めて「文学」になるのだ、ということが、どれだけ理解してもらえたか、審査員としてはこころもとないのです。――2泊3日で体得できたことは、少なからずあったでしょうけれども。

『燃えよ、あんず』をお読みくださった由、有難うございました。

実際に書いた原稿は、完成稿より二割ほど多かったでしょう。都合100枚ほど捨てたと思います。

編集者から、登場人物の告白を、数十枚分削除すべきだとアドヴァイスされたときは、とてもつらかったです。身を切る痛み、と形容してもいいくらいでした。

編集者のアドヴァイスに、作者は必ずしも従う必要はありません。しかし削れというアドヴァイスに抗するのに、作者はただその箇所に愛着があるだけでは、また苦労して書いたと主張するだけでは足りません。自分の書いたものに、愛着のない個所など、苦労せず書いたところなど、存在しないのですから。作者にはその箇所を作品が保持するための、「読者としての」堅固な理由がなければなりません。その箇所を読者が読まない方が作品を優れたものにする、というアドヴァイスに説得力があるのなら、作者はどんなに愛着があっても、そこを削らなければなりません。

しかしそれは理性の判断で、感情は激痛から逃れられません。僕は編集者にメールを送りました。「腕を切れば命が助かると医者が言えば、患者は腕を切るしかないのです」と。

編集は文学の医術であり、医師は時に患者の人生に対して残酷な判断を下します。多くの場合、医師は患者に感謝されますが、それは患者が病気から解放されてからです。

『燃えよ、あんず』は、読者から終章を評価されることが多く、その評価は僕を複雑な気持ちにさせます。あの部分を書いたのは僕ですが、あれを最後に持っていくのが良いと判断したのは、編集者だからです。

当初、あの部分は第三部の後半にありました。それを終章にするとは、作者の僕は考えもしていませんでした。編集者がそれを提案していなければ、小説は現在の形になっておらず、現在の評価も得られなかった。その評価は、他のすべての評価と同様、作者の僕がすっかり頂いています。そして僕は、それが僕の手柄ではないことを、よく知っているのです。

こういうことは、程度の差はあれ、どんな小説にもあるでしょう。また小説に限らないでしょう。ことさらに僕が自作にからめてこんなことを書いたのは、それがこれを読むであろう人々に対する「編集の啓蒙」の一助になればいいと思ったからです。

文学は、編集を通過しなければ存在しえない、あるいは、存在してはならないものだ、という、文筆業者にとってはわきまえていて当然の事実から、僕たちは「啓蒙」を始めなければならないでしょう。その先には、さらに「啓蒙の弁証法」があるはずで、そこまで行かなければ「編集の露呈」を果たしたことにもならないのかもしれません。前途遼遠です。

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