第21信(仲俣暁生から藤谷治へ)
藤谷治様
1月の初めに前回のメールをいただいてから、またしてもズルズルとお返事を引き伸ばしているうちに、新型コロナウイルスの騒動が中国の武漢でもちあがり、やがて韓国の大邱に、そして日本でもクルーズ船を舞台に感染が拡大しました。
それでも当初はどこか対岸の火事に思えていたものが、ヨーロッパに飛び火し、まさしく燎原の火のごとくEU諸国とアメリカに広がるのを目にしたことで、ようやく日本でもウイルス禍が身に迫る危機として感じられるようになりました。
ほんのひと月、いや、わずか数週間で世の中の見え方がガラッと変わってしまう。戦争が始まるときというのは、もしかしたらこんな感じなのではないかと思うほど、いままでにない危機感を感じつつこのメールを書いています。
東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故のときには、それでもまだ、信頼できる人と直接顔を合わせて話をすることで、落ち着きを取り戻すことができました。藤谷さんともあの当時、とくに用事もないのに、なんどかお会いしたことを思い出します。
でも今回のウイルス禍は、人が人と会うことを遮断してしまう。親しい人ほど、会うことができないし、会わないほうがよい。そんな逆説のなかで、僕らはこれから長い時間を過ごさなければなりません。そんなとき、ものを読むこと、書くことはどんな意味をもつのでしょうか。
前回のメールに対して返事が遅れた理由は、現在における「批評のありか」という、あまりにも重たい問いをいただいたからでした。しかもその直後に、僕らとそれほど年の違わない評論家の坪内祐三さんが亡くなられ、自分でも意外なほど、静かな衝撃を受けました。
坪内さんはたしか自身では「批評家」とは名乗っておられなかったですが、まぎれもなく同時代のすぐれた批評家の一人であったと思います。しかも彼は、藤谷さんや僕がこの往復書簡でずっと問題にしている、1980年代以後のポストモダニズム的な思潮に対する一貫した批判者でもありました(他方で彼は、山口昌男という「ポストモダニズム思想家」の門下生でもありましたが)。
昨年から今年にかけて、橋本治さんや加藤典洋さんといった団塊世代の重要な書き手が相次いで亡くなり、さらに彼らよりずっと年若い世代の坪内祐三さんも亡くなったとき、僕が最初に感じたのは、ちょうど元号が変わったばかりであったことから、ひとつ前の「平成」という元号下の時代と重なる、ここ30年ほどの思考や行動について、根本から考え直すことでした。
ところが今回の新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大は、そんな気分さえ吹き飛ばしてしまった。いま考え直さなくてはならないのは、平成の30年間という短いスケールのことだけではないのではないか。ちょうど百年前の時代に起きた第一次世界大戦とスペイン風邪が「19世紀」という時代を完全に終わらせたように、いま僕らは「20世紀」という時代の終焉を目の当たりにしているのではないか。そんな思いが、ますます筆を鈍らせたのです。
いま「批評」はどこにあるのか、「批評家」はどこにいるのか。その問いに対して、ずいぶん前のメールでも書いたとおり、自分自身を「批評家」だと思ったことが一度もない自分は、どう答えたらよいのか。それも返事が遅れた理由の一つです。
自分の「職業」は、第一にそこそこ経験のある編集者であり、第二に、さして影響力のないジャーナリスト(「評論家」を僕はそのように定義しています)である。僕はそう自認しています。
評論家と批評家の違いはどこにあるのか。それがたんに好みや語感の違いにとどまらないとすれば、こんなことだと思うのです。藤谷さんが名を挙げた錚々たる日本の文芸批評家たちは、なによりもまず、彼ら自身が「文学者」でした。つまり「文学」という世界のメンバーシップの内側にいた。したがって彼らが書いた批評もまた「文学作品」でした。
僕はそんな彼らの作品に力づけられ、ときに反発しつつ育ちましたが、その「内部」に加わりたいとは一度も思ったことがありません(例えるならば、すべての野球ファンが、必ずしも野球の選手をめざすわけではないように)。
ところで「批評(家)」という言葉は――とくに日本の文学の文脈では――大きくわけて二つの意味にとられています。一つは、そのテキストがそのまま「文学作品」でもあるようなクリティカルな行為と、その行為者として。もう一つは、藤谷さんがいくつか例を挙げられた「批評理論(セオリー)」に裏付けられたテキストと、その理論家として。
そして日本の(ヨーロッパからは大幅に遅れて到来した)ポストモダニズム思想とは、前者のような批評(家)を、後者に依拠した批評(家)たちが駆逐しようとして、なかばその企図が実現された一連の長い過程だった。この30年ほどを振り返り、僕はそう思うのです。
ところが不思議なことに、他方でいまの優れた(後者の意味での)「批評家」たちは、同時に「小説の実作家」でもあろうとしています。具体的に名を挙げれば、蓮實重彦、四方田犬彦、東浩紀といった人たちです。このほかにも小谷野敦、陣野俊史、佐々木敦といった僕らと世代の近い比較的に親しい人たちも、「小説家」としての仕事を始めています。
藤谷さんが、「物足りない」と感じる批評家の名前が、このなかに含まれているかどうかはわかりません。ただ、これらの「小説を書く」批評家たち自身が、「批評では語り得ないこと」にきわめて自覚的であることはたしかでしょう。
彼らは別に、小説のほうが批評よりも読まれる(あるいは「売れる」)から、小説を書いているのではない。そうではなく、批評という形式で行うよりも、小説という形式によって行うほうが、いっそう批評的であるということに、まぎれもなく自身の「批評」のなかで気づいたからではないか。僕はそう思うのです。
いま思えば、「それ自体が批評で(も)あるような小説」こそがポストモダニズムが理想とした小説のあり方でした。小説家はひたすら小説を書き、批評家(ときには「評論家」も)がそれに批評というかたちで応える――そんな古典的な弁証法が単純には信じられなくなったとき、批評家は実作に手を染め、小説家は「批評(家)の不在」に苛立つということなのかもしれません。
でも、今回のメールで僕が藤谷さんに伝えたかったのは、そうした業界見取り図の話ではありません。何よりも、僕はいま、こんな状況のなかで藤谷さんに「私的」に声をかけたかったのです。
僕は「マガジン航」の編集発行人として、先月はエディターズノートの更新を行いませんでした。エディターズノートというのは、いわば一種の公的ステートメントです。でも僕はいま、ジャーナリストとして公的に何かものを言うことに、まったく意味を見いだせなくなってしまいました。
いま起きている百年に一度ともいうべき巨大な出来事のなかでは、ささやかなメディアの責任者(発行人)としても、出版や編集という職業にかんする専門家としても、胸を張って主張できることがなにもない。であれば、沈黙も一つの言明であろうと考え、エディターズノートの月次更新をやめたのです。
でもこの往復書簡は「公開」ではあるものの、あくまでも藤谷さんへの「私信」です(だから基本的に「僕」という主語をつかっています)。そしてあらためて思うのは、かつてのすぐれた文学者のテキストは、むしろ私的な言明であったことで、その声を太く、響かせていたのではないかということです。そんな私的な声こそがいま僕が読みたい言葉であり、できうることならば誰かに対して発したい声であり、書きたいことなのだ、と気づいたのです。
マルクス主義という、当時は圧倒的な正統性と影響力をもっていた公的な「イズム」に対し、私的な「態度(声)」に依ったことが、小林秀雄を日本的な「批評」の神様としました。日本に特有の「文学者としての批評家」とは、公的な言葉に対して私的な言葉が唯一、勝利をおさめることのできるフィールドとしての「文学」という神話をながらく信じさせてくれた人たちでした。
そんな「小林秀雄的批評」(日本的な意味での批評)を乗り越えようと、ある世代までの頭のいい日本のマルクス主義者(ここでは柄谷行人や浅田彰を念頭に置いています)は、ポストモダニズムの諸理論に依拠して「批評」を更新しようとした。その結果、皮肉なことに日本の「批評」の起源が見失われたのだと思います。
しかも、いわば一連のポストモダニズム思想の主唱者であった「新しい批評家」の多くが、いま「小説」を批評のツールとして再発見しています。いただいた重たい問いに真正面から答えるのではなく、藤谷さんに問いで返すのはズルいやりかたかもしれませんが、こうした状況に対して「小説家」はどう考えますか。
これは藤谷さんがお書きになった古典の問題とも関わるように思います。ちょうどいま、僕は『源氏物語』の新しいバージョン(角田光代による現代語訳と、アーサー・ウェイリーによる古い英語訳のさらなる日本語訳)とを読み始めようとしています。僕にとって『源氏物語』とは、原典だけでなく、翻訳や批評やマンガなどの二次創作を含めた、膨大な副産物すべてが織りなすテクスチャ―のことであり、正直、自分はまだその波打ち際の一部しか経験していないと思っています。だからこそ、そこへの入り口はいくらあってもいい。
源氏物語に対してこの数百年、いや千年以上の間に積み重ねされてきた批評や二次創作の蓄積の厚みを考えると、「文学者でもあるような批評家」も「小説を書く批評家」も、「なんらかの理論(セオリー)に立脚しなければ批評が行えない批評家」も、どうでもよいように思えてきます。
現代の小説の愚直な読者でありつづけたい僕にとっても、必要なのはなにより実作です。「それ自体が文学作品となった批評」は、すでに実作といっていい。そして十年、百年、千年と残るのはふとぶととした樹木のような実作であり、批評とはその周囲に事後的に繁り、そして樹木よりも早く枯れてしまう草むらにすぎません。
たしかに誰も聞く者のいないところでは音楽は響かないし、観る者がいなければ演劇は成立しません。でも文芸作品に限れば、たとえ同時代に適切な批評を得られなくとも、作品は自立して存在しうる。木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる――そんな信頼のなかからしか、長い命を保つ実作は生まれないのではないか。小説家に僕が期待するのは、そんな孤独に耐える自信です。
それともこれは、あまりにも酷く高いハードルを実作者に課するものなのでしょうか。
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執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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