生きてるうちから全集など考えないほうがいい

2019年2月28日
posted by 藤谷 治

第12信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

橋本治氏は、享年70とのことですが、夭折の感すらあります。山のような仕事をしながら、なお山のように仕事を残して亡くなりました。評価を定めるには時間がかかるでしょう。

僕は仲俣さんほどには、橋本治という作家に思い入れはありません(仲俣さんの氏に対する思い入れが尋常のものでない、ということもありましょう)。僕が読んだ橋本作品は、全体の十分の一にもならないでしょう。子どもの頃に読んだ『桃尻娘』は記憶の底に沈んでしまったし、『窯変源氏』も『双調平家』も未読です。アメリカに住んでいたころ、日本語が恋しくなってニュージャージーの紀伊国屋書店で買った『鞦韃(ぶらんこ)』という短編集のグロテスクに驚き、以後アメリカ滞在中はもっぱら藤沢周平を読むようになった、なんていう思い出があるくらいです。「フィクショネス」の店内で貧困にあえいでいた時は、『貧乏は正しい!』に勇気づけられもしました。

橋本治が「意地悪」なのは自他ともに認める特徴で、その意地悪は当代にこれ以上ないほど啓蒙的でした。その橋本氏が、小説の中で自作をめぐる人物についても、そして自作についても意地悪な見通しを描いているのは不思議ではないでしょう。橋本氏ならずとも、本の現状について多少なりとも関心のある人間なら、本の未来を光り輝いていると思い込むことは難しいのではないでしょうか。

商業出版の観点からいえば、著作権保護の期間が延長されるのはネガティブな問題かもしれません。著者の没後、著作権継承者を探し回ったり、継承者との折衝に腐心する編集者の苦労話を、僕も何度か聞いてきました。

一冊の知られざる傑作を発見した編集者が、その本を是非とも出したいと考えたとします。しかしその著者が60年前に死んでいるとしたら、一体その編集者は、どうやって著作権継承者を探すのでしょう。その著者の一族が、コンスタントに子孫を残し続けてくれていればいいが、その頃には何がどうなっているのか判らないというケースが、今以上に増えるのではないでしょうか。情熱的な編集者であれば、継承者を求めて、著者の兄の孫の嫁の居場所を必死になって捜索してくれるかもしれません。しかしそんな面倒くさい作業に、果たしてその「知られざる傑作」は値するだろうかと、編集者が途中で出版企画を放り出してしまう可能性だって、あるんじゃないでしょうか?

本が残るということが、単に作品の質だとか「再発見」によってだけ成り立つものではないのは、僕より仲俣さんの方がご存知でしょう。本は残りにくくなっており、今後その傾向はますます強くなっていくでしょう。読者の減少や「劣化」といった質的問題、あるいは需要の問題もあるかもしれませんが、そもそも物質的に本は供給過剰なのです。

せちがらい出版業界の状況を無視して、話を文学史論、芸術史論に限っても、同じことかもしれません。芸術の歴史は淘汰の歴史です。僕たちは過去をフルイにかけて現在を生き、未来のフルイからこぼれ落ちるでしょう。同時代においてどんなに称賛され、尊敬されても、ふた世代もすれば忘れられる文学者、芸術家の、なんと多いことか。スタンダールの墓碑銘には、「私が愛したのは、モーツァルト、チマローザ、シェイクスピアだけであった」と書かれているそうですが、16世紀の劇聖と18世紀の神童のあいだに、オペラ『秘密の結婚』の作曲者の名が刻まれているのは、僕には奇妙に思えます。しかし恐らく、スタンダールの時代には、この名前は他の二人の天才と並び称される評価を得ていたのでしょう……多分。

もちろん、正反対の事態も芸術史には生じています。宮沢賢治やフランツ・カフカの知り合いが、こんにち彼らの文学がどれほど評価されているかを知ったら、あっけにとられるに違いありません。『ドン・キホーテ』はセルバンテスがふざけて書いた小説でした。チャンドラーは金のために書いたのです。今や彼らは文学の王様のような扱いを受けています。しかしもちろん、だから今は評価されていない俺だって後世には、などと期待するのは、捕らぬ狸の皮算用のうちでも、相当情けない部類に属するでしょう。

誰の何が残り、また残されるべきか。そんなことは、生きている創作家や文筆家は、考えたってしょうがありません。出版の現状に照らし合わせて考えても、こんなに本が多いのでは、よほど話題性がない限り、うずもれてしまうのは無理もないことです。

しかしやはり、(読者ではなく)一般的な消費者の、文学に対する無関心は深刻な域に達しているのでしょう。ただ、この無関心にも僕は、その原因を文学史そのものに見出すことができると思っています。これは日本文学独自の問題です。日本では、「純文学」と「娯楽文学」のあいだに決定的な、あってはならない懸隔があったのです。

明治以来、日本の文学者――のちに「純文学」と括られるようになる文学の創作者には、「面白さ」に対する、侮蔑といっていいような意識がありました。芥川龍之介が谷崎潤一郎を批判した「話の筋論争」や、久米正雄が「私小説と心境小説」で主張した、フローベールもドストエフスキーも、しょせんは偉大な大衆小説だ、という文学観は、大正から昭和初期にかけて起こった大衆小説の大ブームに対する危機意識だったのかもしれませんが、そうだとしても逆に言えば彼らは、そのような形でしか危機意識を持たなかったのです。

当時の大衆小説――チャンバラやお涙頂戴、英雄崇拝や犯人捜しや母恋ものといった量産される小説に対抗すべく、『罪と罰』や『ボヴァリー夫人』に匹敵する面白いものを書いてやる、という方向には、彼らの意識は向かなかったのでした。

そして、そのような懸隔、あるいは「面白さ」への侮蔑(無意識なのかもしれませんが)は、今現在まで続いていると、僕はあえて断言します。

文学の面白さは、勧善懲悪や悲恋のような、既知のものに束縛されない。言語表現や直視すべき社会問題、個人の意識など、未知の面白さがあるはずだ――。純文学の主張、あるいは存在理由は、そのような新しい面白さへの、自由さと実験にあるはずです。しかし大半の純文学が、表現や問題意識にとどまり、面白さへの追及にまで至っていません。どうやらある種の純文学作家は、自分の表現を読者に、いかなる意味でも「面白いもの」として提示するつもりが、そもそもないのではないかと思えます。面白いかどうかは、最初から念頭になく、ただ新しく、ただ巧みだったり清新だったり深刻だったりするものを書き、こういうものを興味深く読んでくれる人もいる、という主張(この主張自体は正しいものです)を信じている・そうとしか思えない純文学は、現在まで連綿と続いているのです。

こんなことは、まったく言うまでもないことですが、面白さというのは困難で難解な、表現上の大課題です。この課題を乗り越えなければ、文学は、そしてあらゆる表現は、時間のフルイから、真っ先に落とされてしまうのです。面白ければ残る、というわけではないが、面白くないものは、決して残らない。それは同時代でも後世でも同じです。

この「面白いとは何か」という課題の大きさに、日本の近現代文学は真正面から取り組んできませんでした。そのような文学が、読者はともかく、一般的な消費者、あるいは常識的な社会人から、相手にされなくなるのは、ほとんど必然というほかないでしょう。

そして一方で、相も変らぬ人情や英雄、悲恋や完全犯罪をえんえんと繰り返し続け、そのためにジャンルを果てしなく細分化し続ける「娯楽小説」もまた、成熟した人間がまともに取り合おうとしないからといって、文句の言える筋合いかどうかは、よくよく自らを検討しなければならないはずです。

あんまり長くなってしまったので、最後にふたつだけ書いて終わりにします。仲俣さんの質問に答えなければなりません。

まず僕の全集についてですが、そういうことは生きている小説家は、考えないほうがいい、と思っています。昔の人気作家はよく、生前に、しかもキャリアの中盤あたりで、全集を出していたものでした。思い出すと羨ましい気持ちにもなります。だけどそういうのって、ちょっと退嬰的というか、権威主義的な感じがするし、そもそも読者が少ない僕みたいな小説家は、目先のことしか考えられません。それに選集ならともかく全集というのは、現役の小説家には精神衛生上よくありません。全集を出される、なんて空想したら、失敗作が書けなくなりそうです。現役の小説家には、失敗する自由だけが自由といえます。

それから、「僕たちが85歳を迎える頃に「本」はどうなっているか、あるいはどうあってほしいか」。

非常に逆説的というか、それこそ「意地悪」な回答になってしまいますが、僕が85歳まで生きていたとして、その時の本は、今とまったく変わっていません。これは空想でも希望でもなく、事実です。だって僕にとっての本、つまり僕の本は、すでに僕の本棚にありますから。売り飛ばしたり燃えたり捨てたりしない限り、本はずっと僕の家に居座り続けるでしょう。

これが本というものを考えるときの、やっかいなジレンマ、あるいはパラドキシカルな一面なのです。つまり本というのは、僕の読みたいものが、僕の分だけあれば、それで充分なんですよ。世間に出回っているかいないか、売れているかいないか、僕の死後にどうなるか、そんなことはどうでもいいし、考えるにしても、実は本質的ではないのです。つまり本というのは、社会的に考えることができない商品なのです。この矛盾。商品とは社会的にしか存在しえないものなのに。

ですから僕は未来の本のありようというものに、ごく冷淡な感情しか持っていません。自作についても同じです。届いた人に届けばいい。読めた人に読んでもらうほかはない。自分の本に小説家が託せるのは、結局のところそれだけです。もちろんそれは、祈りと変わるところのないほど、熱烈な希求を込めた「それだけ」であるのですけれど。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第13信につづく)


【お知らせ】
「21世紀に書かれた百年の名著を読む」第1回
仲俣暁生×藤谷治「イアン・マキューアン『贖罪』を読む」

3月29日に東京・荻窪の本屋Titleにてトークイベントを開催します。開始時間は19時30分。料金は1000円+ドリンク代500円、定員は25名です。詳細な内容と参加申し込みは以下のサイトをご覧ください(満席の際はご容赦ください)。
http://www.title-books.com/event/5955

執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。