第2回 ブックオフ・図書館・コンビニ

2019年3月19日
posted by 谷頭 和希

図書館とブックオフはどう違うのか?

前回、ぼくたちは本をめぐる風景の中に突如として入りこんできた、「ブックオフ」という奇妙な書店について、それを「図書館」としてとらえ直すことができるのではないかと考えてみた。今回からは実際にいろいろな角度からブックオフについて考えてみよう。

さっそくぼくたちが考えなくてはならないのは、図書館とブックオフのちがいについてである。ぼくは先に、ブックオフは図書館に似ている、と述べたけれど、普通にかんがえるならばそれらは本質的にまったくちがうものだ。でもむしろそれらが似ているという認識に立ちながらその差を見てみれば、ブックオフ的空間の特徴がよりきわだってみえてくるかもしれない。

結論を急いで述べてしまうなら、その違いは本の選定基準にあらわれる。どういうことか。図書館とは図書館法に基づいて地方自治体が作り出す「公共」施設だ。そしてその「公共」という言葉が意識されるあまり、そこで置かれる本にはおおくの選定基準が設けられている。一例として全国学校学校図書館協議会が発表している選定基準から「まんが」の項目を引いてみる。

(1) 絵の表現は優れているか。
(2) 俗悪な言葉を故意に使っていないか。
(3) 人間の尊厳性が守られているか。
(4) ストーリーの展開に無理がないか。
(5) 俗悪な表現で読者の心情に刺激を与えようとしていないか。
(6) 悪や不正が讃えられるような内容になっていないか。
(7) 戦争や暴力が、賛美されるような作品になっていないか。
(8) 学問的な真理や歴史上の事実が故意に歪められたり、無視されたりしていないか。
(9) 実在の人物については、公平な視野に立ち、事実に基づき正確に扱われているか。
(10) 読者対象にふさわしい作品となっているか。
(11) 原著のあるものは、原作の意が損なわれていないか。
(12) 造本や用紙が多数の読者の利用に耐えられるようになっているか。
(13) 完結されていないストーリーまんがは、原則として完結後、全巻を通して評価するものとする。

このハードルは高い。もちろんこれは子どものみが利用する学校図書館の基準であって極端なものではあるし、図書館という言葉の中には私設の図書館も含まれるから、一概にすべての図書館の選定基準がこのようであるとはみなせない。でも、しばしば、公立図書館から「~の本を撤去せよ」とか、「~の本があるのはおかしい」といった陳情が聞かれるように、そこで置かれる本は「公共」の名の下で多くの制限がかかってしまうことは認めざるを得ない事実である。例えば戦争体験の悲惨さを描いたまんがとして名高い『はだしのゲン』などは何度もその憂き目にあっているし[1]関連記事)、大阪の公立図書館から男性同士の同性愛を描く、いわゆる「BL本」が撤去されたという事件もある[2]

一方、ブックオフに置かれるか否かの選定基準となるのは良くも悪くも「見た目のきれいさ」だけであることは先述したとおりであって、そこには「公共」を意識した振る舞いは(もちろん最低限のゾーニングはあるけれども)みられない。むしろ、それとは反対に、ありとあらゆる人々にとっての不要な本が確固たる方向性をもたずに、いわば「非意図的」に積み重なっているのではないか。

この意図/非意図という言葉こそが重要になる。

ちょっとブックオフの棚をのぞいてみよう。そこには、誰もがその名前を聞いたことのあるようなベストセラーから、こんなのいったい誰が読んだのだろう、というぐらい変な本やマニアックな本までほんとうに雑多に、ガラクタになってしまった本が集積している。

たとえばブックオフ早稲田店をみてみる。その音楽棚にはなぜか、楽譜屋でしか売ってないバッハ『ブランデンブルク変奏曲』のスコアが置いてあったり、やはり学生が周りに多く住んでいるからなのだろうか、過去の赤本や果ては早稲田大学の授業で用いられる教科書さえも(!)ぎっしりと置いてある。それから出版史の専門書『日本出版百年史』も売っていた。おそらく研究者や業界関係者以外買わないだろうが、一体誰が買取に出したのだろう……。

[1]  https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/21/hadashi-no-gen_n_5188255.htmlを参考のこと。
[2] 現在、この騒動についての堺市図書館によるコメントが掲載されているサイトはリンクの有効期限が切れてしまっており読むことができない。しかし、騒動を受けて撤去したはずの本の貸出禁止を堺市図書館が突然解禁した記事は以下のURLから読むことができる。https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/21/hadashi-no-gen_n_5188255.html

フランチャイズ・チェーンとしてのブックオフ

さらに、ここで重要になるのはFC(フランチャイズ・チェーン)としてのブックオフの姿である。FCとは本社が事業展開を行うとき、個別の小売店に対してその経営ノウハウやブランドロゴなどを提供する代わり、小売店から本社に対してロイヤリティーを払うという事業展開の形態で、いわゆる「チェーン」と言われる多くの会社がこの方法で店舗網を拡大させている。日本におけるFCは1970年代初頭からスタートされた。最初はケンタッキー・フライド・チキンや不二家といった飲食店から徐々にその業態がひろがったわけだが、日本においてFCの仕組みでもっとも花開いた業種にコンビニエンスストア業界を挙げることができるだろう。1973年にファミリーマートとローソン、1974年にセブン・イレブンが創業し、現在に至るまで日本全国津々浦々にその店舗を展開し続けている。

消費生活コンサルタントとして、コンビニについての著書を数多く執筆している加藤直美はコンビニを「日本の文化である」と言い切っている(『コンビニと日本人:なぜこの国の「文化」となったのか』等。後述)。あるいは建築家の伊藤豊雄はコンビニを現代日本の最も優れた建築物だと主張して、実際に代表作である「せんだいメディアテーク」には「情報のコンビニ」というテーマを与えている[3]

このように経済面のみならず、文化的な面にまで広く影響をあたえながら一般に浸透しているコンビニだが、同じFC型の店舗として、コンビニとブックオフというのはどこか似ているところがあるとはいえないだろうか。

昼夜を問わず明るい蛍光灯に照らされていること。店内はグリッド状で見渡しやすいこと。

ありとあらゆる種類の商品が揃っていること。

ある意味で、「コンビニとしての本屋」がブックオフなのだということもできそうだ。

ブックオフもFCとして店舗を拡大させているが、そこで各店舗に置かれる商品は本社から送られてきた古本だけではないということにミソがある。そこではオープン時にのみ本社から古本が提供されるだけで、その後の商品は地元での買取を中心としておこなわれ、その周辺住民が読んでいたさまざまな本がそこに集まってくる。だからその商品棚は(もちろんベストセラーなどが多く集まるという点では一致するかもしれないが)地域によってばらつきがあり、そして商品の選定がある程度は偶然的になる。そこでは従来の本屋や図書館がそこに置く本の種類を決めてそれを客に見せるというモデルではなく、地域住民とのインタラクティブ(地域住民が読まなくなった本を買取に出す)がうみだす偶然性の中でその店舗の形が決定づけられてゆくのだ。

そのような点において、地域住民の声にならない声が反映された、そして図書館の「用意された公共」ともちがう、またことなる公共性をもつ空間ともいえる店舗がそこに誕生しているのではないか。これがブックオフの独自性なのである。

[3] 伊東豊雄×坂本一成×篠原一男「建築の問題は『コンビニ』から生まれる?」(『世紀の変わり目の「建築会議」』、建築技術、1999年)などを参照。

コンビニとブックオフはどう違うのか?

先ほども言及した加藤直美の著書『コンビニと日本人』では各店舗のコンビニの店舗設計について以下のような興味深い言及がされている。

コンビニ店舗での商品の売れ行きは、各店舗の立地条件や地域性によって異なりますので、細かく分析され、各店舗に合った品ぞろえになるよう日々調整されています。この分析に使われるのは、各店舗の売り上げや客層などの個別データ[……]、地域の祭事や行事、天気予報、チェーン本部が独自に収拾しているデータなど幅広いものです。
背景には、大量のデータや情報(ビッグデータ)を蓄積したり、素早く解析したりできる技術の進歩があります。

このようにそれぞれのコンビニはどの地域にでもある、いわば均質なイメージとして自社チェーンの店名を掲げる一方、ビッグデータの処理といった技術的な進展によってそれぞれの地域の住民に最もフィットすると思われる商品を過不足なく仕入れて売っているために、その店内商品は決して均質にはなり得ない。つまりそれぞれの地域によって異なる店舗をそこに出現させているのであって、コンビニにおいては「均質であること」と「異なること」が奇妙な形で結合しているのである。そうした意味では、ブックオフも、地域住民の蔵書に影響された店舗を作り出すという点において、均質な店名と差異にあふれた店舗構成が奇妙に結合している。

一方でこの二者には違いもある。コンビニのようなFCがビッグデータのようなテクノロジーを動員し、住民のニーズに合わせながら過不足なく商品を供給することに興味がむけられていたのにたいして、ブックオフではその商品が周辺住民が消費した本によって決められるために、その陳列される商品は本来、店にとっては(およそ売れる見込みのない)不要なものさえ紛れ込む可能性がある。それは前項で実際にブックオフの店舗を見ながら確認したとおりである。つまり――この言葉がいいのかわるいのかわからないが――ある意味で過剰で非合理的とさえいえる商品の陳列がおこなわれることになるのだ。あるいは、わたしたちの目から見れば過剰で非合理に見えることでも、ブックオフ側からすればそれが適正であり、合理的であるような新しい論理が、そこに立ち上がっているのだ。

例えばとあるブックオフの雑誌コーナーを見てみよう。

この写真に見られるように、ブックオフにある雑誌は同じ種類の異なる号が並んでいる場合が多い。これはある雑誌を定期的に購読していた人がそれらを買取に出すとき、同じ雑誌をすべて売ってしまうからであろう。このにはディアゴスティーニの『鬼平犯科帳 DVDコレクション』がずらっと並んでいる。しかも未開封のままで。こうした光景は通常の書店では見ることができない。正規の仕入れルートではそのようなことをしても儲からないし、やるだけ無駄である。しかしブックオフにはそうした今までの書店の秩序、あるいは倫理、あるいは原則は通用しない。それらとはまったく異なる秩序で――それはもちろんその買取システムによって生みだされる特有の秩序であるが――ブックオフは駆動し、私たちの前にその姿を現す。

ブックオフの本棚は以上のように、今までの販売論理でいえば店側にとって過剰、あるいは余剰、そして非意図的な要素がおおく入り込んでいる。もちろんこれはいままでの書店の秩序からブックオフを眺めた場合に出てくる言葉に他ならないわけだ。しかし、ブックオフから見ればそれらは過剰でもなければ余剰でもなく、むしろ合理的でさえある。そこで生み出される空間は図書館のような「あるべき公共」をあらかじめ目指して作られるのでもなければ、コンビニのように「地域に合わせて過不足なく商品を供給する」というものでもない、独特のFCシステムの結果として自然にできあがった空間であって、それはいままでの書店空間とはことなり、ときには余剰であって、ときには非意図的であって、ときには非合理的に見える。

少しずつかもしれないが、ブックオフという「新たな公共圏」の姿がぼくたちの前にあらわれ始めたみたいだ。

(つづく)

所感:2010年代の日本の商業出版における著者と編集者の協働について、営業担当者と書店との協働について

2019年3月12日
posted by 小林えみ

*本稿は2019年3月10日に東京堂書店にて開催されたイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」において配布された資料を、著者の了解を得て明らかな誤字等を修正して転載したものです。


「俺の一生をかけて、全精力全財産を費やして、自分の意思どおりに歴史を捻じ曲げようと努力する。又、そうできるだけの地位や権力を得ようとし、それを手に入れたとする。それでも歴史は思うままの枝ぶりになってくれるとは限らないんだ。百年、二百年、あるいは三百年後に、急に歴史は、俺とは全く関係なく﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅、正に俺の夢、理想、意思どおりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとおりの形をとるかもしれない。俺の目が美しいと思うかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、俺の意思を嘲るかのように。それが歴史というものだ、と人は言うだろう」

「潮時だというだけのことじゃないか。やっとそのとき機が熟したというだけのことじゃないか。百年と云わず、三十年や五十年でも、そういうことは往々にして起る。それに歴史がそういう形をとるときには、貴様の意思も一度死んで、それから見えない潜んだ糸になって、その成就を援けていたのかもしれない。もし貴様が一度もこの世に生を享けていなかったら、何万年待っても歴史はそんな形をとらなかったかもしれない」
(三島由紀夫『春の雪』より)

はじめに

2019年1月31日にORブックスの社主、ジョン・オークス氏が来日講演で述べたように、現在は著者から読者への直接の商業出版も可能です(講演は動画で公開されています。YouTube「ジョン・オークス来日講演「生き残るための出版マネージメントとは?」VJdotbook)。

オークス氏はそれについて「綺麗な表紙を提供するとか編集とか販売促進とか著者が直接できないことを出版社がしないなら著者が直接読者に届けた方がいいではないですか!」と述べました(翻訳は動画より、傍点は筆者による[注:本記事では太字にて記載])。「著者が直接できない」とされる編集や販売促進は版元内の部署(編集、営業、経理・総務)、取次、書店などさまざまな担い手によって分業化され成立しています。ただ、オークス氏が続けて「アメリカでは老朽化した機能不全のシステムが存在」と語るように、日本においても長い年月利用された制作・流通・販売の仕組みやその中の分業は、現在においてもすべて美しく調和して機能している、とは言い難い点もあります。また、技術革新により更新されていることもあります。そして、「出版不況ってもう言わなくてもいいんじゃないか」という方もいますが、不況という言葉を「雇用量・生産量などの縮小、物価・賃金や利子率などが低い水準を続ける」(大辞泉より)」と定義するならば、大まかな捉え方としては「日本の出版業全体は不況下にあり、縮小再生産の中で部分的に元気なところがある」といえるでしょう。そうした変化の局面にある出版業界について今どうなっているか、ということは、業界内外を問わず書籍に関心のある人たちの関心事となっています。本イベントもそうした潮流の中に位置づけられるでしょう。

出版不況下で専門書・哲学書はどのような位置づけにあり、状況は改善するのか、また版元や著者は、システムや自分の仕事に対してどのようにかかわるべきか、あるいは何が望ましいのか、が来場者の方のご関心事項だと思います(違ったらごめんなさい)。イベントの中でうまくお話できる自信がなかったため、出版関係者の方もおられるかと思いますが、主には業界外、著者・研究者の方へ向けて、私なりの所感を配布資料としてまとめさせていただきました。

ただ、まず少々言い訳がましく恐縮ですが、私の立ち位置について先に述べさせていただきます。私は「哲学書の編集者」とはいえません。少なくとも今時点でそれに見合う経験を積んでいません。1978年生まれで1999年から専門書の編集職としてキャリアをスタートしていますが、思想系の人文書に携わったのを『nyx』創刊号からとすると2015年からの4年です。『nyx』も扱う分野は哲学に限定されていません。「哲学書」のエキスパート編集者がおられるなかで、もし私が「哲学書の編集者」を名乗れば、それは僭称でしょう。そうした浅薄な知識の中では「哲学書」固有のこととしてお伝えできる情報はないため、恐縮ですが、本イベントにお招き頂いた者として最大限の誠実を心掛けつつ、主に出版界全体・専門書出版について、おそらく「哲学書」とも共通するであろうという事柄について記すことでご来場者の方のご関心に少しでもお応えできれば幸いです。本資料の作成にあたっては、幾人かの方にご助言を頂いておりますが、文責は小林えみに帰するものです。誤記などがあった場合、それは故意悪意による改ざんではなく、小林の至らなさによるものとご認識頂けますと幸いです。また訂正等を要することについてはご指摘賜れますと幸いです。

「売れる」について――周辺事情と出版産業

専門書の商業出版において版元の人数は減り、書籍の生産量(1点あたりの発行部数)の水準(おおよその標準値)は過去より減少しています。今回はあくまでイベントの簡易資料ということで、厳密な算出数字ではなく専門書界隈の方であれば共有できる感覚的な数字の記載でお許しください。

専門分野の書籍が1980年代に初版が5000部だったものが、1990年代後半には3000部、2000年代には2000部、1000部となり重版もされていない、ということが言われます(1980年代に3000部だったものが1000部あるいは800部程度になった、というような幅感は分野によって違います)。専門度が高く、1980年代頃から500部、300部程度、3桁の発行部数だったものでそれほど部数の変わりがないという場合もあります。減少は「少子化による市場全体の自然減」「その分野の盛衰」「情報の需要減」「多様化による専門性の分散」などがあげられますが、その他の様々な要素もあり、それぞれの分野によっても要因は異なります。いくつか例をあげます。

まずは「造船に関する情報」。日本の船舶建造量は1975年をピークに減少をし、国内産業の「重厚長大から軽薄短小へ」の例として小学校でも習った方は多いのではないでしょうか。しかし、その後の回復もあり、依然、世界で韓国とトップシェアを争う約35%を占めるシェアをもっている、ということはあまり知られていません。しかし工業関連の研究は国際化されており、英語文献が流通していること、それらをうけた国内研究拠点の減少(例えば東大の船舶工学科は2000年に統廃合された)などにより「日本語の研究書、専門書」は産業の活況とはリンクしていません。

次に、「役場などに備える公共向けの法律の条文情報」という分野があります。分野としてコンテンツの需要﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅が衰えた、急に法律が不要な場面が増えた、ということは考えにくいですよね。しかし簡単な情報はインターネットで入手が可能となった(2001年より政府が「法令データ提供システム」としてウェブ上で公開するようになった)、商品の需要の減少があるうえで、顧客である「自治体数」は合体等により減少をするという明らかな市場の総数の縮小があり(平成の大合併により市町村自治体数は1999年の3232個から2014年の1718個へ減)、公共向けの安定した市場のように思われていましたが、「紙の条文情報」は部数を減らしています。

2019年3月、医療専門出版社として知名度の高い医薬ジャーナル社が倒産しました。「1993年7月期に10億2500万円あった売上高は、18年7月期には2億6300万円に減少」、医薬業界の慣行だった製薬会社から医師への献本(版元から製薬会社が購入)が薄れたことなどが要因とのことです(朝日新聞3月5日)。

上記は比較的はっきりした「その他」の状況分析が可能な事例ですが、また別の、それぞれの事例によって背景はさまざまです。人文書・哲学書においても過去3、40年での数字の減少は起こっていることですが、その要因について私自身はまだ不勉強なところで見解はだせず、見かけた諸説でも「これでは」という決定版を見出すことはできていません。

「売れる」について――発行部数

まずはじめに、「売れる」という価値判断を「一般の発行部数の数字だけで比較することは困難」だと私は考えます。もちろん500部と10000部では明らかに規模が違います。また500部の書籍しか出さなかった著者さんが同じような専門領域の書籍を書いて1000部売れたら「売れる」と言ってよいでしょう。条件や比較対象が明確になって、はじめて「売れる」と言えると思います。

この「売れる」という数字について、出版業界のシステムも含めて考えたいと思います。日本の書籍の大半には返品制度が採用されており、発行部数=売れた部数ではありません。

A社のアリストテレスの書籍が500部発行
B社のアリストテレスの書籍が700部発行
C社のアリストテレスの書籍が500部発行、二刷でさらに500部発行

C社がよさそうですね。でも実態として、あとで書店から700部返品があって、実態としては300部しか売れていないかもしれません。B社は700部しか作っていなくとも、そのうち500部をきっちり売り切っている、でも500部のうち200部は著者買上で、一般の売上は300部かもしれません。A社は500部のうち400部を一般に売っているかもしれません。さて、どの会社が好ましいのでしょうか。A社、と言いたくなりますが、B社の200部の著者買上も売上は売上であり、それが学生にきちんと配布されて読まれるのであれば、むしろ届くべき読者には届いたと言えるでしょう。C社も増刷はした、ということは書店でPRはされた、ともいえますし、売れた300部のうち多くが図書館に納められていたら、多くの学生がそこで読んでいるかもしれません。

これは架空の数字ですし、けむに巻きたい、という意地悪ではありません。また上記の記述では「売れる」と「読まれる」をあえて混ぜて書いています。ここで言いたいのは、数百部内、4桁内の多少の数字の違いはドングリの背比べでしかないということ、また質の差はそこでは明らかにならない、ということです。

著者の方は「売れたい」と同時に「読まれたい(普及させたい)」のではないでしょうか。

「読まれる」という「売れる」と別の価値観を投入したのは上記の例に「著者買上」をいれたからでもあります。市場の自由競争化において身銭を切って買ってもらうことに価値をおいて考えたくなる心情もわかります。しかし「読まれる」ことが目的であれば、金銭の出所は本質的な問題ではないはずです。

一般に売れた部数が他の書籍より100部200部少なくとも、論文の引用が多くされるのであれば、――インパクトファクターの考え方の是非は一旦措くとして――届くべき読者には届いて、きちんと評価されたと言えるでしょう。

書籍に関して数字がでてきたときに、おそらく著者・研究者サイドで知ることのできる数字はごく一端です。その一部の数字の細かな差異について「売る」という基準で語ることの意味は何なのか、それは意味がないということでなく、個別に繊細に考えていただきたいのです。

細かな数字については多くの出版界隈のプロは把握と分析をしています。そして、書店・営業の方たちはそれに基づいてきめ細やかに仕事にされており、一方で「売上数字(POSデータ)だけに﹅ ﹅ ﹅基づく仕事」を慎重に避けておられます。

参考:「今後ますます重要度が増す作り手としての営業」(ダイヤモンド社 井上直氏講演録)
http://www.ajec.or.jp/category/interview2/?mypage_id=9027#container

参考:「うちの店を潰す気か」(書店員・すずきたけし氏note)
https://note.mu/kakunoshins/n/n0fa22ed82fd5

独立系書店・出版社において一人の個人事業主でやっているような場合に、ある程度、どんぶり勘定の場合はあるかもしれませんが、現在の出版業内で「数字がとれない」ということはほぼありません。ただ、その数字をどの程度、販売に活用しているか、またどの部署が管理しているか、社外だけでなく社内でも公開しているか、は会社によって異なるでしょう。

堀之内出版の書籍は、現在、基本的に初版は2000部刷っています。『nyx』は大体2000~4000部です。そのうえで、各書の部数公開は控えますが、単行本は刊行16点のうち重版点数10点、重版率62.5%です(まだ刊行点数が少ないということもありますが、大体野球のバッターの打率と同じで3割あれば優良です)。現時点での成績は率直に申し上げて悪くない、と言えるでしょう。弊社は直取引(トランスビュー取引代行)なので、返品率も低く、発行部数と販売部数の間に大きな乖離はありません。

ではなぜ堀之内出版は「悪くない」状況なのか。まず一番大きな要因は書籍自体の魅力・価値が高く、研究者の方にご執筆頂いていることが多いものの、ある程度の読者が見込める「ポピュラー化」(専門度が低く、専門外の読者でも読了が可能なレベル設定)をした原稿をお預かりし、一般書として刊行しているからです。専門書と呼べるものはごく一部です。専門書であればこのような数字は難しいです。それに対し、販売は出版業界でスタンダードな営業手法(上記のダイヤモンド社さんなどと同じような、数字を見ながらの書店さんとの協働、他社出版社さんとの協働、広告、SNS。分業されていないが、営業的な発想で装丁やタイトルをつくる)等で販売しているにすぎません。営業において、堀之内出版には奇策・新しくオリジナルな手法はありません。

専門書ではありませんが、ライツ社さんが12000円の高額写真集でヒットを出されたことなどは、ある意味同じく、奇策・新規手法頼みではなくベーシックな営業手法で、営業さんが書店さんと「きちんと仕掛けて売った」好例だと思います(ただし全く新規性がないということではなく、特定書店のみの限定カバーなどされていますが、きめ細やかな協働における手法のひとつであって、それ「だけ」ではない)。

参考記事:紀伊國屋書店新宿本店で、12,000円の写真集が1ヶ月で270部完売した理由
https://note.wrl.co.jp/n/n81d829986141

このベーシックな活動が「そもそもできていない」場合もあるでしょう。一例としては、書店事案ではありませんが、ある本を出版社直販で購入したところ、先に82円切手を貼った封書で郵便振替用紙が送ってこられ、入金後に書籍が送られてくる、ということがありました。出版社も読者もお互い時間もコストもかかるやり方です。堀之内出版は直販については「ストアーズ」を利用しています。入金方法も各種備えてあり、着金後は1営業日以内に発送しております。自社で新しい販売フォーマットを開発した!ということではなく、世間一般的には目新しいとは言い難いことですが、こうしたことだけでも、対応が追い付いていない出版社さんと比較された場合に「対応できているところは今どき風、新しくみえる」のかもしれません。

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本を残す、本を活かす、本を殺す

2019年3月4日
posted by 仲俣暁生

このところ、「本をどう残すか」ということをよく考える。個人の蔵書をどうするかといったレベルの話ではなく、物理的な書物だけの話でもない。本とはようするに「残された記録」のことだとすれば、考えるべきはさまざまな著作や文物を後世に伝えるための仕組み全体だ(往復書簡で藤谷治さんが書いていたとおり、本のなかには著者自身は後世に残すつもりなどなかったものも含まれる)。たまたま先月は、そうしたことを考えさせられる出来事が続いた。

「ジャパンサーチ」ベータ版の公開

まずは明るいニュースから行こう。国立国会図書館は2月末にベータ版(試験版)として「ジャパンサーチ(JAPAN SEARCH)」を公開した。これは国立国会図書館自身が所蔵する書籍や資料だけでなく、日本国内のさまざまな文化資源にかかわる36(公開時点)のデータベースをウェブ上で横断検索できるようにしたいわゆるナショナル・デジタル・アーカイブで、所蔵コンテンツの一部のほか書誌などメタデータが自由に利活用できる。

「ジャパンサーチ」ベータ版のトップページ。

EUでは2008年に「ユーロピアナ」が設立され、加盟国と一部非加盟国のデジタル・アーカイブが横断検索・利活用できるようになった。議会図書館の電子化が先行していたアメリカでも2013年に「デジタル・パブリック・ライブラリー・オブ・アメリカ(DPLA)」が完成したことで、公共図書館等のデジタル・アーカイブが横断検索できるようになっている。

こうした欧米の動きを追って日本でも内閣の知的財産戦略本部が旗を振り、2020 年までに「分野横断型の統合ポータルサイト」すなわちナショナル・デジタル・アーカイブの立ち上げを目指している。今回公開されたのはそのベータ版である。

「ジャパンサーチ」では公開段階で国立科学博物館、国立民族学博物館、国立歴史民俗博物館、独立行政法人国立美術館、文化庁・国立情報学研究所、NHK、公益財団法人放送番組センターなどのべ16機関が連携しており、検索可能なデータは1697万1526件(うち書籍等が約830万、自然史・理工学関係が約450万、公文書が約357万)。このうち約79万点はインターネット上での閲覧が可能で、そのなかの約43万点は教育や商用目的での利活用も可能である。

世界中でこのようにデジタル・アーカイブの連携が推進され、各機関・施設が個別に管理してきた文化資源データベースを統一的に運用できるようになってきた。こうした流れのなかで重要なのは、コンテンツがウェブに公開され自由に利活用できること以上に、メタデータが共通化され、それらの利用が進むことだ。こうした共通基盤がひとたびできれば、まだ共通化されていない他のデータベースの統合も進みやすい。そして文化資源の所在が調べやすくなれば、自ずとその利活用も促される。

デジタル・ネットワーク技術は文化資源の保存と、そのコンテンツの利活用推進を両立させうる。書物をはじめとする文化資源を長期にわたり安定的に残していくためには、秘匿する(その結果として死蔵され価値が忘れられる)のではなく、存在が多くの人の目に触れ大いに利活用されることのほうが大切だろう。その第一歩として、今回の「ジャパンサーチ」の試験版公開を大いに歓迎したい。

人類は本を破壊しつづけてきた

過去を振り返れば、人類の歴史において後世に残らなかった文化資産のほうが、残ったものよりも遥かに大いに違いない。先月末に邦訳が刊行されたばかりのフェルナンデス・バエスの『書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで』(紀伊國屋書店)という本によって、そのことをあらためて教えられた。

増補版は700ページを超える大著。

著者のバエスはベネズエラ国立図書館長を務めたこともある図書館学者で、2003年のイラク戦争後には、イラク国立図書館の被害状況を調査する国際使節団の一人としてバグダッド入りした。この戦争でバグダッドのイラク国立博物館が群衆による略奪を受けたことは、当時も大きく報道されていたから私も知っていた。だがそれに先立ち、国立図書館までが略奪され、破壊しつくされたことはこの本を読むまで知らず、大いに衝撃を受けた。この出来事を受けて書かれた本書の原著が2004年に刊行された際、副題は「シュメールの粘土板からイラク戦争まで」とされていた。

イラクすなわちメソポタミアは人類の文明史において「書物誕生の地」とされる。しかしこの地で栄え、書物の祖ともいうべき粘土板文書を生んだシュメール人の王国も、その後に栄えた(ハムラビ法典で有名な)バビロニア王国の図書館も、さらには新アッシリア王国でアッシュルバニパル王が作らせた大図書館さえも、すべて戦乱のなかで破壊された。21世紀のイラク戦争はそうした人類史において絶えず起こってきた出来事の最新エピソードに過ぎなかった。

著者のバエスはこうした本の大量破壊を「ビブリオコースト」と呼ぶ。ハイネが19世紀に『アルマンブル』という本に書いた「本を燃やす人間は、やがて人間も燃やすようになる」という言葉は、のちのナチスによる焚書とホロコーストを予言したものとしてよく知られている。だがこの本を読むと、人類は歴史上のあらゆる段階において本を焼き、破壊し、同時にその本を生んだ文明や国家を殲滅してきたことがわかる。しかも恐ろしいのは、その価値を知らないものばかりが書物を破壊してきたわけでない、という事実だ。むしろ知性も教養もあり、書物を愛する者でさえもが、敵対する文明の容赦なき破壊者でありえたのだ。

この本の増補版が2013年に出た際に副題の後段が「デジタル時代まで」と改められたのは、この間に本をめぐる環境が一気に変わったからにほかならない。ではデジタル文明は本を活かし、残す側なのか。それともあらたな破壊者になるのか。

デジタル技術は本を活かすのか、それとも殺すのか

『書物の破壊の世界史』の著者バエスは、本のデジタル化がもたらす変化に関して公平な態度を貫いている。この本の最終章「デジタル時代の本の破壊」には「電子書籍 vs 紙の書籍」という節があるが、バエスはその冒頭でごく穏当に次のように述べている。

二一世紀に入り、本という存在そのものがかつてない過渡期を迎えている。五〇〇〇年以上前にウルク(現イラク)の地で人類最初の文字が生まれて以来、図書館・書店・出版社が形成してきた情報伝達手段の大転換が始まったといえるかもしれない。出版業界にとっての大革命とも思しきこの出来事にも、著作権侵害や信頼に足るデータの消失というこれまでと同様のリスクが伴う現実も否定できない。

意外なことに、私は知らず知らずのうちにこの本に触れていた。ニューヨークの出版社、ORブックスの共同経営者であるジョン・オークス氏が1月末に来日し、東京の日比谷図書文化館で「生き残るための出版マネージメントとは?」と題した講演を行った際に配布された小冊子「アイデアの錬金術 出版と文化」のなかで、バエスの本についての言及が繰り返しなされていたのだった。

オークス氏には講演の翌日に長いインタビューを行った(本誌でいずれ記事として詳しく紹介する)が、彼自身が経営するORブックスは電子書籍とプリント・オン・デマンドのみで本を刊行する出版社であり、先の講演でもインターネットが本の出版にもたらした環境変化をポジティブに受け止め、そこに活路を見出すことを強調していた。

にも関わらず、翌日のインタビューでオークス氏はアマゾンのような巨大プラットフォームが本の世界であまりにも独占的な力をもつことに、つよい警戒心を抱いていた。

電子書籍はこれまで、「未来に残す」という、本にとって最も大切な役割を果たせてこなかった。そのことは、先日「マガジン航」の編集室でインタビューを行ったボイジャーの萩野正昭氏も、同社のこれまでの足取りを振り返るなかでしきりに語っていた。

あらためて、バエスの本が語るこの事実を思い起こしたい。知性も教養もあり、書物を愛する者でさえもが、敵対する文明の容赦なき破壊者でありえた。デジタル・テクノロジーを奉じる者は決して蛮族ではなく、知性も教養もある人たちだろう。しかしそのことは、ただちに本の未来が安泰であることを意味しないのだ、と。

百年後、できうるならば数千年後の未来をも想像しつつ、デジタルテクノロジーを用いて「本をどう残すか」ということに、たまには思いを馳せるべきではないか。遠い未来には古代の石碑だけが残り、紙の本も電子の本も残らなかった、などということにならないためにも。

生きてるうちから全集など考えないほうがいい

2019年2月28日
posted by 藤谷 治

第12信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

橋本治氏は、享年70とのことですが、夭折の感すらあります。山のような仕事をしながら、なお山のように仕事を残して亡くなりました。評価を定めるには時間がかかるでしょう。

僕は仲俣さんほどには、橋本治という作家に思い入れはありません(仲俣さんの氏に対する思い入れが尋常のものでない、ということもありましょう)。僕が読んだ橋本作品は、全体の十分の一にもならないでしょう。子どもの頃に読んだ『桃尻娘』は記憶の底に沈んでしまったし、『窯変源氏』も『双調平家』も未読です。アメリカに住んでいたころ、日本語が恋しくなってニュージャージーの紀伊国屋書店で買った『鞦韃(ぶらんこ)』という短編集のグロテスクに驚き、以後アメリカ滞在中はもっぱら藤沢周平を読むようになった、なんていう思い出があるくらいです。「フィクショネス」の店内で貧困にあえいでいた時は、『貧乏は正しい!』に勇気づけられもしました。

橋本治が「意地悪」なのは自他ともに認める特徴で、その意地悪は当代にこれ以上ないほど啓蒙的でした。その橋本氏が、小説の中で自作をめぐる人物についても、そして自作についても意地悪な見通しを描いているのは不思議ではないでしょう。橋本氏ならずとも、本の現状について多少なりとも関心のある人間なら、本の未来を光り輝いていると思い込むことは難しいのではないでしょうか。

商業出版の観点からいえば、著作権保護の期間が延長されるのはネガティブな問題かもしれません。著者の没後、著作権継承者を探し回ったり、継承者との折衝に腐心する編集者の苦労話を、僕も何度か聞いてきました。

一冊の知られざる傑作を発見した編集者が、その本を是非とも出したいと考えたとします。しかしその著者が60年前に死んでいるとしたら、一体その編集者は、どうやって著作権継承者を探すのでしょう。その著者の一族が、コンスタントに子孫を残し続けてくれていればいいが、その頃には何がどうなっているのか判らないというケースが、今以上に増えるのではないでしょうか。情熱的な編集者であれば、継承者を求めて、著者の兄の孫の嫁の居場所を必死になって捜索してくれるかもしれません。しかしそんな面倒くさい作業に、果たしてその「知られざる傑作」は値するだろうかと、編集者が途中で出版企画を放り出してしまう可能性だって、あるんじゃないでしょうか?

本が残るということが、単に作品の質だとか「再発見」によってだけ成り立つものではないのは、僕より仲俣さんの方がご存知でしょう。本は残りにくくなっており、今後その傾向はますます強くなっていくでしょう。読者の減少や「劣化」といった質的問題、あるいは需要の問題もあるかもしれませんが、そもそも物質的に本は供給過剰なのです。

せちがらい出版業界の状況を無視して、話を文学史論、芸術史論に限っても、同じことかもしれません。芸術の歴史は淘汰の歴史です。僕たちは過去をフルイにかけて現在を生き、未来のフルイからこぼれ落ちるでしょう。同時代においてどんなに称賛され、尊敬されても、ふた世代もすれば忘れられる文学者、芸術家の、なんと多いことか。スタンダールの墓碑銘には、「私が愛したのは、モーツァルト、チマローザ、シェイクスピアだけであった」と書かれているそうですが、16世紀の劇聖と18世紀の神童のあいだに、オペラ『秘密の結婚』の作曲者の名が刻まれているのは、僕には奇妙に思えます。しかし恐らく、スタンダールの時代には、この名前は他の二人の天才と並び称される評価を得ていたのでしょう……多分。

もちろん、正反対の事態も芸術史には生じています。宮沢賢治やフランツ・カフカの知り合いが、こんにち彼らの文学がどれほど評価されているかを知ったら、あっけにとられるに違いありません。『ドン・キホーテ』はセルバンテスがふざけて書いた小説でした。チャンドラーは金のために書いたのです。今や彼らは文学の王様のような扱いを受けています。しかしもちろん、だから今は評価されていない俺だって後世には、などと期待するのは、捕らぬ狸の皮算用のうちでも、相当情けない部類に属するでしょう。

誰の何が残り、また残されるべきか。そんなことは、生きている創作家や文筆家は、考えたってしょうがありません。出版の現状に照らし合わせて考えても、こんなに本が多いのでは、よほど話題性がない限り、うずもれてしまうのは無理もないことです。

しかしやはり、(読者ではなく)一般的な消費者の、文学に対する無関心は深刻な域に達しているのでしょう。ただ、この無関心にも僕は、その原因を文学史そのものに見出すことができると思っています。これは日本文学独自の問題です。日本では、「純文学」と「娯楽文学」のあいだに決定的な、あってはならない懸隔があったのです。

明治以来、日本の文学者――のちに「純文学」と括られるようになる文学の創作者には、「面白さ」に対する、侮蔑といっていいような意識がありました。芥川龍之介が谷崎潤一郎を批判した「話の筋論争」や、久米正雄が「私小説と心境小説」で主張した、フローベールもドストエフスキーも、しょせんは偉大な大衆小説だ、という文学観は、大正から昭和初期にかけて起こった大衆小説の大ブームに対する危機意識だったのかもしれませんが、そうだとしても逆に言えば彼らは、そのような形でしか危機意識を持たなかったのです。

当時の大衆小説――チャンバラやお涙頂戴、英雄崇拝や犯人捜しや母恋ものといった量産される小説に対抗すべく、『罪と罰』や『ボヴァリー夫人』に匹敵する面白いものを書いてやる、という方向には、彼らの意識は向かなかったのでした。

そして、そのような懸隔、あるいは「面白さ」への侮蔑(無意識なのかもしれませんが)は、今現在まで続いていると、僕はあえて断言します。

文学の面白さは、勧善懲悪や悲恋のような、既知のものに束縛されない。言語表現や直視すべき社会問題、個人の意識など、未知の面白さがあるはずだ――。純文学の主張、あるいは存在理由は、そのような新しい面白さへの、自由さと実験にあるはずです。しかし大半の純文学が、表現や問題意識にとどまり、面白さへの追及にまで至っていません。どうやらある種の純文学作家は、自分の表現を読者に、いかなる意味でも「面白いもの」として提示するつもりが、そもそもないのではないかと思えます。面白いかどうかは、最初から念頭になく、ただ新しく、ただ巧みだったり清新だったり深刻だったりするものを書き、こういうものを興味深く読んでくれる人もいる、という主張(この主張自体は正しいものです)を信じている・そうとしか思えない純文学は、現在まで連綿と続いているのです。

こんなことは、まったく言うまでもないことですが、面白さというのは困難で難解な、表現上の大課題です。この課題を乗り越えなければ、文学は、そしてあらゆる表現は、時間のフルイから、真っ先に落とされてしまうのです。面白ければ残る、というわけではないが、面白くないものは、決して残らない。それは同時代でも後世でも同じです。

この「面白いとは何か」という課題の大きさに、日本の近現代文学は真正面から取り組んできませんでした。そのような文学が、読者はともかく、一般的な消費者、あるいは常識的な社会人から、相手にされなくなるのは、ほとんど必然というほかないでしょう。

そして一方で、相も変らぬ人情や英雄、悲恋や完全犯罪をえんえんと繰り返し続け、そのためにジャンルを果てしなく細分化し続ける「娯楽小説」もまた、成熟した人間がまともに取り合おうとしないからといって、文句の言える筋合いかどうかは、よくよく自らを検討しなければならないはずです。

あんまり長くなってしまったので、最後にふたつだけ書いて終わりにします。仲俣さんの質問に答えなければなりません。

まず僕の全集についてですが、そういうことは生きている小説家は、考えないほうがいい、と思っています。昔の人気作家はよく、生前に、しかもキャリアの中盤あたりで、全集を出していたものでした。思い出すと羨ましい気持ちにもなります。だけどそういうのって、ちょっと退嬰的というか、権威主義的な感じがするし、そもそも読者が少ない僕みたいな小説家は、目先のことしか考えられません。それに選集ならともかく全集というのは、現役の小説家には精神衛生上よくありません。全集を出される、なんて空想したら、失敗作が書けなくなりそうです。現役の小説家には、失敗する自由だけが自由といえます。

それから、「僕たちが85歳を迎える頃に「本」はどうなっているか、あるいはどうあってほしいか」。

非常に逆説的というか、それこそ「意地悪」な回答になってしまいますが、僕が85歳まで生きていたとして、その時の本は、今とまったく変わっていません。これは空想でも希望でもなく、事実です。だって僕にとっての本、つまり僕の本は、すでに僕の本棚にありますから。売り飛ばしたり燃えたり捨てたりしない限り、本はずっと僕の家に居座り続けるでしょう。

これが本というものを考えるときの、やっかいなジレンマ、あるいはパラドキシカルな一面なのです。つまり本というのは、僕の読みたいものが、僕の分だけあれば、それで充分なんですよ。世間に出回っているかいないか、売れているかいないか、僕の死後にどうなるか、そんなことはどうでもいいし、考えるにしても、実は本質的ではないのです。つまり本というのは、社会的に考えることができない商品なのです。この矛盾。商品とは社会的にしか存在しえないものなのに。

ですから僕は未来の本のありようというものに、ごく冷淡な感情しか持っていません。自作についても同じです。届いた人に届けばいい。読めた人に読んでもらうほかはない。自分の本に小説家が託せるのは、結局のところそれだけです。もちろんそれは、祈りと変わるところのないほど、熱烈な希求を込めた「それだけ」であるのですけれど。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信|第13信につづく)


【お知らせ】
「21世紀に書かれた百年の名著を読む」第1回
仲俣暁生×藤谷治「イアン・マキューアン『贖罪』を読む」

3月29日に東京・荻窪の本屋Titleにてトークイベントを開催します。開始時間は19時30分。料金は1000円+ドリンク代500円、定員は25名です。詳細な内容と参加申し込みは以下のサイトをご覧ください。
http://www.title-books.com/event/5955

闘う図書館と情報の自由――ライブラリー・フリーダム・プロジェクト

2019年2月26日
posted by 八田 真行

近年、インターネットの普及や書籍等の電子化に伴い、図書館の社会的役割が大きく揺らいでいるように思われる。今や図書館の一般的イメージは、「無料貸本屋」、あるいは最悪「コーヒーショップの添え物」といった感じではないだろうか。私は子供のころから図書館のヘビーユーザーであり、今の自分の6、7割方は図書館で借りた本やCDから学んだ知識が形作ったと思っているので、寂しいことである。

図書館もさることながら、図書館を司る司書もまた、一般の利用者からは縁遠い存在だ。本の整理係として以外、司書の具体的な職掌を知らない人が大多数ではないだろうか。最近では自治体等の財政難もあって、司書の地位も不安定化しているようだ。

こうした傾向は世界的なもののようだが、最近アメリカでは、図書館、あるいは図書館司書に従来とは違った役割を見いだす動きが出てきている。その一つが、Library Freedom Projectだ。2015年に始まったこのプロジェクトは、大学や自治体の図書館をサイバーセキュリティやプライバシー教育の拠点と位置づけ、図書館司書にTorのようなプライバシー強化ツールの使い方を伝授している。

Library Freedom Projectは図書館が監視と戦うためのツールを提供すると謳っている。

Torについてはご存知の方も多いだろうが、簡単に言えば、匿名でウェブサイトにアクセスするためのツールである。例えば掲示板サイトにアクセスした場合、書き込み自体は無記名であっても、アクセスログにIPアドレス等の記録が残る。Torは、複数のリレーサーバを経由することで、最後の(全く無関係な)リレーからアクセスしているように見せるので、実IPアドレスは記録されないわけだ。これにより、検閲やトラッキングを心配せずにインターネットにアクセスすることが可能となる。

なぜ図書館にTor?と思う向きも多いだろうが、このプロジェクトは、そもそも図書館とは何なのか、という問いから始まっている。アメリカ図書館協会(American Library Association)が基本原則として採択している「図書館の権利宣言」(Library Bill of Rights)には、

  1. すべての人に知る自由を提供。著者や背景、思想を理由とする資料排除の禁止。
  2. 党派・主義を理由とする資料排除の禁止。
  3. 検閲の拒否。
  4. 表現の自由や情報アクセスの自由を求める抵抗者との協力。
  5. 図書館の利用に関する個人の権利の平等な保障。
  6. 展示空間や集会室の公平な利用。
  7. 利用者差別の禁止。利用者のプライバシー、個人特定情報を含む利用者データの保護。

という7項目が明記されている。特に3、4、7(これは最近追加された)がポイントで、ようするにアメリカの図書館というのは単に本を貸す場所ではなく、利用者の知的自由を守る場所なのである。ゆえに、利用者保護に情報技術が使えるとなれば、その導入に躊躇しない。アメリカの図書館は1939年以来、思想を統制しようとするファシストや宗教右翼、あるいはテロとの戦いを名目に不当に利用者を監視しようとするFBIやCIAといった情報機関との闘争の場でもあって、本質的にラジカルな存在なのだった。

翻って日本の状況を見ると、実は日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」にも似たようなことは書いてあるのだが、いかんせん紙媒体を前提としたもので、古色蒼然という感は否めない。なかなか難しいことだとは思うが、政府はもとよりオンライン・プラットフォーム等の大企業による利用者の監視やデータの不当な取得が問題となりつつある現在、日本の図書館も自己規定を問い直す時期に来ていると思う。Torの使い方くらいならいくらでもお教えしますよ。


※本稿は2月20日にYahoo!ニュース個人で公開された「闘う図書館と情報の自由―ライブラリー・フリーダム・プロジェクト」を、著者の承諾を得てそのまま転載したものです。