出版業界は沈みゆく泥舟なのか

2018年8月6日
posted by 仲俣暁生

まるで沈みゆく泥舟のようではないか、と思う。日本の出版業界のことだ。

このコラムは毎月、基本的に月初に公開することにしている。毎月更新される小田光雄氏の「出版状況クロニクル」や、ジュンク堂書店の福嶋聡氏の「本屋とコンピュータ」といったコラムを意識しつつ書いているのだが、これまではできるだけポジティブな話題を見つけるようにしてきた。でも今月はどうしても筆が進まず、公開が週をまたいでしまった。いまだに何を書いてよいやら、という諦めのような境地にさえなっている。

「文字もの」電子書籍は未だに紙の4%

そうした思いを抱いた理由の一つは、先月に相次いで公開された出版市場統計である。

まず、インプレス総合研究所から2017年の日本の電子書籍と電子雑誌の市場規模が発表された。同研究所の調査によると、昨年の電子書籍市場規模は前年比13.4%増の2241億円、電子雑誌市場規模は前年比4.3%増の315億円。全体として成長傾向は止まっていない。ただしこの「電子書籍」の内訳をみると、コミックが前年度から228億円増加の1845億円(構成比で82.3%)とあいかわらず市場の大半を占めている。

コミック(つまりマンガ)以外の「文字もの等(文芸・実用書・写真集等)」は同37億円増加の396億円(構成比で17.7%)だが、このうち「写真集」がかなりの割合を占めると思われるので、純然たる「文字もの」(ただし、この言い方に私は大いに違和感がある)が占める割合はさらに少なくなる。

すでに発表されている出版科学研究所の調査でも、昨年の日本の電子書籍市場の内訳は電子コミックが前年から17.2%増の1711億円、電子書籍(文字もの)が同12.4%増の290億円、電子雑誌が同12.0%増の214億円であり、「文字もの」電子書籍の市場規模はマンガの約6分の1、「紙」の書籍の7152億円に対しては未だに4パーセント程度でしかない。

2018年に入っても、この傾向には大きな変化がない。出版科学研究所が先月に発表した今年上半期の出版市場統計によると、電子コミックが前年から11.2%増の864億円、電子書籍(文字もの)が同9.3%増の153億円、電子雑誌は同3.6%減の108億円だった。「文字もの」も高い伸び率を示しているとはいえ、3810億円という紙の書籍市場に対する比率はやはり4%にすぎない。

アマゾンのKindleが日本でサービスを開始したのは2012年のことだ。インプレス総合研究所の予測では、2022年に「電子書籍」の市場は3150億円に達するとされているが、「文字もの」がそのうち15%を占めるとしても500億円に満たない。鳴り物入りの登場から10年経っても、電子書籍は「文字もの」全体の一割に満たない状態に甘んじることが予想される。これがマンガや写真集をのぞいた日本の電子書籍の現実なのだ。

文庫本はもう読書の「最初のステップ」ではなくなった

だが、こうした「文字もの」電子書籍の不調は「紙の本」が盤石であることを意味しているわけではない。「雑誌」(ただしコミックス、すなわちマンガ単行本が含まれることに注意)ほど急激ではないものの、書籍市場もまたジリジリと減り続けている。

『出版指標年報2018』によると、取次ルートによる2017年の書籍の推定販売金額は7152億円で、推定販売冊数は5億9157万冊。販売冊数が6億を割るのは1974年以来43年ぶりである。ちなみに1974年の出版点数が2万点に満たない1万9979点だったのに対し、2017年は7万3057点と3.65倍まで増えた。新刊一点あたりの販売部数は4分の1強まで減ったことになる。

さらに文庫市場がここ数年、雑誌並みに急落している。出版科学研究所の調査では、2017年の文庫本の推定販売金額は1015億円で前年比5.1%減、推定販売部数は1億5419万冊で前年比5.4%減だった。

20年前の1997年における2億5159万冊に比べて約1億冊ほど減少するなかで、刊行点数は逆に約5000点から約8000点へと増えている。つまりこの間に、文庫本の平均販売部数は約5万部から約2万部へと急激に減少したことになる。2018年上半期も文庫本は販売金額で、前年に比べ約7%の落ち込みとなっている(書籍市場全体では同3.6%のマイナス)。通年で1000億円を割り込むことは確実だ。

夏の文庫本フェアは果たして、若い世代の読者に届いているのだろうか。

ところで夏休みになると、どの文庫本レーベルも若い世代向けのキャンペーンを行うことが恒例となっている。だが書店の店頭で、はたして若い読者が実際に棚に反応しているのだろうか。こうしたキャンペーンの先駆けである「新潮文庫の100冊」が始まったのは1976年、いまから42年も前のことだ。同じやり方がいつまでも有効とは思えない。

文庫本は長いこと、若い世代にとって読書への最初のステップであり、かつ書籍市場の中核商品だった(販売部数の構成比で書籍全体の3割程度)。しかし『出版指標年報2018』によると、「書籍全体の販売部数はこの10年で1億6,385万冊減少したが、その44.6%が文庫本」だそうで、部数シェアも書籍全体の26.1%まで落ちてしまった。それでも全体の4分の1強を占めている文庫本だが、このペースで落ち続ければ販売部数もいずれ1億冊を割るだろう。

電子書籍はもはや希望にあらず?

そうしたなかで新刊書店だけでなく、ブックオフをはじめとする新古書店でも店舗の減少がどんどん進んでいく。実店舗では本と出会えず、紙から電子へのシフトも期待されたほどにはまったく進んでいない。電子書籍で買える本のバリエーションもまだ十分でない。

つまり、紙も売れなければ電子もダメ、まさに八方塞がりの状況なのだ。

もっとも新刊書が売れなくて困るのは著者と出版社、そして取次や書店だけであり、読者にとってみれば、十分すぎるほどの既刊書が――それこそ新古書店の100円棚から公共図書館、さらには青空文庫まで――すでにある。読みきれないほどの「積ん読」本を抱えている読書家も多いことだろう。だから、別に出版業界がどうなろうとかまわないではないか、と突き放すこともできる。

しかし本がたんなる消費財でも娯楽でもなく、つねに更新されていく知恵や知識、そして創作物を伝える媒体であるならば、そのための流通経路がなくなるのは、やはり困る。雑誌やマンガ、文庫といった大部数を前提とした出版物にあわせて作られてきた日本の出版流通は、いまや完全に曲がり角に来ている。しかしだからといって、しっかりした内容の本を、それを求める(潜在的な)読者に届けるための仕組みが、まったくなくていいはずがない。

いまもそれぞれの現場で(とくに石橋毅史が『本屋な日々』――近頃トランスビューから一部が「青春編」として刊行された――で報告しているような「本屋」たちによって)、本を読者に伝えるための切実な努力がなされていることは知っている。だが、それだけで本当に十分なのか。

私の考えは、こうである。まず第一にウェブを介した紙の本の流通を増やすことだ。日本ではまだ、インターネット経由の新刊書の購入が思ったほど盛んではない(市場全体の1割程度)。これが2割から3割ぐらいに増えていく必要がある。もちろん、どんな本が出ているのかわからなければネットで買うこともできないから、そのための仕組みがいる。たとえば私も運営に参加している「Socrates」は、そうした試みの一つである。

出版業界はいま、確実に少しずつ沈みつつある。それが「泥舟」であるかどうかは、とにもかくにも前に進みながら、自己改革できるかどうかにかかっている。そうしたいくつかの試みのなかで、かつて「電子書籍」もまた、一つの希望だったはずだ。だがその希望は、マンガを主なビジネスとする一部の大手出版社をのぞいて、いまだ儚いままであるように思える。電子書籍が紙の本に対して4%しか売れないという現実は、いったい何が原因なのか。作家たちの無理解か、それとも出版社の怠慢か。

かつて、国費を使って電子書籍を「緊急」かつ大量に制作しようというプロジェクトがあった。あれはなんだったのだろう、と思い返している。その成果はいまどこにあるのか。少なくとも私にとって、あの時点で「電子書籍」は夢でも希望でもなくなってしまった。

でも、そこにはまだ希望がある、と考えている人もいるだろう。私ももちろん、出版の未来(「業界」も含めて)に対して希望を感じたいと思う。今回はかなり悲観的な話に終始してしまったが、建設的反論も含めた寄稿を「マガジン航」はいつでも歓迎する。

バリューブックスは本の新しい生態系を模索する

2018年7月20日
posted by 仲俣暁生

ある程度、長いあいだ本を読んできた人ならば、一度や二度、蔵書の整理について思い悩んだことがあるはずだ。放置すれば本はどんどん増え、居住空間を圧迫する。床が抜ける心配をするほどではなくとも、このまま放置してはおけない、という局面に至るのは時間の問題である。なぜなら、日本人は滅多に本を捨てないからだ。

そのかわりに本を「売る」人が増えた。

日本の出版業界は1990年代半ばまで右肩上がりで成長しつづけた。その原動力は主に雑誌だったが、文庫や新書といった、いわば英米のペーパーバックに相当する廉価本も読者の裾野を大いに広げた。20世紀後半は大量生産・大量消費の時代であり、出版をマスマーケットに向けたビジネスに変えたといっていい。

また日本の文庫や新書、並装の書籍等は欧米のペーパーバックとくらべて印刷・造本・用紙等の品質が高く、一度や二度読んだ程度では、ほぼ新品と同様である。こうして良質な過去の出版物の膨大なストックが生まれた。

だが、大量生産されるこれらの本には「蔵書」を構成するほどの価値はない。蔵書とは、衣服でいうなら「ワードローブ」のようなものだ。ワードローブにおいては個々のアイテムが価値をもつ以上に、時間をかけて構築されたその全体が集合的な価値をもつ。その対極にあるのが、ワンシーズン限りの使い捨てで良しとするファストファッションだ(これにはこれなりの合理性もある)。そしていま多くの出版物は、ワードローブではなくファストファッションの考え方で作られている。

大量生産・大量消費・大量廃棄時代の本

「ファストファッションのような本」とは、別の言い方をすれば「生鮮食料品のような本」である。すなわち刊行直後がもっとも価値が高く、以後は一定のカーブを描いて価値が下落し、よほどのことがないかぎり再上昇はしない。したがって、手元に長く置いておく意味がない。いちど手放しても、必要になれば安価な古書を買い直せばよいのである。1991年に開業したブックオフが切り開いた「新古書店」という業態は、こうした「20世紀後半的な本のあり方」に対応するサービスとして誕生した。

一言でいえば、古書の売買というよりも「本をリサイクルする」サービスだ。リユース(再使用)可能な本とそうでないものを分別し、前者を再流通させ後者を廃棄する――廃棄までがサービスの一環なのだ。コンビニを思わせる新古書店の明るい店舗は、本を「安く買う」だけでなく、自分の本を「気楽に処分」できる場でもあった。

ブックオフを嚆矢とする新古書店のもつ意味をさらに大きく変えたのが、インターネットである。もともとネットは多品種のアイテムを揃えたロングテール型の商品に適しており、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスが最初の取扱商品として「本」に白羽の矢を立てたことには合理性があった。アマゾンが新刊書の販売だけでなく、マーケットプレイスを介して古本の販売にすぐに乗り出したのも当然だった。

じつは旧来の古書店も、インターネットへの対応は早かった。全国古書籍商組合連合会(全古書連)が加盟店の在庫を一元的に検索できる「日本の古本屋」というサイトを立ち上げたのは1999年のこと(サイトの運営は東京都古書籍商業協同組合インターネット事業部)。アマゾンが日本でサービスを開始するのは2000年11月だから、一歩先んじている。また株式会社紫式部が運営する「スーパー源氏」という同様のサービスを行うサイトも、一時はたいへんな勢いがあり、私もよく利用していた。これらは既存の古書店の在庫が横断検索でき、共通の「買い物かご」で購入できるサービス、つまり楽天市場のような「モール型」ネット通販サイトだ。

それに対して2000年代の半ばになると、より合理的な仕組みをそなえた古書販売サイトが登場しはじめる。これらの特徴は、宅配便により本の大量買い取りを行うことだった。その一つ、「もったいない本舗」は2004年に山梨県都留市で個人事業主として開業し、2008年に古本買取通販ドットコム株式会社へと法人化している。ブックオフは2007年に宅配便で買い取りを行う「宅本便」サービスをともなう「ブックオフオンライン」を開始した(神奈川県横浜市瀬谷区)。そして長野県上田市では、2005年に個人事業として始まった古書のネット販売事業をもとに2007年に株式会社化された「バリューブックス」が開業している。

これらはいずれも自社で巨大な物流倉庫をもち、買い取り査定から発送までを一元管理している。そして顧客向けの販売にはアマゾンのマーケットプレイス等、既存のプラットフォームを利用する。気がつけば私も古本(というよりユーズドブック)の購入はほとんどアマゾン経由となり、なかでも「ブックオフオンライン」「もったいない本舗」「バリューブックス」の三者は値付けも最安値をつけることが多いため、いつの間にかリピーターになっていた。

「環境」から新古書ビジネスを考える

いま新古書ビジネスは、二度目の大きな曲がり角を迎えつつある。

ここ数年、新古書店チェーンの最大手であるブックオフは、次々と実店舗を閉店させる一方で、2014年に資本・業務提携したYahoo! Japanのオークションサイト「ヤフオク!」との連携を強化している。また2013年創業の「メルカリ」がスマートフォン上で簡単に個人間売買ができるプラットフォームとして急成長しており、そこでの古書の流通も増えている。

こうしたなかで、長野県上田市にあるバリューブックスの物流倉庫を、昨年の秋に見学する機会があった。同じ上田市出身の知人の編集者が旗振り役となり、東京の出版関係者をあつめて見学を申し込んだところ、快く受けていただいたのだった。

同社を取材したいと思ったことには理由がある。あとで詳しく紹介するとおり、ここ数年、カフェ併設の実店舗やブックバスなど、新古書のネット通販にとどまらないユニークなサービスを次々と打ち出していたからだ。

上田市上田原にあるバリューブックスの物流倉庫。ここ以外にもあと二ヵ所にある。

物流倉庫には毎日2万冊の本が到着する。

上田原の巨大な物流倉庫には、連日、利用者から送られてきたダンボール箱が到着する。到着すると箱はただちに開封され、リユース可能な本と不可能な本とに仕分けされる。前者のデータベースへの登録、買取価格の査定、在庫棚への配架、受注後のピッキング、梱包、発送といったワークフローが一気通貫でなされていた。

他のネット新古書店でも似たような体制がとられているのだろうが、こうしたシステムを初めて見た私はその合理性に感嘆させられた。なかでもアマゾンでの販売価格とリアルタイムで連動する査定の仕組みには、なるほどこれがネット古書店の秘訣なのかと得心した。

バリューブックスの創業者で代表取締役の中村大樹さんは1983年生まれ。2005年に個人事業主として、専門書を中心とするセドリ本のネット販売をはじめたが、それが思いの外大きな成果を挙げたことから、本格的に新古書のネット通販ビジネスを立ち上げた。

新古書店、とりわけそのネット通販というのは出版業界において完全にアウトサイダー的存在だが、この出版不況と呼ばれるご時世にあって、バリューブックスが打ち出すメッセージはポジティブで明快だ。

彼らは自社のミッションを、このように規定している。

日本および世界中の人々が本を自由に読み、学び、楽しむ環境を整える

このなかでも「環境」という言葉がとくに重要だ。「本を自由に読み、学び、楽しむ」ために必要な「環境」(制度や仕組みと言い換えてもいい)としては書店、図書館などがすぐに思い浮かぶが、バリューブックスは実店舗も経営している。2014年には上田市内にカフェ併設の古書店、BOOKS & CAFE 「NABO」をオープン。さらに移動図書館用バスを使った移動式本屋「ブックバス」といった試みも行っている。

「環境」という言葉が「エコシステム(生態系)」という考え方と深く結びついていることは、同社のコーポレートサイトで連載されている「本の「エコシステム」の新しい1ページを求めて」を読むとよく分かる。ここで中村社長は、パタゴニアという企業のあり方に深い共感を示している。

パタゴニアは製造業だが、リユースのことまでを環境に対する自らの社会的責任と捉えている。

僕たちはリユースを本業にしているのだから、本来は僕たちの方が環境に対する配慮など深い考え方を持っているべきだ。しかし、負けていると感じていた。僕はいつも大きな悔しさを持って、パタゴニアを見つめてきたのだ。今回の旅では、この悔しさをバネに、何らかの答えを見つけたいとも思っていた。

本をリユースさせる仕組みにおいても、バリューブックスでは「チャリボン」「ブックギフトプロジェクト」といった、たんなる買い取り・販売以外のサービスを積極的に展開してきた。また2017年3月にアルテスパブリッシング、英治出版、トランスビュー、夏葉社の4社の本を対象に、売上の33%を版元に還元する提携の仕組みも開始している。いったいどんな考えでこの企業を経営しているのか、ますます関心が募った。

昨年は物流倉庫を見学後、バリューブックスが上田市内で経営しているBOOKS & CAFE 「NABO」に移動し、起業までに至る経緯や、それぞれのサービス展開について中村さんに伺った。文芸書や美術書を中心としたNABOの品揃えはしっかりしていたし、カフェスペースの雰囲気もとてもよかった。バリューブックスが行う個別の取り組みはコンセプトが明確であり、全体として社会起業家的なマインドがあることもわかる。

だが、このときの取材だけではバリューブックスという企業の経営観が、私には十分に理解できなかった。取材後も、どのような記事を書いたものかと思案したまま半年が過ぎてしまった。

上田市内にあるNABOの外観。古い紙店の店舗をリノベーションしている。

右手をまわった奥にあるNABOの入り口。入ってすぐにカフェのカウンターがあり、通りに面した部分が書店コーナーになっている。

本を動かすコストは誰が負担するべきか

そうした中で今月、バリューブックスが新しい試みを発表した。それはこれまでの新古書のネット通販ビジネスが本質的に抱える問題をあからさまにする内容を含むものだった。

7月6日から始まった新しい買い取り方針。査定額を事前にチェックできる仕組みもできた。

「バリューブックス」のサービスサイトの冒頭に掲げられた新しい方針では、送料の負担を送り主、つまりユーザーに求めている。これまでは送料無料で買い取っていたが、今後は一箱あたり500円を負担してほしいというのだ。

ショッキングなのは、その理由である。

私たちのもとには、毎日約2万冊の本が届きます。
実はそのうちの約半数、1万冊の本を、
「オンラインでの販売がむずかしい」という理由で古紙回収に回しています。
この現状に、ちゃんと向き合わないといけない。私たちは、そう思っています。

1日に1万冊、つまり単純計算で年に365万冊の本が廃棄されている。そこでバリューブックスは今回の規定変更で次のことを宣言した。

・買い取り時には1箱あたり500円の送料を負担してほしい(従来は無料)
・そのかわりに本の査定額を従来の1.5倍に引き上げる
・個別アイテムに対する買い取り価格の明細を示す(従来は合計金額のみ)
・買い取り価格のめどがわかる「おためし査定」サービスを公開する

つまり、買い取り時の物流コストを別立てにすることで買い取り価格を明朗化し、いっそうの高額買い取りを可能とする。さらに事前に買い取り価格のめどを示すことで、低価格ないしゼロ円での買い取りとなりかねない本の送品を抑制し、廃棄にまわす分を削減したい、ということである。

中村さんへの二度目のインタビューでは、このあたりの問題意識をさらに深く伺うことにした。

バリューブックス代表取締役社長の中村大樹さん。

「20世紀後半的な本のあり方」を超えて

――7月6日からバリューブックスのサービス体系が大きく変わり、買い取り時に一箱あたり500円の送料をユーザーに負担してもらうようになりました。物流危機が取りざたされるなかで、昨年にはアマゾンのマーケットプレイスでの販売時にかかる送料も、257円から350円に引き上げています。今回のサービス改定はこの流れを受けてのものですか?

中村 買い取り時に送料をいただくという今回の改定は、購入者への送料値上げとは別のこととして考えています。

これまで10年間買い取りのサービスをやってくるなかで、なるべく多くの本を生かせるよう考えてきました。アマゾンをはじめ、楽天などさまざまなプラットフォームで本を販売しているのも、少しでも多くの本をリユースするためです。ネット通販ではなかなか売れない本も、実店舗で販売したり、老人ホームや保育園などに送ることで有効に活用してきました。

しかしそれだけのことをやっても、いまだに半分くらいの本は廃棄せざるを得ないのが実情です。具体的には、一日に約2万冊ほど届く本の半分、1万冊が古紙リサイクルにまわります。

古紙のリサイクル自体は意味のあることですが、自宅で廃品回収に出しても最終的にはうちと同じルートに流れます。だとしたら、ここまで送料をかけて運んでも付加価値がでない。そこで利用者自身にあらかじめ本を選別してもらうことで、無駄な流通量を減らそうと考えました。物流コストが減った分を、買取金額アップなどの原資に充てることができるからです。

 

一日に1万冊ほど発生する廃棄本はさまざまに再活用されてきたが、それでも限界を迎えつつある。

――他方、「メルカリ」の急成長などで、インターネットを介したリユース・ビジネスも転機を迎えています。

中村 「メルカリ」やアマゾンのマーケットプレイスといったCtoC(個人間売買)はコスト構造がオープンで、売れれば比較的高値で売れるかわり、手間がかかります。もし読書家の人が手持ちの100冊ぐらいの本をCtoCで売ろうとしたら、一冊ずつ自分で値段を決めてネットに登録してずっと待ち、売れたら自分で梱包・発送しなくてはならない。そこまでの手間をかけたくない人は多いはずです。

他方、従来の「送料無料」型の買い取りサービスは簡単で便利だけれど、コスト構造がブラックボックスになっていて、買い取り不可の本が多いと査定金額の総額は高くなりません。今回のサービスは、この両者の中間くらいを狙ったものです。できるアクションは少しぐらいならするから、それを買い取り金額に反映してほしいという人へ向けたサービスなんです。

この方式がベストということではなく、選択肢としてはいろいろあったほうがいい。うちのもう一つの「Vaboo」というサイトのほうは送料無料のままです。

――事前におおよその査定金額がわかる仕組みがありますね。これはバリューブックス自身が使っている査定用プログラムの一部を公開しているのでしょうか。

中村 そうです。いまは「状態がいい」場合の金額だけを表示していますが、今後は変えていくかもしれません。事前査定しないと買い取らないというわけではないので、あくまでも参考程度にしてほしい。本をたくさん売りたい人はまず10冊ぐらい試してみて、高く売れそうだったら全部送るという判断をしてくれればいいな、と。

――ややストレートな言い方をするなら、今回の方針変更が意味するのは「ゴミを送るのはやめてくれ」ということですね。しかし買い取り価格が可視化されることで、逆に不満をもったり傷つくユーザーがいるかもしれません。

中村 そろそろ本当のことを話さないといけないと思うんです。この業界では「送料無料」「ダンボール無料送付」「高額買い取り」などと、ユーザーにとっていいことづくめのことばかり言ってきました。さらに査定額10%アップ、20%アップみたいなことも広告費をかけて年間とおしてやってきた。

そういうことをすると一時的には反応はいいけれど、現実の事業構造を考えたとき、このままでいいのかなと考えました。同業他社を挑発するという気はありませんが、ある程度、覚悟をしている部分もあります。

――そうやって新古書の流通がスリムになり、価格体系も改善されて良書がそこに流れると、新刊市場がますます打撃を受けるかもしれない、という危惧もあります。バリューブックスではすでにリユース率の高い4社の版元に対して、売上の33%を戻すという取り組みもなさっています。この対象版元を増やす予定はありますか。

中村 あれはかなり長期的なプランなんです。10年、20年というスパンで何かが変わっていけばいいと考えているので、いまのところ版元を増やす予定はありません。新刊を作っている方と古本とのルートはこれまで皆無で、一方通行のまま断絶されていました。まずそこに、細くてもいいから一本の線をつないでみた。そういう線がもっと必要になれば、自然に太くなっていくと思います。

――これから先、やってみたいことはなんですか。

バリューブックスのミッションは、シンプルに言えば、僕らが子供の頃に「本が読める自由」があったような環境が、日本でも世界でもこれからずっと続けばいい、ということ。いま僕らはそれに対して「古本」というアプローチをとっているけれど、自分たちに必要なアクションがあれば他のこともやっていきたい。新刊はアマゾンや書店さんがいるのでまったく参入の余地がないように思えていたけれど、そのあたりも徐々にかたちが崩れているので。

具体的には二つのことを考えています。まずプラットフォームに頼らなくて済むよう、自分たちで販売サイトをもちたい。もう一つは、メディアをもちたい。僕らのミッションと共通する目的に対し、僕らにはできないことをやっている人たちが世界中には沢山います。自社の取り組みだけでなく、そうした人たちの動きを伝えるメディアをもつことが大事かな、と思っているところなんです。

「20世紀後半的な本のあり方」がたどり着いた大量廃棄という現実を前に、その次の時代の本のあり方を、あるべき生態系ごと模索する姿勢から、バリューブックスのことを社会起業家的な「理念優先」の企業ととらえる人もいるかもしれない。私自身、二度目の取材をする前はそのように考えていた。

しかし、今回の話の途中で中村さんはこう言った。

中村 強いメッセージというのは、あまり好きじゃない。むしろこういう新しい機能が加わることで、ものの流れがどう変わっていくのかを見てみたい。

この言葉が印象的だった。

バリューブックスがしてきた様々な試みは、こういうことなのではないか。それまで直接つながることのなかった者同士(たとえば版元や大学と新古書)をつないでみたり、機能やパラメーター(今回の場合は送料や査定額)を少しずつ調整し直すことで、「本の生態系」のなかでどんな変化が生じるのかを、試行錯誤しつつ観察していく。その観察から得た発見を、また次の試行錯誤に生かしていく――。

バリューブックスは「20世紀後半的な本のあり方」から生まれた新古書ビジネスとしてスタートしたが、その先に向かおうとしている。「21世紀的な本のあり方」とはどのようなものか、いまはまだ誰にもわからない。しかし、それを発見するためには、どんなに不都合でも、まず「本当のこと」を話さなければならない。

これは新古書ビジネスだけではなく、出版社や新刊書店、取次も含めた本の世界全体に言えることではないかと思う。

hon.jp DayWatchの事業継続を祝す

2018年7月1日
posted by 仲俣暁生

昨年の10月に株式会社hon.jpの代表取締役社長だった塩崎泰三氏が逝去したことに伴い、同社の運営するニュースサイト「hon.jp DayWatch」をはじめとする事業の継続が困難となっていた。

そうした状況のもと、私も理事を務めているNPO法人日本独立作家同盟と株式会社hon.jpとの間で、上記の「DayWatch」事業を引き継いで継続する話が進んでいた。すでに3月15日には両社間で事業譲渡契約が締結されており、サイトの再開が待たれるばかりだったが、7月1日をもってベータ運用が始まった。

https://hon.jp/news/

株式会社hon.jp時代の記事アーカイブもまるごと引き継ぎ、さらに日本独立作家同盟理事長でライターの鷹野凌によるコラム「出版業界の気になるニュースまとめ」と「国内ニュース」、文芸エージェントの大原ケイによる「海外ニュース」が新たに始まる。当面はこの態勢でベータ運用を続け、10月1日からは本格運用に切り替える予定だ。

過去と未来をつなぐ道として

DayWatchの継続がありがたいのは、電子書籍を専門とするニュース記事の配信媒体がほかにほとんど存在しなくなってしまったからだ。2010年ごろから始まった一種の「電子書籍(をめぐる報道や出版)バブル」も一段落し、IITジャーナリズムの関心は人工知能や仮想通貨に向かいつつある。電子書籍という技術をめぐるイノベーションも一段落し、新奇性(すなわちニュースバリュー)はたしかに薄れたともいえる。

だがそれは、電子書籍をはじめとするウェブ上で閲覧される出版コンテンツが、生活のなかに定着したことの表れでもある。であれば、それらをあらためて出版産業のなかに正当に位置付け、継続的に伝える媒体が必要なはずだ。新奇性が失せたことでそれが営利事業として成り立ちにくいのであれば、非営利団体がその役割を引き受けるという流れが起きて当然である。

電子書籍や電子出版といった話題は、それが唯一ではないにせよ、この「マガジン航」にとっても重要なテーマであり続けている。しかし、この分野で起きるニュースを継続的に追い続ける根気は、正直なことを言えば、このところかなり失せていた。電子書籍のプラットフォームとして(いやそれだけでなく、ネット上のあらゆるコンテンツのプラットフォームとして)、特定のプレイヤーが強大になり過ぎ、その状況を前提に出版の今後を考えざるをえないからだ。

電子書籍はかつてはオルタナティブなメディアであったが、いまでは(ことにマンガを中心に)メインストリームになりつつある。少なくとも、大手プラットフォームの影響力を抜きにして、この問題を考えることは難しい。そうしたなかで私自身の関心は、紙の本も含めた出版全体の転換点を見定めたい、という方向に変わりつつある。

しかし、この十年ほどの間に電子書籍という分野の周辺で起こったさまざまな出来事が、今後の本の世界を考える上での基本的な土台となることは間違いない。であれば、その間のことを記録してきたメディアがそのアーカイブごと、新しい環境のもとで継続されることほど、ありがたいことはない。

紙の本の未来と電子の本の未来は、どこかで一本となると私はいまも考えている。NPO法人日本独立作家同盟の理事としてだけでなく、同じ時代を見続けてきた「マガジン航」という小さなメディアの編集人としても、過去と未来をつなぐ道として、hon.jp DayWatchが継続されることを大いに喜びたい。

マクルーハンというメッセージ

2018年6月13日
posted by 服部 桂

マーシャル・マクルーハンという名前を聞いてハッとするのは、いまではもう中高年のメディア関係者だけかもしれない。1960年代には彼の唱えた「メディアはメッセージ」などの言葉が世界中に流布して一大ブームが起き、ニュートンやダーウィン、アインシュタインなどと並び称され、ジョン・レノンも面会に訪れ、ウディ・アレンの映画にも登場し、フランスでは「マクルーハニズム」(mcLuhanisme)という新語が創られるという事態にまでなり、日本でも評論家の竹村健一氏が紹介して世間を大いに騒がせたものだが、どういうわけか数年で表舞台から消え、1980年の大晦日に亡くなった際にはほとんど報道されなかった。

ところが昨年の7月21日に突然、グーグルが記念日を祝うロゴ(ドゥードル)で、マクルーハンの106歳の誕生日を祝うという名目で、彼の顔や理論を説明するアイコンに変わった。するとネット上で「マクルーハンって誰?」という問いかけが相次ぎ、それに合わせた解説記事などがアップされ、「いまから約100年前に生まれたにもかかわらず、ソーシャルメディアやビッグデータ、ネット炎上を予想していたんですね!!」と驚く声が上がった。

©Estate of Marshall McLuhan

カウンターカルチャー時代の寵児

このマクルーハンという毀誉褒貶の多いカナダの英文学者について語ることは、実際のところかなり勇気がいる。時代の寵児としてもて囃されたにもかかわらず、当時は彼のメッセージを理解できた人がほとんどいなかったため、学者ではなくキャッチフレーズの名手に過ぎないと学会からは冷遇され、メディア業界からは面白いが意味不明だと敬遠され、カウンターカルチャーの吹き荒れた時代の流行の象徴として消費されてしまったからだ。本人も自分の理論を理路整然と説明して相手を納得させるのではなく、「私は説明しない、探究するのみ」と公言し、「メディアはメッセージ」をもじって、『メディアはマッサージ』という本まで出すなど、本気とも冗談ともつかない対応をしたので、世間は混乱するばかりだった。

マクルーハンが世相を切る言葉は、テレビが普及し始め、戦後生まれの若者の使うロック、ヒッピー、サイケ、ドラッグなどの言葉が流行し、学生運動やベトナム戦争の抗議デモが盛んになり、時代が大きく変わった中で際立っていた。経済成長によって重厚長大のモノからサービス中心の軽薄短小へ、伝統文化から若者文化へというシフトが起き、戦前の常識が通じないさまざま社会現象が起きたとき、マクルーハンの警句のような言葉が時代の本質をずばりと言い当てているように感じられたのだ。

それにまず飛びついたのは広告業界で、彼のフレーズを取り入れようと招き、続いて大企業が次の戦略を立てようとコンサルを依頼した。しかし、「IBMは計算機や事務機器ではなく情報を処理するサービスを売る会社で、AT&Tの本業は電話を売ることではなくコミュニケーションのビジネスだ」という彼のアドバイスを、当時の幹部は変わった見方で刺激的だと思ったものの、それをどう応用していいのかわからないまま放り出した。

マクルーハンのメディア理論はまず、当時普及が加速していたテレビをどう理解するかに注目したが、その頃には評論家の大宅壮一氏が、本を読む時間を奪い「一億白痴化」を招くと断罪し、世間も不真面目で低俗なメディアだと受け取っていた。ところがマクルーハンは、テレビは本のような活字メディアとは異質の新しい電子メディアで、人間を創造的で自由にすると擁護するような発言をし、テレビ関係者はやっと世界的な文化人に評価されたと浮足立ったが、「テレビはクールだ」などという言葉に、「その場では納得しても、2時間たってみると、いったい何のことかわからん」と結局は投げ出す始末だった。

そうした一見、トンデモ論のように見えるマクルーハンを物知り顔で解説すると、当時からお調子者か物好き扱いされたことは、最初の解説者である評論家の竹村健一氏の軽快な語り口に、マクルーハンの著書を翻訳したNHKの研究者の後藤和彦氏がかみついた論争などからもうかがい知れる。現在でもメディア関係者は、マクルーハンの名前を聞いて、知ってはいるが読む気にもなれず無視もできないと苦笑いするだけで、いまさら相手にしたくないという顔を決め込む人が多い。

1990年代に入るとネット時代の混乱に彼の理論が役立つことを声高に主張する米デジタル・カルチャー誌「WIRED」や、次世代の米国のインフラとして情報スーパーハイウェーを唱えマクルーハンを多々引用するアル・ゴア副大統領などが出てくることで、著書が再版されまたブームが起きた。そしてその後はまた、理屈よりビジネス優先と彼の話題は聞かれなくなったが、今年になって、ツイッターで世界に混乱をもたらしている米トランプ大統領のことを「マクルーハン的思考を実践した初めての大統領」と前主席戦略官のスティーブ・バノンが発言して注目されるなど、あいかわらず電子メディアや現在のネット世界のあり方を論じる人々の間には彼のメッセージが生き続けていることが明らかになってきた。

そういう状況で、敢えて最近のネット状況も踏まえて、マクルーハンを再度論じてみようと、最近『マクルーハンはメッセージ』という本を上梓した。メディア業界ではいまだにドン・キホーテのような扱いを受けるかもしれないが、テレビを論じている彼の主張そのものより、その方法論から普遍的なメディアの見方を学べることが多いと思ったからだ。

服部桂著『マクルーハンはメッセージ』(イースト・プレス刊)

なぜネット時代のメディアの本質を言い当てられたのか?

そもそも、マクルーハンは何を主張していたのだろうか? 簡単に言うと、まずわれわれの社会を作っている基本はメディアであり、それは魚にとっての水のように、意識されずに社会全体のあり様を支配しているということだ。彼にとってのメディアとは、人間が自分の意思を外に向かって表現する手段すべてを指し、話し言葉から始まり、それらをより効率的に伝えるための文字や書物、ラジオやテレビなどのマスメディア、手足の動きを強化する道具やファッション、自動車などの交通手段も含むテクノロジー全般を指していた。

メディアの歴史を振り返ると、中世まではほとんどのコミュニケーションは話し言葉で行われていたが、15世紀半ばにグーテンベルクが活版印刷を発明すると、書物の普及によって文字を読む視覚中心の社会が形成され、合理的で科学的な思考が発達して近世から近代へと時代が移った。ところが19世紀になって、電信や電話などの電子的なメディアができることで、また聴覚中心の文化が復活して、中世以前のような世界が地球規模で展開することになる。

マクルーハンはそれを「グローバル・ビレッジ」、つまり地球規模の村と呼んだが、現在ネットでつながれた世界は、まさに70億人規模の村のようにウワサが飛び交い(フェイクニュースやデマや炎上)、物々交換のような個人取引(ネットオークションやメルカリのような物販)が当り前となり、プロとアマがはっきり分かれておらず(誰もがすべてをこなすプロシューマーとなる)、ウィキペディアのような集合知的なコラボレーションが登場するなど、一見、近代以前の村社会のような様相を呈している。

インターネットの空間は、全体が見わたせない超巨大な劇場空間のようにも思える。その中にいると突然どこかから人の声が聞こえてきて、その声にまた反応する声が鳴り響く、まるでエコーチェンバーのような世界でもある。こうした電子メディアの聴覚的な性格を、従来の視覚的な整然とした論理で切っても混乱するばかりだ。

マクルーハンは電信というネットワークによって生まれた近代の新聞を、まず電子メディアの代表として取り上げ、「地球のいたるところから同時的に情報を集めることを可能にすることによって、モザイク的で、同時性という本質的に聴覚的な性格を帯びるようになった」と指摘している。そしてまた、「新聞とは地域に参加する人々の集団的な告白形式だ。本は〈視点〉を持つ、個人の告白形式だ」とも述べる。つまり新聞は本に電子メディア的な性格を付加することで、はっきりした視点よりも共同体的な多様な声の集まりのようなものになったわけで、そういうメディアに理路整然とした一貫した視点を維持させるのは難しいとも指摘している。

こうした「電子メディア化した本」としての新聞のあり様は、近年のソーシャルメディアのもたらしている混乱と似たものがあった。新聞が電信や電話を使って、世界中から集めた情報を切り貼りして並べたように、いまでは個人のつぶやきや現場からの声がそのまま巨大な紙面のようなネット空間に並べられ、世界中に拡散していく。フェイクニュースもこうした中心のはっきりしない情報が、きちんとチェックされないまま広がってしまうことによって起きた問題の一つだろう。

ネットなどのメディアにどっぷりつかったわれわれがメディアを正面から論じることは、魚が水の存在を意識するぐらい難しく、新しいアプリの出来不出来やフェイクニュースなどの現象を批判していても全体像は見えてこない。マクルーハンはかつてパスツールが細菌という目に見えないミクロな存在を前提に治療しようとして、マクロな症状しか見えない仲間の医者に拒絶された例になぞらえて、メディアを論じるのにもそれを成り立たせている原因から理解しないと、それによって起きた現象をいくら批判しても何もわからないと論じた。

メディアとは、二人の人が向かい合っている間隙がツボの形に見えてくる「ルビンのツボ」の錯覚のような、通常は意識されないわれわれのリアリティーの背景にあるものだ。潜在意識を理解せずに人間の心理を本当には理解できないのと同様、社会の潜在意識ともいえるメディア自体を理解せずに、現象ばかり追っていても問題の本質は見えてこない。

電子メディアが聴覚的で中世的な感覚を取り戻すと論じるマクルーハンの言葉から、何を読み解くべきなのだろうか? 産業革命以降のテクノロジーの進歩によって、19世紀以降ひたすら効率向上や市場拡大のパラダイムで肥大してきた現在の社会は、ネット時代になっても政府や組織の問題が起きた時の対応を見ていると、トップダウンな思考がまかり通っている。むしろ時代は、20世紀までの進歩の幻想から目を転じ、本来人間が持っていたいろいろな可能性を取り戻す段階に来ているのかもしれない。AIやIoTが支配するネットの次の世界は、さらにピカピカのロボットが支配する世界というより、われわれ個々人が過去に忘れてしまった豊かさを取り戻すチャンスと考えたほうがいいのではないだろうか。


【トークイベント開催のお知らせ】

「マクルーハンからみえるメディアの未来」
服部桂 × 松島倫明 トークイベント

『マクルーハンはメッセージ〜メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス) の刊行を記念して、6月21日に青山ブックセンター本店(東京)でトークイベントが開催されます。

日程:2018年6月21日 (木)
時間:19:00~20:30(開場18:30)

登壇者は著者の服部桂さんと、「WIRED」日本版の新編集長に就任した松島倫明さん。詳細は以下のリンク先をご覧ください。
http://www.aoyamabc.jp/event/mcluhan/

 

ロジスティックス革命と1940年体制の終わり

2018年6月4日
posted by 仲俣暁生

「マガジン航」のエディターズ・ノートは毎月1日に公開することにしているのだが、今月はどうしても考えがまとまらないまま最初の週末を越えてしまった。理由はほかでもない、出版物流の限界がはっきりと露呈してきたからであり、それを前提とした出版産業の未来をポジティブに考えることが難しいと思えたからである。

取次自身が認めたシステム崩壊

出版関係者の多くが読んでいると思われる二つのネット連載が、この問題に触れている。まず小田光雄氏の「出版状況クロニクル」は6月1日の記事(第121回)で「新文化」(4月26日付)や「文化通信」(5月21日付)などが伝えた大手取次のトーハン、日販の経営者の生々しい発言を紹介している。

「出版業界は未曽有の事態が起こりつつある」(トーハン・藤井武彦社長)
「取次業は崩壊の危機にある」(日販・平林彰社長)

こうした大仰な発言の背景にあるのは、取次という出版流通ビジネスの屋台骨となってきた雑誌とマンガが、電子メディアへの急速な移行によって書店でモノとして販売される必然性が失われ、これまでのような全国一律の大量物流を次第に必要としなくなりつつあることだ。

先月のエディターズ・ノートで「漫画村」騒動に触れた際に私はこう書いた。

大手出版社がここ数年、積極的に取り組んできた電子マンガ事業は、紙の雑誌やコミックスを前提としてきた従来の出版流通システムを、インターネット上に付け替えようとする一大プロジェクトだったといえる。

喩えて言うならば、これは江戸幕府が行った利根川の流れの付け替えに匹敵するほどの巨大なプロジェクトだったのではないか。元和7年(1621年)に始まった利根川東遷事業は、それまで江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた利根川本流を、はるか東の銚子岬の方向に付け替えるという、日本史上空前の国家的な土木事業だった。

「マンガの電子化(できうることなら雑誌も)」は、少なくともマンガ週刊誌を発行するような大手出版社にとって、利根川東遷と同じくらい死活的な「事業」だったはずだ。そうでなければ「漫画村」の騒動のなかで「数兆円規模の被害を受けた」などという言葉が、軽々しく公式サイト上に載るはずがない。ましてや国がここまで口出しをするはずもない。

しかし、もしそのような「付け替え」がすっかり完了したならば、干上がるのはマンガや雑誌の物流と小売を担ってきた取次と書店だけではない。マンガとはまったく関係のない書籍流通のあり方までが、大きな影響を受けざるをえない。

日本経済新聞の6月2日の記事(「出版取次、苦境一段と日販、出版社に物流費転嫁トーハンは経営陣刷新」)では、日販の平林彰社長は「雑誌に依存した取次業は誇張ではなく崩壊の危機にある。書籍は30年以上赤字が続き、事業として成立していない」と発言したとされている。

日本の近代的な出版流通システムは、大量部数の雑誌(すでに戦前の段階で大日本雄弁会講談社の「キング」などの百万部雑誌が存在した)を全国津々浦々まで届けるために形成され、そこに書籍が乗るというかたちで発展してきた。欧米のような書籍独自の流通システムを欠いているという特殊性があるのだが、むしろそのおかげで日本の書籍は、世界的な基準からすると大幅に安い価格で消費者に供給されてきた。

書籍単体で流通を行った場合とくらべ、雑誌との一元流通は低コストで済むことが利点だが、言い換えればマンガを含む雑誌の大量流通に書籍がパラサイトしてきたとも言える。そして寄生先がなくなったときのことなど、まるで考えられていなかったのだ。

日本経済新聞の記事では、ある大手出版社の幹部の「単価が高い単行本の定価を積極的に引き上げ、安価な文庫の値上げも検討したい」という言葉が紹介されている。昨今の物流危機を反映して運送代が高騰していることの現れか、それとも流通マージンの見直しまで視野に入れた発言なのかは、これだけでは判断がつかない。だが、たんに運送費を価格転嫁して値上げをしたのでは、消費者が背を向ける結果に終わるだろう。

なにより単行本はともかく、文庫や新書は事実上の「定期刊行物」であり、大量に製造販売するからこそ廉価にでき、また廉価だからこそ大量に売れたのだ。この両者はマンガや雑誌と同様、最優先でデジタルに「付け替え」を行うべきだったのだが、いまや遅きに失した感がある。

アマゾンが達成したロジスティックス革命の意味

小田氏の記事の少し前に更新されていた、ジュンク堂書店の福島聡氏の連載コラム「本屋とコンピュータ」の188回では「現代思想」3月号の「特集 物流スタディーズ」が取り上げられていた。

私が福島氏のこの記事を読んだのも6月1日のことだ。一読後、今月のエディターズ・ノートはぜひこの「特集 物流スタディーズ」を読んでから書きたいと思い、すぐにアマゾンで「ポチった」。Kindle版で買えばすぐに読めたことにあとで気づいたが、紙の雑誌が届くのを待っていたため記事の更新が遅れてしまったのだった。

アマゾンを筆頭格とするEコマースの台頭により、あらゆる分野で小売業が壊滅的な打撃を受けている。そして従来の物流――というより、ロジスティックス=兵站と呼ぶほうがふさわしい――のあり方そのものが根本的に変わりつつある。この特集はそうした状況をビジネスの当事者やジャーナリスト、さまざまな分野の研究者の知見をあつめて掘り下げた好企画だった。

この特集には元「ワイアード」日本版編集長・若林恵氏とファブラボ・ジャパン発起人の田中浩也氏(慶應義塾大学教授)の対談「グローバルとローカルをつなぐテクノロジーの編集力」が掲載されており、この対談については福嶋氏が先のコラムでもその勘所を引用している。このほかにも神楽坂で「かもめブックス」を経営する校正会社・鷗来堂の代表取締役である柳下恭平氏の「誰でも本屋をつくることができる仕組みをつくる」など、出版ビジネスと関わる記事が見られた。

だが、この特集を読んで痛感するのは、むしろいま起きている巨大な変化を出版産業特有の歴史的文脈から切り離してみることの必要だ。ようするにアマゾンを「ネット書店」や「電子書籍ビジネス」のプレイヤーとみなすような思考法から離れることだ。

この特集の巻頭に置かれた大黒岳彦の「〈流通〉の社会哲学」には「アマゾン・ロジスティックス革命の情報社会における意義」という副題がつけられている。まさにアマゾンが行いつつあるのは「ロジスティックス革命」であり、出版業界における破壊的イノベーションにとどまらない。

2010年前後から日本でも吹き荒れた「電子書籍」をめぐる議論のほとんどは、いま思えば徒労だった。「紙の本か、電子の本か」といった神学論争が延々と繰り返されている間(そんなことは読者が決めればよい)に、アマゾンもグーグルも電子書籍にはすっかり興味を失ったようで、その後は技術的なアップデートがほとんどなされていない。この間に彼らが優先的に投資したテクノロジーは、ドローンであり、自動運転車であり、音声認識であり、深層学習を土台にしたAIである。

なかでもアマゾンはロジスティックスの革新に本腰を入れており、物流倉庫用の自走ロボット・システムを開発したKiva Systemsを2012年に買収しアマゾン・ロボティクスとして傘下に収めた。ドローンによる宅配をイメージしたPrime Airは法規制もあっていまだにデモ段階にとどまるが、音声認識技術Alexaを実装したechoはすでに商品として投入され、消費行動を変えつつある。アマゾンがこれまでのロジスティックス全体を塗り替えようとしているなかで、日本の取次はせっせと非採算の書店チェーンを買収している。彼我の認識と行動のレベルは、先の大戦末期のB29と竹槍ほどにも桁違いというしかない。

1940年体制の「外」に新たな生態系をつくる

誤解を恐れずに言えば、日本の出版流通は、基本的に「1940年体制」(野口悠紀雄)から大きく変化していないように思える。「1940年体制」とは当時の総動員体制に由来する統制的な社会システムのことだが、日本の戦後の出版流通システムは戦時体制下の1940年にそれまでの多様な出版流通を統合した日本出版配給(日配)に直接の起源をもつ。

取次大手の日販、トーハンをはじめ、ここ数年でほぼ壊滅状態となった中堅取次の多くは日配が戦後に解体されてできたものだ。交通網や物流倉庫のシステムは格段に進歩したとはいえ、彼らの出版流通の基本的な思想は、30年どころかほぼ80年にわたり、ほとんど変わっていない。それは「津々浦々の消費者に適切に配給する」という統制経済的な考え方だ。

他方、アマゾンのロジスティックス思想である「顧客第一」は、単なる安売りや便利さの追求ではない。アマゾンはまず圧倒的に大量の品揃えを顧客に示し、さらに個々のアイテムの仕様や評判を「情報」として提供する。その上で購入の(ポチる)瞬間と、モノとしての商品が到着するまでのタイムラグを、限界まで少なくするようにシステムを設計している。これがアマゾンの「顧客第一」の本当の意味なのだ、と大黒岳彦氏は「現代思想」の特集で論じている。この指摘には目から鱗が落ちた。

日販の社長がいまごろ「マーケットイン」と叫んだところで、アマゾンに勝つことはできない。そもそも本はプロダクトアウトであることにそれなりの必然性がある商品である(したがって「ロングテール」にもなる)。しかもそんな本という商品でさえ「顧客第一」で効率的に届ける仕組みを、すでにアマゾンは作り上げてしまった。

それでは、出版にもう「未来」はないのだろうか。私はそんなことがいいたくてこの文章を書いているのではない。むしろ逆である。

ここ数年、出版業界団体に属さない、ひとり出版社や小さな出版社がいくつも創業している(それに比べて、オリジナル企画で勝負する「電子出版社」はどれだけ登場しただろう?)。そうした出版社の本を扱う小規模取次も、小さな独立書店も次々と登場した。「現代思想」の特集で発言している鷗来堂の柳下氏が企画・運営する「ことりつぎ」もその一つだ。

東京・下北沢の本屋「B&B」や神保町の神保町ブックセンターwith IWANAMI Books、青森県八戸市の八戸ブックセンターといったユニークな書店や図書関連施設の運営にかかわりつつ、独自の出版活動もはじめたnumabooksの内沼晋太郎氏が上梓したばかりの『これからの本屋読本』でも、こうした昨今のさまざまな周縁的な動きが紹介されている。

彼らはアマゾンと同様、現在のインターネット環境を前提に、1940年体制から完全に抜しきれていない日本の出版業界の「外」に新しい本の生態系をつくろうとしている。戦後生まれの出版社、角川書店に起源をもつKADOKAWAが埼玉県所沢市に本社移転を計画しているのも、そうした動きの一つとしてみるべきかもしれない(そうであってほしい)。

「紙かデジタル」か、という問いがいま思えばまったく偽の命題だったように、「アマゾンか、さもなくば死か」という二者択一も私には偽の命題に思えてならない。出版界が最優先でしなければならないのはアマゾンへの対抗ではなく、まずもって自分たちの古い衣を脱ぎ捨てることではないか。

土俵際へと追い詰められつつある大手出版社や大手取次は、若い世代のなかから起きている出版再生の動きと連携し、20世紀的な(=「総動員体制的」な)ビジネス慣行からの脱皮をはかってほしい。