コミュニティ(Ours)の編集とデザイン

2018年4月2日
posted by 仲俣暁生

クラウドファンディングによる出版プロジェクトが進められていた、故・渡辺保史さんの遺稿集『Designing Ours:「自分たち事」のデザイン』がようやく完成し、先週末に私の手元にも本が届いた。この本は2011年から2012年にかけて渡辺さんが執筆していた単行本用の未定稿を編集し、事前予約制により限定出版したもので、一般向けに市販されることはないという。そこで渡辺さんと多少なりともご縁があった者として、この本に込められた故人の思いを受け止めつつ、自分なりの感想を綴ってみたい。

「情報」のデザインと編集

渡辺保史さんは、「情報デザイン」という言葉を自身の活動の中心に置いていた研究者/教育者である。最初に渡辺さんとお会いしたのは、彼がフリーランスのライターとして活動をしていた頃で、私は1990年代に刊行されていた最初の「ワイアード日本版」(現インフォバーンの小林弘人氏が編集長)の編集部にいた。

その後、私は「本とコンピュータ」という出版プロジェクトに参加し、同誌のオンライン版編集長という役割をまかされた。その頃に、渡辺さんも深く関わっていた「ビジョンプラス7」という情報デザインの国際会議にも招いていただいた。当時のウェブサイトで確認すると、私は「オンライン雑誌編集の現場から」という題で講演をしている。

渡辺さんはその後、郷里の函館に戻り、公立はこだて未来大学を活躍の場所とするようになった。そのことは私も知っており、2001年に出た『情報デザイン入門――インターネット時代の表現術』(平凡社新書)も読んだが、直接のやりとりは途絶えていた。交流が復活したのは、東日本大震災後の2012年のことだった。私はこの「マガジン航」を創刊して3年目だったが、このサイトに気づいた彼のほうから連絡をしてくれたのだった。

渡辺さんは仕事の場が北海道大学に移ったことで札幌に居を移しており、そこで知り合った堀直人さん(NPO法人北海道冒険芸術出版代表理事、現在は江別市議。本誌にこの記事を寄稿)を私に紹介してくれた。堀さんは北海道で「地域を編集する」という考えのもと、非営利団体による出版活動をしていた若者で、「札幌ブックフェス2012」の一環として企画したトークイベントの登壇者として私を招いてくれた。このイベントは「これからを「つなぐ」ものたちへ 〜創発する場と本とメディアたち、編集の可能性〜」として行われ、渡辺さんはこのとき私の話の聞き手役をつとめてくださった。

渡辺さんとご一緒した二度の催しのことをあらためて思い起こすと、本や雑誌の「編集」という行為をより広い意味へと拡張するよう促されていたことがわかる。「情報デザイン」という言葉は、そのためのフックだったのではないか。

その後も渡辺さんが東京に来られるたびに、なんどかお会いする機会があった。そのとき彼は、今回本のかたちにまとまった、『情報デザイン入門』の次の自著の予定を話していた。「自分たち事」という言葉も、そのときにはすでに伺っていたように思う。だから2013年6月に志なかばにして彼が急逝したのは、本当に残念だった。これからもっともっと、いろんな仕事を一緒にできるものと思っていたのである。

メディア+コミュニティ=情報デザイン

ところで、「情報デザイン」という渡辺さんのキーワードは、必ずしもわかりやすいものではない。『情報デザイン入門』の副題にあるとおり、インターネット時代におけるウェブのデザインのあり方を入り口に、その先にあるコミュニティ(ハワード・ラインゴールドのいう「ヴァーチャル・コミュニティ」)までを視野におさめた言葉だが、いまなら「コミュニティデザイン」と表現したほうが、彼がやろうとしていることは分かりやすいかもしれない。

笑い話のようだが、多摩美術大学には「情報デザイン学科」があるのに対して、武蔵野美術大学には「デザイン情報学科」がある。カレーライスとライスカレーの違いと同じくらい両者の違いはわかりにくいのだが、これも不思議な縁で、私は武蔵野美術大学のデザイン情報学科で十年以上、非常勤講師として書物論を教えている。そんな私が、渡辺さんのしてきた仕事の意味を深く理解するようになったのは、東日本大震災以後のことだった。

武蔵野美術大学では、紙の印刷物を前提に考えられてきた本の諸制度(さまざまな種類の書物、書店、図書館など)が、デジタルネットワーク時代にどのように組み代わるのかを主に考えてきた。東日本大震災後はそこに(広義の)「コミュニティ」という軸が明確に加わった。「コミュニティ=Ours(自分たち)」の「情報」をデザインすること、と整理すればいいだろうか。

私自身の関心も、この頃から「紙のメディアが電子化する(=情報化する)」という移行プロセスより、その移行がすでにかなり進み大きく変化してしまった社会のなかで、(紙、電子を問わず)メディアはどのような役割をはたすべきか、ということへ向かうようになった。日本各地で発行されているローカルメディアへの関心もそこから来ている。

そのときのメディアとは、本や雑誌、あるいは通信/放送のようなメディア媒体に限られない。たとえば図書館や書店、あるいはカフェやコワーキングスペースのような場所も一種のメディアである。いや、むしろ今後はそれらの場所こそ、ネット環境と共存しつつ、メディアとしての役割を大きく担うようになるのではないか。そうした問題意識が自分のなかで強くなってきたのだ。

サードプレイスを「場所」から「関係」へひらく

今回の遺稿集『Designing Ours:「自分たち事」のデザイン』には、オルデンバーグの有名な「サードプレイス」という概念が出てくる。家庭とも職場ともことなる、インフォーマルで開かれた場としてのサードプレイスへの期待は、日本でも高まりつつある。しかし、さらに重要なのは物理的な「場」としてのサードプレイスではなく、そこにおける人間関係のネットワークのほうだろう。

「自分たち事」をデザインするとは、企業とも家族ともことなる論理で動く人の集まりやネットワークが、次の時代を動かす実質的な力になるという確信のもと、その力を引き出すための中心的な方法論を表現したものだ、と私は理解した。

私自身もフリーランスの編集者として仕事をするかたわら、ここ数年の間に、いくつかの組織や団体とプロジェクトを行う機会が増えてきた。そのときの主体やパートナーは出版社や大学の場合もあれば、書店や図書館の場合もある。一般企業の場合もあれば、NPO法人や学会の場合もある。町内の商店会や、まったくの手弁当で個人がはじめた小さなプロジェクトの場合もある。以前は明確にイメージできなかった「コミュニティを編集する」とか「地域を編集する」といったことが、すでに自分の仕事の大きな部分を占めていることにあらためて気付かされた。

こうしたケースでは、「編集」という仕事の役割が渡辺さんのいう「自分たち事」のデザインとかぎりなく接近していく。肝腎なのは、プロジェクトにかかわる各メンバーが立場の相違を超えて、そのプロジェクトを「自分たち事」としてとらえられるようにすることであり、そのためのファシリテーションであることを、私自身もこれらの経験を通して理解していったのだった。

もちろん、こんなことは渡辺保史さんにはとっくにわかっていただったろう。ようやくここまでたどり着いた私は、渡辺さんともっと、その先について話をしてみたかった。今回出版された『Designing Ours:「自分たち事」のデザイン』という本には、未完で残された章がいくつか残されている。その空白を埋めるのは、彼の仕事に多くの刺激を受けた私たちの仕事(Ours)である。

第2回 全米最大のチェーン書店、バーンズ&ノーブルの苦闘

2018年3月27日
posted by 大原ケイ

次々とオープンするアマゾン書店が話題を集め、インディペンデント書店のリバイバルが謳われる一方で、ネガティブなニュースばかりが聞かれるのが全米最大のチェーン書店、バーンズ&ノーブル(B&N)の先行きだ。

今年2月に全米600店あまりで働く全従業員1万2000人のうち、1800人のスタッフを解雇したというニュースは日本でもメディアの多くが取り上げた。これは昨年のクリスマス商戦の結果を受けたものと考えられている。前年比で店舗の売上げがマイナス6.4%、BN.com(オンライン書店)がマイナス4.5%と不振だった。

だが、スタッフ数は2009年をピークに年々減少しており、とくに2016年にはB&Nが展開するEブックであるNook(ヌック)部門を大幅縮小したため、この際に5000人がレイオフの憂き目にあっている。Nook部門は日本でも電子書籍元年と言われた2010年から2012年までは年商1億ドルを上げた好調な時期もあったが、その後6年で13億ドルの累積赤字を出している。全体の数字でもB&Nは2013年以降、ずっとマイナス成長が続いているのが実情だ。

B&Nはこのまま衰退を続けるのか、方針を変換して再び浮上することができるのか。社運をかけた新しい試みとしてレストラン併設のプロトタイプとされる店舗がニューヨーク郊外にも一店あるので出かけてみた。ここは書店内にカフェがあるのではなく、酒が出されちゃんとした食事ができるレストランがあるという。

本格的なレストランを併設したプロトタイプ書店

イーストチェスターというNY郊外の町にいくつもあるモールの一角にその店はあった。エンクローズド・モールと呼ばれるアメリカの典型的なショッピングセンターで、同じ敷地内にデパート、家具店、服飾店、ワインショップやカフェが同じビル内で長屋のように連なり、横に長い駐車場を挟んで車道に平行に走るテラスを客が行き交う。

見慣れた深いグリーンの地のロゴとは違う「バーンズ&ノーブル キッチン」という表札に出迎えられたそのモールの一角に入ると、右手にレストラン、左手に書店が広がる。郊外の店舗だけあってかなり広い。都市部の店舗のようにエスカレーターでつながれたフロアに分かれているのではなく、見渡したそのスペースに全部収まっている。

店内を歩くとまず、棚の作りがアマゾン書店と酷似していることに驚かされる。マンハッタンで見慣れた、天井まで届くような背の高い本棚の代わりに、上段でも背表紙が読めるほどの高さの棚が広がり、面陳の本が多いディスプレイの仕方だ。そして棚と棚の間のスペースがゆったり取られ、ベビーカーを押しながらでも回れそうだ。

昨今は本以外の商品が多すぎると揶揄されることも多いB&Nだが、プロトタイプ店では本棚より低いディスプレイで控えめに見える。他の店舗で仕入れが荒くなった雑誌の棚も充実しており、音楽コーナーではCDの代わりにレトロなLPが並んでいる。

丸い大きな照明器具で天井窓を模した中央のスペースにおいてあるソファで寛ぎながら無料Wi-Fiにつなげて、いわゆる”ノマド”作業ができるスペースも設けてある。これまでのB&Nの店舗と比べると、本は回転率重視で選ばれているようだ。

書店にレストランを併設する意味

せっかくだからここで早めの夕食をとることにする。支払いの済んでいない本は持ち込めないが、本を立ち読みする人を眺めながら食事をとれる。メニューを見ると、いまニューヨークで流行りのアボカドトーストやケールサラダに加えて、テーブルでシェアするためのワカモレやフムスがあるので、形容するならお洒落目のカジュアル、といったところか。アントレにはハンバーガーやパスタも並んでいるが、高くもなく安すぎず、良心的な値段設定だ。そして書棚が見えるバーからワインやビールも注文できる。何よりもカトラリーやグラスにちゃんとお金をかけている印象だ。席数は50ほどで、奥まったスペースなら書店に出入りする人通りも気にならない。

食事をしながら、書店にレストランを併設する意味を考えてみた。サンドウィッチやマフィン中心のカフェではなく、きちんとナイフとフォークを使って食べるようなメニューなので、バーカウンター以外で本を持ち込んで読みながら食べるのはムリがある。アメリカの本は文庫本のように片手で、というわけにはいかない。どちらかを「ついでに」消費して、本の売り上げを伸ばそうと言うには無理があるように見える。

そもそも、ショッピングモールを訪れたのも久しぶりだ。アメリカでは2008年のリーマンショック以後、こういったモール、つまり大衆向けデパートや小さな店を集めて一つの建造物となっているショッピングセンターの数は減り続けている。現在では全米に約1100店あるが、これからの5年でその20〜25%が倒産し、すでに櫛の歯が欠けたように空き店舗が目立つロケーションから破綻するリスクを抱えているという。

理由は様々だが、経済的な格差の拡大で中産階級層が減っていること、ウォルマートやターゲットといった、一店舗で生活の全てがまかなえる大型リテイラーの台頭、そしてネットショッピングももちろんその一つである。

B&Nでいただく食事は文句なく美味しかった。アメリカでこの値段で、ポーションもそこそこ、まさにカジュアルダイニングと位置づけていいだろう。そういえば、いままでモールの食事といえば、フードコートに集められたチェーン店の出店ばかりで、ファストフードと変わらないレベルだった。昔はティーンエイジャーから、年金暮らしのお年寄りまでがモールで時間をすごしていたのに、いまではわざわざモールに出かけてショッピングするのは、時間的金銭的に余裕のある人たちだろう。

もし、B&Nにレストラン併設がデフォルトになったら、ついでに食事もできるから、モールに行こうか、ということになるかもしれない。このまま全米のモールが衰退しないで済むような、策を何か講じることができたら、という前提での話だが。

ブッククラブなど店舗以外の施策も

このままレストランが併設されているB&N店舗が増えていく保証はない。というのも、元々この新しい試みを始めたレストラン担当部長はすでにいないからだ。2013年にIT系企業の出身だったウィリアム・リンチCEOが、Nook部門大赤字の責任を取って解任されてからの4年で3回も社長が交代している。それまでの肩書がケーブルテレビのCFOだったり、カナダの家電製品量販店シアーズの社長だったり、といった経歴のCEOを迎えたが、いまCEOを務めているのはオフィス用品小売り大手のステイプルズから引き抜かれてきたデモス・パーネロで、まだCEOに就任して2年めだ。

CEO不在の間は会長のレン・リッジオが臨時CEOを務めるなど、小さな街角の本屋さんが、跡継ぎがいなくて店をたたむのと同じ「後継者不在」で、全米一の大型チェーン書店も藻掻いている。

その間にも、株主に物申す投資会社として知られるサンデル・アセット・マネジメントがB&Nに「身売りをしろ」と働きかけている。B&Nの株価は2006年のピーク時には32ドル近かったのが、いまや4.50ドル前後で推移しており、時価総額も3億2750万ドルほどしかない。リストラ以外に株価を押し上げるような動きがないので、このまま株価が下がれば、レン・リッジオ会長が株を買い戻し、上場を取りやめるつもりなのだという話も聞く。

とはいえ、株価下落に対して何もせず手をこまねいているわけではない。たとえば、全店舗共通の「ブッククラブ」を始めるというのもその一つ。最初の本はメグ・ウォーリッツァーという小説家のThe Female Persuasionであることが発表されたばかりだ。

ブッククラブとは、全米で632あるB&Nの店舗に一斉に集まって、皆で同じ本を読むという催しで、初回は5月2日に開催される。他にも、”Less is More”をスローガンにした、床面積、在庫ともに小規模店舗のプロトタイプを今年中に5店舗オープンし、専門知識のある少人数のスタッフでまわす計画を立てているという。もっとも、これでアマゾン書店のような店がさらに増えるとしたら皮肉なことだが。

店舗以外では、オンラインショップの本を遠い巨大倉庫から発送するのではなく、近場の店舗から配達あるいはピックアップできる、ship-from-storeと呼ばれるオムニチャンネルの配送インフラを準備している。電子書籍のNook部門も見限ったわけではなく、Nook Glowlight 3という新型端末をリリースして、今四半期で初めてNook事業が黒字になった。

先日、カリフォルニア南部のヴェンチュラという町で、B&N店舗内で意識不明の男性が見つかり、その後死亡が伝えられるニュースがあった。だが、だからといってその店を閉めたという続報も聞かない。老舗ならではのタフさで度重なる逆境を乗り越え、B&Nは今日も本を売り続けているのである。

その後の「本で床は抜けるのか」

2018年3月19日
posted by 西牟田靖

最初の床抜け騒ぎから6年、「マガジン航」での連載をまとめた単行本が出てから3年がたった。そしてこのたび、中央公論新社から文庫版が出ることになった。各章ごとに新しい情報を加えて更新したり、その後の動きについて記した「文庫版に寄せて」を加えたり。さらには作家・探検家である角幡唯介さんによる解説が加わったり。アップデートされた文庫版『本で床は抜けるのか』の発売は3月23日です。お楽しみに![編集部より:単行本バージョンの電子版は好評発売中です]

さて、この稿では単行本刊行後の、僕の身の回りの変化について記してみたい。それは執筆という仕事に使う道具の変遷、蔵書の変遷、そして仕事をする媒体の変化についてだ。

蔵書の扱い

一人暮らしを始めたのが2014年の3月末。JR中央線の高円寺駅から徒歩圏にあった家賃4万2000円の風呂なしマンション。ここから再出発をはかろうとした。ところが、ある事情(※文庫版の「文庫版に寄せて」やこちらの記事に記しました)から、そこでの生活はわずか1年3ヶ月で終わってしまった。

いまは隣駅の阿佐ヶ谷駅近くにある家賃5万6000円の木造コーポの一階に住んでいる。一階なので大丈夫だろう、いや大丈夫に違いないと自分に言い聞かせながら、いまのところ無事に日常をすごせている。床は抜けていない。

この間に、本や雑誌の読み方がかなり変わった。

紙の新聞はとっていない。雑誌を買って読む回数はかなり減った。そのかわり、ストレートニュースはニュースサイトで読んでいるし、雑誌はdマガジンによる読み放題を利用している。

あまり買わなかった電子本(電子書籍)を積極的に買うようになった。紙の本しか出ていないものは紙版を買うが、電子版が出ている本でそれほど思い入れがないものについては、たいてい電子版を買う。紙と電子の割合は現在、半々ぐらいだろうか。

『本で床は抜けるのか』に記したように2015年までに、僕は千数百冊以上の紙の本を自炊(電子化)した(その中で業者に電子化を依頼したのは1200冊超)。それら、自炊した本はたいてい読んでいない。21.5インチのAndroidタブレットを買ってはみたが、それを使って読むことはほとんどない。というか21.5インチのAndroidタブレット自体手放してしまった。

そもそも買った本を読み直すことは、紙の場合でも、そうたくさんあるわけではない。だから気にしなくていいのかもしれない。だが、自炊して、やむをえなかったという気持ちと、やらなきゃよかったという気持ちがいまだに同居している。

紙の本を買うスピードは落ちたが、部屋の空きスペースを本が確実に侵食しつつある。おそらく数年後にはまた本でいっぱいになるだろう。だからといって、また自炊に頼ることはなるべく避けたい。どうしたらいいのだろうか。

読み手、書き手としてのデジタル化

この3年間、書くという行為においても変化があった。

いちばんの変化は音声入力で原稿を書く機会が増えてきたことだ。

『「超」整理法』で有名な野口悠紀雄氏がiPhoneでまるまる一冊書いたという本を2016年に出版している(『話すだけで書ける究極の文章法 人工知能が助けてくれる』)。また同年、山下澄人は『しんせかい』の芥川賞受賞会見でスマホによる音声入力で執筆したと話していた。

彼らの試みに便乗したわけではないが、同じ年に、音声入力での執筆を試み始めた。

思いついたアイデアをマイクに向かって喋り、AmiVoiceという音声変換ソフトやグーグル音声入力(日本語)を使ってテキストデータに変換する。そのデータを加筆修正すれば、くだけた感じはするが、文章ができてしまう。またインタビューを録音したmp3データを聞いて、それを自分でオウム返しでマイクに向かって発声し、文字起こしをするようになった。

AmiVoiceで音声入力したものを電子インク・ディスプレイ上で推敲していく。

音声入力を試してみてわかったのは、次のようなことだ。

・最初からキーボードで打つのに比べると、文章が冗長になるし、表現の繊細さには欠ける。
・話し言葉をニュアンスそのままで文字化できる。
・アイデアを表現するまでのハードルが非常に低くなる。「書く」という行為は毎日やっていても、そのモードまでに持って行く時間が少しかかるのだ。

ただし推敲作業に手間がかかるので、作業に取り組み始めてから完成するまでの時間は、あまり変わらないかもしれない。しかし取り組むまでの時間という点においては、体感的にだが、確実に時間を短縮できている。

ちなみにこの原稿も、 AmiVoice で音声入力したテキストを手直ししたものだ。

電子インク・ディスプレイのこと

もう一つ特筆すべき変化は、作業用画面に電子インクのディスプレイを取り入れたことだ。13.3インチの中国製ディスプレイPaperlike Proである。

文字入力に対する反応速度は液晶に比べるとはるかに劣る。しかもモノクロ。写真や動画を映し出すのには向いていない。だが文章を書く分にはこれで十分だ。それに何より、目が疲れないのが良い。

液晶ディスプレイでも明るさや鮮やかさを抑えることで、目の疲れを軽減はできる。それでも画面をずっと凝視して丸一日仕事をした後は、目を開けていられないぐらいに疲れてしまう。この電子インク・ディスプレイは低性能ではあるが、長時間、凝視していても目はさほど疲れない。文章を書くのには向いている。

僕も40代後半となって老眼が進んできている。こうしたディスプレイを使って、目の疲れを残さないようにしていきたいと思っている。

媒体の変化

もう一つ、ここ3年の間に変わったのは、発表の場の大部分がネット媒体になったことだ。

紙媒体に比べると原稿料は3分の1程度なので、労力のかかる取材だと正直なところ割にあわない。そのかわりに紙媒体のような文字制限や厳格な締切日というものがなく、企画が非常に通りやすい。これまでだとボツとなっていたネタが、次から次へと発表できるという点で助かるし、お陰で新規に連載をいくつか持つことができた。

[別れた夫にわが子を会わせる?] https://goo.gl/1TRknP
[極限メシ] https://goo.gl/gMo6eU

思いついたらすぐに書きすぐに発表できてしまう、こうした媒体が増えてきたのは悪くはない。原稿料が安いので、マシンガンのように打ち続けなければならないけれども。

このように、読んだり書いたり発表したり――日々発展するデジタル技術にあわせて、仕事の仕方をカスタマイズしながら、活動をしている。今後もよりよい執筆方法を自分なりに模索していくつもりだ。


※3月21日に『本で床は抜けるのか』文庫版の発売記念イベントを東京・下北沢の本屋B&Bで行います。みなさまふるってご参加下さい。

「物書きにとっての蔵書と家族」〜『本で床は抜けるのか』文庫版刊行記念

日時 :2018年3月21日(水) 19:00~21:00
会場:本屋B&B(東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F)
出演:西牟田靖(ノンフィクション作家)
東海晴美(編集者・「晴美制作室」代表)
仲俣暁生(編集者・「マガジン航」編集発行人)

※イベントの詳細、参加申し込みはこちらをご覧ください

本の魅力を本自身に語らせるしくみ

2018年3月1日
posted by 仲俣暁生

昨年から人文系出版社数社の編集者と「マガジン航」の発行元であるスタイル株式会社で、本にまつわる、あるウェブサイトの構想を進めてきた。私も運営委員会の一員として参加しているそのサイト、「Socrates-世界を生きる知恵」が本日公開となった。

Socratesは「世界を生きる知恵」というタグラインに相応しい本を出版社の編集者がみずから選び、そのなかでもっとも有効と思える部分の「抜書き」を、ネット上の記事に仕立てて公開していくという、ごくシンプルなサイトである。ここに集められた「知恵」には、抜書きの内容によって「こころの知恵」「働き方の知恵」「社会の知恵」「自然の知恵」「身体の知恵」のタグが付けられている。

「Socrates(ソクラテス)とは何か」でこのサイトのプロヂューサである竹田茂はこう書いている。

あなたが書店で書籍を立ち読みしている時に、たとえば、その書籍を作った編集者がスッとあなたのそばに寄り添い、「ええとですね、この部分をちょっと読んでみてもらえますか?」とアドバイスしているような状況をネット上で再現してみようと考えたのです。

ここぞ読むべき、と編集者が選んだ「抜書き」箇所を読んで、すぐにオンライン書店で注文するもよし、近くの書店に駆け込んで実物を確認もよし。とにかく本の「なかみ」そのもの(それは同時に、もっとも正確な「著者の声」でもある)との接点を、ネット上に設けることがSocratesの最大の目的である。いわばこれは、「本の魅力を本自身に語らせるしくみ」なのだ。

ネットに露出した本の「なかみ」の集合体

本にまつわるネット上のサービスとしては、すでにあまたの書評サイトがあり、そのほか書棚風のサービスや読書記録の共有(ひところ期待されたソーシャルリーディング的なものも含め)など、読者側に立ったものはかなり充実してきた。

それに対していまだ不足しているのが、著者や出版社からのコンテンツ提供である。新刊が出ると、出版社自身が発行するPR誌やウェブサイト、あるいは小説誌や文芸誌に、書評や著者インタビューが掲載されることが多い。こうした言説や周辺情報もその本や著者に関心をもつきっかけにはなるが、その本を読むかどうかを決めるにあたり決定的に重要なのは、言うまでもなくその本の「なかみ(コンテンツ)」である。

たしかに一部の出版社のサイト上では「立ち読み」ができるようになっているし、アマゾンも「なか見!検索 」という擬似的な立ち読みのしくみや、電子書籍のサンプル版を提供している。しかし特定のプラットフォームに囲い込まれたものでもなく、また出版社が個別で行うのでもない、本の「なかみ」の集合体のようなサイトは、これまで存在していなかった。

現在、Socratesの運営委員会に参加している出版社は、平凡社、筑摩書房、晶文社、白水社の4社。本日公開のサイトはこの各社にNTT出版を加えた5社8冊の「抜書き」からスタートするが、今後随時、登録される本も出版社も拡大していく予定である。

運営委員会の委員長である平凡社の西田裕一は、「Socrates(ソクラテス)とは何か」のなかで、スタート時のSocratesのサービスについて「はからずも、著者の方々の主張を積極的に広げていくという、出版の原点に近いものになりました」と述べている。この試みに、多くの出版社や著者が賛同してくれることに期待したい。

第7回 「紙vs電子」はWin, Lose or Draw

2018年2月23日
posted by 中野晴行

イメージ通りではなかった電子コミック時代

第1回の「出揃った電子コミックのプレイヤーたち」から連載をスタートしてまもなく一年が経つ。第1回では、コンテンツホルダーでもある出版社が本格的に電子コミックに舵を切ったことでいよいよ本格的な電子コミック時代が来る、ということを書いた。

たしかに電子コミック市場は右肩上がりを続けている。逆に紙の出版物は部数、金額ともに縮小に歯止めがかかっていない。予想通りといえばその通りなのだが、現状は思い描いていた電子コミック時代とは少し違っている。

肝心の「電子コミック」の未来像がよく見えてこないのだ。原因は三つある。

一つ目は、配信の中心になっているのが無料コミックアプリだということだ。無料コミックアプリはコミックを売るのではなく、コミックでお客を集めて、コミック以外の広告やスタンプを売るビジネスと考えたほうがいい。コミックはおまけみたいなものだ。配信元は内容の良し悪しよりも、いかに広告収入を挙げることができるのかを考えているし、無料でおまけを読み始めたユーザーにとっては、コンテンツは無料で享受できるのが当たり前になってきている。これでは、コンテンツビジネスとは呼べない。

二つ目は、出版社の電子コミック戦略がいまひとつわからないことだ。豊富なコンテンツを武器に市場拡大に乗り出すのかと思いきや、雑誌がマンガの中心だった時代と同じように、ウェブの新連載に注力して、せっかくの財産を埋もれさせている。もちろんウェブ連載からもヒット作は出ているが、過去のストックをうまく使えば、その何十倍もの収益が期待できるはずなのだ。この状況は、技術的には圧倒的に優位にありながら、その技術の活かし方がわからないまま、アメリカのベンチャー企業やアジアの新興国に後れを取ってしまった、日本の家電メーカーの末路とどこか似ている。

三つ目は、収益化は紙で、という考え方が当然のように語られていることだ。電子は無料で配信して、紙化したものが売れることでようやくリクープできるというわけだが、結果として、本来ならば紙の属性から自由なはずの電子コミックの文法が、紙の属性に縛られたままになっている。韓国で生まれたスマホ向けの新しいマンガ「ウェブトゥーン」も日本にやってきたとたん、紙で出版することを考慮してコマを縦に並べただけのものが多くなった。韓国のようにウェブで完結できていないのだ。

つまり、「紙から電子」という看板は立派だが、マーケティングも表現も紙のまま、という不思議な状態がこの一年の間、続いていたのだ。

読者が求めるのは電子? 紙?

もう一つ気になっているのは、読者の反応だ。

教えている大学で学生を対象にしたアンケートを行ったり、レポートに「紙のマンガは消えるのか?」というテーマを出すと、学生のほぼ全員が「紙のマンガはなくならない」「紙のマンガのほうが好き」という反応を見せる。韓国からの留学生でさえも「ウェブトゥーンよりも日本の紙のマンガが好き」という答えだ。これまでマンガ市場縮小の理由として言われてきた「若者のマンガ離れ」は、現実とは違うのではないか。

学生にアンケートをして、もう一つ面白い反応があった。それは先ほどの韓国からの留学生だ。「自分にとってウェブトゥーンは暇つぶしで、ゆっくり読むなら紙のマンガ」というのだ。1話目からビューを稼がなくてはならず、1話あたり5分程度で読まれることを想定しているウェブトゥーンでは、複雑な物語設定が難しく、スケールの大きな伏線の多い作品は成立しにくい、ということらしい。両者が別物だということを留学生に教えられたようなものだ。

いずれにしても、「紙のマンガ表現が若者は古臭いものになってしまった→だから、紙のマンガの魅力が失われた→そのためにマンガ市場が縮小した→紙のマンガは滅びて、スマホで読む電子コミックの時代になる」という論法は間違っている。それだけではない。この連載でも書いたように、スマホが電子通信デバイスの最終形態であるという保証はどこにもないのだ。新しいデバイスが登場したとき、スマホで読む電子コミックそのものが過去のものになる危うさを秘めている。これで、電子コミック時代到来と言えるのか。

紙と電子の売り方の違いとは

電子コミックを含めたマンガの未来を作るための方法は、老舗の出版社や大手ITベンチャー系の配信会社が気がついていないだけで、必ずあるはずだ。小規模の出版社や配信会社の中には違う動きがあるのではないか。

今回は、電子小説、電子コミックを手がけるユニークな電子書籍製作会社と、ひとり雑誌社として独創的なマンガ雑誌を作り続けている個人を取材して、コンテンツ作りに関わる人の本音を探ってみた。

はじめに紹介するのは株式会社リ・ポジションの柳瀬勝也社長だ。リ・ポジションは、出版社と契約して電子書籍の製作受注を行うほか、「夢中文庫」のレーベルでBL、TLと呼ばれる女性向け連載小説の電子出版事業を自社展開する会社だ。「夢中文庫」のタイトル数は約450点。最近になって、女性向け恋愛コミックやエッセイコミックの製作配信もスタートさせている。配信は無料でなく有料である。

「夢中文庫」のトップページ。

本社は東京の木場にあるが、電子書籍の製作は、福島県にある子会社リポジション郡山が行っており、こちらのほうが主力部隊になっている。

「郡山のスタッフは女性が中心。我々の仕事は別に東京でなくてもいいのです。地方のほうが家賃も安いし、いい人材が選べるのも魅力です」と語る柳瀬。実は、電子コミック関連の会社を取材していつも疑問に思っていたのが、ほとんどの会社が東京都心の真新しいビルにオフィスを構えていることだった。IT化でもっと地方が活用できるはずなのに、IT系企業がそれをなぜ実践できないのか、と感じていたのだ。このことだけで、リ・ポジションには好感が持てる。

柳瀬が電子書籍編集の仕事をはじめたのは2012年。はじめは製作受注の仕事だけだったが、スタッフが育ってきたことや編集を外注できる先も増えたことから自社の電子出版にも踏み切ったという。

そんな柳瀬に電子コミックの現状はどう見えているのだろうか。

柳瀬 僕自身は「コロコロコミック」に始まって、ずっと紙で読んできていますから、紙への思い入れは強いんです。試験的に「夢中文庫」のオンデマンド出版もにも取り組んでいます。ただ、そもそも紙と電子では売り方が違うんです。そこを理解されてない人が多いのではないでしょうか。

——具体的にどこが違いますか。

柳瀬 僕らにとってはタイトル数を増やすことがまず必要です。タイトルが増えると、たとえば電子書店で半額キャンペーンをやったときに旧作の売り上げがドーンと増えて収益につながります。そういう収益モデルなんです。これまでの紙の出版だと、とにかく毎月毎月休まず新刊を出していかないと利益が出ませんよね。出版社は新刊を出す代わりにどんどん旧作を絶版にしていく。コンテンツが資産という考えが希薄なんです。僕らは、すぐに売れるかどうかは別にして、コンテンツのストックを積み上げていくわけです。

もう一つはボリュームですね。1巻や1話のページ数は紙より少なくていいんです。僕らの場合、基本は書きおろし作品です。単行本で書き下ろす作家さんの負荷を下げる意味でもページは多すぎないほうがいい。巻数もそれほど増やさないようにして、10巻くらいで完結させてます。紙だと、それなりの厚みが必要ですし、巻数は長いほどいいことになりますよね。電子だと完結記念のキャンペーンを打つタイミングも大切なので、そこそこの巻数のほうがいいわけです。

また作家さんたちに言っているのは「ツイッターやフェイスブックでわざわざ宣伝しなくてもいい」ということです。電子の場合、作家さんが自分のまわりに拡散したってそれほど売れるわけではないんです。電子書店でキャンペーンを展開して、そのバナーが目立つ位置に来るように工夫するほうがはるかに効率的です。紙の本の場合、サイン会やって、講演会やって、手売りしていく部分が大切だと考えられていますね。そのせいなのか、出版社の人が作家さんのフォロワー数を気にすると聞きますけど、ちょっと努力の方向が違うような気がします。

柳瀬が言っているのは、これまでの出版が扱ってきたのはコンテンツを詰めた出版物というモノであり、電子が扱うのはコンテンツそのもの、という実に単純なことだ。ところが、単純な区別ができないまま「紙から電子へ」と大騒ぎしているのが電子コミックの現状なのだ。紙は紙、電子は電子と区別した上で、それぞれの現在と未来を語らないことには、問題点も解決方法も見えてこない。

優良なコンテンツのストックこそ財産

柳瀬の言う「コンテンツのストック」という点で圧倒的優位に立っているのは既存の出版社だ。紙の出版がピンチと言われているが、出版社の編集者たちは意外に落ち着いている。企業体としての出版社にはまだ余裕があるからだ。それは、コンテンツという資産を持っていることからくる余裕だ。

さらに、新しい資産を生み出すノウハウを持っているのも出版社だ。出版社の資産でも、不動産は切り売りしていくといずれゼロになる。しかし、コンテンツは仮に全部売ってしまっても、新しく作り出すことができる。会社ごとコンテンツが売られても、新しいコンテンツを生み出すノウハウを持った編集者は新しい経営者にとっても金の卵を生むガチョウになりうる。

そこまでわかっていながら、売り方の部分で旧態から抜けられず、正しい手法に気が付いていないというのなら問題だ。

さらに、コンテンツを扱うという立場から、柳瀬は無料マンガアプリがひっぱる電子コミックのあり方にも疑問を投げかける。

柳瀬 僕は無料配信ではなく有料配信にこだわっています。作家さんが苦労して作り上げたものをこっちの都合で無料配信するのはいけないと思うんです。それに、広告収入や著作権ビジネスで収益を上げることを考えるよりも、作品を買ってもらうほうが確実だし、収益も上げやすいはずです。ビジネスとしての面白みもあります。僕はこの仕事を始める前に芸能系のブックキング仲介の仕事をしていて、大手のプロダクションとも仕事をしてかなりの儲けがありましたけど、やめました。右から左に動かすだけでお金になっても、面白みがないからです。

投稿作品などを集めて低コストでつくったものを、タダで配ってそこに貼りつけた広告で稼ぐというのは、タレントを右から左に動かして儲けるようなものです。効率的なのかもしれないけど面白くない。

——有料ということになると、読者を満足させる必要が出ますね。無料の暇つぶしとは違ってきます。

読者の満足は、むしろ当たり前ですよね。僕らは、いいコンテンツをたくさんストックしたいのです。それがビジネスにつながるのですから。編集者の存在は欠かせませんし、当然、作家さんへのギャラについても考えています。紙のように初刷部数にあわせた印税がない、というのは電子の一番のネックです。うちの場合は、保証印税みたいな形でお支払いすることもやっています。食べていける作家さんの裾野も広がっているし、作家を目指す人にとっても電子書籍はチャンスが大きい。今は、僕らのように小さい会社でも存在感を示せる面白い時期なんだと思います。

紙の出版社も電子書籍関係者も、ビジネスのあり方をよく理解しないまま、大きなパイを求めて動き始めて、行くべき方向を見失っている。一方で、リ・ポジションのような小さな会社は、自分たちの会社の収益モデルを堅実に考えている、小さいところほど収益モデルを見誤った時のリスクが大きいからだ。柳瀬の発言に私は未来の電子コミックの未来に光明が見えるように感じた。

電子コミック時代に生き残る小さな雑誌

では、紙の出版に目を向けてみよう。

「紙は終わりだ」と言われ続ける中で、「ひとり出版社」と呼ばれるような小規模な版元の元気がいい。立春の2月4日に世田谷区桜新町で小さな出版社による「ポトラ」というブックフェアが開催され、わたしも足を運んでみたが、大規模なブックフェアにはないような熱気で、何よりも展示されている一冊一冊の本の存在感に驚かされた。思わず手に取りたくなり、買って帰りたくなるのだ。「紙は終わりだ」というのはどこの国の話かと思うほどだ。

マンガの世界にも長年地道な活動を続けているひとり出版社がいくつもある。山上たつひこや宮谷一彦ら1970年代に活躍したマンガ家の作品の単行本化に取り組んでいるフリースタイル、三条友美や中川ホメオパシーらカルトなマンガ家の単行本化に取り組むおおかみ書房、今回取材した総合マンガ雑誌「キッチュ」もその一つだ。発行人兼編集人の呉ジンカンは台湾出身。日本に留学して京都精華大学に学び、現在は京都嵯峨美術大学で教壇に立つという経歴の持ち主。日本、中国、韓国、台湾在住者を対象として京都から新人マンガ家のデビューを支援する「京都国際漫画賞」の審査員を務めるほか、日台のマンガ交流にも積極的に関わっている。

そんな呉が2009年から年1冊ペースで刊行しているのが「キッチュ」だ。いままでの執筆陣はベテランの山田章博やひさうちみちお、斎藤なずな、さそうあきらから、ムライ、モサパサ、スケラッコら若手まで幅広い。題字は、時代劇マンガの巨匠・平田弘史が揮毫している。小説やコラム、評論にも力を入れていて、特集では『ガロ』や台湾マンガも取り上げている。また、7号からはワイズ出版創刊第一号として、同社を通して書店流通にも載せた(2018年春にはワイズ出版第二号を発売する予定)。めざしているのは創作と娯楽の狭間。

「キッチュ」創刊第二号。

それにしても、印刷や流通にコストのかかる紙の雑誌を個人で出し続けるこだわりはどこからきているのだろうか?

 僕自身は電子が嫌だとは思いませんし、紙へのこだわりが強いわけでもありません。掲載しているマンガは「キッチュ」のポータルサイトで画像入りで紹介したりしています。こだわりはないのですけど、あえて言えば、人と会ったときに「こういうことをやってます」と自己紹介がわりに出すのに便利、ということがあるかもしれません。電子だとサイトにアクセスしてもらわないといけませんが、紙の雑誌なら手渡すことができます。原稿をお願いするときも、形のあるものを見てもらえるので説明が早いし、マンガ家さんにとっては紙のほうがモチベーションが上がる、という利点もあります。多様性があるという意味ではいろんなコンテンツが一冊にまとまっているのもいいですね。電子だといろいろ入っていても読むのはそれぞれバラバラですよね。

やはり、紙の特性は「形のあるモノ」ということなのだ。先に紹介したように、アンケートを取った学生たちに紙のマンガが好きな理由を聞くと、「形があって置いておける」という答えが大半を占める。

「やがて紙の本はレガシーなものになって、装丁や紙に凝った高価なものだけが残る」という人もいる。わたしも一時期はそう考えていたことがあったが、考えが変わった。読者が紙の本に求めているのは、骨董品やコレクションとしての価値ではない。中身があって形があることに意味がある。つまり紙であることが価値なのだ。雑多さが求められる雑誌はなおさらだろう。

呉の言うのも柳瀬と同じことだ。紙と電子では違う。どちらがエライのでもなく、どちらもいいところがあり、足りないところもある。

 台湾は、日本のマンガが早くから入ってきて、人気もとても高いのですけど、マーケットが狭いので、台湾のマンガ家の中でマンガだけで食べている人はほとんどいません。その点、日本には紙のマンガの大きな市場があって、そこに電子まで登場した。うらやましい、というか、そんな日本にいられるのがたのしい。

呉が言うとおり、われわれが考えるべきは、紙をいかにして電子に移行させるかではなく、それぞれの持つ特性を知りながら、それぞれの特性の中でマンガというコンテンツをより面白い方向に育てるか、ということなのだ。創作と娯楽の狭間でもがきながら……。