海の見える一箱古本市のこと

2017年1月11日
posted by 佐藤友理

「一箱古本市」とは、「素人からプロまでが同列に古本を販売するフリーマーケット型の古本市」である。出店者は「店主さん」と呼ばれ、それぞれに好きな屋号をもち、一箱分の本を持参して、その日限りの本屋さんを開く。どんな本をいくらで売るかは自由。

はじまりは2005年に東京の谷中・根津・千駄木で開催された「不忍ブックストリートの一箱古本市」で、「一箱の本」を通じたコミュニケーションの形が評判を呼び、現在は全国各地で開催されている。谷根千ではじまった経緯は、一箱古本市の産みの親である南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)さんの著書『一箱古本市の歩き方』(2009年、光文社新書)に詳しい。

瀬戸内・高松の一箱古本市

香川県高松市で開催している「海の見える一箱古本市」は、今年で3年目を迎えた。初開催は2015年9月。東京でスタートしてから10年後ということになる。この10年で全国に広がり、昨年(2016年)1〜8月だけでも約80箇所で開催されたらしい(後述する雑誌『ヒトハコ』創刊号掲載の集計より)。毎週末、どこかで一箱古本市が開催されている計算になる。店主さんとして参加していた人が新たに主催者になったりして、新規参入も増えているようだ。一箱古本市に関わる人口は、どんどん増え続けている。

2015年9月21日に開催された、第一回「海の見える一箱古本市」の会場風景。

2015年9月21日に開催された第一回「海の見える一箱古本市」の会場風景。

「海の見える一箱古本市」はこれまで、3ヶ月に一度程度のペースで、計5回行った。遠方からも旅行がてら参加してもらえるように、主に大型連休に開催している。初回はシルバーウィーク、2回目は11月の3連休、3回目はゴールデンウィーク、4回目はお盆だった。

そして5回目は、会場を高松港近くの大きな広場に変更し、規模を拡大して開催した。3年に一度行われる現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の期間中だったため、普段よりたくさんの人に来てもらえるのではという狙いがあった。このときは、同会場で「せとうちART BOOK FAIR」というものを開催したり、本やZINEにまつわるトークイベントを終日行ったりして、大いに盛り上がった。

2016年10月に開催した第5回目は、高松港近くの大きな広場で開催。

「プラットフォームのような本屋さん」が舞台

この「海の見える一箱古本市」を主催しているのは、わたしが働くBOOK MARÜTEという本屋である。古い倉庫をリノベーションした商業施設「北浜アリー」の中にあり、店の窓からは、毎日たくさんのフェリーが行き交うおだやかな瀬戸内海が見える。店では新刊の写真集やアートブックを取り扱い、併設のギャラリーでは写真展などの展覧会を常に行っている。地方の小さな本屋だが、本屋を軸にしながら本以外のさまざまなプロジェクトもあり、住む場所を問わずいろいろな人が関わってくれている。雑誌やコミックは置いていない。いわゆる老若男女が通う「まちの本屋」では、ない。

BOOK MARÜTEの店内。店の窓からは瀬戸内海が見える。

わたしがこの店で働くようになったのは2015年の春。それ以前は東京で働いていた。生まれは東北である。それがひょんなことから高松に住むことになり、引っ越してすぐに縁あってスタッフになった。一箱古本市をはじめることになったきっかけも、この頃にさかのぼる。

当時BOOK MARÜTEは働く仲間を募集しており、わたしが入ったすぐ後に、SNSに求人情報を掲載した。ありがたいことにたくさんの人が拡散してくれたおかげで、全国から70名ほどの応募があった。半数近くが香川県外からの応募だったと思う。これを機に移住したいという方もいた。

BOOK MARÜTEは会社ではなく、個人事業主がそれぞれに関わるプラットフォームのような場所だ。関わり方に決まりがあるわけではない。この場所をつかって、いろいろな人が特技を活かしながら、これまでにない展開をしていけたら理想形だ。

決められた関わり方がないのだから、まず実際に会って話をしてみないと何もはじまらない。しかし、いざ面接をするとなっても、県外の方に面接のためだけに香川にきてもらうのはなかなか難しいことがわかった。高松にくるタイミングがあれば連絡ください、というメールのやり取りで終わってしまうことが多かった。しかし、地方の小さな本屋に共感してアクションを起こしてくれた方々が、全国にこんなにいるのだ。その得がたい縁を無駄にしてしまうのはとてももったいない。まずみなさんに会う機会をつくれないかと思った。

応募者の中に「一箱古本市をやりたい」という兵庫県在住の女性がいた。運営経験をもつ神奈川県在住の女性もいた。それならば、彼女らに協力してもらい高松で一箱古本市をして、そこに他のみなさんも参加してもらってはどうだろう。きっかけをこちらが作れば、そのタイミングで高松に来てくれるかもしれない。

顔が見える相手に大事な本をわたす

いま思うと最初から、高松のブックシーンを盛り上げようとか、地域活性化に貢献しようなどの考えはなかった。その点が、ほかの地域で開催されている一箱古本市とは違っているところなのかもしれない。高松には人を惹きつける不思議な力がある。わたしもその力に導かれてここにやってきた。だから、全国の本好きが高松にきて、ここでつながったら何か面白い展開になるんじゃないかと思っていた。

余談だが、「海の見える一箱古本市」という名前にしたのも、高松に来たいと思ってもらうきっかけになると思ったからだ。一箱古本市の会場に決めた場所は、北浜アリーの中にある広場で、穏やかな瀬戸内海がすぐ目の前にある。

風を感じながら瀬戸内海を眺めるときの開放感や不思議な安心感は、唯一無二の財産だと思う。この心地よさの中で本のイベントができるということが、他のどこにもない、この一箱古本市の大きな魅力だと思ったとき、「海の見える一箱古本市」という名前がしっくりきた。

やると決めてからは、経験者の方から運営のことなどいろいろ教えていただきながら、準備をすすめた。わたし自身は一箱古本市に参加したことがない。話を聞いていたら、どうやら一箱古本市の醍醐味の一つに「一箱という制限の中で本をセレクトする難しさと楽しさ」というのがあるようだ。もともとの目的が、不用品のフリーマーケットとは大きく異なっているのだ。

高松では一箱古本市の認知度がまだ低かったので、告知ページには以下の一文を明記した。

このイベントは、店主がセレクトした本を売る古本市(新刊も可)です。手から手へ本が渡る、顔が見える相手に大事な本をわたす、そうしたイベントです。不用品販売やフリーマーケットとは異なりますのでご注意ください。

こう書いてはみたものの、参加へのハードルが上がってしまうのではないかと、少し心配になった。

各地の一箱古本市の募集要項や、経験者の方からの情報を元に「店主さんの手引き」も作成した。「これさえ用意すれば大丈夫」という、できるだけ親切な内容にすることを目指した。たとえば、「すべての商品に値段をつけること」「ブースのどこかに屋号を掲示すること」「釣銭を用意すること」など。箱のディスプレイについては、いろいろ工夫してもいいし、ただ箱に本を入れるだけでもいいよ、ということが伝わるように、経験者の方からいただいた過去の画像を参考として載せた。

出店料は1,500円とした。告知方法は主にSNS。加えて地元の新聞にも情報を載せてもらった。

会場づくりについては、コンパネでつくる簡単な組み立て式のテーブルを用意した。天板のサイズは90cm×180cm。1店あたりのブースサイズを90cm×90cmとしたので、一つのテーブルに2店舗がならぶ計算だ。このスペースに収まれば、レイアウトは自由。本の量は一箱分。「一箱」の量に厳密な基準は設けず、「両手で持てる程度」とした。遠方からでも気軽に参加してもらえるように、箱の事前預かりも受け付けた。これなら、当日は手ぶらで来てもOKだ。

いざ募集をかけてみると、半数近くが県外からの応募だった。集まったのは27箱。会場がほどよく埋まる数である。求人に応募してくださった方も何人か応募してくれた。まだ見ぬ出店者さんに思いをはせつつ、はじめてのイベントに不安を抱きつつ、緊張しながら当日を迎えた。

「大人の本気の遊び」

イベントがはじまってすぐに、あらゆる心配は杞憂だったとわかった。

わたしが手厚くサポートをしたり気を回したりしなくても、それぞれの店主さんや来場者の方々によって、あっという間に会場の雰囲気は出来上がった。

一箱古本市は、主催者がつくるイベントではなかった。その場に集まった売る人や買う人が、おのおのに工夫して、交流して、勝手に面白くなっていく。初参加という方が多かったのに、箱のディスプレイもとても個性豊かで驚いた。それぞれのブースを面白くしたいという健全なエネルギーが会場全体に蔓延していて、負の要素なんて全然なかった。午前10時にスタートして、終了する15時まで、ほとんど人が途切れなかった。大成功だったと思う。

面白いイベントになったのは間違いなく、主催者ではなく参加した方々のおかげだったのだが、終了後はたくさんの方にお礼を言われた。とても嬉しかったのだが、イベント中、わたしは本当に何もする必要がなかった。ただ会場を回り、おしゃべりしながら本を買って、写真を撮っていただけだった。つまり主催者の役割は、ただ人が集まる場所を用意することだけなのだと気がついた。

店主さんは、普段は本とは関係のない仕事をしている人がほとんどだった。もしかしたら本業ではないからこそ、純粋に楽しむことにエネルギーを注げるのかもしれない、という気もする。そして基本的に利益はあまり求めていないと思う。売上については、毎回報告を受けていないし、わざわざ聞かないようにしている。でも会話の中で出てくる話によると、2,000〜3,000円だったという人が多いし、1万円近くかけてイベント用の什器を自作した人もいたりして、出店料や交通費などいろいろ考えると赤字になることも多いのではないかと思う。2万円売れたぞー!という人もいたけれど、たぶん稀だ。売上ありきで考えたら、きっと一箱古本市には参加しない。第一に、楽しむこと。これは「大人の本気の遊び」という感じがしている。

最初は「求人に応募してくれた方に会いたい」というだいぶ変わった目的のために開催したイベントだったが、第1回目を終えてみて、このイベントの自体の面白さに目覚めてしまった。一箱古本市は、とても奥深い。これは続けていこうと思った。

普段は本を享受する側の人が能動的になれる場

思えばたぶん、これまでわたしは、人が本を楽しんでいるところを目の当たりにしたことが、ほとんどなかったのかもしれない。本の楽しみは、著者と読者の無言のコミュニケーションの中にあるという固定概念があった。

以前頭の中に描いていたブックシーンの構成図において、自分もふくめた読み手はいつも「一般大衆」とか「消費者」だった。いつだってブックシーンを変えていくのは、著者や出版社や本屋だと思っていた。

しかし、一箱古本市では、普段は本を享受する側にしかいない人たちが、個性をもって能動的にいきいきと登場してくる。とても刺激的な光景だった。一人一人が本というメディアとそれぞれの形で付き合っている、そんな当たり前のことが想像できていなかったことに驚きもした。そして一箱古本市に出店する人たちは、心が健やかなのだ。もしかしたらいつもは違うのかもしれない、ネガティブで卑屈な性格の人もいるかもしれない。でもあの場所にいるとき、少なくともわたしは全身でそう感じたのだった。本当に心地よい体験だった。

店主さんの中には、家から読まない本をもってくるのではなく、このイベントのためにわざわざ本を仕入れている人もいる。一箱のなかに独自の世界を作り上げるのだ。たぶん彼らにとって箱を作り込むことは、自己表現の手段でもあるし、他人と共感しあう最強のコミュニケーションツールをつくることでもある。何も話さなくても、箱の中の本を見れば、相手と気が合うかどうかがすぐにわかるからだ。よく「本棚を見れば人となりが分かる」というが、まさにそんな感じだ。普段はなかなか他人の本棚を見る機会は少ないが、一箱古本市では堂々と覗きこむことができる。

ただの妄想だが、わたしは、本棚を見せ合うお見合いなんかがあってもいいなと思っている。一箱古本市のとき、店主さん同士は、職業やライフスタイルや、会社でどれくらい偉いのかとか収入がどうとか、そんなこととは関係のない次元でコミュニケーションを楽しんでいる。多くの場合、名前すら知らない(屋号は知っている)。本を介すことで、興味のあることや、ふだん考えていることなどを感じ合うことができる。初対面なのに、この人がおすすめする本ならぜひ読んでみたい、と思って買うこともよくある。どんな本が好きかという視点で相手を見るというのは、とてもロマンがあるなと思う。

海の見える一箱古本市は、回を重ねるうちに、地元高松からの参加も増えてきた。これまではお客さんとして来ていた方が店主さんになってくれることも多い。地域を盛り上げるなどという大それたことは言えないが、自分の街で一箱古本市が行われることが、何かのきっかけになれていればいいと思う。

個人的には、本を通じて新たな出会いがあり、そのつながりが日常にも反映されて世界がひろがっていくのは、単純に嬉しい。本をきっかけにつながった人とは、なぜか長い付き合いになる気がしている。ほかの方にとってもそうであったらいいなと思う。

一箱古本市から生まれた雑誌『ヒトハコ』

『ヒトハコ』創刊号(発行: 書肆ヒトハコ、発売: 株式会社ビレッジプレス)

2016年11月、全国の一箱古本市関係者を中心につくる雑誌『ヒトハコ』が創刊された。編集発行人は冒頭でも紹介した、一箱古本市の産みの親であり、全国の一箱古本市や本屋を行脚し、たくさんの本好きとのネットワークを持つ、南陀楼綾繁さんである。雑誌をつくるにあたり、それぞれ違う場所に住む5人の「地域編集者」が召集され、恐縮ながらわたしもその一人に入れていただいた。「本と町と人をつなぐ」がテーマのこの雑誌には、さまざまな地域の本好きたちが生き生きと登場する。まさに、わたしが実際に目にしたような楽しさが、紙面ににじみ出ている。読んでいて、また一箱古本市やりたいな、と思った。

「海の見える一箱古本市」は、今後も継続予定だ。正直いって、規模を大きくしたいなどという野心はない。ただ、人と人が健やかに出会いつながる場所を作れることがとても楽しいと知ってしまったから、できる範囲で続けていきたいと思う。もっとまだ見ぬ本に出会いたいし、いろいろ教えてもらいたい。発見したい。健やかなエネルギーに包まれたい。つまるところ、ただ目の前で楽しいことが起きてほしい、それだけのような気もする。

次回は春に開催予定。今度はどんな人に、どんな箱に出会えるのか。いまからとても楽しみだ。

梅棹、マクルーハン、ケリーあるいは不思議の環

2017年1月10日
posted by 服部 桂

ネットやITが日常化した現在、情報化や情報産業、情報社会などという言葉を聞いて(少々古びてきてはいるが)違和感を覚える人はいないだろう。これらに共通する「情報」は、いまではデジタルテクノロジーが表現するコンテンツを指し、現代社会に不可欠の要素として空気や水のような存在だ。ところがおかしなことに、40年ほど前にこれらの言葉が広く使われるようになったときには、世間はまるで違う反応をしていた。いまでは想像もできないだろうが、そこには何か得体の知れない、いかがわしさが付いて回っていたのだ。

「情報」という言葉は、19世紀にフランスの歩兵の演習マニュアルを訳した際に「敵情を報知する」という言葉から派生して使われるようになったと言われており、戦後の冷戦期においても、敵国の国家機密を探る情報局のような機関がこの言葉を冠していたことからもわかるように、常に軍事機密や陰謀の臭いがする何か影のある言葉だった。特に冷戦が激化した60年代はスパイ映画が多く作られ、「情報戦争」とまで言われ、暗いイメージが付きまとった。

「情報産業論」の先駆者・梅棹忠夫

この情報という言葉を日本で正面切って、現代的な意味で最初に取り上げたのは、文化人類学者の梅棹忠夫だろう。1960年にカラー本放送が始まって間もなく、テレビ局で働く人々を「放送人」と名付けて注目された梅棹は、大阪朝日放送が刊行していた月刊「放送朝日」1963年1月号に「情報産業論」を寄稿し、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスメディア(マスコミ)を、情報を組織的に提供する産業という意味で「情報産業」と呼ぶことで世間を驚かせた。さらにその概念を、マスコミを超えて「興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで」、情報を商品として扱っているサービス業にまで広く適用して論を展開することで物議を醸した。

1960年前後、40歳頃の梅棹忠夫。北白川伊織町の自宅(現ロンドクレアント)1階北側の居間に付属した狭い部屋。書斎をつくる前、そこで執筆していた。(写真:梅棹家蔵)

梅棹は情報産業が従来の産業のように、手で触れることのできる<もの>を相手にする「実業」ではなく、情報という<ものではない>何かを扱う「虚業」であることを認め、情報というものは、コンニャクがそれ自体で意味がないものの食品としては意味があるように、実体(栄養)がなくても受け手によって意味が生じるものだとした。そして、そうした何かが産業として成り立つための商品価値は、送り手と受け手の関係性によって左右される「お布施の原理」で決まると説いた。情報の価値は、<もの>の経済のような需要と供給の単純なバランスではなく、坊さんの格やありがたさでお布施の値段が変化するように融通無碍だという説に、世間は度肝を抜かれた。

当時のコンピューターは「電子計算機」と呼ばれ、給与計算や科学計算などのデータを処理して結果を出すことが主な使い方で、電子化したデータ自体を情報や商品として扱うことはほとんどなく、あったのは海外の化学物質や特許などのデータベースを国際回線でアクセスするぐらいのものだった。大量のデータを記録できる媒体はリールに巻かれた大きなテープで、いまの100万分の1程度の伝送速度しかない当時の回線では大した情報を送ることはできず、テープ自体を郵送している時代だった。

梅棹忠夫は1920年生まれで、若いころから探検や登山が好きだった。京大で今西錦司に師事し、朝鮮半島や樺太、内モンゴルなどを探査していくなかで、動物学から生態学、文化人類学へと興味を移していき、ユーラシア大陸を周辺部(第一地域:西欧と日本)と中心部(第二地域:中国、インド、ロシア、地中海・イスラム)とに分けて文明を生態学的に論じたユニークな『文明の生態史観』(1967)は大きな波紋を呼んだ。フィールド調査の記録や情報整理から考案した京大式カードなどの手法を公開した『知的生産の技術』(1969)で広く知られるようになり、大阪万博の企画にも関わり、その後にできた国立民族学博物館で74年から初代館長を務めた。86年に失明したが、文明や日本人、日本語のあり方などに関する著書を精力的に口述で出し続け、2010年に没した。

梅棹の同時代人、マクルーハンの「メディア論」

世界の秘境を調査して言葉の風習もわからない相手の世界観や歴史を探り出す文化人類学的手法を、まだ得体の知れない何かと思われていた情報に当てはめ、まるで異星人のような目で時代の思い込みを排し、マスメディアを情報産業と見切った梅棹の見識に当時の人々は驚いたが、いま振り返るとそれは慧眼であったのと同時に既視感も覚える。

それは梅棹の同時代人で、やはり当時はまだ市民権を得ていなかった「メディア」という概念を論じて、世界的に論争を巻き起こした、カナダの学者マーシャル・マクルーハンのアプローチだ。マクルーハンは工学から文学に転じ、英ケンブリッジ大学に留学し、中世文学を研究した。帰国後にアメリカの大学で教鞭をとることになり、大量消費とポップカルチャーで花開いた若者文化に衝撃を受け、中世文学を研究する手法でその意味を探ろうとして『機械の花嫁』(1952)という本を書いた。彼には中世の教会での説教やステンドグラスなどによる表現が、アメリカの広告や情報文化に重なって見えた。

彼はそこに通底する何かを、「メディア」という言葉で総括し、『メディア論』(1963)で、当時の新しいメディアの代表だったテレビが、活字文化に無意識に支配された近代の呪縛を解く、電子メディアの雄であると説いた。梅棹の言う「情報」とマクルーハンの唱える「メディア」はほぼ同じ領域を相手にしており、そこには文化人類学と文学という別々の分野から、まだ研究の対象として意識されていなかった時代の変節に鋭く切り込む、新しい知の挑戦が浮かび上がってくる。

情報が現代的な意味で学問的対象となったのは、戦時中のレーダーや通信研究から、ベル研究所のクロード・シャノンが提唱した「通信の数学的理論」(1948)が最初だとされる。また、MITのノーバート・ウィーナーが「サイバネティックス」という言葉で人間と機械の情報的結合を理論化し、人間と計算機の関係が定式化された。そして1959年には情報処理国際連合が結成され、日本でも60年に情報処理学会が設立されている。そして60年代の大型電子計算機によって国鉄や銀行業務のオンライン化が始まった後に、70年代には計算機の小型化によるビジネス分野でのOA(オフィス・オートメーション)化も始まり、コンピューターの利用が一般化することで、情報という言葉が少しずつ世間で論議の対象になっていった。

コンピューターはただの科学技術の数値計算や給与計算から、より広い分野にも応用されるようになっていった。70年にできた世界的なシンクタンクのローマクラブは、地球環境のシミュレーションを行った結果を「成長の限界」という報告書で72年に発表し、資源採取や環境汚染が続けば21世紀前半に世界が破綻すると説き世界に衝撃を与えた。77年にはフランスで、社会の情報化を「テレマティーク」と表現したシモン・ノラとアラン・マンクによる「ノラ=マンク報告書」が出され、80年にはアメリカの未来学者アルビン・トフラーが、人類の歴史で三度目の大変革として農業革命、産業革命に次ぐ情報革命が起きると説いた『第三の波』が出版された。

おりしも欧米各国は戦後の産業発展を受けて、公共事業の民営化や自由化を推進し始め、日本でもNTTの前身である日本電信電話公社が85年に民営化されることになった。この時点で、米国も世界最大の通信会社AT&Tを自由化し、英国やドイツもその流れに続き、規制が厳しかった通信事業が情報産業と接続されることになる。パソコンも売り出され、一般人が公衆回線を介しての通信、いわゆる「パソコン通信」を始めた。日本ではこうしたコンピューターと通信の融合を「情報通信」と呼んだ。一般向けの電話とテレビをつないだ情報端末サービスのキャプテンや、テレビの文字放送なども始まり、そうした新しい動きが「ニューメディア」と呼ばれた。

これらの新たな動きのなかで、80年代には情報という言葉がコンピューターを応用したサービスと関連付けられていった。「21世紀に入る頃にはニューメディアが一般化した情報社会が実現する」という、いまのネット社会論のような論議が各所で語られるようになった。梅棹の「情報産業論」などの論考を再録した『情報の文明学』(1988)は、こうした時代の節目に再度注目されて広く読まれるようになった。

ケヴィン・ケリーの「テクニウム」概念

しかし本格的な変化が起きたのは、1990年代にインターネットが一般化したときからだ。それまでの情報化は、あくまでも公共事業や企業のシステムが中心で、家庭や教育現場、個人の利用は限られたものだったが、ウェブによって一般人が情報端末としてのパソコンを操るようになっていった。そしてその中を流れる文章や音楽、映像などが、本やレコードといったパッケージのないデジタル形式のコンテンツとして商品になっていく過程で、情報というものが、何かの代替ではなく、それ自身が意味を持つようになったのだ。

90年代にデジタルをただのテクノロジーやビジネスとしてではなく、新しい文化として扱った初の雑誌「WIRED」の編集長だったケヴィン・ケリーは、梅棹やマクルーハンが大型電子計算機の普及時に感じた変化を、80年代からのパソコンの普及やインターネットの中に見た。マクルーハンはテクノロジーを人間の意思を伝える手段すべてと考え、それが作る環境をメディアと呼んだが、ケリーはテクノロジーをもっと広い概念に拡張した。テクノロジーは人間の意思の道具であるばかりか、人間の意思自体も生み出す環境を創造する宇宙全般を動かしている、もっと基本的な原理と見たのだ。

テクノロジーを国家や企業が人々を支配する手段として敵視していた若い頃のケリーは、ヒッピーとなってアジアを放浪していたが、「ホール・アース・カタログ」で60年代にカウンターカルチャーのカリスマとなったスチュアート・ブランドの元で、80年代にWELLというパソコン通信の会議システムを運営することで、コンピューターが人々を結び付けるメディアを作るテクノロジーであることに気付いた。そして90年代のデジタル化を「WIRED」で体験し、テクノロジーの本質的な意味とメディアや情報について深く考えるようになった。2010年には『テクニウム〜テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)を書いて、テクノロジーが生命現象の上にあるレイヤーとして宇宙全般に存在するものであることを説いた。

そのケリーが昨年発表した『〈インターネット〉の次に来るもの〜未来を決める12の法則』(NHK出版)では、ネットの持つ基本的な12の力や傾向を分析して、これから30年間に起きるインターネット環境の変化について、情報をアクセスしたりシェアしたりリミックスしたりすることで、人工知能やVR、IoTと社会がいかに関連していくかを具体的に説いている。

情報、メディア、テクノロジーをめぐる新たな宇宙論

この本は個別のプロダクトやサービスを深掘りするのではなく、ネットの持つ本来の性質を明らかにすることで、これからの社会を展望するものだ。彼がアジアを放浪していたときに、失われつつある現地の文化を写真に収め、個々の文化に深く立ち入ることなく全体に流れる本来的な精神を感じたように、デジタル化社会の現象そのものではなく、一歩裏側に入ったテクノロジーの生理を解き明かしている点で、梅棹がモンゴルで感じて書き留めたメモや、マクルーハンが違和感を覚えた戦後のアメリカの若者文化を見るような視線と問題意識をを共有する。

ケリーはこうしたデジタル社会の基本的力学を、『テクニウム』で展開した広い意味でのテクノロジー論から導き出している。彼のテクノロジー論は梅棹の情報、マクルーハンのメディアを成り立たせる問題意識の延長線上にあり、現象として目に見える時代や歴史の奥にある、普遍的な何かを言い当てようとしている。

それは、とりあえず情報と呼ばれる、まだ評価の確定していない、物質世界の個別性や関係性を言い表す何かを多角的に探り出す一つの試みだ。ケリーは『テクニウム』の中で、宇宙を支配してきた基本的な力が、ビッグバンの時点における「エネルギー」から、徐々に銀河や星という「物質」へと移り、その物質が有機的に生命の形態を生み出すことで、個別の関係性の集合体が生まれて、「情報」が優位に立っていくと説く。エネルギーが物質に転化していく関係については、すでにアインシュタインがエネルギーと質量の関係を定式化した。もし物質と情報の関係が定式化されれば、エネルギー、物質、情報を統一的に記述する、物理学における大統一理論のようなスキームを構想することが可能だろう。

話が飛躍するようだが、2010年にアムステルダム大学の理論物理学者エリック・ヴァーリンデ教授が発表した「エントロピック重力理論」は、重力は自然の基本的な力ではなく、「物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力である」と考える。物体の位置が変動することによって、情報量としての乱雑さを表現するエントロピーが変化し、この変化が見かけ上、重力に見えると主張するものだ。そして、この理論は三次元空間内の情報はすべて二次元平面に保存されるとする物理学上の仮説「ホログラフィック原理」とも深く関わっている。こうした発見が、物質と情報の関係を明らかにしてくれれば、情報を中心に考えたまるで新しい宇宙観を論議することも可能になる。

梅棹やマクルーハンが時代の変化の裏に見た情報やメディアの変化を、ケリーがさらにテクノロジーという概念で止揚した姿を、ダグラス・ホフスタッターの名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(1979)ならぬ、「梅棹、マクルーハン、ケリー」なる論で展開できないかと、密かに考えては思い悩むことも、それほど荒唐無稽ではないような気もする。

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旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントでのトークイベント風景。奥野卓司氏(左)と筆者。

本稿は、昨年12月に京都で開催された、展覧会とシンポジウムシリーズ「梅棹忠夫と未来を語る」で、18日に北白川の旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントで、情報人類学者の関西学院大学教授の奥野卓司氏と筆者が、梅棹情報学とメディア論について論議した内容を補足するものです。もともと、東大情報学環の暦本純一教授に、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』の類似性を、雑誌AXISの書評で論じていただいたことがきっかけで実現した企画です。

「読む」「書く」「編む」の未来

2017年1月4日
posted by 仲俣暁生

新年あけましておめでとうございます。おかげさまで「マガジン航」は今年で創刊から8年目を迎えます。本の未来を模索するささやかなメディアをここまで長く続けられたのも、寄稿者および読者の皆様のおかげです。あらためてこの場を借りて御礼申し上げます。

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この年末年始に読んだ本で印象深かったのは、町本会や『本屋図鑑』などの仕事で知られる空犬太郎さんが、東京創元社の編集者として長く活躍された戸川安宣さんの個人史をオーラル・ヒストリーとして聞き取りまとめた『ぼくのミステリ・クロニクル』(東京創元社)でした。1947年生まれの戸川さんが幼少時からの読書史を語った「読む」の章、1970年に東京創元社に入社して以後の編集者人生が語られる「編む」の章、そして吉祥寺にあったミステリ専門書店「TRICK + TRAP(トリック・トラップ)」に関わった日々を綴った「売る」の章、それぞれ読み応えがあり、思わず自分自身の読書史・編集者人生(どちらも逆立ちしても敵わないほど貧しいですが…)を振り返ってしまいました。

読者共同体が作家を生み出す

戸川安宣さんの功績は、なんといっても日本の推理小説の世界に、宮部みゆきや北村薫、有栖川有栖といった新しい風を吹き込んだことでしょう。彼が世に出した作家の多くの愛読者だった私にとって、『ぼくのミステリ・クロニクル』の「編む」の章における仕事リストは、そのまま自分の読書史と重なります。その意味で私は、この本のもっとも幸福な読者の一人かもしれません。

『ぼくのミステリ・クロニクル』(国書刊行会)は東京創元社の編集者として長く活躍した戸川安宣さんのオーラル・ヒストリーを空犬太郎さんがまとめたもので、戦後出版史の秘話が数多く語られる。「ミステリ」とあえて音引きをつけない表記にもこだわりが。

東京創元社は、はじめから推理小説(ミステリ)やSFの専門出版社だったわけではありません。本書によれば、小林秀雄が編集顧問を務めていた大阪の版元・創元社の東京支社が戦後に同名別会社となり、同社倒産後に「東京創元社」として再生しました。海外ミステリを含む古典の全集や叢書の出版に力を入れたものの、間もなく二度目の倒産。その後、現在のような国内外のミステリやSFに軸足を置く出版社へと変わっていったといいます。全集出版で培ったバックカタログを文庫に再利用しつつ、海外ミステリーの良書を翻訳していく同社のラインナップに、良質な国産ミステリを加えていくことが戸川さんのライフワークとなりました。

編集者として本と関わってきた1970年から2015年までの45年間に「出版界は大きな変革に見舞われました」と戸川さんは述べています。その「変革」は多岐にわたりますが、それらを俯瞰的に業界動向として語るのではなく、個別の出版企画の成り立ちやディテールを通して語るという態度が本書では一貫しています(聞き手である空犬太郎さんの功績も大きいと思われます)。おかげで「あの企画はこういう節目で生まれたのか、この出来事にはこうした背景があったのか」と膝を打つことしきりでした。

ところで、いまこの本が読まれることに意味があるのは、たんに出版産業が(あるいはミステリ業界が)好況だった「黄金時代」をノスタルジックに懐かしむためではありません。もちろん往時と現在を比べると、出版業界の苦境はあきらかですが、私はむしろこの本から未来に向けたメッセージを読み取りました。

戸川さんがすぐれた新進作家を幾人も手がけることができたのは、彼が入社する前後から全国の大学に生まれはじめていたミステリ研究会や、伝説の雑誌『幻影城』周辺をはじめとする、作家予備軍を含むファンコミュニティ、つまり読者共同体とのつながりがあったからだということが、この本を読むとよくわかります。1990年代の国産ミステリーの充実を支えたのはこの時代の「強者(ツワモノ)読者」であり、昼間の顔は「学校の先生」だったり「会社員」だったり「書店員」だったりする市井の人々の中から、次々に優れた作家が生まれてきたのです。

彼ら彼女らの登場を促したのは、「もっと面白い(日本人による)ミステリが読みたい」という読者共同体の欲求です。その期待に応えうる力量をもった作家が相次いで誕生し得たのは、ファンコミュニティにそれだけの分厚い人材の層があったからです。その厚みを生んだのは、戦前から戦後にかけて長い時間をかけて形成されてきたジャンルとしての「探偵小説/推理小説/ミステリ」の力であり、それを支えてきた出版社や書店(ここには貸本屋も含まれるべきかもしれません)、図書館といった一時的ではない、持続する社会のしくみの力でしょう。

インターネットの普及以後、読者共同体は可視化しやすくなったともいえれば、かつての雑誌のような核を失い拡散してしまったともいえます。いずれにせよ、読者の分厚い層がなければ、次代の書き手は生まれません。逆にいえば、読者さえ枯渇しなければ、そこから必ず、新たな才能は生まれてくるはず。そのためにいま、私たちは何をすべきか――そんな問いかけを、私は本書から受け止めたのです。

「読む」「書く」の循環を生み出す場はどこに

この本の最終章である「売る」の意味も、そう考えると、違った角度から読み取ることができそうです。この章のおもな話題は、2003年から2007年まで東京・吉祥寺にあったミステリ専門書店「TRICK + TRAP」をめぐる逸話ですが、この店の開業から閉店までの顛末を経営面からのみとらえても、あまり意味があることだとは思えません。理想主義的すぎたジャンル専門書店の挫折の例にとどまらない、このエピソードのもつ意味はなんでしょうか。

この章は、書店という「場」をつかったイベント開催の話題から、さらに大学や図書館といった「場」の話につながっていきます。戸川さんは、深い交流のあった推理作家の故・鮎川哲也氏が所蔵していたSPレコードのコレクションが寄贈されている野村胡堂・あらえびす記念館のある岩手県紫波町を訪れた際、新しい町立図書館の存在を知ります。最近、猪谷千香さんによるすぐれたルポルタージュ『町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト』(幻冬舎)で紹介された紫波町図書館です。館長や「熱心な北村薫ファンである」司書の方との出会いを経て、図書館ホールでの100人を超えるお客さんを集めたミステリー作家を招聘したトークイベントの開催に至る、というエピソードが本書の最後に添えられています。

この逸話が本書の最後に置かれている意味はなんだろう、と考えました。それは本書の冒頭で語られていた、戸川さん自身の子ども時代の読書経験のような幸せな体験を、いかにして次代の子どもたちにも繋げていくか、ということではないでしょうか。本を「編む」ことをめぐる面白いエピソードの数々を中心に置いた本書は、その前後に置かれた二つの比較的短い章によって、ぐるりとめぐって、ひとつの円環をなしているように思えます。

「読む」ことは「書く」ことに繋がり、「読む」ことは「編む」ことにも繋がる。「編む」人も「書く」人も、かつては「読む」人だった。その循環が起きるための場所をつくり、維持し、人を育てていくことがもっとも重要である――私が『ぼくのミステリ・クロニクル』という本から受け止めたいちばん大きなメッセージはこれです。

「マガジン航」もまた、本の未来――つまり「読む」「書く」「編む」の未来と、コミュニティや「場」とを結びつけて考え、人を育て、行動するメディアでありたいと願っています。昨年来、電子書籍や出版業界の動向をめぐる話題にとどまらず、ローカルメディアや地方の図書館をテーマにした連載をはじめたり(「地方の図書館とその夜」「ローカルメディアというフロンティアへ」)、連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」を企画しているのも、メディアとしての役割をそのように再定義したいと考えたからです。

場をつくり、人を集め、そこから知恵を出し、世の中を変える。「マガジン航」は今年も、そのための小さな船=メディアでありつづけます。

第5回 紙やウェブに捉われない新しいメディアのかたち

2016年12月26日
posted by 影山裕樹

YCAMで開催されたローカルメディアWS

RADLOCAL 2の風景(提供:山口情報芸術センター)

先日、山口情報芸術センター(以下、YCAM)の企画で、同施設にて「RADLOCAL 2」という3泊4日の集中ワークショップが開催された。テーマは「データマイニング×ローカルメディア」。日常の様々なデータ(身体のデータ、環境のデータ)をセンシングして、そこから見えてきた知見をローカルメディアに落とし込むという企画だ。

YCAMはこれまで、子供向けの遊び場「コロガルパビリオン」を始めとして、テクノロジーを用いたアート作品やプログラムを多数展開し国際的に注目を浴びてきたが、近年のYCAMは、瀬戸内国際芸術祭で発表された「Creator in Residence 「ei」」での取り組みのように、インターネットやデバイスのテクノロジーのみならずバイオテクノロジーに着目したり、YCAMが根ざす山口市周辺地域へのアウトリーチ活動など、施設内の技術者のリソースをこれまでとは違うフィールドへ活かそうと様々なプログラムを模索・展開している。

そんななか、僕が講師として参加した「RADLOCAL 2」はまさに地域へのアウトリーチを目指したプログラム。正直、テクノロジーとは無縁だった僕にとって、どことなく場違いな感覚があった。だが、ビッグデータやセンシングツールを用いることで、紙やウェブにとらわれない新しいローカルメディアのアイデアが生まれることを期待してもいた。

ワークショップはまず、YCAMのスタッフによるプレゼンと、ソフトウェアエンジニアの山田興生さんによるプログラミングの授業から始まった。その後、デザイン・リサーチャーの水野大二郎さんがワークショップのメソッドを語り、僕がひととおりローカルメディアの様々なバリエーションを紹介した。そして、残りの時間で受講生がひたすらローカルメディアのプランを練り上げ、それぞれ発表した。

紙やウェブに限らないメディアの捉え方

ワークショップでは3チームずつ計6チームで、YCAM近辺の山口市中心商店街と湯田温泉に分かれて、それぞれの地域で「どんなデータが取れるか」を探るフィールドワークを行なった。雑踏の音、お店の会話、気温などの環境データから、人の体温などの身体データまで様々なデータを検証し、そこから得られる情報を持ってどんなメディアを作るかを、昼夜問わず行われたディスカッションを通して、最終的に1チーム15分のプレゼン資料にまとめ上げた。

ここで焦点となったのは、「ローカルメディア」という概念の捉え方だった。メディアというだけで、人はどうしても紙メディア(フリーペーパー、雑誌)やウェブメディアを想像しがちだ。しかし、ローカルメディアが最大の効果を発揮するのは、作り手から受け手に向けて、情報が一方的に届けられる時ではなく、受け手と発信者が相互にコミュニケーションを始める瞬間だ。そう考えれば、紙やウェブでの発表という先入観を超えて、いかに”つながるためのメディア”を作るかという視点が生まれる。

例えば、湯田温泉チームが発表した「かべぽ」というプランでは、地元の人へのヒアリングの段階で、湯田温泉に引かれている温泉の泉源が余っているという話を聞いた(地域課題の発見)。その泉源を再利用する方法はないか。目を付けたのは温泉街の様々なところにある足湯(地域資源の発見)。ここまで聞くと着眼点はありきたりだが、彼らのプランがユニークだったのは、泉源から引かれるお湯を管に通して、まちじゅうに設置された(と仮定した)壁を温めるということ。

湯田温泉街にある壁の一例。壁に寄りかかって待ち合わせをしたり。(撮影:髙橋茉莉)

その壁は暖かいので、近所の猫が集まってきたり、あるいは寒さをしのげるので待ち合わせに最適だ。靴と靴下を脱がないといけない足湯の煩わしさを排除できるのと同時に、まちの風景を変え、新しい観光資源を生み出すことができる。そこで取れる会話や熱量をセンシングすれば、地域内の人の移動経路を可視化することも可能だ。

他にも湯田温泉チームからは、足湯をモバイル化して持ち歩く「たためる足湯」、人感センサーを用い、スナックが多い裏通りに観光客が来るとライトが光る「夜のオレンジ計画」、山口市中心商店街チームからは、夜のシャッター商店街をテクノロジーを使ったスポーツイベントのために開く「夜の運動会」、いたるところに置いてある休憩用ベンチに2人以上の人が座るとサプライズイベントが起こる「で会いましょうベンチ」などのプランが発表された。

“壁”という“面”をメディアにする

グループワークの様子(撮影:萱野孝幸 提供:山口情報芸術センター)

これらのプランが一体なぜ「ローカルメディア」なのか? という向きもあるだろう。しかし、ローカルメディアとは、これまで語ってきたように、まるで井戸端会議のように、人と人との交流や会話を生み出す“場”そのものだ、という考え方がある。そしてメディアとは、普段異なるクラスタに属する人々を集わせる“面”として機能すべきものだ。「かべぽ」はまさに“壁”という“面”であると同時に、タイトル自体が親しみやすく、プランの本質を言い当てていて分かりやすい。さらに、年代やコミュニティにとらわれず、観光客や地元の人にも分け隔てなく利用されうる動機(寒さの回避という普遍的な欲求)を備えている。そういう意味でこれは紛れもなく地域の人と人をつなぐ「ローカルメディア」と呼んでいいと思う(ちなみに、「壁に寄りかかって集う」というアイデアはエルサレムにある「嘆きの壁」から着想したそうだ)。

さいたまの浦和で始めた「裏輪呑み」。

僕は最近、「途中でやめる」という服のデザイナーの山下陽光と、アーティストで写真家の下道基行とともに「新しい骨董」というユニットを始めたのだが、そのなかで、100円ショップで売っている300円の強力マグネット付きのカゴを裏返して、まちなかの金属に貼り付ければ、あっという間に立ち飲み屋になる「裏輪呑み」という活動を行なっている。このカゴを脇に抱えてまちを歩くと、まるでスケーターが路上の起伏を見るように、金属が貼れる壁を探している自分に気づく。シャッターや電柱、工事現場の白い衝立やトラックの荷台……お酒が売っている自動販売機に貼り付ければエンドレスにビールが飲める。シャッター商店街でやればまちが活気付く。そうやって想像しているうちに、まちの見え方が180度変わっていることに気づいた。

この裏輪呑みの活動をブログで紹介すると、関西を起点に全国各地で真似する人が現れ始めた。心斎橋のアップルストア前や、京都の河原町のど真ん中で、大勢で裏輪呑みをしている人々の様子をツイッターなどで見るにつけ、裏輪呑みもローカルメディアなんじゃないか、と思うようになっていた。ネットニュースにも取り上げられ、見ず知らずの参加者が、「誰のものでもない場所を誰のものでもある場所にする、裏輪呑みの真髄を体験できた」ともっともらしいことを語ってくれている。

路上の立ち飲み実践・裏輪呑みも「ローカルメディア」である

信号待ちしながら呑んでみる。

裏輪呑みをしていると、近くを通るサラリーマンや外国人が寄ってきて、会話が生まれる。普段関わらない人と新しい関係を結ぶツールになっている。それだけではなく、様々な地域で裏輪呑みを行うと、そのまちの特徴がおぼろげながら見えてくる。田舎の田んぼのど真ん中でやっても人は集まらない。都会でやったほうがいいだろう、とか。東京や埼玉の都市部で行うと警察が寄ってきたり、白い目で見られたりする。一方、関西は都市部においても相対的にやりやすい。よくよく大阪のまちを注目していると、コンビニでお酒を買ったサラリーマンが、脇にたまって呑んでいる風景にちらほらと出会う。「路上が自分たちのものである」という感覚が東京に比べて未だに強いのかもしれない。

買い物や仕事のため効率的に移動するのではなく、その場に止まってお酒を呑むので、ジェントリフィケーションや再開発という都市の欲望みたいなものから一歩引いた目でまちを眺めることができる。東北食べる通信の編集長・高橋博之さんが、食材付き雑誌「食べる通信」の仕組みについて、あらゆる地域に落とし込みやすい“にがり”のようなものだ、と言っていたことを思い出す。その言葉を証明するように、現在、日本各地で37の食べる通信が創刊・運営されている。同様に100円ショップはどこにでもあるし、持ち歩くのも容易い。だから裏輪呑みも、自分たちだけの“遊び”ではなく、汎用性のある遊び=“にがりとしてのメディア”になりうると思っている。

メディアのテクノロジーが民主化し、新しいアイデアが生まれる可能性

地方での一人出版社や、メディア企業やクリエイティブ産業に従事していた若い世代のUターン・Iターン、地元企業によるユニークな自社メディアの誕生が、地域メディアの“今”を支えている。都市と地方によって確実に格差のあった出版・メディア産業とそのテクノロジーが民主化し、広がりつつある風景に僕らは立ち会っている。インターネットの登場によって誰もが同じ情報にアクセスできる時代が生まれた。印刷やDTPなどのテクノロジーも安価に、手軽に使えるようになった。だから、都市と地方のメディア産業の従事者の格差を縮めることが、これからのメディアのフロンティアになる(しかしそれは昨今話題になっている、キュレーションメディアによるライター業の民主化とは違うだろう)。

ただ一方で、出来上がったもののクオリティではなく、人と人がつながるプロセス、メディアを通してまちが劇的に変わったエピソードなどは、東京に集まってくる「話題のローカルメディア」を手にとっているだけでは見えてこない。大衆や不特定多数の読者のために生み出されるメディアと違って、ローカルメディアは限られた顔の見える人たちとつながるために作られているからだ。デザインがいまいちかもしれない。有名人ではなく、そのへんにいるおじさんが原稿を書いているだけかもしれない。でも、ローカルメディアの受け手にとっては、有名作家が語るよりもそのへんのおじさんが語るまちのほうにリアリティがあるかもしれない。

いわゆる「良い雑誌を作ろう」という業界のサーキットに始めから乗ってないローカルメディアの価値に気づき始めると、今度は紙やウェブといった従来のメディアのフォーマットを疑うことができる。日本中の地方自治体が毎月予算をつぎ込んでいる広報誌の多くは、当然このメディア産業の枠組みを縮小再生産しているにすぎないだろう。

こういうときこそ、金脈を探り当てるように、メディアの本質的な意義に光を当て、新しいアイデアを生み出していってみてはどうだろうか。そのためには、よそ者と地元の人が膝を付き合わせて、人的資源や地域資源を発掘しながら、常識のベールを一枚づつ剥ぎ取っていく機会を各地で設けることが重要なのだ。


【お知らせ】
11月の開催が順延となっていた連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の第3回(最終回)の日程が決定しました。

ローカルメディアで〈地域〉を変える【第3回/最終回】
「メディア+場」が地域を変える:瀬戸内、近江八幡、鎌倉の事例から

登壇者は、以前に告知したお二人に加え、第二部に合同会社アタシ社のミネシンゴさんもお迎えしてディスカッションも行います。これまでにご参加になった方も、今回が初めての方も、ご来場を歓迎いたします。

日時:2017年2月13日(月)14:00-18:00(開場は13:30)
会場:devcafe@INFOCITY
渋谷区神宮前5-52-2 青山オーバルビル16F
http://devcafe.org/access/
(最寄り駅:東京メトロ・表参道駅)
定員:30名
受講料:8,000円(交流会込み)

講師:
・磯田周佑(小豆島ヘルシーランド(株)マネージャー/MeiPAM代表 /(株)瀬戸内人会長)
・田中朝子(たねやグループ社会部広報室室長)
・ミネシンゴ(編集者・合同会社アタシ社代表)

※チケットの申込み、登壇者の詳細なプロフィルなどはこちらを御覧ください。
http://peatix.com/event/223768/view

「一匹狼」フリーランス編集者たちの互助組織

2016年12月15日
posted by 大原ケイ

先々月、たまたまボストンで一晩だけポコっと時間が空いたときに目についた「Working with Independent Authors」という集まりを覗いてみたので報告します。

ボストンの書店風景。

フリーランス編集者協会のセミナーに参加してみた

ボストンの中心部にほど近い、羽振りの良さそうな若者だらけのIT企業の会議室をアフター5に借りて行われたそのイベントは、全米組織のEditorial Freelancers Association(フリーランス編集者協会)のボストン支部が自主的に開いたネットワーキングとセミナー。協会メンバーのベテランが2人、これからインディー(自己出版)作家と仕事をしていく上でのコツを伝授するという内容でした。

各自が自分の飲み物と、みんなでつまめるおやつを一品持ち寄る「ポトラック」スタイルでカジュアルな雰囲気。集まったフリーランス編集者がたった一人の年配男性を除いて、みんな様々な年齢の女性、というのは私が知るアメリカの出版業界のデモグラフィック(人口構成)と酷似している。これは別に男性をdisって言ってるんじゃなくて、編集こそ男女で能力に差のないスキルだし、在宅でやれるフリーランス編集者という仕事は、子育てや家庭のパートナーの都合などと合わせやすい、というのもあるかと思います。

自己紹介で、ニューヨークから、というより日本から飛び入り参加です、日本でも日本独立作家同盟という非営利団体の理事をしてます、と言うと「わお、ウェルカム!」という反応。他の皆さんも、もともと出版社で編集者をやっていたけれど、なんらかの理由で会社を辞めてフリーになった人がほとんどのようでした。

会議前の風景。女性が多く、和やかな雰囲気。

その日の講師はスーザン・マティソン、ターニャ・ゴールドという30〜40代の女性2人。マティソンさんはノンフィクションの仕事が多く、ゴールドさんはどちらかというとフィクションの「お直し」(キャラクター設定、プロットの穴埋め、gender neutralな言い回しに変えるなど)が専門とか。2人とも出版社に勤めた経験あり。これまでそういった出版社を通して編集の仕事をもらっていたが、最近はインディー作家からの依頼で仕事をすることが増え、相手が業界については素人であることも多いため、一緒に仕事をする上で留意すべき点などを自身の経験から紹介してくれました。

フリーランス編集者のための十二カ条

その日のセミナーで話されたことの中で、ふ〜ん、なるほどと思った点をいくつか箇条書きにしてみます。

  • 出版社を通した仕事と比べると、インディー作家の場合、書き手の思いがこもった原稿を直接扱う機会が多い。そのことによるメリットとデメリットがある。まずメリットは、出版社を通した仕事だとその出版社の歯車のひとつに過ぎないと感じたり、臨時雇いの便利屋の一人になってしまうが、インディー作家相手だと、よりやりがいがある。
  • デメリットとしては、実際の仕事は「編集」というよりも、素人著者相手の「コーチング」になりがち。公私にわたるインディー作家のお守り役になってしまわないよう、対策が必要。
  • 自分ができる仕事のジャンルや種類は、思っているよりも幅広い。そのために門戸を広く掲げ、どんな仕事に対してもどういうことができて、どういうことはできないのか、あらかじめポイントを押さえた対応が望ましい。
  • 出版社から受注してする仕事ではないので、著者には出版社を紹介する仲介業ではないことを明確にしておく。
  • 「口コミ」の力はバカにできない。ツテによる推薦(referral)は大事。一度でも一緒に仕事した人からは、推薦の言葉をもらうのを忘れないようにする。
  • 依頼人からの突然の電話や、メールでの問い合わせにどこまで対応するかは、自分で事前に線引きしないと際限がない。そのためにも、仕事内容や条件などは口頭ではなく、ウェブサイトなどにあらかじめ細かく書いておくとよい。
  • 依頼仕事のたびに同じことをやるところはなるべくそのプロセスを、アプリやソフトを使い、自動メール返信や、書式のテンプレートを用意するなどしてオートマ化する。
  • Red Flag(危険人物)の見分け方
    ・やたら値切る人、やたら急ぐ人(一回の対応では終わらないことが多い)。
    ・他の人の悪口を言う人(その後、必ず言われる立場になる)。
    ・Exit Strategy(出口戦略。どこでやめても、支払いが生じるように契約しておくなど)を決めておく。
    ・追加料金が発生する時点をきちんと伝え、依頼人の決断を仰ぐ。
  • 契約書を交わすのは、依頼人にとってもプラス(プロの作家としての自信につながるようだ)。
  • 支払いは、予約(=時間的拘束)が生じた時点で前払いを要求する(50%を契約時に、50%を仕上げ時に、など)。
  • 直した原稿を依頼人に戻すだけでなく、Editorial Letterをつけるといい(直したのはどこか、だけでなく、編集を通してどういうことをやったのかを書く)。そのほうが赤字だらけの原稿よりポジティブ。中には真っ赤に直されたプルーフを見ると萎える著者もいるので、クリーンなプルーフも合わせて送ると喜ばれる。
  • プルーフを戻すときに請求書もつけちゃう!

やはり皆さん、自分が遭遇した困ったシチュエーションの相談をしたいらしく、質疑応答も活発。自分のの体験を話しつつ、他の人の話も聞けるのが良かったようです。ふだん一人で黙々と仕事をしている分、同業者と繋がりたい気持ちもあるのでしょうね。

フリーランスのいる業種には必ず「互助組織」あり

さて、このイベントを主催したEditorial Freelancers Association(EFA)についても少し説明します。

  • ニューヨークに(いちおう)本部を置く非営利団体で、1971年設立。ただし、メンバーの4分の3はニューヨークエリア以外に住んでいて、海外にいるメンバーもいる。活動はほとんどメンバーのボランティアによって運営されている。会合はテレビ会議を使い、地方でのイベントをやったりと、基本的にオンラインで活動。2ヶ月に1回発行のニュースレターや、SNSを通してメンバーと連絡を取っている。使用しているオンライン会議室はなぜかYahoo! グループ(始めた時期が時期だからでしょうか)。
  • 運営スタッフは会を代表するエグゼクティブ・ディレクターが2人、秘書、経理担当のみ。有償で雇われているのはニューヨーク・オフィスで事務処理と電話番をするアドミニストレーター(総務係)が1人だけ。
  • メンバーになるには編集者としての経験が必要で、年間15,000円相当の会員費を支払う。慢性的に資金不足なのか、会員の申し込みページに「協会運営上、緊急に何かしらの理由で資金が必要になって会員から寄付を募る場合、コンタクトしていいですか?(寄付をお願いしてもいいですか?)」という項目がある。メンバーになると会員名簿にアクセスできる。
  • EFAの「仕事リスト」には、外部の誰もが無料で仕事を頼みたいときに告知できる。告知が載ると、全メンバーに通知がいく。メンバーは現在約2,000人。職種はリライター、編集者、校正者、コピーエディター、インデックス(索引)作成者、リサーチャーと幅広く、どんなジャンルにも対応できる。企業として人材を探しているところも、ここで募集できる。
  • Rate Chart(こういう仕事の相場はこのぐらい、という詳しいガイドライン)を明確にしていて、仕事を頼む側も、引き受ける側も参考にできる。これはEFA会員のギャランティや、業界での実際のレートを参考にしている。日本のそれより数段高い金額がスタンダードである。
  • 契約書のサンプルや、請求書のヒナ型なども用意されており、メンバーがそれぞれ加工して自由に使える。
  • 会員が守るべきスタンダードや、仕事の質に関するガイドライン、不文律の禁止事項などモラルハザードを避けるための、Code of Fair Practiceという決まりごとを提言している。

アメリカではどんな分野に仕事でも、フリーランスの人たちで結成するこういったTrade Association(いわゆる互助組織)がある。EFAはかなり小規模なほうで、恥ずかしながら私もその存在を知りませんでした。

こういった互助組織があれば、おたがいにギャラを報告してブラック企業をリストアップしたり、皆でボイコットするなり、公表するなりできるだろうし、仕事をお願いする側にしても、ギャラの相場がすぐに検索できれば、安く買い叩くことを躊躇するようになると思うわけです。

あるいはスケジュール的、技術的に自分には無理そうな仕事を協会のメンバーに振るとか、こんなアプリやソフトが便利だよ!と紹介するとか、Give & Takeのいい関係を作ることがこういう互助会の秘訣でしょうね。私もこのセミナーに飛び入り参加させてもらって面白い話を聞けたので、「文中に日本語のフレーズが出てきた場合は手伝うよ!」とメンバーが見られるフォーラムに一言入れてもらいました。

日本だと、正社員の人だけが労働組合に入っていて、契約社員は正社員より過酷な労働条件でガマンしているように見受けられますが、契約社員やフリーランスの人たちこそ、労働者としての権利を守る組合や互助会が必要だと思うのです。