シェイクスピアから定家までの日々

2020年12月25日
posted by 仲俣暁生

第25信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

年末恒例の本屋B&Bでの催しに今年もお誘いいただきありがとうございます。こちらも年内の大学の非常勤の仕事がようやく収まり、少しだけゆったりした時間を過ごしています。

差し迫った仕事に追われなくなると、春から秋にかけての長いご無沙汰へのお詫びとしては、先の手紙ではいささか不十分にも思えてきました。そこで、この長いブランクの間に僕が小説や文学について考えていたことを、やや長い追伸として書き添えたいと思います。案外それは先のメールでお尋ねいただいた「小説的官能」という問いへのお返事になるかもしれません。

約4年分の時評をまとめた本を上梓した後、連載はなおも続いているものの、ずいぶん重たい肩の荷を下ろした気分になりました。コロナ禍のため大学へ出向く必要もなく、これまでその往復に宛てられていた時間が余ったこともあり、この夏から秋は日々出版される本にジャーナリスティックに立ち向かうだけでなく、この機会でなければ読まないような本を読んでいました。

幸いにも、今年はそのきっかけを与えてくれる良書に数多く出会いました。たとえば岩波新書だけでも、7月に川端康雄の『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』が、9月には河合祥一郎訳によるスティーブン・グリーンブラットの『暴君――シェイクスピアの政治学』が、そして10月には村井康彦の『藤原定家 『明月記』の世界』が出て、それぞれの世界への優れた水先案内人になってくれました。実にタイミングよく出たそれらの本は一定の「ジャーナリスティック」な意味を背負って出版されたものですが、そこから先の読書には自分なりの動機がありました。

とりわけ中途半端にしか読んでこなかったシェイクスピアの世界へ導いてくれたグリーンブラットの『暴君』には、文字どおり瞠目させられました。『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』で示されたような書物史家として、これまでもグリーンブラットの仕事には注目してきましたが、シェイクスピア学者としての力量はこの本で遅蒔きながら知りました。そんな私にさえ、この本はシェイクスピアという広大な人類共有財産への扉を一気に開いてくれたのです。まさに「啓蒙」されたと言わねばなりません。

『暴君』の副題には「政治学」とあり、その内容もアメリカの知識人であるグリーンブラットが同時代の合衆国の政治状況――直截にいうならトランプ政権――に対する批判を、遠回しにではなく、それこそストレートに書き記したものです。「いんちきポピュリズム」という題の章などは、ほとんどジャーナリスティックといってよい同時代性があります。ともあれ、この本を手がかりに僕はシェイクスピアの作品、とくに史劇へと足を踏み入れたのです。

数あるシェイクスピア史劇の登場人物のなかでも、「暴君」という主題にいちばんふさわしいのは『リチャード3世』の主人公でしょう。タイトルロールを務めるこの作品以前にも、彼は『ヘンリー6世』にグロスター公リチャードとして登場しています。こちらで描かれる彼の父、ヨーク公リチャード・プランタジネットと、その傀儡として一時期イングランドで暴虐を尽くすジャック・ケイドという男の関係などは、トランプ政権というよりは日本の政治状況――たとえば「大阪都構想」をめぐる何年にもわたる混乱――を想起させるものがありました。グリーンブラットは「暴君」のもつ危険性と、それにもかかわらず人々を屈服させてしまう魅力を兼ね備えた人物としてリチャード3世を巧みに論じており、そこがなんとも印象的でした。

にわか知識を承知でいえば、シェイクスピア劇は大きく「悲劇」「喜劇」「史劇」に分けられるようですね。日本人に比較的なじみがあるのは、いわゆる「四大悲劇」や『ロミオとジュリエット』でしょう。実作にあたったことがなくとも、おおまかな筋といくつかの名セリフくらいは誰もが知っている。それに比べると史劇は――とりわけ英国史劇は――、日本の読者には身近ではないようです。ところが僕にはそんな英国史劇、即位の順番さえすぐには覚えきれない王様たちの話こそがいちばん面白かったのです。

あとになって、それはなぜだろうと考えました。どうやらそれは、「遅れてきたシェイクスピア読者」のたんなる天の邪鬼でもなさそうなのです。すぐに思い当たったのが、自分が子どもの頃から馴染んできた日本の軍記物との類似点です。『平家物語』『太平記』のような大作までいかずとも、『保元物語』『平家物語』あるいは『義経記』などの子ども向け版が小学校の図書室にあり、小さな頃から僕はその愛読者でした。この時代、つまり源平合戦の物語は、NHKで日曜夜に放映される大河ドラマでもなんどか主題となりましたが、当然、これにも夢中になりました(なので、数年前の『清盛』には歓喜雀躍しました)。

さらにはかるた、百人一首です。一時はかなり得意だったこの遊びへの愛着と相まって、平安末期から鎌倉初期の時代をめぐる物語は、僕のなかではかなり密度の濃い原体験となっているようです。一連のシェイクスピア史劇の背景となっているイギリス王家の血みどろの歴史、つまり百年戦争や薔薇戦争のことも、おそらくそれらとのアナロジーでスッと理解できたのです。

すぐれた入門書に導かれて読んだシェイクスピアとオーウェルの著作は、イギリス文学史における太い縦糸を――いずれも「政治」と深い関係をもちつつ――示してくれました。シェイクスピアと軍記物の類似性は、シェイクスピア劇における詩と日本の物語文学における和歌の役割という連想を介して(さらには好著『藤原定家 『明月記』の世界』や堀田善衛の読み直しのおかげで)、あらためて藤原定家や後鳥羽上皇といった「文学者」への関心を呼び覚ましてくれました。

その流れで必然的に、僕は丸谷才一という小説家/批評家の著作とあらためて向き合うことになったのです。

丸谷才一の話は、以前にお会いしたときに、藤谷さんとも交わしたことがあるように記憶しています。僕らの世代だと、まず現代イギリス文学の翻訳者として(僕の場合はシリトーの『長距離走者の孤独』)としてその名に出会い、次に1980年代に入ると、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』で説話論的物語に過ぎないと酷評された『裏声で歌へ君が代』という長編小説の作者として認識する、という順番だったのではないでしょうか。丸谷のそのほかの小説は読む機会はなかったものの、その後も『ユリシーズ』の全訳や、和田誠が装丁したたくみなエッセイの著作などを通して、なんとなく知ったつもりでいました。数年前に亡くなられたときは、未読だった小説をいくつか読んだ記憶もあります。

ここで話はようやく、藤谷さんがおっしゃった「小説的官能」の問題に戻ります。

丸谷才一が日本の近代文学、とりわけ自然主義文学に対する徹底的な批判者だったことは知られていますが、その際に彼は、今年亡くなった劇作家・山崎正和の著作を援用しつつ、日本の近代文学史を貫く「不機嫌さ」を指摘しています。そして僕は藤谷さんが先の時評集から感じとったであろうものが、まさにこの「不機嫌さ」だったのではないかと思い至ったのです。

批評家としての丸谷はその他にもいろいろ大胆なことを書いているのですが、いちばん驚かされたのは『日本文学早わかり』でした。この本で丸谷は、勅撰集に着目して日本文学史をおおきく五つの時期に区切っています。すなわち①第一期 八代集以前の時代(9世紀半ばまで)、②第二期 八代集の時代(古今集から新古今集まで、9世紀半ばから承久の乱まで)の時代、③第三期 十三代集の時代(新勅撰和歌集から新続古今和歌集まで、承久の乱から応仁の乱まで)、④第四期 七部集の時代(俳諧から新体詩まで、応仁の乱から日露戦争まで)、⑤第五期 七部集時代以後(個人詩集の時代、日露戦争以後)という区分です。従来の「古代/中世/近世/近代」といった区分とはまったく異なる視点にもとづいたこの提案に、僕は深く納得させられました。

丸谷の論で驚かされるのは――そして不思議な説得力があるのは――、千数百年にわたる長大な文学史をたった3人の批評家、すなわち紀貫之、藤原定家、正岡子規に代表させていることです。上で区分した各時代の指導的な批評家として、丸谷は②は紀貫之を、③④では藤原定家を、⑤では正岡子規を挙げ、これで十分だと言うのです。定家に至っては13世紀初頭から19世紀まで、約700年間にわたって「指導的批評家」であり続けたというのですから、大胆にもほどがあります。

この考え方に立てば⑤つまり近代文学以後の時代における、小林秀雄から柄谷行人までの「日本批評史」は正岡子規の時代の脚注に過ぎません。この発想は、僕をたいへんに気楽にさせてくれました。

さきの時評集で三浦雅士について書いた回でも、三浦が丸谷や大岡信との「社交」によってたどり着いた独自の文学観に言及しましたが、その裏打ちとして、これほど骨太な――そして大胆な――丸谷才一の文学観があったことを、僕はまるで交通事故のような偶然により、今年になってようやく知ったのでした。

丸谷才一は日本の近代文学にモダニズム文学が定着しなかったこと、すなわち主知主義的な文学観が根付かなかったことをしばしば指摘しています。そして日本の自然主義文学者が参照したのが19世紀ヨーロッパの小説(だけ)であったのは大きな過ちだったこと、それゆえに日本の文学は「不機嫌」になり(それは文芸批評も同様でしょう)、文学の愉しみ、豊かさ、藤谷さんのいう官能性を喪失したというのです。

しかし丸谷才一は同時に、繰り返し国家や政治を主題としてきた小説家でもありました。『裏声で歌へ君が代』は分かりやすい例ですが、初期の長編『笹まくら』は徴兵忌避者が主人公ですし、筆禍事件を起こした女性新聞記者が主人公の『女ざかり』や、源氏物語を巧みに脱構築した『輝く日の宮』といった長編も、ある意味では国家論です。丸谷は源氏物語や仮名手本忠臣蔵にさえ当時の体制批判の機制を読み取る批評家ですから、彼の実作にもそうした仕掛けが込められていないはずがありません。「小説的官能」を志向する立場と国家や政治を論じることは決して背馳しないのです。

僕自身の先の本に関して言えば、リハビリテーション途上にあった者の書きぶりが「不機嫌」であったのは大目に見てていただくとして、現在の停滞の先にあると信じる文学(それは小説に限りません)の姿のなかには朗らかさと美しさ、そして生きる喜びが備わっていてほしいと願う点で、藤谷さんと考えは同じです。そんな藤谷さんが、いまの時点ですでに(意識的なジャンルとしての)喜劇や悲劇のすぐれた書き手であることは承知の上で、それらを包み込むひとまわりおおきな小説を、いつか書いてくれることを読者は待ち続けている、といったら過大な望みでしょうか。

いつの間にか話が大きく逸れました。年末の集まりでは、久しぶりにこんな話もできたらと楽しみにしております。

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【イベントのお知らせ】
フィクショネス文学の教室 in B&B〜2020年末番外編〜

・2020年12月27日(日)
・時間:19:00~21:00 (18:30開場)
・場所:オンライン
・配信参加:1500円(税別)

出演者:藤谷治、瀧井朝世、田中和生、仲俣暁生

*イベントの詳細はこちらのリンク先をご覧ください。
http://bookandbeer.com/event/20201227/

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。