小説的官能について

2020年10月6日
posted by 藤谷 治

第23信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんの『失われた「文学」を求めて 文芸時評編』(つかだま書房)を拝読しました。それを機にこの往復書簡を、こちらから無理やり再開させて頂きます。

この一冊から得られるものは、恐らく著者が意図している以上に大きいのです。読者はそれぞれ、自分の関心や問題意識に対する刺激を得るでしょう。それは文学への関心に限りません。むしろ、社会の動向や現代の進み行きを見つめながら、文学のことはさして重要とも思っていない人たち、つまり世の大半の人たちにとって、これは目を見開かされる評論であると思います。

僕も大いに刺激を受けました。このひと月ほど、小学館のサイトに連載中の小説(『ニコデモ』)を書きあぐねて苦しんでいたのですが、この本を読みながら、いつの間にか体内が活性化されて、今はとにかく書いていこうという、蛮勇を得ました。小さなことではありません。

これを書いている今は、2020年の10月2日の午後10時です。これは恐らく、後世にとってはやや興味ある日付になることでしょう。就任して何週間かしか経っていない菅総理大臣が、昨日(ではないのかもしれません)、日本学術会議の提出した新規会員候補のうち、かねて政府に批判的な論考を発表している学者六名の任命を拒否しました。これは僕の空想ですが、新首相は、この任命拒否がマスコミに取り上げられるような大きな問題にはなるまい、せいぜい学者たちが象牙の塔の中で騒ぐ程度だろうと、タカをくくっていたのではないでしょうか。それがNHKでも民放のテレビでも大きく取り上げられたのは、彼らの愚かな計算違いであったように思えます。任命を拒否された学者はもちろん、各方面から批判が出ています。学術会議からも拒否の理由と改めての任命を求める要望書が出されるようです。

しかし、今の時点ではこの問題がどのように決着するかは判りません。

と同時に、今日の午後、まだ日の高いうち(日本時間では、ですが)に、トランプ大統領が新型コロナウイルスに罹患したというニュースが飛び込んできました。側近の女性スタッフが罹患し、検査を受けたところ、大統領とその夫人が陽性だったとのことです。症状は軽く、執務も行えるとホワイトハウスはコメントしていますが、鵜呑みにしていいものかどうか。ついこのあいだ日本の首相官邸は、安倍晋三氏の健康に問題はないとコメントしていたのです。全世界が知るように、それから間をおかず安倍氏は内閣総理大臣を「病状悪化のために」辞職しました。

観光業を助けるための「GO TO トラベル」なる制度が東京を対象に含み、昨日の東京証券取引所はシステム障害のために丸一日すべての取引を停止し、このひと月に人気も実力もある俳優が三人も原因の明らかでないまま自殺を遂げました。とりわけ僕は、6月から毎月あるという、三浦半島を広範囲に襲っている「ゴムの焼けるような」異臭が気にかかっています。

これらすべてが、今夜の時点では未解決です。今年の春先から全世界を覆い、なおえんえんと続いている「コロナ禍」の諸相が一切未解決であることに至っては、もう人々は未解決であることに飽いてしまっているようです。

時事的な、ジャーナリスティックな問題(というか、話題)を考えることは苦手な僕でも、さすがに認めるほかはありません。今年2020年は、1968年や2001年にも匹敵する、歴史的な結節点になる年と見なされるに違いないと。もうすでにそのように扱われ、研究の対象になっているのかもしれません。

トランプの大統領就任、村上春樹の『騎士団長殺し』、又吉直樹の芥川賞受賞、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞、横綱力士暴行事件、群像新人賞受賞作の文章類似問題、オウム真理教事件の死刑執行、雑誌「新潮45」廃刊、ハン・ガンの『菜食主義者』ブッカー賞受賞、そして平成の終わりと、「あいちトリエンナーレ」の展示中止。

『失われた「文学」を求めて』を読みながら、そこで多少なりとも扱われている、その時々のトピックスを、ほとんど懐かしい思いで振り返りました。忘れかけていた話題も少なくありませんでした。2010年代後半の主だった時事問題を、ただ記録しておくだけでも、それは意味のあることだったのだと思います。

しかしあの時評には、もちろんそれらがただ記録してあるのではありません。それらの問題と、同時期に発表された文学作品を、小説だけでなく、評論、翻訳、マンガ、評伝、雑誌など、多方面にわたって取り上げて論じているのは、不勉強な僕にとって参考になるだけでなく、自分も生きたはずのあの数年間を思い出すよすがともなりました。

そしてまた、同時代にとっての文学の役割、というようなことも考えました。

「日本の文芸シーンは現在、まごうことなく沈滞している」と、この本の最初の時評にあります。「だがその沈滞は、小説家が書くべきことを失ったからではない。書くべきことがありながら、そこから目を背けているか、書きうる技能あるいは勇気が欠如しているからだ」。これは帯文にもなっている一節です。

この本の各文章には末尾に執筆時期が記されており、この一節のある文章には「記2016年10月」とあります。今からわずか4年前であり、この本を読み通しても、その後に日本文学の沈滞期は終わった、というようなことは書かれていませんから、沈滞する「現在」は今も続いている、ということになるのでしょう。

小説家というのは、少なくとも僕の信じるところでは、めいめい勝手なことをやっている職業ですから、「文芸シーン」という全体像を俯瞰することはできないし、それが沈滞しているかどうか、僕には判断もできません。さして大きな関心もない、とも言えます。シーンが沈滞していても、僕自身さえ沈滞していなければ、何も問題はないからです。

しかし自分の書いてきた小説、今書いている小説を思うと、「書くべきことがありながら、そこから目を背けているか、書きうる技能あるいは勇気が欠如している」小説家として、僕はその筆頭に挙げられなければならないでしょう。僕は現代が抱えている膿や病巣を描かず、歴史にも世界情勢にも縁のない小説ばかり書いています。弱者の声に耳を傾けず、権力者の横暴にもポピュリズムにも抗議しません。追い詰められた人たちの存在を知らないのでも、怒りを覚えないのでもなく、まさに「そこから目を背け」「書きうる技能も勇気も欠いている」のです。

もちろんだから僕は文学者失格だ、自分の書くものは紙の無駄だ、などとは微塵も思いません。むしろ窮鼠猫を噛む、かえってこんな風に思います。書くべきことから目を背けず、勇気と技能でもって現代と向かい合っている文学というのは、小説の面白さのある側面を達成している文学、ということではないのかと。小説というのは、もっと多様な面白さを提供できるものではないのかと。

『失われた「文学」を求めて』の中でとりわけ印象的だった部分に、星野智幸氏について語ったという、大江健三郎氏の言葉と、それに続けて仲俣さんが書いた文章があります。大江氏の、「本来、文学史には小説的思考力と小説的想像力のせめぎあいがあって、今、小説的思考力は少し衰弱しているんじゃないかと私は思う」という言葉に続いて、仲俣さんはこう書いています。

「いま文学に必要とされているのは、想像力の土台となる思考力であり、それを正確に展開するための知性のはずである。」(204ページ)
「残念なことに、知性と思考力に裏打ちされた真の想像力を、現在の日本文学(とくに純文学)の領域で探すことはきわめて困難になってしまった。知性の土台となるのは冷静な現実認識のはずで、煎じ詰めればそれは自らが身を置く世界に対する認識ということになる。しかし冷戦終了後、日本の知識層(当然ここには文学者が含まれる)の多くが冷戦期の思想的枠組みのうちに閉じこもり、急激に変貌していく世界の姿を正確に描き損ねてきた。」(205ページ)

自分の小説の読者として、僕は自分の小説に、仲俣さんの考える「文学に必要とされているもの」が決定的に欠けていると、認めるほかありません。想像力は多少あるようですが、知性と思考力は決定的に不充分です。そのために出来上がったものが、現実認識として不徹底なものになってしまっているのは、小説を書き上げるたびに感じます。

しかしそのうえで、つまり自分の小説を棚に上げたうえで思います。小説には、小説的思考力と小説的想像力だけでは足りない。そこには少なくとももうひとつ、「小説的官能」とでも呼ぶべき要素がなければいけないのです。

それはもちろん、セックスや「お色気」の話なんかじゃありません。性的な要素も含むでしょうが、もっと大きな概念、官能という言葉の本来的な広がりに即した概念です。すなわち目で見、鼻で嗅ぎ、口で味わい、耳で聴き、手で触れ、足で踏む、ということ、そしてそこから敷衍することで立ち現れる、経験の一回性のことであり、個々の人間の結びつきのことです。母の手料理や猿の毛並み、恋人の冗談や風呂の湯加減のことです。

実を言うと、僕の小説にはこの小説的官能すら欠けているので、あまりエラそうなことは言えないのです。2011年の震災――まさに頭ではなく、まず足が、足と耳が感じたあの鳴動にうろたえて以来、ずっと僕はこの小説的官能をどうやって書いていくか、それこそ「技能と勇気」を傾注させているのですが、まだ実現できていません。

思考力より想像力より、小説にとって最重要なのは官能だ、などとは思いません(そんな主張は「考えるな、感じろ」というのと同じくらい、無反省な精神論でしょう)。けれども文学を、思考力と想像力ばかり重要視して判断するのは、二本足の椅子の座り心地を判断するような結果になりはしないでしょうか。

僕はこの本の著者が、小説的官能に鈍感だとはまったく思いません。この中で複数回取り上げられている小説家、すなわち星野智幸や古川日出男といった書き手が、どれほど小説的官能に満ちた小説世界を創り上げられるものか、僕もよく知っています。とりわけ僕は、多和田葉子の小説に満ち満ちる小説的官能には、畏怖を覚えています。こんな凄まじい小説を書ける人間が同時代にいるのではたまったものではないと、ある時期から積極的に読むのをやめたほどです。読者を委縮させる才能というのは、それが圧倒的であるからにはやむをえない側面かもしれませんが、こっちは面白くありません。『失われた「文学」を求めて』で取り上げられた2冊は、読むつもりです。

著者はだから、小説的官能は受け止めているはずです。しかしその受け止めた官能に対して、充分に自覚的ではないように思います。もっといえば、官能に軸足を置いて文学を評価することを、仲俣さんは照れ臭く思っているように感じます。

しかし無意識あるいは無自覚であろうと、仲俣さんが小説的官能をよく知っていて、それを評価軸にさえしていることは、この本の中からも読み取ることができます。

とりわけ注目すべきなのは、仲俣さんがここで提唱している「ド文学」という現代文学の一傾向です。

ド文学とは何か。それは「『文学とはこのようなものであろう』という一般読者の期待によく応える」ものであり、「そのような受容のされ方によって文学として認知されてしまうような作品、およびそれを可能とする状況のこと」(62~63ページ)とあります。

このような作品、そして状況に着目し、指摘し、批判したのは、この一冊の大きな価値だと思います。読者が「文学とはこのようなものであろう」と、な~んとなく思ってしまうのは、読者が文学を「所与のもの」、つまり自分(たち)が読む前から、あらかじめ存在しているものと決めてかかっているからです。

読者はそれでもいいのです。「このようなものであろう」という安心感は、文学に市場価値を与えるものでもあります。

しかし創作者はその安心感にあぐらをかいてはいけない。というか、自分が創作する以前から存在するような所与の範囲内で何を作っても、それを創作とは言わないのです。星野、古川、多和田といった創作者は、それをよく知っているし、古谷田奈月氏や佐藤正午氏も恐らく理解しているでしょう。

そしてこの「ド文学状況」は、官能も遠ざけてしまうのです。官能が思考力や想像力に拮抗するほど重要であるのは、それが人間の振る舞いを反復から引き剥がすからです。私の耳が懐かしむ海の響きは、ヴァレリーの耳が懐かしむ海の響きでは決してなく、私が触れた女の髪は、川端が触れた女の髪ではありえない。そうでないなら、どうであるのか。それを無明から探り出すのが文学であり創作であり、小説的官能というものなのです。

もっとあれこれ書きたいのですが、夜が明けてきてしまいました。ひどく尻切れトンボで勝手なことばかり書いてしまいましたが、体力が続きません。だいいちもう長すぎます。いきなりですがこれでやめます。「あとがき」に予告されている「作家論編」の上梓を心待ちにしています。それでは。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第20信第21信第22信|第24信につづく)

絶望を編集する

2020年5月19日
posted by 堀 直人

なぜ、わたしは、本をつくるのだろうか。おそらくその理由は、絶望しているからなのだろう。わたしが望むものは、生きているうちには、たぶん手に入らない。デザイナーだったわたしは、本をつくった。編集者になったわたしは、政治にまみれた。その歩みのなかで、絶望しながら、一筋の希望として、未来のこどもたちにセーブデータとして本を残したい。持続可能な社会を求めている。それは、いつかだれかが「理想」にたどり着いてほしいからなのだろう。

絶望を希望に変えていく物語

遡ること、10年前。2010年、それは、この国が変わろうとした時代だった。しばらくして、わたしたちは、正しく変わることは難しいことに気づく。挑戦して失敗するくらいなら、このままでよい。こうして、時が止まったまま、いまに至る。変わろうという問いかけは、もう響かない。しかし、事態は10年前より深刻だ。

さらに遡れば、およそ20年前の地方分権一括法の成立。わたしたちのまちは、わたしたちでつくる。そう、魂を燃やした人たちがいた。その10年ほど前には、バブル崩壊。判断を先送りすることにしがみつき、幻想にまどろめば、ますます状況は悪化するばかり。しかし、幻想が長引くほど、存在意義が揺るぎかねない過去を、心得者は誰も否定できなくなっている。そして、わたしたちの思考は静止した。

わたしも、変わらなければならない。そのように、考えていた。いや、もちろんいまも変わらなければならないと思っているが、パラダイムシフトの過程で、大きな苦しみが生まれることを知ってしまったのだ。その恐怖を目の前にして、足がすくんで、尻もちをついた。しかし、あきらめるわけにはいかない。少しでも先に、ちょっとでも前に進んで、次の世代へ襷を。淡々と凡庸にやっていく覚悟を決めるやいなや、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)がその苦しみをもたらした。

失われた10年で自信を失い、失われた20年で希望を失い、失われた30年、わたしたちは何を失うのか。それはまだ、だれにもわからない。だけど、わたしは、失われた30年で幻想を失いたい。

わたしが絶望しているのは、COVID-19に対してではない。わたしの絶望は、やればできるんだという自信が、明日はもっとよくなるという希望が、この国にはないことに対してだ。この国にあるのは、自分たちだけは間違ってない、自分たちだけはなんとかなるという根拠のない幻想だから。もう、見てみないふりをするのは、やめませんか。

いま、止まっていた時間が、動きはじめている。経済、政治、学問、この国の幻想が、バレはじめている。気づいてしまった人たちが、オンラインを武器に集結しはじめている。なぜなら、いま変われるか変われないかで、わたしたちが生き残れるか否かが決まるからだ。

そして、そのあとに、少し成長したわたしたちが待っている。見えにくくなっていたものに、意味を見いだそう。ポストコロナの一皮むけた社会を、いまこそ、多くの人とともに構想することはできないだろうか。

あたらしい「冒険の書」をつくる

答えのない複雑な時代に、わたしたちは何をすればよいのだろうか。いまこの瞬間も、災禍の最前線で働く人たちがいる。一方、素早くフローしていく経済が止まった。COVID-19が、強制的にあらゆる「量」を減らした。都市に集まって効率よく暮らしていた人たちの多くが、家のなかで先の見えない日々を過ごしている。

そのころ地方は、終焉を迎えた。中央と地方には、「イベント」という大きな情報格差があったが、「オンライン化」によって、情報とつながりを交換する場にそびえ立つ地域の壁が崩壊した。情報という視座から言えば、「中央/地方」の構図は急速に融け出しているのだ。なかなか進まない、ややもすると課題設定を誤った地方創生。地方が創生するまえに、地方という概念自体が消失しようとしている。その結果、グローバルな軽量化できる「意味」は、ローカルでも享受できるようになる。しかし、ローカルにある軽量化できない「意味」は、グローバルには享受できない。たとえ少数意見であっても、誰かにとって明確に「意味」のある場所は、これからも残り続けるだろう。

COVID-19の災禍が訪れる前から、上述の構想を語る人たちがいた。その構想が、一気に現実味を帯びている。ステイホームのわたしが、いまできること。それは、長期にわたって、その未来構想を語っていた人たちを見つけ出し、いまのうちに、そのセーブデータを残しておくこと。つまり、未来の最前線に備える準備だ。

本をつくろう。久しぶりにそう思った。

しかし、いままでのようには、本をつくれない。複雑な環境下で本をつくるには、アジャイルな出版、オープンイノベーションによる出版が求められる。あらゆる対立を超克し、多様な意見な止揚させながら仮説を打ち立てていく。小さく素早い失敗と検証を繰り返す出版、対話(関係性)と編集(戦略)の両輪でプロセスを価値にする参画型の出版、この2つの出版展望が、解なき複雑な時代の出版を拓くのではないか。

出版のプロセスを編集する

その出版展望を分解すると、4つの方針から構成される。①取材のイベント化/②出版のアジャイル化/③関係性のプロダクト化/④書籍のプロセス化である。

1つ目にあたる「取材のイベント化」について、オンラインイベントとしての公開取材という形式を用いて、全7回のシリーズで開催する。このシリーズでは、COVID-19によってパラダイムシフトが迫られている「観光」「政治」「アート」などのこれからについて、本のつくりかたのこれからとともに、考えていこうとするものである。

第1回のテーマは、「持続可能性 × ポストコロナ」。地域の現場で対話の場をつくり続ける元・県庁職員の「対話屋」と、ポストコロナに顕現する未来について話すことにした。


ONLINE TALK LIVE「絶望を希望に変えていく物語」

chapter.1|持続可能性 × ポストコロナ

– 日時|2020年5月22日(金)20:00-22:00
– 場所|オンライン
– 取材対象者|反町恭一郎(合同会社WORKARTS:代表社員)
– 取材者|堀直人(NPO法人北海道冒険芸術出版:共同代表理事)
– 参加費|無料
– 主催|NPO法人北海道冒険芸術出版

※このオンラインイベントは、席に限りはありますが、入場は無料です。Peatixから公開取材参加の申込を募集しております。みなさんのご参加、お待ちしております。
https://zetsumono1.peatix.com/view

ウェブで純文学を発信する

2020年5月11日
posted by 村上政彦

デビュー前の僕は、前衛だった。マルセル・デュシャンとジョン・ケージが守護神で、文学のアイドルは、ヌーボーロマンの作家たちだった。自分で撮影した写真にキャプションをつけて小説と称していた。

しかし地方の若者には、孤独な作業である。理解者が欲しかった。当時、吉本隆明氏が発行していた『試行』という雑誌の愛読者だったので、吉本氏に電話をかけた。

僕は小説を書いているのですが、普通の出版社には受け入れられそうにないので、そちらに掲載していただきたいのですが……

吉本氏は、そうですか、うちは何でも大丈夫ですから、送ってください、と実に親切に対応してくれた。

僕は高揚した気分で、自分の撮影した写真を大きく引き伸ばして額に入れ、タイポグラフィーで打ったキャプションをつけた。そして、うちの近くの宅配便の取扱所まで抱えていって、送った。しかし、吉本氏からの音沙汰はなかった。

考えてみれば、大きな額に入ったキャプション入りの写真を小説として掲載するのは、いくら『試行』でも難しかったのだろう。僕が編集者であっても、いまになってみると、その気持ちは分かる。

横書き小説がめずらしかった時代

その後、文学的な事情によって、僕は前衛を卒業した。そして、彼らが廃棄した19世紀のリアリズム小説を拾ってきて、リサイクルし、カスタマイズし、自分の新しい小説を書き始めた。

ある大手出版社の新人賞をもらったのは、それから3年後だった。同時受賞者がいて、吉本氏の娘の吉本ばななさんだった。僕は不思議な縁を感じたが、『試行』に投稿したことは言いそびれてしまった。

デビューして、ある雑誌に短篇の連作をした。そのなかに、パソコン通信のスタイルを取った作品があった。まだ、インターネットの草創期で、リアルタイムで映像のやりとりをするのは難しいころだったと思う。

しかし、リアルタイムで文字のやりとりをするのも、十分に面白かった。僕は、その原稿をパソコン通信のスタイルそのままに、横書きで出稿した。担当者は面白いと言ってくれたが、編集長が渋った。

ヨコのものをタテにするのが、日本文学だろう――これはそのときの編集長の名台詞である。結局、今回限りということで、その雑誌の歴史始まって以来、横書きの小説が掲載されることになった。

当時、ほかにも何人かの作家が横書きで発表したので、新聞の文芸欄から取材を受けた。これは当時のパソコンでは縦書きができなかったことに原因があると思う。パソコン通信などのやりとりをリアルに再現しようとすると、横書きにするしかなかったのだ。

時代は進んで、多くの人がスマホを手にするようになった。10年ほど前、電車に乗って車内を見ると、一列の座席に座っている人の何人かが文庫や新聞や単行本を読んでいた。

5年ほど前から、みながスマホを見ているようになった。そのころには、すでに活字文化の終焉が語られて久しかった。しかし人々が見ているスマホの画面に映っているのは、活字ではないが、文字だった。僕は、彼らのスマホに何とか自分の小説を送り込みたいと願った。

新しい読書人階級に届けたい

20年ほど前だったろうか。電子本が登場したとき、紙本は、やがてなくなる、と予想された。しかし、その後の進展は、予想に反し、電子本と紙本が共存しているような状態になった。

漫画は別にして、文字の電子本はそれほど売れない。紙本も、文字ものは、やはりそれほど売れない。読書をする人々が相対的に減少しつつある。しかし、まったく読書をする人がいなくなかったのかと言うと、そうではない。

昔、中国には読書人階級があった。知識層のことだ。庶民は文字の読み書きができない。読書は知識人のものだった。いま日本には、新しい読書人階級が生まれつつある。彼らは、専門的な知識人というわけではない。しかし、本を求めて、読書を欲している。

今後、読書をする人々としない人々のあいだには、大きな知識の格差が生じていくことだろう。

僕は、読書をする人にはもちろん、スマホでゲームをしている人々のなかにも、できれば読者を求めたい。そのためには、まず、作品を彼らのスマホに送り込まなければならない。繰り返しになるが、そう思った。

『マガジン航』の仲俣暁生氏と出会ったのは、そんなことをぐるぐる考えているときだった。そのうち原稿を書かせてください、と言うと、仲俣氏は笑いながら、小説でもいいですよ、と言った。僕のなかで、何かが反応した。

『マガジン航』はWEBメディアである。これは、僕が、ここしばらく考えていたことを実現するチャンスではないか。そうだ。小説を書こう。WEBメディアでしか読めない小説を。

そういうことで、僕は、WEBメディアになじむ短篇小説を書き始めた。1章は短く。そして、写真を入れる。それは挿絵のようなものではいけない。作品と有機的に繋がっている必要がある。

1カ月ほどで1作の短篇小説を仕上げて、仲俣氏に送った。面白い、と言ってくれた。そして、発表するにあたって、いろいろとアイデアを出してくれた。『マガジン航』のnote分室に掲載されることになった。それが『ニキ・サントス・クルーズ』という作品だ。

ニキ・サントス・クルーズ

「マガジン航」【note分室】で公開されている短編小説『ニキ・サントス・クルーズ』

なぜアジアを主題に書くのか

僕は、紙本から電子本に乗り換える気はない。つい先日も、『台湾聖母』(コールサック社)という紙本を出したばかりだ。これは台湾の日本統治の時代に教育を受けた台湾の俳人が主人公の小説である。

20年ほど前からアメリカ発のグローバリゼーションにどう対応するかというのが、僕の文学的な問題意識の一つだった。対応の仕方は3種類ある。①グローバリゼーションに乗る(開く)=村上春樹。②グローバリゼーションとは別の極を作る(閉じる)=三島由紀夫。③自分たちの伝統的な文化を見直し、グローバリゼーションを利用しつつ、それを新しく変えて、広げていく(閉じながら開く)。そして、アメリカ発のグローバリゼーションそのものを変質させる。

日本を含むアジアには長い伝統文化の蓄積がある。まず、アジアとは何かを問うことで伝統の内実を探り、そしてグローバリゼーションの鑿で、それを新しく加工して、世界に広げていく。僕は、この第三の道を選んだ。そして、いまアジアを主題にした小説を書いている。

最初から読書をするつもりで、書店に行って紙本を買う読者ばかりでなく、ゲームのあいまにたまたま短篇小説を見つけて、読んでみたら面白かった、という読者を見つけたい。

これから電子本と紙本がどうなっていくのか、僕には予想ができない。しかし、メディアはメッセージであるという考えに従えば、電子媒体は小説そのものを変容させていくことだろう。

僕は、それを愉しみながら、電子本の世界へ乗り出していく。


【お知らせ】「マガジン航」はnote上で【note分室】の活動を開始しました。その第一弾として、村上政彦さんのフォトノベル、『ニキ・サントス・クルーズ』を公開しました。今後もさまざまな作家やクリエイターとコラボレーションしていく予定です。[編集部]

マガジン航 【note分室】はこちら

 

 

人類に必要な物語のために

2020年4月8日
posted by 藤谷 治

第22信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣様

ある程度きちんと日付を書きながらでないと、この話は複雑な印象を持たれてしまうかもしれませんから、煩わしさをこらえて読んでください。

2月29日の土曜日に、僕は青森県の八戸でトークイベントを行いました。当時――と書かなければなりません。これを書いているのは、まだ4月の2日だというのに――、まだ八戸どころか青森県全域に、新型コロナウイルスの罹患者は出ていませんでした。前日の28日だかに、クルーズ船の上客であったらしい仙台の人にウイルスの陽性反応が出たという報道があったのを覚えています。それが東北地方唯一の罹患者でした。……当時は。

もっと楽しい気分で来たかったですよ、と、開口一番、僕は八戸のイベント主催者に言いました。イベントの規模は、もともと小さいものでしたが、さらに縮小したようでした。とはいえその頃の八戸に、ウイルスへの警戒心はさほどなかったと思います。御存知の通り、八戸は夜の社交が盛んなところで、人口に比較した飲み屋の軒数が非常に多いと聞きました。実際、屋台村に軒を連ねた小さな店は、土曜日ということもあってどこも満員でした。

夜に打ち上げがあるのは前もって知っていたので、その日は一泊して、日曜日の夕方まで八戸線にでも乗って遊ぼうか、などと考えていたのですが、翌3月1日の早朝に、妻からのメールがあり、入院したと知りました。もちろん僕は予定を切り上げて帰京しました。

腸炎でした。かかりつけの医者から貰った抗生物質が合わなかったようです。中核病院で妻は、一週間以上入院しなければなりませんでした。

この入院はなかなか厄介でした。妻は身分不相応な個室を与えられましたが、見舞いは一切禁じられていたのです。個室も面会謝絶も、妻の病状とは無関係の「コロナ対策」でした。3月1日は日曜日で病院は外来を休んでいたし、夫である僕が「出張中」だったという事情も病院は知っていたので、最初の日だけは病室に入れたのですが、どうやらこれは病院側の「人道的判断」にすぎなかったようです。

緊急入院でしたから、妻は何も持っておらず、入り用なものがあれこれあります。着替えや薬を僕が持って行くわけですが、持って行っても病人の顔も見られず、ナースステーションで看護師に荷物を渡して、意に添わぬとんぼ返りをしなければなりませんでした。まったく些細なことですが、いい気分のものではなかったです。

10日の火曜日に退院しました。この日は劇作家の別役実氏がお亡くなりになったという報道のあった日です。別役実は僕の青春時代に多大な影響を与えた作家ですが、その話をすると焦点がブレますから割愛します。妻の様子は退院後も決して良くありませんでした。それだけでも困るのに、今度は僕が13日の金曜日に激痛に襲われました。恐らく結石だろうと思われました。5年前にやはり石ができて、ひどい目にあっているのです。その時に石を取り出して貰った総合病院に駆け込んだところ、案の定結石でした。痛み止めを貰い、これはさいわい、23日の月曜未明に尿と一緒に出てくれました。

僕のはただ震えるほど痛いというだけで大したことはなかったのですが、妻の方はそういうわけにはいきませんでした。かかりつけの病院から紹介状を貰って、名医がいるという総合病院へ電車を乗り継いで行きました。

待合室には、果てしなく老人たちが座っていました。体育館でもこんな広いところはめったにないと思われるスペースに、身体の悪い人たちがびっしりと、背中を丸めて自分に渡された番号が掲示板に出るのを待っています。待たされること5時間、金を払うまで半時間、薬が出るまで半時間。医者がいい人だったのと、コロナを警戒してなのか電車が比較的すいていたのと、道端でばったり東直子さんにお会いできたことだけが救いでした。

「これが『普通の病院』のありようなら、最近よく聞く『医療崩壊』になったら、どうなってしまうんだろうね」

果てしない待ち時間のあいだ、できるだけほかの患者と距離を置きながら、僕は妻にそんなことを呟きました。

……仲俣さん、これが僕の「私的な声」です。私的な声こそを読みたい、とお手紙にあったので、一筆書きに書いてみました。

小説は私的な声から始まります。始まるはずです。さきのお手紙の中に、「ポストモダニズムが理想とした小説のあり方」を、「それ自体が批評で(も)あるような小説」と要約されているのを見て、僕は自分が、二十年のあいだポストモダン小説や批評に没頭したあげく、そこから決別しなければ自分の小説は書けないと思い定めた、あの苦しい(とても苦しかったです)方向転換の年月を思い出したのです。僕はずっと、自分の感じているもやもやしたものを、うまく言葉にすることができませんでした。

日本のポストモダン文学者たちの多くは、60年代の学生運動を何らかの形で経験した世代でした。80年代に現れた彼らの「実作」は一見すると斬新で、欧米の文学事情や思想事情に詳しく、しかし古風なインテリ然とはしていない、軽やかなステップを踏むがごとき文学でした。

けれどもその内実は、成し遂げられなかった革命への郷愁と「制度」への怨恨、そして現代社会への失望と軽蔑に満ちていたのです。彼らはそれをそのままに表現してしまえば、彼らよりひと世代上の「左翼文学」と大差ないものになるだろう、そしてそれはバブル時代の世情にそぐわないだろうと判断したのでしょう。結果として日本のポストモダン文学は、「革命(青春や怨恨がここに含まれます)」や「高度資本主義(軽やかさやサブカルチャー)」に裏打ちされた、「歴史の終わり」にふさわしい文学として、インテリ層に受け入れられました。

まさしくそれは「それ自体が批評で(も)あるような小説」だったのです。そしてそれは、文学に向かっていく動機としてはありうるかもしれないが、小説を成り立たせる根本には、本来的に目的がずれている、と当時の僕は、もやもやと感じたのではないでしょうか。小説が「それ自体が批評で(も)ある」ことを目指して書かれるなどということは、本当はありえない。小説の制作技術によってそのような小説は出来上がるかもしれないが、小説としてその動機は嘘なんだ、と、僕は苦しく思い至ったのだと思います。

「それ自体が批評で(も)あるような小説」には、もうひとつ別な理論的(?)援護がありました。物語批判です。蓮實重彦氏の『物語批判序説』や『夏目漱石論』『大江健三郎論』といった一連の批評は、単純な物語批判ではありませんでしたが、しかしその後の『小説から遠く離れて』などを見ると、やはりそこには単純な物語批判も含まれてはいたのだ、と思います。単純な物語批判とは、要するに物語の因数分解でした。小説から「双子」「依頼」「宝探し」といった因数を探し出して、そこからあれこれの小説が持つ構造の類似性を論じていくのです。因数分解をして、どうなるか。どうにもなりはしないのです。そのようにして蓮實氏は、小説がまとっている「深さ」という偶像を破壊して、軽やかな振る舞いの方へ小説を解放したのでしょう。物語批判をはらんだ批評的態度は、その後の批評家たちの中にも、小説への皮肉や反措定のような形で散見されたものです。

しかし僕は、人が物語を批判するのはいいことだけれど、物語とはそのようなものではない、と、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んで気付いたのです。密林の開拓や子どもの予言、男たちを惑わす少女や栗の木に縛られた老人といった物語は、因数ではなく、陶酔の源泉なのです。

そしてそれは、「私的な声」と矛盾するどころか、「私的な声」そのものなのです。久米正雄は私小説至上主義の宣言として「『戦争と平和』も『罪と罰』も『ボヴァリイ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎない」と書いたそうです。一方でフローベールには、ボヴァリイ夫人は私だ、と言っている。どちらも正しいのです。新聞の三面記事から発想して数年がかりで書き上げた、フローベールの実人生とは縁もゆかりもない物語『ボヴァリイ夫人』は、その全編がフローベールの「私的な声」です。それを私小説至上主義者も、ポストモダニストたちも、物語批判論者も、直視はしなかった。僕はそう考えています。

物語が「私的な声」によって書かれるとき、初めてそこに小説はあらわれるのです。小説の可能性を考究し尽した偉大な小説家、ウラジミール・ナボコフ、スタニスワフ・レム、大江健三郎といった小説家たちは、そのような小説をばかり書いたのです。ナボコフは幼女への性愛衝動を持っていたわけではありませんし、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性」について「批評で(も)あるような小説」を企図しただけでもありません。ナボコフは、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性、という物語」に魅了され、惑溺し、誰よりも陶酔したのです。『ロリータ』の「批評で(も)あるような」側面については、ナボコフ自身があれこれ語っていますが、そんな側面はあのグロテスクで滑稽で悲劇的で哀切な小説の、ごくごく一部分にすぎないことは、あの小説を読めば明らかです。

これだけ書いて、ようやく仲俣さんの「『新しい批評家』の多くが、『小説』を批評のツールとして再発見して」いることをどう考えるか、という問いかけに、お答えすることができます(すでにここまで書いたことで答えているのかもしれません)。僕は「新しい批評家」たちが(示し合わせたわけでもないでしょうに)次々と小説を発表していることは知っていますが、その殆どを読んでいません。だから擁護するつもりもありませんが、優れた作品もきっとあるでしょう。ただ、「『批評のツール』として書かれた小説」には、批評家が書いたかどうかとは無関係に、限界があると思います。

小説には「私的な声」と同時に「物語」がやはり必要だ、と僕は考えます。「私的な声」も「物語」も、単純な定義しやすいものではないし、またこの二つをひとつの小説に結びつけるには、魅了、惑溺、陶酔がなければなりません。そしてどうやら、魅了されたり陶酔したりというのは、いつでも、誰にでもできるというわけではないようです。書いているあいだ陶酔や惑溺を維持し続けるのは、さらに容易ならざる芸当なのでしょう。

そもそも小説は「ツール」ではありません。「新しい批評家」たちが小説を「ツール」に使っているつもりかどうかは知りませんが、道具扱いされた小説は、僕も読んだことがあります。そういう小説の中にも、『エミール』や『君たちはどう生きるか』のように「成功」しているものもありますが、そのような作品さえ、果たして人があれを「小説」として読んでいるのか判りません(どちらの作品も岩波文庫では「青」ですし)。批評家や歴史家、政治評論家や脳科学者が、明らかに「ツール」として利用している小説を、小説扱いする必要は、作者にも読者にもないのでしょう。

「木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる」……厳しい言葉です。どんぐりの数だけ樫の木が育つわけではありませんから。

しかしすべての世の習いと同じく、文学の栄枯盛衰もどこで何があるか判りません。奢れるものは久しからず、とも限らないので、こんにち残る古典的傑作の大半が、発表当時のベストセラーだったりします。

だからといってベストセラーがみな残るわけでは勿論なく、むしろ「当時はあんなに評判だったのに」というものが、みるみるうちに消えていくのは、僕たちも目にしています。

だから世評に一喜一憂するのは、小説にとっては意味のないことです(身過ぎ世過ぎをしている人間としては、そう達観もできませんけれど)。自作に限らず、他人の愚作が売れたり、底の浅いものが絶賛されたりしても、世情の移り変わりの激しいこんにち、半年もすれば(あんなに評判だったのに……)となってしまうのは、幾度となく経験してきたことじゃありませんか。

今、世界を閉ざしているコロナ禍についても、近いうちにきっと「小説」が出てくることでしょう(それはきっと「純文学」でしょう)。その中には評判をとる作品もあるかもしれません。三島由紀夫が『金閣寺』を書き始めたのは、金閣寺放火事件の6年後だった、などというのは、ある種の人たちにとっては、のんきな大昔のことなのでしょう。それで一向に構いません。どんな人にもその人の考えがありますから(それと身過ぎ世過ぎ)。

僕にはそんな芸当はできません。ましてや小説がそのような芸当にふさわしいツールとも思いません。小説はもっと自由で複雑なものです。そしてどんなときにも必要とされるものでなければならないと思っています。

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コロナ禍のなかで読み、書くということ

2020年4月4日
posted by 仲俣暁生

第21信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

1月の初めに前回のメールをいただいてから、またしてもズルズルとお返事を引き伸ばしているうちに、新型コロナウイルスの騒動が中国の武漢でもちあがり、やがて韓国の大邱に、そして日本でもクルーズ船を舞台に感染が拡大しました。

それでも当初はどこか対岸の火事に思えていたものが、ヨーロッパに飛び火し、まさしく燎原の火のごとくEU諸国とアメリカに広がるのを目にしたことで、ようやく日本でもウイルス禍が身に迫る危機として感じられるようになりました。

ほんのひと月、いや、わずか数週間で世の中の見え方がガラッと変わってしまう。戦争が始まるときというのは、もしかしたらこんな感じなのではないかと思うほど、いままでにない危機感を感じつつこのメールを書いています。

東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故のときには、それでもまだ、信頼できる人と直接顔を合わせて話をすることで、落ち着きを取り戻すことができました。藤谷さんともあの当時、とくに用事もないのに、なんどかお会いしたことを思い出します。

でも今回のウイルス禍は、人が人と会うことを遮断してしまう。親しい人ほど、会うことができないし、会わないほうがよい。そんな逆説のなかで、僕らはこれから長い時間を過ごさなければなりません。そんなとき、ものを読むこと、書くことはどんな意味をもつのでしょうか。

前回のメールに対して返事が遅れた理由は、現在における「批評のありか」という、あまりにも重たい問いをいただいたからでした。しかもその直後に、僕らとそれほど年の違わない評論家の坪内祐三さんが亡くなられ、自分でも意外なほど、静かな衝撃を受けました。

坪内さんはたしか自身では「批評家」とは名乗っておられなかったですが、まぎれもなく同時代のすぐれた批評家の一人であったと思います。しかも彼は、藤谷さんや僕がこの往復書簡でずっと問題にしている、1980年代以後のポストモダニズム的な思潮に対する一貫した批判者でもありました(他方で彼は、山口昌男という「ポストモダニズム思想家」の門下生でもありましたが)。

昨年から今年にかけて、橋本治さんや加藤典洋さんといった団塊世代の重要な書き手が相次いで亡くなり、さらに彼らよりずっと年若い世代の坪内祐三さんも亡くなったとき、僕が最初に感じたのは、ちょうど元号が変わったばかりであったことから、ひとつ前の「平成」という元号下の時代と重なる、ここ30年ほどの思考や行動について、根本から考え直すことでした。

ところが今回の新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大は、そんな気分さえ吹き飛ばしてしまった。いま考え直さなくてはならないのは、平成の30年間という短いスケールのことだけではないのではないか。ちょうど百年前の時代に起きた第一次世界大戦とスペイン風邪が「19世紀」という時代を完全に終わらせたように、いま僕らは「20世紀」という時代の終焉を目の当たりにしているのではないか。そんな思いが、ますます筆を鈍らせたのです。

いま「批評」はどこにあるのか、「批評家」はどこにいるのか。その問いに対して、ずいぶん前のメールでも書いたとおり、自分自身を「批評家」だと思ったことが一度もない自分は、どう答えたらよいのか。それも返事が遅れた理由の一つです。

自分の「職業」は、第一にそこそこ経験のある編集者であり、第二に、さして影響力のないジャーナリスト(「評論家」を僕はそのように定義しています)である。僕はそう自認しています。

評論家と批評家の違いはどこにあるのか。それがたんに好みや語感の違いにとどまらないとすれば、こんなことだと思うのです。藤谷さんが名を挙げた錚々たる日本の文芸批評家たちは、なによりもまず、彼ら自身が「文学者」でした。つまり「文学」という世界のメンバーシップの内側にいた。したがって彼らが書いた批評もまた「文学作品」でした。

僕はそんな彼らの作品に力づけられ、ときに反発しつつ育ちましたが、その「内部」に加わりたいとは一度も思ったことがありません(例えるならば、すべての野球ファンが、必ずしも野球の選手をめざすわけではないように)。

ところで「批評(家)」という言葉は――とくに日本の文学の文脈では――大きくわけて二つの意味にとられています。一つは、そのテキストがそのまま「文学作品」でもあるようなクリティカルな行為と、その行為者として。もう一つは、藤谷さんがいくつか例を挙げられた「批評理論(セオリー)」に裏付けられたテキストと、その理論家として。

そして日本の(ヨーロッパからは大幅に遅れて到来した)ポストモダニズム思想とは、前者のような批評(家)を、後者に依拠した批評(家)たちが駆逐しようとして、なかばその企図が実現された一連の長い過程だった。この30年ほどを振り返り、僕はそう思うのです。

ところが不思議なことに、他方でいまの優れた(後者の意味での)「批評家」たちは、同時に「小説の実作家」でもあろうとしています。具体的に名を挙げれば、蓮實重彦、四方田犬彦、東浩紀といった人たちです。このほかにも小谷野敦、陣野俊史、佐々木敦といった僕らと世代の近い比較的に親しい人たちも、「小説家」としての仕事を始めています。

藤谷さんが、「物足りない」と感じる批評家の名前が、このなかに含まれているかどうかはわかりません。ただ、これらの「小説を書く」批評家たち自身が、「批評では語り得ないこと」にきわめて自覚的であることはたしかでしょう。

彼らは別に、小説のほうが批評よりも読まれる(あるいは「売れる」)から、小説を書いているのではない。そうではなく、批評という形式で行うよりも、小説という形式によって行うほうが、いっそう批評的であるということに、まぎれもなく自身の「批評」のなかで気づいたからではないか。僕はそう思うのです。

いま思えば、「それ自体が批評で(も)あるような小説」こそがポストモダニズムが理想とした小説のあり方でした。小説家はひたすら小説を書き、批評家(ときには「評論家」も)がそれに批評というかたちで応える――そんな古典的な弁証法が単純には信じられなくなったとき、批評家は実作に手を染め、小説家は「批評(家)の不在」に苛立つということなのかもしれません。

でも、今回のメールで僕が藤谷さんに伝えたかったのは、そうした業界見取り図の話ではありません。何よりも、僕はいま、こんな状況のなかで藤谷さんに「私的」に声をかけたかったのです。

僕は「マガジン航」の編集発行人として、先月はエディターズノートの更新を行いませんでした。エディターズノートというのは、いわば一種の公的ステートメントです。でも僕はいま、ジャーナリストとして公的に何かものを言うことに、まったく意味を見いだせなくなってしまいました。

いま起きている百年に一度ともいうべき巨大な出来事のなかでは、ささやかなメディアの責任者(発行人)としても、出版や編集という職業にかんする専門家としても、胸を張って主張できることがなにもない。であれば、沈黙も一つの言明であろうと考え、エディターズノートの月次更新をやめたのです。

でもこの往復書簡は「公開」ではあるものの、あくまでも藤谷さんへの「私信」です(だから基本的に「僕」という主語をつかっています)。そしてあらためて思うのは、かつてのすぐれた文学者のテキストは、むしろ私的な言明であったことで、その声を太く、響かせていたのではないかということです。そんな私的な声こそがいま僕が読みたい言葉であり、できうることならば誰かに対して発したい声であり、書きたいことなのだ、と気づいたのです。

マルクス主義という、当時は圧倒的な正統性と影響力をもっていた公的な「イズム」に対し、私的な「態度(声)」に依ったことが、小林秀雄を日本的な「批評」の神様としました。日本に特有の「文学者としての批評家」とは、公的な言葉に対して私的な言葉が唯一、勝利をおさめることのできるフィールドとしての「文学」という神話をながらく信じさせてくれた人たちでした。

そんな「小林秀雄的批評」(日本的な意味での批評)を乗り越えようと、ある世代までの頭のいい日本のマルクス主義者(ここでは柄谷行人や浅田彰を念頭に置いています)は、ポストモダニズムの諸理論に依拠して「批評」を更新しようとした。その結果、皮肉なことに日本の「批評」の起源が見失われたのだと思います。

しかも、いわば一連のポストモダニズム思想の主唱者であった「新しい批評家」の多くが、いま「小説」を批評のツールとして再発見しています。いただいた重たい問いに真正面から答えるのではなく、藤谷さんに問いで返すのはズルいやりかたかもしれませんが、こうした状況に対して「小説家」はどう考えますか。

これは藤谷さんがお書きになった古典の問題とも関わるように思います。ちょうどいま、僕は『源氏物語』の新しいバージョン(角田光代による現代語訳と、アーサー・ウェイリーによる古い英語訳のさらなる日本語訳)とを読み始めようとしています。僕にとって『源氏物語』とは、原典だけでなく、翻訳や批評やマンガなどの二次創作を含めた、膨大な副産物すべてが織りなすテクスチャ―のことであり、正直、自分はまだその波打ち際の一部しか経験していないと思っています。だからこそ、そこへの入り口はいくらあってもいい。

源氏物語に対してこの数百年、いや千年以上の間に積み重ねされてきた批評や二次創作の蓄積の厚みを考えると、「文学者でもあるような批評家」も「小説を書く批評家」も、「なんらかの理論(セオリー)に立脚しなければ批評が行えない批評家」も、どうでもよいように思えてきます。

現代の小説の愚直な読者でありつづけたい僕にとっても、必要なのはなにより実作です。「それ自体が文学作品となった批評」は、すでに実作といっていい。そして十年、百年、千年と残るのはふとぶととした樹木のような実作であり、批評とはその周囲に事後的に繁り、そして樹木よりも早く枯れてしまう草むらにすぎません。

たしかに誰も聞く者のいないところでは音楽は響かないし、観る者がいなければ演劇は成立しません。でも文芸作品に限れば、たとえ同時代に適切な批評を得られなくとも、作品は自立して存在しうる。木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる――そんな信頼のなかからしか、長い命を保つ実作は生まれないのではないか。小説家に僕が期待するのは、そんな孤独に耐える自信です。

それともこれは、あまりにも酷く高いハードルを実作者に課するものなのでしょうか。

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