小説の”古層”へ

2022年11月28日
posted by 藤谷 治

第35信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

10月半ばの僕のフェイスブックの記事に、仲俣さんが恐らくは何の気なしに「時代小説なんてどうですか」と書いた、その一言に自分でも驚くほど触発されて、今の僕は平将門についてあれこれ調べています。

フェイスブックでやり取りしていた時点では、僕は『将門記』を流し読みしていただけでした。ウィキペディアの将門の記事を理解するのにもひと苦労だったくらいです。今でも当時の位階や行政制度はなかなか頭に入りません。それでもなぜか熱は冷めず、先日は「将門まつり」にかこつけて、茨城県の坂東市を歩きましたし(26000歩という自己ベストを記録しました)、北関東の地図を見たり、ネット上に少なくないらしい「将門ファン」のサイトを覗いたりして、今は再び『将門記』を細かく読み返しています。幸田露伴の『平将門』は読みましたが、仲俣さんに勧められた澤田瞳子『落花』(中公文庫)は買っただけで積んであります。

完全に無知であることをいちから知るのは楽しく、調べること自体に惑溺してしまいそうですが、やはり「これを小説にするには」ということが念頭を離れることはありません。御存知の通り将門というのは比較的信用できる史実一に対して伝説が百くらいの人です。そのせいか将門を描いた「時代小説」の多くは、それら伝説を剝ぎ取り、いわば「生身の将門」を目指したものが多いようです。史実があいまいで想像の余地が大きいから、リアルに書くのもきっと楽しいことと思います。

しかし千年の時の流れるうちに猛烈に膨れ上がった伝説を、ごっそり捨ててしまうのはいかにも惜しいと思えてなりません。史実を追うのに忙しい段階ですから、伝説を調べるのはまだまだ先になりそうですが、それでも目に入ってくる「将門伝説」を瞥見すると、開いた口がふさがらぬ思いがします。怨霊伝説ばかりではありません。出生伝説、影武者伝説、為政者として、また武者としての伝説、そして死後の遺児伝説に至るまで、将門のことならどんな荒唐無稽も許されるという暗黙の了解でもあったのかと思うほどです。同じように広く語り継がれている「義経伝説」さえ、将門のそれに比べればずっとリアルでしょう。

仲俣さんは前の手紙で、僕が「とりつかれて」いる「『物語』の問題」について書いてくれました。「近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその『様式を借りて』書いてこられたのでは」ないか、というのは、面映ゆくも嬉しいご指摘でした。

明治以後の日本の近代文学が、物語をすっかり投棄してしまったわけではありません。圓朝もいたし仮名垣魯文も人気があった。しかし彼らの「物語」を重んじる態度は、「小説」を西洋列強に比肩する国家樹立に資する「文学」にしなければならないと勇む、帝大出身の学士たちによって蔑せられました。

この時に物語に代わって称揚されたのが、まさしく「自然主義やロマン主義やモダニズム」であったわけです。そして「ポストモダニズム」はというと、これはもう僕たちのカッコイイ合言葉だったわけで、意味はよく判りませんでしたが(今でも判りませんが)、資本主義社会の最先端を行くジャパニーズ・カルチャーにふさわしい逃走と脱構築の思潮、みたいな感じでした。

しかもそこでは、どうやら「物語」が「批判」されていたようでした。物語とは、語る者と語られる者が同質であることを確認しあうための装置として機能するがゆえに、果てしなく制度化されていく……。そんな風に、僕は理解していました。いや、むしろ理解しないままそんな風に受け止めてしまった、と言ったほうがいいでしょう。物語は自由の対義語に等しく、自覚しない凡庸さと紋切型に自足した言葉を再生産するだけだ。物語から解放された表現こそ「ポストモダニズム」の課題だ……。二十歳からほとんど二十年、僕はそう信じて疑いませんでした。

そういう、厳密な定義などはよく判らないままに流布された、あの頃の「ポストモダニズム」というのは――ここまで書いてきて気がついたことなんですが――、西洋文化を規範とし、既存の文化を野蛮と退けた明治の「維新」の思潮と、さして違いはなかったのかもしれません。結局それは、文学を含む人文全般が、国威発揚の一翼を担った・担おうとした、政治運動だったのです。つまりポストモダニズムとは、党派だったのです。ポストモダニズムという言葉など聞いたこともないまま80年代を生きた人たちは、言うまでもなく、圧倒的多数でした。僕はそのことにずっと気がつかなかった。

物語に対する僕のこだわり(よくも、悪くも)は、そんな「ポストモダニズム」に熱狂した自分への反省、あるいは反動から始まりました。斬新で難解で、世界文学の最先端を行くと評判だった『百年の孤独』を(ノストラダムスの)1999年に読み、それが難解でないばかりか斬新ですらないことを発見しました。それは、「むかし話」の濃密な集積によって、ひとつの村の未開から繁栄、そして衰亡までをわずか百年の時間に凝縮させた、巨大で堂々とした「物語」そのものであったのです。あの小説=物語は、今でも僕の中で衝撃波を震わせています。

その後、カルヴィーノの『イタリア民話集』やアストゥリアスの『グアテマラ伝説集』を読み、今は『今昔物語集』や義経伝説、将門伝説に目を向けています。小説や現代文学に対しても、僕はそのような目を向けているのかもしれません。それは決して、公平な視線ではないでしょう。現代文学には現代文学の役割が、それ以前の文学とは違う、なんらかの役割があるのでしょうから。

つい数日前、僕は授業で三遊亭圓朝を取り上げました。そしてついでに二葉亭四迷のよく知られた「余が言文一致の由来」も読みました。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

で、仰せの儘にやつて見た。(「余が言文一致の由来」)

学生たちの前で『牡丹灯籠』を読みながら、僕はつくづく思いましたよ。二葉亭四迷がどれだけ苦労して言文一致体をこしらえたか、その努力と成果には敬意を惜しまない。しかし二葉亭と逍遥が「人情」を小説表現の上位に置き、勧善懲悪を排斥するために「物語」を軽視し、しかし文体の模索は圓朝を参考にしたとき、彼らは圓朝の皮だけ取って身を捨ててしまったのだと。(後年の逍遥は『小説神髄』をはじめとする初期作品を「旧悪全書」と呼んでみずから否定し、馬琴をはじめとする江戸時代の読本への愛着を隠しもしませんでした)

それは社会状況の大変化に伴う、新しい文学と文体のために必要な改革宣言だったのかもしれません。また逍遥や二葉亭が始めたと言っていい「文学」とは別に、物語文学は現代にいたるまで書き継がれています。文学から物語が消滅したことはありません。

けれども逍遥が、小説の「主脳」は「人情」であり、「真を穿つ」ものであり、「ローマンス」を「奇異譚」として退けて以来(明治19年のことです)、物語は現代においてもなお、古層を保っています。それは物語がそれだけ、不気味なほど強靭である証左でもあるでしょうが、また同時に物語が、無批判に反復されているからでもあります。

物語が新しい可能性を見せてくれるとしたら、それは個々人の手による新しい創作の中にしか現れないでしょう。カルヴィーノが、アストゥリアスが、ガルシア=マルケスが達成したような創作の中にしか。これら偉大な名前にはとうてい比すべくもありませんが、僕の小説もそのような試みの隅っこにあります。この試みが果たしてどんな可能性に至るか。それは、やり続けなければ判らないのです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第36信につづく)

様式によって動き出すものがある

2022年9月24日
posted by 仲俣暁生

第34信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

暑さ寒さも彼岸までという昔からの言葉どおり、台風14号が通過した後の東京はすっかり涼しくなりました。私が仕事場にしている部屋は陽当りがよすぎて、夏の間はどんなにエアコンを強くかけても室温が30度以下にさがらず、日中はアタマをつかって考える仕事ができません。そんなぼんやりしたアタマを抱えたまま、今年の夏はコロナ禍が3年目を迎え、ウクライナでの戦争が半年も続き、そして多くの著名人が生涯を終えました。

山田風太郎の『人間臨終図鑑』を繙くまでもなく、人の亡くなり方も享年も様々ですが、死を悼む側の人の振る舞いはどんな文化でも、ある程度まで様式化されています。堪えきれない喪失感を抱く人も、実際には少しも悲しくない人も同じ様式をなぞることで、痛みを軽減したり共有したりできる――それは人類が生み出した一つの知恵かと思われます。

私自身も昨年の秋に母親を亡くし、あの震災の直前に父親を亡くしたとき以来、久しぶりに葬儀を行う立場に置かれました。さいわいコロナの波が一段落していたので、家族と親族だけの小規模な葬儀で見送れたのは幸運だったのですが、一抹の寂しさもありました。というのも、母の友人・知人は、以前には入所先のホームにたびたび見舞いに来てくれていたのですが、長引くコロナ禍のなかで体調を崩された方も多く、連絡をとること自体が困難でした。母方の親族も、健在だと思っていた伯母が一足先に鬼籍に入っていたことを知らされ、あまり縁のないイトコ同士でぎこちない近況報告をするにとどまりました。

若いころから私は冠婚葬祭がひどく苦手で、親族以外の葬式にも結婚式にもほとんど出たことがありません。それでも今回ばかりは、葬儀という形式や手順を踏むことで、自分のなかで気持ちの整理がつけられたところがありました。それこそ、昔からの「人類の知恵」に救われたのかもしれません。儀式や様式というものには、傍からは無駄や無意味に思えたとしてもそれなりの力があるということを、この歳にしてようやく思い知ったのです。

藤谷さんは一つ前の手紙で、ご自身の「内なる神」について書いてくれました。藤谷さんの小説にみられるキリスト教的なモチーフは以前からとても気になっていたので、その秘密をチラリと見せていただけたのは、読者の一人として喜ばしいことでした。とはいえ、無粋な唯物論者である私にとって、宗教とはひたすら退屈で膨大な手順をともなう様式に過ぎず、それと共存している信仰体系を「信じる」人の気持ちは、いまもって想像することができません。私自身も現世利益のための神頼みくらいはしますが、その結果がどうあれ、感謝も逆恨みもした覚えがありません。

そんな私には、信仰という側面から宗教について語れる言葉は、なに一つありません。しかし様式ということに話を戻すことができるのであれば、もう少し意味のあることが書けそうです。そう、文学表現にもさまざまな様式があるからです。

この往復書簡以外にも、藤谷さんとはSNSを介してやりとりをすることがあり、なにかの折にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読むよう強く促されました。私も「SF小説の祖」と呼ばれることもある、この作品の概要は知っていました。「フランケンシュタイン」とは、映画やその他で繰り返しビジュアル化されてきたあの「怪物」の名ではなく、その創造者となった若い科学者の名前であること、作者メアリー・シェリーは高名なロマン派の詩人パーシー・シェリーの妻であり、フェミニズム的な視点からもこの作品がたびたび議論されてきたことなどです。

この小説が書簡体というスタイルで書かれていることは、廣野由美子さんの『批評理論入門――『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)を以前に読んだときに教えられたのですが、まさにこの「書簡体で書かれている」という予備知識こそが、私をこの小説から遠ざけていた最大の要因でした。物語の本丸に入るまでが迂遠で退屈に思えたのです。

今回、私が読んだのは芹澤恵さんの優れた訳による現行の新潮文庫版ですが、ご存知のとおり、その冒頭はこう書かれています。

手紙 一

イングランド在住 サヴィル夫人机下

一九**年十二月十一日
サンクトペテルブルグにて

ご安心ください。いやな予感がする、とずいぶんご心配いただいたぼくの計画ですが、今のところ、なんら災難に見舞われることなく運んでいます。昨日、当地に到着したところです。最愛の姉上のお心を安んじることこそ、第一の任務。まずは、ぼくが元気なこと、今回の計画はきっと成功するだろうとの自信をますます強めていることをお知らせします。

当地はロンドンよりはるか北に位置します。街の通りを歩いていて、北からの冷たい風に頬を軽く打たれると、五感が引き締まり、嬉しさが湧きあがってきます。この感じ、わかっていただけるでしょうか? この風は、これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれているのです。
(以下略)

怪物のビジュアルやあらすじだけで、この『フランケンシュタイン』という物語を記憶している読者にとっては、サンクトペテルブルグからイングランド在住の「サヴィル夫人」宛に認められたこの書簡は、やや意外な導入かもしれません。しかし「この風」つまり導入の文章は、まさしく「これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれている」のですね。

フランケンシュタイン博士と彼が創造した怪物との死闘は、まさにこの「北の大地」で行われます。その目撃者であり報告者である「ぼく」の手になるこの文章は、書簡体小説という文学の様式に則っており、そしてもちろん「書簡」が求める当時の様式にも則りつつ、この小説の核心から吹き付ける「風」をも表現しています。この小説をすでに最後まで読み終えている現在の私にとって、この書き出しはとても優れたものに思えます。しかし未読の段階の私には、退屈でうんざりするような様式の始まりに思えたのです。

様式といえば、この往復書簡もそうですね。もう何年も、公開のかたちでやりとりさせていただいているこの連載は、ともに小説や文学、創作や出版にかかわる藤谷さんと私が、誰に気を遣うこともなく自由に近況報告をしあう場であって、それ自体は「書簡体による文学表現」ではありません(少なくとも、私はそう考えていつも書いています)。それでも往復書簡という形式あるいは様式をとることで、すでに一定のルールができてはいます。

たとえば、基本的に交互に書くこと、相手の投げかけた疑問や話題に応えること。一回あたりの長さもそれなりに定まってきました。なにより、ここでお互いがもちいている言葉遣いそのものが、私も藤谷さんが実際に人に会って話すときや、SNSでのやりとりとはずいぶん違うはずです。もちろん、そうした制約のある形式、様式だからこそふだんは話せない、書けないことがやりとりできるかもしれない、と思って提案したのです。

その後、私はジョージ・オーウェルの『動物農場』も、川端康雄さんの(これまた秀逸な)訳文による岩波文庫版で読みました。この作品が(スペイン市民戦争に義勇兵として従軍したオーウェルにとってはその段階ですでに明らかであり、第二次世界大戦末期にはさらに歴然としていた)ソ連の全体主義体制を根本から批判した物語であること、オーウェルの代表作とされることの多い『一九八四年』(こちらは既読でした)と基本的なモチーフを共有すること等を、私は知識として知ってはいました。

しかしこの小説は、たんなる政治的寓話ではなく、岩波文庫版では正しく副題に「おとぎばなし」が追加されているとおり、原題にもA Fairy Storyという語が添えられています。そして私は『フランケンシュタイン』を敬遠したのと同じ理由、つまり「おとぎばなし」であることを苦手として、『動物農場』を長く読まずにきたのです。

この物語との出会いを促してくれたのは、私が読んだ版の訳者でもあるイギリス文学研究者、川端康雄さんの『オーウェルのマザー・グース 歌の力、語りの力』(岩波現代文庫)という本です。ここで川端さんは「政治小説」とみなされてきたオーウェルの諸作品のなかから、マザー・グースに代表されるイギリス民衆の「唄」や生活誌を拾い上げています。政治的なメッセージを「おとぎばなし」という様式で伝えることにまどろっこしさを感じていた私は、この本でようやくこの作品の、そしてオーウェルという「小説家」の面白さに目覚めたのでした。

もっとも、一般の読者にとっては事情は逆かもしれません。事実、ジョージ・オーウェルで最も読まれている作品がなにかと言えば、間違いなくこの『動物農場』でしょう。オーソドックスな近代小説の様式ではないこの「おとぎばなし」と『一九八四年』、そして記録文学的なノンフィクション作品ばかりが長く読みつがれ、オーウェルの真面目な小説が当時もいまもさして読者を得ていないのには、なにか理由があるはずです。

メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』の元になる話を、スイスにある詩人のバイロン卿の邸宅に夫のパーシー・シェリーとともに寄寓した際、長雨に降り込められた退屈しのぎ怪談ごっこのなかで思いついた、というのはよく知られたエピソードです。メアリーはのちに職業作家になりますが、出版されたのはこの作品が最初で、書簡体小説という形式も彼女のオリジナルではなく、「実話の伝聞」という怪談の定型的な様式に、書簡体という別の様式を重ねたものでしょう。

こうしてみると、このところ藤谷さんがずっと「物語」の問題にとりつかれている理由が、私にも少しだけ理解できるような気がします。以前に藤谷さんに、小説を書く上でジャンルというものをどのくらい意識するか、とお訊ねしたことがあります。そのときは現代の小説(産業)におけるジャンルというニュアンスでしたが、もう少し文学史的に言い換えるなら、近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその「様式を借りて」書いてこられたのではありませんか。

内容ではなく、様式こそが大事だといいたいわけではないのです。しかし、たとえそこに込められたメッセージは空虚だったり、ありきたりだったりしても、様式に則ることで、何かが動き出すということがあるのではないでしょうか。フランケンシュタインが作った「怪物」とは、メアリー・シェリーが生み出した「物語」のことでした。そしてこの「怪物」は、いまも私たちを魅了しつづけているのですから。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第35信につづく)

新しい野蛮状態の先へ

2022年8月18日
posted by 藤谷 治

第33信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

降れば水害、照れば灼熱という日本の夏を、青息吐息というほどではないにせよ、息苦しく暮らしているうちに、広い社会では恐ろしい出来事が次々に起こりました。七月には元首相が選挙の応援演説中に殺害され、八月にはアフガニスタンでアル・カイーダのザワーヒリがアメリカ軍に殺害され、そして昨日(8月12日)は、ニューヨークでサルマン・ラシュディ氏が刺されました。

元首相殺害の動機は、犯人の家族が宗教団体「統一協会」(旧、だそうです)に多額の献金をしたために家庭が崩壊し、元首相がこの宗教団体と深く関わっていたことにあると報じられています。

ザワーヒリ殺害は、9.11テロの首謀者の一人としての「報復」でしょうから、これにイスラム教がどのように関わっているかは、僕には複雑すぎて、ここにあっさりと書くことはできません。

ラシュディ氏への襲撃は、かつてホメイニ師が発布した「ファトワー」が関係していると思われます。「ファトワー」とはイスラム法学者が発する布告だそうですが、僕はまったくの無知です。ラシュディ氏の死刑を宣告したファトワーが出されたのは1989年、今から33年前のことです。昨日氏を刺した犯人は、24歳だそうです。

そんなことに驚いてはいけないのかもしれませんが、僕は衝撃を受けました。日本で『悪魔の詩』の翻訳者が殺害されたのは1991年の7月で、犯人は遂に見つかりませんでした。これもまた31年前の悲劇で、今度の犯罪者が生まれる前のことです。僕はおそらく、愚かに過ぎるのでしょう。ラシュディ氏への宣告は過去のものになったとばかり思っていたのでした。

僕はいずれの事件も報道を追いかけたり、詳細を調べたりはしていません。たまたま広げたインターネットやテレビをほんの少し見るだけですが、元首相殺害犯の母親が、統一協会に申し訳ない、と語ったという報道を見かけました。

元首相殺害事件以来、政治家が「旧統一協会」を集票組織と目していたらしいことが明るみに出て、ワイドショーなどは盛んに報じているようです。政治家たちも報道も、あの団体が人々を「先祖が地獄で苦しんでいる」とか「子供に災いが降りかかる」と言って脅し、多額の献金を搾取していることを、これまでは見て見ぬふりをしていたのでしょう。あからさまな洗脳であり恐喝ですが、しかしその恐喝をしている側も恐らく、信じていた(いる)のです。あるだけの金を吐き出さなければ、その人の先祖は地獄で苦しみ続けると。

ラシュディ氏にナイフを向けた凶漢もまた、「ファトワー」は絶対であり、遂行されなければならない神の法であると信じ切っていたのでしょう。彼がラシュディ氏の著作を読み、みずから判断して凶行に及んだとは、僕は思いません。

つまり宗教とは、ある種の人たちにとっては、自己の判断の外にあるものなのです。彼らのやっていることは恐喝でもなければ殺人未遂でもなく、神に与えられた振る舞いであり、そのように振る舞う自己を彼らがどう感じているか、考えているかは、彼らにはそう重要ではないのではないかと、僕には見えます。

彼らに感じ、考えるものがあるとすれば、それは「祝福」でしょう。この世の基準でそれが恐喝であっても、殺人であっても、それを為すことによって神には祝福され、天界の座を得るのです。彼らの感情と思考は神に直結しており、現世は神意を具現化するための場所であり、その具現化は神に試みられている自分によって為されなければならないのでしょう。彼らは結局、神の触媒のつもりなのです。

僕は何をだらだら書いているのでしょう。書きながら考えているとはいえ、こんなことは仲俣さんはとうに考えつくしているに違いありません。最近仲俣さんが論じている橋本治氏は、同じことを、僕よりはるかに深刻に考察しています。

僕はどこまでも自分の頭でしか考えていないのです。大のオトナが青臭いことを申しますが、僕はデビュー作から一貫して、自分の内なる神に質問しながら小説を書いてきました。どちらかというとキリスト教らしきものをネタにしてきましたが、聖書などろくに開きもせず、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』のヨシュアとか、遠藤周作『おバカさん』のガストン君を念頭に置くことが多いです。

しかし、いくら「内なる神」にぶつくさ問いかけようと、「宗教」については何一つ理解できないんだと、最近の事件でつくづく思い知らされました。彼らの神は彼らの外にあるからです。ここで慌てて書き添えておきますが、「彼ら」とは宗教者のことではありません。「宗教」を動機とする犯罪者のことです。元首相の殺害者はこれに該当せず、殺害者の母親は犯罪者ではありませんが、宗教団体への献金によって家庭を崩壊させておきながら、いかなる法にも触れないというのは、僕には不可解です。

彼らは彼らなりに神を内面のものとしているのだ、という解釈もあるのかもしれません。しかしそれとこれとは似て非なるものです。僕が言う「内なる神」とは同時に、神は「外」にはいない、という認識でもあるからです。

神というのはまったく訳の判らないものです。何をしているのか、なんのつもりなのか、はっきりこうと答えられた人は、一人もいないんじゃないでしょうか。洗脳や恫喝、政治的な同調圧力、無反省な慣習の踏襲によって語られるのでなければ、神は「オカルト」、すなわち神秘的体験でのみ実感できるものなのでしょう。内村鑑三やパスカルのような高い知性による著作を読んでも、僕はそれを感じます。

神秘的体験は再現不可能なものであり、個人的なものです。本質的に他者と共有できるものではないはずです。誰かから神の実在について問われたら、僕ならこう答えるでしょう。いるかもしれないが、いたってしょうがないものだと。勉強しないで菅原神社に手を合わせたら試験に合格したという人はいません。人事を尽くして天命を待つというのは世渡りの真実ですが、人事を尽くさず天命にすべてを任せるのはただの愚か者です。

だから僕には宗教「団体」というのが判らないのです。僕の小説が読者の「共感」を得られにくい一因でもあるでしょう。実に多くの人間が、宗教とは(新興か古来のものかに関わらず)宗教団体のことだと思っていますから。自分以外の人間と神を共有できるとは、どう考えても思えない。駅前に立って通りすがりの人に「あなたは神を信じますか?」と尋ねてくる人間は、最近あまり見かけませんが、あんな愚問がほかにあるだろうかと思います。信じていたら、なんだ? 信じていなかったら、どうだというんだ? 「あなた」についても「神」についても何も得るところのないこんな質問が、ひところ冗談のように嘲弄されていたのは無理もありません。宗教とは宗教団体のことだと思いこんでいるから、こんな愚問が宗教者の口から出ていたのです。

恐らくこれは、旧「統一協会」におもねっていた政治家たちの目論見にもつながるのでしょう。しかしそれよりも深刻なのは、これがそもそも人間の「一人で考える」ことへの無関心、ないしは放棄に根差しているということです。一人で考えるということの難しさ、面倒臭さを、人々はあらかじめ知っているのです。一人で考えるより、誰かに考えて貰って、その人に判断をゆだね、その人につき従っておく方が、はるかに楽で「効率」がいいのです。その隷従が極端化することで、種々の、取り返しのつかない悲劇にもつながっていく。このひと月ほどの間に起きた社会的な事件は、僕にはそのように見えてしまうのです。

こうなるともはや、話は「啓蒙の自己崩壊」(ホルクハイマーとアドルノ『啓蒙の弁証法』序文)の問題で、神だの宗教だのとはかけ離れているのかもしれません。しかし「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(同)という、第二次世界大戦下に問われ、こんにちなお有効な問いの淵源には、本来なら他者と共有できない神秘体験であるはずの宗教が、なぜか同調圧力として作用し、国家の統一や敵味方の峻別にもちいられたという歴史があると思います。

こんにち宗教は、その集団性というか、団体としての性格や成立要件がひたすら問われているように見えます。僕はそこから何とかして「一人で考える」ことの重要性を、それこそ「啓蒙」しなければいけないんじゃないかと思いますが、そこまでで僕の思考は払底してしまいます。仲俣さんにこの手紙の、マーそれなりな苦悶が届いてくれるといいのですが。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信|第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第34信につづく)

井上ひさしの蔵書はその後、どうなったのか ── 遅筆堂文庫山形館訪問記 

2022年8月15日
posted by 西牟田靖

コロナ禍に入って2年以上がたち、感染状況が落ち着いてきた2022年の6月、僕は旅に出た。目的地は山形県。ここは僕にとって、ずっと心残りだった地域。47都道府県の中で唯一宿泊したことがなかった。それに井上ひさしの蔵書を収めている遅筆堂文庫をまだ訪れたこともなかったのだ。なので今回は10年越しの訪問記をお伝えしたい。

その前におさらいをしておこう。

井上ひさしの自宅の床が抜けてしまった話や、遅筆堂文庫の存在については、10年前、本連載の2回目と3回目に記した通りだ。このとき、話を聞かせてくれたのは、ひさしがまだ駆け出しだった時代をよく知っているかつての妻、西舘好子さんだった。好子さんは、連載時の取材で、床が抜けたときのこと、蔵書が増殖していくときのことを次のように語ってくれた。

昭和42年(1967年)ごろの話かしらね。市川の国分に建て売り住宅を買ったのよ。床が抜けたのはその家での話です。家の庭の一角に8畳ぐらいの書斎を建て増ししていたんですよ。大量の本を置き、仕事をしているという状態でした。パネル状の四角い建材をはめ込んで作った床が、ある日、本の重みで「ぼんっ」と落ちた。3月ぐらいのことかしら。おっこちたのは部屋の端。本棚の下あたりでした。「なんだなんだ」って書斎に駆けつけると、本を積んでいたその下の部分がこのぐらい(直径1メートル強の円)にわたって陥没してたのを見つけたの。そこには鉛のような百科事典が積んでありました。重いものを積み重ねているので、床が痛みはじめ、ゆがんでしまって、すき間が広がって、最終的には抜けてしまったんでしょう。抜けたところには本がダダダッて入っちゃってるんです。だけど、床下は空洞で空気孔があって、そこからよく蛇が飛び出すっていうんで、誰も近寄らなかったわね。お寺が近かったのよ。(以下、とくに出典のない引用は連載時の記事より)

建て売りの一軒家が土地込みで約500万円だった当時で、床の修理代に20万円ほどかかったという。今の物価が当時の10倍だとすると200万円ぐらいということになる。当時、井上家は大工をしばしば家に呼び、窓をつけさせたり、本棚を作らせたりした。

ベストセラー作家としての地位を揺るぎないものとした後、井上ひさしは千葉県市川市内の別の場所に豪邸を建て、家族と共に引っ越した。驚くのはそのスペックだ。敷地の広さは200坪、建坪120坪の豪邸で、部屋数19、トイレの数6を誇っていた。さらに蔵書家の夫の書籍を収めるために、25坪ほどの家を書斎兼図書室として建て増しした。極めたのは広さだけではない。強度も図書館並みとした。

そのときは土台から掘って、本の重みに耐えられるだけの鉄骨をあるだけ全部入れました。木造なんてとんでもない駄目だってことで完全に図書館を作るつもりでそこは作ったわけ。お金は倍かかりました。2000~3000万円かかったんじゃないですか、書庫だけで。その後レール式の書庫を入れてそこに本を置きました。

そこまでしっかり建て増しをすれば本がいくら入っても大丈夫ではないか、と思ったらとんでもなかった。それ以上に本が増えるスピードが勝った。建てて数年後には、家族の部屋の枕元まで本で埋もれたという。

「亭主の仕事部屋と、書庫。そして家族の生活する場所。初めはそれぞれきちっと決まっているわけですが、こういう調子で本を買っていきますから、本は書庫からも仕事部屋からも溢れ、廊下へ這い出し、家人たちの枕許まで窺い、インベーダーみたいに家中を占拠していく。別にもう一棟、書庫を建て増ししても追いつかない。」(西舘好子・著『表裏井上ひさし協奏曲』より)

こんなことになるのも、夥しい量の本を買い続け、しかも買った本は一切捨てないからだ。

建て増しした書庫は、最初のころは余裕があると思っていたんです。ところがそのうちに、神田の古本屋さんがトラックに本を積んでくるのよ。「こういう系統の本を探そうと思うんですよ」と電話すると、「いらっしゃらなくて結構です。こちらからうかがいます」って、山ほど積んでくる。それこそ店ごと持って来たんじゃないか、という量です。いちいち選んでる時間がないので、「じゃあ全部置いてってください」ということで、本代が何百万円にもなったんです。

二人は1986年に離婚、蔵書(その大半が古本)に埋めつくされた豪邸は売りに出されることとなった。

離婚するかしないかという時期から、ひさしは郷里である山形県の町、川西町に本を寄贈している。トラックを何度も往復させて運搬した際、数えてみると約13万冊にのぼったという。さらに亡くなる少し前の『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(2011)に掲載されているインタビューでは、約20万冊まで増えたと語っている。

いざ、遅筆堂文庫山形館へ

前置きがずいぶんと長くなった。

最終的に、井上ひさしの蔵書は22万冊にまで増えた。そのうちの約20万冊は、ひさしの生まれ故郷・川西町に1987年に建設された遅筆堂文庫に段階的に収蔵されていった。そして残りの数万冊は山形市の外れにある、遅筆堂文庫山形館に収蔵された。

僕が今回訪れたのは、山形市にある分館のほうだ。というのも同館が併設されている劇場「東ソーアリーナ」(522人収容可能)で、西舘好子さんが講演会を催す予定であることを知ったからだ。久しぶりに好子さんにお目にかかりたい。その一心で、山形館を訪れた。

「東ソーアリーナ」は、ひさしが生前、縁があったご当地の洋菓子メーカー「シベール」の社長、熊谷眞一氏が私財を投じて建てた施設だ。同アリーナに併設された遅筆堂文庫山形館は、川西町の遅筆堂文庫から2 万2 千冊の蔵書を借りて開館した。「東ソーアリーナ/遅筆堂文庫山形館/母と子に贈る日本の未来館」を紹介したパンフレットによると、次の通り。

東ソーアリーナ(旧・シベールアリーナ)と遅筆堂文庫山形館は2008年9月に開館しました。(略)作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます。1Fには親子でゆっくり本を楽しめるスペースがあり、2Fには井上さんの全著書を展示しています。(館内閲覧のみで、貸出しは行なっていません)2ヶ月に一度、トークショー「図書館トーク」を開催しています。

その他、ひさしが亡くなった後の2012年3月には、「母と子に贈る日本の未来館」が完成している。ここは、ひさしが初期の頃に脚本を手掛けた出世作の人形劇『ひょっこりひょうたん島』(NHK総合テレビ、1964年〜1969年)の熱心なファンだった伊藤悟さんが集めたものを中心に、ひさしにまつわる人々の資料が展示されている。

同パンフレットの表紙には、施設の誕生の意義や開館にあたっての決意表明が記された、生原稿の写真が用いられており、そこにはこう書かれている。

利益が生まれたときはその一部を社会に提供する。それが社会によって生かされてもいる企業の責務である。つまりどのような会社であれ一人ぽっちで立っているわけではなく、社会といっしょに生きているのだという哲学。このシベールの哲学が、アリーナ(劇場にもなる)と図書館を合わせ持つ複合施設を誕生させることになった。金もうけ第一主義と自分さえよければ良い主義が全盛の昨今には珍しい奇蹟である。

この奇蹟を一瞬の美談だけで終わらせてはいけない。だいたいそれではもったいない。例えば私は蔵書と演目を持ち寄って奇蹟が一秒でも長く輝くよう努めよう。そしてこの奇蹟が永く輝きつづけて日常そのものになり、この国に欠かせない社会共通資本になるためには、その最終最大の決め手は、みなさまの参加である。ここへ来ていただくだけで、奇蹟がわたしたちみんなの日常そのものになる。門は広く、そして大きく開かれている。

シベール・アリーナと遅筆堂文庫山形館が開館して1年半あまりがたった2010年4月、井上ひさしは亡くなった。触れると火傷しそうなほど情熱あふれる、この文面。もしかすると、彼はこのとき、自らの死期を悟っていたのだろうか。

上の引用文が記された井上ひさしの生原稿。

西館好子さんとの再会

6月26日(日曜日)の朝、遅筆堂文庫山形館のある山形市へ向けて僕は出発した。車を借りた酒田から、出羽三山や最上川を越え、会場のある山形市南部へ。さくらんぼが収穫される時期だったため、産地である山形では、さくらんぼの木を覆う、大ぶりなビニールハウスがあちこちで目立った。

会場前の駐車場に到着したのは、講演開始の30分ほど前の午後1時半。遅筆堂文庫山形館や東ソーアリーナのそばには、シベールのラスク工場があり、近くには、さくらんぼ狩りが楽しめる農場があった。

駐車場は、あらかた乗用車で埋まっていた。階段をあがると、左が東ソーアリーナ、真ん中は母と子に贈る未来館、そして右は遅筆堂文庫山形館となっていた。

ホールには地元の井上ひさしファンが高齢者を中心に集結しており、522席を有するホールのかなりが埋まっていた。平均年齢は60歳超というところ。ひょっこりひょうたん島世代なのか、それとも吉里吉里人ファンなのかはわからないが、井上ひさしの作品にリアルタイムで親しんできた人たちであることは間違いない。

午後2時、舞台に登場した西舘好子さん。目の覚めるようなオレンジ色のスプリングコートを着て、上手から登場した。ステージ真ん中の椅子と丸いテーブルがあるところまで歩いていくが、やや足取りがおぼつかない。というのも、最近まで、車椅子だったそうなのだ。彼女は昭和15年(1940)年生まれだから今年で82歳。うちの母親と同い年の後期高齢者。年齢を考えると無理もない。

「山形に入れる日がくるなんて夢にも思っていませんでした」と感慨深げの好子さん。しかしそう話す声はやや弱い。お身体の調子は大丈夫なんだろうか……などと心配していたら、そこは、下町生まれの江戸っ子。話しはじめたら、止まらなくなり、話せば話すほど元気になり、滑舌が滑らかになっていった。

離婚後にはじめた、子守唄の保存や普及をめざす日本子守唄協会(現・日本ららばい協会)での活動、シングルマザーの支援など、現在の活動について話したいだろうに、そこはグッと抑え、ここに集っている人たちが求める話を披露した。つまりそれは、好子さんと井上ひさしとの関係についてだ。2人がどのようにして出会い、結婚したか、ひさしが作家として成功するまでにどのように二人で頑張り、成功を収めたか、ということだ。さらには、なぜ仲が悪くなり、離婚に至ったかということにも話が及んだ。

1960年代から70年代にかけて二人は無我夢中だった。ひさしが書き、好子さんが資料を探したり、編集者の対応をしたりする。そうした連携によってテレビや舞台の脚本から小説まで、さまざまな名作が次々と生み出された。ときには三日三晩寝ないで机にかじりついていたこともあったという。そして、ひさしの念願だった劇団、こまつ座を旗揚げするに至った。

ところがだ。こまつ座の窓口を好子さんが担うようになってから、二人の関係はギクシャクした。劇団を回していくため、好子さんはそれまでのようにひさしを守るのではなく、好子さんからひさしにいろいろ注文する必要が出てきた。そのことが二人の関係に亀裂を生じさせた。

すべてを夫の創作のために捧げていた壮絶な結婚生活。好子さん自身は、夫に尽くすという感覚はなく、そうした状況を面白がってやっていたという。とはいえ、同居していた好子さんの両親、そして2人の間に生まれた娘たち3人のほうでは、巻き込まれたという感覚を持っていたのかも知れない。まさに、ひさしの創作を中心に、井上家はまわっていたのだ。

その点については、好子さんも思うところがあったようだ。「井上家は後悔だらけの欠陥家族」(西舘好子・著『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』より)と振り返りつつも、ひさしとの結婚生活については、達観したようなところがある。

「過去に対して悔しいとか、許さないといった愛憎は越えています」(同著より)

1時間半、話し切った好子さん。講演が始まったときとは、別人のように顔色がつやつやとしているようにみえた。

終わってから楽屋に伺うと、好子さんは弾んだ声で言った。

「シングルマザーが安心して身を寄せられる場所を作ろうと思っているの。やりたいことが他にもあるのよ。まだまだ元気でいなくちゃね」

そんな好子さんの姿に僕は安堵した。

楽屋にて。西館好子さん(左)と筆者。

大江健三郎との友情

楽屋を後にした後、遅筆堂文庫山形館を訪れた。ここは東ソーアリーナと同じフロアにある、閲覧専門の図書館だ。

さきほど記したパンフレットの文面には、「作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます」「2Fには井上さんの全著書を展示しています」とあった。

入ってすぐ左手壁面の書棚には、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の書籍がまとまっておかれていた。その棚には、同じ山形の文豪、藤沢周平の書籍や、東ソーアリーナでイベントを行ったことのある作家たちの作品なども収められていた。

なかでも目をひいたのは、大江健三郎のビニールカバーに包まれた本だ。『大いなる日に』『揺れ動く(ヴァシレーション)』『救い主」が殴られるまで』。この3作品には、次のような言葉を記した手書きの付箋が挟まれていた。

「神を定義する」「救い主が成就される日」「祈りは無力か」

ハネや止めが柔らかい文字全体が丸みを帯びた、万年筆で書かれたであろうメモが挟まれていたり、数行にわたってマーカーがひかれていたり。そこからは、ひさしの思考の形跡が垣間見えた。

大江健三郎の本にはたくさんの付箋が差しはさまれていた。

開館から2ヵ月がたった平成20年(2008年)11月には、大江健三郎と二人でこの場所に来たこともあるようで、二人が並んで映っている写真のパネルが書架の上に置かれていた。この1年5ヶ月後にひさしはガンで逝去する。このときはまだ病が発覚する前であった。

「乱読」から名作が生まれた

この図書館の特徴はそのユニークなカテゴリー分類だ。例えば「対人怖症・脳の仕組み・老人・医療」、「食物・家族」、「神話・伝説」、「野球・スポーツ」といったふうに、書棚の本が独特の並びをしているのだ。そのほか、1階で目立ったのは、夏目漱石全集、西田幾太郎全集、和辻哲郎全集などの全集もののほか、『鎌田慧の記録〈1〉日本列島を往く』や『鎌田慧の記録〈2〉繁栄と貧困』、『鎌田慧の記録〈3〉少数派の声』などの「記録」シリーズや、『蒋介石秘録』『法華経大講座』『中国の歴史』(陳舜臣)といったシリーズものだった。

2階の壁面には、井上ひさしの全著作が置かれていた。医学各種の国語辞典や古典の全集はもちろんのこと、『医学大辞典』や『科学大事典』といったさまざまな分野の辞事典、もちろん古典の全集も揃っていた。

2階の書棚全景。奥の壁には井上ひさしの全著作が陳列されていた。

どの棚からも、ひさしの思想的一貫性を濃厚に感じた。たとえば、本の並べられ方に独特の癖がある。「日本共産党の党首に担ぎ上げられそうになったことがある」というだけあり、護憲についての本や戦争反対の書籍が目立つ。並んでいる本のタイトルをみるだけで、ひさしの思想遍歴をたどっているような興奮があった。

本の状態はそこそこ保たれていて、ひさしの本の扱い方が丁寧だったことも垣間見えた。特徴としては、洋書がほとんどなく、和書、つまり日本語で書かれたの本がほとんどだということだ。

「(一緒に住んでいるとき)一ヶ月に書籍代が数百万円分かかりました。もちろん全部は読んでいませんよ」(西舘好子さん)

とはいうものの、常人には想像がつかないほどの本を読んでいたことは疑いえない。膨大な読書が、数々の名作を生み出す源泉だったのだ。

同じ世代に活躍した山崎豊子や松本清張のように、どこかに出かけて人に会って書くタイプの作家と井上ひさしは違っていた。彼が話すのが得意ではなかったということもあるのかも知れないが、それよりも資料を読むことで、物語世界を膨らませるのが得意だったからではないだろうか。

名作『吉里吉里人』は、東北地方の一寒村が突然、国として独立する話だが、これも一切取材をせずに書き上げたと、西舘好子さんに聞いたことがある。

現場に行って取材をすると、その場の持っている磁場のようなものに引っ張られがちだ。あえて現場に行かず資料を読み込むことで、現場の磁場に左右されず自分自身の描きたい世界をバランスよく作り出そうとしたに違いない。

書庫に並んだ書籍を眺めながら、僕は確信した。井上ひさしはあえて取材に出ず、資料を乱読することで、広大な作品世界を構築したのだと。


[編集部追記(8月19日)]本記事の公開後、遅筆堂文庫山形館さまより、事実関係に一部誤りがあるとの指摘をいただきました。そのため、記事の内容の一部を、公開時のものから修正しました。謹んでお詫びいたします。

文学フリマで文芸創作誌を売ってみたら

2022年6月20日
posted by 多田洋一

「マガジン航」への寄稿は約3年ぶり、2度目になります。文芸創作誌「ウィッチンケア」発行人・多田洋一です。小誌については過去に『私がインディーズ文芸創作誌を出し続ける理由』というエントリを寄せましたのでぜひご参照ください。どんなやつが、どんな経緯と思いで年1回の雑誌を刊行しているのか、かなり率直に記していますので。それで、今回は先月末(5月29日)に開催された第三十四回文学フリマ東京への出店体験記、および出版活動を続けるなかで徒然と思いが巡る「文学」についての雑感を書いてみようと思います。

*  *  *

今年も4月1日に「ウィッチンケア」第12号を発行することができた。寄稿者は前号より10人増の42名。ビジュアル(写真)とエディトリアル・デザインでは1990代半ば以降生まれの、いわゆるZ世代(ともに女性)にお任せして新しい方向性を探ってみた。2010年の創刊から基本的な枠組みは同じだけれども、制作メンバー&寄稿者は緩やかに変動し続けていて、主宰者としてはそのことに楽しさも感じている。

文芸創作誌「ウィッチンケア」第12号。

そんな私は1959年生まれ。幸いまだ町を歩いていて「おじいちゃん」と声がけされたことはないが、かなりのロートルではある。学校の国語から庄司薫〜W村上などの読書体験に移行して「自分に近しい時代感覚の小説家がいる」と感じ始めた世代。文学フリマに絡めて言えば、その発端となった『不良債権としての「文学」』(2002年)を書いた大塚英志さんはひとつ歳上だ。

当時、純文学界隈で論争があったことを知ってはいた。だが、そのころの私にとっては遠い場所でのできごとだった。当時手掛けていた仕事といえば、たとえばフジテレビの人気バラエティ番組の公式ブック『めちゃイケ大百科事典』の制作。同書は初版が10万部、番組での初告知直後に10万部増刷が決定し、以後もしばらくは書店のレジ横に山積みだったから、それなりにペイした〝優良〟な本であるとは思うのだが……。もう少し「文学」に近い仕事としては、「文藝春秋」の芥川賞受賞作掲載号に出稿されるシリーズ・タイアップ広告『メルセデスベンツで訪ねる、芥川賞、直木賞の舞台』の取材執筆を数年間担当していて、掲載された20回のうちの何度か、事前打ち合わせで作者に会うこともあった。しかし、これはあくまでも商業記事のスタッフライターとしての任務遂行業務。でもまあ、小説家の人となりを身近で垣間見られたことは、おもしろかったかな。

初回のチャレンジは惨敗……

2010年に「ウィッチンケア」を創刊し、「漫画批評」の主宰者・渡瀬基樹さんと知り合った。そのご縁で第十三回文学フリマ(2011年)ではみずから1ブース(エ-52)を確保し第2号をテーブルに積んでみた。2冊しか売れなかった。すっかり萎えてしまい、超文学フリマinニコニコ超会議2(2013年)では渡瀬さんのブースの隅っこに第4号を置かせてもらったものの、このときも数冊しか売れず。若い人たちの凝ったディスプレイや楽しそうな来客者とのやりとりを、眩しく見つめていた記憶しか残っていない。

文学フリマでは惨敗するウィッチンケア……それでも号を重ねることで、雑誌としての自力は少しずつ蓄えてきているようには思えた。よーし、じゃあもう1回チャレンジしてみようと決心したのが、第10号を発行した年の秋に開催された第二十九回文学フリマ東京(2019年)。早い時期からの寄稿者・仲俣暁生さん、木村重樹さんとの共同主宰で、1日限りの【ウィッチンケア書店】と謳い2ブースを確保(ウ-47〜48)。このときは他の寄稿者も手伝いにきてくれたりして、その時点での最新号(第10号)が20冊ほど売れた。

そして、今回の第三十四回文学フリマ東京。前回と同じく仲俣さん、木村さんと共同主宰での1ブース(ウ−1)出店。当日仲俣さんが健康上の理由でこられなくなってしまったが、寄稿者・谷亜ヒロコさんが常時手伝ってくださり……最新号(第12号)が14冊売れた。

第三十四回文学フリマ東京の会場風景。

会場をくまなく観察する時間はとれず、ざっと見て回った感想としては、やはり「ここでしか入手できない」「この日のために(正式発売前の先行販売etc.)」というプレミア感のある品揃えができたブースに、人が多く集まっていたように思えた。具体的には、「ウィッチンケア」第12号の寄稿者でもあるすずめ園さんのブース。すずめさんは今回、出雲にっきさん、せきしろさんとともに【ひだりききクラブとせきしろ】として出店(チ-25〜26)。この日に合わせて制作した『ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol2』等を販売していた。私が挨拶に伺ったさいにも数名の行列ができていて、会計とサインが間に合わない忙しさ。私のすぐ後ろに並んだ《アイドルにも詳しいYさん》が、すでに1万円札を握りしめていた姿が忘れられない。

4月1日が発売日、と決めている小誌にとって、文学フリマは本の存在を知ってもらうための場所、小誌を知っている読者や関係者との交流の場、でよいかと思っている。いやいや、もう少し知恵を絞れば、より「本を売る場所」になるかもしれず……頑張ります! SNSで「○○完売!」みたいな書き込みを見ると、やはり羨ましいです。

文学への気負いがなくなった

文学フリマの公式サイトには「3分でわかる文学フリマの歴史 – 純文学論争から百都市構想まで」という項がある。そこのリンク先には前述した大塚英志さんの『不良債権としての「文学」』が全文掲載されていて、いくつかの提案のうちの《(4)既存の流通システムの外に「文学」の市場を作る》が礎となって現在の文学フリマは存在し、その場所に私は文芸創作誌と称する「ウィッチンケア」を携えて参加している。この流れに沿って〝解答〟を導き出すと、私が2010年から続けている出版活動は、かつて遠いと感じていた「文学」の、どこか一端に含まれていることになるのだろう。

ただ、短くもなく出版業界でしのいできた人間の実感として、文学(面倒くさいので「」をとってみる)という場所はいまでも、たとえば毎月7日付の朝日新聞第2面下段に並んだ、相撲の「蒙御免」番付のような広告のなかにあるようにも感じている。今回の文学フリマの盛況ぶりを鑑みると「自分の考えは古いのかな」とも思えるのだが、なにか、自身のなかに引き摺っているものがあるのは確かだ。

じつは小誌は第2号から第10号まで表紙に「すすめ、インディーズ文芸創作誌!」というフレーズを使用していた。しかし、思うところあって第11号からは「すすめ、インディーズ」と「!」を削除した。「〜に対する」みたいな気負いがなくなって、これまで以上に身軽に動けているような気がしている。

この春の「文学フリマ」に参加した際の筆者。ブースではバックナンバーのほか、寄稿者の一人である木村重樹さんの個人誌などを販売した。

*  *  *

数年前、ひさしぶりにリアルで会った長らくの知人に「すすめ、インディーズ文芸創作誌!」が付いたころのウィッチンケア最新号を手渡したことがあった。彼は作家で、笑顔で受け取ったものの、少しページを繰って、ふと素の顔つきになり、私を慮るような口調で「なぜこんな、無駄なことをしているんですか?」と尋ねた。私は「いや、いまはこれをつくるのが楽しいんですよ」とだけ平穏に答えて、こちらから話題を逸らした。

そういう話はもう、あまり好きじゃないんですよ、正直。20年前の私だったら「失礼だな!」と言い返してバトルったかもしれないけれども、短くもなくひとつのことに熱中しているうちに、そちらでの可能性について思いを巡らすことのほうが、すっかり楽しくなっちゃって。彼なりの私への慮りは、虚心で受け止めました。

……それでも、2022年の文学フリマに参加し、あらためて大塚さんの文章を読み返してみたりして、あのときの彼の「無駄」という言葉の意味をいま考えてみている。それは私(の出版活動や創作物)だけに向けられたものなのか、プロ作家の矜持みたいなものとして「既存の流通システムの外」は認めない、という意味だったのか。真意はわからないが、受け止めた私はその両方を含んだニュアンスだったように感じていた。やはり文学はややこしいんだな。一度外した「」を戻して、「文学」については判断保留のまま、来年4月1日に発行しようと目論んでいるウィッチンケア第13号の構想を練っていきたいと思っている。