人類に必要な物語のために

2020年4月8日
posted by 藤谷 治

第22信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣様

ある程度きちんと日付を書きながらでないと、この話は複雑な印象を持たれてしまうかもしれませんから、煩わしさをこらえて読んでください。

2月29日の土曜日に、僕は青森県の八戸でトークイベントを行いました。当時――と書かなければなりません。これを書いているのは、まだ4月の2日だというのに――、まだ八戸どころか青森県全域に、新型コロナウイルスの罹患者は出ていませんでした。前日の28日だかに、クルーズ船の上客であったらしい仙台の人にウイルスの陽性反応が出たという報道があったのを覚えています。それが東北地方唯一の罹患者でした。……当時は。

もっと楽しい気分で来たかったですよ、と、開口一番、僕は八戸のイベント主催者に言いました。イベントの規模は、もともと小さいものでしたが、さらに縮小したようでした。とはいえその頃の八戸に、ウイルスへの警戒心はさほどなかったと思います。御存知の通り、八戸は夜の社交が盛んなところで、人口に比較した飲み屋の軒数が非常に多いと聞きました。実際、屋台村に軒を連ねた小さな店は、土曜日ということもあってどこも満員でした。

夜に打ち上げがあるのは前もって知っていたので、その日は一泊して、日曜日の夕方まで八戸線にでも乗って遊ぼうか、などと考えていたのですが、翌3月1日の早朝に、妻からのメールがあり、入院したと知りました。もちろん僕は予定を切り上げて帰京しました。

腸炎でした。かかりつけの医者から貰った抗生物質が合わなかったようです。中核病院で妻は、一週間以上入院しなければなりませんでした。

この入院はなかなか厄介でした。妻は身分不相応な個室を与えられましたが、見舞いは一切禁じられていたのです。個室も面会謝絶も、妻の病状とは無関係の「コロナ対策」でした。3月1日は日曜日で病院は外来を休んでいたし、夫である僕が「出張中」だったという事情も病院は知っていたので、最初の日だけは病室に入れたのですが、どうやらこれは病院側の「人道的判断」にすぎなかったようです。

緊急入院でしたから、妻は何も持っておらず、入り用なものがあれこれあります。着替えや薬を僕が持って行くわけですが、持って行っても病人の顔も見られず、ナースステーションで看護師に荷物を渡して、意に添わぬとんぼ返りをしなければなりませんでした。まったく些細なことですが、いい気分のものではなかったです。

10日の火曜日に退院しました。この日は劇作家の別役実氏がお亡くなりになったという報道のあった日です。別役実は僕の青春時代に多大な影響を与えた作家ですが、その話をすると焦点がブレますから割愛します。妻の様子は退院後も決して良くありませんでした。それだけでも困るのに、今度は僕が13日の金曜日に激痛に襲われました。恐らく結石だろうと思われました。5年前にやはり石ができて、ひどい目にあっているのです。その時に石を取り出して貰った総合病院に駆け込んだところ、案の定結石でした。痛み止めを貰い、これはさいわい、23日の月曜未明に尿と一緒に出てくれました。

僕のはただ震えるほど痛いというだけで大したことはなかったのですが、妻の方はそういうわけにはいきませんでした。かかりつけの病院から紹介状を貰って、名医がいるという総合病院へ電車を乗り継いで行きました。

待合室には、果てしなく老人たちが座っていました。体育館でもこんな広いところはめったにないと思われるスペースに、身体の悪い人たちがびっしりと、背中を丸めて自分に渡された番号が掲示板に出るのを待っています。待たされること5時間、金を払うまで半時間、薬が出るまで半時間。医者がいい人だったのと、コロナを警戒してなのか電車が比較的すいていたのと、道端でばったり東直子さんにお会いできたことだけが救いでした。

「これが『普通の病院』のありようなら、最近よく聞く『医療崩壊』になったら、どうなってしまうんだろうね」

果てしない待ち時間のあいだ、できるだけほかの患者と距離を置きながら、僕は妻にそんなことを呟きました。

……仲俣さん、これが僕の「私的な声」です。私的な声こそを読みたい、とお手紙にあったので、一筆書きに書いてみました。

小説は私的な声から始まります。始まるはずです。さきのお手紙の中に、「ポストモダニズムが理想とした小説のあり方」を、「それ自体が批評で(も)あるような小説」と要約されているのを見て、僕は自分が、二十年のあいだポストモダン小説や批評に没頭したあげく、そこから決別しなければ自分の小説は書けないと思い定めた、あの苦しい(とても苦しかったです)方向転換の年月を思い出したのです。僕はずっと、自分の感じているもやもやしたものを、うまく言葉にすることができませんでした。

日本のポストモダン文学者たちの多くは、60年代の学生運動を何らかの形で経験した世代でした。80年代に現れた彼らの「実作」は一見すると斬新で、欧米の文学事情や思想事情に詳しく、しかし古風なインテリ然とはしていない、軽やかなステップを踏むがごとき文学でした。

けれどもその内実は、成し遂げられなかった革命への郷愁と「制度」への怨恨、そして現代社会への失望と軽蔑に満ちていたのです。彼らはそれをそのままに表現してしまえば、彼らよりひと世代上の「左翼文学」と大差ないものになるだろう、そしてそれはバブル時代の世情にそぐわないだろうと判断したのでしょう。結果として日本のポストモダン文学は、「革命(青春や怨恨がここに含まれます)」や「高度資本主義(軽やかさやサブカルチャー)」に裏打ちされた、「歴史の終わり」にふさわしい文学として、インテリ層に受け入れられました。

まさしくそれは「それ自体が批評で(も)あるような小説」だったのです。そしてそれは、文学に向かっていく動機としてはありうるかもしれないが、小説を成り立たせる根本には、本来的に目的がずれている、と当時の僕は、もやもやと感じたのではないでしょうか。小説が「それ自体が批評で(も)ある」ことを目指して書かれるなどということは、本当はありえない。小説の制作技術によってそのような小説は出来上がるかもしれないが、小説としてその動機は嘘なんだ、と、僕は苦しく思い至ったのだと思います。

「それ自体が批評で(も)あるような小説」には、もうひとつ別な理論的(?)援護がありました。物語批判です。蓮實重彦氏の『物語批判序説』や『夏目漱石論』『大江健三郎論』といった一連の批評は、単純な物語批判ではありませんでしたが、しかしその後の『小説から遠く離れて』などを見ると、やはりそこには単純な物語批判も含まれてはいたのだ、と思います。単純な物語批判とは、要するに物語の因数分解でした。小説から「双子」「依頼」「宝探し」といった因数を探し出して、そこからあれこれの小説が持つ構造の類似性を論じていくのです。因数分解をして、どうなるか。どうにもなりはしないのです。そのようにして蓮實氏は、小説がまとっている「深さ」という偶像を破壊して、軽やかな振る舞いの方へ小説を解放したのでしょう。物語批判をはらんだ批評的態度は、その後の批評家たちの中にも、小説への皮肉や反措定のような形で散見されたものです。

しかし僕は、人が物語を批判するのはいいことだけれど、物語とはそのようなものではない、と、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んで気付いたのです。密林の開拓や子どもの予言、男たちを惑わす少女や栗の木に縛られた老人といった物語は、因数ではなく、陶酔の源泉なのです。

そしてそれは、「私的な声」と矛盾するどころか、「私的な声」そのものなのです。久米正雄は私小説至上主義の宣言として「『戦争と平和』も『罪と罰』も『ボヴァリイ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎない」と書いたそうです。一方でフローベールには、ボヴァリイ夫人は私だ、と言っている。どちらも正しいのです。新聞の三面記事から発想して数年がかりで書き上げた、フローベールの実人生とは縁もゆかりもない物語『ボヴァリイ夫人』は、その全編がフローベールの「私的な声」です。それを私小説至上主義者も、ポストモダニストたちも、物語批判論者も、直視はしなかった。僕はそう考えています。

物語が「私的な声」によって書かれるとき、初めてそこに小説はあらわれるのです。小説の可能性を考究し尽した偉大な小説家、ウラジミール・ナボコフ、スタニスワフ・レム、大江健三郎といった小説家たちは、そのような小説をばかり書いたのです。ナボコフは幼女への性愛衝動を持っていたわけではありませんし、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性」について「批評で(も)あるような小説」を企図しただけでもありません。ナボコフは、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性、という物語」に魅了され、惑溺し、誰よりも陶酔したのです。『ロリータ』の「批評で(も)あるような」側面については、ナボコフ自身があれこれ語っていますが、そんな側面はあのグロテスクで滑稽で悲劇的で哀切な小説の、ごくごく一部分にすぎないことは、あの小説を読めば明らかです。

これだけ書いて、ようやく仲俣さんの「『新しい批評家』の多くが、『小説』を批評のツールとして再発見して」いることをどう考えるか、という問いかけに、お答えすることができます(すでにここまで書いたことで答えているのかもしれません)。僕は「新しい批評家」たちが(示し合わせたわけでもないでしょうに)次々と小説を発表していることは知っていますが、その殆どを読んでいません。だから擁護するつもりもありませんが、優れた作品もきっとあるでしょう。ただ、「『批評のツール』として書かれた小説」には、批評家が書いたかどうかとは無関係に、限界があると思います。

小説には「私的な声」と同時に「物語」がやはり必要だ、と僕は考えます。「私的な声」も「物語」も、単純な定義しやすいものではないし、またこの二つをひとつの小説に結びつけるには、魅了、惑溺、陶酔がなければなりません。そしてどうやら、魅了されたり陶酔したりというのは、いつでも、誰にでもできるというわけではないようです。書いているあいだ陶酔や惑溺を維持し続けるのは、さらに容易ならざる芸当なのでしょう。

そもそも小説は「ツール」ではありません。「新しい批評家」たちが小説を「ツール」に使っているつもりかどうかは知りませんが、道具扱いされた小説は、僕も読んだことがあります。そういう小説の中にも、『エミール』や『君たちはどう生きるか』のように「成功」しているものもありますが、そのような作品さえ、果たして人があれを「小説」として読んでいるのか判りません(どちらの作品も岩波文庫では「青」ですし)。批評家や歴史家、政治評論家や脳科学者が、明らかに「ツール」として利用している小説を、小説扱いする必要は、作者にも読者にもないのでしょう。

「木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる」……厳しい言葉です。どんぐりの数だけ樫の木が育つわけではありませんから。

しかしすべての世の習いと同じく、文学の栄枯盛衰もどこで何があるか判りません。奢れるものは久しからず、とも限らないので、こんにち残る古典的傑作の大半が、発表当時のベストセラーだったりします。

だからといってベストセラーがみな残るわけでは勿論なく、むしろ「当時はあんなに評判だったのに」というものが、みるみるうちに消えていくのは、僕たちも目にしています。

だから世評に一喜一憂するのは、小説にとっては意味のないことです(身過ぎ世過ぎをしている人間としては、そう達観もできませんけれど)。自作に限らず、他人の愚作が売れたり、底の浅いものが絶賛されたりしても、世情の移り変わりの激しいこんにち、半年もすれば(あんなに評判だったのに……)となってしまうのは、幾度となく経験してきたことじゃありませんか。

今、世界を閉ざしているコロナ禍についても、近いうちにきっと「小説」が出てくることでしょう(それはきっと「純文学」でしょう)。その中には評判をとる作品もあるかもしれません。三島由紀夫が『金閣寺』を書き始めたのは、金閣寺放火事件の6年後だった、などというのは、ある種の人たちにとっては、のんきな大昔のことなのでしょう。それで一向に構いません。どんな人にもその人の考えがありますから(それと身過ぎ世過ぎ)。

僕にはそんな芸当はできません。ましてや小説がそのような芸当にふさわしいツールとも思いません。小説はもっと自由で複雑なものです。そしてどんなときにも必要とされるものでなければならないと思っています。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第20信第21信第23信につづく)

執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。