30年後の読者に本をどう残すか

2019年2月25日
posted by 仲俣暁生

第11信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

昨年暮れにお返事をいただいたまま、ながらく返信できず失礼しました。往復書簡をそろそろ再開したいと思います。ここまで五往復、十回ほどメールのやり取りをしてきましたが、もうしばらくお付き合いください。心づもりとしては、平成の終わりまでは続けたいなと考えています。

* * *

先月の終わりに小説家の橋本治さんが亡くなりました。光栄にも追悼文を書くよう求められて四苦八苦したり、その勢いで橋本さんの旧作をいろいろと読み返したりしているうち、あっという間に時が過ぎてしまいました。

先日も、そのうち読もうと思いつつ積んだままだった橋本さんの『九十八歳になった私』という小説を読んでいました。とても面白く、かつ、この機会に読むと痛切な話です。

物語の舞台は西暦2046年。東京が大震災によって壊滅したため、北関東の仮設住宅でいまは避難民として暮らす「元小説家の橋本治」を主人公とする未来小説です。

残念なことに、この時代には本を読むことはまったく流行っていません。「橋本さん」からコメントを取ろうと仮設住宅を訪ねてくるメディア関係者らしい五十歳の男さえ、「三年前まで、本なんか読んだことがありませんでした」と言うほどです。

この話は難病を発症して以後、入退院を繰り返していた時期の橋本さんが「百歳に迫る超高齢者になった自分」をシミュレーションした一種の「ユーモア小説」でもあるのですが(なにしろ北関東の空には平然とプテラノドンが飛んでいます)、それにしても五十歳目前まで本を読んだことがない、しかも「坊や」みたいな業界男とは、ずいぶん意地悪な書き方をしたものです。30年後ではなく「現在」の話ではないかと、ゾクッとさせられるようなリアリティがあります。

ところで、ひとかどの作家が一生をかけて成し遂げた仕事は、これからの時代、どのように後世に伝わっていくのでしょうか。

この小説にはもう一人、橋本治のファンだという少女が出てきます。彼女は「先生の全集を出したい」らしいのですが、そのじつ「全集」の意味をわかっていません。自分の著書は三百冊以上あるけど大丈夫か、と「橋本さん」は彼女に訊ねますが(実際、橋本治の著書はそのくらいあるでしょう)、「三冊くらいだから、大丈夫です」と少女は言うばかり。彼女が考える「全集」とは、好きな三作だけを「十冊くらいコピー」するという程度のものなのです。そういえば少女は「三百冊っていうのは、いわゆる、紙の本なんですか?」と尋ねたりもします。

二人の会話は、いつまでたっても噛み合いません。「橋本さん」は「その内、俺は死ぬからさ、死んだら俺の著作権好き勝手にしていいよ。そう書いとくから」とさえ申し出ているのに、少女はそれも「いいです」と断る。彼女は自分の出したい三冊にしか関心がなく、それを「町に立って売ります」と言うばかりです。

さて、ここからは現実の話に戻ります。

いまから30年前、平成が始まったばかりの頃、どの町にも本屋は必ずあったように思います。1989年にはスマホなどもちろん存在していませんし、インターネットも庶民がアクセスできるものではありません。僕は当時、パソコンもコンピュータ通信も仕事でかなり使っていましたが、せいぜいメールや原稿のやりとり程度でした。若者から年寄りまでが、小さな携帯型コンピュータの画面を一日中眺めて暮らすような時代がやってくることなど、正直、想像もできませんでした。

いまから30年後の未来に本がどのように社会に位置づけられているのか、いまの僕にもやはり想像できません。こうであってほしい、という期待はありますが、それが叶うと信じることも難しい。さしあたり作家の「個人全集」というものは、とっくに消滅しているでしょう。そのかわりに、ある程度まで著名な作家や作品であれば、デジタルアーカイブとして保存され、電子的にデータをダウンロードできるかもしれません。

ただし、日本でも著作権の保護期間が作者の死後70年まで延長された結果、30年後に「著作権フリー(パブリック・ドメイン)」となるのは1979年に亡くなった作家(ネットで調べると荒正人、中島健蔵、瀧口修造、福永武彦、中野重治、植草甚一などの名が並びます)までです。

平成の時代に書かれた小説は、2040年代にはどのくらい本として生き残っているでしょうか。三百冊以上の著書があり、最後まで現役の書き手だった橋本治のような人でも、著書の大半はすでに絶版か、電子書籍だけが入手可能です。本屋で新刊として手に入るタイトルは、おそらく十数点でしょう。そのかわりネット上の古書市場では、驚くほど大量の個人蔵書が出品されている。

少なからぬ著作のある現役の小説家として、藤谷さんはこうしたことについてどのように考えますか。あるいは本の読者として、「ひとかどの作家が一生をかけて成し遂げた仕事を、どのように後世に伝えるか」という問題について、どのような意見をお持ちでしょうか。いつの日か「藤谷治全集」が出るとしたら、それはどのようなかたちが望ましいでしょうか。

かつてビデオテープで、あるいはレーザーディスクやDVD、ブルーレイとして発売されていた映画は、次第にネット上でストリーミングされるのが主流になりつつあります。下北沢の町でも、中古のCDやDVDを売買するお店は、流行っていない古本屋以上に湿気た雰囲気です。これはウンベルト・エーコが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のなかで言っていたように、再生機器がいらない紙の本のほうがCDやDVDより長生きする、という証拠でしょうか(そうあってほしいです)。

僕たちが85歳を迎える頃に「本」はどうなっているか、あるいはどうあってほしいか。藤谷さんの意見をぜひ聞かせてください。

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第1回 ブックオフという「図書館」の登場

2019年2月14日
posted by 谷頭 和希

二種類の「古本屋」から考える

突然だけれど、「古本屋」といわれたとき、あなたの頭にはどういった風景が思い浮かぶだろうか。

薄暗く狭い店内にぎっちりと本が重ねられ、店の奥ではこわそうな店主のおやじがぶすっとした顔で座っている――

あるいはこうだろうか?

蛍光灯で明るく照らされた店内にはぴっしりと本が並べられ、そこかしこにいる制服を着た店員がにっこりとした顔で呼び込みをしている――

多くの人にはこの二つの光景のどちらかが思い浮かんでいるのではないだろうか。まったく異なるこの二つの古本屋は、そっくりそのまま「ブックオフ以前」と「ブックオフ以後」の古本屋に対応している。日本を代表する古本屋チェーンである「ブックオフ」。「新古書店」ともよばれる矛盾した呼び名があるその古本屋は、それほどまでに日本の古本をめぐる風景を変え、そしてそれは古本の風景だけではなく、本そのものをめぐる風景をも変えたのだ。

どういうことか。

ブックオフのいきおいが増してくる過程においてはそのビジネスモデルを絶賛して称揚する論調と、一方でとても激しい拒否反応が示されるという正反対の動きが起こっていた。

例えば大塚桂一『ブックオフ革命』(データハウス、1994)はこのあたらしい販売モデル(これについてはあとではなそう)を「革命」と呼び称賛したのに対して、小田光雄の『ブックオフと出版業界 ブックオフ・ビジネスの実像』(論創社、2008)ではほとんど怒りにも近い筆致でブックオフが出版界に巻き起こした変化への批判がつづられている。

でも「90年代はブックオフの時代だった」と小田がこの本で認めているとおり、それを否定的に語るにしても、あるいは肯定的に語るにしても、ぼくたちと本を取り巻く風景に「ブックオフ」が欠かせないものになっているということは認めざるをえない事実である。

だからこそ、この文章でぼくはブックオフについて賛成とか反対とかいった意見表明をこえて、ブックオフについてかんがえてみたい。ブックオフ以降、それがどのような風景をぼくたちに見せてくれていて、そしてぼくたちと本をめぐる風景をどのように変えたのか、そしていかなる可能性をそのうちに秘めているのか。

新しいタイプの「図書館」としてのブックオフ

ブックオフは1990年に営業を開始し、それまでの古本屋の概念を大きく打ち破る経営体制を取りながら90年代から現在に至るまで爆発的にその店舗の数をふやしてきた。

ブックオフの新しさの一つは古本の値段設定とその価格を決める方法にあった。従来の古本屋は本に精通した店主がじっくりと一冊一冊を手に取り、中身を見て、その総合的な観点から値段が決められた。一方、ブックオフでは、古本の価格をつかさどるのは「見た目のきれいさ」と「本の新しさ」というわかりやすい基準のみ。いかにそれが古典の名著だったとしても、あるいは著者のサインが入っていようともあまり見た目が良くなければ、あるいはそれがふるい時代に印刷されたものであれば売値は最低価格の100円。買い取りのときの値段は10円程度にしかならない。「価格破壊」ともいわれたその値段設定は現在まで続き、「定価の半額以下」の値段でさまざまな本がブックオフの中にはひそんでいる。

ブックオフはすでに一種の「図書館」として機能している。

こうした極端ともいえる経営方針に対しては、もちろんのことながら「本の価値を軽視している」とか「新刊書店を苦しめている」といった辛辣な批判が寄せられた。前述した『ブックオフと出版業界』を執筆した小田光雄もきわめて手厳しくブックオフを批判しており、それはほとんど悪口のようでさえある。しかしここではあんまり感情的になりすぎず、その批判をいったんカッコに入れて、裏側から事態を見てみよう。つまり、考えようによっては、ブックオフのおかげでぼくたちは最低100円という値段で古典から比較的新しい本までをも読めるようになったのである。

いうなれば、ブックオフとは新しいタイプの「図書館」であるとは考えられないだろうか。

もちろん、ブックオフは商業施設であり、金銭を支払わなければそこで商品は買えない。すなわち図書館の無料原則の埒外にある。でも、その「利用」料金は限りなく低い。そしてこれは「業界」的に見れば全くうれしいことではなく、その観点からブックオフや図書館は否定形で語られてきたわけだ。

だがあくまでも私は一消費者としての目線から考えてみたいのだ。一消費者からすれば本が安いのはとてもうれしいことだ。それに安ければ多くの人がそこで本を買うことができる。そうした観点からみればブックオフとはだれもがその中に入ることを許され、そこでの立ち読みまでが許された(ブックオフの特徴の一つとして「立ち読み」を公然と許可したことがある)図書館のようであり、それを実現しているのではないか。

それだけではない。ブックオフが「安さ」を通じて、本と私たちをめぐる出会いを広げる可能性もあることを示唆しておこう。

例えば中高生や大学生など、日常的にいろいろな文章の断片に触れる機会の多い人たちがいる。そんな彼らがその断片から少し気になった名作やら古典を読んでみたいと思ったとき、ブックオフではきわめて高い確率でそれが最低100円で手に入る。幸いなことに、そうした作品は多く出回っているから安い可能性が高いのだ。

ここに本来は出会わなかったかもしれない人と本が「安さ」によって結びつくきっかけがある。こうしたプラスの観点からもブックオフを語ることができるのではないか。

こうしたブックオフの図書館的な側面を、ぼくは「ブックオフの公共圏」と呼んでみたい。公共圏とはプライベートな空間に対する公の空間圏域のことをしめす。ブックオフは図書館や昔の古本屋が作り上げてきた人が集まる場所としての役割をまたことなる現代的な方法で出現させているのではないか、そしてそれは、いままでの「公共」という概念ではとらえきれないような公共空間なのではないか、というのがぼくの推論である。

最初に思い浮かべてもらった古本屋のうち、「ブックオフ以前」、つまり昔ながらの古本屋について書かれた書籍では古本屋をめぐる人間関係や地域とのかかわり、そこで生み出される濃縮な人間模様が称揚されることが多い。試しにネット通販サイトのAmazon.comで「古本屋」と検索してみると、こんな本が出てきた。

  • 高橋輝次編『古本屋の来客簿 店主たちの人間観察』(燃焼社、1997年)
  • 中山信如『古本屋おやじ―観た、読んだ、書いた』(筑摩書房、2002年)
  • 樽見博『古本愛』(平凡社、2008年)

タイトルには「人間観察」や「おやじ」、「愛」といった人間味・人情味があふれる単語がならんでいて、ひとたび中を開いてみればこの手の単語がもっとたくさん出てくる……。

もちろんこうしたタイプの古書店を否定するつもりはないのだけれど、その言葉にはどことなくノスタルジックな雰囲気が漂っている。そこでは本の内容や質的価値を通じて人々が集まり、独特の公共空間が形成されていることが述べられる。でもブックオフではこの「内容や質的価値」という部分がそっくりそのまま「安さ」にスライドする。「安さ」にひかれてそこには人があつまってくる。そこで生み出される特殊な公共圏。それをブックオフの公共圏と呼んでみたいのだ。

ではブックオフの公共圏は図書館や古いタイプの古本屋にくらべていかなる特徴をもち、どのような公共圏を描き出しているのか。次回からはその輪郭を少しずつ探ってみることにしよう。

(つづく)

あらためて、「浮上せよ」と活字は言う

2019年2月4日
posted by 仲俣暁生

先月末に小説家の橋本治さんが亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りいたします。

小説だけでなく評論やエッセイ、古典の翻案・現代語訳など多彩な本を著した橋本さんには、出版論であり書物論といってもよい著作がある。1993年に雑誌「中央公論」に連載され、翌年に中央公論社から単行本として刊行された『浮上せよと活字は言う』である。

この本の主題は明瞭だ。出版産業がどうなろうと、人間にとって活字による表現や思考が不要になるはずがない。「既存の活字」が現実を捉えられずにいるのなら、その現実が見えている者こそ、その事態を言葉によって把握し思考せよということが書かれている。

1993年といえば、前年に昭和末期から続いたバブル経済が崩壊し、現在にいたる長期にわたる経済的な停滞が始まったばかりの時期である。自民党が一時的に下野し、野党による連立政権が成立した時期でもあった。

この頃の出版市場は、まだ上り坂にあった。出版市場統計としてよく参照される出版科学研究所のデータで市場規模がピークとなったのは1996年である。もしその時期が出版業界にとって「最良の時期」であったのだとしたら、橋本治はこの本でいらぬ心配をしていたことになる。だが、本当にそうだっただろうか。

「活字」そのものが怠惰だった

この本には、たとえばこんなことが書かれている。

「若者が活字離れを起こして本を読まない」などという一行の、何というもっともらしさよ。いかにももっともらしい説明が、しかしなんの説明にもなっていない。「若者が活字離れを起こした」と「若者が本を読まない」とは、まったく同じことだからだ。同じ言葉の繰り返しが、あたかも一方が他方の説明であるかのように響いて、そしてその先には何もない。権力となってしまった言葉とは、こんなものだ。何の意味も持たず、しかしそれは有効なものとして、存在を続ける。

十年以上も前にその時代の若者達が何故に“活字離れ”などという事態を惹き起こしたのか? その解明は、当面どうでもいい。問題は、「若者が本を読まないのは活字離れを起こしているからだ」などと平然と言って、それで何かの説明になっているかと思う“活字”の方にある。そのように形骸化してしまった活字が見捨てられぬままになっていたら、その方がよほどおかしいというものだ。

(改めて啓蒙を論ず)

若い世代が本を読まないこと、ようするに出版市場の冷え込みの原因を「活字離れ」などという同語反復でしかないクリシェに求める活字メディア側の怠慢について、橋本さんは怒りをこめてこう書いた。なぜだろうか。

この本はシェイクスピアの戯曲「テンペスト」を原作とするピーター・グリーナウェイの映画『プロスペローの本』を読みとくところから始まる。映像作品を存分に理解するためにも必要とされる古典に対する教養の必要を説いた後、この本は一転して、1970年代後半に出版の世界に起きたいくつかの出来事が、”活字”の世界にもたらした変化を詳細に論じていく。

具体的には、女性誌「JJ」(1975年創刊)や男性誌「POPEYE」(1976年創刊)の登場、この時代に角川書店の二代目社長となった角川春樹による「角川商法」、すなわち文庫本のエンターテインメント路線化とメディアミックス戦略がもった意味が論じられるのだ(ちなみに角川春樹氏はこの連載中に逮捕されていた)。

旧来の”活字”文化人にとっては「JJ」や「POPEYE」のようなビジュアル重視の雑誌も、国文学の専門出版社だった角川書店の文庫がエンターテインメント化していくことも理解不能の出来事だったが、当時の若者は「『まずそれから始めなければ』というレベルの人間」だったのだから仕方ない、と橋本治はこの本で書いている。

「人間がある時期に限って同じ本を一斉に読むこと」の異常さ

この本をリアルタイムで読んだ私たちの世代は、まさに「『まずそれから始めなければ』というレベル」の、つまり「活字離れ」を活字メディアに難じられた若者だった。そして、この「レベル」の読者にあわせて出版産業は肥大化し、1996年に市場規模は最大値を迎える。だが、いま振り返ってみて、「少年ジャンプ」の600万部が支えたとも言えるその実質はどれほどのものだったろうか。

皮肉なことに、この本が出た6年後の1999年に中央公論社は倒産し、旧来型の「活字メディア」の総本山ともいえる読売新聞グループに入り「中央公論新社」と名をあらためる。この本はいったん市場から消えた後、2002年に増補されて平凡社ライブラリーの一冊となったが、現在はこちらも品切れ状態である(だからこうして引用することによってしか、当時橋本治が表明した怒りを現在の読者に伝えることができない)。

ところで平凡社ライブラリー版の『[増補]浮上せよと活字は言う』には、「産業となった出版に未来を発見しても仕方ない」という小文が追加収録されている。この文章はじつは私が「季刊・本とコンピュータ」という雑誌で寄稿を依頼したものだ。こちらの増補版もいまでは手に入れにくいので、勘どころを引用する。

出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要となる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていたのは、この異常な条件が生きていたというだけで、つまりは、そんなものが成り立っていた二十世紀という時代が異常だった――というだけの話である。

したがって二十一世紀には、本は「永遠の名作」としてロングセラーとして細々と売るしかない。なぜなら二十一世紀にはもうベストセラーは存在しないからだ。そして橋本さんは、本の未来は「富山の薬売り」のように、「必要なものを必要なだけ補充し続ける」という方向性にあるとも書いていた。

ベストセラーに依存した出版ビジネスはもう死んでいる

その後、二十一世紀が約二十年ほど経過したが、現実はどうなっただろうか。

橋本さんが亡くなられた先週の終わりに、二十年前の橋本さんと同じようなことを主張するアメリカの出版人が来日して講演を行った。ニューヨークでORブックスという小さな出版社を経営している、ジョン・オークスという現役の編集者だ。

ORブックスの特徴は、在庫をもたないことだ。すべての本が電子書籍かオンデマンド印刷によって発行されるため、やっかいな返品もない。オンデマンド印刷による出版のことを「オンデマンド出版」ともいうが、ようするにこれは富山の薬売りモデル、つまり「必要なものを必要なだけ補充し続ける」というビジネスなのだ。

長年にわたりジョン・オークスを取材してジャーナリストの秦隆司さんが書き上げた本は、『ベストセラーはもういらない』と題されている。日本にくらべて出版界がまだしも活況を呈しているように見えるアメリカでも、本の返品は出版社の経営を圧迫しており、大量生産・大量消費を前提とした出版のビジネスモデルは「ほとんど死んでいる」(ただしモンティ・パイソンのギャグとからめている)という。

それではORブックスはどんな出版活動をしているのか。同社のカタログをみてみると、新しい書き手による著作に混じって、懐かしいタイトルが散見される。ジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』の百周年記念版アリエル・ドルフマンアルマン・マトゥラールの『ドナルド・ダックを読む』などだ。「マガジン航」で以前に秦隆司さんが紹介してくれた、アメリカの伝説的な文芸誌「エヴァグリーン・レビュー」の初期号も印刷版を販売している。

これらの古典的といっていい作品は、ORブックスがどのような価値観を奉じる出版社であるかをあらわすよい指標ではあるが、短期間に大量に売れる本ではない。こうした本をオンデマンドで売るのは、まさに「富山の薬売り」的な営みである(ORブックスのビジネスモデルの詳細については、オークス氏に長いインタビューを行ったので別途記事にする予定である)。

ところで、いま本があまり売れないという話は、もしそれが事実だとしても、出版を「産業」という生産供給側の視点からみたときの話だ。本は借りることもできるし、古本を買うこともできる。そして現実には、借りたり古本でしか読めない本のほうが多い。本は本来的に、いつどこで、誰が必要とするかわからない、という特徴をもつ。今日発売された本を切実に必要とする読者は、十年後、二十年後にようやく現れるかもしれない。

私は、橋本治の『浮上せよと活字は言う』という本を、出版産業が断末魔の悲鳴を上げているいまこそ、多くの人に読まれるべき本だと考える。しかしこの本を、当の出版業界がバックカタログから消してしまい、必要とする者に対して提供することができずにいる。せめて電子書籍としてでも、この本を「活かして」おいてほしかったが、今後も復刊のチャンスはいくらでもあるだろう。

この本に刻まれた”活字”はそのようにして、再浮上するのを待っている。

「返本ゼロ」が可能な出版のビジネスモデル――ジョン・オークス講演会

2019年1月22日
posted by 「マガジン航」編集部

ニューヨーク生まれの「返品ゼロ」の出版社ORブックスはどのように経営されているのか? 2018年12月にボイジャーから発売された、秦隆司著『ベストセラーはもういらない』に登場する同社の共同経営者ジョン・オークスが来日し、東京・日比谷図書文化館にて講演を行う(参加無料・要事前予約)。

ジョン・オークス氏とは

ジョン・オークス(John Oakes)氏は1961年ニューヨーク生まれ。ORブックスを創業以前にはグローブ・プレスという出版社で働き、伝説的な文芸編集者バーニー・ロセットと出会った(当時のエピソードも『ベストセラーはもういらない』でたっぷり語られている)。1987年にフォー・ウォールズ・エイト・ウィンドウズ(4W8W)という出版社を知人と立ち上げ、同社売却後、2009年にコリン・ロビンソンと共同でORブックス(OR Books)を創業した。電子書籍とオンデマンド印刷のみで「返本ゼロ」をめざす同社の出版活動は未来の出版事業のモデルとして注目されている(下は同社創業時のプロモーション映像)。

現在の出版システムは完全に死んでいる?

オークス氏は2013年にボイジャーから翻訳刊行された『マニフェスト 本の未来』にも「出版再考――痛みを感じ、傷みを抑える」を寄稿。一部のベストセラーに依存した現代の書籍出版はシステムとして完全に失敗しており、(人気コメディ番組「モンティ・パイソン」の台詞にならって)「出版は完全に死んでいる」とするショッキングな内容だった(2013年に開催されたDigital Book 2013に参加した際のオークス氏の映像取材が以下で公開されている)。

『ベストセラーはもういらない』(ボイジャー刊)

『ベストセラーはもういらない』の著者である秦隆司氏(「マガジン航」の寄稿者でもある)は1996年に『アメリカン・ブックジャム』というアメリカ文学専門の文芸雑誌を創刊。2012年には同誌のeBook版「eブックジャム」をボイジャー社から出版している。この日の講演には秦隆司氏のほか、ボイジャー代表取締役の鎌田純子氏も登壇。講演後にはレセプションパーティも予定されている。また参加者には特別小冊子としてジョン・オークス著「アイデアの錬金術 出版と文化」も配布される。

 

ジョン・オークス来日記念講演〜「生き残るための出版マネージメントとは?」

【日時】
2019年1月31日(木)14:00〜16:00(開場13:30)

【会場】
日比谷図書文化館 大ホール(東京都千代田区日比谷公園1-4

【登壇者】
ジョン・オークス(ORブックス)
秦隆司(『ベストセラーはもういらない』著者)
鎌田純子(ボイジャー代表取締役)

【参加方法】
参加費無料(先着200名)、
*以下のサイトを参照のうえお申込みください。
https://store.voyager.co.jp/special/you-dont-need-bestseller-anymore#info

省人化と小売――ふうせんかずら探訪と考察

2019年1月16日
posted by 湯浅 創

Paypayの100億円キャンペーンが10日で終わったという12月。「キャッシュレス」が経済産業省の施策として本格的に導入され始めている。オリンピック対応としてそれが正しいのか否かは歴史が判断するよりほかにないが、「イマココ」にいる存在としては、入り口でシャットアウトするのではなく、それをどのように「利活用する」かを考えておくことは重要である。

言うまでもなく、書店の粗利が低いことから、キャッシュレスにともなう決済手数料の負担は重荷である。第一のハードルは、「キャッシュレスにすることのメリットは何か」が提示できるかどうかであろう。

「フルキャッシュレス」書店としてのふうせんかずら

(写真提供:ふうせんかずら)

近鉄奈良駅から歩いて10分ほど。奈良町という観光スポットからは外れた、いわば鄙びた場所にある「ふうせんかずら」。その入居している古民家はリノベーション物件である。その在庫のセレクト性は他で紹介されているゆえにここでは述べないが、ポイントの一つは「事前登録制(会員制)キャッシュレス」という点である。楽天payを中心とするキャッシュレスな決済手段が提供されており、むしろ逆に現金は使用できない。これは店舗が無人店舗であり、入店を希望するのであれば、事前に登録しておくことで、入口ドアのロック解除の暗証番号が送られてくる仕組みだ。

(写真提供:ふうせんかずら)

特徴のある選書と棚(撮影は取材時、筆者による)。

小売のポイントの一つとして「接客」がある。相対することによってこそ、「イマココ」での触発があり、そこから売買が生まれる、という考えである。「ふうせんかずら」はそうではなく、商品が収められている「棚」と来店客が「会話」することによって売買が生まれるというスタイルということができよう。あるいはSNSを中心としたPRによって呼び込むことで、「目的買い」の場所として考えてもいいのかもしれない。

あらためて述べるまでもなく、書店の粗利は低く、なおかつ売れなくなってきている現在、家賃か人件費切り下げを余儀なくされている。同時に最低賃金の上昇から、新たな人手を確保することも難しく、首都圏・地方の区別なく、「通し」などと言われるような労働法的にはかなり「グレー」な働き方をしている書店員も多い。この人手不足の解消をそのような「サービス残業」「善意の搾取」の形で吸収しようとしているが、とある地方店は「人手不足閉店」を余儀なくされたという。

そこで注目されているのが、セルフレジ、キャッシュレス、そして無人店舗であるが、それぞれ経営者の皮算用ほどには簡単ではない。

1)セルフレジ
セルフレジの日本での導入は2008年頃から行われているので、すでに10年が経過している。それゆえに、スーパーなどにおいてはある程度定着してきていると言うこともできよう。だが、セルフレジの問題点の一つは店内動線上、「出口」に近いところに設置しない限り、「万引き」との区別がしにくいところにある。もちろん、他の防犯装置によってカバーすることも可能ではあるが、その分のコストが生じる。

決済は無人レジでキャッシュレス(写真提供:ふうせんかずら)

無人レジの決済画面(撮影は取材時、筆者による)。

書店の店舗設計は、クラシカルなものは出入口付近にキャッシャーが設置されているが、端末設置の影響その他から、そうとも限らない店舗も多い。また、「レジ袋」に入れることが中心の他の小売と違って、書皮(カバー)をかけることが多く(そしてそちらのほうがコストが安い)、それを望む購入者も多いために、その点からのホスピタリティーの低減が懸念される。

第二に、書店での購入点数は平均すれば2アイテムに満たないので、セルフレジによる処理の迅速化(=レジ待ち解消)にはそれほど貢献しない。

しかしながら、店舗立地によっては大きく貢献するところもある。たとえば、ターミナル駅に直結している店舗である。これは、列車に乗る寸前での購入がありうるので、そこを狙っての需要は考えられる。そしてこのことは、都会だけでなく、地方都市のように列車の本数が少ないところでも役に立つ。いわば「すぐ買いたい」という需要に応える余地の大きい店舗では検討しても良いだろう。

2)キャッシュレス
Paypayの「騒動」以来、ある程度の浸透が始まったといえるキャッシュレスであるが、その支払手段の多さがネックとなるだろう。すなわち、QR決済ひとつとっても5種類以上のものがあり、その他に交通系ICがあり、伝統的になクレジットカード、デビットカード、その他WAONやnanacoなどもある。それゆえ、レジスターが一括で対応できるものを導入できるところはよいが、そうでもないところは子機端末の嵐となり、結果、電源等においての圧迫が考えられる。

もちろん、Android端末などにおいて、ソフトウェアベースでかなりの種類のキャッシュレス手段を処理できるものも出てきている。ただ、その浸透にはもう少し時間がかかるだろう。

第二の問題としては、決済手数料の問題がある。大雑把に言って3.5%程度の手数料が発生するので、キャッシュレスによってまとめ買いが発生するということが説明できない限り、これもまたハードルが高い話となる。

第三の問題としては、「レジ締め」にかかるコストがキャッシュレスによって削減されるのであれば、導入メリットはあるかもしれない。しかし、ちょっとでも現金を扱う限りにおいて、レジ締め、両替のコスト(人件費、違算確認)は生じるのであるから、「現金お断り」というフルキャッシュレスにまで持っていかないと厳しいこととなる。

ただし、これもまた立地によっては推進すべきものとなろうし、「出版物購入」というビッグデータがマーケティング上必要であれば、そのデータの販売代金によって、導入コストは賄えるかもしれない。

また、出版社側からすれば、決済ベンダーが提供する「ポイント」にアプローチすることによって、報奨金を含めた販売施策の幅が広がる部分があるので、販売戦略としては可能性がある。

3)無人店舗
特に小売にとってのAmazonの存在は恐怖でさえあるので、AmazonGo開始時はややもすれば異常な熱狂を持って迎えられた。筆者は現地を訪問したことがないので、とおり一遍の情報でしかないが、この無人店舗(デリ)は、「キャッシャーがない」のであって、「無人」というわけではない(調理する人などはいる)。商品と決済という部分ではたしかに無人であり、このモデルがどこまで使えるのかが議論となっている。なお、いうまでもなく、中国ではすでにこの無人店舗は存在する(Amazonとは無関係)。

このモデルは、購入者の「コミュニティー」がある程度均質である必要があろう。AmazonGoも、最近、NEC内でセブンイレブンが始めた実験店舗も、「とあるオフィスに働いている従業員」が対象である。そのように顧客の多様性がある程度制限されている店舗であれば、規範の設定が比較的容易になるため、このモデルは通用するであろう。

第二に、このモデルは、レジ待ち解消がメインの目的にあるので、「お昼時」など購入集中がわかりやすい立地であれば、導入価値がある。このことと連動するが、第三に、このモデルの場合、「目的買い」が中心となる(お昼に食べる、といった目的)ので、「ぶらぶら買い」が多い総合書店にはやや向かないと考えられる。

逆に言えば、「目的買い」が多い書店であれば、このモデルは成立しうる。在庫整理の時間の制約がない故に、新刊の初速勝負の店には向かないが、所属者の質がある程度担保されている、大学内書店やオフィス・官庁内書店などでは検討すべきものであろう。

まとめ――購入行為は娯楽か労働か

上記のように、省人化を目的として、セルフレジ、キャッシュレス、また無人店舗の導入を検討することは、一長一短であることが見えてくる。もちろん、その「短所」に目を瞑ってでも導入しなければならないという事態もありうるし、それを否定するものではない。しかしながら、少なくとも「名目」としては、これらの手段を使用することで、「買い物がより便利になる」という感覚を購入者の側に与えない限りは、その導入はなかなかうまくいかないだろう。

下記のモデルをそのまま書店に当てはめることは難しいが、ディスカウントスーパーのトライアルが福岡のアイランドシティの実験店で行なっていることは、「買い物の未来」の一つの姿を見せてくれている。支払いはプリペイドカード(スマホアプリもある)で行う。郊外スーパーであるがゆえに、大量購入を想定し、ショッピングカートを用いている。そのカートに、バーコードリーダーとタブレットが付属しており、カゴに入れるたびにバーコードを読ませれば、金額が加算され、戻す場合はタブレットで取り消し操作をすれば良い。最終的にはゲートを通過し、個数確認をされて終わりである。支払いはプリペイドから引き落とされている。

おそらくは手数料の関係かビッグデータの捕捉の関係からであろう、プリペイドへの入金は現金のみであり、アプリ上でのカード支払いなどのキャッシュレス操作はできていないが、ここの部分は技術的に解消が容易であり、それほど重要な問題ではない。

ポイントは、「買い物する」という行為そのものが「労働」と捉えられているところである。これが「好きなモノを買う」という「娯楽としての買い物」、いわゆる「コト消費」と混在して語られるが故に、書店を小売として語るところに混乱が生じる。「書店で購入するのは娯楽なのか必要に迫られてなのか」。この問いを考えていく先に、書店の「未来」のひとつの形がおぼろげながら浮かんでくるのかもしれない。