第17信(仲俣暁生から藤谷治へ)
藤谷治様
ここ数年すっかり当たり前になった酷暑も、どうやらお盆明けで一息つき、心身ともにようやくお返事を書ける状態になりました。体はともかく、気持ちのほうもぐったりしていたのは、8月のはじめに起きたあいちトリエンナーレをめぐる事件の動向を追うので精一杯だったからです。
8月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示企画の一つである「表現の不自由展・その後」が、展示内容に対する「市民」からの激烈な抗議と、会場への放火などをほのめかす悪質な攻撃によって、わずか3日間で公開中止に追い込まれました。たとえ愉快犯にせよ、京都アニメーションに対する凄惨な放火事件の直後に、その痛々しい記憶を材料とする脅迫行為がなされたことには、ひどく暗澹たる気持ちになりました。
今回のあいちトリエンナーレに対して僕は、開幕前から少なからぬ関心を抱いていました。トリエンナーレは言葉のとおり3年に一度開催されるお祭りですが、2013年に行われた前々回(第2回)が五十嵐太郎さん、2016年の前回(第3回)は港千尋さん、そして第4回目となる今回は津田大介さんが芸術監督を務めています。この三人の芸術監督とは個人的に面識もあり、なかでもジャーナリストである津田さんは、建築評論家である五十嵐さんと同様、美術業界の「外」で仕事をしてきた方です。そうした他分野での活動とアートが今回どのように交差するのか、大いに注目をしていたのです。
でもこれは僕のほうの事情でしかありません。藤谷さんと文学や小説についてだけでなく、美術や現代アート、あるいはたんに「アート」としか呼べない領域について話をしたくなったのは、さらにいくつか理由があります。
一つ目の理由は、今回のあいちトリエンナーレに対する「攻撃」が、先の京都アニメーションへの放火事件の延長線上にあること。二つ目の理由は、文学と美術はいずれも広義の「芸術」を構成するものだという共通理解が、僕と藤谷さんとの間にはあると信じるからです。そして三つ目は、藤谷さんの最新作『綾峰音楽堂殺人事件』が、まさしく現代における芸術の社会的な位置づけを問う小説だったことです。
最初の理由については、もういいでしょう。まず二つ目の話をします(おそらく一つ目の理由とも関連するはずです)。藤谷さんとこの往復書簡をはじめてから相次いだ(ように見える)文学や小説をめぐるうんざりさせられる諸騒動の大半は、インターネット上で話題となり、流布したものでした。今回のあいちトリエンナーレで批判の対象となっていた「表現の不自由展・その後」の場合も、展示作品そのものではなく、ネット上に流布したそれらのイメージが「炎上」したのでした。皮肉なことに、会場が封鎖されたままであることにより、作品そのものはまったく無事なのですが。
この話には前段があります。前回のあいちトリエンナーレの芸術監督を務めた港千尋さんが、今年の5月に『インフラグラム――映像文明の新世紀』という本を出しており、僕はこの本をちょうど、あいちトリエンナーレが始まる直前の先月末から読みはじめていたのです。
「インフラグラム」はいま流行っているInstagramというSNSのもじりで、言うまでもなく港さんによる造語です。自身が写真家でもある彼は、この言葉にかなり複雑な含意を込めているのですが、思い切って簡略化するなら、GoogleやFacebookといったインターネットのインフラストラクチャーともいうべき場で流布する図像や画像のことだと言えるでしょう。あいちトリエンナーレ事件はまさに、インフラグラムが起こした事件でした。
英和辞典を見ると「-gram」は「記録」「図」「文書」を意味する接尾語とあります。アナグラムは言葉の綴りの入れ替えによる遊び、エピグラムは警句、テレグラムは電報、接頭語として使えばグラマーは文法で、グラマトロジーなどという難しい言葉もあったように思います。今日的な図像のあり方と、それがもたらす諸問題を論じるために港さんはこの造語をしたわけですが、同じ言葉を僕はネットのインフラストラクチャー上を漂う「文」に対しても当てはめたくなりました。
ネット上で流布する文、とりわけ140字以下に切り詰められたTwitterで流れる文は、「あや」のある文章(テクスト)でもなく、それらが撚り合わされることで成り立つ文脈(コンテクスト)も欠いている、まさに「インフラグラム」としか呼びようのないものではないか。テクストとコンテクストによって成り立つ複雑な構造体としての「本」は、インフラグラムの対極にあるものです。
そうであるにもかかわらず、商業的な生産物としての「本」はいま、ネットで日々つぶやかれることを抜きにしてその存在を知られることはありません。そう考えたとき、港さんが作られたこの造語の射程の深さに、僕は慄然としたのです。
前回のやりとりのなかでお互いが触れていたとおり、文学や小説の「現場」とは、書店でも図書館でもネット上でもなく、いままさに読者によってそれが読まれつつある紙面/画面です。その「面」で作品と読者が交わすやりとりには、編集者も批評家も、作者自身でさえも介在できない。したがって、そこにはインフラグラムが発生する余地はありません。
読書という営みがもたらす自由は、その行為をさまたげるような攻撃がきわめて困難である、という事実に支えられています。どんなに高度な監視国家の秘密警察でも、すべての読書行為を禁圧することは――とりわけそれが物理的な紙の本によるものであれば――できないでしょう。
「マガジン航」というこのネットメディアを立ち上げた十年前、読書という営みはインターネットという新しいインフラストラクチャーによって、これまでよりいっそう「自由」になるのではないか、と僕は考えていました。ところがいま、僕はその考え方をかなり大きく修正しつつあります。つまり、読書という行為は、インフラグラムに侵食されない場でしか成り立たないのではないか。
もちろんスマートフォン上で電子書籍を読むことは可能です。しかし「電子書籍というビジネス」を生み出した巨大IT企業の関心は、じつのところ本や読書にではなく、(港さんの言い方に倣えば)「ユーザー」の視線や関心を精密に計量化しマネタイズすることにある。それによって成り立つ経済は「アテンション・エコノミー」と呼ばれています。インフラグラムとは、一言でいえばアテンション・エコノミーに従属する図像や文のことです。さきのメールで藤谷さんがおっしゃった「データ」とは、インフラグラムとしての「文」のことではないでしょうか。
僕らはそのような言葉からは、できうる限り遠ざかるべきではないか――十年を経て、そのように思うに至ったのです。
とはいえ、このことについては、自分のなかでもまだ十分に考えが練り上げられていません。「インフラグラム」という便利な言葉に飛びつくあまり、結論を急ぎすぎているかもしれません。そこでこの話は今回はこのくらいで切り上げ、三つめの理由、藤谷さんの『綾峰音楽堂殺人事件』の話に移りましょう。
なにしろこの小説のなかで古くからある地域オーケストラの拠点である音楽堂が取り壊されてしまう――作中では「改築」と表現されていますが――理由は、この地方自治体で数年後から開催される「あやみねトリエンナーレ」のための「マルチプル・スペース」とするためなのですから!
小説家の想像力の恐ろしさを、今回ほど感じたことはありません。あいちトリエンナーレの事件が起きたとき、僕はすでに『綾峰音楽堂殺人事件』を読み終えていました。事件後さっそく再読し、あらためて背筋が凍りました。ここで「殺されて」いるのは、被害者の人物だけではありません。もっと大きなものが殺されている。もちろん現実のあいちトリエンナーレでは殺人事件は起きていませんし、そんなことはあってはならない。たまたま似通った名前になったとはいえ、「あやみねトリエンナーレ」は「あいちトリエンナーレ」を直接のモデルにしているわけではないでしょう。
それでもなお、僕は藤谷さんに尋ねてみたいのです。今回のあいちトリエンナーレをめぐる騒動を、小説家としてどのように受け止めましたか、と。
ところで、このメールを書いている時点で、僕はまだあいちトリエンナーレの現場を見ていません。まさに「インフラグラムから得た印象」だけで書いています。これではいけない。近いうちになんとか時間をつくり、芸術作品を成り立たせている「場」というものを見てくるつもりです。
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執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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