文フリに現代の「文学とは何か」を見た

2023年11月16日
posted by 藤谷 治

11月11日(ポッキーの日)、かねてより見物したいと思っていた「文学フリマ」に参加した。おのぼりさん感覚、文化祭感覚、そしてかつて開いていた僕の本屋「フィクショネス」感覚を、存分に味わうことができた。誘っていただいた破船房の仲俣暁生さん(当「マガジン航」の編集発行人)に、まずは感謝する。現場でも仲俣さんは大奮闘なさって、おかげで僕は楽ができた。

開場は12時の予定で、準備は10時からということだったが、僕たちが到着した時(つまり開場2時間前!)には、すでに来場者が行列を作っていた。東京流通センターをフルに使った会場は広かったが、個々のブースは狭かった。破船房もひとつのテーブルを半分だけ使うことができて、そこに仲俣さんや僕の本を、なるたけ見栄えよく並べて客を待った。

テーブルの残り半分を占める隣のブースは、11時を過ぎても人が来なかった。大きな段ボールがいくつも積んであるばかりで、他人事ながら大丈夫なのかと心配になったが、開場20分くらい前にようやく段ボールが開かれた。中からは表紙に可愛い男女の描かれた、B5サイズの300頁くらいある本がどかどかと出てきた。

寒風の中で待ち続ける来場者たちを慮ってか、開場を10分早めるというアナウンスがあった。僕たちのブースはすっかり準備が整っていたが、となりは段ボールを開くので精一杯の様子である。間もなく開場となった。すると来場者たちは、はっきりとなりのブースを目指して集まり、そのぶ厚い本を中心に次々と買いあさっていくのである。たちまち行列になり、僕たちのブースの前を覆い始めた。仲俣さんは行列に向かって、通路の中央に並んでくださいと何度も声を上げたが、行列は伸びる一方、ついには文フリのスタッフが人員整理をしなければならない仕儀となった。

僕も驚いたが、そのブースの人たちにもこの人気は意想外だったらしい。印刷所から届いた本の帯封を切るのさえもどかしげに、ばんばん本を売っていった。千円札や一万円札が飛び交い、空になった段ボール箱を片づけることすらできず、開始10分で売れ切れた本もあったようだ。

そのブースの人たちはとても礼儀正しく、僕たちに御迷惑をおかけして申し訳ありませんと、何度も言ってくれた。中の一人は僕のことを知っていたばかりか、数年前にご挨拶もしてくれていたという。文芸畑の人なのだった。他の方々も僕たちに終始気をつかってくれた。その間も本は売れ続け、金庫代わりにしているクリアファイルは紙幣で膨れ上がり、ラグビーボールみたいになっていた。

そうなると僕としてはもはや羨ましくすらない。そういう現象を目の当たりにしたという、お祭り見物みたいな愉快な気持ちであった。そしてもちろん、彼らの売りまくっている本の内容が気になる。覗いてみるとどうやらそれは、ビジュアルノベルの批評集なのだった。

少し客足が落ちついてきたころに、僕は訊いてみた。

「ビジュアルノベルっていうのは何ですか? ラノベみたいなもんですか?」

「むしろゲームですね。コンピューターゲームなんだけど、小説として楽しめるというか」

「ああ」僕は必死に貧弱な知識を動員して理解しようとした。「つまり『ポートピア連続殺人事件』みたいな?」

「あのへんが起源ですね」

のちに知ったのだが、僕の出した例も完全なトンチンカンでもなかったにしろ、むしろ『ときめきメモリアル』と言ったほうがよかったようだ。恋愛シミュレーションゲームである。

なるほど、と僕は思った。彼らはあれを「ノベル」=「小説」と見なしているわけか。

論争のない世界

破船房のブースの売り上げが悪かったとは思わない。仲俣さんがさかんに声を出してくれたおかげもあって、破船房から出してもらった『新刊小説の滅亡』は50冊近くも売れたし、仲俣さんの本には完売も出た。知り合いにばかり売れたのでもなかった。我々は我々なりに奮闘し、成果を上げたと言える。

僕たちが売った本には写真集もあるが、大半が「純然たる小説」とそれに関わるものだった。「純文学」のことではない。「ビジュアルノベル」に較べれば純然、という意味である。ビジュアルもなければ音も出てこない、文章だけで出来ている小説を僕たちは売っていた。

水と油である。ビジュアルノベルから見たら僕たちのやっていることなどは、殆ど遺跡の発掘も同然だろう。一方で僕から見ればビジュアルノベルは果たして「ノベル」なのか、と問いたくなる。

だが僕は問わなかったし、彼らも僕らを嗤わなかった。それどころか彼らは僕らに気を配ってくれたし、僕も彼らに好感を持った。僕たちはお互いに笑みを交わし、気持ちよく別れた。

それはこの「文学フリマ」全体を象徴する光景に、僕には思える。店番の合間に会場を回ることもできたが、そこには多種多様な、あまりにも多種多様な「文学」があった。詩集あり海外文学あり、ラノベあり二次創作ありフォトエッセイあり、マイナーな趣味のエッセイあり政治的提言あり短歌あり旅行記ありエロあり創作文藝ありと、細分化していけばまだまだいくらでも広がるジャンルの「文学」が、幾千の著者によって書かれていた。ブースからブースへ渡り歩く人たちはそれらの小冊子や本でエコバッグをぱんぱんにしていた。つまりここで売られている「文学」はただ幾千の著者が書いているだけでなく、幾万の読者に読まれているのである。ちなみに著者と読者が重複するのは当たり前のことで、今に始まったことでも、論じて何かになることでもない。

そんな、収拾のつけようもない「文学」の乱切りポトフが「文学フリマ」であり、「文学」なのだと、僕はその巨大な空間を呆気にとられながら思い知った。

かつて文学には論争があった。お前の文学は間違っているとか、こんなものは文学じゃないとか、そんな言葉が真剣に応酬されていた。そこでは恐らく、弁証法が信じられていたのだろう。相容れない二項を対立させれば、そこに止揚が、アウフヘーベンが現われるという希望があったに違いない。

だがもはやそんなことは希望すべくもない。なぜなら対立するのは二項ではなく、百項、千項であり、これをアウフヘーベンするなんて芸当は非現実的だからだ。これら「文フリ」に広がる百項を統合し、二項か三項くらいにまとめあげようとすれば、そこにはどこか権力志向を思わせる雑駁さ、図々しさが露呈するだけではなかろうか。

人はもはや「文学とは何か」を共有しようとはしていない。『新刊小説の滅亡』と「ヴィジュアルノベル」は水と油なのかもしれないが、この二項が対立するには、まずお互いへの基本的な理解が必要になる。そしてその「基本的な理解」に至る道は、なんと遼遠なことだろう。私たちは勉強をしなければならない。その勉強の先に、もしあるとすれば「対立」は生まれるかもしれないが、対立するためにする勉強など、どこが面白いのか。そもそもそんな対立は生じることなんかなくて、互いへの理解を深める可能性だって小さくはない。水と油は、どちらも液体という共通項を持っている。それで充分という結論に達する可能性だってある。

だったら最初から相手に深入りしなければいいのだ、というのが「文フリ」なのかもしれない。実際、ヴィジュアルノベルの人たちに限らず、言葉をかけあったどのサークルの人とも、私たちは礼儀正しく振る舞うことができたし、人々も礼儀正しかった。そしてお互いのやっていることや目指していることにはほぼ抵触せず、ポッキーの話や来場者の多さを語り合って別れたのである。それは居心地のいい空間であり、居心地がいいのは悪いことでは決してない。それに私たちは、自分らの本を買ってくれる、自分らに関心を持ってくれる人たちとは、短いながらもしっかりと対話をすることができたのだ。

「判る人だけ判ればいい」と「仲良きことは美しき哉」。これが「文フリ」の空間を支えている不文律だった。表現芸術全般にとって「判る人だけ判ればいい」は、今に始まったことではない。僕が現代性を感じたのは「仲良きことは美しき哉」の方である。実際それは美しい。機会があればまた訪れたい。「文フリ」は魅力的で祝祭的な場所である。

だがその「美しさ」は、何かを隠蔽してはいないだろうか。その何かを突き止めるのは、批評の重大な役割ではないだろうか。

雨雲出版を立ち上げる

2023年11月7日
posted by 横山仁美

「どうして出版したいんですか」

初対面の編集者から単刀直入に訊かれた。どうして? 一瞬、戸惑ってしまう。

作家ベッシー・ヘッド作品の日本語訳を出版したい。熱い思いを胸に多くの出版社に持ちかけたが、そのように根本的な問いを投げる編集者はいなかった。でも、不意を突いたその言葉は、わたしにもっとも大切なことを気づかせてくれた。自分は純粋に、敬愛する作家の圧倒的な素晴らしさに感動してほしかったのだということを。

南アフリカ/ボツワナの作家ベッシー・ヘッド

ベッシー・ヘッドは南アフリカ出身の作家である。1937年、ピーターマリッツブルグの精神病院で生を受けた。母親は白人で父親は不明だ。生まれて間もなく白人夫婦に養子に出されるも、肌の色が濃いと突き返されてしまう。時代は人種隔離政策アパルトヘイト下の南アフリカ。カラード(*1)の夫妻に引き取られ、この夫妻を実の両親と信じて育つも、13歳でダーバン郊外の孤児院に入れられると宣教師が出生の秘密を告げる。

ベッシー・ヘッド(1937-1986)

「あなたの実の母親は白人女性でした。アフリカ人の子どもを身ごもったから精神病院に入れられたのです。あなたも母親のように頭がおかしくならないよう気を付けなくてはいけません」

この言葉は、生涯ベッシーの孤独な人生に影を落としてしまう。その後、ベッシーはケープタウンやヨハネスブルグでジャーナリストとして働き、同じくジャーナリストのハロルド・ヘッドと結婚して息子のハワードが生まれるが、反アパルトヘイト闘争が激化した1960年代半ば、結婚は破綻しベッシーは幼い息子を連れて隣国ボツワナ(当時の英国保護領ベチュアナランド)に亡命する。何年もの間、貧しい生活で苦労を重ねるも、英国や米国の雑誌等に記事を投稿し、やがて1968年には小説When Rain Clouds Gatherを発表する。これをきっかけに世界に名が知られ、1971年にMaru(邦題『マル:愛と友情の物語』)、1974年にA Question of Power(邦題『力の問題』)を発表し、その他多数の短編小説やエッセイを執筆した。作家としての活動が軌道に乗ると様々な国に招聘され活躍の幅を広げていった。

しかし、自伝の執筆に取り掛かった1986年、彼女は48歳の若さで亡くなってしまう。南アフリカに戻ることもなく、アパルトヘイトの終焉も見ることがなかった。


*1:主にケープタウン周辺を中心とした南アフリカ西部の民族集団とオランダ系白人を含む様々な由来の人々との混血グループを指し実際は人種ではないが、アパルトヘイト時代にはひとつの人種グループとされた。

アフリカ人生の始まりとボツワナ

わたしが作家ベッシー・ヘッドを知ったのは大学3年生のころだ。

アフリカ地域研究のゼミで卒業論文のテーマを探していたときに偶然出会った本に夢中になった。文学専攻ではなく国際学部だったが、この作家をテーマに作品の社会的背景、とくに人種差別や作品の政治性について論じることにした。

そして大学4年生になった1998年、卒業論文の調査のためボツワナと南アフリカに旅立った。初めてのアフリカだ。ベッシーが暮らしたボツワナ中部のセロウェという小さな町にあるカーマ3世メモリアルミュージアムには、彼女の遺した大量の原稿や書簡がアーカイブとして整備・保管され、研究者に開かれている。大学生のわたしは研究者用に用意されたロンダベル(*2)に宿泊し、タイプライターで書かれた書簡を読みふけった。学部卒業後は英国エディンバラ大学アフリカ研究センターで修士課程を修了した。

カーマ3世メモリアルミュージアム


*2:円錐形の草ぶき屋根と円筒状の壁で作られたアフリカ風の住居。

開発コンサルタントとしてアフリカ実務へ

仕事でアフリカに行きたい。そんな思いが芽生えていた。

研究の世界は面白かったけれども、むしろ実際のアフリカで社会に触れ、人々と関わりダイナミックに案件を動かす国際協力の実務に従事してみたかった。留学を終えたわたしは、一般企業に勤めた後、外務省専門調査員として在ジンバブエ日本大使館に赴任した。帰国後は、国際協力の政府系機関に勤め、仕事でアフリカに行く目標は達成した。その後は開発コンサルタント(*3)となり、ケニア、タンザニア、ウガンダなど行ったことのなかったアフリカの国々も訪ねた。

そんなふうに慌ただしく働きながら、いつしかわたしの中で学生時代に出会ったベッシーの小説を自ら日本語に翻訳し出版したいという考えが生まれていた。アパルトヘイトという非人間的な環境で生きたベッシーは、ボツワナの農村での暮らしを舞台に、貧困や差別、農村開発、政治、ジェンダーの課題を、人間の内面を追及し文学という形で描き出す。社会課題そのものを描くのではなく、彼女自身が人間を愛する作家であることが作品を通して伝わってくるということに、自分の実務経験を通じて改めて気づかされたからだ。

そこからわたしは、翻訳スクールに通ったりもしながら少しずつベッシーの小説の訳出を進め、伝手をたどって出版社への持ち込みも行いはじめた。2007年にはベッシーの生誕70周年を記念したベッシー・ヘッド・フェストが開催され、わたしもボツワナを再訪した。各国から集まった研究者やファンとの交流を通じて翻訳出版への思いはますます強まった。

しかし、開発コンサルとしてのキャリアを積んで、一か月以上のアフリカへの長期出張が年に数回続くこともある生活の中で、翻訳作業はずるずると後回しになっていった。自分のキャパシティ不足もあって、いつしか十数年の月日が流れていた。

そんな2022年の秋、様々な要因が重なり、わたしは心身ともに調子を崩して開発コンサルタントの仕事をしばらく離れることになった。ちゃんと仕事をしなくてはと思うほど翻訳ができなくなるという強迫観念が、少しずつ重圧となっていたのだと思う。

翌2023年の初夏、わたしは16年ぶりにボツワナを訪ねた。セロウェのミュージアムでベッシーが遺した膨大な手紙を読み、研究者や生前の彼女を知る人々と話すうちに、ベッシー・ヘッド研究者としての自分がようやく戻ってきたような気がした。

ベッシー・ヘッドのアーカイブ調査(2023年)


*3:主に国際協力機構(JICA)や国際機関が企画立案する途上国援助プロジェクトに関し、専門技術をもって現地における調査や実施運営等を行う。

雨雲出版を立ち上げる

何故、出版したいのか。誰に読んでほしいのか。

ボツワナに行って気付いたが、20年以上のあいだ仕事をしながら翻訳出版を目指す中で、いつしかわたしは多くのものを手にしていた。作品の著作権者であるベッシー・ヘッド・ヘリテージトラストのメンバーになり、組織内では日本語訳をわたしが出版するという共通理解までできていた。長年、どこかの出版社でないと出せないと思い込み探し続けてきたが、必要なカードは実はすでに手元にあったのだ。

出版は手段だ。ベッシー・ヘッド作品を日本の読者に届けたい。遠い国の出来事ではなく自分事として受け入れてもらいたい。それがわたしのやりたいことだった。

翻訳出版に向けて奮闘し始め20数年。わたしは、自分自身で雨雲出版を立ち上げて作品の日本語訳を世に出すことにした。

現在翻訳中の『When Rain Clouds Gather』の原書。Waveland Press – When Rain Clouds Gather by Bessie Head

ベッシーの作品では農業・農村開発の経験に基づく詳細なリアリティが描かれている。未だ開発の世界で議論される課題について、ベッシーは人間の内面を絡めて鋭く描く。開発はセオリーではなく人間を相手にするものだ。開発コンサルタントとして働きながら、開発課題の深い理解に文学は非常に有効だと常々思ってきた。どれほど報告書や論文を読み、開発プロジェクトを通じて知見を深めても、文学が放つパーソナルな領域への強烈なメッセージが心に与える影響力は絶大だ。開発ワーカーほど文学作品に触れてほしい。

ベッシー・ヘッドに出会って四半世紀余り。研究や文学の世界とは違う実務の世界で生きてきた中で、ひと回り巡って人生が縒り合さり始めた気がしている。

現在わたしは、ベッシー・ヘッドが最初に出版した1968年の小説When Rain Clouds Gatherの日本語訳を、来年を目途に雨雲出版から刊行する準備を進めている。その前段階として、11月11日に開催される文学フリマ東京37に出店するための本づくりに夢中だ。ベッシー・ヘッドに出会ってから開発コンサルとして仕事し現在に至るまでのアフリカ人生を描いたエッセイと、ベッシー・ヘッド作品の引用を集めたものだ。

わたしなりのアフリカとのかかわりを通じて、世界に伝えたい大切なメッセージが誰かに届くことを願っている。


【お知らせ】
11/11文学フリマ東京37にて出店
出店名: 雨雲出版(小説|海外文学・翻訳)
ブース: し-58(第二展示場 Fホール)

『雨風の村で手紙を読む』
『雨雲のタイプライター』
ブックデザイン 吉崎広明(ベルソグラフィック)

軽出版者宣言

2023年10月22日
posted by 仲俣暁生

「軽出版」という言葉をあるとき、ふと思いついた。

軽出版とは何か。それは、zineより少しだけ本気で、でも一人出版社ほどには本格的ではない、即興的でカジュアルな本の出し方のことだ。何も新しい言葉をつくらなくても、すでに多くの人がやっていることである。にもかかわらず、私自身にとってはこの言葉の到来は福音だった。

ことの始まりは2023年春の文学フリマ東京36だ。このときの文学フリマで私は、インディ文芸誌『ウィッチンケア』をやっている多田洋一さんのブース「ウィッチンケア書店」に相乗りさせてもらい、自著のコピー本を売るつもりでいた。

2020年に一人出版社のつかだま書房から出してもらった文芸評論集『失われた「文学」を求めて|文芸時評編』の販売促進のため、本に収録したもの以後の時評からセレクトして簡単な冊子を作ろうと思い立った。さっそくAdobeのInDesignで組版したまではいいが、ホチキス止めの製本が面倒で手作業が止まってしまった。正直なところ、少し腰が引けていたのである。

ところでこの回の文学フリマには、常勤で教えている大学のゼミ生も出店していた。一つ前の回に見学に行ったところ感じるものがあったらしく、自分たちもzineをつくって売りたいという。早々と彼女らがつくったzineを見せてもらったところ、ネットでみかける軽印刷(いわゆる同人誌印刷)の業者に刷らせたもので、内容のみならず仕上がりもなかなか見事だった。

それをみて、私も軽印刷で刷りたくなった。学生が印刷所に出すのに教員がコピー本でお茶を濁してどうする。さっそくウェブで見つけた印刷業者で見積もりを取ると、こちらが考えていた額よりはるかに安い。(たまたまだが、学生が使ったのと同じ業者だった)

ならば、ということで100部ほど刷った小冊子は文フリ36だけでそこそこハケてしまい、印刷代はすぐに回収できた。そしてこのやり方なら、基本的に赤字にはならないことがわかった。

私のような仕事をしていると、雑誌やウェブに書いた後、とくに本にまとめられることもなく、二度と誰にも読まれないままの原稿が山のように溜まっていく。そのようなテキストを、zineを作るくらいの気楽さでサクサクと出版していきたい。そんな風に考えている私にとって、ネットの軽印刷業者で印刷し、SNSで告知し、即売会や独立系書店で売るのは最適のやり方なのだ。

軽出版とは、そのような営みのことである。

出版界は長らく、本を大量に安く売ることをよしとしてきた。巨大な装置産業である大手印刷会社や、全国一律発売を担う大手取次会社に支えられた、雑誌や文庫や新書を中心とする大規模出版は、これらの商品が与える軽やかな印象とは裏腹に、実際は巨大な装置と資源を必要とする「重たい出版」だと言える。たくさん売らねばならないために中身も薄く浅いが、にもかかわらず、それはまさしく「重出版」なのだ。

「軽出版」は、その対極にある。

たくさんは作らない。読者も限られていてよい。売る場所も、ネット以外は限られた書店や即売会だけでよい。少部数しかつくらないから在庫も少ないし、運よく売り切れたらその都度、また作ればいい。そのかわり中身は、好きなことをやる。重たい中身も軽出版なら、低リスクで出せる。

私がもっとも尊敬する作家の橋本治は生前、「自分には一人で1000人分の力を発揮してくれる5人の読者がいる。その5人を裏切らないために、その水準で書いている。自分に1万人の読者がいるとしても、書いているのはその5人に向けてだ」と言っていた。私が軽出版によって本を届けたい読者も、その「5人」のような人たちだ。

私はプロの物書きだし、プロの編集者だが、デザインや組版のプロではない。でも軽出版で出すくらいの本ならなんとかなる。だから自分で書いて自分で編集して自分で校正し、組版も装丁も自分でやる。InDesignが使えて、出版編集の基本が分かっていれば、いまは誰だって好きなように本を作れる時代なのだ。

本を作るのは容易く、売るのは難しい。でもいちばん難しいのは、書くべきことを書くこと、売るためでなく書くために書くことだ。

軽出版は、書き手が書くことの自由を取り戻すための仕組みでもある。破船房というレーベルでは、とりあえず自分の書いた文章を少しずつ本にしていくつもりだけど、この仕組みでもよいと考えてくれる人の文章やその他の作品も形にしていきたい。

「軽出版」や「軽出版者」は、私一人だけの言葉にしたくない。

臆することなく、軽々と、ヘヴィな中身の本を出していこうよ。

これが私の軽出版者宣言である。


【お知らせ】「マガジン航」の編集発行人、仲俣暁生は11月11日に開催される文学フリマ東京37に「破船房」名義で出店します。

出店名: 破船房
ブース: せー61 (第二展示場 Fホール)

また、この機会に小説家の藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』を続編と併せて破船房レーベルより刊行しました。ご期待ください。

藤谷治・著『新刊小説の滅亡』
(収録作:「新刊小説の滅亡」「新刊小説の逆襲」)

B6 判・64 ページ、予価:1,000 円
文学フリマ東京 37ほかにて随時販売予定。

「世界に向けた言葉」

2023年6月12日
posted by 藤谷 治

最終信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんの手紙を受け取って、僕はこの三十通以上ある往復書簡のところどころを拾い読みしてみました。

この数年間に私たちに起こった最大の「事件」は、いうまでもなく我々自身の老いですが、歳をとった人間になじみ深い、あの「数年前など、ついこのあいだ」という感覚が、この手紙のやり取りに感じられなかったのは、興味深いことでした。2018年は充分に遠い昔の出来事で、当時の自分を懐かしくすら感じました。

環境の変化ということもあるでしょう。この期間に私たちは教師になりましたし、肉親との別れも経験しました。そういう話は、この書簡のやり取りの中ではほとんど語られることはありませんでしたが、私たちの言葉の背後に、そういった変化が裏打ちされていたのを、今読み返すと感じます。

しかしそれだけがこの書簡の始まりを「昔」のように感じる理由では、無論ありません。

仲俣さんが書いておられる通り、数年前と今との間には、「長期間にわたる世界規模のパンデミック」ばかりでなく、ヨーロッパでの戦争があります。私たちはまさに「世界戦争の鳥羽口に立って」いる。五月の広島サミットが、僕には連合軍の団結式のように見えました。

これもまた仲俣さんがどこかで書いていましたが、今年亡くなった大江健三郎が晩年まで語っていた「核の恐怖」を、僕は時代遅れの取り越し苦労のように思っていたものでしたが、今やそれは(いくらなんでも、そこまで……)と思いつつ、しかし二年前までの空想ではなくなって、それこそヒロシマでサミットが行われることの国際世論的な効果が見込まれる程度には、恐怖しなければならない事態に至っています。

自分の生きている今現在を、歴史的な転換点だと思うことには慎重な僕ですが、事態がこうまで動いてしまえば、何かが始まっていると認めるほかありません。もう以前の世界には戻れないところまで、物事は進み始めていると思います。

ツヴァイクのそれとは違う形で、私たちは知らないうちに「昨日の世界」を綴っていたのかもしれません。今ここにあるのも「昨日の世界」なのかもしれません。現在の僕はこれまでになく――1995年よりも、2011年よりも、2020年よりも――世界に対して恐怖を感じています。

ところがどういうわけか、僕は文学に対しては、あるいは広く「表現」に対しては、いささかの悲観もしていないのです。我ながらこれは奇妙なことです。今年に入って僕はどこからも仕事の依頼を受けておらず、生計を考えればどうあっても悲観しなければならないはずの立場なのですから。

それでも文学に対し悲観がありません。仲俣さんの言う「言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではない」ということは、もちろんあります。

しかし、それより何より、僕自身が今、世界に向かって語りかけなければならないという熱に浮かされているのです。状況に即した発言をしたいとか、社会に物申したいとか、そんなことではありません。ただ物語りたい。

この青臭い焦燥感はまったく幼稚なもので、小説家になる以前にくすぶらせていた苛立ちに似ています。題材やアイディアはあるものの、それをどうやって「世界への語りかけ」にしていくかは見当もつかない、という点でも、デビュー以前の五里霧中を再び経験しているようです。活力がなく沈潜しているよりはマシですが、カッカするばかりで自分を持て余し気味です。普段学生に向かっては、手を動かさなければいけないと、偉そうな口をきいているくせに。

そうだ。今思い出したことです。なぜ学生に、小説を書きたかったら手を動かさなければならないと言っているか。手を動かすことで「書くべきこと」があとから現れてくるからです。世界に向かって語るべきことが。あるいはむしろ、手を動かした結果現れた言葉が、僕の「世界に向けた言葉」なのです。それが貧弱な、情けない言葉であっても、それは僕の無才によるのだから仕方がないのです。自分の無才が露呈するのを恐れて何もしないのが、いちばんいけません。

*  *  *

仲俣さんからこの往復書簡の話を持ちかけられたとき、僕はこの形式での対話が大いに楽しめるだろう、とだけ期待していました。当意即妙な掛け合いを求められることもなく、あらかじめ準備して取りかかる対談でもなく、しかしその時々の目先にある問題や関心事について、お互いが言いたいことを存分に言う、たとえそれが多少噛み合わなくても、おのおのが思うことについて――相手に口を挟まれることもなく――言い尽くした、と、その時点で思える程度には書いていく。往復書簡とは面白い形式だと、このやり取りの中で実感できたのだけでも収穫でした。

時事に即した文章を書き慣れない僕にとって、これを「破船房」で一冊にしていただけるというのは望外のことです。大きな商業出版社にできることではないというところも、非常に興味深いです。『その後の仁義なき失われた「文学」を求めて』は、内容も刺激的でしたが、造本も良かった。ああいう簡素でこざっぱりした感じの本づくりは、これからの文芸出版にあらたな道を拓くかもしれない。「破船房」にとどまらない、出版全体の大きな流れが始まるのかもしれない。そんな予感もまた僕を青臭く奮い立たせます。

2018年からこんにちまで、ありがとうございました。しかし私たちの対話は終わらないでしょう。モーリス・ブランショじゃないけれど、誰と誰の対話も、いかなる対話も終わることはないのです。それが偉大な死者たちに対して私たち生者の持つ数少ないスペリオリティのひとつであり、生者にあるのは過去でも現在もなく、未来だけだからです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第35信第36信第37信第38信

暗闇のなかの小さな希望

2023年6月2日
posted by 仲俣暁生

第38信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

5月の連休中に思い立ってTwitterをやめました。Facebookはずいぶん前にやめていて、いまはそれらに費やしていた時間を、書き下ろしの本の執筆と読書に宛てています。先日、小冊子をお渡しするため下北沢でお会いしたときに話したとおり、いま書いているのは、平成年間の現代文学史を自分なりの視点で語る試みです。

この本は十年前に声をかけてくれた編集者からいただいた企画です。しかしこの間、私はほとんど一文字も書けずにいたのでした。同時代の文学史を一人の書き手が独力で語るには蛮勇が必要です。その勇気をなかなか出せずにいたのですが、SNSをやめると手持ち無沙汰の時間が山ほどあり、その間に集中して仕事をすると、思いがけず順調に筆が運びました。この調子でなんとか年内に第一稿を書き上げたいと思っています。

この往復書簡を五年前に始めたとき、文芸と出版の世界が土台から大きく変わろうとしているのではないか、という話から書き起こしました。それから現在までの間には長期間にわたる世界規模のパンデミックがあり、いま私たちは世界戦争の鳥羽口に立っています。土台から大きく変わろうとしているのは文芸と出版どころではない。「世界」そのものが揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。

そんななかで、昨年から専任教員として教えている大学の学生たちと一緒に、五月の終わりに「文学フリマ東京36」に売り手として参加しました。2020年に出した文芸時評集に収めた文章よりあとに書いた、いまも継続中の時評の文章をまとめた小冊子を試みにつくってみたのです。

2019年にインディペンデント文芸誌「ウィッチンケア」の編集発行人・多田洋一さん、同誌の常連寄稿者でもある編集者・ライターの木村重樹さんとの共同ブースで文学フリマに出展し、持参したコピー本もそこそこ売れて手応えを感じていたのですが、今回はコピー本ではなく印刷会社に簡易印刷を頼みました。それには理由があります。

私がゼミで受けもっている学生二人が、初めて見に行った前回の文学フリマに大いに刺激を受け、自分たちもあのようなものを出してみたいと言い出したのが話の発端でした。私は大学で学生に「編集」という仕事について教えており、学生は卒業までに課題としてそれなりの分量の編集物を制作しなければなりません。

しかし学内で制作される編集物は「出版」されることなく、成績評価されて終わりです。せっかく編集の実務を覚えたのに、自分たちが書いたもの、デザインしたものを「出版」しないのはもったいない。自分が表現=制作したものが他人の目にふれて評価されること、その評価を自身で引き受けることが教育効果として大きいのはもちろんですが、それ以上に、本や雑誌はただつくるだけより、原価計算から販売までを自分の責任で行うほうが、はるかに楽しいはずだと思ったからです。

とはいえ私自身は、今回の文学フリマにそんなに手間暇をかけるつもりはありませんでした。自宅に両面印刷ができるコピー機があるので、20〜30部程度のコピー本を制作し、お茶を濁そうと思っていたのです。しかし学生たちが自腹で出版物を制作し、その仕上がりがそこそこ見事なのを横目でみているうちに、考えが変わりました。これは自分も本気を出さなくてはいけない。そう思ったのです。

今回は「ウィッチンケア」が用意してくれたブースの隣に、もう一つブースを確保し、そこを学生のための場所にしました。学生側のブースで自主制作物を販売したのは、卒業生や他コースの学生も含めると5人。かなりボリュームのある文芸誌から、薄い小冊子(いわゆる「ジン」)、そのほか雑貨や写真などいろいろなものが並んでいました。正午から午後5時までの五時間の間に、学生のブースはお客さんが絶えることなく続き、私たち(いちおう「プロ」であるはずの)より遥かに大きな売上だったようです。

先日、下北沢でお会いしたときにも話したとおり、私のつくった小冊子も(自分の手間賃を考えなければ)印刷費と用紙代を取り返せる程度の売上はありました。隣の学生たちの熱気が伝わったおかげかもしれませんが、なんとか面目を保つことができました。

*   *   *

ひと昔前、大状況と小状況という言い方がありましたが、大状況として世界を眺めると、なにひとつよいことが起きていないように思えます。しかし今回の文学フリマに集まった1万1000人を超える(史上最大規模だったそうです)作り手と読者の双方から感じた熱気は、少なくとも「文芸と出版」の世界に対して私が感じてきた否定的な印象を、かなりの部分で払拭してくれるものでした。

なにより、初めて自分の「言葉」を世に問うた学生の勇気ある行動に、私自身が大きな刺激を受けたのです。彼女たちが文学フリマで売り出した制作物は、狭義の「文学」を扱ったものではありません。でも藤谷さんの「〈文学〉とは読者を特定しないすべての言葉のことである」という定義に従うなら、彼女たちがあの場で世に問うたのは、まぎれもなく〈文学〉です。私はあらためて、そのような〈文学〉を構成する一員になりたいと思ったのでした。

今回の小冊子の売れ残り(なにしろ100部もつくってしまいました)は、神保町のすずらん通りにある「PASSAGE」という古書店に持っている私の棚「破船房」で売ることにしました。「破船房」の名は、以前にやっていた「海難記」というブログのタイトルを受け継いだものです。荒海のなかを漂う破れ船は激動の二十一世紀初頭を生きる私自身の似姿ですが、そう簡単に沈むわけには行かないぞ、という決意の現れでもあるつもりです。

年に二回の大きな即売会としての文学フリマと、小さな販売拠点としてのPASSAGEを得たいま、私は小さな出版活動を始めようと、本気で考えるに至りました。まだ本にまとめていない雑誌やネット上での連載記事がたくさんあります。自分で書いたものを自分で編集し、レイアウトとデザインをした上で印刷業者に手渡すまでの作業は、私にはなんの気苦労もなくできます。どんな商品でもそうですが、最後の難関は流通と販売です。しかし百部単位の出版物ならば、文学フリマとPASSAGEだけでも、時間をかければ売り捌ける気がしてきたのです(甘い見通しかもしれませんが)。

そこで藤谷さんに提案です。この往復書簡を本にしませんか。私が編集し、本に仕立てます。どんな本にするかは、これから一緒に考えましょう。

本にするならば、どこかで終わりにしなければなりません。そしてこの往復書簡を終了させるタイミングとして、いまがちょうどよいように思うのです。2018年から現在までの五年は文学(あるいは「小説」と呼ぶべきでしょうか)、出版、編集のどの領域も揺れ動いた、まさに激動の月日でした。この間に藤谷さんとやりとりしたメールをあらためて読み返すと、そのときどきの切迫した話題を通して、やはり一つの筋道があったように思えます。

それは、言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではないということです。私の好きな書き手の一人、レベッカ・ソルニットが『暗闇のなかの希望』で書いているとおり、未来が見通せないということは、逆説的な意味で「希望」でもある。ただしその「希望」は、闘志を失わずに動き続けることによって、はじめて仄かに見えてくるものでもある。

以前の手紙で、読むこと、書くこと、編むことのトライアングルをまわすということを書きました。藤谷さんとのこの往復書簡を書籍化するアクションを、ささやかなその契機にできたらと、いまの私は考えています。五年もの間、途中で大きな中断を幾度も挟みながらも、私との手紙のやりとりにお付き合いくださった藤谷さんが、ぜひこの提案を受けてくださることを祈っています。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第35信第36信第37信最終信につづく)