いま「小説」は誰のためにあるのか

2019年7月25日
posted by 仲俣暁生

第15信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

いまの元号が発表される前夜にいただいた最後のメールへの返信が、なかなかできずにいました。この間にも出版界ではさまざまな事件が起きました。いや、むしろそれは「ネット上で起きた」というべきでしょうか。

ある小説家の文庫化が決まっていた作品が、同じ版元の他の出版物に対してその小説家がネット上で度重なる批判を行ったために、「営業部が協力できないと言っている」という理由で刊行がとりやめになりました。

その経緯をめぐるネット上のやりとりのなかで、出版社の社長がその小説家の本の発行部数と実売部数をツイッターで公開したことも、大きな批判を呼びました。結局、その社長はツイートを削除し、当該発言については謝罪しました。この作品は別の版元から文庫化されることになっており、その担当編集者が「この本が売れなかったら私は編集者をやめます」と啖呵を切ったことも話題になりました。「やめました」という話が出てこないということは、幸い、新しい版元から出た文庫本は売れたのでしょう。

この経緯全体が、いかにも「ネット的な出来事」だったことはいうまでもありません。僕は出版業界の内部事情をそれなりに知っており、これら一連の出来事の登場人物のうち幾人かは個人的にも知っています。ですので、この出来事そのものに対して論評はしませんが、本の話題の「主戦場」がいまやネット上、とりわけSNSになっていることは藤谷さんもお感じになっているのではないでしょうか。

さて、自社の本(しかも主力商品)を執拗に批判する小説家の本の販売には協力したくない、という営業部の本音がみえたときは、なんだか人間くさくて面白いなと思いましたが、たいして売れない本を売るのも、売れる本しか売らないのも本来、出版社の自由です。「その本を出す」という決断をすることだけが版元の役割で、しかもたいていの本は売れませんから、そのたびに担当した編集者が辞めていたら会社が成り立たなくなります。

とにかく、この事件はすべてが「売れる」「売れない」の話でしかなく、少なくともそこに「小説」あるいは「文学」は不在でした。

こんな悲喜劇(?)からしばらくして起きたのが、京都のアニメーション制作会社に対する攻撃でした。まだ事件の全容が明らかになっておらず、現場で身柄を確保された容疑者も重体で、取り調べを受けられる状態ではない段階ですから、語れることには限りがありますが、それでもこの往復書簡でぜひ触れなければならない話題だと思いました。

この事件ではすでに34名もの方が亡くなられたと報じられています。重傷者を含めて怪我をなさった方も34名とのことで、68名もの方が自分の仕事場で、いきなり理不尽な攻撃にさらされたのです。映画であれ音楽であれ、あるいは文学や他の創作物であれ、創作物を制作する現場に対して、このような凄惨な攻撃が行われた例を私は過去に思い出すことができません。

出版関係者が襲われた事件ならば、1961年の風流夢譚事件が有名です。深沢七郎が雑誌「中央公論」に書いた『風流夢譚』という小説の内容に憤激した未成年の少年が、この雑誌を発行していた中央公論社の嶋中社長宅を襲撃し、家政婦の女性が亡くなられた事件です。

ただし、このときに狙われたのは出版社の総責任者である社長宅であり(だから許せるというわけではありませんが)、創作の現場である作家の仕事場でもなければ、雑誌の編集部でもありませんでした。創作現場への攻撃、しかも大量の死傷者を出すことを意図したような攻撃は、世界史的にも類例がないのではないでしょうか。

もちろん、現段階で動機を詮索するのは時期尚早でしょう。ただ、事件直後に容疑者が語ったとされる言葉のなかに「小説」という語が含まれていたことがあるニュースで報じられており、そのことが気になっています。容疑者本人に確認がとれない以上、これ自体が誤報の可能性もあるのですが、もし事実とすれば、この事件を起こした人物は少なくとも小説を読んだことがあり、あるいは自分でも書こうとしたことがあるのでしょう。

ここから先は、事件そのものから離れます(そうするべきでしょう)。この話を藤谷さんにしたいと思ったのは、その後、藤谷さんの『小説は君のためにある』を再読したからです。

子ども向けの新書シリーズとして書かれたこの本をあらためて読み、これが夏目漱石の「文学論」をふまえたものだと気づきました。漱石はこの論文のもとになった講義で「文学とはなんぞや」ということを考え抜き、有名な「F+f」という式にたどり着きます。大文字のFは「焦点的印象または観念」を、小文字のfは「これに附着する情緒」を意味します。まるでアインシュタインの特殊相対性理論における「E=mc2」を思わせるシンプルな方程式ですが、漱石はこのように「文学的内容の形式」をモデル化できると信じたのです。

藤谷さんの本では、Fは「文意」、fは「味」と表現されています。子ども向けの本だから表現をわかりやすくしたということもあるでしょうし、漱石と藤谷さんの考えがまるっきり同じというわけでもないでしょう。けれども、少なくとも下敷きに漱石の「文学論」があるのはたしかですよね。

ここでの問題は後半の「味」(情緒)です。これは小説が「読まれる」ことによって発動するということを藤谷さんは書かれています。どんなに怖い怪談やホラー小説も、読まなければ怖くもなんともありません。世界的な名作であれ、思わず読み進めてしまうエンターテインメント小説であれ、読まれないうちには「小説」として立ち上がらない。演奏されない(あるいは「読まれない」)楽譜から、音が聞こえてこないのと同じです。

ここでやっと、藤谷さんの本が『小説は君のためにある』と題されている理由がわかってきます。あらゆる小説は(そしておそらく、すべての創作物は)、読者(オーディエンス)によって受容されることで初めて「存在」するようになる。紙の本だろうが、電子書籍だろうが、CDやDVDだろうが、ストリーミング配信の映像や音声だろうが、受け手と出会わないことには、創作物は作品として本当の意味で存在していない。森のなかで大木が倒れても、それを聞く人がいない限りは、音はしないという話と似ています。

いま「小説」は誰のためにあるのかといえば、それを書く小説家や売る出版社や、それに職を賭ける編集者のためにあるのではない。「その作品といつか出会うかもしれない未知の読者」のためにある、と藤谷さんは仰っているのだと思います。その過程で発生する経済的なあれこれを維持するためには作者や編集者の存在が必要ですが、その結果として本ができても、そしてベストセラーになったとしても、まだ「君」に読まれていないうちは「君にとっての小説」は存在していない。そうした無数の「君」との出会いを信じて、創作者は日々、働いているわけです。

成功した作家や作品に対する憎悪や嫉妬、その他の人間的な感情を抱いた人は、これまでにも無数にいたはずです。にもかかわらず人類の長い歴史のなかで、政治権力による弾圧を除けば、創作現場へのあからさまな攻撃が読者によって行われたことはほとんどなかった。なぜならば、「作品」の本体がそこにあるわけではないということを、一度でも「読者」であったことがある者には理解できるはずだからです(藤谷さんもお書きになっているとおり、「作者」はもちろん「読者」の一部です)。

いま「小説」というものがやせ細っていること、あるいは社会における「小説」の位置づけが曖昧になっていることと、今回の事件とはどうしても無縁に思えません。端的にいえば、多くの人が「自分のためにある小説」を発見できなくなっている。これほどたくさんの「小説」が書かれているにもかかわらず、です。

文芸評論という仕事は、万人のために小説をわかりやすく解説する仕事ではなく、「自分はこのようにして、自分のための小説を発見した」ということを述べる仕事だと、僕は理解しています。そのような「恵み」を得ることができた一人として、やはりこの数ヶ月間の出来事は、あまりにも暗澹たる思いを抱かざるを得ないことばかりでした。

どんなかたちでも結構です。藤谷さんの考えをお聞かせください。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。