荒廃を描くことを恐れぬ大人の小説を

2022年5月30日
posted by 仲俣暁生

第32信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

5月の連休前に偶々手に入れたレイモンド・チャンドラーの新訳版『長い別れ』(田口俊樹訳、創元推理文庫)が思いのほか新鮮で面白く、SNSでもつぶやいたとおりゴールデンウィークはこの小説の新旧訳を読み比べたり、以前から藤谷さんに勧められていたハメットの『マルタの鷹』にとりかかるなど、ふだん読まないハードボイルド小説の「古典」とされる作品を読んでいました。

最後にこちらから藤谷さんに往復書簡の便りを送ったのは3ヶ月前、ウクライナ領土内へのロシア軍の侵攻が始まった直後のことでしたね。先遣部隊が首都キエフ(いまはキーウとウクライナ語読みをすることが多いですが、私なりの理由でこのままで参ります)近郊に達し、すでに市街地でも一部では戦闘が始まったもと報じられましたが、その後にウクライナ軍が押し戻して首都陥落という事態を免れたのは藤谷さんもご存じのとおりです。しかし南部や東部ではいまなお戦火が止むことなく、多くの人命が失われています。

戦時下ではメディアの報道がどのようなものになるのか、これまでにも湾岸戦争やイラク戦争、その他の出来事で経験してきたとはいえ、いま起きている「戦争」についてはあまりにも確実な情報が少なく、見る人の心をかき乱すような映像や画像ばかりが流布しています。それらが伝える事実があるとしたら、ひとたび戦争が起きてしまえば起きることはいつでも同じ、弱者の蹂躙だということです。

二度にわたる藤谷さんからの手紙に返事をしそこねている間、知人の編集者が送ってくれたチャンドラーの新訳でも読むかと思った自分の心の動きとして、目の前のそんな現実から逃避したい気持ちがあったかもしれません。しかしチャンドラーを、そして続けてハメットを何作か読むうちに、ああ、これらの小説はおよそ百年前に起きた戦争の「戦後文学」だったのか、と思い当たりました(前回にいただいた藤谷さんからの手紙も、そのことを再確認させてくれました)。

1918年に終わった第一次世界大戦が、十九世紀を完全に終わらせて二十世紀への扉を開いたとはよく言われます。新型コロナウイルス感染症がパンデミック化した2020年から翌年にかけて、約百年前に起きたスペイン風邪の世界的流行についての本もよく読まれました。スペイン風邪と第一次世界大戦は並行して起きた出来事で、この二つのいずれかのために命を落とした文学者や芸術家は幾人もいます。日本では劇作家の島村抱月がスペイン風邪で死んだことを知り驚きましたが、西欧では私が若い頃に好きだった画家のエゴン・シーレとクリムトがともにスペイン風邪で死んでいます。シーレは第一次世界大戦にも参戦しており、その他にイギリスのすぐれた短編作家サキ(この作家も好きでした)がこの戦争で死んだとWikipediaにありました。

百年前のパンデミックの後に20世紀が本格的に始まったのと同じように、今回のコロナウイルス禍が社会に与える大きな変化は、私たちがまだその全貌を知るよしもない21世紀の本格的な始まりを告げるものかもしれない──そんな気持ちがこの2年の間、私の中にはずっとあり続けています。でも、というか、だからこそ、歴史ある諸都市が戦車や航空機で破壊され、一般市民が長期間にわたり恐怖に打ち震えながら生活しなければならないような事態が、世界の注視するなかで起きうるとは思いもしませんでした。

チャンドラーとハメットの代表作を読み、その背景が第一次世界大戦後の時代(いわゆる戦間期)のアメリカであったことを思い出すと、とっつきにくかったハードボイルド小説の「古典」との距離が少しだけ縮まりました。そしてパルプフィクションとも呼ばれるとおり、紙の質の悪い大衆向け雑誌に掲載された、なによりもまず第一に娯楽作品であるハードボイルド小説と、同時代の西洋文学の潮流として知られる「失われた世代」の作家とは実際に交流があるだけでなく、表現手法にも類似性があることを、この時代の英米文学についてのすぐれた解説を読むことで私なりにようやく理解しました。

考えてみれば1920年代から30年代にかけての「戦間期」は英米ミステリーの黄金時代であり、ハードボイルドではない──つまり純然たる「謎解き小説」としての──探偵小説であれば、十代の初め頃にずいぶんむさぼり読んでいたのです。でも当時の私は、チャンドラーやハメットにはなぜか手が伸びませんでした。アガサ・クリスティやエラリー・クイーンと違って、ハードボイルドは自分にはまだ早い「大人の小説」のように思えたのだと思います。それから40年以上たってようやくハメットやチャンドラーを読んでみて思うのは、やはり大人の小説、つまり大人が書いた小説であり、大人を描いた小説だなということでした。

*  *  *

ところで、いまの日本でウクライナとロシアの間で起きている「戦争」と文学や芸術との関わりについて、創作者(とりわけ文学者)が何かを語ることはとても難しいようです。そしてそのことには、いくつかの絡み合った理由があると私は考えています。

最大の理由は、ロシア文学が日本の近代文学の起源の一つであるという紛れもない事実です。二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳がどれほど大きな衝撃を当時の文学者に与えたか、そのことを記述しない日本文学史の教科書はありません。ロシア文学は日本の近代文学の故郷であり、その故郷との距離はいまも十分に近いのではないでしょうか。

二つ目の理由は、(文学者もそのうちに含まれるはずの)日本の知識人に社会主義とりわけロシア革命後のマルクス・レーニン主義があまりにも大きな影響をもちすぎたことです。人類の歴史と社会をトータルに把握し理解したい知識層の青年の切実な欲求に対し、十全に応えてくれる理論がそのほかになかったのは思えば不幸なことでした。そして現在もなお体制批判の論理として、これにかわるものが日本ではほとんど見当たらないのも事実に思えます。

そして三つ目が──これが今回の手紙の本題になるのですが──日本ではいまなお、大衆(生活者)の生活感覚と知識人の生活感覚とが乖離していることです。この問題も、最終的にはロシアにおける知識人層(インテリゲンツィア)と日本の知識人との類似性に行きつくように私には思えます。日本の小説が大衆向けの純然たるエンタテインメントと、「純文学」と呼ぶ以外に位置づけようのない作品とにいまなお──というより、いっそうはっきりと──分断されているのもそうした経緯と無縁ではないはずです。

チャンドラーやハメットは、彼ら自身は十分に知的でありながら、大衆向けに書かざるを得なかった人たちだったようですね。しかも英国風の純然たる「謎解きミステリ」──これは大衆的読み物というよりも中産階級の知的な慰み物であり、それゆえ日本の文学者の多くにも愛好されました──ではなく、まだ野蛮さの残る新興国アメリカの、それも西の果ての新開地(ロサンゼルスやサンフランシスコ)を舞台に、政治とカネという実力本位の世界に生きながらも、そこから自身を引き離して冷静に観察する「目」をもつ人物を主人公に据えた物語を書くことを選んだ人でした。当時のアメリカの大衆が、彼らの作品をよろこばなかったはずはありません。

戦間期の時代を象徴する大衆向けの表現として映画があること、ハードボイルド小説の書き手たちが映画産業と運命的ともいえる深い関係をもったことについては、藤谷さんのほうがはるかによくご存じでしょう。20世紀は大衆の世紀であったのと同じ程度に映画の世紀でした。映画がもつ一種の「全体性」やテクノロジーとの深いかかわりは、20世紀という「総力戦」後の時代にあって、映画が戦争のメタファーであり戦争が映画のメタファーでもあるような密接な関係を持ち続けてきたのではないですか(余談ですが、日本や韓国で昨今問題にされている映画制作現場における「暴力性」は、映画という表現形態が本来的に呼び寄せる性質であるように私には思えます)。

そしてこれはまったくの幸運といってよいでしょうが、私たちは戦争というものを劇映画に描かれた以外のかたちで知りません(私たちが子どもだった頃には、戦争を知る「おとな」たち──藤谷さんが先の手紙で触れていたような──まだ社会の現役でしたが)。

この手紙を書きあぐねていた間に、アマゾン制作のオリジナル・ドラマ・シリーズでフィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』を観ました(つい最近、村上春樹訳『最後の大君』が出ましたが、こちらは未読です)。この小説も若い頃に少しだけ読み、よくわからずに途中で放棄したままでしたから、どこまで原作に忠実なのかわからずに──なにしろフリッツ・ラングやマレーネ・ディートリヒまでドラマには実名で出てくるのです!──観ていました。最後まで見終えてから、未完に終わった原作と作者自身の構想メモにあたってみたところ、やはり大幅にアレンジされていました。

ドラマの冒頭で、原作では語り手となる大学生セシリア(大物映画プロデューサーの娘)が、主人公モンロー・スターにスペイン内戦で戦う共和国政府軍への募金を求める場面があります。フィッツジェラルドはもちろんハメットやチャンドラーの同時代人ですが、「失われた世代」の作家たちが欧州での戦争と同じくらい、ハリウッドとも深い関わりがあったことを、このドラマを見てあらためて思い出しました。アメリカのアイデンティティが、欧州と西海岸との間で引き裂かれていた時代なのかもしれません。

もちろんいまの時代に文学者は義勇兵になどならないし、なるべきではないと私は考えています。それでもかつて文学が戦争と不可分だった時代、文学者が自ら志願して戦争に赴いた時代があったのは事実です。そしてこんな評価が彼らにふさわしいとも思えませんが、その時代に義勇兵になることではなく、ハードボイルド小説を書くことを選んだ作家がいたことを、いまチャンドラーやハメットの作品を読んで心強く思ったりもします。

先の手紙で藤谷さんは、「チャンドラーやハメットの描いた人物に、僕は過去から届く未来の荒廃を見るような気がしています」と書いてくれました。しかし荒廃した人間を描くことができるのは、荒廃を免れた表現者、あるいはそこから距離を置けた表現者だけではないですか。

いまの時代にこそ、荒廃を描くことを恐れない「大人の小説」を読みたいと、私は切に願い続けているのですが。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。