第7回 「紙vs電子」はWin, Lose or Draw

2018年2月23日
posted by 中野晴行

イメージ通りではなかった電子コミック時代

第1回の「出揃った電子コミックのプレイヤーたち」から連載をスタートしてまもなく一年が経つ。第1回では、コンテンツホルダーでもある出版社が本格的に電子コミックに舵を切ったことでいよいよ本格的な電子コミック時代が来る、ということを書いた。

たしかに電子コミック市場は右肩上がりを続けている。逆に紙の出版物は部数、金額ともに縮小に歯止めがかかっていない。予想通りといえばその通りなのだが、現状は思い描いていた電子コミック時代とは少し違っている。

肝心の「電子コミック」の未来像がよく見えてこないのだ。原因は三つある。

一つ目は、配信の中心になっているのが無料コミックアプリだということだ。無料コミックアプリはコミックを売るのではなく、コミックでお客を集めて、コミック以外の広告やスタンプを売るビジネスと考えたほうがいい。コミックはおまけみたいなものだ。配信元は内容の良し悪しよりも、いかに広告収入を挙げることができるのかを考えているし、無料でおまけを読み始めたユーザーにとっては、コンテンツは無料で享受できるのが当たり前になってきている。これでは、コンテンツビジネスとは呼べない。

二つ目は、出版社の電子コミック戦略がいまひとつわからないことだ。豊富なコンテンツを武器に市場拡大に乗り出すのかと思いきや、雑誌がマンガの中心だった時代と同じように、ウェブの新連載に注力して、せっかくの財産を埋もれさせている。もちろんウェブ連載からもヒット作は出ているが、過去のストックをうまく使えば、その何十倍もの収益が期待できるはずなのだ。この状況は、技術的には圧倒的に優位にありながら、その技術の活かし方がわからないまま、アメリカのベンチャー企業やアジアの新興国に後れを取ってしまった、日本の家電メーカーの末路とどこか似ている。

三つ目は、収益化は紙で、という考え方が当然のように語られていることだ。電子は無料で配信して、紙化したものが売れることでようやくリクープできるというわけだが、結果として、本来ならば紙の属性から自由なはずの電子コミックの文法が、紙の属性に縛られたままになっている。韓国で生まれたスマホ向けの新しいマンガ「ウェブトゥーン」も日本にやってきたとたん、紙で出版することを考慮してコマを縦に並べただけのものが多くなった。韓国のようにウェブで完結できていないのだ。

つまり、「紙から電子」という看板は立派だが、マーケティングも表現も紙のまま、という不思議な状態がこの一年の間、続いていたのだ。

読者が求めるのは電子? 紙?

もう一つ気になっているのは、読者の反応だ。

教えている大学で学生を対象にしたアンケートを行ったり、レポートに「紙のマンガは消えるのか?」というテーマを出すと、学生のほぼ全員が「紙のマンガはなくならない」「紙のマンガのほうが好き」という反応を見せる。韓国からの留学生でさえも「ウェブトゥーンよりも日本の紙のマンガが好き」という答えだ。これまでマンガ市場縮小の理由として言われてきた「若者のマンガ離れ」は、現実とは違うのではないか。

学生にアンケートをして、もう一つ面白い反応があった。それは先ほどの韓国からの留学生だ。「自分にとってウェブトゥーンは暇つぶしで、ゆっくり読むなら紙のマンガ」というのだ。1話目からビューを稼がなくてはならず、1話あたり5分程度で読まれることを想定しているウェブトゥーンでは、複雑な物語設定が難しく、スケールの大きな伏線の多い作品は成立しにくい、ということらしい。両者が別物だということを留学生に教えられたようなものだ。

いずれにしても、「紙のマンガ表現が若者は古臭いものになってしまった→だから、紙のマンガの魅力が失われた→そのためにマンガ市場が縮小した→紙のマンガは滅びて、スマホで読む電子コミックの時代になる」という論法は間違っている。それだけではない。この連載でも書いたように、スマホが電子通信デバイスの最終形態であるという保証はどこにもないのだ。新しいデバイスが登場したとき、スマホで読む電子コミックそのものが過去のものになる危うさを秘めている。これで、電子コミック時代到来と言えるのか。

紙と電子の売り方の違いとは

電子コミックを含めたマンガの未来を作るための方法は、老舗の出版社や大手ITベンチャー系の配信会社が気がついていないだけで、必ずあるはずだ。小規模の出版社や配信会社の中には違う動きがあるのではないか。

今回は、電子小説、電子コミックを手がけるユニークな電子書籍製作会社と、ひとり雑誌社として独創的なマンガ雑誌を作り続けている個人を取材して、コンテンツ作りに関わる人の本音を探ってみた。

はじめに紹介するのは株式会社リ・ポジションの柳瀬勝也社長だ。リ・ポジションは、出版社と契約して電子書籍の製作受注を行うほか、「夢中文庫」のレーベルでBL、TLと呼ばれる女性向け連載小説の電子出版事業を自社展開する会社だ。「夢中文庫」のタイトル数は約450点。最近になって、女性向け恋愛コミックやエッセイコミックの製作配信もスタートさせている。配信は無料でなく有料である。

「夢中文庫」のトップページ。

本社は東京の木場にあるが、電子書籍の製作は、福島県にある子会社リポジション郡山が行っており、こちらのほうが主力部隊になっている。

「郡山のスタッフは女性が中心。我々の仕事は別に東京でなくてもいいのです。地方のほうが家賃も安いし、いい人材が選べるのも魅力です」と語る柳瀬。実は、電子コミック関連の会社を取材していつも疑問に思っていたのが、ほとんどの会社が東京都心の真新しいビルにオフィスを構えていることだった。IT化でもっと地方が活用できるはずなのに、IT系企業がそれをなぜ実践できないのか、と感じていたのだ。このことだけで、リ・ポジションには好感が持てる。

柳瀬が電子書籍編集の仕事をはじめたのは2012年。はじめは製作受注の仕事だけだったが、スタッフが育ってきたことや編集を外注できる先も増えたことから自社の電子出版にも踏み切ったという。

そんな柳瀬に電子コミックの現状はどう見えているのだろうか。

柳瀬 僕自身は「コロコロコミック」に始まって、ずっと紙で読んできていますから、紙への思い入れは強いんです。試験的に「夢中文庫」のオンデマンド出版もにも取り組んでいます。ただ、そもそも紙と電子では売り方が違うんです。そこを理解されてない人が多いのではないでしょうか。

——具体的にどこが違いますか。

柳瀬 僕らにとってはタイトル数を増やすことがまず必要です。タイトルが増えると、たとえば電子書店で半額キャンペーンをやったときに旧作の売り上げがドーンと増えて収益につながります。そういう収益モデルなんです。これまでの紙の出版だと、とにかく毎月毎月休まず新刊を出していかないと利益が出ませんよね。出版社は新刊を出す代わりにどんどん旧作を絶版にしていく。コンテンツが資産という考えが希薄なんです。僕らは、すぐに売れるかどうかは別にして、コンテンツのストックを積み上げていくわけです。

もう一つはボリュームですね。1巻や1話のページ数は紙より少なくていいんです。僕らの場合、基本は書きおろし作品です。単行本で書き下ろす作家さんの負荷を下げる意味でもページは多すぎないほうがいい。巻数もそれほど増やさないようにして、10巻くらいで完結させてます。紙だと、それなりの厚みが必要ですし、巻数は長いほどいいことになりますよね。電子だと完結記念のキャンペーンを打つタイミングも大切なので、そこそこの巻数のほうがいいわけです。

また作家さんたちに言っているのは「ツイッターやフェイスブックでわざわざ宣伝しなくてもいい」ということです。電子の場合、作家さんが自分のまわりに拡散したってそれほど売れるわけではないんです。電子書店でキャンペーンを展開して、そのバナーが目立つ位置に来るように工夫するほうがはるかに効率的です。紙の本の場合、サイン会やって、講演会やって、手売りしていく部分が大切だと考えられていますね。そのせいなのか、出版社の人が作家さんのフォロワー数を気にすると聞きますけど、ちょっと努力の方向が違うような気がします。

柳瀬が言っているのは、これまでの出版が扱ってきたのはコンテンツを詰めた出版物というモノであり、電子が扱うのはコンテンツそのもの、という実に単純なことだ。ところが、単純な区別ができないまま「紙から電子へ」と大騒ぎしているのが電子コミックの現状なのだ。紙は紙、電子は電子と区別した上で、それぞれの現在と未来を語らないことには、問題点も解決方法も見えてこない。

優良なコンテンツのストックこそ財産

柳瀬の言う「コンテンツのストック」という点で圧倒的優位に立っているのは既存の出版社だ。紙の出版がピンチと言われているが、出版社の編集者たちは意外に落ち着いている。企業体としての出版社にはまだ余裕があるからだ。それは、コンテンツという資産を持っていることからくる余裕だ。

さらに、新しい資産を生み出すノウハウを持っているのも出版社だ。出版社の資産でも、不動産は切り売りしていくといずれゼロになる。しかし、コンテンツは仮に全部売ってしまっても、新しく作り出すことができる。会社ごとコンテンツが売られても、新しいコンテンツを生み出すノウハウを持った編集者は新しい経営者にとっても金の卵を生むガチョウになりうる。

そこまでわかっていながら、売り方の部分で旧態から抜けられず、正しい手法に気が付いていないというのなら問題だ。

さらに、コンテンツを扱うという立場から、柳瀬は無料マンガアプリがひっぱる電子コミックのあり方にも疑問を投げかける。

柳瀬 僕は無料配信ではなく有料配信にこだわっています。作家さんが苦労して作り上げたものをこっちの都合で無料配信するのはいけないと思うんです。それに、広告収入や著作権ビジネスで収益を上げることを考えるよりも、作品を買ってもらうほうが確実だし、収益も上げやすいはずです。ビジネスとしての面白みもあります。僕はこの仕事を始める前に芸能系のブックキング仲介の仕事をしていて、大手のプロダクションとも仕事をしてかなりの儲けがありましたけど、やめました。右から左に動かすだけでお金になっても、面白みがないからです。

投稿作品などを集めて低コストでつくったものを、タダで配ってそこに貼りつけた広告で稼ぐというのは、タレントを右から左に動かして儲けるようなものです。効率的なのかもしれないけど面白くない。

——有料ということになると、読者を満足させる必要が出ますね。無料の暇つぶしとは違ってきます。

読者の満足は、むしろ当たり前ですよね。僕らは、いいコンテンツをたくさんストックしたいのです。それがビジネスにつながるのですから。編集者の存在は欠かせませんし、当然、作家さんへのギャラについても考えています。紙のように初刷部数にあわせた印税がない、というのは電子の一番のネックです。うちの場合は、保証印税みたいな形でお支払いすることもやっています。食べていける作家さんの裾野も広がっているし、作家を目指す人にとっても電子書籍はチャンスが大きい。今は、僕らのように小さい会社でも存在感を示せる面白い時期なんだと思います。

紙の出版社も電子書籍関係者も、ビジネスのあり方をよく理解しないまま、大きなパイを求めて動き始めて、行くべき方向を見失っている。一方で、リ・ポジションのような小さな会社は、自分たちの会社の収益モデルを堅実に考えている、小さいところほど収益モデルを見誤った時のリスクが大きいからだ。柳瀬の発言に私は未来の電子コミックの未来に光明が見えるように感じた。

電子コミック時代に生き残る小さな雑誌

では、紙の出版に目を向けてみよう。

「紙は終わりだ」と言われ続ける中で、「ひとり出版社」と呼ばれるような小規模な版元の元気がいい。立春の2月4日に世田谷区桜新町で小さな出版社による「ポトラ」というブックフェアが開催され、わたしも足を運んでみたが、大規模なブックフェアにはないような熱気で、何よりも展示されている一冊一冊の本の存在感に驚かされた。思わず手に取りたくなり、買って帰りたくなるのだ。「紙は終わりだ」というのはどこの国の話かと思うほどだ。

マンガの世界にも長年地道な活動を続けているひとり出版社がいくつもある。山上たつひこや宮谷一彦ら1970年代に活躍したマンガ家の作品の単行本化に取り組んでいるフリースタイル、三条友美や中川ホメオパシーらカルトなマンガ家の単行本化に取り組むおおかみ書房、今回取材した総合マンガ雑誌「キッチュ」もその一つだ。発行人兼編集人の呉ジンカンは台湾出身。日本に留学して京都精華大学に学び、現在は京都嵯峨美術大学で教壇に立つという経歴の持ち主。日本、中国、韓国、台湾在住者を対象として京都から新人マンガ家のデビューを支援する「京都国際漫画賞」の審査員を務めるほか、日台のマンガ交流にも積極的に関わっている。

そんな呉が2009年から年1冊ペースで刊行しているのが「キッチュ」だ。いままでの執筆陣はベテランの山田章博やひさうちみちお、斎藤なずな、さそうあきらから、ムライ、モサパサ、スケラッコら若手まで幅広い。題字は、時代劇マンガの巨匠・平田弘史が揮毫している。小説やコラム、評論にも力を入れていて、特集では『ガロ』や台湾マンガも取り上げている。また、7号からはワイズ出版創刊第一号として、同社を通して書店流通にも載せた(2018年春にはワイズ出版第二号を発売する予定)。めざしているのは創作と娯楽の狭間。

「キッチュ」創刊第二号。

それにしても、印刷や流通にコストのかかる紙の雑誌を個人で出し続けるこだわりはどこからきているのだろうか?

 僕自身は電子が嫌だとは思いませんし、紙へのこだわりが強いわけでもありません。掲載しているマンガは「キッチュ」のポータルサイトで画像入りで紹介したりしています。こだわりはないのですけど、あえて言えば、人と会ったときに「こういうことをやってます」と自己紹介がわりに出すのに便利、ということがあるかもしれません。電子だとサイトにアクセスしてもらわないといけませんが、紙の雑誌なら手渡すことができます。原稿をお願いするときも、形のあるものを見てもらえるので説明が早いし、マンガ家さんにとっては紙のほうがモチベーションが上がる、という利点もあります。多様性があるという意味ではいろんなコンテンツが一冊にまとまっているのもいいですね。電子だといろいろ入っていても読むのはそれぞれバラバラですよね。

やはり、紙の特性は「形のあるモノ」ということなのだ。先に紹介したように、アンケートを取った学生たちに紙のマンガが好きな理由を聞くと、「形があって置いておける」という答えが大半を占める。

「やがて紙の本はレガシーなものになって、装丁や紙に凝った高価なものだけが残る」という人もいる。わたしも一時期はそう考えていたことがあったが、考えが変わった。読者が紙の本に求めているのは、骨董品やコレクションとしての価値ではない。中身があって形があることに意味がある。つまり紙であることが価値なのだ。雑多さが求められる雑誌はなおさらだろう。

呉の言うのも柳瀬と同じことだ。紙と電子では違う。どちらがエライのでもなく、どちらもいいところがあり、足りないところもある。

 台湾は、日本のマンガが早くから入ってきて、人気もとても高いのですけど、マーケットが狭いので、台湾のマンガ家の中でマンガだけで食べている人はほとんどいません。その点、日本には紙のマンガの大きな市場があって、そこに電子まで登場した。うらやましい、というか、そんな日本にいられるのがたのしい。

呉が言うとおり、われわれが考えるべきは、紙をいかにして電子に移行させるかではなく、それぞれの持つ特性を知りながら、それぞれの特性の中でマンガというコンテンツをより面白い方向に育てるか、ということなのだ。創作と娯楽の狭間でもがきながら……。

デジタル版「本で床は抜けるのか」について

2018年2月20日
posted by マガジン航

本誌で2012年から2014年にかけて連載され、2015年には単行本化された「本で床は抜けるのか」の電子書籍版の販売に関して、ボイジャーから下記のステートメントが発表になりましたので転載いたします(「マガジン航」編集部)


西牟田靖 著 デジタル版「本で床は抜けるのか」について

この作品は書籍として、本の雑誌社から2015年3月発売されました。価格は1600円(税別)。そして、今年3月23日に中央公論新社から文庫本、価格800円(税別)で発売が行われる予定です。文庫化に際して中央公論新社は電子書籍の発売も行うとのことです。

西牟田靖著「本で床は抜けるのか」は、Web雑誌・マガジン航において2012年4月17日から2014年7月10日まで連載が行われました。Web雑誌・マガジン航は、当時ボイジャーの100%支援のもとに活動・運営していたこともあり、単行本化される際にデジタル出版はボイジャーから販売されることになりました。デジタル出版の価格は、単行本の売上への心配から低く設定することはできず1200円(税別)とし、2015年6月18日発売開始いたしました。

中央公論新社から電子書籍の販売が行われる予定との情報は、2017年11月に作家・西牟田靖さんから伝えられました。そして、西牟田靖さんはボイジャーでのデジタル出版の継続を強く望まれました。

はたして、同じ作品のデジタル出版が2社の版元から販売されることが可能なことかどうか、私たちは検討いたしました。作家・西牟田靖さんとボイジャーとの間で締結されたデジタル出版に関わる契約において、ボイジャーはデジタル出版をまだ相当期間配信・販売する正当な理由を保持していることが確認されました。これは排他的な権利でもあり、契約上ボイジャーは他社のデジタル出版を市場から排除する申し立てのできる立場でありました。

一方で、このような権利主張が何をもたらすかの冷静な判断も必要です。私たちボイジャーは、作家・西牟田靖さんがもっとも有益にこれからの創作活動を推進されることを願う気持ちでいます。作家活動の範囲は広くあり、デジタル出版は全体の売上のなかではまだまだ少なく、作家の新たなる創作活動を支援する原動力になり得ていません。そうである以上、何よりも作家に対して、また読者に対して、混乱を与える行動は慎まなければなりません。その観点から、ボイジャーはこの際、デジタル出版から本作品の撤退を表明したい旨、作家・西牟田靖さんにお伝えすることになりました。

ここに至ってなお、作家・西牟田靖さんはボイジャーでのデジタル出版の配信・販売の継続を願われました。この作品が生まれる経緯を考え、またデジタル出版に際して協力を惜しまなかった私たちの活動に強い印象を抱いてくださったからです。この事実についてはデジタル版「本で床は抜けるのか」の「あとがき」に記されていることでもご理解いただけることでしょう。この「あとがき」は以下よりご覧いただけます。

https://r.binb.jp/epm/e1_70425_13022018171236/

作家・西牟田靖さんの意志を十分に受けとめ、私たちは以下の通り結論することとなったのです。

1.デジタル版「本で床は抜けるのか」はボイジャーのRomancerストアにて販売を継続する。

2.自社直販Romancerストアでのデジタル版「本で床は抜けるのか」の価格は自由に決める。

3.現状、その販売価格は250円(税別)とする。

4.この新しいスタンスでの発売は、2018年2月20日(火)とする。

5.ボイジャーは、2018年2月19日以降、直販Romancerストア以外での販売を中止する。

私たちボイジャーは、西牟田靖 著 デジタル版「本で床は抜けるのか」を引続き自社直営Romancerストアで販売する者として、本作品が広く、低廉に、読者の方々に閲覧されていく活動を継続してまいります。一人でも多くの読者に、この情報が届けられることを切に願うものです。

株式会社ボイジャー

第1回 アマゾンがリアル書店を展開する思惑

2018年2月9日
posted by 大原ケイ

ニューヨークに2軒できた「アマゾン書店・ブックス」(アマゾンが展開する実店舗)をこのところ何度か訪れた。1店はセントラルパークの南西端に位置するコロンバス・サークルにあるショッピングセンターの中に、もう1店は目の前がエンパイア・ステート・ビルという立地で、ショッピング客が多い34丁目界隈にある。通りすがりの観光客なら立ち寄る人もいるだろう。

普段からアマゾンでネット通販を利用している人なら、アマゾンの名前が路面店に冠されているのを見て興味をひかれるかもしれない。だが、ここはよく本を読む人にとってなんの魅力もない場所に思える。ずっとこの違和感の正体を考えている。

アマゾン・ブックスのコロンバス・サークル店(撮影:大原ケイ)。

マンハッタンの34丁目店(撮影:大原ケイ)。

ニューヨークの本屋は次々に廃業

2017年の11月にアマゾン・ブックスの第1号店がシアトル郊外のモールの一角にできてから、いよいよアマゾンが全米に残りわずかなインディペンデント書店を潰しにかかったか、と恐れる報道も一部には(特になぜか日本で)見られた。このまま全米に最大で数百の店舗規模を考えている、と早とちりした不動産関係者のリークもあったが、そんな予想に反して、アマゾン・ブックスは最初の一握りの店舗がオープンした後は「開店準備中」も含めて16店で止まっている(2018年1月末現在)。

アマゾン・ブックスは現在、カリフォルニア州に2店舗、ニューヨーク州、マサチューセッツ州、ワシントン州に各2店舗、イリノイ州、オレゴン州、ニュージャージー州に各1店舗を展開。さらに近日中にメリーランド州、テキサス州、ワシントンD.C.にも開業の予定。

2008年秋のリーマン・ショック以降もまったく地価が下がらないニューヨークでは、イーストビレッジにあったセントマークス書店も、珍しいクックブックを集めたボニー・スロトニク書店も、力尽きてクローズしてしまった。マンハッタンはもう薄利多売の本屋さんが店を回していけるような場所ではなくなってしまったということだろう。いまもがんばってる書店は自社ビルだったり、長期リースがまだ切れないだけで、家賃の値上がりや店主後継者がいないために廃業や移転を余儀なくされている店が後を絶たない状況だ。

アマゾンがその気になれば全米一の書店チェーンを展開することなど容易いことだろうに、アマゾン・ブックスはなぜ雨後の筍のように増えていないのだろうか? その間にもアマゾンはオーガニックスーパーのホールフーズを買収したり、無人レジ店を設置している。そうした積極的な戦略の中では、むしろそのスローペースのほうが気にかかる。やはり、アマゾンは全国に「ブリック&モルタル」と呼ばれるリアル書店を大々的に展開する気はなさそうだ。

店舗の設置を通して欲しかった現場の情報は、既存のアマゾン・ブックスを通して既に入手しているのかもしれない。あるいは、これまで店舗を構えてきたシアトルやボストンといった都市部の不動産物件は、最初から10年契約が当たり前で、そんなに悠長にデータ集めに時間をかける必要はないと判断したのかもしれない。本棚を見て回っても、こうした考えばかりが浮かんで来て、そこに並んでいる本に集中できない。見た目にはかなり小奇麗で洒落た空間であるはずなのに。

電子書籍や音声アシスタント端末も陳列

アマゾン・ブックスでは本はほとんど全てが平積みか面陳だ。それをきれいに浮かび上がらせるLCDライトが仕込まれた本棚は特注だろう。雑誌の棚があり、座り心地のいいレザーの椅子が置かれた様子は、飛ぶ鳥をも落とす勢いのあった頃のバーンズ&ノーブルを偲ばせる。ジャンルのレイアウトもわかりやすく、ディスプレイは黒を基調としたトーンで統一感がある。なによりも、面陳のおかげで首を傾げずに本を眺められる(英語の本は「背差し」だとタイトルが横倒しになるため、つい首が右に傾ぐ)。

すべての本は表紙を前に向けた、いわゆる「面陳」で並ぶ(撮影:大原ケイ)。

他の書店と違うところといえば、アマゾンが展開するハードウェア製品が集められている点だ。2012年にリテール(量販店)のライバルであるウォルマートやターゲットからキンドル商品を引き上げて以来、店頭でアマゾンのガジェットを売っているところがなくなっていた。

いまや何世代ものバラエティーが揃った電子書籍リーダー「キンドル」や、タブレット「キンドルファイア」、人工知能アレクサを搭載した音声アシスタントである「エコー」、映画やドラマ、スポーツなどが楽しめるデバイス「ファイアーTVスティック」などが並べられている。

「キンドル」シリーズの各種端末(撮影:大原ケイ)。

音声アシスタントの「エコー」も陳列(撮影:大原ケイ)、

昨年の暮れからアマゾンはひっそりアマゾン・インドで独自のスマートフォン、「10.or」 (Tenor テノールと呼ぶらしい)を売り出した。これがインド限定とは思えないので、いずれ全世界でも発売するだろうし、そのときにこそ、アマゾンが開発した新しいスマホを手にするためにITギークな人たちがアマゾン書店にやってくるというわけだ。すでにアマゾンのガジェットコーナーには書店員とは別の担当者がいて、客のニーズを聞きながらキンドルを選んだり、エコーでできることを詳細に説明してくれる。

アマゾンが開発する格安スマートフォン、「10.or」の公式サイト

これこそ他のリテールでショールーム機能が果たせないアマゾンオンリーのガジェットを売るために、つまり実際に客に触って試してもらうためにアマゾンが作りたかったリアルな「場」だろう。だが、スマホを売るためにわざわざ書店を作ったとは思えない。ハードウェアの陳列・デモだけならば、グーグルがやっているような期間限定のポップアップ・ストアで事足りる話だ。アマゾンはリアル書店で何をしようというのか。

プライム会員への誘導が目当て?

ニューヨーク市内の2店から判断すると、店の広さは100坪前後、在庫はマスコミを通じて約5000タイトルと報じられていたが、もう少し少なく、3000タイトルぐらいとみた。同じ規模のインディペンデント書店ならこの3倍近いタイトルを揃えているだろう。売れ筋の本だけを厳選、つまりオンラインストアのホームページを眺めているような気になる。

本の値段はプライム会員ならオンラインと同様、かなりのディスカウントで買える。プライム会員ではない人には小売希望価格(定価)だ。アマゾンほどでなくとも、売れ筋の本を何割か安く買うことに慣れているアメリカの客には高く感じられるだろう。そこですかさずレジ係が声をかける。「いまこの場で1ヶ月無料のプライム会員にお試し入会していただくと、ディスカウント価格になります」と。だからこの書店はアマゾンのプライム会員誘致キャンペーンの場だとも言える。

アマゾン・ブックスの書店員の仕事は楽だ。IT企業特有のフレンドリーな接客さえできていれば、客が探している本は手持ちのタブレットで調べてそのタイトルがある場所さえ突き止めればいいのだし、棚になければ「ぜひぜひオンラインでお求め下さい」と勧めておけば取り寄せ注文をとる必要もない。本のことを誰よりもよく知っている書店員、などというのはアマゾン・ブックスには無用なのだ。もしかしたら「店員」そのものも。

アマゾンは、本社のお膝元であるワシントン州シアトルに、レジのない無人コンビニ「アマゾン・ゴー」を一般客に向けてオープン(社員限定の店はあった)した。さらに「アマゾン・フレッシュ」という、ネット予約しておいた新鮮な野菜を指定時間にドライブスルーで受け取れるという新形態のスーパーも始めている。都市部のプライム会員相手に注文したものを1時間内に届ける「プライム・ナウ」というサービスもある。

その一方で、ロジスティックスの中抜きもスケールが大きく、アマゾン専用の貨物用ジャンボジェット機を数十台リースしていたり、中国の工場から直接商品を受け取るための貨物船会社の免許もとっている。無人ドローンの実験も行い、ジェフ・ベゾス社長は宇宙に有人・無人のロケットを飛ばそうと、ブルー・オリジンというベンチャーのエアロスペース会社を作った(月からもオーダーできる日も遠くないのかも)。

アメリカは「出版不況」ではない

アマゾンが「ディスラプション(創造的破壊)」をもたらそうとしているのは、グローバル規模の「リテール」そのものであり、全米にわずかに残ったインディペンデント書店を潰すというような“ちゃちな”目的は持ち合わせていないだろう。そう思うと、「アマゾン・ブックス」と名乗っているこの店は「本屋の仮面を被った」何か別のものだという気がしてならない。

思えば、アマゾンが最初にオンラインで売り出したものこそ「本」だったが、それはリテール全体に投じた最初の石でしかなかった、と、いまなら思える。その最前線に立たされた「書店」が、どうアマゾンを迎え撃ってきたか。いまもどう戦っているのか。この短期集中連載では、もう少し突っ込んで考えてみたい。

米国内の書店は、本能的にそのことを見抜いているが故に、アマゾン書店が次々とオープンしても、自分たちの店が潰れるとは思ってはいないようだ。その一方で、店舗数で国内第4位だった「ブック・ワールド」というチェーン店が経営破綻に追い込まれたばかりでもある。あまりニュースにはなっていないが、最大手バーンズ&ノーブルも新たな展開を試しつつある。そしてインディペンデント書店と呼ばれる街角の小さな本屋さんも、マンハッタン以外の場所でまだまだ元気に息づいている。

「出版不況」という言葉を英訳しても、この街の人たちには通じない。

(短期集中連載・つづく)

神保町ブックセンターは本の町を再起動させるか

2018年2月1日
posted by 仲俣暁生

神保町交差点の角に立地し、ながらく「岩波ブックセンター」の名で親しまれてきた信山社は、同社の代表取締役会長だった柴田信さんの急逝により、2016年11月に休業・破産手続きにはいった。その後、用途が宙ぶらりになっていた「本の町」の一等地の行方には、多くの人が期待や不安とともに、関心を寄せていたことだろう。

2016年11月に休店した直後の信山社(岩波ブックセンター)。

この岩波ブックセンターの跡地に、「神保町ブックセンター with Iwanami Books」(以下、神保町ブックセンターと略記)という施設が今年4月に開業することを、その運営主体となるUDS株式会社が1月31日に発表した。広い意味での「本の施設」としてこの場が続くことを知り、私もホッとした気持ちになった。

プレスリリースによると、神保町ブックセンター は書店・コワーキングスペース・喫茶店の複合施設であり、「本を中心に人々が集い、 これからを生きるための新しい知識・新しい仲間に出会える”本と人との交流拠点”となる場」として企画・設計・運営されるという。同センター内には、日中は喫茶店で夕方以降は酒も楽しめる「本喫茶」や、コワーキングスペースや会議室などからなる「仕事場」があり、後者のワークラウンジでは岩波書店の本や著者のイベント、連続講座、読書会などが定期開催される予定だ。

プレスリリースで披露された神保町ブックセンターの内観パース。

神保町ブックセンターの運営には、東京・下北沢の本屋B&Bの共同経営者で、青森県八戸市の市営施設、八戸ブックセンターを手掛けた実績をもつNUMABOOKS代表の内沼晋太郎さんがアドバイザーとして関わることも同時に発表された。

神保町ブックセンターの事業主体となるUDSは、まちづくりにつながる「事業企画」「建築設計」「店舗運営」を事業内容とする企業で、東京のほか滋賀県近江八幡市にも事業所をもっている。株主は小田急電鉄であり、日本全国で商業施設、ホテル、住宅、公共施設、子ども関連施設などの企画・設計、運営に関わってきた。また「京都食べる通信」「滋賀食べる通信」も発行している。

「ブックセンター」とはなにか

神保町という「本の町」の中で、たんに本を売るだけではない「本の場所」をどのように位置づけ、活かしていくのか。八戸ブックセンターを昨年春に訪問した後、「マガジン航」に寄せた短い訪問記のなかで私はこんなことを書いた。

八戸ブックセンターは、さしあたり書店と図書館の中間的な施設といってよいと思う。さっさと本を選んで買って帰ってもらうのではなく、むしろ館内で本をゆっくり読めるような環境を整えている。読みたいだけここで読み、もしも気に入って本を持ち帰りたくなったなら、買い上げてくれればいい。そんな距離感を演出しているように思えた。

同じこの記事で私は、八戸ブックセンターが「読むこと」と「書くこと」の循環を生み出す場所をめざしているとも書いた。八戸のこの施設を訪れたことで、そのような循環が促される、経営的にも持続可能な「ブックセンター」が日本中のどんな町にもあったらよいとも考えるようになった。もちろん、東京にも――。

「アートセンター」が美術館も劇場もミュージアムショップもレジデンスも包含した施設でありうるように、本にまつわるさまざまな活動ができる場所のことを、「ブックセンター」と呼ぶのはとてもいい。表向きの看板は書店でもいいし、図書館や広義のライブラリーでもいい。ブックカフェでも飲み屋でも、本のあるコワーキング・スペースでも宿泊施設でもいい。それらすべてを包み込む、ゆるやかな概念として「ブックセンター」というものが定着してほしい。

もちろん神保町は「本の町」であるだけでなく、日本有数のビジネス街でもあるし、いまなお学術や文化にとって大事な町でもある。神保町ブックセンターが、どんな立場の人にも開かれた、文字どおりの”本と人との交流拠点”になり、この町を――そして身動きができなくなりつつある日本の出版界を――再起動させるきっかけとなってくれることに、心から期待したい。

小説家・上田岳弘さんに聞く
――文学✕テクノロジー✕シンギュラリティ

2018年1月25日
posted by 仲俣暁生

以前のエディターズ・ノートでも紹介したように、文芸誌「新潮」2017年10月号から連載が開始された上田岳弘さんの長編小説『キュー』が、Yahoo! Japanの特設モバイルサイトにて並行して無料公開されている。しかもテーマは「シンギュラリティ(技術的特異点)」を通過した後の世界という、純文学としてはかなり突飛な設定だ。

従来の文芸誌とはことなる新しいチャネルで読者に作品を届けようとする姿勢に共感し、上田さんにはいつかお話をうかがいたいと思っていたところ、昨年の10月下旬に虎ノ門ヒルズで開催されたTORANOMON BOOK PARADISEという本のイベントにお招きすることができた。以下は、このイベントの際に「文学✕テクノロジー✕シンギュラリティ」という題名で行った公開インタビューを再構成したものである。

公開インタビューを行った「TORANOMON BOOK PARADISE」の会場

強度をもったテキストが未知の読者に「誤配」される

——「新潮」とYahoo! Japan、タクラムというデザイン会社の三者のコラボレーションとして『キュー』のネット無料配信プロジェクトが始まった経緯を教えてください。

上田 そもそものきっかけは、2015年に『私の恋人』で三島由紀夫賞をいただいたあたりで、Yahoo! Japanの岡田さん、西村さんと飲んでものすごく盛り上がったことです。Yahoo! Japanとしても創業20周年を迎える節目の年なので、ページビューやクリック率に還元できない価値を提供していかなければならない。お二人は僕の小説をとても気に入ってくれていて、その一つとして「小説もいいんじゃないか」という話になった。僕のほうではデビュー前から『キュー』というタイトルの長編を書きたいと思っていて、だったらこういう小説を書きたい、と提案しました。

そのときすでに「新潮」とも長編を書くという話をしていたので、ざっくりした方向感が出来あがってから「新潮」編集部に伝えました。彼らの指針は明確でしたね。第一に「それは文学のためになるか」を考える。その次に「作家のためになるか」、最後に「新潮」という雑誌や新潮社という会社のためになるかを考える。この順番で考えた結果、いずれも大丈夫なので乗りましょう、というのが「新潮」編集長・矢野さんの返答でした。

『キュー』のモバイル版特設サイト。

——開始後の反響はどうでしたか。

上田 このプロジェクトが開始した9月7日にYahoo!ニュースのトップ下に特設ページへのリンクが載り、数百万の露出がありました。10月現在で、十万単位のユーザーが小説に目を通したと聞いています。「誤配」という言い方がありますが、本来届くはずじゃなかった読者にも届いた。数字を例に出しましたが、しかし本質的なことは規模ではありません。バナーをクリックした先のサイトで、たまたま僕の小説を読んでみたら面白かった、という体験をした人がいたのであれば、このプロジェクトをやった価値があります。

インターネットで配信することを目的に、その読者層に寄ったものではなく、文芸誌に載るだけの「強度」をもった純文学のテキストが、このプロジェクトでなければ届かなかった人々に届いたときになにが起こるか。僕にとってはそれがこのプロジェクトの楽しみです。副次的な効果として、『キュー』の初回が載った「新潮」2017年9月号の売上も一割ほど増えたと聞きました。連載開始の発表会ではNHKや新聞各社、テック系のニュースサイトなど50社ほどに足をお運びいただきましたが、いろんなメディアでこのプロジェクトが話題になったことが、「新潮」という雑誌にとっても告知効果につながったのかもしれません。

そもそも「あまり小説を読まない人」にも二種類いると思うんですよね。一つは何をどうやっても読まない人。でも面白ければ読むという人や、「昔は小説も読んでいたけれど、いまはノンフィクションしか読まない」という人もいる。そういう人たちが今回の実験を面白がってくれて、一つでも二つでもその人たちの心に残る文章があればいいなと思います。

——純文学作品が電子テキストとして流通し、読まれていくことについては率直にどう思いますか。

上田 僕が大学生だった十数年前、電車に乗ってる大人はだいたい日経新聞を、学生はマンガや文庫本を読んでいました。でもいまはほぼ100パーセント、スマホですよね。これだけスマホの利用率が高まっているなか、純文学も当然そこに流れていくべきだろうと思っていました。

そうしたなかで今回の試みの特徴は、スマホでもあえて「ブラウザで読む」ということ。電子書籍のアプリケーションをインストールする必要がなく、URLさえ打てば、読んでほしいフォントで固定されたかたちでテキストが読める。電子テキストの読みやすさはこれからもどんどん進化していくでしょうが、今回は作品へのアクセスが最短距離で可能なところがもっとも斬新だと思います。

上田岳弘さん(写真提供:新潮社)

純文学は「無差別級」である

——作家デビューに至るまでの個人史を少し聞かせてください。

上田 上に兄や姉が3人いる、6人家族で育ちました。本が多い家でしたね。ジャンルもすごく雑多だった。そのうち兄や姉が学校で文字を習い始めて、まだ4〜5歳だった僕にも教えようとする。おかげで就学前からひらがなぐらいは書けるようになり、「これでお金をもらって生きていけるなら、それがいちばんいいじゃないか」と思うようになりました(笑)。そういう原風景的なものがあります。

その後は高校が理系コース、大学は法学部と文学とは逆の方向へと流れていき、大学卒業間際に「本当に作家になるのであれば、そろそろやらなければ」と思って、本格的に書き始めました。それまでも習作は書こうとはしていたけれど、きちんと最後まで書き終えられたのは22歳か23歳のとき。卒業後も2年くらい、「作家志望」ということでぶらぶらしていて、その後にIT系企業の立ち上げにかかわることになったんです。

——上田さんは兵庫県明石市のご出身ですよね。『キュー』では人類にとって戦争とは、原子力とは?という大きな問題が扱われます。これらテーマはご自身の阪神淡路大震災の体験となにか関係がありますか。

上田 原爆のことは誰でも小・中学校で習うと思いますが、僕の育ったあたりは修学旅行も広島・長崎コースなので刷り込みが強いのかもしれません。阪神淡路大震災のときはまだ向こうにいて、淡路島にあった両親の祖父母の家も、片方は大丈夫だったけれど片方は全壊してしまいました。震災のインパクトが大きかったのか、20代前半に小説を書き始めたとき、なぜか「生き埋め」のモチーフが毎回のように出てきた。『塔と重力』にも生き埋めのモチーフがありますが、あれはデビューして少し落ち着いたので、もう一回やってみようという感じで書いたんです。

『塔と重力』(新潮社刊)

——「誰にも読まれないテキスト」というモチーフも繰り返し登場します。

上田 多分デビュー前に自分はこのまま誰にも読まれないで終わるのかな、という恐怖心があったんだと思います。デビューするかしないについては、今ではさほど重視すべきではないと思っていますが、当時はその恐怖心を執筆の動機付けにしていたような気がします。「太陽」の登場人物である赤ちゃん工場の工場主、ドンコ・ディオンムが書いていた「誰にも読まれないテキスト」は明確にその思いで書いていましたね(笑)。

——いまは「小説家になろう」という小説投稿ウェブサイトもあり、文芸誌で新人賞をとる以外のデビューへの道筋ができはじめています。また円城塔さんや宮内悠介さんなど、SFと純文学の両方の世界で評価される現代作家もいます。上田さんの場合、文芸誌以外、たとえばSFというジャンルからデビューする、という選択肢はありえましたか?

上田 あまりSFのつもりで書いていなくて、僕が普通に小説を書くとこうなってしまう、というのがいちばん実感に近いんです(笑)。純文学は格闘技でいうと「無差別級」、つまり何でもありの世界であって欲しい。なのでデビューするなら純文学がいいなと思っていました。ジャンル小説だとどうしても過去の作品を参照して書かなければならないと思うんですが、純文学の場合、文学として成り立っているか否かだけが問われるべきです。

よく「器」という言い方をするんですが、同じ料理でも器によって受けとめられ方が違うように、まったく同じ文章でも、SFのレーベルから出るのと純文学のレーベルから出るのとでは受けとめる人の気持ちが違う。「純文学」という器に入ってテキストがやってくると、「これはすごいものかもしれない」と思って受け取る側も読む。要は単に読んでいて楽しいかどうか、と言う尺度では読まない。そうやって読んだもので心が動いたとき、何かが発生する——それがあえて「純文学」をうたった作品群の無視できない重要な機能だと僕は思っているんです。今回のプロジェクトも、その前提がなかったら始まっていないような気がします。

——どういう読書歴から、そうした文学観は培われてきたのでしょうか。

上田 完全に乱読タイプですね。いちばんはじめに読んだ純文学作品も、姉や兄が家で読んでいた村上春樹さんとか吉本ばななさんの本でした。本気で作家になろうと決めたとき、自分が「文学っぽい」と思った本を大量に古本屋で買ったり図書館で借りたりして、一年で200冊くらいをまとめ読みしたことがあるんです。そのときに夏目漱石、フヨードル・ドストエフスキー、ウイリアム・シェイクスピアの全作品を読みました。あの頃の読書体験が、いまの自分にとっても創作のベースになっています。

物語の構造に「手が触れる」瞬間

——上田さんの小説の持ち味となっている、ある意味で「ほら話」とも思えるほど宇宙規模に広がる発想の壮大さや、すべてを見通すかのような視点はどこから生まれてきたのでしょう。

上田 小学校に入る前から、妄想的というか、壮大なことを考える子どもでした。もしかすると、それからずっと成長していないのかもしれません(笑)。さきほどの「無差別級」と同じことですが、せっかく書くならすべてを包含したもの、いちばん「外側」のものを書きたい性格なんです。

いまは偶々こういう形になっているものも、もしかしたら違った形でありえたかもしれない。人間は現在はこういう姿をしているけれども最初はどうだったのか。クロマニヨン人と現生人類とでは、脳の性能はあまり変わらないのに、クロマニヨン人の時代と現代とはまったく違う社会になってしまっている。であれば、十万年先の人類社会も当然、いまとはまったく違っているだろう。そんなふうに「フラットに見るとこうなるんじゃないか」という見方をすることに喜びを覚えるタイプなんです。

たしかミシェル・ウエルベックさんの小説で、いきなり機械の描写を延々と続けることを想像する箇所があります。『地図と領土』だったかな?これを書いて小説になるのか?というような描写なんですが、ウエルベックさん自身が楽しんで書いている。僕もそんなふうに執筆自体を楽しんでいるところがあります。

——今回の『キュー』のようなスケールの大きな作品は、事前にある程度まで構想を固めてから書きはじめるのでしょうか。

上田 作品の細部は、事前にあまり考えないようにしています。『キュー』の場合も、まず「キュー」という音が頭にあって、あとは戦争について書くことになるだろうという直感だけがありました。面白いもので、書いているうちに、読まなくてはいけない本に行き当たるんです。

「太陽」を書いてるときも、最後のほうでゴットフリート・ライプニッツの『単子論』をどうやら読まなければならないとわかった。いま自分が考えていることについて、昔の偉い人も何か言っているに違いないと思って調べていくと、ああライプニッツさんが何か言ってるな、とわかる。『キュー』の作中のキーワードを使うと、《言語の発生》から随分時が経過し、一周目の思弁はやりつくされていますから、いま・ここ・自分を材料に再思弁をおこないオリジナルなものをつくるためには、そうやって時代を逆流し、吸収しながら書いていくほうが効率がいい。逆流することによって差分が明確になり、オリジナリティも担保されるようにも思います。

——シンギュラリティの是非はともかくとしても、ITの発展はここ数十年でいちばん大きく社会を変えた要素です。ITに近いところで仕事をしてきたことは、作品にもなにか影響を与えていますか。

上田 いまから30年前だったらテレビ関係や出版関係などのメディア業界がそうだったのかもしれませんが、僕が大学を卒業した15年ほど前は、IT業界が「とりあえず大学を卒業しました」という僕みたいな人間の受け皿になっていました。IT工学がいまの社会に必要とされていることを仕事のなかで学んでいったので、そこで得たものが小説にも反映していくということはありましたね。

あと、素朴に思うのは現時点が文明開化以後の日本社会において、最大の変革期にあるのは間違いないだろうな、ということです。『異郷の友人』でも扱いましたが、僕は文学の起源を『古事記』などの神話にみています。神話が編纂された当時、原始的な国家が成立していくという社会的な大変動のかげで、集合的無意識が物語を希求した。今書かれるべき文学ももしかしたら、神話的なものに接近していくのかもしれないと感じますね。

『異郷の友人』(新潮社刊)

——小説はいつ、どのように書いていますか。

上田 出社前に2時間くらい書く。それをシンプルに毎日繰り返してます。そうやってルーチンにして、書くということを今のところはしています。そろそろアレンジを加えようかなとは思っていますが。毎日1500字なり2000字なり、作品によって一日に書く字数を決めて書いていくんですが、ときどき新しい展開が必要になるので、そのときは火事場の馬鹿力でがむしゃらに書く。すると、物語の大きな構造にふと「手が触れる」瞬間があるんです。この感触はなんだろう、と思いながら、それを引き寄せてつつ書いていく感じです。

子どもの頃から、なんとなくこういうふうにやりたいな、と思った感触のまま小説を書いている。だから自分でも、なぜ小説を書いているのかはよくわからないのだけれど、小説を書くことで十分に悩んでいるせいか、生活のほかの部分ではあまり深く悩まず、気楽に生きていけるような気がします(笑)。

——今後、「普通の小説」を書くということもありえますか。

上田 できれば『キュー』が終わったら書いてみたい。というか、『塔と重力』も「普通の小説」のつもりで書き始めたんですけど、なんだかよくわからない要素が入ってきてしまったので、どうなるかはわかりませんが(笑)。

シンギュラリティは意外と「大丈夫」?

「TORANOMON BOOK PARADISE」の会場風景。

——最後に会場からの質問をいくつかお受けします。

(質問1) 『キュー』には「ドナルド・トランプ」のような、雑な固有名が出てきますね。これは同時代の読者には強い引きになる半面、時が経つと色あせ、普遍性から外れてしまう怖れはありませんか。

上田 あえて固有名をテキストに混ぜ込むことで、作品が全体として普遍性をもちえているかどうかの強度チェックをしているんだと思うんですよね。おっしゃるようにドナルド・トランプさんみたいな、雑に見える固有名を出しつつ、それでも文学として読めるかどうか、というような。

(質問2) 同時代の小説家で好きな作家や影響を受けた作家はいますか。

上田 英語の作家だとイアン・マキューアンさんは好きですね。フランス語の作家ならミシェル・ウエルベックさんが好きです。最近ならローラン・ビネさんも良かった。

日本語の作家では町田康さん、保坂和志さん、松浦寿輝さんの作品は、さっき挙げた乱読期に読んで衝撃を受けたのを覚えています。保坂さんの作品で最初に読んだのは『生きる歓び』だったと思います。堂々としたタイトルに惹かれて手に取ったんですが、「そもそも小説とは何か」を考えるにあたり、重要な出会いになりました。表現は難しいですが、それまでの僕に足りていなかった座標軸がすっと加わったような感覚です。

あと、これも同時期に読んだのですが、山田詠美さんのエッセイで「何の取柄もない男に黙ってても女が寄って来る小説に納得がいかない」という趣旨のことが書かれてあって「そうだよな」と肯いてしまって(笑)。僕の小説の語り手像に影響をおよぼしているかもしれません。創作意欲を掻き立てられるという意味では、仲良くさせていただいている俳優や劇作家の仕事から刺激を受けることも多いですね。

(質問3) 紙からデジタルへと出版だけでなくコンテンツ全体のエコシステムが変わっていくなかで、三島賞やGrantaのベスト企画といった顕彰システムはどこまで書き手にとってのモチベーションでありつづけると思われますか。

上田 《インターネットの発生》以後の世界では情報の蓄積性が高い上に、全ての情報が並置されますから、賞の一回ごとの印象はどうしても低下していくんだろうと思います。文学や文学賞に向けられる世の中の関心の総量には限度がありますから、これはどうしようもない部分がある。でも現実問題として、賞でも取らないとそもそも注目を集めにくいので、ほしいと思っている書き手は多いと思います。

(質問4) ウェブコンテンツがPV至上主義になっているなかで、純文学とウェブの組み合わせは今後どうなっていくと思いますか。

上田 音楽の世界ではCDは売れなくなったけれど、人が音楽を聴いている時間や種類は増えたと言われています。どうやってお金を回収するかを脇に置けば、全体の流れとして、文学も音楽と同じ方向に近づいていくだろうと思います。ただ、持ち運びのしやすさを抜きにすれば紙のほうが読みやすいという人は今でも大多数でしょうし、僕も紙の本を読むことが多い。ネットと紙の配分は日々変わっていくだろうけれど、そのなかで純文学がどれだけ尖った存在であり続けられるのか、ということのほうが大事だという気がします。

(質問5) シンギュラリティの文学への影響は?

上田 専門家ではないのであくまで直感でいうと、なにが起こっても意外と大丈夫だと思うんです。ようするに、そのときには「大丈夫」の基準が変わってしまうだろう、と。コンピュータが人間の創造性を超えたとしても、人間の側は大したことが起こっていないように感じるのではないか。いまの視点からは「大丈夫」じゃないように思えても、未来のその時点では、あんがい「大丈夫」なんじゃないかな、と(笑)。

当然、文学の制度はどんどん変わっていくだろうし、作品を波及させていく方法も同時に変わっていくでしょう。でも、「文学」はようするに「書かれた文字」ですから、たとえ出版社がなくなろうと、作家が書きつづけてさえいれば残る。そのとき、どういう残り方があり得るか考えたりもします。

(質問6) 文学とAIの能力がもし対立構造にあるとしたら、それを宥和させる道筋はあるでしょうか。AIと人間が共同制作するアートがすでにありますが、文学もAIと共同で書くとクオリティが向上したりするでしょうか。

上田 AIとの共同制作によって、「人間にはその発想はできなかった!」というものも生まれてくるでしょうね。でも当分は、その表現の主体は人間である時間が長く続くと思います。いずれはその部分も侵食され、人間の側がそこを最終的に譲り渡すかどうか、どちらかと言うと政治的な判断になると思う。その政治判断はおそらく一種の多数決になるでしょうが、その結果がどうなるのかが個人的には楽しみだったりします。ふわっとした回答で申しわけありませんが、ぼんやりと見えているものはあります。まだ言語化できてはいませんが(笑)。

——上田さん、本日はありがとうございました。

(聞き手・仲俣暁生、虎ノ門ヒルズにて)