棺を蓋うて事定まる

2023年4月10日
posted by 藤谷 治

第37信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

二人の偉大な日本人芸術家が、ともに三月のうちに亡くなったというのは、僕にとっても思うところの多い出来事でした。三日に大江健三郎氏が亡くなったと報道され、その死と業績について思いめぐらしているうちに、坂本龍一氏が二十八日に亡くなったと、四月に入って報じられました。

有名人の、報道によって知らされる死というのは、いつもであればある象徴性をともなったマイルストーンのように感じられるばかりで、その肉体的な死には思い至らないものですが、三月の大きな二つの死は、僕にはけっこうな生々しさをもって迫ってきたのでもありました。というのも、僕は二月に母の臨終に立ち会ったばかりなのです。母の年齢は大江氏に近く、死因は坂本氏のそれと同種のものでした。

無論、だからといって僕に彼らの死が「判る」などとは毛頭思いません。それらの死を同列に扱うような非礼もするつもりはありません。

ただ、「棺を蓋うて事定まる」という古い言葉が、ひと月前、ふた月前までとは、まるで違う重さと厳しさを持つのを、人間の生の厳しさとして感じます。

大江氏も坂本氏も、世界的な評価を得た日本人ということで、その死亡記事は新聞の一面トップに掲載されました。「反戦」「非核」「自然との共生」といった言葉が、どちらの記事にも並んでいました。

これらの言葉に、二人が力を注いでいたことは事実です。しかし同じこれらの言葉によって、彼らの「事(がたとえ半ばでも)定まる」のでは、やはりたまったものではないという思いがあります。ましてや、これらの言葉によって彼らが「批判」されるのも「称賛」されるのも、快く見ていられるものではありません。

そういった批判や称賛は、僕自身が30年前に彼らへ、とりわけ大江氏の仕事に対して感じたものでもありました。仲俣さんとちがって学生時代から大江健三郎を、「読まなければ話にならない」ものとして読んでいた僕は(そういうことが「コモン・センス」として通用していた時代でした!)、同時にそれが80年代という、直近の過去を嗤うことが新感覚と見なされた時期――ポストモダン、とも言うようですが――であったがために、いわばあらかじめ否定的な態度でもいたのでした。

仲俣さんは大江氏を「日本の近代文学的な伝統から切れている作家」と評していますが、それは今現在の視点から見たときの評価だと思います。現役作家であった頃――今の僕たちよりも若かった頃――の大江健三郎は、僕には文壇そのものに見えました。芥川賞や谷崎賞、野間文芸賞や三島由紀夫賞といった、主だった文学賞の選考委員をかけ持ちし、のべつまくなしジャーナリストや批評家たちと論争を続けていたのが大江健三郎で、そういう文壇ゴシップを無視して氏の小説を読むことはできませんでした。論客としての大江氏には直情径行の感があり、冷静で紳士的に見えた論敵・江藤淳の方が、僕は好きでした。

読まなければいけない文学としてでなく、これは本当に素晴らしい、と思えるようになったのは、88年の『キルプの軍団』からです。ディッケンズの小説をモデルとして、極左集団と暴力犯刑事とオリエンテーリングを組み合わせたこの小説は、ひたすら読んで楽しく、作者の小説技術の粋を極めたものでありながら、同時に心のこもった青春小説の傑作です。後年、僕は確かどこかの大学系文芸誌で大江作品の特集をした時に依頼されて、この作品について短い文章を書いた覚えがあります。(ちなみに今、書棚のどこを探しても、その雑誌も原稿も見つからないんですけれど、調べてみるとそれは、「早稲田文学」の2013年6号でした)

以後の作品も決して文句なしに、というわけではありませんでしたが、比較的短い、あまり批評の対象にならなかったような長編小説や連作短編が、僕は好きでした(『人生の親戚』や『静かな生活』)。驚かされたのはノーベル賞受賞以後の作品で、『取り替え子(チェンジリング)』や『二百年の子供』『美しいアナベル・リイ』といった小説を、老いただの書くのをやめるだのと言いながらも書き続けたのは、驚くべき積極性です。これから老齢に向かっていく僕たちの、もっとも学ぶべきありようでもあるでしょう。(しかしこうしてみると、同じ80年代以降の大江作品でも、僕と仲俣さんとの挙げる小説が、ほとんど重ならないのは興味深い)

なんの話をしていたんでしたっけ。そうでした「棺を蓋うて事定まる」でした。これは僕のアテにならない予想にすぎませんが、大江氏の論争や罵倒は、棺が蓋われたこれからは、次第に色褪せ、消えていくものだと思います。そして氏の反戦や反核の言葉が、それに次ぐのではないでしょうか。こんにちトーマス・マンやロマン・ロランの政治的エッセイを読む者がいないのと、それは同じだと思います。

最後には、小説が残るのです。いうまでもなくそれは「エッセイよりも小説の方がエラい文学なのだ」なんてことじゃありません。人間がもっとも多様で、制御不能で、遠慮ないとき、つまり孤独なときにあらわれる表現が残るのです。大江健三郎の場合、それは小説であり、坂本龍一にとってのそれは、音楽だったのでしょう。

「魂のこと」とは、そういう孤独な表現のことなのかもしれません。生きている、つまり魂が肉体とくっついたままでいる人間に、「魂のこと」だけを抜き出して考える、あるいは表現するのは、おそらく、とても難しいことです。

ただ、種々の死を短期間に突き付けられ、ようやっと心の落ち着いた今、あらためて思います。僕たち生者は死者の価値を「定める」けれども、死者たちもまた生者に向かって、問いかける目を向けている。彼らは私たちに尋ねているのです。生者よ、お前たちは私を批判する権利を持っている。私の生前の行いを最初から最後まで洗い直し、解釈し、位置を定め、あたいを決めることができる。だがそれをするお前は何をしているのだ。お前は自分の生の時間を使って、これまで何をし、これから何をするつもりなのだと。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第35信第36信|第38信につづく)

執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。