「世界に向けた言葉」

2023年6月12日
posted by 藤谷 治

最終信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんの手紙を受け取って、僕はこの三十通以上ある往復書簡のところどころを拾い読みしてみました。

この数年間に私たちに起こった最大の「事件」は、いうまでもなく我々自身の老いですが、歳をとった人間になじみ深い、あの「数年前など、ついこのあいだ」という感覚が、この手紙のやり取りに感じられなかったのは、興味深いことでした。2018年は充分に遠い昔の出来事で、当時の自分を懐かしくすら感じました。

環境の変化ということもあるでしょう。この期間に私たちは教師になりましたし、肉親との別れも経験しました。そういう話は、この書簡のやり取りの中ではほとんど語られることはありませんでしたが、私たちの言葉の背後に、そういった変化が裏打ちされていたのを、今読み返すと感じます。

しかしそれだけがこの書簡の始まりを「昔」のように感じる理由では、無論ありません。

仲俣さんが書いておられる通り、数年前と今との間には、「長期間にわたる世界規模のパンデミック」ばかりでなく、ヨーロッパでの戦争があります。私たちはまさに「世界戦争の鳥羽口に立って」いる。五月の広島サミットが、僕には連合軍の団結式のように見えました。

これもまた仲俣さんがどこかで書いていましたが、今年亡くなった大江健三郎が晩年まで語っていた「核の恐怖」を、僕は時代遅れの取り越し苦労のように思っていたものでしたが、今やそれは(いくらなんでも、そこまで……)と思いつつ、しかし二年前までの空想ではなくなって、それこそヒロシマでサミットが行われることの国際世論的な効果が見込まれる程度には、恐怖しなければならない事態に至っています。

自分の生きている今現在を、歴史的な転換点だと思うことには慎重な僕ですが、事態がこうまで動いてしまえば、何かが始まっていると認めるほかありません。もう以前の世界には戻れないところまで、物事は進み始めていると思います。

ツヴァイクのそれとは違う形で、私たちは知らないうちに「昨日の世界」を綴っていたのかもしれません。今ここにあるのも「昨日の世界」なのかもしれません。現在の僕はこれまでになく――1995年よりも、2011年よりも、2020年よりも――世界に対して恐怖を感じています。

ところがどういうわけか、僕は文学に対しては、あるいは広く「表現」に対しては、いささかの悲観もしていないのです。我ながらこれは奇妙なことです。今年に入って僕はどこからも仕事の依頼を受けておらず、生計を考えればどうあっても悲観しなければならないはずの立場なのですから。

それでも文学に対し悲観がありません。仲俣さんの言う「言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではない」ということは、もちろんあります。

しかし、それより何より、僕自身が今、世界に向かって語りかけなければならないという熱に浮かされているのです。状況に即した発言をしたいとか、社会に物申したいとか、そんなことではありません。ただ物語りたい。

この青臭い焦燥感はまったく幼稚なもので、小説家になる以前にくすぶらせていた苛立ちに似ています。題材やアイディアはあるものの、それをどうやって「世界への語りかけ」にしていくかは見当もつかない、という点でも、デビュー以前の五里霧中を再び経験しているようです。活力がなく沈潜しているよりはマシですが、カッカするばかりで自分を持て余し気味です。普段学生に向かっては、手を動かさなければいけないと、偉そうな口をきいているくせに。

そうだ。今思い出したことです。なぜ学生に、小説を書きたかったら手を動かさなければならないと言っているか。手を動かすことで「書くべきこと」があとから現れてくるからです。世界に向かって語るべきことが。あるいはむしろ、手を動かした結果現れた言葉が、僕の「世界に向けた言葉」なのです。それが貧弱な、情けない言葉であっても、それは僕の無才によるのだから仕方がないのです。自分の無才が露呈するのを恐れて何もしないのが、いちばんいけません。

*  *  *

仲俣さんからこの往復書簡の話を持ちかけられたとき、僕はこの形式での対話が大いに楽しめるだろう、とだけ期待していました。当意即妙な掛け合いを求められることもなく、あらかじめ準備して取りかかる対談でもなく、しかしその時々の目先にある問題や関心事について、お互いが言いたいことを存分に言う、たとえそれが多少噛み合わなくても、おのおのが思うことについて――相手に口を挟まれることもなく――言い尽くした、と、その時点で思える程度には書いていく。往復書簡とは面白い形式だと、このやり取りの中で実感できたのだけでも収穫でした。

時事に即した文章を書き慣れない僕にとって、これを「破船房」で一冊にしていただけるというのは望外のことです。大きな商業出版社にできることではないというところも、非常に興味深いです。『その後の仁義なき失われた「文学」を求めて』は、内容も刺激的でしたが、造本も良かった。ああいう簡素でこざっぱりした感じの本づくりは、これからの文芸出版にあらたな道を拓くかもしれない。「破船房」にとどまらない、出版全体の大きな流れが始まるのかもしれない。そんな予感もまた僕を青臭く奮い立たせます。

2018年からこんにちまで、ありがとうございました。しかし私たちの対話は終わらないでしょう。モーリス・ブランショじゃないけれど、誰と誰の対話も、いかなる対話も終わることはないのです。それが偉大な死者たちに対して私たち生者の持つ数少ないスペリオリティのひとつであり、生者にあるのは過去でも現在もなく、未来だけだからです。

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暗闇のなかの小さな希望

2023年6月2日
posted by 仲俣暁生

第38信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

5月の連休中に思い立ってTwitterをやめました。Facebookはずいぶん前にやめていて、いまはそれらに費やしていた時間を、書き下ろしの本の執筆と読書に宛てています。先日、小冊子をお渡しするため下北沢でお会いしたときに話したとおり、いま書いているのは、平成年間の現代文学史を自分なりの視点で語る試みです。

この本は十年前に声をかけてくれた編集者からいただいた企画です。しかしこの間、私はほとんど一文字も書けずにいたのでした。同時代の文学史を一人の書き手が独力で語るには蛮勇が必要です。その勇気をなかなか出せずにいたのですが、SNSをやめると手持ち無沙汰の時間が山ほどあり、その間に集中して仕事をすると、思いがけず順調に筆が運びました。この調子でなんとか年内に第一稿を書き上げたいと思っています。

この往復書簡を五年前に始めたとき、文芸と出版の世界が土台から大きく変わろうとしているのではないか、という話から書き起こしました。それから現在までの間には長期間にわたる世界規模のパンデミックがあり、いま私たちは世界戦争の鳥羽口に立っています。土台から大きく変わろうとしているのは文芸と出版どころではない。「世界」そのものが揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。

そんななかで、昨年から専任教員として教えている大学の学生たちと一緒に、五月の終わりに「文学フリマ東京36」に売り手として参加しました。2020年に出した文芸時評集に収めた文章よりあとに書いた、いまも継続中の時評の文章をまとめた小冊子を試みにつくってみたのです。

2019年にインディペンデント文芸誌「ウィッチンケア」の編集発行人・多田洋一さん、同誌の常連寄稿者でもある編集者・ライターの木村重樹さんとの共同ブースで文学フリマに出展し、持参したコピー本もそこそこ売れて手応えを感じていたのですが、今回はコピー本ではなく印刷会社に簡易印刷を頼みました。それには理由があります。

私がゼミで受けもっている学生二人が、初めて見に行った前回の文学フリマに大いに刺激を受け、自分たちもあのようなものを出してみたいと言い出したのが話の発端でした。私は大学で学生に「編集」という仕事について教えており、学生は卒業までに課題としてそれなりの分量の編集物を制作しなければなりません。

しかし学内で制作される編集物は「出版」されることなく、成績評価されて終わりです。せっかく編集の実務を覚えたのに、自分たちが書いたもの、デザインしたものを「出版」しないのはもったいない。自分が表現=制作したものが他人の目にふれて評価されること、その評価を自身で引き受けることが教育効果として大きいのはもちろんですが、それ以上に、本や雑誌はただつくるだけより、原価計算から販売までを自分の責任で行うほうが、はるかに楽しいはずだと思ったからです。

とはいえ私自身は、今回の文学フリマにそんなに手間暇をかけるつもりはありませんでした。自宅に両面印刷ができるコピー機があるので、20〜30部程度のコピー本を制作し、お茶を濁そうと思っていたのです。しかし学生たちが自腹で出版物を制作し、その仕上がりがそこそこ見事なのを横目でみているうちに、考えが変わりました。これは自分も本気を出さなくてはいけない。そう思ったのです。

今回は「ウィッチンケア」が用意してくれたブースの隣に、もう一つブースを確保し、そこを学生のための場所にしました。学生側のブースで自主制作物を販売したのは、卒業生や他コースの学生も含めると5人。かなりボリュームのある文芸誌から、薄い小冊子(いわゆる「ジン」)、そのほか雑貨や写真などいろいろなものが並んでいました。正午から午後5時までの五時間の間に、学生のブースはお客さんが絶えることなく続き、私たち(いちおう「プロ」であるはずの)より遥かに大きな売上だったようです。

先日、下北沢でお会いしたときにも話したとおり、私のつくった小冊子も(自分の手間賃を考えなければ)印刷費と用紙代を取り返せる程度の売上はありました。隣の学生たちの熱気が伝わったおかげかもしれませんが、なんとか面目を保つことができました。

*   *   *

ひと昔前、大状況と小状況という言い方がありましたが、大状況として世界を眺めると、なにひとつよいことが起きていないように思えます。しかし今回の文学フリマに集まった1万1000人を超える(史上最大規模だったそうです)作り手と読者の双方から感じた熱気は、少なくとも「文芸と出版」の世界に対して私が感じてきた否定的な印象を、かなりの部分で払拭してくれるものでした。

なにより、初めて自分の「言葉」を世に問うた学生の勇気ある行動に、私自身が大きな刺激を受けたのです。彼女たちが文学フリマで売り出した制作物は、狭義の「文学」を扱ったものではありません。でも藤谷さんの「〈文学〉とは読者を特定しないすべての言葉のことである」という定義に従うなら、彼女たちがあの場で世に問うたのは、まぎれもなく〈文学〉です。私はあらためて、そのような〈文学〉を構成する一員になりたいと思ったのでした。

今回の小冊子の売れ残り(なにしろ100部もつくってしまいました)は、神保町のすずらん通りにある「PASSAGE」という古書店に持っている私の棚「破船房」で売ることにしました。「破船房」の名は、以前にやっていた「海難記」というブログのタイトルを受け継いだものです。荒海のなかを漂う破れ船は激動の二十一世紀初頭を生きる私自身の似姿ですが、そう簡単に沈むわけには行かないぞ、という決意の現れでもあるつもりです。

年に二回の大きな即売会としての文学フリマと、小さな販売拠点としてのPASSAGEを得たいま、私は小さな出版活動を始めようと、本気で考えるに至りました。まだ本にまとめていない雑誌やネット上での連載記事がたくさんあります。自分で書いたものを自分で編集し、レイアウトとデザインをした上で印刷業者に手渡すまでの作業は、私にはなんの気苦労もなくできます。どんな商品でもそうですが、最後の難関は流通と販売です。しかし百部単位の出版物ならば、文学フリマとPASSAGEだけでも、時間をかければ売り捌ける気がしてきたのです(甘い見通しかもしれませんが)。

そこで藤谷さんに提案です。この往復書簡を本にしませんか。私が編集し、本に仕立てます。どんな本にするかは、これから一緒に考えましょう。

本にするならば、どこかで終わりにしなければなりません。そしてこの往復書簡を終了させるタイミングとして、いまがちょうどよいように思うのです。2018年から現在までの五年は文学(あるいは「小説」と呼ぶべきでしょうか)、出版、編集のどの領域も揺れ動いた、まさに激動の月日でした。この間に藤谷さんとやりとりしたメールをあらためて読み返すと、そのときどきの切迫した話題を通して、やはり一つの筋道があったように思えます。

それは、言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではないということです。私の好きな書き手の一人、レベッカ・ソルニットが『暗闇のなかの希望』で書いているとおり、未来が見通せないということは、逆説的な意味で「希望」でもある。ただしその「希望」は、闘志を失わずに動き続けることによって、はじめて仄かに見えてくるものでもある。

以前の手紙で、読むこと、書くこと、編むことのトライアングルをまわすということを書きました。藤谷さんとのこの往復書簡を書籍化するアクションを、ささやかなその契機にできたらと、いまの私は考えています。五年もの間、途中で大きな中断を幾度も挟みながらも、私との手紙のやりとりにお付き合いくださった藤谷さんが、ぜひこの提案を受けてくださることを祈っています。

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最善なアウトプットのための、適切な“調べる”を調べたい

2023年4月18日
posted by 山田苑子

こんにちは、心は永遠の大学生、山田苑子です。

いま、大人の勉強と調べ物というテーマは、大ブームらしいです。『調べる技術:国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』が好評で早くも六刷3万部とか(*1)。『独学大全』も出版後すぐ話題になっていました。

誰でもネットで簡単に検索できる時代となった結果、結局「調べる」が結構難しいことだ、ということが可視化されつつあるのがこの5年位じゃないかな。私自身、ちょっとだけ大学で非常勤講師をした時は、結局学生に調べる方法ばかり伝えていたような気がします。だからこそ「調べる」本が今、ブームなんでしょう。

現実問題として、「調べ過ぎる」ほうが怒られる。

でもね、ちょっと待って欲しい。私、仕事として複数業界の専門誌ライターをしてもうすぐ10年目に突入する者なんですが、原稿を納品して「よく調べてくれた!」「そんなに調べ上げてくれて、すごいね!」などと言われたことは、まぁ、ほぼ無いに等しいんです。それは毎回大幅に締切を破り倒しているから、ではあります。クライアントさんとしては「サッサと出してくれ」としか言いようがありません。

調べなくても怒られるし、調べすぎても怒られる。それなら調べないで怒られたほうが、コスパはいい気がします。怒る人はだいたいヒントをくれるはずですから、そこから辿った方が早い。だとすると、「まずは、調べない」が、ごく普通の選択になるんじゃないでしょうか。

思い返しても、自分が調べたことに対して「足りない」と激詰めしてきたのは、史学科在籍時代に顔を出していたあらゆるゼミの教員陣、そして大学院時代の指導陣。つまりアカデミックの人達だけです。自分の場合、18歳から22歳という若い時代に「調べが足りない」と激詰めにさらされたことが、その後の習慣に大きな影響を与えているようには思います。

特に修論を書いた後は、この影響をハッキリと日常的に感じています。何を書いていても指導教授の「それは誰が言うたんや、あんたか?! あんたの勝手な意見か」という言葉が脳内で襲ってくるようになりまして。「いや、先生に説明出来るほどは、調べ切れてません……」と思うと、体が勝手に動いて調べている。

そんな状態なので、私自身は「よし、もう調べなくていいや」って思えたことが、一度もないんです。常に、いつも、ビクビクして、調べて、調べて、「もうこれ以上は、締め切りを踏み倒すと食い詰める」というタイミングでなんとかアウトプットをまとめているに過ぎません。

で、結局、どこまで調べたら「オッケー」なのか。

私のメモリアルを駆け抜けてみると、「調べ続けてしまう」という行動そのものの動機として、「調べること」が好きか嫌いかは、あまり関係ないのではないかと思えます。コレは最早、「業(ごう)」に近い。編集氏の言葉を借りれば「呪い」のようなものでしょう。脳内に巣喰う何かを鎮めるために、調べ続け、その結果をくべ続けて祭祀を行い続けている。そんなイメージです。

この呪いをどこで断ち切っていいのか、今、私は切実に知りたい。「調べる」ことを推奨している方々に聞いてみたいんです。「私は、いつ、調べるのを、終えたらんいいですか」と。

「どこまで調べたらいいかって、結局、調査の前段にある“目的”を達成できるかどうかによるからなんとも言えないよねー」そんな答えが返ってくることが、まぁ、瞬間的に思いつきます。「調べる」には大抵、目的があるはずです。提案書のため、企画書のため、取材原稿のため、論文のため、何かをつくるため、何かを証明するため……。

だとしたら、調べることよりも、何を調べるべきか考えるところが「調べる」のキモな可能性があります。自分の目的を達成できたところが、「調べる」の終わりなんでしょうか。生意気を言うようですが、なんかそれって、底が浅い感じがします。

あと「調べる」っていうと、ちょっと前までは「ググれカス」って言葉がよく取り沙汰されていました。今なら「ChatGPTに聞いとけ!」と言われそうです。実際、そこで出てきた情報をもって「調べた」と言い切る人も、昨今、結構、いるようです。

インターネットに載っていない情報や歴史は、そもそも存在しないと考えている人たちもいるようだ……なんて、笑い話なのかホラーか分からない話も聞くようになりました。大学のレポートとかじゃないですよ、出版書籍の話です。担当の編集が“仕事”してるかどうかはともかく、著者はきっとこう言うでしょう、「自分はよく調べて、書いてます」って。

はて、そうだとしたら、そもそも「調べる」ってなんなんでしょうか。私も一生に一度くらい、自信を持って「よし、調査終わり!」って、なってみたいモノです。

ところでこの原稿、ここまでで「調べる」っていう漢字が一体何回出てきたか、数えてた方はいらっしゃいますか。あまりに回数が多いので、私はだんだんゲシュタルト崩壊してきていて、調べるを調べるよりも調べと調べる、ほら「妙なる調べ」っていうじゃないですか、アレ、なんで同じ漢字なんですかね、それを調べたくなって今すぐ漢和辞典が必要な精神状態になってるんです、いやここはやはり『字統』か。そうすると事務所までいかないと……でもああ、さっきから、編集氏から「それ調べる前にとにかく一度、初稿出してください」って、ホラ、連絡が……。

(次回に続く)

*1 記事公開時の累計部数が誤っていると版元よりご指摘があり、正確な数字に修正しました。この件については「調べ」が足りないままでした。お詫びして訂正いたします(編集部)

棺を蓋うて事定まる

2023年4月10日
posted by 藤谷 治

第37信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

二人の偉大な日本人芸術家が、ともに三月のうちに亡くなったというのは、僕にとっても思うところの多い出来事でした。三日に大江健三郎氏が亡くなったと報道され、その死と業績について思いめぐらしているうちに、坂本龍一氏が二十八日に亡くなったと、四月に入って報じられました。

有名人の、報道によって知らされる死というのは、いつもであればある象徴性をともなったマイルストーンのように感じられるばかりで、その肉体的な死には思い至らないものですが、三月の大きな二つの死は、僕にはけっこうな生々しさをもって迫ってきたのでもありました。というのも、僕は二月に母の臨終に立ち会ったばかりなのです。母の年齢は大江氏に近く、死因は坂本氏のそれと同種のものでした。

無論、だからといって僕に彼らの死が「判る」などとは毛頭思いません。それらの死を同列に扱うような非礼もするつもりはありません。

ただ、「棺を蓋うて事定まる」という古い言葉が、ひと月前、ふた月前までとは、まるで違う重さと厳しさを持つのを、人間の生の厳しさとして感じます。

大江氏も坂本氏も、世界的な評価を得た日本人ということで、その死亡記事は新聞の一面トップに掲載されました。「反戦」「非核」「自然との共生」といった言葉が、どちらの記事にも並んでいました。

これらの言葉に、二人が力を注いでいたことは事実です。しかし同じこれらの言葉によって、彼らの「事(がたとえ半ばでも)定まる」のでは、やはりたまったものではないという思いがあります。ましてや、これらの言葉によって彼らが「批判」されるのも「称賛」されるのも、快く見ていられるものではありません。

そういった批判や称賛は、僕自身が30年前に彼らへ、とりわけ大江氏の仕事に対して感じたものでもありました。仲俣さんとちがって学生時代から大江健三郎を、「読まなければ話にならない」ものとして読んでいた僕は(そういうことが「コモン・センス」として通用していた時代でした!)、同時にそれが80年代という、直近の過去を嗤うことが新感覚と見なされた時期――ポストモダン、とも言うようですが――であったがために、いわばあらかじめ否定的な態度でもいたのでした。

仲俣さんは大江氏を「日本の近代文学的な伝統から切れている作家」と評していますが、それは今現在の視点から見たときの評価だと思います。現役作家であった頃――今の僕たちよりも若かった頃――の大江健三郎は、僕には文壇そのものに見えました。芥川賞や谷崎賞、野間文芸賞や三島由紀夫賞といった、主だった文学賞の選考委員をかけ持ちし、のべつまくなしジャーナリストや批評家たちと論争を続けていたのが大江健三郎で、そういう文壇ゴシップを無視して氏の小説を読むことはできませんでした。論客としての大江氏には直情径行の感があり、冷静で紳士的に見えた論敵・江藤淳の方が、僕は好きでした。

読まなければいけない文学としてでなく、これは本当に素晴らしい、と思えるようになったのは、88年の『キルプの軍団』からです。ディッケンズの小説をモデルとして、極左集団と暴力犯刑事とオリエンテーリングを組み合わせたこの小説は、ひたすら読んで楽しく、作者の小説技術の粋を極めたものでありながら、同時に心のこもった青春小説の傑作です。後年、僕は確かどこかの大学系文芸誌で大江作品の特集をした時に依頼されて、この作品について短い文章を書いた覚えがあります。(ちなみに今、書棚のどこを探しても、その雑誌も原稿も見つからないんですけれど、調べてみるとそれは、「早稲田文学」の2013年6号でした)

以後の作品も決して文句なしに、というわけではありませんでしたが、比較的短い、あまり批評の対象にならなかったような長編小説や連作短編が、僕は好きでした(『人生の親戚』や『静かな生活』)。驚かされたのはノーベル賞受賞以後の作品で、『取り替え子(チェンジリング)』や『二百年の子供』『美しいアナベル・リイ』といった小説を、老いただの書くのをやめるだのと言いながらも書き続けたのは、驚くべき積極性です。これから老齢に向かっていく僕たちの、もっとも学ぶべきありようでもあるでしょう。(しかしこうしてみると、同じ80年代以降の大江作品でも、僕と仲俣さんとの挙げる小説が、ほとんど重ならないのは興味深い)

なんの話をしていたんでしたっけ。そうでした「棺を蓋うて事定まる」でした。これは僕のアテにならない予想にすぎませんが、大江氏の論争や罵倒は、棺が蓋われたこれからは、次第に色褪せ、消えていくものだと思います。そして氏の反戦や反核の言葉が、それに次ぐのではないでしょうか。こんにちトーマス・マンやロマン・ロランの政治的エッセイを読む者がいないのと、それは同じだと思います。

最後には、小説が残るのです。いうまでもなくそれは「エッセイよりも小説の方がエラい文学なのだ」なんてことじゃありません。人間がもっとも多様で、制御不能で、遠慮ないとき、つまり孤独なときにあらわれる表現が残るのです。大江健三郎の場合、それは小説であり、坂本龍一にとってのそれは、音楽だったのでしょう。

「魂のこと」とは、そういう孤独な表現のことなのかもしれません。生きている、つまり魂が肉体とくっついたままでいる人間に、「魂のこと」だけを抜き出して考える、あるいは表現するのは、おそらく、とても難しいことです。

ただ、種々の死を短期間に突き付けられ、ようやっと心の落ち着いた今、あらためて思います。僕たち生者は死者の価値を「定める」けれども、死者たちもまた生者に向かって、問いかける目を向けている。彼らは私たちに尋ねているのです。生者よ、お前たちは私を批判する権利を持っている。私の生前の行いを最初から最後まで洗い直し、解釈し、位置を定め、あたいを決めることができる。だがそれをするお前は何をしているのだ。お前は自分の生の時間を使って、これまで何をし、これから何をするつもりなのだと。

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魂のことをする

2023年4月6日
posted by 仲俣暁生

第36信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

大江健三郎さんが亡くなりました。その死に自分でも驚くほど静かな衝撃を受けています。

生前はろくに読まなかった作家をその没後にようやく読み始めるのは、あまり行儀のよいことではないでしょう。しかしいま私は彼の遺した膨大な作品群を、晩年に書かれたものから遡るかたちで、取り憑かれたように読んでいます。

1935年生まれの大江健三郎は私の父母とほぼ同世代であり、1963年生まれである彼の長男・光さんも私や藤谷さんと同学年です。ある時期から大江健三郎は、いわば「家族小説」とでも呼ぶべき話をもっぱら書くようになりましたが、そのことが私から大江の作品に手を伸ばす機会を奪った理由のひとつでした。若い時期は誰しもそうでしょうが、家族という人間関係をうまく扱いそこねていたのです。

しかしいま私は、むしろ大江健三郎の家族小説にこそ心惹かれています。個別の作品への感想や論評はきりがないので避けますが、現在から遡って大江の小説を読んでいくなかで、1980年代に書かれた連作集――『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』(1982年)、『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)、『河馬に嚙まれる』(1985年)、『静かな生活』(1990年)――がもっとも豊かな読後感を与えてくれたからです。

あらためて読んでいくとよくわかるのは、大江健三郎が日本の近代文学的な伝統から切れている作家だということです。彼自身そのように意識して(ブレイクやオーデン、ダンテに依拠しつつ)小説を書き始め、やがて自身のルーツである「森」を根拠地に、巨大な物語世界を幾度もかたちを変えて語り直してきました。世界にむけて開かれた文学であると同時に、きわめて私的な経験に裏打ちもされている、それが大江健三郎という作家の特異性でしょう(もちろん、本質的にはあらゆる文学がそうなのですが)。

ノーベル文学賞を受賞したとき大江健三郎は、いまの私や藤谷さんと同じ年頃、還暦直前でした。大学在学中にデビューしてすぐに芥川賞を受賞し、59歳でノーベル賞を受賞――こうした文学者としてのあざやかな成功の裏で、大江自身はおそらく自分の書く小説にいつまでも満足することがなかったはずです。一度は、もう新しい小説は書かないと発言したものの、相次ぐ親しい友人(武満徹、伊丹十三など)の死にむしろ「励まされ」(これは大江健三郎の重要な語彙のひとつです)たかのように、さらに20年近く、彼は偉大といってよい小説を書き続けました。驚嘆すべきことです。

私が本当の意味で大江健三郎を「読んだ」のは、2017年に出た加藤典洋の『敗者の想像力』(加藤さんはこの本が出た2年後に亡くなりました)での卓抜な『水死』論に触発され、同作からいわゆる「おかしな二人組(スゥードカップル)」三部作へ、そしてさらに『宙返り』へと、大江健三郎の「晩年の仕事(レイト・ワーク)」を読み継いだときです。昨年2022年にはすぐれた大江健三郎論として、長年にわたり大江にインタビュー取材をし続けてきた元読売新聞の尾崎真理子による『大江健三郎の「義」』、そして谷崎論や井伏論の著作もある仏文学者・野崎歓の『無垢の歌──大江健三郎と子供たちの物語』の二冊が出ました。これらを頼りに未踏の大江作品を読んでいくのは、なんとも新鮮で充実した体験でした。

思い起こせば、私が同時代の小説、とりわけ純文学を面白く読むようになったのは、1990年代半ばを過ぎてからのことでした。きっかけは同世代の魅力的な小説家の相次ぐ登場でした。ここでは阿部和重と星野智幸の名を挙げるにとどめますが、いまの私なら、この二人に大江の影響が歴然たることに即座に気がついたでしょう。無知とはなんと恐ろしいものでしょうか、そのことに無自覚なまま私は彼らに代表される新しい文学の誕生を歓迎したのです。そして、このときすでに大江健三郎はノーベル賞作家でした。

大江健三郎は私にとってながらく巨大な盲点であり、もしかしたら心理的タブーでした。私個人だけでなく、もしかしたらある世代全体にとって、そうだったかもしれません。

大江健三郎は旺盛な創作活動の傍らで、愚直なまでに戦後民主主義の達成を擁護する立場から政治的発言をしてきました。そうした愚直な政治性からは距離を置いた、いわゆるポストモダンの小説家や思想家――ここではやはり村上春樹と柄谷行人の名を挙げるにとどめますが――もまた、それぞれの長い迂回を経て、反戦や平和、つまり普遍的価値への「愚直」なコミットメントをするようになっていく。大江健三郎が揺らぐことなく「愚直」であり続けたのとは好対照ですが、たどり着いた場所は同じでした。

1980年代から90年代を経て、21世紀の最初の四半世紀がそろそろ終わろうとする現在まで、日本でもっとも大きな影響力をもった小説家はまちがいなく村上春樹です。まもなく発売される彼の最新長篇には、封印されている初期の中篇作品と同じ題名が与えられていることが話題になっています。村上春樹のこの「新作」を楽しみにする思いが、私のなかにないわけではありません。しかし大江健三郎の作品を少しずつ読んでいくなかで、これまでに一度も考えたことのない、こんな問いが生まれてきました。

この十数年、大江の次にノーベル文学賞を受賞する日本人作家がいるとしたら、それは村上春樹だろうと言われ続けてきました。しかし、あらためて考えてみるならば大江健三郎はノーベル賞受賞後も現役の書き手であり、村上春樹にとって、手強い同時代のライバルでもあったはずです。デビュー二作目に『1973年のピンボール』という題名を与えた村上春樹が、大江健三郎の意識的な読者でなかったはずはありません。

なにより、村上春樹自身、大江と同様に日本の近代文学的な伝統から切れたところからスタートした作家でした。違うところがあるとすれば、依拠するものがヨーロッパ文学から、アメリカ文学に切り替わっただけでしょう。そして21世紀になっても書き続けた大江の創作活動の総体こそ、村上春樹「以後」の文学への根本的な「批評」でもあったと、いま、私は考えています。

大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した際のストックホルムでの講演、「あいまいな日本の私」のなかで、当時の日本文学を「東京の消費文化の肥大と、世界的なサブカルチュアの反映としての小説」と述べ、それらとは「ことなる、真面目な文学の創造を願う」と述べています。「サブカルチュアの反映」とは、この時期にはすでに大江の論敵であった批評家の江藤淳が、村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に与えた評言でした。もちろんこの言葉は、村上春樹の小説に対してもよく当てはまる「批評」です。

「魂のことをする」という、大江健三郎の独特な言い方があります。「魂のこと」とは、普遍的であり、かつ個別的でもある価値、たとえば同じくらい愚直な「文学」のような言葉に対応するものでしょう。日本の現代文学のなかに希望の芽を探し出す「大江健三郎賞」を2014年で休止した後、こんどこそ自分にとっての「魂のこと」に残された時間を費やすことを決め、大江健三郎は私たちの前から姿を消しました。その消え方も含め、じつに見事でした。

そろそろ晩年が近づいてきた私たちも、自身の「魂のこと」に取り組まなければない時期かもしれません。

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