30年後の読者に本をどう残すか

2019年2月25日
posted by 仲俣暁生

第11信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

昨年暮れにお返事をいただいたまま、ながらく返信できず失礼しました。往復書簡をそろそろ再開したいと思います。ここまで五往復、十回ほどメールのやり取りをしてきましたが、もうしばらくお付き合いください。心づもりとしては、平成の終わりまでは続けたいなと考えています。

* * *

先月の終わりに小説家の橋本治さんが亡くなりました。光栄にも追悼文を書くよう求められて四苦八苦したり、その勢いで橋本さんの旧作をいろいろと読み返したりしているうち、あっという間に時が過ぎてしまいました。

先日も、そのうち読もうと思いつつ積んだままだった橋本さんの『九十八歳になった私』という小説を読んでいました。とても面白く、かつ、この機会に読むと痛切な話です。

物語の舞台は西暦2046年。東京が大震災によって壊滅したため、北関東の仮設住宅でいまは避難民として暮らす「元小説家の橋本治」を主人公とする未来小説です。

残念なことに、この時代には本を読むことはまったく流行っていません。「橋本さん」からコメントを取ろうと仮設住宅を訪ねてくるメディア関係者らしい五十歳の男さえ、「三年前まで、本なんか読んだことがありませんでした」と言うほどです。

この話は難病を発症して以後、入退院を繰り返していた時期の橋本さんが「百歳に迫る超高齢者になった自分」をシミュレーションした一種の「ユーモア小説」でもあるのですが(なにしろ北関東の空には平然とプテラノドンが飛んでいます)、それにしても五十歳目前まで本を読んだことがない、しかも「坊や」みたいな業界男とは、ずいぶん意地悪な書き方をしたものです。30年後ではなく「現在」の話ではないかと、ゾクッとさせられるようなリアリティがあります。

ところで、ひとかどの作家が一生をかけて成し遂げた仕事は、これからの時代、どのように後世に伝わっていくのでしょうか。

この小説にはもう一人、橋本治のファンだという少女が出てきます。彼女は「先生の全集を出したい」らしいのですが、そのじつ「全集」の意味をわかっていません。自分の著書は三百冊以上あるけど大丈夫か、と「橋本さん」は彼女に訊ねますが(実際、橋本治の著書はそのくらいあるでしょう)、「三冊くらいだから、大丈夫です」と少女は言うばかり。彼女が考える「全集」とは、好きな三作だけを「十冊くらいコピー」するという程度のものなのです。そういえば少女は「三百冊っていうのは、いわゆる、紙の本なんですか?」と尋ねたりもします。

二人の会話は、いつまでたっても噛み合いません。「橋本さん」は「その内、俺は死ぬからさ、死んだら俺の著作権好き勝手にしていいよ。そう書いとくから」とさえ申し出ているのに、少女はそれも「いいです」と断る。彼女は自分の出したい三冊にしか関心がなく、それを「町に立って売ります」と言うばかりです。

さて、ここからは現実の話に戻ります。

いまから30年前、平成が始まったばかりの頃、どの町にも本屋は必ずあったように思います。1989年にはスマホなどもちろん存在していませんし、インターネットも庶民がアクセスできるものではありません。僕は当時、パソコンもコンピュータ通信も仕事でかなり使っていましたが、せいぜいメールや原稿のやりとり程度でした。若者から年寄りまでが、小さな携帯型コンピュータの画面を一日中眺めて暮らすような時代がやってくることなど、正直、想像もできませんでした。

いまから30年後の未来に本がどのように社会に位置づけられているのか、いまの僕にもやはり想像できません。こうであってほしい、という期待はありますが、それが叶うと信じることも難しい。さしあたり作家の「個人全集」というものは、とっくに消滅しているでしょう。そのかわりに、ある程度まで著名な作家や作品であれば、デジタルアーカイブとして保存され、電子的にデータをダウンロードできるかもしれません。

ただし、日本でも著作権の保護期間が作者の死後70年まで延長された結果、30年後に「著作権フリー(パブリック・ドメイン)」となるのは1979年に亡くなった作家(ネットで調べると荒正人、中島健蔵、瀧口修造、福永武彦、中野重治、植草甚一などの名が並びます)までです。

平成の時代に書かれた小説は、2040年代にはどのくらい本として生き残っているでしょうか。三百冊以上の著書があり、最後まで現役の書き手だった橋本治のような人でも、著書の大半はすでに絶版か、電子書籍だけが入手可能です。本屋で新刊として手に入るタイトルは、おそらく十数点でしょう。そのかわりネット上の古書市場では、驚くほど大量の個人蔵書が出品されている。

少なからぬ著作のある現役の小説家として、藤谷さんはこうしたことについてどのように考えますか。あるいは本の読者として、「ひとかどの作家が一生をかけて成し遂げた仕事を、どのように後世に伝えるか」という問題について、どのような意見をお持ちでしょうか。いつの日か「藤谷治全集」が出るとしたら、それはどのようなかたちが望ましいでしょうか。

かつてビデオテープで、あるいはレーザーディスクやDVD、ブルーレイとして発売されていた映画は、次第にネット上でストリーミングされるのが主流になりつつあります。下北沢の町でも、中古のCDやDVDを売買するお店は、流行っていない古本屋以上に湿気た雰囲気です。これはウンベルト・エーコが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のなかで言っていたように、再生機器がいらない紙の本のほうがCDやDVDより長生きする、という証拠でしょうか(そうあってほしいです)。

僕たちが85歳を迎える頃に「本」はどうなっているか、あるいはどうあってほしいか。藤谷さんの意見をぜひ聞かせてください。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。