VRはいつか来た道?――誕生から30年を振り返る

2019年6月11日
posted by 服部 桂

最近は、VR(バーチャル・リアリティー)という言葉をよく目にするようになった。世界最大の電子機器展示会CESや最新デジタルコンテンツのショーケースとして人気のSXSWなどでも、常にVRが話題の中心となり派手な映像が紹介されている。

このブームとも言える状況は、もともとは2012年にオキュラス(Oculus)というベンチャー会社が、VRに使われるHMD(頭部搭載型ディスプレー)開発を始めたのがきっかけだ。フェイスブックがすぐさま2014年に同社を20億ドルで買収し、創業者のパルマー・ラッキーはTIME誌などで一躍時の人として紹介されるようになった。フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグの期待は高く、「10億人に普及させる」と宣言したことから、世界中がVRに注目するようになる。

オキュラスを追うように、サムソンやグーグル、マイクロソフト、HTCなどが競うようにスマホを使った簡易型からハイエンドまで各種HMDを発売し始め、業界では2016年あたりから「VR元年」という言葉が使われ始めた。昨年の世界の市場規模は270億ドルで、今後も当分年率70%程度の成長が期待されている。

今年の5月にはスタンドアローンで使える安価なOculus Questも出され、始まったばかりの次世代通信システム5Gでは、ネット経由のVRコンテンツ配信がキラーサービスになると言われ、業界は沸き立っている。街にはVRを楽しめるテーマパークが次々とでき、スピルバーグ監督のVR映画「レディ・プレイヤー1」も公開され、いまやVRは誰もが知る次のトレンドの中心的存在ともなっている。

1990年にVPLのHMD、2019年にOculus Questをかぶる著者。

1989年に誕生

盛り上がる市場に水を差す気はないのだが、VRは実は1989年(平成元年)に最初の製品が出た古いテクノロジーだ。著者は当時、新聞や雑誌でVRを使った新奇なデモや研究者の話を取材しており、1991年に『人工現実感の世界』(工業調査会)という初のVR本を出したのだが、最近の話題を面白がる若者にその話をしても驚かれるだけで、本の版元が倒産してしまい昔の話を伝えようもない。

当時の関係者と話しても、VRの基本的な発想は変わっていないと異口同音に言われ、現在のブームでも同じような発想のデモが行われているのを見るにつけ既視感をぬぐえない。そこで、過去に論じられた夢や開発の展望など、現在でも役立つヒントがあるのではないかと考え、その後30年の話や、現在も一線で研究やビジネスを行っている専門家との対話を加えて、今年の5月に増補新版『VR原論 人とテクノロジーの新しいリアル』(翔泳社)を出すことになった。

30年前を思い返すと、世界では中国の天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊するという戦後の世界の構造を大きく変える出来事が起こっており、コンピューターの世界では「マルチメディア」がトレンド語になっていた。パソコンの性能が次第に向上して、文字だけでなく音声や映像を徐々に扱えるようになり、ただの計算機ではなく個人が複数のメディアを扱えるツールとなる時代が来ようとしていた。

恐竜のような旧体制の大型コンピューター(メインフレーム)の市場規模をパソコンなどの哺乳類のような新規の小型機が上回り、戦後の市場が大きく変化している時期でもあった。とは言うものの、当時のパソコンの性能は現在の数十万分の1レベルしかなく、やっと粗い画像やパラパラマンガのようなぎごちない動画が表示できるだけで、まだとても実用に耐えるものではなかった。

そんな時代に、マルチメディアが一般化した未来の夢物語のようなVRと呼ばれる世界のデモが、1989年6月7日にサンフランシスコのハイテクイベントで公開され、そこに世界初のVRベンチャーVPL社が出したRB2というシステムが使われて注目を浴びた。二人の利用者が、アイフォン(Eyephone)という名前のHMDと手の動きを表現するデータグローブというデバイスを着けて、CGで作られた空間の中で3Dのテレビ会議をしているようなデモで、パシフィックベルという電話会社がコミュニケーションの未来像をイメージするために出展していた。このシステムは25万ドルと高価なもので、CG専用マシンが描き出すポリゴンのキャラがぎごちなく動くだけだったが、当時としては21世紀の未来を予感させるような画期的なデモだった。

サンフランシスコのテクスポ’89というイベントで披露されたVRシステム。

VPLとはVisual Programming Language(ビジュアル・プログラミング・ランゲージ)という言葉の略で、視覚的にプログラミングをするための装置を開発する会社だった。同社を起業したジャロン・ラニアーは、もともとアタリなどのゲームメーカーで働いていたプログラマーだったが、友人がエアーギターを演じる際に、指に着けてその動きを検知して音を鳴らしてくれる装置を作っているのを見て、それを使えばキーボードやマウスなどを使わなくとも、手の動きでパソコンを操作できると考え起業したという。

そして、画面にレゴブロックのように機能を実現する立体オブジェを配して、それらを視覚的に手で組み立ててプログラミングができるソフトも開発した。さらに、パソコンの画面を目の前にそのまま置いて、左右の画面で立体視ができるHMDを開発し、耳に着けるearphoneならぬ目に着けるeyephoneと名付けた。そして、こうしたテクノロジーをVRと呼び、それが一気にブームとなった。

コンピューター開発当初にルーツ

このHMDはVPLのオリジナルではなく、すでに1968年にCGの父とも呼ばれる、アイバン・サザランドが「ダモクレスの剣」と呼ばれるシステムを作っていた。サザランドは冷戦時代に、北米全土のレーダーを結んで監視する防空管制用のSAGEというシステムで使われた、オンラインでリアルタイム処理をするコンピューターを利用して、画面で敵機をマークして追跡できるようなグラフィックなシステムを、もっとデザインや民間の応用に使えないかと考えた。

アイバン・サザランドの最初のHMDシステム。

そうして考案したスケッチパッドと呼ばれるソフトウェアは、画面にライトペンでタッチして、いろいろな図形を描き操作できるものだった。彼の研究はそこで止まることなく、さらにその機能を3Dの図形にまで拡張して、対象が空中に浮かんだように見えるHMDを当時のブラウン管で作っていた。

こうした研究は、軍事や宇宙開発などの分野で、リルタイムに情報を操作するためのシステムを開発するのに巨額の予算がつくことで加速した。1980年代には空軍が、戦闘機のパイロットがヘルメットと一体化したHMDを使って、敵機を目でとらえて自動的に攻撃できるシステムVCASSを開発していた。またNASAでは宇宙ステーションに多くの機器を持ち込む代わりに、HMDでバーチャルな実験室を作ってオペレーションを行う研究を行っていた。

NASAが開発していたHMD。

こうしたさまざまな研究が、VPLによってスピンオフして一般向けの製品となったことで、コンピューター業界ばかりか90年代のカルチャーシーンにも大きな変化が生じた。

1990年10月には「VRのウッドストック」とも呼ばれる、初の一般向けVR展示イベント「サイバーソン」(Cyberthon)がサンフランシスコで開催され、1993年に創刊されたデジタルカルチャー誌WIREDでは新しい時代のアイコンとしてVRは欠かせないものになった。当時はVRの中に、60年代のカウンターカルチャー時代に流行したドラッグやサイケデリックな世界の復活を感じる人も多く、その後は一般にも普及が始まったインターネットの電子的な空間に入っていくサイバースペースに結びつけられるようにもなった。

92年にはスティーブン・キングのホラー作品にVRを取り入れたSF映画「バーチャル ウォーズ」が公開され、日本でも「横浜ホメロス」などの漫画でVRが重要なプロットとして使われた。一般にVRの認知が広がると、ネットの世界ではハビタットやセカンドライフなどのアバターを使ったソーシャルなサービスが流行し始め、現在のSociety5.0などの論議で出てくる未来の情報社会をイメージする場面にもVRが取り入れられるようになった。

VRで経験できる世界は最初はゲームが多かったが、研究の最先端ではスポーツや医療現場での手術の訓練用や、設計段階の自動車や建物などの使い心地を試すものなど、現在もよくデモやイメージで語られるものがすでに用いられていた。HMDなどの特殊な装置を使うのではなく、大型のディスプレーを使って、その中でジオラマのようにスポーツ観戦や観光地ツアーをしたり、過去や未来の世界に遊んだりする展示も90年頃から普及して、テーマパークや博物館などで人気となった。

しかし当時はまだコンピューターの性能も3D動画を扱うには十分ではなく、HMDなどの装置も一般人が買える値段ではなかった。そのうちに90年代後半から広く普及が始まったインターネットの波や、パソコンのモバイル化のなどに隠れて、VR自体は個別に論じられることが少なくなっていった。

VRがこれからの世界で持つ可能性

そうした歴史を思い起こすと、最近の第2次とも考えられる同じようなブームが起きたのは、ちょっと不思議な感じもする。しかし30年前には億単位の専用マシンでしか動かなかった3DCGが、現在のパソコンでは十分な精度とスピードで動く。HMDも昔は3キログラム近くの重さで、8万画素ほどの粗い画像しか表示できないものが100万円ほどしたが、現在の製品は300グラム程度の重さで4Kの高精細な動画が表示できて数万円で買える。こうしたデジタルテクノロジーの進化は驚異的で、昔に紹介した試みが誰もが手にできるようになれば、世の中は大きく変わるだろう。

今年に実験開始から50年を迎えるインターネットも、90年代にWWWによって専門家でない一般人が扱えるようになって普及し、世界を大きく変えることになった。最初のネットは大手メディアのサイトが中心で、現在のVRのように利用者が受け身の状況だったが、21世紀になってからは、利用者が自由に発信できるSNSが普及することで普及が爆発的に加速した。VRはまだ3Dゲームなどが中心で受け身市場だが、今後は誰もがスマホやHMDを手にできるようになり、専門知識を必要としない簡単なコンテンツ制作プラットフォームや360度カメラなどが増え、VTuberのように簡単にバーチャルなキャラクターに変身できるサービスなどが一般化して誰もが簡単に発信できるようになれば、まるで新しい局面を迎えることになるだろう。

VRの進化をパソコンの歴史と並べて比較してみると、まだマイコンが出て来てアマチュアが手作りで試行錯誤している段階なのかもしれない。VRというと、HMDを着けた3D映像とインタラクションするイメージだが、AIやIoTが普及していく今後のネット社会では、利用者の視点から多様な情報を表現してコミュニケーションをするために、VR的な発想でソフトやサービスが作られ、HMDなどの特殊な装置を使わずに、目に直接映像を投影したり、ウェアラブル機器と連動した情報がその場に合わせて表示されるようなディスプレーなどが開発されたりして一般化していくだろう。

気が付けば、VRは平成の30年間の情報化を象徴する一つのトレンドともなっていた。これからの、より多くの人がネットを活用する時代には、VRは文字中心の言葉を超え、感情や経験を直接伝えることができる可能性を開花させるかもしれない。VRのリアルさやフェイクさばかりを論じるのではなく、まずはより豊かな非言語的なコミュニケーションをする手段として、単独の分野としてでなく、コンピューターサイエンスやコミュニケーション理論のもっと大きな枠組みの中に捉えて、今後の動向を論じる必要もあるだろう。

小高の本屋、フルハウスに行ってきた

2019年6月6日
posted by 仲俣暁生

昨年の4月9日、小説家・劇作家の柳美里さんが福島県南相馬市の小高区内に「フルハウス」という小さな本屋を開業した。〈旧「警戒区域」を「世界一美しい場所」へ〉と呼び掛けたクラウドファンディングによって得た資金(約890万円)などで、小高駅近くの自宅を改装してオープンした「フルハウス」は、作家や書評家たちによる選書や、定期的なトークイベントの開催で話題となった。このイベント運営に携わっている「いわき経済新聞」の山根麻衣子さんによるレポートを「マガジン航」でも掲載したことがある。

被災地の本屋さんにブックカフェを拡張する

この「フルハウス」を拡張してブックカフェをつくるため、今年の6月末を期限とするあらたなクラウドファンディングが始まっている。来る6月9日(日)には、東京の日比谷図書文化館でこのプロジェクトへの支援を呼びかける柳美里さんのトークイベントが行われ、私が聞き手を務めさせていただくことになっている。さいわい定員60人はすぐに埋まり、被災地に小説家が開いた本屋に対する関心の高さが伺える。そうなると私自身、一度はこのお店を見ておかなくてはという気持ちになった。お店だけではない。「フルハウス」をとりまく小高の町の様子も見てみたい。

柳美里さんとはこれまでインタビュー取材を通じて面識はあったが、小高をはじめとする南相馬地域の状況については詳細を知らずにいた。柳さんは昨年、自らの劇団「青春五月党」を復活させ、被災地の高校が合併してできたふたば未来学園高等学校の演劇部の学生と『静物画』という演目を上演した。その公演が今年3月に東京・北千住で行われた際にご招待いただき、柳さんとも久しぶりに話をすることができた。この公演はじつに素晴らしく、一流の劇作家がかかわることで高校演劇の水準がここまで高まるのかと感嘆した。そして被災地に文化人が定住し、活動することの重要性を感じた。

ふたば未来学園高等学校演劇部の学生が演じた青春五月党の『静物画』東京公演のビジュアルイメージ(撮影:新井卓)。

私がはじめて震災後に福島入りしたのは、一昨年の6月にいわき市内で行われた『たたみかた』という雑誌のイベントに登壇したときだ(それ以前となると中学時代の会津への修学旅行まで遡る)。このときも山根さんの案内で、いわきから国道6号線を北上して広野町、楢葉町などを経て、富岡町(一部が未だに帰還困難区域)まで行くことができた。すでに震災から6年を経ていたが、そのときに見た国道沿いの風景は忘れがたいものだった。

小高へ

小高駅前から市街地を望む。「フルハウス」は右手にあり、駅から徒歩でもすぐ到着する。

今回の目的地である小高までは、いったん東北新幹線で仙台まで行き、再開した常磐線で南下するのが早いという。だが、あのときの国道6号線沿いの風景をもう一度見てみたい気持ちもある。無理をいって山根さんに車を出していただき、今回もいわきから北上した。都内を朝9時に出たが、フルハウス到着は午後1時半過ぎ。天気は気持ちのいい五月晴れで、遠く阿武隈山地がよく見えた。

小高は現在は南相馬市の一部となっているが、かつては独立した町だった。小高川を渡った集落の北方には、この地を治めた相馬氏の居城・小高城址に建つ相馬神社があり、有名な相馬野馬追祭りの際に奉納の「野馬懸」が行われる場所として知られている。

また小高は近代文学にゆかりのある町でもある。私がこの町の名前を知ったのは、写真家の島尾伸三のエッセイ集『小高へ』という本によってである。『死の棘』『魚雷艇学生』などで知られる小説家の島尾敏雄は伸三の父であり、小高は島尾家の父祖の地なのだ。また『死霊』の著者、埴谷雄高も小高にゆかりのある作家で、本籍は小高にある。そうした縁から、小高には埴谷・島尾記念文学資料館という施設もある。

「フルハウス」の外観。手前の駐車場スペースに「ブックカフェ」を増築する予定。

小劇場「La MaMa ODAKA」には青春五月党の公演『町の形見』のセットが残されていた。

柳美里さんの自宅でもある「フルハウス」は、小高駅の西側に広がる中心市街地にあり、駅からも至近距離だ。外観はごくふつうの戸建て住宅だが、一階の二間が小さな「本屋」になっている。そして裏手が小劇場「La MaMa ODAKA」だ。こちらも常設の劇場というよりは、まだまだ仮設の芝居小屋という感じだ。すべてがまだ「進行中」のように思える。

この日は9日のトークの打ち合わせをすることが目的だったが、クラウドファンディング盛り上げのための映像素材も撮影するとのことで、柳美里さんのほかに、副店長の柳朝晴さん、クラウドファンディング担当の堺亮裕さん、そして山根さんと、おもだった運営スタッフが揃った。この日は店は閉めていたのに、お客さんが次々にやってくる。なかにははるばる仙台から来たという方もいた。

左から山根さん、副店長の柳朝晴さん、柳美里さん、堺さん。

玄関から入って左手がメインの「本屋」コーナー。

「フルハウス」は十数人も入れば一杯になってしまう小さな本屋だ。通りに面した窓にカウンターテーブルが設置されており、本を読んだり勉強や作業もできる。今回のクラウドファンディングは、この窓の向こう側にさらに「ブックカフェ」を拡張するためのものだ。完成予想図や模型をみせていただいたが、本格的な「カフェ」というよりは、コーヒーも飲める多目的空間という印象を受けた。いまは手狭なフルハウスにこの空間ができることで、学生や住民のたまり場にもしたいそうだ。

駐車場に面した窓にはカウンターテーブルと椅子があり、現状でも勉強や作業ができるようになっている。

ブックカフェ・コーナーを増築した後の「フルハウス」のイメージが柳さんの近著の装丁に使われている。

新たな息吹のなかで

小高を含む南相馬市は、2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた。さらに福島第一原発事故により、20キロ圏内にあたる小高区内の大半が警戒地域となり、住民に避難指示が出た。震災以前は約1万3000人が住んでいた小高は、完全に無人の町になってしまった。

避難指示が解除されたのは、震災から5年を経た2016年7月12日。以後、小高にも少しずつ人が戻りはじめている。市街地にはいまも更地が目立つが、若い世代による動きもさまざまに起きている。「フルハウス」の近くには昨年8月に「Odaka Micro Stand Bar(オムスビ)」の実店舗がオープン。キッチンカーでスペシャルティ・コーヒーを提供するところからはじまった、30代の若い世代によるプロジェクトだというが、この日も店には大勢のお客さんがいた。

小高の市街地にはこのほかにも、老舗ガラスメーカー・ハリオのアクセサリー工房が出来、あらたな雇用も生まれている。歴史的・文化的な風土があり、町には本屋と劇場、そしてカフェがある小高には、一種の「都会的」といってもいい雰囲気がある。

「フルハウス」の近所には本格的なドリップコーヒーが飲めるカフェスタンドも。

この日はあいにく休みだったが、小高にはこんなガラスアクセサリー工房もできた。

今回のクラウドファンディングにより、「フルハウス」にあらたなスペースができることは、小高の町のこうした動きにも、刺激を与えるに違いない。さらに南相馬市全域、あるいは常磐線沿線の浜通りの被災地全域にとっても、小高の町が文化の力で再生していくことは、ひとつの希望になると思う。

学校や仕事が終わったあと、ふらっと本屋に立ち寄り、本を片手にコーヒーを飲む。そして仲間と語り合う。都会に暮らしていると、ごく当たり前のように思えるそうした時間をもつ権利を、決して都会に住む者だけの特権にしてはならない。小高に居を移し、「フルハウス」を創作活動の拠点とした柳美里さんには、そのあたりの話もぜひうかがってみたい。

人文書の灯を絶やさないために

2019年5月20日
posted by 西川秀和

このままでは人文書の刊行が存続できなくなる。私はそんな危機感をずっと抱いている。なぜか。人文書の刊行は、あまりに大きな経済的負担を著者に強いるからだ。人文書の灯を絶やさないためにどうすればよいのか考えてみた。

人文書出版の厳しい現状

経済的負担がほとんどなくてすむ幸運な著者もいる。著者が有名であったり、需要が見込める分野であったり、条件はいろいろある。しかし、著者が無名であったり、需要がそもそも少ない分野であったりすれば、出版機会に恵まれないという問題がある。

私はアメリカ史の通史シリーズをいくつかの出版社に持ち込んだことがある。提示された出版条件はさまざまだった。中には「500部を著者が買い取る」という条件を提示する出版社もあった。仮に著者割引で買い取るにしても100万円以上を支払うことになる。幸いにも「初版印税なし」という条件で刊行してくれる出版社を見つけることができた。無名の著者が需要の少ない分野で人文書や学術書を刊行したい場合、一般的にはありえない条件でも「幸いにも」と言わなければならない。

他にもこんな話がある。ある研究者が大手出版社から新書を出したいと思った。しかし、つてがない。そこで大手出版社の編集者に顔が利くという人に仲介料を支払った。仲介料は印税の半分と聞いた。「初版印税なし」と比べれば破格の条件かもしれないが、それでも一般的にありえる条件なのだろうか。

私は著者負担なしで刊行できている。まことに幸いなことなのだろう。しかし、もし著者負担が求められていれば、人文書を刊行すれば刊行するほど、赤字になっていたはずだ。ビジネスという観点から見れば、最初から破綻したモデルである。もちろん人文書の刊行は単なるビジネスではない。文化を創る営みだ。しかし、刊行を続けるためには著者の経済的負担をなるべく減らさなければならない。さもなければ人文書の灯はやがて絶えるだろう。ではどうすれば灯を絶やさずにおけるのか。新しいモデルを模索するべき時が来ているのではないか。

持続可能なモデルの採用

私は実験的試みとしてPOD出版を活用して何冊か翻訳書を出版している。PODとはプリント・オン・デマンドの略である。わかりやすく言えば受注生産である。どのような流れで本が読者に届くのか。私が翻訳した本の中から『ジェロニモ自伝』を例にして簡単に説明する。今回、私が利用しているのはNextPublishing Pressというサービスだが、サービス提供者によって若干の違いがあることはお断りしておく。

『ジェロニモ自伝』の表紙デザイン。

『ジェロニモ自伝』の原著は著作権が失効している書籍である。したがって、版権を取得する必要がなく、経済的負担も発生しない。Wordで訳文を作って最後にPDFに変換する。そして、PDFをPOD出版を仲介する企業のサイトにアップロードする。刊行に関して著者がすることはそれだけである。あとはPOD出版を仲介する企業とその提携先であるAmazonが受注、製本、配送、そして、売上金の回収までやってくれる。

初期費用はほぼゼロである。しかも在庫は発生しない。したがって「500部を著者が買い取る」といった条件が課されることもない。POD出版は薄利多売には向かないが、人文書のようにもともと発行部数が少なく価格が高い書籍に向いている。

売上はどの程度なのか。POD 出版は受注生産なので実売部数である。実売部数のデータは著者がすべて把握できる。『ジェロニモ自伝』の売上は以下の通りである。

『ジェロニモ自伝』(POD)193 冊(2018年8月~2019年4月)
『ジェロニモ自伝』(Kindle)96 冊(2018年8月~2019年4月)
※旧版と改訂新版の合計

また他の例として『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』のデータも挙げておく。『ビリー・ ザ・キッド、真実の生涯』も『ジェロニモ自伝』と同じく、著作権が失効した原著を独自に翻訳した書籍である。

『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』(POD) 440冊(2018年5月〜2019年4月)
『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』(Kindle)250冊(2018年5月〜2019年4月)

非常に少ない数字のように思われるかもしれないが、もともと人文書の刊行は数百部単位であることが珍しくない世界だ。ただPOD出版は著者の受け取り分を高く設定できるのでそれなりの経済的対価を得られる。

筆者がPODで出版した人文書。

今後の課題

POD出版も万能ではない。著者が執筆から編集まですべてこなすのでいろいろと問題はある。主な問題点はクオリティーである。出版社を通して書籍を刊行する場合、編集者の手が入る。したがってクオリティーは担保される。また読者の信頼も得やすい。POD出版に欠けている点である。

宣伝や広告をどうするか。これも課題である。書籍はその存在を知ってもらえなければ購入してもらえない。POD出版は書店に並ばないので手に取って見てもらうことができない。ただ人文書の場合、ネット検索していろいろ調べて購入する人が多いので、販売サイトで詳細な内容説明さえ載せれておけば見つけてもらえると私は考えている。なお『ジェロニモ自伝』や『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』に関してはSNSによる告知を除けば宣伝や広告は皆無である。

このようにPOD出版にはデメリットもあるが、人文書の刊行において著者の経済的負担を大いに軽減できるという計り知れないメリットがある。POD出版による人文書の刊行は、知と創造の新しい生産・流通のありかたであり、人文書の灯を守る持続可能なモデルだと私は信じている。

私がインディーズ文芸創作誌を出し続ける理由

2019年5月13日
posted by 多田洋一

あれは2009年の、たぶん11月なかば。知人宅の寒いベランダで煙草を吸いながら見上げた夜空には、噛みつかれそうなくらい白い月が光を放っていた。当時はあまり調子がよくなくて…というのも、前年の区の健康診断でやっかいな病気に引っ掛かり春先は入院生活。その後、シャバに復帰はしたが、どうも仕事に気が乗らないままだったし、さらにその夏には、いわゆる「持ち込み原稿」というのを某文芸誌にしてみたものの、散々な言われよう。わりとめげない性格だが、さすがに「このまんまじゃ、ちょっと」との思いを抱えていた。

流され続けているかぎりは、なにもかもがこのまんま。そして、どこかにきっとサドンデスが待っている。それはちょっと嫌だから、自分の意志で本をつくってみることにした。

2010年に文芸創作誌「Witchenkare(ウィッチンケア)」を創刊し、以後、年に1冊のペースで発行している。毎年4月1日に発売。桜咲く季節なのと、エイプリール・フールだっていうのが気に入ってこの日にした。今年も第10号が出たばかり。35人の書き下ろし寄稿作が掲載されている。

「ウィッチンケア」最新号(10号)の表紙(クリックすると目次が見られます)。

10、という区切りの号なので、創刊号以来の便覧を付けてみた。そこにはこれまでの紆余曲折というか暗中模索というか、についても…まあ、いろいろ正直に書いてみた。たとえば創刊号の項には、寄稿者/作品名とともに、こんな一文を。

〈発行人(多田洋一)が、草の根BBS「ぱらねも」での知り合いや古くからの友人に声をかけて創刊。発行部数は500。いままでにない雑誌を、との志で誌名をKitchenware のアナグラムの造語「ウィッチンケア(Witchenkare)」と命名… しかし、この覚えにくい名前のせいで後々、数多の苦労を背負うことに。また制作時には雑誌を「つくること」に夢中で「売ること」にまで考えが及んでいなかった(裏表紙には定価ではなく「頒価」と記されている)。発行後、いくつかの書店との直取引が始まり、ジュンク堂書店新宿店での取り扱いをきっかけに地方・小出版流通センター(取次会社)とのご縁ができ、さらに販路が広がる。〉

ただ、便覧に書いたのは、おもに「ウィッチンケア」という本に直接関わることがらだ。発行人がどんな体験をしてきたか、雑誌を10年出し続けるとどんなことになるか、などについては最小限の言及にとどめた。…だけど、もうちょっと書きたいことがある。自分自身のこと、そして「ウィッチンケア」の出版体験を通して見えた「本の周辺事情」についても語ってみたい。

誌名を造語にしてわかったこと

私が雑誌の仕事を始めたのは20代後半。1959年生まれなので、ちょうどこれからバブルがやってくるぞ、というころだった。最初に見開きタイアップ広告(スポンサーはヤマハ)の、1000字ほどの文章を担当したのが『ターザン』。以後、なりゆきでフリーランスのライター/エディターとなり、雑誌記事の企画/編集/取材執筆、映画やドラマのノベライズなどもこなしながら現在に至っている。これまで署名記事はほとんどなく、名前が出てもスタッフのクレジットとして、ということでやってきた。

ウィッチンケア、という造語の誌名だが、当時の私は「自分がつくる雑誌はいままでないものにしたい。だから名前もいままでにない言葉にしよう!」と燃えていた。クロワッサン、とか、マリクレール、とか、ロッキング・オン、とか、他誌の名前の字数を思い浮かべて、おお、7文字くらいならいけるんじゃないかな、じゃ、ウィッチンケア! と。…しかし、10年経っても、この誌名をまだ正確に覚えてもらうことに苦労している。ウッチンケアとかウイッチケアとかウッチン・ケアとか、惜しい…でも自分が覚えづらい名前にしたんだからなにも言えねぇ、と忸怩たる思い。

なので、もしあなたがこれから紙の雑誌を創刊しようと思っているのなら、やはり誌名は明瞭簡潔なほうがいいかもしれない。書店や取次会社とのやりとりのさいに、ホント、無為な負荷が発生するのだ。検索にも出てこないし(まあ、その苦労を楽しむ、という「気の持ちよう」も、あるけれども)。

その「ウィッチンケア」の創刊号は、世田谷区の松陰神社近くにある啓文社で印刷/製本した。刷り部数500。ロゴが表紙の下のほうに配してあるのは、当時「雑誌はコンビニで扱ってもらったさいにロゴが見えるように」という〝業界の常識〟のような話を人づてに聞き、いや私がつくるものはコンビニなんかで売ってもらえるわけないからべつにいいや、みたいな反抗心もあって…と言うか、とにかく「本をつくること」が楽しくて「本を流通させる」ことに無頓着なまま制作してしまった。手売りするぞ、という気概を持っていたわけでもなく(気質としては「ゲラを戻したら次の原稿のこと考える」「あっ、掲載誌見てない」みたいな、ライター寄りの人間である。そんな人間が発行人になって、果たしてよかったのか…)。

2010年に刊行した創刊号。刷り部数は500。

お菓子を作るように本を作ろう

2010年頃はミニコミというかリトルプレスというかジンというかが元気で、『ミニコミ2.0』(KAI-YOU/2011年)という本が出版されていた。それ以前に『ミニコミ魂』(晶文社/1998年)も読んでいたし、パルコブックセンター渋谷店や都内の個性的な書店で「これ、どこが出したんだろう」という雑誌を見かけると買ったりもしていたので、そんな流れに背中を押されて「オレもいっちょやったろか」と踏み出したのだと思う。

つくるさいの参考にしたのは『プチブックレシピ リトルプレスの作り方』(毎日コミュニケーションズ/2007年)という可愛らしいムック本。帯に〈お菓子を作るように本を作ろう。〉とあって、そんな簡単なもんじゃないだろ、と思いつつも、なにしろよくわからないので…とても参考になった。

「ウィッチンケア」創刊へと背中を押してくれた本たち。

校了して、いよいよ家に500冊が届く、という段になって初めて「できあがった本を、なんとかしなくちゃ」と思い至り、簡単なレジュメをつくって都内の書店への営業を始めた。厳しい目にも遭ったが、それでも、けっこう話を聞いてくれる書店員さんもいて、実物の創刊号が拙宅に届いたころには、直の取引で模索舎、タコシェ、古書ビビビ、古書音羽館、いまはビックロになった、新宿三越アルコットのジュンク堂書店新宿店など都内の数店舗に並べてもらえた。

その後、「他の書店で見かけた」という書店員さん経由で三省堂書店神保町本店からも声がかかり、そこに置くには取次会社を通して、と言われて、今度は地方・小出版流通センターさんを訪ね、その担当者のご厚意で、都内の大型書店10店舗に置けるようになり(そのうちの6店舗が2019年現在ではなくなってしまった…)、と、ものごとが進み始めた。

書店主は一国一城の主

この創刊号での営業体験は、かなり勉強になったというか、いまに生きている。まず、どんなでかい本屋さんでも「最初から無理」と怯まず、扉を叩いてみること。大きいところほど間口が広いというか、いろいろな人がいるというか、運がよければ、理解者に巡り会える。反対に個性的(店主の顔が見えている)な本屋さんは、顔見知りだったり知人などがいる場合以外では、細心の注意(というより一国一城の主に対する敬意)を払ってコンタクトをとったほうがよい。最初に「ボタンの掛け違い」が起きてしまうと、お互いにとって、とっても不幸である。

私の場合、創刊時点で50のおっさんだし、また、広い意味での同じ出版業界人とはいえ、どちらかというと商業的な立ち位置の人間だったので、自分のキャリアのことはほとんど語らずに、ただ「新しい本をつくったんです」という感じで歩き廻ったが、何度かは、なかなか、キツかったな。

じつは、7〜8号連続で店に見本誌を直接届けたものの、いまだ道が開けず、な強者(←私にとって)書店もある。むかしながらの本の世界は、良くも悪くも人なつっこいというか、人間くさいというか、〝ムラ社会〟というか…たとえば「○○さん」(苗字)と言うだけでそれがどこの誰であるかわかる、みたいな人たちのなかに、無防備に飛び込んでいくと、いろいろツラいものがある。そして2011年の第2号は、印刷会社から本が届いた2時間後に地震が起きた。このあたりの話は、ぜひ「ウィッチンケア」第10号の便覧をお読みいただければ幸いである。

音楽の未来と本の未来

今回あらためて語ってみたかったのは、10年間「ウィッチンケア」を続けてみて、ほんとうに本を取り巻く環境が変わったなぁ、ということだ。私は以前代々木上原に仕事部屋を持っていたが、小田急線を降りるとまず幸福書房を覗いて新刊や雑誌をチェックしていた(発売日に買う雑誌もけっこうたくさんあった)。それは完全に生活習慣の一部、朝起きて顔を洗ったり歯を磨くようなことだったが、その幸福書房は昨年、なくなってしまった。

近年は私(いまは町田市在住)も書店に足を運ぶことが少なくなり…電車に乗って週刊誌の中吊りが気になったら、アイフォーンで検索してしまう。実感としては、いまネット環境のために携帯キャリアに月々払っているおカネが、当時の雑誌(やムック系の本)と入れ替わっている。

「ウィッチンケア」は、これを手にとらなければ読めないおもしろいものが詰まっている、との自負を持ってつくっている。また個人的にはいまでも「読みたい本は紙のを買う」な人間ではある。しかし、私が朝の身だしなみを整えるように書店に立ち寄り、財布を開いていた、そのような習慣は、はじめから生活動線に本屋さんがない人にはよくわからないだろうな、とも思う。

また、私は音楽も好きで、どこかに出かけるということはつまり「その町にあるレコード店をチェックする」と同義な生活を15歳くらいから続けていたが…10年前くらいからレコード屋さんもどんどんなくなっていった。本の歴史は音楽の記録媒体のそれよりもずっと分厚いので、10年前に音楽の世界で起こったことと同じ未来が本の世界にも訪れる、とは思わないが、しかし、時代の変化なんてあっという間なんだな、という思いは強い。

豪華執筆陣と私

「手にとったのは、ほぼ知り合いだけ」からスタートして、10年。最近は、少しずつではあるけれど、「知ってますよ」「おもしろいですね」「買いました」と言ってくれる人に会うことが増えた。「豪華な執筆陣ですね」と褒めてくれる人もいて…でもこのフレーズは、私が創刊号を模索舎に持ち込んだときに言われたのと同じなのである。そのときは、こんな続きの問いかけをされた。「あの、それで多田さんはなにをしてるんですか?」。いやいや、販売員じゃないんです。この本は私がつくって、しかも小説を書いてもいますから、と言いたかったがぐっと堪えて、10年。短くはない歳月が流れた。

じつは、当時もいまも、私と「ウィッチンケア」を取り囲んだ状況はあまり変わっていない、と感じている。執筆者の総和に遠く及ばない媒体の認知度、ブルーな気分を日々加速させるアマゾンの「売れ筋ランキング」、そして、おそらく私は含まれていないだろうと容易に想像できる、「豪華」という賞賛の言葉。この体たらくの主因はひとえに私なのだ、と胸が詰まり、10年前に見上げた月を思い出すこともある。

しかし、インディーズ文芸創作誌と名乗ったからには、自身が積み重ねた現在の力で、次の一歩を見出していくしかないのだ。本を売ることの難しさ、しみじみ身に沁みたが、一人出版者(出版社ではありません)として、これからもできる限りのことをやっていこうと思う。

民主主義を支える場としての図書館

2019年5月4日
posted by 仲俣暁生

「図書館」という言葉から最初に連想するものはなんですかと問われたなら、本の貸出、新聞や雑誌の閲覧、調べもの、受験勉強……といったあたりを思い浮かべる人が多いのではないか。もしそこに「民主主義」という言葉が加わったら、はたして違和感はあるだろうか。

図書館を舞台にしたドキュメンタリー

フレデリック・ワイズマン監督の映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を、先月の終わりに試写会で観た(5月18日より東京・岩波ホールほか全国で順次公開)。約3時間半にわたる超長尺のドキュメンタリー作品であるにもかかわらず、不思議なことにいつまでも観つづけていたい気持ちにさせられた。その理由はこの映画のテーマと深く関わっている。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』劇場公開用パンフレット(4月9日に開催された日比谷図書文化館でのイベント風景より)。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の主題は、図書館を題材にしていることから想像されがちな「本」や「読書」ではない。あえてキーワードを挙げるとすれば、「コミュニティ」「文化」「デジタル」の三つが思い浮かぶ。公共図書館がこれらと深い関係を切り結ぶことで、アメリカ合衆国では――少なくともニューヨーク市では――民主主義をしっかりと支える土台になっている。そのことを痛感させられたので、私はこの映画をもっと見続けていたい気持ちになったのだった。

私がニューヨーク公共図書館に興味をもったきっかけは――おそらく多くの人と同様――、若い頃に読んだ吉田秋生の『BANANA FISH』でこの場所が描かれていたことだ。この図書館はイタリアン・マフィアの支配下から脱しようとする不良少年アッシュが独力で知性を育んだ場であり、彼がもっともやすらぎを感じられる場でもあった――そう受け取れるラストシーンがとても印象的で、いつかこの場所のことを詳しく知りたいと思っていた。

2003年に岩波新書の一冊として刊行された菅谷明子さんの『未来をつくる図書館 ニューヨークからの報告』は、この図書館の歴史と(当時の)最新の取り組みについて、基本的な知識と知見を与えてくれるすぐれた本だ。シブル(SIBL)の愛称で呼ばれる科学産業ビジネス図書館が積極的に市民の起業支援をしている話や、図書以外のさまざまな資料をアーティストが芸術活動のために積極的に活用している話はとりわけ印象的で、自分の中での先入観が取り払われ、公共図書館に対するイメージが一新された。

現在は四つの専門的な研究図書館(人文社会科学図書館、科学産業ビジネス図書館、舞台芸術図書館、黒人文化研究図書館)と88の地域分館からなるニューヨーク公共図書館は、インターネット上でのコレクションの公開に積極的であることでも知られている。デジタル・ネットワーク社会における図書館の役割という観点からも、彼らの活動はつねに目が離せない(「マガジン航」でもそうした取り組みについてはなんどか紹介してきた)。だからこの図書館を題材にフレデリック・ワイズマンがドキュメンタリー映画を撮ったと知ったとき以来、日本での公開をなにより心待ちにしていた。

83万点以上の資料が「デジタル・コレクション」としてウェブで公開されている。

人々の表情や声、身振りから浮かび上がる図書館の役割

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の予告編はYouTubeでも公開されている。冒頭の場面で、子供からの問い合わせに対してだろうか、「じつはユニコーンは想像上の動物なんですよ」と答える司書の対応はじつに丁寧だ(予告編の日本語版は編集が若干異なり、この場面が出てこないのが残念である)。「アンディ・ウォーホルは私たちからたくさんのものを盗んだ」と語る写真コレクションの担当者や、「図書館は人のことなんです」と語る新館を設計した建築家も予告編に登場する。これらの言葉は本編の文脈のなかに置かれると、さらに印象的なものとなる。

ワイズマンはこのドキュメンタリー映画で、ニューヨーク公共図書館の多岐にわたる活動をできうる限りディテールまで伝えようとしている。市民に向けて行われる公開レクチャーやコンサートなどの様子は、プロモーションビデオのような断片的なエピソードとしてではなく、その活動の実質が十分に把握できるよう、一つ一つがしっかりと長いカットで紹介される(これほどの超長尺になったのはそのためだ)。日本でもよく知られているリチャード・ドーキンスやエルヴィス・コステロ、パティ・スミスといった有名人が登場する場面も楽しいが、私にとってはまったく未知の作家やパフォーマーが聴衆に向けて訴えかける姿に強く心を打たれた。

日本ではいつの時代にも「図書館=無料貸本屋」という批判がなされるが、ニューヨーク公共図書館は市民が本や雑誌を「消費」する場所ではない。ハイレベルの研究図書館として学術研究に取り組む者や、意欲的な文化芸術の創造者にも大きな助けとなるが、前述の菅谷明子さんの本で詳しく紹介されているとおり、ここはニューヨーク市民に対する起業やビジネス支援の場でもある。市内各地の分館はそれぞれのコミュニティに深く関わっており、ライブラリアンは各地域が抱える現実的な課題の解決に献身している。

学術研究の支援、文化芸術創造の支援、ビジネス支援、地域コミュニティの課題解決の支援……このような多岐にわたる活動を支える人々の表情や声、身振りを『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という映画は、長い時間をかけてじっくりと映し出す。そうした明確な理念と目的意識のもとで、ニューヨーク公共図書館はインターネットや電子書籍といったデジタル技術の採用や普及にも積極的だ。冒頭で述べた「コミュニティ」「文化」「デジタル」という三つのキーワードは、この映画が教えてくれるニューヨーク公共図書館の活動を特徴づけるものだ。そこから思わず浮かび上がる言葉が、冒頭で挙げた「民主主義」なのである。

公民連携の理想的モデルとしての「パブリック・ライブラリー」

この映画の試写と並行して、4月9日には東京の日比谷図書文化館で、この映画にも登場するニューヨーク公共図書館の渉外担当役員キャリー・ウェルチさん、先述の菅谷明子さんを迎えたトーク&パネルディスカッションが行われた。

中央がウェルチさん、右が菅谷明子さん。

ところでニューヨーク公共図書館は「パブリック・ライブラリー(public library)」ではあるものの、日本の図書館法が定めるような「公立図書館」ではない。その運営は非営利組織(NPO)が担っており、活動資金はニューヨーク市や州からだけでなく、個人や企業からの様々な規模の民間寄付によってもまかなわれている。

19世紀半ばにニューヨークにあった二つの個人図書館、アスター図書館とレノックス図書館をその前身とするニューヨーク公共図書館は、日本でいう公立図書館よりはむしろ私立図書館に近い。だが日本の図書館法は第26条で「国及び地方公共団体は、私立図書館の事業に干渉を加え、又は図書館を設置する法人に対し、補助金を交付してはならない」としており、活動資金の多くをニューヨーク市から得ている彼らのあり方は、そこからも外れている。ニューヨーク公共図書館は「公立図書館」でもなければ「私立図書館」でもなく、まさに「公共図書館」と呼ぶしかない存在なのだ。

日本でも最近はくっきりとした「公(官)」と「私」の分離が見直され、「公民連携」や「官民パートナーシップ」(PPP、Public and Private Partnership)と呼ばれる取り組みが注目されるようになった。その先駆的なモデルとして、ニューヨーク公共図書館の活動に関心が集まるのは当然だろう。この日のパネルディスカッションでも、彼らの事業モデルが中心的な話題となった(年間3億7000万ドルにものぼる運営費のうち、ニューヨーク市からの支援は全体の約半分だという)。実際、ワイズマンの映画でも幹部たちの経営をめぐる会議風景がなんども挟まれる。地に足がついた活動と、それを支える両輪としての理念と財源。このいずれもに均等に光をあてていることが、『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という映画を魅力的なものにしている。

ニューヨーク公共図書館のウェブサイト。図書館への投資拡大を市に求めるよう促すメッセージが表示されている。

〈パブリック〉とは〈私たち〉のこと

ニューヨーク公共図書館は「公」と「私」の間に橋をかけているだけではない。高度な学術研究や芸術文化の創造を支援する研究図書館(リサーチ・ライブラリー)としての役割と、その地域に暮らすすべての人に開かれた公共の場としての役割との間にも、なだらかなつながりを築こうとしているように思える。日本においては国立国会図書館から都道府県立図書館、市町村立図書館の中央館とその分館まで、国公立図書館はわかりやすいピラミッド構造をなしている。だがニューヨーク公共図書館は、市立図書館の分館レベルの活動と、国の中央図書館に匹敵する高度な活動とが、相互に関わり合いをもちながら進められているのだ。

ウェルチさんの言葉で印象的だったのは、アメリカでは図書館とは「普通の人々のための宮殿(Palace)」である、という部分だ。彼女は第二部のパネルディスカッションでも「〈パブリック〉とはニューヨークで暮らす〈私たち〉のことだ」と語っていた。ワイズマン監督のドキュメンタリー映画から「民主主義」という言葉を私が連想したのは、ウェルチさんのこうした言葉をあらかじめ耳にしていたからかもしれない。

第二部のパネルディスカッションには田中久徳さん(国立国会図書館)、越塚美加さん(学習院女子大学)、野末俊比古さん(青山学院大学)も参加した(画面左側、中央から順に)。

日本でもこの十数年、図書館をめぐる話題がようやくさかんになってきた。広く「本と人が出会う場所」として書店までを含めるならば、図書館論や書店論はいま空前の賑わいをみせているといってもいい。しかし、その多くはいまだに「本」や「読書」に軸足を置いているように私には思えてならない。本(に象徴される知識や情報)を必要とし、そのことで自分の暮らしを変えていこうとする「人」の具体的な姿があまり見えてこないのだ。

ワイズマン監督の映画では、本そのもの(それはそれできわめて魅力的な被写体のはずだが)は中心的な役割を演じない。あくまでも主役は人、人、人である。図書館(や書店)がもし民主主義の土台になりうるとすれば、それは本の力だけでなく、その場に関わるすべての人の力によるものだ。そのことをあらためて教えてくれたこの映画を、私は一人でも多くの人に見てもらいたい。


『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

© 2017 EX LIBRIS Films LLC – All Rights Reserved

監督・録音・編集・製作:フレデリック・ワイズマン
原題:Ex Libris – The New York Public Library|2017|アメリカ|3時間25分|DCP|カラー
字幕:武田理子 字幕協力:日本図書館協会国際交流事業委員会
配給:ミモザフィルムズ/ムヴィオラ

*5月18日(土)より岩波ホールほかで全国順次ロードショー