インディー文芸誌は文芸復興の担い手となるか

2018年1月3日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。「マガジン航」は2009年10月の創刊以来、9度目の新年を迎えることができました。これも寄稿者および読者のみなさん、スポンサー各位のご支援のおかげです。本年もどうぞよろしくお願いします。

純文学を支える裾野の広がりと分散化

さて、新年はじめの話題は文芸出版である。ことに「純文学」と呼ばれる芸術性の高い文芸の世界について、その最初の掲載媒体となる雑誌の面から考えてみたい。きっかけは、以前「マガジン航」でも紹介したことのある書肆侃侃房が発行する文芸ムック「たべるのがおそい」(vol.4)に掲載された宮内悠介の短編「ディレイ・エフェクト」が、第158回芥川龍之介賞の候補作となったことである。以前にも同誌創刊号に掲載された今村夏子「あひる」が第155回芥川賞の候補となっている。

「純文学」というジャンルは作品の内容から定義されるというよりも、掲載媒体から逆算して類推されるといったほうがいい面がある。文芸誌と呼ばれる雑誌「新潮」「文學界」「群像」「すばる」を擁する大手出版社4社(新潮社、文藝春秋、講談社、集英社)は、いずれもそれらとは別に「小説新潮」「オール讀物」「小説現代」「小説すばる」といった小説誌を発行している(講談社は「小説現代」を2018年10月号で一時休刊し、2020年春にリニューアル創刊すると発表)。

芥川賞の候補作は基本的に前者4誌と、これらに準ずる季刊の文芸誌「文藝」から選ばれてきた(過去数年でこれら以外の候補作・受賞作の初出媒体は「早稲田文学」「小説トリッパー」「太宰治賞2013」のみ)。また候補者の多くはこれら文芸誌が行う公募新人賞の受賞者であり、そうした仕組み全体が「文壇」と呼ばれるギルド的共同体を形成してきた。

しかし、こうした雑誌の発行部数は総じて少ない。一般社団法人日本雑誌協会が発表している印刷部数公表のサイトによると、2017年7月〜9月における文芸誌各誌の印刷証明付き発行部数は「新潮」が8,933部、「文學界」が10,667部、「群像」が6,000部、「すばる」が5,500部だ。このうち公共図書館への配本や寄稿者への献本を除いた実売部数は、せいぜい2,000〜4,000部といったところだろう。これらを通じて作品にふれる純粋な「読者」は限られており、批評家や書評家など、広義の文壇関係者にとどまる。

そうしたなかで、福岡市で発行される「たべるのがおそい」という新興の雑誌が、わずか3年の間に二度も芥川賞候補作を出したのは一種の快挙といえる。もちろん、候補作はいずれも定評のある作家(今村夏子、宮内悠介はともに芥川賞のノミネート時に三島賞をすでに受賞)によるもので、その意味では文壇から完全に離れた場所ではない。だが同誌は掲載用の「小説と翻訳」を公募しており、新たな才能の発掘・育成の場であろうともしている。雑誌への信頼が高まれば、良質の新人投稿も集まるようになるだろう。

「たべるのがおそい」の快挙は、裏返していえば、一部の大手出版社が発行する文芸誌のみが純文学の「お座敷」でありつづける時代が終わりつつあるということでもある。「芸術」としての文芸を一部の大手出版社だけが経済的に支えること自体、高度経済成長のもとでの出版市場の長期にわたる拡大という、歴史的に特殊な出来事の産物だ。大手出版社がいつまで文芸のパトロン(文芸誌は基本的に採算のとれない出版物である)でありつづけるかわからない以上、「純文学」を支える裾野が広がり、地域的にも分散化していく流れは歓迎すべきだと私は思う。

本屋が「文芸誌」を出す理由

そうしたなかで、さらに新しいタイプの「文芸誌」が、より若い世代によって創刊された。やはり以前に寄稿していただいたことのある東京・赤坂の書店、双子のライオン堂が発行する「しししし」である。

「しししし」は双子のライオン堂が以前に発行していた「草獅子」を改題・再創刊した年刊雑誌で、一部の連載記事を同誌から受け継いでいる。書肆侃侃房の「たべるのがおそい」が創作中心であるのに対し、「しししし」は作家研究や批評が中心であり、(芸術としての)文芸のあらたな読者を育てていくための雑誌といえるだろう。

創刊号の宮沢賢治特集には、一線級の現役作家による書き下ろしのほか、思想家の吉本隆明、マンガ家の坂口尚といった故人の作品も再録されており、文芸への信頼と尊敬を時代や世代を超えて受け継いでいこうとする明確な意志を感じる。

さらに「本屋の思い出」と題した公募エッセー、身近な仲間たちによる読書会の記録、多くの書店が参加した「本屋日録」など読者参加型の企画も多く、多種多様な書き手による読み物ページとも相俟って、出版社ではなく本屋が「文芸誌」を出すことの面白さを十分に醸し出している。

「しししし」の巻頭言には、こんな言葉がある。

文芸誌と冠しているのは、文芸誌が単純に好きで憧れがあるだけではなく、いま弱っている雑誌、それも文芸誌を一緒に盛り上げていくことで、本屋としても復活できるはずだと信じているからだ。文学が自由であるのと同じように、文芸誌ももっと自由であって良いはずだ。

この言葉には、いまの「文芸誌」の不自由なあり方――ルーチン化した編集、情熱の欠如、そしてなにより読者不在――への静かな批判がある。「憧れ」の対象であった文芸誌がその役割を果たしていないなら、自分たちで作ってしまおう、というDIYの健康な発想がある。そしてこの文章のあとはこう続く。

幸いなことに、同じ思いで新しい文芸誌たちが各所で始まっている。そういったものに刺激を受け、こちらも与えていく存在でありたい。

もしこれから「文芸復興」がありうるとしたら、その担い手は大手出版社の出す文芸誌だけではなく、これらの新しい「文芸誌」やそれに参画する(既存作家も含めた)書き手、そしてその読者たちが形成する、より裾野の広いネットワークではないか。

「たべるのがおそい」(書肆侃侃房)と「しししし」(双子のライオン堂)。

作家発掘・作品評価のための新しい場を

こうした「純文学」や「思想」における動きとは別のところでも、既存のしくみに頼らない作家発掘・作品評価の場を生み出す活動が起きている。私も理事を務めている日本独立作家同盟というNPO法人では、2017年にはじめて「ノベルジャム」という小説創作イベントを開催し、一定の成功をおさめた。そのノベルジャムの第二回目が、今年2月に二泊三日で開催される(応募〆切は1月5日)。この催しの詳細については、昨年末にNPO法人名義での記事(ノベルジャムは「出版」を再定義する)を掲載したので、ぜひ参照してほしい。

「文芸」(小説に限らず、詩歌や戯曲も含めた)は、一方で芸術に接し、他方では商業的なエンタテインメントに接する、幅の広い表現領域だ。その広大な領域を、これまでは大手出版社を中心とする、東京の出版業界がほぼ独占的に支えてきた(「新聞連載小説」という場を提供してきた新聞社の役割も見逃せないが)。

しかしこうした状態がいつまでも続くとは思えない。新聞や雑誌といった紙媒体の急速な影響力低下は、当然それに載る文芸の読者も減らしていくだろう。それに変わる多様なプレイヤーとして、地方の出版社や小さな書店やNPO法人、コミケや文学フリマに集う同人誌、さらにはウェブ投稿小説や電子書籍にかかわるIT系メディア企業などが、広義の「文芸」の担い手として同格になる時代がまもなくやってくるのではないか。

繰り返すが、そうした時代は決して不幸な時代ではなく、むしろよい時代だと思う。文芸という表現の豊かさや多様性が、沈みゆく出版業界とともにすっかり失われてしまうよりは。

ノベルジャムは「出版」を再定義する

2017年12月23日
posted by 日本独立作家同盟

揺らぐ「出版」のバリューチェーン

ネット書店の台頭、電子書籍の普及、ユーザー投稿サイトの興隆……、出版を巡る状況はここ10年ほどで大きく変化し、出版を巡るバリューチェーンは大きく揺らいでいる。街からは書店が姿を消し、電車内で雑誌や本を開く人は減り、多くの読み物コンテンツは、ネットで摂取されるようになった。

「面白いコンテンツを読みたい」という根源の欲求は変わらない。ニュース記事やSNSを含めて考えれば、むしろ、文字コンテンツの需要は、スマホ以前と比較しても増えているのではないかとも言われる。

しかし、コンテンツを生み出し、それを届けるという一連の経路=バリューチェーン(価値連鎖)は大きく変化した。出版社は取次に流通を委ねているだけでは、経営がおぼつかなくなった。著者とともに作品を生み出す編集者も、パッケージとしての「本」をゴールとしていては、もはや立ちゆかない。作品=コンテンツの展開が、書店ではなく多様な姿を取るウェブにその主戦場を移しているなか、本というメディアは顧客との接触の機会としてはあまりにも小さく、収益も本そのものよりも、映像など他メディアとの連携(クロスメディア展開)抜きでは語れない時代となった。

「小説家になろう」などのユーザー投稿サイトの興隆や、KDPのようなセルフパブリッシングの場の登場で、著者さえ集めれば「面白いコンテンツ」が量産されると誤解されるような時期もあった。しかし、実際は、多様な(言い換えればSNSによる分断化が進む)読者に支持され、飽きられない(ITがそうであるようにコンテンツの流行もドッグ・イヤーとなった)作品づくりのためには、複数の頭脳が求められることはより明確になったと言える。

「面白いコンテンツ」への需要は高まっている。投稿サイトを見れば「面白いコンテンツ」を生み出したい、ともがいている著者の多さに驚かされる。しかし、出版社には著者を育てて行くかつてのような「余裕」はない。SNSで著者が出版社・編集者からの「酷い扱い」を告発するようになったのも、裏を返せばバリューチェーンが揺らいでいることの証左でもある。出版を巡るバリューチェーンは揺らぎ、その担い手は分断の中であえいでいる。

期間と空間を限定して生まれる「理想型」

日本独立作家同盟が小説創作イベント「ノベルジャム」を企画したのは、そんな状況に一石を投じたいという思いがあったからだ。ノベルジャムでは、著者と編集者が2日間という限られた期間で、与えられたテーマにそって3000文字以上の短編小説を書き上げ、電子書店での出版までを行う。2017年2月に第1回が開催され、参加者29人が計17作品を生み出した。プロの作家や評論家が全ての作品を審査し、講評も行う。2018年2月に開催される第2回は、合宿形式で期間を2泊3日、さらにデザイナーも加わってより本格的な創作に取り組むことになる。

ノベルジャム2017の開催風景。

ポイントは、著者と編集者が文字通り二人三脚で創作に取り組むというところだ。従来小説を書くという作業は著者による孤独なものというイメージが強かった。しかし、多くの商業出版がそうであるように、そしてネット時代にますます編集の必要性が高まっていることからもわかるように、編集者との「併走」あってこそ、作品は完成し、ネットという場に拡がっていくものなのだ。

このイベントは、日本独立作家同盟の理事が「ゲームジャム」や「スタートアップウィークエンド」といったハッカソンのイベントに参加したり、企画や審査に関わってきたことから生まれた。「場」と「期限」を用意し、はじめて顔を合わせる人々との共働によって、思いも掛けない成果が生まれるハッカソン。ITの世界ではよく知られるようになったこの取り組みは小説創作にも適用できるはずだ――この狙いが的中したことは、前回のノベルジャムの参加者が残した様々な記録で確認することができる(詳細は日本独立作家同盟のサイトの以下のを参照のこと)。

日本初の小説創作ハッカソン大盛況のうちに終了――NovelJam(ノベルジャム)開催 参加者30名が2日間で小説創作から電子書籍の発売まで行う|イベント報告(日本独立作家同盟http://www.aiajp.org/2017/02/noveljam-2017-is-complete.html

2013年に任意団体として設立し、その後2015年にNPO法人となった日本独立作家同盟では、セルフパブリッシングを支援することを目的として、当初は会員が作品を投稿するスタイルの電子雑誌「月刊群雛」を発行していたが、それを休刊し、「ノベルジャム」の運営に活動の軸足を大きく移した。同じ創作でも、リアルな場で刺激を受け合いながら、(そして〆切に苦しみながら)作品を生み出す「体験」こそが、NPOとして提供すべきものと考えたからだ。

ノベルジャム会場では、今ではなかなか目にすることができない「編集者」と「著者」が時には激論を交しながら創作に突き進む一種の「熱狂」を目の当たりにすることができる。次回はそこにさらに「デザイナー」が加わることになる。ドラマや映画などで、いわゆる「作家もの」が増えたのも、その「熱狂」が現実から消えつつある、一種のファンタジーとなりつつあり、そこにノスタルジーをおぼえる人々が増えたことの証左だ。しかしノベルジャムという限られた時間・空間を用意することで、「面白い物語を生み出したい/届けたい」という純粋で本質的な欲求が表出し、失われた理想は現実のものとして甦るのだ。

「編集者」「デザイナー」こそ参加して欲しい

2回目となるノベルジャムの参加応募締切りは2018年1月5日。2回目ということもあり、すでに「著者」枠には多くの応募があり、厳正な選考の上、参加者が決定されることになる。一方「編集者」「デザイナー」の枠には、まだ少し余裕がある(ただし合宿という場所の制約もあり、それぞれの募集枠はわずか8名だ)。

「自分は小説の編集経験がないが大丈夫だろうか」と感じる方も多いと思う。しかし安心してほしい。ノベルジャムでは、「著者と二人三脚で併走する」という意味での編集の経験は必須としているが、ジャンルや年数などは問わない。ノベルジャムを自らの「編集」の在り方を見つめ直す機会としていただければと思う。何よりもわずか3日間で出版まで至ることができる、という体験は他ではなかなか得られないものであり、今後も変化が続く出版の世界を泳ぎ切るための、一つの拠り所になるはずなのだ。

「デザイナー」枠についても同様のことがいえる。著者と編集者が物語を紡ぎ、そしてデザイナーとともに「本」という一つのパッケージを作ることがこのノベルジャムのゴールである。「デザイナー」という表現をしてはいるが、この枠にはマンガやイラスト、ウェブデザイン等、さまざまなグラフィック表現で経験がある方にも参加してほしい。

ノベルジャムでは、「著者」「編集者」「デザイナー」という三者それぞれの役割を担う人たちが一堂に集い、わずか3日間で「本」を「出版する」という体験そのものを得ることができる。普段とは違った自分の役割をもとに、一つのチャレンジとして取り組むことで得るものは大きいだろう。ノベルジャムで、出版の原点・理想形を確認してほしい。

ノベルジャムの詳細・申込は以下の公式サイトから。
https://www.noveljam.org/

第3回 これからの図書館、公共施設づくりと地域デザイン

2017年12月22日
posted by 李 明喜

地域デザインを取り巻く環境

第1回目の連載「図書館におけるデザインとは何か?」でも書いたとおり、際限なく広がっていくようにみえるデザインの領域は、産業化の流れによって定義づけされた、デザインする対象の違いによる区分であった。これから書く「地域デザイン」は、それらの産業構造による区分とは少し違う。「地域デザイン」という言葉は近年、耳にすることが多くなったが、その言葉自体はかなり古くからあった。

CiNiiで「地域デザイン」「出版年:古い順」で検索すると、『地域デザイン論』(山岸政雄)という1987年の論文が出てくる。この論文(オープンアクセス)を読んでみると、都市景観やまちなみとしての造形という観点から「地域デザイン」という言葉が使われている。この時点での「地域デザイン」はあくまでも地域における「都市デザイン」「建築デザイン」に限定したものを対象としており、それは我々がいま地域デザインという言葉から思い浮かべるイメージの一部に過ぎない。2000年代中頃まで、同様の文脈の中で使われることが主であったと思われる。

2017年のいま、「地域デザイン」という言葉はさまざまな場面に広がっている。都市計画においては造形の話だけではなく、地域特有の課題解決のための大小さまざまなまちづくりの政策へと展開し、地域ブランドにおいては特産品の質による差別化だけではなく、特産品の背景にあるストーリーやパッケージなどの意匠性による差別化へと注目のポイントが広がっている。「地域メディア」は地理的な範囲としての地域の人々のつながりから、地域を超えたコミュニティのつながりにまで広がり、「ローカルメディア」とも呼ばれるようになった。

またアートの領域でも、「アートプロジェクト(地域アート)」が地域振興の切り札として日本各地で盛んに行われ、観光資源としてまちに根づいたり、コミュニティの形成に効果をもたらしているケースも生まれているが、これも社会的課題へのアートによるアプローチということで「ソーシャルデザイン」であり「地域デザイン」であるとも言える。

このように多様な「地域デザイン」であるが、まずは地域資源を見つけ出し、そしてその可能性を引き出す、というかたちが基本となる。「地域デザイン」という言葉がいまのように日常的に使われるようになる以前から、地域資源の可能性を引き出し、光を与えるクリエイターたちがいる。

そのひとりが、1980年代から高知を拠点に、一次産業とデザインをかけ合わせて新しい価値をつくり続けてきたグラフィック・デザイナー、梅原真だ。かつおを藁で焼く土佐伝統の製法による《一本釣り・藁焼き鰹たたき》や、同じく高知県の砂浜しかない町で、その「砂浜」を美術館に見立てた《砂浜美術館》のデザインによって知られている。梅原はその土地の力を引き出し、生業のスイッチを入れ、そこに生業が生まれることで地域の風景を持続させ、地域の風景をつくり出している。

もうひとり、地域に光を与えるクリエイターとして知られているのがナガオカケンメイ。2000年に設立された《D&DEPARTMENT PROJECT(ディアンドデパートメントプロジェクト)》というプロジェクトで、「ロングライフ」をテーマに、47都道府県に一ヶ所ずつ拠点をつくりながら、「息の長い、その土地らしいデザイン」を紹介している。梅原の「持続する風景」、ナガオカの「ロングライフ」、いずれも「持続する」ことを大きなテーマとして取り組み、実際にプロジェクトを持続させていることが、多くのほかのクリエイターやプロジェクトとは一線を画する。

一方、地域再生の名の下で、これまでさまざまな政策が行われてきた。経済学者、飯田泰之は『地域再生の失敗学』(光文社新書、2016年)の中で、従来型の地域再生政策の多くは失敗であり、これを認めることが地域再生を考える出発点になると書いている。そして、大規模なインフラ整備による経済政策が実効性をもたない現在、アイデアの総生産量を減少させないために人口密集地を維持することこそが地域再生のために必要であるとも述べているが、この地域再生における戦術の変更は、ただ政策を立てるのではなく、どのように政策を立てるのか、どれだけアイデアのバリエーションをもてるかということにおいて、まさにデザインが要請されるのではないか。

「デザインを経営の中核に」とか「デザイン思考で誰もがデザイナー」といった、デザイン側における無節操な領域の拡張と、社会の側からのデザインへの過度な期待の高まりという状況を鑑みると、「地域再生」と「デザイン」は簡単につながりそうに見える。いや、意識的か無意識的かは別として、すでにつながっているからこそ、いまの「地域デザイン」ムーブメントがあるのかもしれない。

地域デザインとしての図書館

あらためて「地域デザイン」の定義づけについて考えてみる。『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)では、巻頭で「地域とデザイン」という特集が組まれているのだが、その冒頭部分を一部引用する。

「今日、『地域活性化』『地域振興』『まちづくり』『まちおこし』などと呼ばれる地域活動には、地方自治体が先導して行う大規模なものから市民有志によるものまでさまざまであり、その目的も都市計画から地域産業の振興、観光客誘致などと多様です。ここではとくに〈デザイン〉というフィルターを通すと、どんな地域像が見えてくるのか、また地域に対して〈デザイン〉がどんな貢献をなしうるのか、実例を通して考えます」

この巻頭に続いて、「地域デザイン」における実践を「つくる」「つたえる」「つなぐ」「さぐる」の四つの区分に分けて紹介している。本稿における地域デザインとは、これを基に「地域の資源を活かして、地域に貢献するデザイン」と位置づけるものとする。

「地域の資源を活かして、地域に貢献するデザイン」を実践している図書館は、既にさまざまなかたちで紹介されている。2014年3月に文部科学省より公開された「図書館実践事例集〜人・まち・社会を育む情報拠点を目指して〜」では、「連携」や「課題解決支援」「まちづくり」といったテーマ別に日本全国の事例が紹介されている。

たとえば「恵庭市人とまちを育む読書条例」を制定し、市民・家庭・地域・学校・市が一体となった読書によるまちづくりを進めている恵庭市立図書館や、《ことば蔵交流フロア運営会議》という誰でも自由に参加ができて、約束事や企画を参加者とともに決めていく場を設けることで地域の交流機能の拠点となっている伊丹市立図書館「ことば蔵」などは、図書館関係者にとってはよく知られた存在になっている。

このような事例は、岡本真が監修した『ささえあう図書館 「社会装置」としての新たなモデルと役割』(勉誠出版、2016年)や猪谷千香の『つながる図書館 コミュニティの核をめざす試み』(ちくま新書、2014年)、そして本稿の掲載媒体でもある「ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)」といったさまざまな書籍や雑誌でも紹介され、地域を支える、あるいは地域をデザインする施設として図書館が、地域か活性化の重要な役割をはたしているということは広く認識されるようになった。まだそういった事例をご存知ない方は、上記のサイトや書籍にあたっていただきたい。本稿では、私自身がARGのメンバーとして関わったプロジェクトにおける取り組みを例に、図書館や公共施設整備における地域デザインの可能性と課題について考える。

地域デザインでつくること―― 「別府市図書館・美術館整備基本構想策定等業務」での実践より

アカデミック・リソース・ガイド社(ARG)は、2016年9月から2017年3月のおよそ7ヶ月間、「別府市図書館・美術館整備基本構想策定等業務」にあたった。

別府市は源泉数、湧出量ともに日本一を誇る日本有数の温泉観光地として知られている。八つのエリアに分かれ、別府八湯と呼ばれる市内の温泉は、それぞれが特性をもち、個別のエリアとしても、全体としても、独特な魅力を放っている。また、日常的に使うお風呂として温泉に浸かる地元住民と、観光や仕事で訪れる外からの人間が湯船で混じり合い、交流の場としても機能している。

温泉は別府市を支えてきた観光産業であるが、昭和50年代をピークにそのあとは減少しつづけており(2010年代に入ってからは、回復傾向もみられる)、その理由として団体宿泊客へ最適化した構造であるがゆえに、個人旅行の増加による観光スタイルの多様性に充分に対応できていないことなどが指摘されている。観光産業の落ち込みは、別府市中心市街地の活性化にも影を落としている。

そのような状況の中、別府市では、地域資源である温泉やまちなみを活かしつつ新しい文化を創造していこうといったプロジェクトが、民間の動きの中から展開している。そのひとつが「別府八湯温泉泊覧会(通称:オンパク)」である。オンパクは2001年より始まった、温泉文化を核とした体験型ツーリズムのイベントである。「世界一の温泉地で元気+綺麗に!」をキャッチフレーズに、別府八湯エリアの各所で、温泉/健康・癒し・美/歩く/食をテーマにした体験交流型イベントが繰り広げられ、多くの地元住民や観光客が参加するユニークなイベントとなった。

このイベントの実行委員長として中心的役割をはたしたのが、現NPO法人ハットウ・オンパク、一般社団法人ジャパン・オンパク代表理事の鶴田浩一郎である。鶴田は第1回のオンパク終了後「ハットウ・オンパクはいずれなくなる。なぜならば、別府は1年365日がハットウ・オンパクの世界にならなくてはいけないからだ」というメッセージを残した。この言葉の奥には、梅原真の「持続する風景」やナガオカケンメイの「ロングライフ」と通底するビジョンがある。別府にしかない温泉文化という地域資源の新たな可能性を引き出し、光をあてる。まさに地域デザインの実践がこの別府にあった。

別府市における地域デザインの実践としてもうひとつ重要なプロジェクトに、《BEPPU PROJECT》がある。《BEPPU PROJECT》は、2005年に別府市を拠点に活動を始めたアートNPOで、その目的を『混浴温泉世界 場所とアートの魔術性』(NPO法人 BEPPU PROJECT、2010年)の中で、以下のように記している。「社会の中におけるアートの価値を再発見し、あらたな意義や可能性を見出すことで、この場所でしか実現できないユニークな試みを、日常的に地域に提供し続けることこそがBEPPU PROJECTの目的である」。

「platform04-BEPPU PROJECT」築100年の長屋の1室をアーティストのマイケル・リンと地元の建築家が再生した物件。(撮影:李明喜)

地域社会におけるアート、デザインの価値とは

NPO法人BEPPU PROJECTは2005年の発足後、「アートNPOフォーラム」や「platform(中心市街地活性化を目的に、家主の協力のもとリノベーションを行い、地域活動の交流拠点を制作したプロジェクト)」などの事業を重ね、2009年には、別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」を実施する。このように書くと「BEPPU PROJECTはアートでまちづくりをやっているんだね」と言われそうだが、そうではない。BEPPU PROJECTの代表理事でアーティストでもある山出淳也は、前掲書の中でこう言っている。「僕らは必ずしもまちづくりのためにアートを使っているわけじゃないんです。むしろ、社会におけるアートという新しい価値観や、価値そのものを紹介していくことが最大のミッション」。

山出のこの言葉は、《Happening》や《文化庁メディア芸術祭》の地方展などでまちなかを舞台にデザインをしてきた私にとっては、とても共感できるものだ。まちづくりにアートやデザインを利用するというのではなく、目指すのは、アートやデザインにしかできない新しい価値を創造し、アートやデザインをとおして可能性を創出していくということである。

プロポーザルの段階で、私たちはこのふたつのプロジェクトについて、特に詳細にリサーチを行っていた。別府らしい図書館・美術館を整備するうえで、こういった地域の日常をつくってきた活動とどうつながっていくかが鍵になると考えていた。プロポーザルにおける基本的な考え方にもそれを示している。「泉都別府の〈おもてなし〉の心やアートイベントなどで蓄積されてきた社会関係資本を施設づくりにも活用する」と。

あたりまえのことではあるが、地域デザインは地域をリサーチすることから始まる。特に地域資源についてのリサーチにおいては、必ずフィールドワークを行うということも、ARGのリサーチ&デザインの基本である。事前にデータや地域文献などの調査、分析を行い、そして現地を訪れて歩き、そこに暮らす人たちと話し、記録する。地元の人たちが通う喫茶店やカフェ、飲み屋で過ごすことも大事にしている。

ハットウ・オンパクの鶴田、BEPPU PROJECTの山出は、「別府市図書館・美術館整備基本構想検討委員会」の委員に任命され、(立場は違うが)一緒にプロジェクトに取り組むこととなった。委員には教育や図書館、建築などの専門家が選出されたほか、市民代表として公募で選ばれた方や市内の3大学からそれぞれ1名の学生も含まれており、別府の多様性を象徴するメンバー構成であった。

多彩なメンバーが集結したのだが、委員の方々と我々の間のコミュニケーションは、オープンでインタラクティブなものとはならなかった。背景には公共施設整備における制度や条件による制限という問題がある。ただ、我々の側が多様な委員の方々に対してコンセンサスを得るのに十分な言葉を紡ぐことができなかったという反省点も残った。多様なメンバーにも対応したオープンなコミュニケーションを生み出すインタラクション・デザインと、構造としての施設整備プロセスのリ・デザインは切り離すことができない課題である。

このような「会議のデザイン」もコミュニケーション・デザインであると言えるが、短い時間の中でメッセージを送り、送られるというミクロなインタラクションをとらえるのはなかなか難しい。

「まち歩き」から図書館・美術館づくりを考えるワークショップ

同じくミクロなインタラクションの場でありながら、比較的成果を上げることができたこととして市民ワークショップがある。「まちから考える図書館・美術館づくりワークショップ」と名づけられたこのワークショップは、まちを歩く→まちの魅力や課題を発見→地図に記録→協議・共有→新しい施設やまちから生まれる体験を創造→協議・共有→発表、という流れをグループ単位で行った。

ARGが図書館や公共施設整備のプロセスとしてワークショップを実施する場合、原則としてまち歩きを行う。日常の中で利用される施設をつくるためには、当然のことながら、その周囲にある地域を考えなければならないし、人やモノや情報の流れやつながりをとらえることも必要となる。別府でもそうだったが、ほとんどの地方都市でまちなかを歩くという機会が減っている。しかし、こうしたワークショップでまち歩きをしてもらうと、見落としていることが思いのほか多くあることに気づく。

別府市図書館・美術館の整備に向けた地図づくりのワークショップ。 (撮影:李明喜)

別府の路地は、歩いて本当に楽しいところだ。みんなの社交場となっている温泉のすぐ手前に風俗のお店が集中していたり、その近くには日常化したアートの入口となるショップがあったりする。また、そんな路地にサードウェーブ系の小さなコーヒースタンドがあり、その横で店の大家さんらしき人が何やらやっていて、そんな姿をコーヒースタンドの若い店主が指さしながら「テラス早くつくってほしいんですけど、大家さん、気ままでいつ終わるかわかんないんですよ」と笑って教えてくれたりする。

ここには歩く速度でしか見えない景色があり、そこには時間を超えた地域資源が埋まっている。地域資源を再発見し、世代を超えた人々の中で共有することから図書館・美術館づくりは始まる。再発見するものはすべてがポジティブなものというわけではない。重い地域の課題を見つける場合もある。こうした可能性と課題を、協働性や身体性を伴う中で発見し、プロセスそのものを共有するということが大事なのである。このプロセスを経ることで、ワークショップ参加者が、図書館・美術館づくりに主体的に関わるきっかけへとつながればと思っている。

別府でのワークショップの動画はこちらで公開しているので、関心のある方はぜひご覧いただきたい(以下の動画も参照のこと)。

地域デザインの中心としての社会的相互行為

近年、日本でも注目を集めているアートにおける潮流に「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」と呼ばれるものがある。SEAリサーチラボ(ソーシャリー・エンゲイジド・アートを知り、学び、議論し、実践するためのリソースサイト)の定義づけによると「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、なんらかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである」とある。

これだけを読むと、アーティストの活動であれば、アートでなくてもいいのか? と思ってしまうが、実際、「それはアートなのか? アートである必要があるのか?」といったアートであることの必然性をめぐる批判も多い。森美術館チーフ・キュレーターの片岡真実はもう少しシンプルに「社会の諸問題と向き合い、そこにいる人々の生活と深く関わることが本質にあるアート」と説明する。

私はソーシャリー・エンゲイジド・アートの中心要素である「社会的相互行為」が、地域デザインにおいても重要であると考える。象徴的行為ではなく、現実の社会的行為である。アートにしてもデザインにしても、どこにも属してはいなくて「あいだ」にあるものだと思う。どこにも属さない不安定な立ち位置だからこそ、現実の社会的相互行為に働きかけることができる。デザインにしかできない方法で、人々の日常に深く関わることができるし、図書館や公共施設づくりに「変革」をもたらすこともできると信じている。

(短期集中連載・了)

【参考文献】
山岸政雄「地域デザイン論」(学報 31、p.101-110、金沢美術工芸大学、1987年)
梅原真『ニッポンの風景をつくりなおせ 一次産業×デザイン=風景』 (羽鳥書店、2010年)
飯田泰之・木下斉・川崎一泰・入山章栄・林直樹・熊谷俊人『地域再生の失敗学』(光文社新書、2016年)
勝井三雄・田中一光・向井周太郎 監修『最新 現代デザイン事典』 (平凡社、2017年)
NPO法人 BEPPU PROJECT『混浴温泉世界 場所とアートの魔術性』(発売:河出書房新社 刊行:BEPPU PROJECT、2010年)
パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』(アート&ソサイエティ研究センターSEA研究会 訳、フィルムアート社、2015年)
梅原真デザイン事務所 – UMEBARA DESIGN OFFICE「thinking」<http://umegumi.jp/thinking/〉(参照2017-9-19)
D&DEPARTMENT「D&DEPARTMENTとは」<http://www.d-department.com/jp/about〉(参照2017-9-19)

我はなぜ論文YouTuberとなりしか

2017年12月13日
posted by 荒木優太

YouTubeで勝手に連載している「新書よりも論文を読め」が20回の更新を超えた(初回を下に動画埋め込み)。このシリーズは、論文(大学紀要や専門誌を中心に、ときに批評や評論とも呼ばれもする論理的なタイプの文章)を毎回一本取り上げて、三つのポイントに分けて5分から8分くらいで要約するという、論文紹介動画である。取り上げる論文の分野は、私が近代文学専攻ということで日本の人文系に偏っているきらいはあるが、できるだけ多方向から学ぼうと努めている。

なぜこのようなことを始めたのか。勿論それは論文の読者が増えてほしいと思ったからだ。

「それは研究でやってください」って言い過ぎだろ

よく知らない人のために自己紹介しておくと筆者は文壇でささやかなな賞を得、また2016年に在野研究に関する単行本も出版したことで一部界隈で話題になり、物書きとしてほんの少しだけ出世している新進気鋭の文学研究者である。

結果、原稿を依頼する少なからぬ編集者と交流する機会が増えた。それはそれでめでたいことなのだが、困ったことに、原稿が欲しいということで近代文学に関するアレコレを書いて提出すると、みな判を押したように「そういうのは、研究でやってください」と答える。どこそこの誰それがという悪口ではなく、本当にみなそういう反応をする。

いささか理解に苦しむのだが、在野研究者に原稿は依頼するものの専門的・研究的であってもらっては困る、というのが彼ら共通の見解のようだ。私からすると、牛丼屋の看板でオープンした店に入ってきたお客が「並ひとつ」というので牛丼の並を出したら「おいおい、こりゃあ牛丼じゃねーか!」と言われた気分である。そりゃそうだろ。

要するに、マニアックでニッチな研究の営みは、現代的でもなく、読者もついてこず、そして(これが一番大きいだろうが)売れない……ので一般的=商業的な出版にはふさわしくない、ということだ――ちなみに、彼らは近代文学にはかなり否定的で、哲学になると割と好意的だ――。

紋切型の研究観にいささか辟易もするが、とまれ、ある個人だけが主張しているわけではないのだから、そこには出版界に流通するなにがしかの真理が反映されている、と考える方が適当だろう。とりわけ、想定可能な読者のヴォリュームが大きくない、故に売れない、というのはかなり実態を素直に現わしているようにみえる。

貧乏に優しい論文

別の角度からいえば、専門的な論文も装いを改めることで商品になれる。勿論、それ自体は喜ばしいことだ。が、そのお色直しでなにか重大なものが削ぎ落されてしまっているのではないか、或いは、そのお色直しは本当にニーズがあってなされたものなんだろうか、と問うことも同時に忘れてはならない。

出版点数が予め決まっており、著者に十分な執筆期間も与えない新書商法はその象徴のようなものだ。出したいから出すのではなく、出さなければならないから出すというサイクルが常態化して久しい。そのような環境下でまともな本が生まれないだろう(或いは、もっと完成度を高めることができただろう)ことは容易に想像がつく。どうして人々は消費行動を通じてああいったビジネスを支えてしまうのか。よく分からない。

私の経験では、新書の著者が研究者ならば彼の書いた論文を第一に読んでみることをお勧めする。より凝縮された仕方でその中核になるアイディアが簡潔に述べられている。そして、論文のいいところは、発行後相当期間経った――月刊誌なら一ヵ月、季刊誌なら三ヶ月――雑誌に掲載されていたものならば、著作権に抵触せずに図書館ですべてコピーできるということだ。加えて、大学のウェブサイトにあるリポジトリでは多くの論文が公開されていることは既に周知のこと。

貧乏人にはありがたい知の泉がそこにある。

こういったものを十分活用するまえに、どうして読者たちは700~900円もする愛のない新書など買って出版社による自分都合のビジネスに手を貸してしまうのか、やはりいささか不思議だ。とまれ、一般の読書人にとって、もし論文の読書という可能性が未開拓のものであり、それに自覚的になれるのならば、衆目は集めるだろうが特に専門性もないアレヤコレヤに無責任に首をつっこんだ(つっこませた)ような文章が跳梁跋扈するこの世界を少しづつ変えていけるのかもしれない。

百歩譲って、新書を読むのもいいし(細長い判型の本自体が悪いわけではない)、こざかしい商売を応援するのも自由だが、そのあとで論文にアクセスするクセをつけると読者にとっても著者にとってもよき知的循環が生まれるのではないか。

前置きが長くなったが、そんな思いから動画の連載を始めたのだった。

読むために読むことと喋るために読むこと

わざわざYouTube、つまり動画の表現を選んだのは、文字ならば既に様々なメディアで発信しているので、自分自身が少し新しいことをやりたくなったからだ。文字よりも音声・映像に親和的なユーザーにもリーチを伸ばして自分の仕事を伝えたいという企図もあった。

とはいえ、文字中心のユーザーと動画中心のユーザーがそれほどかけ離れているとは思っていない。研究書に代表される通俗的な娯楽性の乏しい、改行が少なくて註がついているようなタイプの書物は読んでいるとかなり疲労が溜まる。そこから逃避するように、適当なラジオや動画をナガラ見(聴)し、そして本末転倒なことに勉強が一向に進まない事態が大学生や院生にはしばしば生じる。いや、学生に限らずこういった現実逃避は誰にでも経験があることだ。

そういったとき、同じ動画コンテンツでも、学術性の高いものならば仮に時間を浪費したとしても、あとで後悔とともに襲ってくる罪悪感をかなり小さくできるのではないか。視聴のハードルを低くするために、10分を超えないよう、かなりコンパクトにまとめたのは、何かと何かの「合間」を埋めるくらいの手軽な学問があってもいいだろうと考えたからだ。

連載を始めてみて自分で新鮮だったのは、いつもの論文の読み方が紹介のモードを前提にするとかなり大きく変わったように感じられたことだ。

通常、論文を読むさいは(私の場合は)自分の関心や主張との距離を意識しながら文字を追っていくが、この後に喋って説明せねばならない、ということが念頭にあると、いかに本質的なアイディアを抽出して、それをできるだけ分かりやすい言葉に翻訳できるか、そういったことを意識して読書に臨むようになる。すると、論文全体の格好に目がいくというか、文章としての論文がもつ端正さの度合いが実感できるような気がするのだ。

情報の器としてではなく文体の問題として論文が立ち現れてくる、といってもいいのかもしれない。

きっとこの感覚は自分が文章を書くときにもかなり役立つものになるのではないか。そんな予感がする。思わぬ儲けものだった。

「イタい」で闘う

勿論、弊害もあるだろう。要約という行為一般につきまとう様々なニュアンスや細部を無化して、ある簡潔なテーゼ(「~は~である」)に単純化してしまうことの危険は、三つのポイントで整理するというこの連載の形式も手伝って、完全に回避できるとはいいがたい。

だが、おそらく余り心配することはない。なぜならば、基本的に誰も再生しないからだ。一部のYouTuberのように広告報酬で儲けるような事態も、だから決して訪れない。そして、それで構わない。

言及された多くの研究者も、仮に動画の存在に気づいたとして、特別な理由がない限り言及を控え知らなかったフリを突き通すだろう(例外的に第23回で取り上げた伊藤未明さんからはTwitterで反応をいただいた、どうも恐縮です)。

どうして、人が避けていくのだろうか。編集作業を怠けているだとか、ポピュラリティのある論文を採用していないとか、理由は色々考えられるだろうが、核心となっているのは、要はこういうことだろう。即ち、特別な訓練を受けたわけでもなければ資格をもっているわけでもない、単なる目立ちたがり屋でお調子者の言葉など聞いているとこっちが恥ずかしくなるよ……端的にいえば「イタい」からだ。

この「イタさ」を、私は或る程度理解できる(つもりだ)。私が大学生だったら、確実にいま私のことを軽蔑にするだろうし、ああいう無様な人生を送らないようにしようと胸に誓うに違いない。大学生というのはそれくらい生意気な方がよい。

ただ、年長の落伍者の側から少しばかりアドバイスしておけば、第一に、人間は人間を常に馬鹿にする生き物なので、馬鹿にされることを怖がっていたら何もできない。そして第二に、人生というのは(また大きく出たな!)失敗の連続であり、失敗において修正可能性を見出して次のトライアルに臨むことだけが漸進的な正解に近づく唯一の道なのだ。

よく連載を追っている(極めて少数の)視聴者は、取り上げる論文の多くがプラグマティズムに関係することにお気づきだろう。正しく、パースやジェイムズに由来するアメリカ産のプラグマティズムとは、神になれない有限な人間が、何度も転びながらうまい転び方を段々覚えていく過程的成長肯定の思想であった。

YouTuber TAKIJI?

最近、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)という増補新版を出すために、『小林多喜二と埴谷雄高』という自費出版で出した初の自著を読み直し、どれくらい多喜二が自分たちのテクストを――「芸術的価値に乏しい」とかdisられながらも!――読者に届けようと齷齪していたかに、改めて胸を打たれた。

もし多喜二が生きていたらYouTubeを使って自分の本の宣伝をしていたかもしれない!

処女作の末尾において埴谷ではなく多喜二の可能性に賭けた私が、このつまらない世界に対して「イタさ」を回避して、「そんなことは自明、何故ならば」と業界人ヅラで自分の知恵者ぶりをいかにディスプレイするかのゲームに淫することは、自分の本に対する裏切りのように思えた。

考えてみれば、在野研究にしろ電子書籍にしろ自費出版にしろ、他人から無様と思われながらもそういう連中をちゃんと無視して、自分がいまできることをコツコツやってきたからこそ現在の私があったのだ。それができるからきっと私は強かったのだ。

明らかに失敗するに決まっていて、やっぱり人々は相変わらずどうでもいい新書を買ってゆるやかに業界がシュリンクしていく予見された未来が変えられないのだとしても、文句があるのなら、やれることをやってからぶつくさ言う方がずっと気分がいいだろう。

私は私のために、私の気分がよくなるために喋る。

大学は下らないし、出版社も下らないし、なにもかも下らない。が、学問だけは下らなくない。面白い。ほんの少しでいいから人々がもう一歩難しいものにチャレンジする機会が増えてくれればいいなと思う。

第2回 図書館のプロダクト・デザインの変革はブックトラックから始まる

2017年12月6日
posted by 李 明喜

プロダクト・デザインとインダストリアル・デザイン

まずは図書館のプロダクト・デザインから始めたいと思う。その言葉自体は意識されていないとしても、図書館におけるデザインでもっとも身近に感じられるのがプロダクト・デザインではないだろうか。それは図書館用品として、図書館に関わる皆さんが日常的に触れているデザインだ。この「触れている」という側面が、プロダクト・デザインの特性を強く特徴づけるものになっているのだが、それについては後述する。

図書館のプロダクト・デザイン、図書館用品のデザインについて書くまえに、デザインを考えるための基礎知識として「プロダクト・デザイン」と「インダストリアル・デザイン」という言葉について、その違いを含めて説明したい。

『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)の中で、それぞれの言葉の来歴を以下のように書いている。

「インダストリアル・デザイン(ID)は、第二次世界大戦後、アメリカから輸入された概念であるが、貿易振興、企業活動を支える要素の濃いところから出発した。当時、産業デザインあるいは工業デザインと訳され、産業発展を対象とするモノのデザインを中心とした企業寄りのものであった」

「プロダクト・デザイン(PD)は、広義にはインテリア、インダストリアル、クラフト等を含む「モノ系のデザイン」、狭義には工業デザイン、インダストリアル・デザインと同義に使われるが、高度工業化社会、あるいは脱工業化社会でデザイン領域が拡大してより生活者寄りになり、技術論のみではなく、文化の視点が重視されるようになっている」

このように同じプロダクト・デザインと言っても狭義で使われる場合と、広義で使われる場合がある。狭義に読むか、広義に読むかでプロダクト・デザインの論じられ方は異なるのだ。

序論「図書館におけるデザインとは何か?」にも書いたが、デザインにおけるカテゴリーに着目してもこのように「あいまいさ」がつきまとう。そしてデザインのあいまいさやわかりにくさはデザインの本質であり、武器であるとは言ったものの、それだけではデザインの理解には向かわないので、各論においては、それぞれにおけるデザインの概念をどのようにとらえていくのかを(厳密ではないが)示していく。本稿で書くプロダクト・デザインとは、「生産されたモノ(製品)のデザイン」という程度のゆるやかなカテゴリーであるとして、以降の議論を進めていきたい。

図書館グッズというノスタルジア

毎年秋に開催される図書館総合展。キハラ株式会社(以下、キハラ)のブースは、いつも多くの図書館関係者を集める。特に初日は多くの人で賑わうのだが、訪れる人の目的はブースで販売される図書館グッズであったりする。

図書館関係者には説明するまでもないが、それ以外の読者のためにキハラ株式会社について簡単に説明する。キハラは1914年、製本や帳簿などの紙加工を業として、神田神保町で創業した。それから数年後には、製本だけでなく図書カード(目録カード)やカードケースなどの製造販売を始めている。戦後になると、図書館需要の増加にともなって取り扱う製品も広がり、書架、雑誌架、新聞架、閲覧机、閲覧椅子、カウンター、ブックトラックなどの図書館家具、ラベル、ブックカバーフィルム、展示用品との図書館用品、検索システムやICソリューションなどの図書館システムまで、現在では図書館に関するものをトータルで扱うようになっている。

そのキハラが図書館総合展のブースで、現在は図書館で使われていないものであったり、古くから変わらず使われているものをグッズにして販売するのだ。たとえば図書館カードや「禁帯出」といった図書館シール、缶バッチ、マグネット、図書館ラベル、マスキングテープ、クリアファイルなどの図書館グッズ(下の写真)を販売するのだが、古いモノへの懐かしさや憧憬から、いまでも愛着を感じるファンは多く、図書館総合展が近づくとFacebook上では、会場に行くことができない人から図書館仲間に向けて「私の分も買っておいて!」といったお願い投稿を見ることもある。

(写真提供:キハラ株式会社)

(写真提供:キハラ株式会社)

かつては実用品として現場で使われていた図書館用品が図書館グッズとなり、そこに図書館を愛する人々の懐かしさや愛着といったまなざしが向けられる。この懐かしさや愛着はノスタルジアの一種である。図書館というやさしい光に包まれていた記憶。記号としてのノスタルジア――。

書誌情報をコンピューターで管理するように なり、目にする機会が少なくなったカード ケース。(写真提供:キハラ株式会社)

キハラは一方で、日本図書館協会と協力して歴史的図書館用品の調査・収集・保存を2004年から行っている。このプロジェクトは「図書館の発展史上参考となる用品、家具、機器などを調査し保存する事業」であり、図書館発展史を紐解くうえでも重要な事業だといえる。

しかし図書館グッズというノスタルジアは、歴史とは大きく矛盾したものである。「歴史」は、時間の流れの中でできるだけ客観的事実に接近しようという営みであるのに対して、「ノスタルジア」は、時間の流れからは切断された気持ちのよい世界に留まる態度だといえる。人とモノの関係は、人とモノとの相互作用(インタラクション)によって培われていくものだが、記号としてのノスタルジアは、人とモノの関係から、相互に影響し合う動的な関係性の部分を除外していく。

ノスタルジア自体は、ファッション・デザインを始めどこにでもあるものだが、とりわけ図書館における人とモノの関係やモノのデザインについて考えるとき、ノスタルジアによって切り取られた気持ちのよい世界が大きく占めているように感じるのだ。図書館におけるプロダクト・デザインの批評が存在しない理由のひとつがここにある。

キャラクター化するブックトラック

図書館グッズとは別に、図書館用品にはさまざまなモノがあるが、その中でもっとも身近なのがブックトラックだろう。ブックトラックとは、本を運ぶのに使うキャスター付きのカートのことで、重い本の移動が頻繁に行われる図書館の中では、必要不可欠なプロダクトである。構造は、スチールのフレームに棚板と側板の構成でできており、それにキャスターを付けたシンプルなものである。現在、多くの図書館で活躍しているブックトラックはスチール製が大半だが、かつては木製であった。天童木工や伊藤伊はいまでも木製のものを主に製造しており、キハラでも一部が木製のものを扱っている。

私は2014年に東京大学附属図書館の展示デザイン『「知」が創る「平和」 藤原帰一と見る世界』を行ったのだが、その際にキハラから倉庫に眠っていた木製ブックトラックを提供していただいた。この古い木製ブックトラックは頑強さにおいては決してスチール製に負けておらず、いまでも充分に通用するものであった(キャスターはさすがに古かったので走行性においては厳しかったが)。

「『知』が創る『平和』 藤原帰一と見る世界」(東京大学附属図書館)展示風景。(撮影:李明喜)

キハラの木製ブックトラック。(撮影:李明喜)

ブックトラックの構造はシンプルだが、図書館の現場における用途は多様で、本を運ぶためのカートとしての機能だけではなく、作業台や返却台として使用したり、展示用の棚として利用したりすることもある。ブックトラックは図書館で働く人々の「行為」を通じて本と書架をつなぐものであり、図書館で働く人々と利用者をつなぐものであるとも言える。そこでこのブックトラックをプロダクト(製品)としての評価方法という観点から考えてみたい。

ここでは山岡俊樹著『論理的思考によるデザイン ─ 造形工学の基本と実践』(BNN、2012年)の「製品の簡易評価方法」を参考にする。

図1『論理的思考によるデザインー 造形工学の基本と実践 』 所収「製品の簡易評価方法」より(BNN、2012年)

製品は「有用性」「利便性」「魅力性」の三つの構成要素から評価が行われる。「有用性」は製品の機能面や生産面、価格面、耐久性などを、「利便性」はわかりやすさや操作性、安心感、ユニバーサルデザインなどを、そして「魅力性」は美しさや新規性、雰囲気、色彩・形状などをそれぞれ指す。以下に、ブックトラックにおける三つの構成要素に関わる項目を挙げてみる。

各メーカーのブックトラックをこれらの項目で比較したときに、1の有用性についてはほとんど大差がないと思われる。2の利便性については、キハラの電動パワーアシストブックトラック《ブンブン6》のような操作性に特化したものが一部あるのだが、価格面から簡単には導入できない。そうすると利便性についてもあまり差はつかない。それぞれの製品で利便性における違いはあるのかもしれないが、その差はほとんど伝わってはこない。

3の魅力性についてはどうか。ブックトラックの中でグッドデザイン賞を受賞したものがあるのをご存知だろうか。それはイトーキの《ブックトラックAT》で、2014年度のグッドデザイン賞を受賞している。

大八車を参考にしたという中央の大径車輪により、操作性と旋回性の向上を実現したということだが、それ以上にフラットパネルをベースにした本体部と大径車輪の組み合わせが印象的な、意匠性の高い製品となっている。この《ブックトラックAT》はほかのスチール製ブックトラックと比べて価格面ではさほど開きはなく、利便性と魅力性においては他製品との差異化ができていると思うのだが、図書館の現場で見たことはない(私の訪問した図書館の数が単に少ないだけということでもあるが)。

イトーキの《ブックトラックAT》 CC BY- ND 2.1 JP(表示-改変禁止 2.1 日本)©JDP GOOD DESIGN AWARD http://www.g-mark.org

サイズや色の違いはあれ、メーカーによる差がさほど大きくはないスチール製のブックトラックが占める中、目立っているのが、くまモンやむすび丸などのキャラクターのブックトラックである。これはスチール製ブックトラックの両側板にオリジナルデザインのグラフィックシートを貼って、ほかにはないオリジナルブックトラックをつくることができる《ブックトラックプラス》というキハラのサービスだ。これらのキャラクター付きブックトラックは図書館の現場だけでなく、図書館総合展などのイベント会場でも活用されている(ARGも毎年ブース展示に使っている)。

くまモンが側面に描かれたブックトラック(写真提供:キハラ株式会社)

地域のゆるキャラや、図書館のマスコットキャラクターによって癒しや愛着を感じるという部分も多少あるとは思うが、実はくまモンたちは単なる媒介に過ぎず、ここに現れているのはブックトラックそのもののキャラクター化である(キハラからブックトラック型のUSBメモリーが発売されたこと、それが図書館関係者に大人気であったこともブックトラックのキャラクター化の流れの一例だと言える)。そして、ブックトラックというキャラクターと過ごした時間が長いほど思い入れが強くなり、キャラクター=ブックトラックへの愛着の感情が増していく。

前項で書いた「図書館グッズのノスタルジア」と「ブックトラックのキャラクター化」は、モノから膨らむイメージが、好意的な「ネットワーク」(次頁で説明する)を形成するという意味において極めて近い現象だと言える。これ自体は図書館のプロダクト・デザインの状況を考えるうえで重要なひとつの側面であることに間違いはないが、一方でノスタルジアやキャラクター化によって除外される、人とモノの相互関係という側面について、私たちはいま取り戻す必要がある。

ネットワークをデザインする

「製品の簡易評価方法」に照らし合わせて考えてみると、図書館グッズのノスタルジアやブックトラックのキャラクター化は、「魅力性」という構成要素の中の「ストーリー(キャラクター)」というひとつの項目についての話に過ぎない。繰り返しになるが、これ自体は大変興味深い事象であり、これも図書館における「プロダクト・デザイン」を考えていくうえでは欠かせない視点である。ここではそれとは別の側面である、人とモノとの相互作用について考えてみたい。

人とモノの関係については、1980年代以降、人類学や社会学およびその周辺で研究が進んできた。背景としてあったのは、これまでの人間中心的な世界観への疑問であった。人間が主体としてモノの意味を付与するということだけではなく、モノが人の感情や行為を引き出すこともある。ここには主従関係やどちらが先といった観点はなく、まず関係があって個々の存在がある。これらの互いに影響をおよばし合う存在を、人やモノや自然も含めてアクターと呼ぶ。アクター同士が結ぶ関係=ネットワークがアクターそのものを変化させ、アクターは相互作用の中でネットワークを構成していく。これをフランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールによるアクター・ネットワーク理論と言う。

私はプロダクト・デザインにおける方法として、このアクター・ネットワーク理論がヒントになるのではないかと考えている。モノをデザインするのではなく、人の体験をデザインするのでもなく、たとえば、ブックトラックのプロダクト・デザインを考えるときに、ブックトラックを通して相互に働きかけを行うすべての人やモノからなる関係性をデザインするとは、どういうことなのか。どういうことをすれば関係性をデザインできるのか。

たとえば、フラッシュアイデアだが、製品開発におけるフロー(市場調査/企画/資金調達/設計/製造/流通/販売)にアジャイル的な開発手法「アジャイル・マニュファチャリング」や参加型製品開発などを適時組み込みつつ再構成する、ということが考えられる。より具体的には、ブックトラックにシングルボードコンピュータを取り付けてIoT(Internet of Things モノのインターネット)のハブにすることで、関係性のデザインへの第一歩になる。図書館で働く人や利用者などのヒトはもちろん、本を中心としたさまざまなモノもブックトラックに集まってはまた離れていく。そしてブックトラック自体も図書館内の至るところへ動いていき、人の感情や行為に働きかけていく。

ケヴィン・ケリーが『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(NHK出版、2016年)で書いたテクノロジーがもつ本質的な力は、ブックトラックがハブとなるアクター・ネットワークの中でも作用する。アクセシング(接続していく)し、トラッキング(追跡していく)し、コグニファイング(認知化していく)し、インタラクティング(相互作用していく)し、ビギニング(始まっていく)する。これらの作用がもたらす変化によって動的ネットワークをデザインすることができるかもしれない。

アクター・ネットワーク理論による人とモノの関係をとらえ直すということは、プロダクト・デザインという枠の中だけのことではなく、あらゆるデザインに関わることであると同時に、これまでのデザインのカテゴリーや区分を無効化するということでもある。そのとき、人にもモノにももっとも近いプロダクトのデザインが、図書館においては「ノスタルジア」と「キャラクター化」によって閉じてしまっているという状況があり、プロダクトから考えるべきだと思っている。図書館のデザインの変革はブックトラックから始まる。

(次回「地域デザイン」の章につづく)

【参考文献】
勝井三雄・田中一光・向井周太郎 監修『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)
山岡俊樹『論理的思考によるデザイン 造形工学の基本と実践』(BNN、2012年)
廣瀨涼「キャラクター消費とノスタルジア・マーケティング ~第三の消費文化論の視点から~」(『商学集志』第86巻第1号、2016年)
ブルーノ・ラトゥール『科学がつくられているとき――人類学的考察』(川崎勝・高田紀代志 訳、産業図書、1999年)
ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(服部桂 訳、NHK出版、2016年)