小説はデータではない

2019年7月29日
posted by 藤谷 治

第16信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんもご存知の通り、僕は今年から大学の教壇に立っています。講義の前半、春学期は7月17日に終わりました。成績をつける、という重責を除けば、やれひとまずお役御免かと思っていたところ、翌18日に京都アニメーションが放火されました。

僕は熱心なアニメファンではなく、「京アニ」の作品も殆ど観ていません。ただかつて僕の小説を映像化する企画があった時に知り合った映像作家があの会社の出身でした。その企画は立ち消えになり、その人とも会わなくなりましたが、動向はSNSなどでチェックしていました。彼は当然のことながら、今度の惨事に非常なショックを受けているようです。

もちろんそんな遠い知人がいなくても、あの悲劇は僕にも陰惨な衝撃を与えました。考えていると、頭がおかしくなってしまいそうです。

パクりやがって。小説を盗まれた。放火犯はそんなことをわめいていた、と報道にあります。目撃者に取材した複数の報道がありますから、恐らく実際にそんなことを叫んでいたのでしょう。

この言葉は僕を戦慄させます。そしてその戦慄の由来をずっと考えています。

僕はこの言葉を追うようにして報道を見ていますが、どうやら男は、実際には小説をどこかに投稿したり、発表したことはなさそうです。書いたこともないかもしれません。関係妄想の一種ではないかと思いますが、心理学にも精神医学にも疎い僕が断言できることではありません。また精神疾患とは脳の機能障害であって、そこには何ら抽象的なものはありません。ましてやそこにロマンティックな想像を仮託させるような真似は、ほとんど文学的火事場見物でさえあるでしょう。それはわきまえているつもりです。

それでも僕は、あの「小説」の一語に、どうしても何かが象徴されているように思えてならないのです。現代における小説、創作、表現、の社会的な受容のされ方、とでもいうべき何かが。

『小説は君のためにある』という小文は、おっしゃる通り漱石の『文学論』を意識はしていますが、無論あの浩瀚な知性にかなうはずもなく、また、文学に対するあのような考究は、現代の人間には「贅沢品」であると考えているので、思い切りハードルを下げて書きました。

しかしそれは、必ずしも若い読者を想定しているからではありません。文学とは何かとか、小説は文学の一種であるといった、最低限の共通理解から始めなければならないからでした。あれを書く前に僕は、中村光夫や伊藤整、イーグルトンやバフチンの著作に、改めて目を通してみたのでした。しかしいずれの著作にも、文学について根本的な定義はされていません。僕は、とにもかくにも、といった思いで、文学を「著者が読者を特定できない文章の総称」と定義しました。識者や専門家から異議が出るかもしれないと思いはしましたが、しかし一方で、これくらい低いところから始めなければ、文学も小説も、誰にも理解されないだろうという認識が僕にはあるのです。

中村光夫やバフチンの仕事には大きな影響を受け、また尊敬していますが、文学を論じるほどの人たちは、どこかで文学を「所与」のものと思っている気配があります。つまり、僕たちが生まれる前から、文学に接する前から、すでに文学は存在している、という前提が、偉大な文学研究者、文芸評論家たちにはある。

それは、なんというか、「社会的には」事実です。ホメロスだ紫式部だと名前を挙げるまでもなく、偉大な文学は何百年、何千年も前に成立しています。しかしその「社会的事実」は、同時に「僕」の否定にもつながります。文学が所与のものであるなら、僕――実存というのか、現存在というのか、そういう今ここにある僕は、文学にとって不要になってしまいます。文学は、僕が認めようと認めまいと存在するわけですから。

かつて、文学を愛するとか、文学に取り組むというのは、そのような所与の存在に対して、こちらから飛び込んでいくことを意味しました。もしかしたら今でもそうなのかもしれません。大学の文学部とはそういうことをするところなのかもしれません。だから文学者は文学を所与のものと見なしているのかもしれません。

しかし一人ひとりの人間にとって、文学はそのようなものではありません。そこに気がついてほしいと思って僕は『小説は君のためにある』を書きました。

文学は個々の人間、つまり「君」より以前に存在するものではありません。もっといえば存在ではありません。文学は経験であり、まぎれもなく「君」の経験なのです。そしてここにいう「君」とは、いささかも抽象的な存在ではないのです。これを読んでいるあなたのことなのです。

この「経験」から演繹して、僕はもうひとつ、あの小文で主張したいことがありました。小説を読むという経験が、「役に立つ」という主張です。

小説を読む経験に、役に立つ立たないなど論じなくていい、無益だからこそいいのだ、という考えは成り立つし、おそらく正しい考えでもあります。しかし小説は、その特異な性質を十全に引き出せば、はっきりと読者の「役に立つ」と僕は思っています。

その詳細は拙著にあたって貰うとして、ここで改めて言っておきたいのは、小説とはいわば、非社会的な経験であるがゆえに、「君」の役に立つ、ということです。

人間は社会的動物ですから、種々の規制に束縛されていなければいけません。また社会からの要請に応じなければなりません。しかし小説の経験は、そのような規制や要請に囚われることがありません。そこではすべてが「君」の独自な判断によって評価されます。

小説はこんにち、そのように受容されていません。仲俣さんは「多くの人が『自分のためにある小説』を発見できなくなっている」と書いていますが、僕の見方で同じことをいうなら、多くの人が目の前にある小説を、「自分のためにある」と気づかないでいるのです。「自分のために小説がある」ということが、人々には――小説に縁遠い人にはもちろん、愛読者にさえ――判らなくなっているのです。

それは現代の人間が、小説さえ――社会という情報の氾濫を遮断して、個の自由のために経験するはずの小説をさえ、社会的な情報として摂取してしまうからでしょう。

人は、専門知識や特別な関心を持たなくても、小説に対してまず「データ」として接するようになりました。それは小説の外的条件への依存――特定の文学賞を受賞したとか、映画化、アニメ化されたものだとか、世間の関心を集めている著者の書いたものだ、といった情報――に限りません。小説の内部について、微細にわたってジャンルを分類し、キャラクターを類型化し、物語を整頓し、小説を「型(タイプ)」という社会性のある情報におさめなければ、人は目の前の小説を、受け入れることができないのです。

こんなことを考えるのは、僕が小説の型、形式というものを、意識しすぎる小説家だからかもしれません。しかし僕が小説の型に対して過敏であるのは、型や形式に徹底的に追従しなければ、自分の小説に型から外れるものが本当にあるのかどうか、自分で見極めることができないからです。型にはまることを忌避し、意識的に「自由」であろうとして、かえってたとえば「純文学」というような型の中に安住しているように見えてしまう小説や、型というものの恐ろしさを意識せず、ただ書かれているだけのジャンル小説を、つまらなくも思っています。

タイプの中に安住する小説は多く、それは理由のあることです。何しろ読者がそのような小説を要請しているのですから。小説に経験ではなく、安堵や慰めをほしがる人々は、その安堵が、自分を社会の中で同調させることに、つまり情報の共通認識に根拠を持っていることに気付かず、あたかもそれを自分が独自に求めているかのように錯覚しているのです。そしてそのような読者の中から、作者が生まれているのです。

社会との同調、情報の共有への、あまりにも強い依存のために、人は「自分のための小説」を見出せないでいます。読者だけでなく作者もまたその依存の中にあり、そこから小説は量産されていきます。今ではそのような、同調を「共感」と見なし、情報を「新しさ」と同一視する小説こそ、小説(に限らない、創作や表現)だと認識されているように思えます。

この認識の果てに、今、驚くべき現象が立ち現れているのではないでしょうか。つまり情報が経験に対して圧倒的な優位を誇り続けたあげく、「小説それ自体が不要になっている」のではないでしょうか。

要らないのですよ、小説そのものは。必要なのは小説に関する情報だけなのです。もっと極言すれば、小説というものの「イメージ」だけがあれば、情報の共有には充分なのです。

こうして小説は読まれなくなる。読まれても経験されなくなる。経験と思われるものを読者が感じたとしても、それは「私が読む」という固有の体験ではなくなる。「『自分のためにある小説』を発見できなく」なるのです。

そこから、小説を書いた形跡のない人間が、「小説を盗まれた」と病的な妄想をたくましくするまでは、思いのほか近いのではないでしょうか。

これ以上は書きません。長くなりすぎたというだけでなく、すでに僕の独断は自分でもすっかりは首肯できないものになってしまいました。上記は無論、すべての小説、また小説読者にあてはまるものではありません。自分の書いたものが、委曲を尽くしたとも思えず、歯がゆいままこれを送ります。

しかし小説、あるいは表現と「データ」の同一視といっていいほどの、距離の接近は、やはり僕にはつらく感じられてなりません。

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インディペンデントな文芸同人誌を作ってSNSで売るということ――『かわいいウルフ』製作日誌

2019年7月26日
posted by 小澤みゆき

はじめに

今年5月、私は『かわいいウルフ』という同人誌を発売した。20世紀の作家ヴァージニア・ウルフのファンブックだ。彼女の作品の紹介や、翻訳、ウルフの文章を実際に訳した方のインタビューやエッセイを掲載した。それだけでなく、友人・知人21名にウルフ作品を鑑賞してもらい、その感想を自由な形で書いてもらった。「ヴァージニア・ウルフの良さを一人でも多くの人に知ってもらいたい」その一心で、とても真剣に、楽しんで作った本だ。

本書は、今年5月6日の文学フリマ、ネット販売、そして全国の主に独立系書店で販売を行い、一ヶ月で500部を完売した。現在は第二版を販売中だ。今は最初の一ヶ月の勢いほどはないものの、じわじわと売れ続けている。

なぜ無名なサークルの、こんなニッチなテーマで、しかもインディペンデントに作られた雑誌が売れているのだろう。時々自分でも不思議に思うが、これだけは言える。SNS、というかTwitterの存在があったからだ。そこからすべては始まり、やがて口コミとして広がり、結果的に多くの人に認知してもらうまでに至った。すべてはSNSのおかげであり、SNSがなければ私は何もできなかった。

本づくりと広めかたの詳しいハウツーは、8月10日に本屋B&Bで開催する重版記念イベント「#わたしたちのやっていき」や、有料で配信しているnote(前編後編に譲るとして、本稿では、SNSを使って、無名の書籍をどう広めていくかということについて記したい。

編著『かわいいウルフ』の書影

Twitter大好き

昨年12月に本を作ると決めたときから、死ぬほど宣伝をすると決めていた。ぽっと出の、無名の同人サークルの本が宣伝もせずに売れるわけがないからだ。私は普段から毎日Twitterをし、何年もはてなブログを続けていたから、ウェブで宣伝する以外の選択肢を思いつかなかった。なのでまずは、「ヴァージニア・ウルフについての本を作りたい」というブログエントリを書き、それをTwitterにアップした。そして日々「ヴァージニア・ウルフ」でTwitter検索し、bot以外の、ヴァージニア・ウルフを読んでいたり、興味がありそうな人を片っ端からフォローした(これをエゴサーチならぬウルフサーチ=ウルサと呼んでいる)。他にも、英文学が好きそうな人、イギリス文化が好きそうな人、ウルフはじめ英文学研究をなさっている人文系の先生方などをフォローし、フォロイーを約1000人増やした。そして日々、原稿の進捗や企画の進行具合をリアルタイムにツイートしていった。そのおかげで、少しずつフォロワーも増加した。作りはじめてから2、3ヶ月後には「なんだかよくわからないが、ヴァージニア・ウルフについて何かやっている人」という認知を、なんとなくTwitter上で得られるようになっていった。

やりながら感じたのは、ヴァージニア・ウルフを好きな人は多くいるのに、その魅力を伝えるメディアが本当に無いということだった。自分もそのようなモチベーションで本を作り始めたが、Twitterで宣伝するうちに、そのことを強く感じるようになった。ウルフに限らず海外文学を好きな人は確実にいる。しかし万人に向けて開かれているとは感じられない。もっと多くの人を巻き込む方法はないのだろうか――既存の出版・流通業界に一石を投じる、そんな大それた思いはまったくなかった。とにかく「広めたい」「伝えたい」の一心でTwitterをやり続けた。

ウェブ予約と反響

4月に校了した直後から、ウェブでの販売予約を始めた。当初の部数は300冊で、文学フリマまでの間に数十冊売れれば良いと思っていた。しかし蓋を開けてみると10日のうちに100冊の予約があり、たいへん驚いた。同時に、ニッチなテーマの本でも確実に必要とされていて、届く人には届くのだと確信を持った。文学フリマ以外にも、書店に営業し置いてもらうことを決めていたので、この調子でウェブ通販が売れると、冊数が足りなくなってしまう。悩みに悩んだ末、部数を300冊から500冊に引き上げた。発売前重版という言葉も、この時初めて知った。

この頃からTwitterで、一般の読者以外の、いわゆる「出版業界の人」が興味を示してくれていることが、なんとなくわかってきた。「こんなニッチな本は見たことがない」「内容がおもしろそう」「コンセプトが素晴らしい」といった言葉をいただいた。そういったフォロワーの方が増え、キャズムを超えてきたな、と感じるようになった。また後から知ったことだが、この本を通して知り合った編集者の方々によれば、やはり4月ころにSNSで見て気になっていた、というお話を伺うことが多かった。

直球の営業

校了してから文学フリマまでの間、全国の独立系書店に営業して回った。私は関東に住んでいるので、足を運べる書店は全て直接訪ね、簡易製本した見本とプレスリリースをお見せした。それ以外の地域には、見本誌と資料を郵送してご検討いただいた。お店の探し方は、なにも難しいことはしていない。ウェブでリトルプレスを扱っている書店がないか調べたり、友人にいいお店がないか聞いたりしただけである。

はっきり言って、営業はとても楽だった。「Twitterで見ました」「本自体の熱量に圧倒されました」というお言葉をよくいただいた。また営業中もTwitterをしまくり、「今日はどこそこの本屋さんに行った」というようなことをツイートし続けた。ここまでTwitterで実況しまくると、応援してくれる人も増えて、「大変だけど、がんばるぞー!」とやる気を出して書店を回った。

文学フリマ

そして5月の文学フリマを迎えたのであるが、はっきり言って売れる自信がまったくなかった。もちろん死ぬほど宣伝ツイートをしまくったし、当日のブース配置もわかりやすいように工夫を凝らした。しかしどんな人が買いに来てくれるだろうかと本当に不安で、50冊も売れれば良いほうだろうと思っていた。

しかし始まってみたら大盛況で、なんと4時間半で完売してしまった。もちろんお客さんの中には、じっくり内容を立ち読みして買ってくださった人もいたけれど、多くの人は「Twitterで見て買いに来ました」と言ってくれた。約5ヶ月に及ぶTwitterマーケティングが結実した瞬間だと感じた。とてもうれしく、人生で忘れられない日になった。

文学フリマで設置したブースの様子

反響と増刷

そうして文学フリマで大成功を収め、ウェブ販売もコンスタントに売れ、各書店に納品を始めた矢先に、大事件が起こる。作家の川上未映子さんが、ご自身のInstagramで『かわいいウルフ』をご紹介してくださったのである。もともとある方を通して献本していたのだが、まさか本当に読んでいただけるとは思ってもいなかったので、たいへん驚いた。その日は通販の注文通知が止まらず、iPhoneがぶーぶー鳴りっぱなしだったほどだ。

そういったSNSの影響もあり、文学フリマ終了後も予想以上の売れ行きで、500冊はすぐになくなってしまった。『かわいいウルフ』は、もともとたくさん利益を出そうと思って作った本ではないので、予算的に悩みに悩んだ。けれど書店さんからの追加のご注文や、Twitterで「文フリで買えなかった!」というような声を目にしたので、思い切ってまた500冊を増刷することにした。

いま思うこと

一昨年の『早稲田文学女性号』に始まり、直近大ブームを巻き起こしている『文藝』秋号まで、ヴァージニア・ウルフを起点とするフェミニズムはムーブメントを起こしている。他にも『82年生まれ、キム・ジヨン』や『ヒロインズ』、『説教したがる男たち』『私たちにはことばが必要だ』『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』など、フェミニズム文学、フェミニズム批評の本が相次いで出版されている。またヴァージニア・ウルフ著『自分ひとりの部屋』も重版をしたと伺っている。『かわいいウルフ』も、そうした文脈の中に組み込まれて売れているという事実は確実にあるだろう。

しかし、ウルフが流行りつつあるという流れを意識していたとはいえ、『かわいいウルフ』は、「自分が読みたいと思うものを作りたい」「ヴァージニア・ウルフの素晴らしさをもっと世の中に伝えたい」というところからスタートしている。ただひたすらに一生懸命、本を作り、必死で毎日Twitterをしていた結果、こうなったのだと思う。伝えたい、広めたい。ただその一心でやってきたことに、結果がついてきたのだと考えている。

これから

6月、私は個人事業主を開業した。「海響舎(かいきょうしゃ)」という名前で、サークル名「海の響きを懐かしむ」を縮めたものだ(ちなみにこのフレーズはジャン・コクトーの「カンヌ第五」という有名な詩から拝借している)。この屋号で、これからは文芸に関する様々なプロジェクトを行っていきたい。具体的は案はまだないが、年に二冊、文学フリマに合わせて本を作るだけではつまらない。せっかく今回、いろんな読者の方や書店員の方との繋がりができたのだから、それを活かして、文芸をもっと盛り上げる運動ができるはず。そう考えている。

そして8月10日には、冒頭で述べたように、本屋B&Bでイベントを開催する。タイトルは「#わたしたちのやっていき 〜インディペンデントメディアをつくり、発信することについて〜」というものだ。(このタイトル自体がハッシュタグになっていて、Twitterでつぶやきやすいようにした)このイベントでは、ふたつのメディアの方をお呼びする。ひとつは「自分らしく生きる女性を祝福する参加型のライフ&カルチャーコミュニティ」の「She is」、もうひとつは「思想/建築/デザインを架橋しながら批評活動を展開するメディア・プロジェクト」の「Rhetorica」の方々だ。インディペンデントな精神でメディアを作り、コンテンツを考え、それを広めていくにはどうしたらいいのか――そういったことをお二方に伺いながら、様々な話ができたら良いと思う。何かを作ってみたい人、メディアに興味がある人、出版関係の人。多くの人にお越しいただきたいと思っている。

私は『かわいいウルフ』の一連の作業を通して、本造りとその広め方を身を持って知ることができた。熱意を持って本を作り、誠意を持ってSNSで宣伝をすれば、自ずと人は集まり、本は売れる、ということを体験できた。自分は出版業界の人間でもなんでもない素人だが、この経験を活かしていけたら良いと思う。そのために、色々な人と一緒になって何かをやりたい。インディペンデントメディアにはまだいろんな可能性がある。そう、わたしは考えている。

いま「小説」は誰のためにあるのか

2019年7月25日
posted by 仲俣暁生

第15信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

いまの元号が発表される前夜にいただいた最後のメールへの返信が、なかなかできずにいました。この間にも出版界ではさまざまな事件が起きました。いや、むしろそれは「ネット上で起きた」というべきでしょうか。

ある小説家の文庫化が決まっていた作品が、同じ版元の他の出版物に対してその小説家がネット上で度重なる批判を行ったために、「営業部が協力できないと言っている」という理由で刊行がとりやめになりました。

その経緯をめぐるネット上のやりとりのなかで、出版社の社長がその小説家の本の発行部数と実売部数をツイッターで公開したことも、大きな批判を呼びました。結局、その社長はツイートを削除し、当該発言については謝罪しました。この作品は別の版元から文庫化されることになっており、その担当編集者が「この本が売れなかったら私は編集者をやめます」と啖呵を切ったことも話題になりました。「やめました」という話が出てこないということは、幸い、新しい版元から出た文庫本は売れたのでしょう。

この経緯全体が、いかにも「ネット的な出来事」だったことはいうまでもありません。僕は出版業界の内部事情をそれなりに知っており、これら一連の出来事の登場人物のうち幾人かは個人的にも知っています。ですので、この出来事そのものに対して論評はしませんが、本の話題の「主戦場」がいまやネット上、とりわけSNSになっていることは藤谷さんもお感じになっているのではないでしょうか。

さて、自社の本(しかも主力商品)を執拗に批判する小説家の本の販売には協力したくない、という営業部の本音がみえたときは、なんだか人間くさくて面白いなと思いましたが、たいして売れない本を売るのも、売れる本しか売らないのも本来、出版社の自由です。「その本を出す」という決断をすることだけが版元の役割で、しかもたいていの本は売れませんから、そのたびに担当した編集者が辞めていたら会社が成り立たなくなります。

とにかく、この事件はすべてが「売れる」「売れない」の話でしかなく、少なくともそこに「小説」あるいは「文学」は不在でした。

こんな悲喜劇(?)からしばらくして起きたのが、京都のアニメーション制作会社に対する攻撃でした。まだ事件の全容が明らかになっておらず、現場で身柄を確保された容疑者も重体で、取り調べを受けられる状態ではない段階ですから、語れることには限りがありますが、それでもこの往復書簡でぜひ触れなければならない話題だと思いました。

この事件ではすでに34名もの方が亡くなられたと報じられています。重傷者を含めて怪我をなさった方も34名とのことで、68名もの方が自分の仕事場で、いきなり理不尽な攻撃にさらされたのです。映画であれ音楽であれ、あるいは文学や他の創作物であれ、創作物を制作する現場に対して、このような凄惨な攻撃が行われた例を私は過去に思い出すことができません。

出版関係者が襲われた事件ならば、1961年の風流夢譚事件が有名です。深沢七郎が雑誌「中央公論」に書いた『風流夢譚』という小説の内容に憤激した未成年の少年が、この雑誌を発行していた中央公論社の嶋中社長宅を襲撃し、家政婦の女性が亡くなられた事件です。

ただし、このときに狙われたのは出版社の総責任者である社長宅であり(だから許せるというわけではありませんが)、創作の現場である作家の仕事場でもなければ、雑誌の編集部でもありませんでした。創作現場への攻撃、しかも大量の死傷者を出すことを意図したような攻撃は、世界史的にも類例がないのではないでしょうか。

もちろん、現段階で動機を詮索するのは時期尚早でしょう。ただ、事件直後に容疑者が語ったとされる言葉のなかに「小説」という語が含まれていたことがあるニュースで報じられており、そのことが気になっています。容疑者本人に確認がとれない以上、これ自体が誤報の可能性もあるのですが、もし事実とすれば、この事件を起こした人物は少なくとも小説を読んだことがあり、あるいは自分でも書こうとしたことがあるのでしょう。

ここから先は、事件そのものから離れます(そうするべきでしょう)。この話を藤谷さんにしたいと思ったのは、その後、藤谷さんの『小説は君のためにある』を再読したからです。

子ども向けの新書シリーズとして書かれたこの本をあらためて読み、これが夏目漱石の「文学論」をふまえたものだと気づきました。漱石はこの論文のもとになった講義で「文学とはなんぞや」ということを考え抜き、有名な「F+f」という式にたどり着きます。大文字のFは「焦点的印象または観念」を、小文字のfは「これに附着する情緒」を意味します。まるでアインシュタインの特殊相対性理論における「E=mc2」を思わせるシンプルな方程式ですが、漱石はこのように「文学的内容の形式」をモデル化できると信じたのです。

藤谷さんの本では、Fは「文意」、fは「味」と表現されています。子ども向けの本だから表現をわかりやすくしたということもあるでしょうし、漱石と藤谷さんの考えがまるっきり同じというわけでもないでしょう。けれども、少なくとも下敷きに漱石の「文学論」があるのはたしかですよね。

ここでの問題は後半の「味」(情緒)です。これは小説が「読まれる」ことによって発動するということを藤谷さんは書かれています。どんなに怖い怪談やホラー小説も、読まなければ怖くもなんともありません。世界的な名作であれ、思わず読み進めてしまうエンターテインメント小説であれ、読まれないうちには「小説」として立ち上がらない。演奏されない(あるいは「読まれない」)楽譜から、音が聞こえてこないのと同じです。

ここでやっと、藤谷さんの本が『小説は君のためにある』と題されている理由がわかってきます。あらゆる小説は(そしておそらく、すべての創作物は)、読者(オーディエンス)によって受容されることで初めて「存在」するようになる。紙の本だろうが、電子書籍だろうが、CDやDVDだろうが、ストリーミング配信の映像や音声だろうが、受け手と出会わないことには、創作物は作品として本当の意味で存在していない。森のなかで大木が倒れても、それを聞く人がいない限りは、音はしないという話と似ています。

いま「小説」は誰のためにあるのかといえば、それを書く小説家や売る出版社や、それに職を賭ける編集者のためにあるのではない。「その作品といつか出会うかもしれない未知の読者」のためにある、と藤谷さんは仰っているのだと思います。その過程で発生する経済的なあれこれを維持するためには作者や編集者の存在が必要ですが、その結果として本ができても、そしてベストセラーになったとしても、まだ「君」に読まれていないうちは「君にとっての小説」は存在していない。そうした無数の「君」との出会いを信じて、創作者は日々、働いているわけです。

成功した作家や作品に対する憎悪や嫉妬、その他の人間的な感情を抱いた人は、これまでにも無数にいたはずです。にもかかわらず人類の長い歴史のなかで、政治権力による弾圧を除けば、創作現場へのあからさまな攻撃が読者によって行われたことはほとんどなかった。なぜならば、「作品」の本体がそこにあるわけではないということを、一度でも「読者」であったことがある者には理解できるはずだからです(藤谷さんもお書きになっているとおり、「作者」はもちろん「読者」の一部です)。

いま「小説」というものがやせ細っていること、あるいは社会における「小説」の位置づけが曖昧になっていることと、今回の事件とはどうしても無縁に思えません。端的にいえば、多くの人が「自分のためにある小説」を発見できなくなっている。これほどたくさんの「小説」が書かれているにもかかわらず、です。

文芸評論という仕事は、万人のために小説をわかりやすく解説する仕事ではなく、「自分はこのようにして、自分のための小説を発見した」ということを述べる仕事だと、僕は理解しています。そのような「恵み」を得ることができた一人として、やはりこの数ヶ月間の出来事は、あまりにも暗澹たる思いを抱かざるを得ないことばかりでした。

どんなかたちでも結構です。藤谷さんの考えをお聞かせください。

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読書という〈遅い文化〉を守るために投じた一石――幻戯書房・田尻勉さんに聞く

2019年7月1日
posted by 仲俣暁生

今年の4月2日、ある出版社の公式ブログにこのような記事が投稿され、大きな話題になった。

出版流通の健全化に向けて

小社の刊行物をご購読いただきありがとうございます。
日本のほとんどの出版社は、読者の方々への販売を取次会社(卸売会社)と書店(従来の売り場をお持ちの書店、インターネット書店あわせて)に、販売面で助けられています。ほとんどの読者のみなさまは書店で小社の本をお求めいただいているものと存じます。昨今、出版物全体の販売が落ち込むなか、書店の経営も厳しくなり、小社の本を店頭においていただける書店も限られております。すべての書店に小社の本が配本されることはむずかしいのが現状です。しかし、手にとってお求めいただく機会を小社としては維持していただきたいと思っております。ただのコンテンツとしてだけでなく、手にしていただいた時の手ざわり、装幀も、書店店頭で、ご覧いただきたいと思っております。
そうしたことから、小社としては、出版流通に携わる方々への利益を確保していただきたく、小社よりの出荷掛率を低くすることを考えております。大量部数の販売が見込めるものではない小社の本ですから、ほんとうに微力ではありますが、また、小社にとっては売上減となることから、苦渋の決断ではありますが、書店・取次・出版社が共存、共栄していくことに寄与したく、以下の表明を行いました。
読者のみなさまへは、小社の出版活動への更なるご高配をいただきたく、お願い申し上げます。
(出典:https://genkishobo.exblog.jp/27534992/

「出版流通の健全化に向けて」と題されたこの声明を発表したのは、幻戯書房という中小出版社の代表、田尻勉さんだ。

「正味60%」宣言の衝撃

幻戯書房は2002年に作家・歌人の辺見じゅんが有限会社として創業した出版社だ。辺見じゅんは角川書店の創業者・角川源義の長女で、角川春樹・歴彦兄弟の姉にあたる。その辺見さんが2011年に亡くなられた後、株式会社として再スタートした際に田尻さんが経営の舵取りをとることになった。

幻戯書房代表の田尻勉さん。背後にあるのは在庫の本。

現在社員4名という小出版社である幻戯書房の取次との取引条件は、大手出版社や老舗出版社に比べると、さしてよいものとは思えない。にもかかわらず「出版流通に携わる方々への利益を確保していただきたく、小社よりの出荷掛率を低くすること」をみずから提案した。具体的には、業界で「正味」と呼びならわされている出版社からの出荷掛率を「原則60%」に引き下げるという。

個々の出版社によってこの正味は異なるが、一般的には67%程度のところが多く、好条件の出版社は70%を超えることもある。60%まで切り下げるとすると、好条件の出版社に対して卸値の段階で10%ものハンディキャップを背負うことになる。

では出版社の側が正味を引き下げることにはどんな意味があるのか。ごく単純化すると、小売段階での定価(日本の場合、出版物は再販制度のもとで定価販売が可能である)と卸値の差額が取次と書店の取り分になるのが、そこを現在より手厚くすることができる。出版流通のあり方はいま大きな変革期を迎えており、書店や取次といった流通現場は疲弊するばかりだが、幻戯書房はこうした状況に対して一石を投じたのだ。

それにしても、身を切るようなこの「声明」の真意はどこにあるのか。また発表後の反響はどのようなものだったのか。それを知りたいと思い、東京・神保町の駿河台下交差点近くのビルの2階にある幻戯書房に田尻さんを訪ねた。

「不公平」をなんとかしたい

4月2日に自社ブログでこの「宣言」を行った真意はどこにあったのか。

田尻 実はいつ言おうかと考えながら、半年ほどずっと温めていました。去年の秋ぐらいから、新刊の見本出しから搬入日までの期間を延ばされたりするようになり、そうこうしているうちにトーハンと日販が物流を統合すると言い出した。本来なら競争をすべき大手取次同士のこの決定には驚きました。

幻戯書房は販売面において既存の出版流通に依存しています。でもいまの疲弊した出版流通状況のなかで、営業職の努力でカバーできることには限りがある。ただ、うちは営業専任者を置いていないので、その人件費のぶんだけ正味を下げることができる。経営者としてのそうした判断もありました。

実際、この業界は不公平なことだらけなんですよ。さまざまな不公平があるなかで取次も書店も立ち行かなくなっているのに、その現状に対して誰も声を上げないのはおかしい。ただ他社に声を掛けて一緒にやろう、というのは談合めいてよくない。どうせ言うなら最初に言い出したほうがインパクトがあるだろう、と(笑)。

出版業界には大手と中小版元あるいは老舗と新興版元とのあいだで、取引条件をはじめさまざまな不公平な慣行が残っている。そうした構図を可視化させることが、今回の提案の一つの目的だったようだ。

田尻 それに、これは他の取材でも言っているので申し上げますが、アマゾンの問題があります。いまアマゾンが出版社に対して直取引をするよう大々的に呼びかけていますが、その条件がやはり6掛けです。でも、率直に言ってアマゾンのやり方はよろしくない。

どの出版社も、アマゾンとどういう取引をしているのかをなかなか明言しません。守秘義務があるのでしょうが、実際はけっこうな数の出版社がアマゾンと直接の取引をされている。なぜアマゾンだけを取引条件面で優遇しなければいけないのか。そこでもまた、あらたな不公平が発生することになるわけです。であれば、うちはすべての取引先に対して同じ条件で揃えよう、それも先方から言われるのを待たず、こちらから声をかけて励まそう、ということなんです。

トーハン、日販、大阪屋栗田といった大手取次からは、4月にこのブログを書いてすぐに、ありがたいお話だという反応をいただきました。取次の方々には、正味を60%に下げるかわりに取引条件の細かな部分について、幻戯書房としてはこうしてほしいというお願いをしています。現在は各社でご検討いただいているところで、そのお返事を待っている状況です。

本は高くてもいい

出版社の側から正味を下げるというのは大胆な提案だが、これができる版元は限られているかもしれない。幻戯書房から出る本は3000円台から4000円台のものが多く、比較的に価格が高い。そうした本を求める読者の顔がある程度見えているからこそ、今回のような提案ができたのではないか。

田尻 正直に言って、出し物には自信があります(笑)。でもこれは他の出版社に対しても言いたいのですが、そんなに値段を安くしなくては売れない本しか作ってないのでしょうか。現実に本が売れない以上、読者は減っているけれど、その理由は本当に「本が高い」からなのか。そういう拒否反応が読者側にある、というのは誤解ではないでしょうか。むしろ今は、マスセールスを狙って本づくりをしていてはダメな時代だと私は思うんです。

初版800部のこの本の奥付には通し番号を入った紙が貼られている。

田尻さんがこうした考えをもつようになった一つのきっかけとして、幻戯書房に入社する前に在籍した藤原書店の創業者、藤原良雄さんの本に対する考え方がある。

田尻 経験的にも、本の売れ行きを決めるのは価格ではない。だから「本は高くてもいい」と私も思います。藤原良雄さんという、良くも悪くも強烈な個性をもつ方のもとで働いたのですが、藤原書店は「本は高くてもいい、定価は目一杯つける」という方針の出版社でした。それはまさに幻戯書房の創業者である辺見じゅんがこだわったことでもあります。本を作るなら、美しい本を作りたい、装幀も凝ったものにしたい。そういう思いで出版を始めているので、本はある意味、贅沢品だという考え方があるんです。

正味を下げるという話でも、価格決定権は出版社にあり、それなりに設定すれば利益が減るわけではない。出し物が悪ければ売れないのは出版社の責任ですが、その責任を取次・書店に課すのはよろしくない。読者に負担をかけるのは本意ではないけれど、これからも書店や取次がやっていけるようでないと、業界全体がダメになってしまいます。

新刊書だけでなく、既刊書も含めて一括で6掛けにしますから、既刊書は利益がほとんどなくなる可能性もあるけれど、でもそれでやってみよう、と思います。その代わり、版元にも運賃分を負担してほしいとか、これまでの「部戻し」などのわかりにくい条件はやめて、正味という話に一本化しましょう、というのが今回の提案なんです。

こうした幻戯書房からの捨て身の提案に対して、書店や他の出版社からの反応はどうか。

田尻 私が発した言葉を意気に感じてくださって、有隣堂さんがすぐに反応してくれました。まだ取次を通しての具体的な条件までは決まっていませんが、幻戯書房のフェアをやると言ってくださったのはとてもありがたかったです。また独立系の小さな書店からも、直取引したいという動きがあります。

その一方で、出版社で明確なリアクションを起こしてくれるところは少ないですね。ある大手取次から伺った話だと、幻戯書房の取引条件であれば現状でも赤字ではないという。むしろ条件がいい出版社の赤字部分を、条件の悪い出版社が尻拭いする構図があるのが問題です。幻戯書房は出版梓会という業界団体に参加していますが、ここには「高正味」といわれる出版社も加盟しています。同業者からの反応がはっきりと返ってこないのは、どこかで反発を買っているのかもしれないな、という恐れはもっています。

〈遅い文化〉の意義

最後にやや具体的な話をうかがった。現状の定価をどの程度上げると60%という取引条件でもやっていけるようになるのだろうか。

田尻 たとえば今回、日本エッセイスト・クラブ賞をいただいたドリアン助川さんの『線量計と奥の細道』という本は、うまく行けばマスセールスも狙える可能性も秘めています。大手出版社であれば1500〜1600円という価格をつけるでしょう。でもうちでは2200円で出しました。この本の場合、正味を60%に下げたときは価格が200円程度プラスになると思います。ではこの本が2400円になったとき、読者がそれをどう考えるのか。私は、まあ大丈夫じゃないかと素朴に思うんですよ。

マスセールスを狙うような本と、学術書や趣味人的な読者に向けた本の流通は、最終的には別枠にするのがいいのではないでしょうか。もちろん、その線引きの仕方は問題になるけれど、なにか指針を出してくれれば、出版社の側で選択できる。本来は取次側からすべきそういう提案ができなかったのは、株主である大手出版社が、いまだにマスセールスを狙いたいと思っているからでしょう。

幻戯書房は新しいシリーズとしてこの夏、「ルリユール叢書」を創刊した。

田尻さんが今回行った「宣言」がもつ意味は、出版流通における取引条件の見直しにとどまらない。小規模な出版社が少部数の本を出し続けていくことができる現実的な基盤を残さないと、しっかりした本を読者に届けることができなくなってしまう、という危機感がそのおおもとにある。

田尻 今回の声明は直接的には取次や書店に対するものですが、皆さん忘れがちだけれど、出版業界というのは印刷や製本、紙屋さんなども含めてできあがっている。出版社は自分では工場をもたないメーカーですが、その部分を支える印刷や製本の人たちも立ち行かなくなりつつある。蔵書に堪える本、愛蔵したくなる本を作るというのが幻戯書房の基本的なスタンスなので、紙の本でなければできないような造本をやったりもしますが、いまでは箔押しのような手の凝った上製本をやってくださる製本所が減っているんです。

この夏、幻戯書房は新しいシリーズとして、手に入りにくくなっていた世界文学の古典的作品を集めた「ルリユール叢書」を創刊した。その「発刊の辞」にはこんな言葉が掲げられている。

膨大な情報が、目にもとまらぬ速さで時々刻々と世界中を駆けめぐる今日、かえって〈遅い文化〉の意義が目に入りやすくなってきました。たとえば読書は、その最たるものです。

読書とは「世界が変化する速さとは異なる時間を味わう営み」であり、だからこそ「人間に深く根ざした文化」である、とこの文は続く。この叢書の第一回配本は20世紀スペインの哲学者、ミゲル・デ・ウナムーノの『アベル・サンチェス』と、18世紀フランスの小説家、ネルシアの『フェリシア、私の愚行録』。どちらの著者のことも私は知らなかったが、これらに続く叢書のラインナップをみただけでもわくわくする。まさにこうした、いまだに知らずにいた古典こそが〈遅い文化〉なのだから。

出版流通の仕組みは、たんにマスセールスの商品を効率よく届けるだけのものであってはならない。効率性と同時に、こうした〈遅い文化〉を支える仕組みとしてもあり続けられたとき、本の世界はようやく活気を取り戻すことができるのではないか。幻戯書房が投じた一石がどのような波紋を広げるか、その行方には読書という〈遅い文化〉の将来がかかっている。

無名の新人が書いた地味な分野の本に、ありえないほど長いタイトルをつけて売ろうとした人文書出版社の話

2019年6月18日
posted by 仲俣暁生

ある日、いつものようにツイッターを立ち上げてタイムラインをぼんやり眺めていたら、なんだかとてつもなく長いタイトルの本についてのツイートが流れてきた。発信者はその本の版元の編集者で、題名は『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』――カギカッコを含めて60文字もある。ただ長いだけではない。一つひとつの言葉に見覚えはあるが、そのつながりがよくわからない。いったい「舞姫」と「アフリカ人」がどうつながるんだろう?

タイトルだけではまったく内容の想像がつかないので、書店にでかけたときに立ち読みをしてみた。思ったより、ちゃんとしてる――というのも変だが、そう感じた。なにしろ版元はあの柏書房である。私はアルベルト・マングェルの『読書の歴史 あるいは読者の歴史』やアレッサンドロ・マルツォ・マーニョの『そのとき、本が生まれた』のような、同社から出た書物史・出版史にかかわる硬派の人文書を愛読してきた。そんな出版社から出る以上、タイトルだけで「釣る」ような本であるはずがない。とりあえず買って帰り、家でじっくり読むことにした。

文字だけで埋め尽くされた『まいボコ』のカバーデザイン。背表紙は三段になってしまっている。

だがそれにしても、なぜこんな題になったのか――そんな疑問を感じつつ読み始めたこの本は、滅法面白かった。新人の書き手とは思えない独特の文体、引用される「明治娯楽物語」なる読み物の大胆かつ破天荒な筋書き、そして、どうやらこれらの発掘には国立国会図書館のデジタルアーカイブが大活躍しているらしい、という背景にも心が動いた。本とその著者に対する好奇心がクライマックスに達したところで、担当編集者がこうツイートしていた。

この独特の面白さをもつ本を書いた『まいボコ』の著者に会ってみたい、そして担当編集者にも、こんなに長いタイトルの本にした理由を聞いてみたいと思った。このツイートには「上京」とあるので、著者は地方在住の方だろう。この機会を逃すとなかなかお会いできそうにないので、急ぎツイッターでメッセージを送ったところ、直ちに返事があり、取材の時間をいただけることになった。

そこで『まいボコ』の著者、山下さんのことをいろいろと調べてみた。これがはじめての著書のようだが、プロフィールにいくつか手がかりがあった。「山下泰平の趣味の方法」という個人ブログをやっていること、ツイッターで@kotorikoというアカウントで活動をしていることなどだ。これらを読み込み、取材に備えた。

面白すぎる「明治娯楽物語」の世界

当日はあいにくの雨。東京駅構内の喫茶店で、山下さんと竹田さんにお会いした。オブザーバーとして、「マガジン航」の寄稿者でもある變電社の持田泰さんにも同行していただいた。持田さんは「コトリコ」名義での山下さんの活動にも、以前から注目していたという。

2017年2月に山下さんが書いた「舞姫の主人公をボコボコにする最高の小説が明治41年に書かれていたので1万文字くらいかけて紹介する」というブログ記事を竹田さんが目にとめたことが、この本が誕生するきっかけとなった。

竹田 当時、いろんな人がこの記事をツイッターでリツートしていました。一読して「面白すぎる!」と思ったと同時に、他のブログ記事も読むと、こうした知られざる明治時代の読物が他にもありそうだと思えた。そうしたジャンルについて、この人にまるごと書いていただけたら、類書のない本ができる。しかもそれをすごく面白い文章で読めると思ったんです。

山下 じつは、このブログはウケを狙って書きました(笑)。ふだんはあまりこういう書き方はしないんですが、そろそろ本でも書いたほうがいいのかなと思っていた頃だったので、こうすれば出版社が引っかかるんじゃないかと。

こうした双方にとって幸運な出会いから生まれた『まいボコ』は、いったいどんな本か。説明が難しいが、ひとことでいえば「明治娯楽物語」についての本だ。聞き慣れないこの言葉は山下さんによる造語で、明治30〜40年代に大衆に大いに読まれていたが、いまでは顧みられることのない無名の読み物の総称である。

竹田 読めば面白さはわかってもらえると思いましたが、さすがにテーマが地味だしわかりにくい。そこで、この本で取り扱う「最初期娯楽小説」「講談速記本」「犯罪実録」といったジャンルについて、本の冒頭で一通り説明していただき、それらの総称を「明治娯楽読物」と名付けたうえで書き進めてもらったんです。

たとえばタイトルで言及されている「舞姫の主人公」みたいな人物が殴られる話は、星塔小史という人が書いた『蛮カラ奇旅行』という「明治娯楽物語」だ。この本の目次をみると、「蛮骨の少年時代〜校長のはげ頭へ煙草の火」とか「狂婦人物語〜憎むべき日本紳士」といった、なんとも乱暴なフレーズが並ぶ。こうした言葉遣いについて、山下さんは「あえてキャッチーにしたんでしょうね」と笑う。こうした物語を大量に読み、その面白さをネット上で紹介しつづけてきた人だからこそ言えることだろう。

『まいボコ』著者の山下泰平さん(右)と担当編集者の竹田純さん(左)。

「生みの親」はデジタルライブラリー

この種の読物の面白さに目覚めたのは、大学時代によく通っていた京都の古書店主に、「キミはB級史料が向いているんじゃないの?」と言われたことがきっかけだったそうだ。

山下 それから、いろんなものを読むようになりました。家の郵便受けに届く広告チラシまで読んで、面白いフレーズは「抜書き」をしたり(笑)。明治時代の娯楽読物で最初にハマったのは立川文庫ですね。古本屋で復刻版を買って全部読んだとき、「これは鉱脈かも!」と思ったんです。実際に掘ってみたらとくに新しい発見はなかったんですが、そうこうするうちに最終的にここに至ったという感じです。

山下さんが「明治娯楽物語」の面白さに開眼した頃、国立国会図書館が「近代デジタルライブラリー」を着々と整備していた(現在は「国立国会図書館デジタルコレクション」に統合)。じつは今回の本で取り上げられている作品のうち、八割から九割はここで手に入れたものだという。実際に検索してみると、たとえば先の『蛮カラ奇旅行』がすぐにみつかった。

山下 それまではヤフオクでこつこつ落としていました。こういうものの相場は曖昧で、専門店で買うと一点で何万円もするものも、別の古本屋では百円で落とせたりするんです。ただ、いちいち買うのが面倒くさかった。国立国会図書館がデジタルライブラリーを公開したので、タダでいくらでも読めるようになり、ある意味、それでこんなことになってしまったのかもしれません(笑)。

こういう明治の本って、お金払ってまで読む気にはならないものなんですよ。猛烈に読みたいものは図書館に行ってマイクロフィルムで読んだりしますけど、本当に知りたいことは、狙っていたところにはなかったりする。逆に、どうでもいいやと思って読んでいるものに、「おおっ」と思わせるものがあって。無料で大量に読めないと、そういう出会いはない気がするんです。

山下さんが持ってきてくれた「明治娯楽物語」の一つ、武士道文庫の『天正豪傑桂市兵衛』。当時人気のあった「豆腐」のような豪傑が大活躍する話。

『まいボコ』の魅力は「明治娯楽物語」自体がもつ内容的な面白さだけでなく、それを語る山下さんの語り口にある。「コトリコ」名義のブログ文体にも通じる、独特の持ち味なのだ。

山下 昔から読んできたいろんなものの影響を受けていますね。たとえば山下清の日記、あの原文があるんですが、これにはずいぶん影響を受けました。もちろん「明治娯楽物語」そのものからも、めちゃくちゃ影響を受けてます。とにかく人とはちょっと違うように書こうと思っているんですよ。さらっとしたネットのふつうの文章ではなく、頭に残るような感じで書こう、って。

竹田 ただ、最初にドカッと届いた35万字の原稿には山下さんの個性がはっきり出ていたのですが、大量に読むとなると、引っかかりが多くて、ややしんどい気がしました。そこで二人で手を入れ合いながら、山下さんらしさを残しつつ、つるつると読める「人文書らしい文章」にしていったんです。

山下 編集者が直した箇所を、さらにこちらが直したりもするので、まだところどころちょっと変な文章になっていて。でもそれが気に入っているんです。たぶん一人だけだと書けなかった文章ですね。

あの手この手で『まいボコ』の魅力を伝えようと、さまざまなバリエーションの広告を作成した。

「長すぎる」タイトルの理由

『まいボコ』という本の誕生には、人知れず「明治娯楽物語」をこつこつ読んできた山下さんの個人的な活動にくわえ、それをとりまくブログやSNS、デジタルアーカイブといったネット文化の力が働いている。そこに柏書房という人文書版元の手が加わることで、存在そのものが一種の「事件」でもあるような、不思議な本となった。その「事件」性を象徴しているのが、長大で印象的なタイトルだ。これはどのようにして決まったのだろう。

竹田 かなり独断専行で決めました。最初は『明治娯楽物語の世界』といった感じで行こうとしていたんです。でも、そもそも「明治娯楽物語」自体が造語ですし、著者の名も知られていない。そのせいか、このタイトルで予告を出した段階では、書店からまったく注文が来なかった。そこで当初のネーミングの強さにあやからせていただいたら、注文がドカドカときた。タイトルはSEO対策など戦略的につけたものではなく、そうやって書店からの反応をみつつ決めていったんです。いわば怪我の功名ですね(笑)。

大胆なタイトル案に対して、社内の意見はどうだったのか。

竹田 実はもっと長くしようとしていたんです。横尾忠則さんと平田オリザさんがものすごく長いタイトルの本を過去に出していて、平田さんの本は80字、横尾さんの本は140字ぐらいある。それらを超えようとしたのですが、さすがに止められました(笑)。発端となったブログ記事のまま「舞姫の主人公をボコボコにする〜」でいいのでは、という意見もありましたが、それだとこの本はサブカル的に消費されてしまいかねない。やはり「バンカラ」と「アフリカ人」をタイトルに入れることが大事だと思いました。

サイードのいう「オリエンタリズム」という概念がまだ存在しなかった当時、西欧文明が蛮人と見下していた「アフリカ人」を物語に登場させ、明治期を象徴するライフスタイルである「バンカラ」と一緒に、「舞姫」の主人公のようなエリートを殴らせるという「明治娯楽物語」がもっていた先進性を、このタイトルでなんとか伝えたかったんです。

人文書がこんなタイトルでもいいのかなと迷いもありましたが、「明治娯楽物語」の作家たちの存在に背中を押されました。とにかく売ることに貪欲だった彼らだったら、ライトノベルやビジネス書のトレンドをなぞることや、バズった元記事に乗っかることになんの抵抗もないだろうなと。むしろ「全部盛り」の長文タイトルが、この本にふさわしいと思うようになりました。

山下 でも僕、ちょっと反対したんです。もしこの本がなにか賞を取ったときに、他の本がぜんぶ短いタイトルで、これだけが長いのはカッコ悪いな、って(笑)。

「無名の表現者」が放つ輝きへの愛着と信頼

山下さんは、いまは「明治娯楽物語」の世界から少し距離を起き、同じ時代にさかんに書かれた「簡易生活」についての本を集中して読んでいるという。

山下 当時の一種の生活法なんですが、「明治娯楽物語」と同じくらいおかしなことが書いてあるんですよ(笑)。それにけっこう実用的で、やると実際、生活がラクになる。これらの書き手はとくだん知的な人たちではなくて、ギリギリ本が書けるぐらいの人なんだけど、ものすごい工夫をして生活改良をしようと頑張っている。そういうところに、なんかグッとくるんです。はじめから傑作を書こうとしているんじゃなくて、なんというか、「偶然に人の才能が発揮されている」ようなものを見るのが好きなんですよ。

やや強引な連想かもしれないが、「明治娯楽物語」のような表現や創作物は、インターネットの世界でいま、日々生まれているといってもいい。アノニマス(匿名)だったりハンドル名だけだったりする、「名もなき者」の表現や知性を信頼するというのは、いわばインターネットの一種の文化的伝統といえる。「コトリコ」の名で長く活躍してきた山下さんには、そのような無名の者たちの営みが放つ輝きに対する、愛着と信頼があるのではないか。

そうした表現物の無私なる愛好家と、人文書出版社の編集者がタッグを組んだことで、「明治娯楽物語」の不思議な魅力を適切に伝える『まいボコ』という奇跡的な本が生まれた。出版とインターネットの文化がそれぞれの良さを活かすことができたとき、同じような奇跡がこれからも起きるだろう。そう私は信じたい。