小説はデータではない

2019年7月29日
posted by 藤谷 治

第16信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんもご存知の通り、僕は今年から大学の教壇に立っています。講義の前半、春学期は7月17日に終わりました。成績をつける、という重責を除けば、やれひとまずお役御免かと思っていたところ、翌18日に京都アニメーションが放火されました。

僕は熱心なアニメファンではなく、「京アニ」の作品も殆ど観ていません。ただかつて僕の小説を映像化する企画があった時に知り合った映像作家があの会社の出身でした。その企画は立ち消えになり、その人とも会わなくなりましたが、動向はSNSなどでチェックしていました。彼は当然のことながら、今度の惨事に非常なショックを受けているようです。

もちろんそんな遠い知人がいなくても、あの悲劇は僕にも陰惨な衝撃を与えました。考えていると、頭がおかしくなってしまいそうです。

パクりやがって。小説を盗まれた。放火犯はそんなことをわめいていた、と報道にあります。目撃者に取材した複数の報道がありますから、恐らく実際にそんなことを叫んでいたのでしょう。

この言葉は僕を戦慄させます。そしてその戦慄の由来をずっと考えています。

僕はこの言葉を追うようにして報道を見ていますが、どうやら男は、実際には小説をどこかに投稿したり、発表したことはなさそうです。書いたこともないかもしれません。関係妄想の一種ではないかと思いますが、心理学にも精神医学にも疎い僕が断言できることではありません。また精神疾患とは脳の機能障害であって、そこには何ら抽象的なものはありません。ましてやそこにロマンティックな想像を仮託させるような真似は、ほとんど文学的火事場見物でさえあるでしょう。それはわきまえているつもりです。

それでも僕は、あの「小説」の一語に、どうしても何かが象徴されているように思えてならないのです。現代における小説、創作、表現、の社会的な受容のされ方、とでもいうべき何かが。

『小説は君のためにある』という小文は、おっしゃる通り漱石の『文学論』を意識はしていますが、無論あの浩瀚な知性にかなうはずもなく、また、文学に対するあのような考究は、現代の人間には「贅沢品」であると考えているので、思い切りハードルを下げて書きました。

しかしそれは、必ずしも若い読者を想定しているからではありません。文学とは何かとか、小説は文学の一種であるといった、最低限の共通理解から始めなければならないからでした。あれを書く前に僕は、中村光夫や伊藤整、イーグルトンやバフチンの著作に、改めて目を通してみたのでした。しかしいずれの著作にも、文学について根本的な定義はされていません。僕は、とにもかくにも、といった思いで、文学を「著者が読者を特定できない文章の総称」と定義しました。識者や専門家から異議が出るかもしれないと思いはしましたが、しかし一方で、これくらい低いところから始めなければ、文学も小説も、誰にも理解されないだろうという認識が僕にはあるのです。

中村光夫やバフチンの仕事には大きな影響を受け、また尊敬していますが、文学を論じるほどの人たちは、どこかで文学を「所与」のものと思っている気配があります。つまり、僕たちが生まれる前から、文学に接する前から、すでに文学は存在している、という前提が、偉大な文学研究者、文芸評論家たちにはある。

それは、なんというか、「社会的には」事実です。ホメロスだ紫式部だと名前を挙げるまでもなく、偉大な文学は何百年、何千年も前に成立しています。しかしその「社会的事実」は、同時に「僕」の否定にもつながります。文学が所与のものであるなら、僕――実存というのか、現存在というのか、そういう今ここにある僕は、文学にとって不要になってしまいます。文学は、僕が認めようと認めまいと存在するわけですから。

かつて、文学を愛するとか、文学に取り組むというのは、そのような所与の存在に対して、こちらから飛び込んでいくことを意味しました。もしかしたら今でもそうなのかもしれません。大学の文学部とはそういうことをするところなのかもしれません。だから文学者は文学を所与のものと見なしているのかもしれません。

しかし一人ひとりの人間にとって、文学はそのようなものではありません。そこに気がついてほしいと思って僕は『小説は君のためにある』を書きました。

文学は個々の人間、つまり「君」より以前に存在するものではありません。もっといえば存在ではありません。文学は経験であり、まぎれもなく「君」の経験なのです。そしてここにいう「君」とは、いささかも抽象的な存在ではないのです。これを読んでいるあなたのことなのです。

この「経験」から演繹して、僕はもうひとつ、あの小文で主張したいことがありました。小説を読むという経験が、「役に立つ」という主張です。

小説を読む経験に、役に立つ立たないなど論じなくていい、無益だからこそいいのだ、という考えは成り立つし、おそらく正しい考えでもあります。しかし小説は、その特異な性質を十全に引き出せば、はっきりと読者の「役に立つ」と僕は思っています。

その詳細は拙著にあたって貰うとして、ここで改めて言っておきたいのは、小説とはいわば、非社会的な経験であるがゆえに、「君」の役に立つ、ということです。

人間は社会的動物ですから、種々の規制に束縛されていなければいけません。また社会からの要請に応じなければなりません。しかし小説の経験は、そのような規制や要請に囚われることがありません。そこではすべてが「君」の独自な判断によって評価されます。

小説はこんにち、そのように受容されていません。仲俣さんは「多くの人が『自分のためにある小説』を発見できなくなっている」と書いていますが、僕の見方で同じことをいうなら、多くの人が目の前にある小説を、「自分のためにある」と気づかないでいるのです。「自分のために小説がある」ということが、人々には――小説に縁遠い人にはもちろん、愛読者にさえ――判らなくなっているのです。

それは現代の人間が、小説さえ――社会という情報の氾濫を遮断して、個の自由のために経験するはずの小説をさえ、社会的な情報として摂取してしまうからでしょう。

人は、専門知識や特別な関心を持たなくても、小説に対してまず「データ」として接するようになりました。それは小説の外的条件への依存――特定の文学賞を受賞したとか、映画化、アニメ化されたものだとか、世間の関心を集めている著者の書いたものだ、といった情報――に限りません。小説の内部について、微細にわたってジャンルを分類し、キャラクターを類型化し、物語を整頓し、小説を「型(タイプ)」という社会性のある情報におさめなければ、人は目の前の小説を、受け入れることができないのです。

こんなことを考えるのは、僕が小説の型、形式というものを、意識しすぎる小説家だからかもしれません。しかし僕が小説の型に対して過敏であるのは、型や形式に徹底的に追従しなければ、自分の小説に型から外れるものが本当にあるのかどうか、自分で見極めることができないからです。型にはまることを忌避し、意識的に「自由」であろうとして、かえってたとえば「純文学」というような型の中に安住しているように見えてしまう小説や、型というものの恐ろしさを意識せず、ただ書かれているだけのジャンル小説を、つまらなくも思っています。

タイプの中に安住する小説は多く、それは理由のあることです。何しろ読者がそのような小説を要請しているのですから。小説に経験ではなく、安堵や慰めをほしがる人々は、その安堵が、自分を社会の中で同調させることに、つまり情報の共通認識に根拠を持っていることに気付かず、あたかもそれを自分が独自に求めているかのように錯覚しているのです。そしてそのような読者の中から、作者が生まれているのです。

社会との同調、情報の共有への、あまりにも強い依存のために、人は「自分のための小説」を見出せないでいます。読者だけでなく作者もまたその依存の中にあり、そこから小説は量産されていきます。今ではそのような、同調を「共感」と見なし、情報を「新しさ」と同一視する小説こそ、小説(に限らない、創作や表現)だと認識されているように思えます。

この認識の果てに、今、驚くべき現象が立ち現れているのではないでしょうか。つまり情報が経験に対して圧倒的な優位を誇り続けたあげく、「小説それ自体が不要になっている」のではないでしょうか。

要らないのですよ、小説そのものは。必要なのは小説に関する情報だけなのです。もっと極言すれば、小説というものの「イメージ」だけがあれば、情報の共有には充分なのです。

こうして小説は読まれなくなる。読まれても経験されなくなる。経験と思われるものを読者が感じたとしても、それは「私が読む」という固有の体験ではなくなる。「『自分のためにある小説』を発見できなく」なるのです。

そこから、小説を書いた形跡のない人間が、「小説を盗まれた」と病的な妄想をたくましくするまでは、思いのほか近いのではないでしょうか。

これ以上は書きません。長くなりすぎたというだけでなく、すでに僕の独断は自分でもすっかりは首肯できないものになってしまいました。上記は無論、すべての小説、また小説読者にあてはまるものではありません。自分の書いたものが、委曲を尽くしたとも思えず、歯がゆいままこれを送ります。

しかし小説、あるいは表現と「データ」の同一視といっていいほどの、距離の接近は、やはり僕にはつらく感じられてなりません。

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執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。