近代文学の息の根が止まったあとに

2018年9月18日
posted by 藤谷 治

第2信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

僕が「フィクショネス」を始めたのは1998年7月のことでした。仲俣さんは最初期のお客さんでしたから、なんてことでしょう、知り合ってもう20年にもなるわけです。1998年は平成10年です。この単純な事実だけでも僕には、時間について、それもいわば「日本の時間」について、何かとりとめもない思いが四方に飛び広がっていくようです。

しかし僕が仲俣さんを文芸批評家、そして編集者として意識するようになったのは、それから数年後のことです。調べればその正確な日付も判るでしょう。それは、古川日出男さんの三島賞受賞パーティの二次会でのことでした。僕はその時はじめて、仲俣さんが日本で最初に(ということは、まあ、世界初、ということにもなるわけですが)文芸誌に本格的な古川日出男論を書いた人だ、ということを知ったのです。

古川さんが『LOVE』で三島賞を受賞したのは、2006年のことです。その3年前に僕は小説家としてデビューしました。そのデビュー作に、最初の書評を書いてくれたのが古川さんでした。僕は翌年に出た古川さんの『ボディ・アンド・ソウル』について書評を書き、その後も対談したりしたのが縁で、パーティに呼んでもらえたのでした。

古川日出男の登場とこの受賞によって、近代文学は息の根を止められた……。挨拶を求められて、僕はとっさにそんな話をしたことを憶えています。古川さんが「下手人」であったかどうかはともかく(しかしその一人であることは確かだと僕は考えています)、あの時点で文学は、近代文学的なステレオタイプのイメージから解放され始めていたはずです。

近代文学的なステレオタイプのイメージなどと、くどい言い回しで僕が示すのは、本当なら殆ど滑稽なような「文学」のイメージです。社会不適合者ででもあるかのように自己規定した青白い顔のインテリが、自己表白と赤裸々な性描写で「物語」を忌避して書く私小説。アンニュイな日常をアンニュイなままに描く純文学……。そんな古色蒼然、旧態依然、十年一日のごとき文学は、これからどんどん退潮していき、これからは既成の文学概念(というよりも、文学制度)にとらわれない文学が、小説が、もっと広く、もっと遠く、可能性を追求していくんだと、僕は信じていました。

あれから12年経ちました。文学は、もしかしたら当時の上気した僕が夢見たように、可能性を広げているのかもしれません。

しかし現代文学の動向に疎い僕の目に目立つのは、むしろなんというか、いわば「新手の近代文学」の方です。僕や仲俣さんはもとより、古川さんよりもさらに若い世代の中から、「近代文学」(カギカッコで括っておきます)のエピゴーネンかと見まがう小説の書き手が現れ、世間から好評を持って迎えられています。

そんないわば「復古趣味」――僕らの世代が幼少期に聞きかじった言葉をわざと曲解して、「逆コース」とでもいいたいような――が、文芸出版ビジネスとして成り立っている、いやそれどころか、文芸ビジネスを(かろうじて、かもしれませんが)支える存在になっているのは、仲俣さんのいう紙の出版の失速、その急激さと大きな関係があるように思えてならないのです。

これもまた仲俣さんが書いている通り、僕たちが商業出版の枠内で、仕事として批評や小説を書き始めた時、すでに世間では出版不況が嘆かれていました。僕はもともと、小説書きという商売が儲かるものとは思っていなかったので――貧乏文士、というのもまた「近代文学者」のステレオタイプのひとつです――、生活のために死に物狂いで書き続けることには、覚悟と、ひそかな矜持がありました。

けれどもその出版不況が、読者の消費動向に保守的な影響を与えるとまでは、思ってもいませんでした。多種多様な「新刊小説」の大群に対して、読者という名の消費者たちは、何を選べばいいか判らず、売れているもの、人が買っているものを買っています。そのような文学商品が、読者には「無難」に見えるのでしょう。消費者は文学が多様であることを認めながら、購読に至るのは、テレビタレントが薦め、インフルエンサーがブログに載せ、アマゾンのレビュー数が多い文学なのです。

そのような傾向は、もちろん、商業出版の草創期からあったでしょう。しかしこれほどまで露骨に、供給側の多様化と消費側の保守化が分離し断裂したことは、かつてなかったと思います。

この傾向はいつまで続くのでしょう。どこに行きつき、どのような「決着」を見せるのでしょう。

世間の流れを考えたってどうなるものでもないと、自分勝手な小説を書きながら、僕は仲俣さんがSNSでふと漏らした、ド文学、という言葉を思い出しています。

第1信|第3信につづく)

本の激変期のなかでどう生きるか

2018年9月18日
posted by 仲俣暁生

第1信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

この夏に下北沢の本屋B&Bで行われたDJイベントで久しぶりにお会いしたあとで、なんどかご相談させていただいていた「マガジン航」での往復書簡の企画を始めることにしました。

藤谷さんに最初にお目にかかったのは、2014年まで下北沢にあったフィクショネスという本屋でのことでした(『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』の文庫解説にもこのときの思い出を書きました)。藤谷さんがまだ「小説家」になる前、もしかしたらまだ20世紀だった頃の出来事かもしれません。

「まだ20世紀だった頃」などというと、自分たちがとんでもなく年寄りになった気もしますが、実際そうなのかもしれません。というのも、その後に出版の世界は大きく様変わりしたからです。いや、出版の世界どころか世界そのものが大きく変わったように思います。

僕らはたまたま同学年で、おそらく似たような読書経験をして育ってきたはずです。藤谷さんが小説家としてデビューしたのは2003年。僕は本業は編集者ですが、2002年に現代小説についての小さな本(その後、絶版になってしまいましたが)を書いたおかげで2003年に文芸誌で連載の機会を得、細々と文芸評論の仕事もするようになりました。

藤谷さんはフィクショネス以前にも書店員の経験があり、僕は出版社をいくつか経験してきました。そのうえで、フリーランスとして本の世界で生きることを決めた。「物書き」という仕事が簡単には成り立ちにくい時代になってから、本や文章を書く仕事をするようになったわけです。

僕が「マガジン航」を創刊したのは2009年の9月のことです。当時はちょうど電子書籍の話題が盛り上がっていた頃でもあり、もしかしたらこの新しいテクノロジーが出版の(そして文芸の)未来を切り開いてくれるのかもしれない、という期待がありました。

しかしその後の9年間に起きたことは、電子書籍が普及するよりもはるかに急激な紙の出版の失速でした。「町の本屋」(フィクショネスもその一つと数えてよいのでしょうか)は次々に店を閉め、人が本と出会う場所も図書館や新古書店、あるいはインターネット上であることが増えました。

こうした変化は当然、小説を書くことが「仕事」である作家たちにとって、相当に大きなインパクトを与えたはずです。

藤谷さんには「新刊小説は滅亡について考えた方がいい」という文章を書いていただいたこともありますが、ここで話題になっている「新刊小説の滅亡」という短編に描かれていたことは、すでになかば現実になっているようにさえ思えます。

「マガジン航」誌上で藤谷さんと公開の「往復書簡」をしてみたいと思ったのは、この激変期ともいうべき時代のなかで、自分と同世代の小説家が、日々どんなことを考えながら創作活動をしているのかを知りたいからです。そして、これから先のことを一緒に考えてみたい。

タイトルは、まことに大雑把ですが「創作と批評と編集のあいだで」としてみました。こちらからもいろいろと質問を投げますが、そちらからも遠慮なく厳しい球を投げてください。

藤谷さんとの言葉のキャッチボールのなかで、少しでも未来へのヒントがみつかることを願いつつ、第一信の筆を(キーボードを?)置きます。

第2信につづく)

読書専用端末の時代は終わったのか

2018年9月3日
posted by 仲俣暁生

先月の終わりに、電子出版ビジネスの草分け的存在であるイーストの下川和男さんから、古くなったり壊れたりして使えなくなった電子書籍端末を肴に語り合う会、名付けて「昔の読書端末放出放談会」にお誘いいただいた。

「放談会」には十数名の電子出版/電子書籍関係者が集まった。

ちょうど「マガジン航」で西牟田靖さんが、亡くなられたノンフィクション作家の蔵書の形見分けについての記事を書いてくれた直後だったこともあり、「紙の本」と「電子の本(こちらは端末のみで中身は読めないのだが)」それぞれの最後の身の処し方について考える機会になると思い、参加した。

この会に持ち込まれた端末は、どれも基本的に動かないジャンク品である。アマゾンのKindle DX(初期の大画面タイプ)やバーンズ・アンド・ノーブルのNook(やはり初期型)、ソニーのReader(北米版のやはり初期型)といった比較的有名なものから、オランダのiRex Technologies(バーンズ・アンド・ノーブルに対応していたらしい)や台湾のBenQ(こちらは特定のプラットフォームに依存せず、EPUBやPDFなどが閲覧できるタイプの模様)といった、私も見たことのないマイナーなメーカーによるものまでが勢揃いした。

集まったのはさまざまなかたちで電子出版/電子書籍に関わった方ばかり、総勢十数名。初対面同士の人も多く、各々が自己紹介がてらこれまでの電子書籍/電子出版との関わりを述べた。みずから懐かしい端末を持ち込む参加者もいて、パナソニックのΣブックの姿も久しぶりに見ることができた。

時計回りに右上から、ソニーのReader、パナソニックのΣブック、iRex Technologiesの端末、NECのデジタルブックリーダー。

自己紹介がひと回りしたところで、それぞれが希望する端末を申告し、収まるところに収まるかたちで大半の端末が誰かに引き取られていった。私はNECのデジタルブックプレーヤー「DB-P1」(読書端末としては普及せず、なぜか「囲碁ソフト」専用マシンとして人気を博した)をいただいて帰った。また参加者全員に一台ずつ、ソニーのReader「PRS-600」(もちろん動かない)も配られた。

「DB-P1」がほしかったのは実機を見るのがはじめてだったのと、私自身の電子書籍との関わりが、この読書端末が発売された1993年に始まったからだ。この年の春に加わったあるパソコン雑誌の編集部でボイジャーが発売した「エキスパンドブック」という電子書籍ソフトの存在を知り、興味をもった(ちなみにその記事を書いてくれたライターは故・富田倫生さんだった)。

その後に移籍した中堅出版社では、はじめて電子書籍の読書専用端末を見た。NECと競合する日本の大手電機メーカーから、デジタルブックリーダーとよく似た端末の試作品を見せられたのだ。御社はこうした読書端末のために作品を提供してくれるだろうか、というのが先方の用件だったが、編集部の反応はパッとしなかったように思う(結局、その電機メーカーから読書端末は発売されなかった)。

1990年代から2000年代はじめにかけては「ワイアード日本版」や「季刊・本とコンピュータ」といった雑誌を編集するなかで、いくつもの「電子書籍」や「電子出版物」の試みをみてきた。

当初はパソコンで視聴するフロッピーやCD-ROMによるパッケージ型の作品が中心だったが、1998年頃の「電子書籍ブーム」の時期には各種の読書専用端末(アメリカのロケットe ブックのものや、電子書籍コンソーシアムの実証実験に用いられたものなど)が登場した。2004年前後の「電子書籍ブーム」のときにも、日本ではΣブックやリブリエといった読書端末が登場し、市場を形成できずにすぐ消えていった。ほぼ6年おきに繰り返されてきた「電子書籍ブーム」の顛末を、私はその都度リアルタイムで見てきたのだった。

読書専用端末が「終わった」二つの理由

さて、ここからが今回のコラムの本題である。この「放談会」が宴もたけなわとなったところで、主催者の下川さんから爆弾発言があった。

「電子書籍において専用端末の時代は終わった、ということで皆さん、ご異議はないでしょうか」

これは座興だろうか、それともかなり真剣な問いかけなのだろうか、と逡巡したが、基本的には「終わった」と言わざるを得ない、というのが私のそのときの偽らざる気持ちだった。とくに議決をしたわけではないが、会に集まった他のメンバーも「異議なし」という雰囲気になっていた。

「専用端末の時代は終わった」とは、どういうことだろう。これは二つの方向から考えることができる。

一つはシンプルに「専用端末」は、スマートフォンやタブレットすなわち「汎用端末」上の電子書籍アプリケーションに代替され、必要がなくなったという考え方だ。

もちろん、液晶に比べて「目に優しい」とされる電子ペーパー(電子インクともいう)をディスプレイに採用したKindleの「ペーパーホワイト」などには、それなりの使い勝手のよさがある。しかし電子ペーパーは1990年代に開発された、いまとなってはかなり「古い」(枯れた、というべきか)テクノロジーであり、2004年にはソニーがリブリエですでに採用していた。

その後も電子ペーパーを搭載した読書専用端末には、バックライトがついたり防水機能がついたりした程度で、現在に至るまでほとんど大きなイノベーションが起きていない(カラーや「折りたたみ」可能な電子ペーパーも開発されているが、商品として市場を形成するには至っていない)。

目に優しい「紙のような」ディスプレイよりも、スマホのような小さな液晶画面(もちろん解像度は格段によくなった)のほうが好まれるのはなぜか。電子書籍を「読む」ときに優先される要素とは、画面のサイズや「目に優しい」といったことではなく、読みたいときにすぐ読めること、つまり閲覧用スクリーンが随時「手元にある」ことだからだ。常時携帯するためにはなるべく小さく、しかも「本」以外の機能をもったほうがいい。もちろん決済も簡単にできたほうがいい。「携帯汎用課金端末」ともいうべきスマートフォンが勝利した所以である。

「電子書籍において専用端末の時代は終わった」ことが導く、もう一つの結論はさらに残酷だ。それは「電子書籍とはプラットフォーム・ビジネスであり、最終的には強いプラットフォームが勝者となる」という事実である。

電子書籍専用端末は、基本的に特定のプラットフォームと結びついている(いた)。しかしその逆に、すべての電子書籍サービス事業者が、自らのサービスのための専用端末を用意しているわけではない(「プラットフォーム」の定義はさまざまだが、ここではGAFA及び、少なくとも日本では彼らに準ずるLINEや楽天などを想定して述べている)。

スマートフォンやタブレットの場合、そのOS上で動くアプリを提供すれば小規模な電子書籍サービスも提供だ。しかしアップルやグーグルが最上位のプラットフォームとして存在するため、便利なサービスを構築しようとすればするほど、その軛から逃れることは難しい。

百花繚乱だった電子書籍サービスもすでに淘汰の時代を迎えているが、そうしたなかでの「専用端末の時代の終わり」とは、専用端末をもたない電子書籍サービスにとっての福音ではなく、強力なプラットフォームに紐付いたサービスが優位を占めた上で、なおかつ「専用端末」よりも「汎用端末上のアプリ」が好まれる、という事態である。ある意味、寡占化がさらに進んだともいえる。

いまの「電子書籍」は、ようするにプラットフォーム企業が提供する、さまざまなコンテンツのサブセットの一つでしかない。拡大をつづけるプラットフォームのeコマースビジネスの戦略上、欠かせないコマという位置づけにすぎず、同じコンテンツがどこでも買えるし、買えないものはどこにもない。

町の本屋に対して「金太郎書店」という悪口があるが、それをいうなら電子書籍はどこも「金太郎書店」ばかりである。かつて「電子出版」という言葉が孕んでいた、新しいかたちで本を世に出す仕組みを求める気概は、そこにはかけらもない。電子的な「本」をさす言葉が「電子出版」から「電子書籍」へと移り変わり、少なくともかつてよりは遥かに巨大ビジネスとなっていくなかで、失われていったものはこうした初発の志だった。

「電子書籍」は知的な範疇としてはもはや存在しない

電子機器でテキストを扱う仕組みは、「書く」ことにおいてはるかに先行した。テキストを電子的に「書く」ための仕組みとして、かつて「ワープロ(日本語ワードプロセッサー専用機)」という電子機器があったことを、ある世代より上の方はよくご記憶だろう。東芝からJW-10が発売された1978年から、シャープが「書院」シリーズの製造を中止した2003年まで、ワープロ専用機の歴史はわずか25年しか続かなかった。

「書く」ためであれ「読む」ためであれ、テキストの表示にはスクリーン(及びブラウザ)が必要である。ワープロという「執筆専用端末」は、その意味で「読書専用端末」の先達といっていい。ワードプロセッサーはその後、パソコンという「汎用機」の上で動くアプリケーションとなり、いまではクラウド上でも動く。専用機から汎用機へ、スタンドアローンからクラウドへ、国産企業が提供するサービスからグローバル企業によるサービスへ、という流れも両者に共通している。

ただし電子的にテキストを「書く」仕組みの場合、書かれた内容に対しては直接的にコマースが介在する必要も必然性もない(最近は主要アプリのクラウド化が進み、その懸念がやや生じてきたが)。しかし「読む」ためのコンテンツ、すなわち電子書籍は基本的に「商品」であるため、課金と流通を一手に担える巨大プラットフォームから自由な領域がどうしても狭くなる。

もちろん「書く」ことも「読む」ことも自由な領域としてのWWW(ワールドワイドウェブ)と、それを支えるHTMLをはじめとする仕組みは、1993年にはすでに存在していた。2000年代はじめのブログの大爆発は、一種の「電子出版革命」でもあった。それと平行して起きた「電子書籍」のブームは、ある意味でそうしたウェブの動きに対する「反革命」と呼ぶことさえできるかもしれない。いま「電子書籍」と呼ばれているものの多くは、ウェブの内部に(課金のためだけでなく、表現形式の上でも)別のルールが適用される世界をつくる仕組みだからだ(これは音楽でも映像でも同様である)。

もちろん、特定のプラットフォームに依存しない電子書籍を模索する試みもあった。そうした電子書籍の規格として期待された国際標準フォーマットのEPUBは、推進団体であるIDPF(International Digital Publishing Forum)が昨年にウェブ技術の標準化団体であるW3C(World Wide Web Consortium)に統合されたことで、広義のウェブの一部になった。

つまり「電子書籍」は、ごく少数の巨大プラットフォームが提供する多彩なコンテンツのサブセットであるか、その逆にフリー(自由、無料)であり続けるウェブのサブセットであるか、そのいずれかとなったといっていい。そうなったいま「電子書籍」という言葉は――少なくとも知的な検討を行うべき範疇としては――もはや必要がなくなったように私には思える。

プラットフォームから自由な「電子出版」を

いまや役割を終えつつあるとされる「読書専用端末」は、電子書籍のコンテンツがまだウェブではなく、物理メディアによっていた時代に誕生した。だがウェブの急速な発展は電子書籍のネットワーク化をもたらし、ウェブ自体がもたらす「電子出版」と、電子書籍による「電子出版」という二重構造が生まれた。

ところで「読書専用端末」は、いっけんスタンドアローンの装置にみえる。そのことが電子書籍をめぐる議論を、いささか混乱させた面はあるかもしれない。コンテンツと再生機器が一体化したかのような姿から、「紙の本」を代替する装置だと早合点する人さえいた。

いまも電子書籍に対する紙の本のメリットとして、後者がスタンドアローンで存在しうることを指摘する論者がいる。だがいかなる本(「紙」であろうと「電子」であろうと)も、それが存在しうる背後には巨大な装置産業があることを知らなければ、本についての議論を始めることさえできない。

一冊の「紙の本」が任意の読者の手元に届くまでには、少なくともそれが商業出版物であるかぎり、かなり大規模な印刷・流通・販売のネットワークが必要である。他方、そうした仕組みが不要な「電子の本」の場合も、ウェブ自体をはじめ課金・流通を担うプラットフォーム、そして購入されたコンテンツを読むための(専用・汎用の)端末の製造及びその流通・販売のネットワークが必要となる。

「電子出版」という言葉や考え方がかつての私に与えてくれた「夢」は、20世紀後半にはすでに巨大な装置産業となっていた「紙の本」の出版に対して、まだ微力であったパーソナルコンピュータやウェブの力を借りて対抗しようとする、きわめてDIY的な態度や姿勢にあった。しかし、いまではパソコンもウェブも、それ自体がDIYから遥かに遠いところに来てしまったように思える。

むしろ皮肉なことに、パソコンやウェブを使って紙のメディアをDIY的に作り、売る人のほうがこの間に増えたように思える(「電子書籍の専門出版社」がこの間、ほとんど登場していないのに対し、紙の本の「一人出版社」は次々と生まれている)。巨大プラットフォームから自由なのは、こうした紙のメディアのほうかもしれない(コミケのような巨大即売会は、それはそれで別個の「プラットフォーム」であろうが)。

1993年が読書専用端末の「元年」だったとすれば、2018年は25年目にあたるが、キンドル(読書専用端末としての)がアメリカで発売された2007年から数えれば11年、日本で発売が開始された2012年を起源とすればまだ6年でしかない。ワープロ並みの命だと考えると「読書専用端末」の歴史も、日本ではあとしばらくは続きそうだ。

私自身、巻数の多いマンガや英語の電子書籍を読むときなどは、いまもときどき専用端末を使うことがある。使ってみればそんなに悪いものではない。しかし常時携帯するほど熱心なユーザーではないから、すぐに端末自体が紙の本の山の中に埋もれてしまう。だからなおさら、使わなくなる。しかし、それでもときどき私は思うのだ。巨大プラットフォーム企業から完全に自由な「読書専用端末」と、それを支える仕組みが、もっとあってもよかったのではないか、と。

はじめて「ワープロ」を手に入れたとき、私にとってそれは自由な表現、そして最終的には自由な出版につながる「道具」として感じられた(現実には、メーカーごとに使えるフロッピーが違うなど「プラットフォーム(当時は電機メーカーがそれに相当)」の縛りは存在した)。はじめてパソコンを手に入れたときも、ウェブでものを書いたときも、私は同じように感じた。

2009年に購入したキンドルの読書端末。日本語電子書籍はまだ発売されていなかったので、青空文庫の作品をPDFに変換して読んだ。

初めて買った読書専用端末(日本語表示に対応していないキンドルの国際版)もまた、私にとってはそうした感覚を与えてくれる「道具」だった。キンドルの端末で日本語の電子書籍を「読む」ために、私は青空文庫のテキストから好きなものを選んで、PDFに変換していった。「青空キンドル」という現在も継続しているサービスが、そのときに大いに役に立った。これを使って自前の「電子本」をつくるとき、そこにはちょっとしたハッキングの気分があった。

このときはまだ、ウェブがもつ「フリー」な感覚やDIY精神と、アマゾンが売り出したキンドルという読書端末との間には、あまり大きな齟齬はなかったように思う。もちろんそれは、当時はまだ「商品としての日本語電子書籍」が存在しなかったからかもしれないのだが。

イーストの下川さんに「専用端末の時代は終わった、ということで異議はないか」と問われたとき、一瞬にせよ私が逡巡したのは、初期の電子出版に感じた自由な気分までが「終わった」と宣言されたように思えたからだった。もちろん「読書専用端末」があろうとなかろうと、これで終わらせてはいけない。プラットフォームから自由でありえなければ、真の意味での「出版の自由」は存在しえないのだから。

ジャーナリスト・惠谷治さんの死と蔵書大頒布会

2018年8月27日
posted by 西牟田靖

引っ越したアパートの床が蔵書で埋まってしまった——というシーンから始まるエッセイ『本で床は抜けるのか』を本サイトに掲載したのが2012年。それ以来、蔵書をめぐるルポを書き続け、2015年には同名で書籍化、2018年には文庫化された。この連載や書籍の印象から、僕のことを“蔵書問題ライター”だと思っている方は多いかもしれない。

しかし、それは僕の一面でしかない。かつて「日本」だった国や地域、日本の国境の島々を回る、旅系・辺境系のライターとして僕のことを認識している読者もいるだろうし、僕自身、どちらかというと、そのように自負している。

今回の記事は、その双方の要素が入り交じっている。旅系・辺境系ライターとしての僕が最も憧れるジャーナリストの死とその蔵書の行方について記してみたい。

惠谷治さんはロシア革命を成し遂げたレーニンさながらの強面な風貌と、細かな分析による北朝鮮論評、アフリカやアフガニスタンなど危険地帯でもやすやすと足を踏み入れる行動力で知られていた。僕がこの仕事を始めてこの方、ずっと憧れの的であり、目標とする人物でもあった。

平壌に行くんだったら、コンドームを大量に持って行くといい。いろいろ便宜をはかってもらえるかもしれないし、裏話を聞けるかもしれんぞ。

2002年、北朝鮮の平壌を訪れる前に時間を作っていただいた際、惠谷さんにこんな助言をいただいた。実行に移したところ、現地のガイド兼監視員を見事懐柔することができた。3年後の2005年に出版した『僕の見た「大日本帝国」』は、おかげでより中身の濃いものとなった。

そのときの惠谷さんの助言はまだある。

竹島には行かんのか。韓国から船が出とるぞ。あと北方領土にも行ったらいい。

その提案を実行に移したのが、2008年に出版した『誰も国境を知らない』であった。旅系・辺境系ライターとしての僕の二つの代表作は、惠谷さんの助言・提言があったからこそ生まれたのだ。

大恩人の死

今年の5月下旬、突然、惠谷さんが膵臓癌で亡くなった。享年69歳。金正恩体制の行方や、核開発の内実、南北関係、難民といったテーマについて、他のジャーナリストがなしえない情勢分析をこれからもしていくものだと固く信じていた。だから訃報を聞き、大いに驚き、がっくりと虚脱した。

僕の人生の方向性を決定づけた助言を下さったお礼を是非せねばと思い、告別式に参列させていただいた。

惠谷治さんのご遺影。告別式にて。

会場には親族のほか、出版関係者、テレビ関係者をはじめ、探検家やその関係者と実に幅広い数百人の方々が参列していた。遺影は、なんとサングラス姿という型破りなもの。隣の部屋には惠谷さんゆかりの品々が置かれていて、そのなかにはなぜか赤ペンとカッターがあった。

惠谷は日常生活にも好き嫌いが多く、流線形は好みではないので花はまっすぐに並べました。

喪主である連れ合いの眞保さんが話すと会場は沸いた。故人の人柄が偲ばれる、素晴らしい葬儀であった。

家に戻ってから、香典返しとともにいただいた一枚のチラシに目を通した。太いゴシック体でタイトルが記された「惠谷治蔵書大頒布会」の案内で、副題の部分には「お宝か? 書棚の肥やしか? 正直、家族の手に余る…」とあった。

形見分けを行う「蔵書大頒布会」の開催を知らせるチラシ。

要項には「時期:今夏/書き込みや開きグセがある本ばかりで、美品は少数/謎洋書も多数/希望者多数の際は日程を分け、参加日は抽選とさせていただきます/冊数上限はありませんが、発送の手配はできかねますのでご了承ください」などと記されていた。

大切な家族が失われたばかりのこの時期に、こうした文章を形にして、配れてしまう遺族の方々の手際の良さに驚いた。それと同時に、形見分けをしたいというご希望にぜひ添いたいと思った。彼の影響を大いに受け、活動してきた身として、彼の蔵書を少しでも継承していかねばとの自負心と義務感を抱いたのである。

また、蔵書問題について取材してきたライターとしての好奇心にも火が付いた。頒布会開催より前に、惠谷さんの蔵書の全体像をひとめ見てみたい。頒布され、コレクションが解体されてしまうと、日本国政府でさえ一目置いているといわれた惠谷さんの情報力・分析力のメカニズムを知ることができなくなる。

もちろん頒布会にも参加し、惠谷さんの持つ蔵書や資料がどのように形見分けされていくのか、その様子も目の当たりにしたい。

そのような思いを抱き、チラシに記されている連絡先に「取材のお願い」と記して送信した。するとしばらくして次のような返事が来た。

今回の西牟田様のお申し出はもっとドキュメンタリー的な取材と理解しております。ただその意図するところはわかりますが生前そのままをというご希望には残念ながら添うことができません。と言いますのも、書斎を片付けないことには遺骨を納めることもままならなかったからです。

僕はそれを読み、残念だと思うよりも、逆になるほどと膝を打った。そうして蔵書を移動させなければならないぐらい居住スペースを蔵書が侵食していたことが想像できたからだ。これだけの評論活動を行うには居住スペースを度外視したほどの膨大な蔵書があるのだと。

蔵書との対面

その後、話がまとまり、取材させていただけることとなった。

指定された6月30日、本サイトの編集発行人、仲俣暁生さんと一緒に惠谷さんの書庫と書斎を訪ねた。小田急線の豪徳寺駅から少し離れた高架下のトランクルームまで案内してくださったのは、葬儀で遺族を代表して挨拶をされていた眞保さんご本人であった。

辿り着いたのは、高架下に左右一つずつ設置されているガラス張りの自動ドア。向かって左がドア越しに管理人が見えるA、向かって右がBであった。眞保さんに解錠してもらい、Bのトランクルームへまずは入る。

書庫としてつかっていた高架下のトランクルーム。

惠谷さんの蔵書は入って右側の入口から最も近い一部屋にあった。6.6平米(3.6畳)の部屋の中は入り口から人一人が通れるだけの幅を残して、両側にスライド式の二重本棚が7、8本置かれていた。それぞれの高さは180センチほど。加えて同じ高さのスチールのラックが置いてあった。

トランクルームBに遺された惠谷さんの蔵書。後日の大頒布会ではこれらの本を参加者が持ち帰った。

蔵書はアラブ、カンボジア、世界の武器、ナチスドイツ、中国(文化大革命、天安門事件、毛沢東、鄧小平)、ソ連とロシア(レーニンとスターリン、ゴルバチョフ、北方領土)、自衛隊、チェ・ゲバラ、そして北朝鮮とまさに資料としての書籍ばかり。文学作品はフランスの詩人アルチュール・ランボーのものぐらいで、一見すると小説はほとんどなかった。惠谷さんも取材に同行していた船戸与一(豊浦志朗)の作品はある程度の冊数があったと、後で遺族に教えられたが、このときは気がつかなかった。

本棚一本で300〜400冊とすると2100〜2800冊。加えてテーマ別に段ボールに入れられた本が5〜10箱。一箱あたり30〜40冊として、それでも最大で400冊。とすると合計で2500〜3200冊ほどとなる。さらに本棚の上には彼がスクラップした新聞や雑誌の切り抜きがあった。

次にAのトランクルームへ行った。

まず案内されたのは、元々借りていたという手前の部屋。厚紙が素材の書類保存箱が壁を覆い隠すぐらいに積み重ねられていて、箱にはテーマ名が記されていた。本棚は持ち主の思考の軌跡が生々しくうかがえる。しかし、この部屋は整然としすぎていて、持ち主である惠谷さんの呻吟や苦闘ぶりが伝わってこない。なんだろう。この部屋は。

トランクルームAには整然と資料が積まれていた。

箱の中にはテーマごとに新聞の切り抜きが整理されていた。

「これは全部新聞の切り抜きです」と眞保さん。そういえば箱には「オウム」「生物化学兵器」「日本竹島」「亡命者証言」「セクハラ取材」「北朝鮮1999」などとテーマ名が記してある。

惠谷は毎日、新聞の切り抜きをしていました。朝日、毎日、読売、日経、産経、世界日報、東京、赤旗。あと一時的にジャパンタイムスと最大で9紙プラス夕刊5紙でした。それらにすべて目を通し、切り抜いて、スクラップにしていました。赤いサインペンで新聞の名前と日付を書き込んで、カッターで切り抜いていくんです。それを必ず、夜の食事の前にやっていました。切り抜いたものは分類して箱に収めていきます。

切り抜いたものを読み比べることで、各社の傾向の違いとか、これはおかしいとか、あてずっぽうで書いているとかといった特徴を詰めていく。よく皆さん、何か特別な情報源を持っているのだろう、って言われるんですけどね。基本は新聞情報の精査、それは一貫していました。それをもとに記事を書いたり、本を書いたりしていったんです。(眞保さん)

僕は複雑な感情に襲われた。惠谷さんの著作の秘密の心臓部を目の当たりにしたという興奮と、これだけだとその核心が皆目わからない、という戸惑いだった。

書籍であれば背表紙があり、どんなものか方向性が塊として見える。だが文書保存箱には手書きによる、そっけない項目名が記されているだけ。ブラックボックスが無数に並んでいる――そんな印象を受けたのだ。

本人が亡くなった後に整理スペース確保のために借りたという奥の部屋には、大きさが不揃いの段ボールの箱が積み重ねられていた。その中には各地で収集した地図、アフガンやサウジなどで買った民族衣装が入った衣装ケース、確定申告で使ったと思しき領収書の束の箱、かわぐちかいじ作の漫画への監修・情報提供関連の資料の箱もあった。

お宅訪問

トランクルームから10分余り歩いたところにあるご自宅のマンションへ向かった。玄関先には廊下の半分を埋め尽くす本棚と、140サイズぐらいありそうな大きな段ボール箱に入れられた各国語で書かれたコーラン90冊。遺影とお骨を置くためにトランクルームへ一部、蔵書を移動させたという書斎の部屋には、2、3本の書棚があった。しかし、意外にも自宅に残された蔵書はそれほど多くはなかった。

ご自宅には各国語で出版されたコーランが遺されていた。

書斎には惠谷さんの気配が濃厚に残っていた。ヘビースモーカーだった惠谷さんらしく、部屋はまだヤニ臭い。葬儀場にも置かれていた新聞切り抜き用のカッターと赤ペン、作業用に使っていたアップル社製のパソコンがこたつテーブルに置かれていた。そして奥には二段ベッドがあった。

惠谷は規則正しい人で、夜の7時から新聞の切り抜きをやった後に家族とともに夕食を食べます。そして家族が寝た後、午前0時から朝の6時まで執筆をして正午に起きるという生活を続けていました。編集者やほかの仕事仲間と飲みに行くときもあってそのときはかなり飲んでいたようですが、家では一滴も飲みませんでした。(眞保さん)

話には二人の娘さんも加わった。父親の資料整理ぶりや増え続ける蔵書に生まれたときからずっと協力してきた。彼女たちにとってそれが日常であった。

母が新聞を読むときには北朝鮮の検閲済みの文書じゃないですが、虫食いだらけ。特に北朝鮮関係で大きな動きがあると、もう読めたものじゃありませんでした。父が取材でいない場合もすべて取り置いて、順に並べていました。父は帰国後にすべての新聞に欠かさず目を通していました。(長女)

本人にとって日々の切り抜きは大事な作業でしたが、時間的にも体力的にも負担なわけで。取材から帰ってくるといつも半泣きでした。「やってもやっても終わらんのじゃ」って。(次女)

最大9紙もとっていたため、古新聞のゴミの量はすさまじく、その量は“1週間でよそのうちの1か月分”にのぼったという。

一方、蔵書については、かつては相当、多かったようだ。それこそ蔵書の森の中に体を縮めるようにして暮らしていたのだという。

10年前に豪徳寺のこの家に移ってくる前に住んでいた古いアパートは本と紙資料で家が埋まっていました。彼の書斎のほか、ダイニングには今トランクルームに置いてある7、8本の本棚がすべて置かれていました。「私が友達を家に呼んだ後、古本屋の通路みたいだね」って言われました。それは、部屋の大半が本や紙で占められていて、その隙間で生活しているという意味だったんです。でも当時はそれが当たり前だと思ってました。(眞保さん)

本は増えるものだと思っていました。捨てないんだから減るわけがない。私たちが子供の頃は、本は捨てるもんじゃないっていうのが大前提にあったから、よそのうちに行ったとき本は割と捨てるものだと聞いてびっくりしました。(長女)

家中に新聞や本が積み上げられていて、寄りかかって漫画を読んでいると、どっと雪崩れてきて痛い思いをすることもありました。それで、雪崩れてきた本を見たら金日成とか金正日って書いてあるんですよ。そのことを父に言ったら、冗談めかして「北(朝鮮の本が山積みな状態)のおかげでうちは食えてるんだよ」って言うんです。(次女)

豪徳寺に引っ越すことになったのは大家に「取り壊すから出て行って下さい」と、言われたからだ。

外的な要因がなければ抜け出せなかった。惠谷にしろ私たちにしろ、居住スペースをどんどんと侵食していく本や紙をどうにかしようと思っても、どうすることもできなかったから。(眞保さん)

そうして、惠谷家は豪徳寺のマンションに引っ越すことになった。そのタイミングで眞保さんは惠谷さんに提案する。

トランクルームを借りているんだから、共用の部屋に本は置いてくれるなと言い、その通りにしてもらいました。だから、新聞の切り抜きの入った箱や束ぐらいですよ、共用スペースにおいてあるのは。惠谷が亡くなってから家の中はきれいになっています。生前はもっと家のあちこちに資料が置いてありました。

廊下の本棚がすべて惠谷さんの蔵書だとして、書斎の2、3本の本棚とあわせても、1200〜1500冊ほど。先ほど見たトランクルームBの3000冊前後と合算しても、おそらく5000冊に満たない。蔵書が明らかに少なかった理由は、家族と同居するために、新聞や雑誌はもちろんのこと、書籍に関しても整理したり、買うことをセーブしていたということ、そして引っ越しを機に整理縮小を実行したということのようだ。

惠谷さんのライフワークだった新聞の切り抜き。

図書館でもブックオフでもなく

しかし残りの蔵書や紙資料について、生前どうしたいという指示は遺していなかったし、それに関して家族で話し合うこともなかったという。

資料をどうするかは考えたこともありませんでした。それを聞いても困らせるだけだったでしょうし。本人はずっとやる気でいたようで、体が動かなくなるまで新聞の切り抜きはやってましたからね。(眞保さん)

北朝鮮から流れ着いた木造船について、どこから来たのかを、舳先の番号から読み解く惠谷さんの姿を僕は昨年末、テレビで見ている。ゲリラに同行したり、火山の火口を探検したりして命の危険をかいくぐってきた惠谷さんだけに、病気もまた、乗り越えるつもりだったのだろう。

亡くなってからお通夜までの1週間。眞保さんは二人の娘と、遺された蔵書をどうするか話し合った。

自宅やトランクルームに残し続けるという案は最初から考えていなかった。現在、眞保さんは長女と二人暮らし。女性2人が住むのに今のマンションでは広すぎる。しかも使うあてのない蔵書のためにトランクルームを毎月49000円もかけて借り続けることも難しいからだ。

蔵書のすべてを、図書館などに引き取ってもらえる時代ではもはやない。とはいえブックオフにまとめて引き取ってもらうのも寂しい――。ではどうするか。ということで、眞保さんが思いついたのが頒布会の実施だった。その案に二人の娘も賛同、チラシを作成し、お通夜や告別式に配布することとしたという。

この話を伺って、僕は首をかしげた。惠谷さんの蔵書・資料には、日本国政府も注目していたほどなのだ。特に北朝鮮関係のものについては、いくらでも引き取り手はあるだろうと思っていた。

だがそう簡単でもないらしい。というのも、特殊機関から届いた特殊な刊行物やレターといったものに頼った分析活動を彼はしていなかったのだ。なので、もし防衛省などに資料を丸ごと引き取ってもらったとしても、何も重要な資料がないということで廃棄される可能性が高い。であれば生前、彼と親交があり、彼の蔵書を欲しがっている友人たちに形見分けした方が良いと思ったそうなのだ。

すごく体系的にきちんと集めたものじゃなくて、彼のゲリラ的な方法で本も集めていた。蔵書って私、ネックレスみたいな気がするんです。生きてる人がネックレスの紐でその人が亡くなってその紐が取れたら真珠がバラバラと転がって散っていく。それでそのバラバラになったものは追えません。だからそれがどう使われようが、あとで棄てようがもらってくれればいい。お渡しするときは、「O. EYA」というサイン入りのスタンプを押してお渡しします。書き込みとか、たくさんある本だけど、それでもよければどうぞって。

惠谷本人には「責任をもって、あなたの残したものを処分していきます。誠意ある形で分散させて、なるべく生かしていく。その方法を遺された家族が考えますからね」って骨壺ポンポンと叩いて約束しました。(眞保さん)

インタビューを終えた後、一度トランクルームにとって返すと、拉致問題で有名なジャーナリストの西岡力さんが北朝鮮関係の段ボールをさっそく運び出していた。また探検家・医師である関野吉晴さんなどといった知人・友人がさっそく惠谷さんの蔵書を見に来ていた。

僕が関野さんに「いろいろと面白い書籍がありすぎて、どれをもらっていいのかわからないですよね」というと、「そうなんだよ」と同意してくれた。長い時間をかけて集めてきた故人の蔵書は、その人の思想そのもの。まして僕がずっと尊敬してきた惠谷さんの蔵書なのだ。畏れ多くて、手をつけることが憚られた。

大頒布会が開かれる

僕はその後、二度にわたって頒布会に参加した。一度は7月22日に仲俣さんと戦場や医療をテーマにしたジャーナリストで友人の村上和巳を伴って出かけた。書庫が狭いため、頒布会は1時間ごとの入れ替え制。なので他の人が何を選んでいるかはわかりにくかった。この日は大変暑い日で、クーラーの効いていない書庫の中は10分ほどいると朦朧してしまうほどであった。

僕が手にしたのは、このとき渡航が迫っていた中国取材に使えそうな中国関係の書籍を中心に20数冊。詳しく書くと、鄧小平の伝記、文革関連の本、武器の図鑑、日本イスラーム史などだ。

僕たちの前後には、彼が生前最も高頻度で寄稿していた「SAPIO」で地図や統計のイラストやデザインを担当した女性たちが数人やってきていて、書籍に加えてアクセサリーや民族衣装といった雑貨を持ち帰っていった。

法政大学探検部OBでモーリーという探検酒場を営む店主は「民族の世界史」シリーズ約20冊やチベット関連の著書など冒険に関係する書籍40冊を持ち帰っていて、後日、お店のウェブサイトでそのリストを発表していた。

台風直下の7月28日に再訪したときは、惠谷家と縁が深い、ノンフィクションライターの山川徹を伴って参加した。

僕たちの1時間前の回にやってきていたのはジャーナリストの高世仁さんとその奥さん。惠谷さんは、高世さんが制作した北朝鮮に関する特集番組の常連として長年、出演していた。二人はまさに盟友だった。

北朝鮮がモデルにしたスターリン体制の関連本を何冊かいただきました。

この日は前回のような暑さはなく、じっくりと選ぶことができた。ソ連の閣僚やオウム、北朝鮮の核施設関連のスクラップを中心に選んだ。スクラップが多かったのは、惠谷さんの思想を知る手がかりとしたかったからだ。あとアフガニスタンのフエルト帽子もいただいた。

一方、山川さんはロシア史関係と中国史関係、旧日本軍の武器や装備などの資料を何冊かずつ選んでいた。

台風にびびってしまい行くのを躊躇しましたが、行ってよかったです。将来使いそうな資料をたくさんいただけました。

このように惠谷さんとゆかりのある人たちが、思い思いに、蔵書を選び、「O. EYA」と記したイラスト入りの特製スタンプをひとつひとつに押してもらい、リュックに詰めたり、取り置きをしたりして、形見分けをしてもらっていた。

形見分けされた本すべてにこの蔵書印が押された。

頒布会の本当の目的

頒布会は7月の土日に3回、8月初旬の日曜に1回。1時間ごとの入れ替え制で、毎回4、5回開かれたようだ。参加人数は延べで30〜40人。「ここは9月末までしか借りられないので、残った分は古本屋にまとめて引き取ってもらいます」と眞保さんは言う。

一人10冊として300から400冊。僕はこれまで、40リットルのバックバックを2回満杯にして持ち帰った。でもその時点では、まったくといっていいほど蔵書は減ったようには見えなかった。

本当であれば後進の僕たちが責任をもって、すべてを引き取りたいのだが、やはり居住問題が大きい。著名人の蔵書であってもどの図書館も引き取らない。惠谷さんたち団塊の世代やそれより前の本読みたちが高齢化しリタイアしたり、物故したりすることで、宙に浮く蔵書が急増している。欲しいと思った人がこれをまた一から集めるとなれば労力が大変にかかる。そう考えると少しでも多くの書籍や紙資料をレスキューしたいと思うのだが、断腸の思いだった。

だが頒布会の目的はそれだけではないように思えた。

このランボー詩集、もともと私のものなのよ。だけど惠谷と一緒になるとき、惠谷が「結婚するんじゃから本棚もまとめてしもうてええじゃろう」って。もちろん西牟田さん、持っていって構いませんから。(眞保さん)

甥っ子の結婚式のとき、父はこれが「わいの正装じゃ」といってサウジの王族みたいな白い布をまとっていました。あのときは一人だけ浮いてて、呆れましたよ。(長女)

この頒布会は、形見分けをするだけでなく、故人の思い出に花を咲かせ、共有する場でもあったのだ。

集まった方々との会話を通じて、いままで知らなかった惠谷さんの人柄がよくわかったし、ご家族にとっての惠谷さんの存在の大きさも偲ばれた。そうやって参加者が思い出を共有することがいちばんの供養になったのかもしれない。

僕ももうすぐ50歳。彼のようにしっかり整理をしていても、溜め込んでいる本や書類には引き取り手がない。自分も今後のことを考えねばならないと思うきっかけとなった。

出版流通はなんでもありの変革期を迎えた

2018年8月20日
posted by 湯浅 創

「頭脳」がない。あるのは「身体」だけである。日本の出版業界のことだ。

出版界が「業界」、すなわち、経営的に回っている状態にあるか、と言われれば、それは「否」と答えざるを得ないだろう。1996年以来の売上高の減少に対し、無為無策のままで進行していることがその証左である。曰く「出版は文化的事業であり、他の業界とは違う」。ええ、他の業界の人も「自分の業界は他と違う」と思っていますよ。

もはや業界として一般から「支持されていない」

取次の収支は公表されており、日販もトーハンも営業損益レベルでは実質的には赤字である。書店もまた多くは「苦しい、苦しい」の連呼である。では、業界三者の最後、出版社がもうかっているかといえば、経済産業省の特定サービス産業実態調査に従えば、近年はやはりこちらも赤字である。もちろん、個々の企業の凹凸はあるが、総体として主業だけでは「赤字」なのである。つまり、業界として一般から「支持されていない」ということができる。

出版流通は保護されるべきなのだろうか? なるほど、教科書流通の観点からすれば一定の保護が必要だろう。教科書供給の利権は利権だろうが、取り立てて他を圧迫しているわけでもない。したがって、ここに切り込むことはあまり意味がない。そう考えてみれば、教科書流通を保護さえしておけば、他の出版流通を保護する意味はそう大きくないし、公金の投入という議論を、図書館法を超えた形で進めるのは、かなりの困難が伴う。

もちろん、たとえば、八戸の事例のように、地域単位での合意が形成されれば、第三セクターとしての書店が誕生することは歓迎すべきである。だがそれは、「パトロン探し」をする近代初期の画商のようなものであり、それ自体が「産業」として成立しているわけではない。

仲俣は希望を込めて「本がたんなる消費財でも娯楽でもなく、つねに更新されていく知恵や知識、そして創作物を伝える媒体であるならば、そのための流通経路がなくなるのは、やはり困る」と述べる。だが、もしかするともはや要らないのかもしれない。

たとえば、文学フリマであり、コミケに代表される「イベント」がその代替を果たしているのではないか。「イベント」という「地域的」で「一時的」なものが、出会い、あるいは販売の主になりつつあることは、「ブックフェア」が中央的なものから分散的なものへと変質していっている昨今の歴史が教えてくれる。そこの会場は熱気がある。だが、一歩外に出れば、その熱気はない。街には「捨てるべき本がない」のだ。

「地域的」なメディアへの回帰

元来、書籍は地域的なものである。すなわち雑誌の波円的な広がりに対して、書籍は錯綜的広がりを持つものといえよう。これは地理的に当てはまりやすいが、クラスタ(読者層)にも言えるだろう。

日本の出版流通の困難は、雑誌の書籍化、つまりは雑誌のクラスタ化にある。これは雑誌が実売ではなく、広告収入に左右されていることの証左でもある。マーケティングからすれば、クラスタ化した方が、対象物を確実に売ることができる。この波円的であり、総花的であり、拡散的であった雑誌がシュリンクすることで、流通自体が持たなくなっている。

取次という雑誌流通体制を再生するのではなく、新たなる「書籍流通」を構築することで、仲俣の言うような媒体を流通させることが可能になるのかもしれない。

書店業に向き合い、そして敗れていった先達に話を聞くと、異口同音に「焼野原願望」を唱える。一度リセットしたところから、何かが立ち上がるだろう――あきらめとあきらめきれない希望がそこにはあった。リブロ〜平安堂の今泉正光氏、岩波ブックセンターの故・柴田信氏、若くして世を去った、天震堂の故・細江弘人氏、あるいは、大阪の「町の本屋のオヤジ」として様々な仕掛けを行ってきた、宮脇書店大阪柏原店の萩原浩司氏。

必要なことは「小売」「卸」「メーカー」のそれぞれの立場から、学問的にある程度の支持を得ている視座からの自らの立ち位置の「反省」である。自分たちは違う、自分たちのやっていることは他には理解できない、という有職故実的思想が、変革を遅らせ、結果としての衰退を招いている。私見では少なくとも二つのことについての「反省」がいると考える。

委託制度の廃止と「本」とのタッチポイント確保

第一に、委託制度の廃止である。委託制度は、栗田出版販売の「破綻」の際に、法的に認められなかったものである以上、もはや財務諸表を整えるための「仮想通貨」である。今後、収益認識の変更、返品調整引当金の段階的廃止、と待ち構えている以上、この制度はなし崩しに消えていくことになる。この時、受発注両者において、まさに「単品管理」が問われることとなる。

なお、再販制度の評価は難しい。イギリス、フランス、韓国とそれぞれで別の結果が出ており、検討するとしても、たとえば、時限再販や値幅再販といったことが必要とされるかもしれない。ただし、ポイントカードの導入によって、事実上の「値引き」は行われていくこととなる。

第二の論点は、「本」とのタッチポイントの確保をどうするか、である。仲俣は下記のような提案をしている。

ウェブを介した紙の本の流通を増やすことだ。日本ではまだ、インターネット経由の新刊書の購入が思ったほど盛んではない(市場全体の1割程度)。これが2割から3割ぐらいに増えていく必要がある。もちろん、どんな本が出ているのかわからなければネットで買うこともできないから、そのための仕組みがいる。たとえば私も運営に参加している「Socrates」は、そうした試みの一つである。

「Socrates」近しい試みはほかにもあるのだが、これらの「ネットを使ったPR」がインターネットの海の中で沈んでしまうという点が非常に難しい。ニュースサイトが点在し、ニュースコンテンツもまた数多ある中で「本」の広報が「届く」ようにするには、いわゆるGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)、あるいは国内であれば楽天やソフトバンクとの関係をどう構築していくか、ということでもある。

「近代の産物」を守る必要はあるのか?

ただし、この「ネットを使ったPR」という手法に対応しうる「本」はごく一部の内容にとどまる可能性がある。実際にはヘイト本がそれを示しているが、ある種の「極端さ」が求められてしまう。ネットという数多のテクストの海の中であるのだから、それはある程度は仕方がないことでもある(ヘイト本が良いという意味ではない)。

だが、いわゆる「地味な本」の存在はどうすべきか? たとえば、学習系書籍のようにライフステージの中で(嫌々ながら)必要とされる「本」はどうしたらいいのだろうか? ここは「学習のあり方」の変化と関わってくる。英会話やデジタル教科書に代表されるように、ネットを含むデジタルでの学習がどこまで進捗するか、である。

いずれにしても、小売専業店としての「書店」は、日本で言えば江戸末期、実質的には、学制が誕生した明治初期以降の「近代の産物」である。この「近代の制度」を守らなければならない、という理由は、当事者である立場を離れて、歴史的視座から見れば、特に存在しないのではないか。

アパレルで言うところのSPA、すなわち製販合一を目指すCCCグループの手法もあるだろうし、製造側からの合一を目指す角川書店のような方向性もあるだろう。本稿では触れていないが、物流の問題も掛け合わせれば、東京から波円的に流通させる手法も「近代」であるのかもしれない。

そのようにして考えていくと、出版「業界」は、何でもありの変革期になったのだろう。そこを嫌うのか希望を見るのか。少なくとも前提踏襲主義者は不要なのではないだろうか。