作用し変化し合うこと——NovelJam観戦記

2018年12月13日
posted by 伊川 佐保子

わたしがNovelJamに申し込めなかった理由

合計しても、そこに居合わせたのはたった8時間程度だった。

それなのに、その様子を見守り、自分自身もなかば参加した気になって、満足げに観戦記を書くことにした。

だが実は、そもそもわたしは観戦するのではなく、参戦者側に回りたかった。回りたかったが、諦めたのだった。

NovelJamは「著者」16名、「編集者」8名、「デザイナー」8名の計32名がチームを組み、2泊3日の中で短編小説を完成させ、しかも電子書籍として出版せねばならないという、なんとも無茶なイベントである。その第3回が、2018年11月23日から25日までの3日間で開催された。

NovelJam2018秋の制作中風景(写真提供:日本独立作家同盟)

はじめてこのイベントの存在に気づいたのはおそらく2018年の2月に開催された第2回のときだったように思うが、そのときからわたしはこの取り組みの無茶さ加減に惹かれていた。

正直に言ってデザインのことはさっぱり分からないから、「デザイナー」枠は無理。でも「著者」枠か「編集者」枠だったら、素人にしろ多少なりとも楽しめるのではないか、だめなら落選するのだろうし応募してみるくらい……、いや、でもやはり無理だ、やめておこう。

そんな風に何度も申し込みを検討し、そして何度もあきらめた。

”面白い”短編小説を著者1人につき1作品、会期中に完成させる

NovelJamの参加要項の冒頭にあった言葉だ。わたしはここにつまずいた。

わたしには面白い小説がどういうものなのか分からない。

高校1年生のとき、文芸部で書いた小説を担任のD先生が読み、「よく分からないし面白くなかった」と感想をくれた。わたしは咄嗟に「じゃあ『ハリー・ポッター』だけ読んでいてください」と悔しまぎれの返事をしたのだが、それから10年以上経っても、自分の小説がわたし以外の人にどう面白く読んでもらえるかというイメージはまったくついていない(念のため補足をすると、『ハリー・ポッター』も担任教員もわたしは大好きだった)。

そんな状態で面白い小説を書くなんて無理だ。ましてや編集をするなんてどう見ても不可能ではないか。わたしにはそう思えてならなかった。

NovelJamを2日間観戦した後になって考え直したとき、参戦者としてあの場にいなかったことを後悔していないかと言えば嘘になる。事実、NovelJamは面白い企みであった。随所で様々な反応が起き、それによって新たな小説が多数生まれた。同時多発的な反応は、その念入りに仕組まなければ発生し得ないものだろう。念入りに仕組まれたゲームの上で本気で戦う面白さは、何ものにも代えがたいことだろう。

それでも、わたしが観戦者という立場で巻き込まれたことは幸運であった。「ほんやのほ」という小さな本屋の開店準備をしているわたしにとって、小説と面白さについて真剣に考えたことは大きな意味を持つものだったからだ。

「面白い小説とはなにか」

さて、「面白い小説とはなにか」。

わたしは「小説が好きだ」と言って生きてきたが、先に書いたとおり、面白い小説がなんなのかはまるで分からない。読まない人よりは本を読み、読む人よりは読まずにやってきたのだろうと思う。同じように、書かない人よりは書き、書く人に比べればほとんど書かずに生きてきた。しかしいまだ「面白さ」の輪郭はちっとも見えてこない。D先生の呪いかとも思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

「この小説、半端じゃなく面白い」と思ったことがないかと言えば、そんなことはないのだ。むしろ日々なにかしらを面白がっていると言った方が正しい(なんならD先生につまらないと言われた自分の小説についてだって、なにかしらの面白さを受け取っている)。

ならば「面白い小説とはなにか」という問いの設定そのものに間違いがあるのかもしれない。

どうも「面白さ」というものは小説側にはないのではないか。面白さはむしろ感情を動かされる人間側に位置しているようである。

もちろん、人がなにかを自発的に面白がっているわけではない。静的な素材である小説が、動くものであるところの人間の認知に作用することによって面白さが生まれているといった方が、より正確なのではないだろうか。

面白い小説、美しい絵画、恐ろしい道具。この修飾は反応として生まれる評価だ。たしかに、ある環境で比較したときに面白いと評価されやすい小説は存在することだろう。だが、それは環境や状況という大きな前提によって成り立つものでしかない。

わたしたち人は皆、作用を受けている。数多くのものによって刻一刻と変化する。しかもそれは目的の到達のための進化ではなく、「変化」「動き」と言った方がよい。

パブリッシングの面白さ

絶対的に面白い小説は存在しない一方で、動きはそれそのものが面白い。

動きと変化こそがこの世界の醍醐味だとは言えないか。反応し変化していくことが、世界の一部であることを示すものだとわたしは信じてやまない。というか、自分も他者もそういう一部であるらしいということが、なにより面白いではないか。

生きていくための平和、生きていくための諍い、生きていくための優劣がある。

それが大局的にみれば差のないことであろうと、わたしたちはその中で生きていくしかない。それならば、心地よくありたいと思うのは自然なことだ。

心地よくあるためには、今この瞬間に心地よくあることと、明日、来年、10年後に心地よくあることを考えなければならない。そのために、小説は書かれればいいと、わたしは思う。書けば気持ちがいいから、書かねば苦しいから書く。よい作用を受けたいから書く。そういうものではないだろうか。

NovelJamは一つの装置だ。面白い動きをする企みだ。さまざまな事情と興味によって集まった数十人が、ただただ同じルールに沿って、他のすべてのことを投げ打って作品を仕上げていく。時には意図を読み違えたり、空回りしたりもする。普通では起きないようなことが、この短い時間の中では容易に起こり得る。それはNovelJamという仕掛けと、参戦者同士の反応によって成り立つものだろう。

だからこそ、振り返ればNovelJamでは絶対的な面白さが求められていたのではなく、この場で「”面白い”短編小説を定義する」という行動が求められていたようにも思われる。なにせNovelJamに参加するのは「著者」だけではないし、生み出されるのはテキストだけによって成立するものではない。NovelJamで行われるのは、「ライブライティング」ではなく「ライブパブリッシング」なのだから。

パブリッシングとはまさに動的なこと、行動である。NovelJamは1人ではなく「著者」「編集者」「デザイナー」という複数人で分業することによって成立するイベントだ。NovelJamが謳う「ジャムセッション」の意味するところでは、以下の2点が肝となるだろう。

・複数人で行われること。
・あらかじめ念入りな計画をせずに実行すること。

問われるべきは狭い意味での、テキストとしての小説ではなく、パブリッシングの即興的な面白さなのではないだろうか。即興の中では、一般性・絶対性に期待する必要は薄れる。それよりもこの状況だから現れるなにかから、ひしひしと作用を受けることがかなえば、その作用によって評価することもむずかしくはないはずだ。

様々な戦略が交錯していた、ように見えた

初日の自己紹介タイムから、戦いはしっかりと始まっていた。わたしは北野駅に向かう京王線の中で、YouTubeのライブ中継を見、Twitterのハッシュタグを追っていただけだ。それでも、印象に残りやすいラップや演奏、フリップ芸だけでなく、自分のアピールポイントを90秒間で伝える様々な試みが見て取れた。怖いくらいだった。

わたしが小説を書こうというとき、それはどこまでも個人的な思考の整頓術、身体のわだかまりの発散法のようなもので、社会性とは縁遠いものだった。発表にしたって、高校文芸部の部誌を除けば、仲のいい知人に押しつけるくらい。しかし、ここではすべて違うのだ。

「著者」も「編集者」も「デザイナー」も、得意不得意にかかわらず、皆なんらかの見せ方で自分を集まった小さな社会の中にアピールすることが求められ、なんらかの方法でそれを行った。この自己紹介がその後のマッチングに大きく影響することは間違いないのだから、当然でもある。その社会的でまっとうな努力に、わたしはどきどきしながら目を見張っていた。

ようやく急ぎ足で会場に到着した14時半ごろ、会場ではマッチングが行われていた。投票と最終的にはじゃんけんでチームが決められる。期待通りの結果に喜ぶ人、そうではないことにショックを受ける人がいる。それでも、決まったならその中で最善を尽くすことになる。

チームメンバーのマッチング中。(写真提供:日本独立作家同盟)

チームが決まると、わたしが座っていた席からでも、初対面の緊張をほぐそうと話す声、打ち合わせスケジュールなどを念入りに相談する姿のあることが分かった。お題が発表されると、すぐさま考え出す表情も見えた。わたし自身は初日そこで帰ることになっていたため、その後のことは分からない。

「作用」と「評価」

次に会場を訪れたのは3日目の作品提出が終わってからだった。後から参戦記を読めばドラマの断片だけは見えるが、3日目再び会場を訪れたときは、空気が初日と比べてよほど落ち着いていることに驚いた。会場でただ審査結果を待つのみという状況は、想像していたよりも和やかに見えた。

じきに審査員らが登場し、席に着く。1人1人の審査員が賞を授与し、講評を行う。すべての賞が贈られると、全体評が交わされた。おや、と思った。それはパブリッシングそのものへの評価というより、各視点から見たテキストへの評価に終始しているように思えたからだ。

だがそれも無理はない。現状電子書籍と呼ばれるものはプラットフォームの厳格な仕様に沿ってはじめて活用が可能になる。それらプラットフォームの一歩外に出てしまえば、それは金銭的な流通からも足を踏み外したようなものだ。ともすれば、制作者側はプラットフォームが許容する行動しかとれない、場合によってはそこから外れる想像すら許さないような状況に陥ってしまう。結果として、小説以外に作用するものを持つことがむずかしいのだ。

だがそれでは、そこで生み出されたものは、長い時間をかけて誕生した他の小説に比べて捉えどころのないものになりがちではないだろうか。小説だけで「戦い」に興じなければいけないのであれば、少なくともそれを今後長く時間をかけて変化するものの種と見て赤ん坊のようにかわいがるか、あるいはまったく別の行動の仕方によって小説を書くほかない。

審査員による講評風景。右から二人目が小説家の藤谷治さん。(写真提供:日本独立作家同盟)

NovelJam審査員の1人である藤谷治さんが、「文学というものが著者によるだけではなく、編集者によっても、デザイナーによっても手を加えられて、初めて「文学」になる」と書かれていた。NovelJamがその体験の場であるならば、2泊3日の中で生まれたものの評価も、それ相応に行われる仕組みを持つべきではないだろうか。またパブリッシングの自由度への模索は、いくらされてもいいものだろう(なお、次回まで待たずとも2月に行われるグランプリ発表まで、NovelJamは続く。その中で総力がいかに発揮されるかというところも、もちろん無視してはいけない点だ)。

制約と自由のせめぎ合い

イベント終了後の打ち上げでは、張り詰めていた身体をほぐすように楽しむ会話が行き交っていた。中には「こんな連携がしたかったができなかった」と振り返る参戦者の声もあった。そこからは作品のテイストなど創作物に関する齟齬ではなく、性質や行動特性の理解までの時間不足による不自由が感じられた。

それを聞いて、こんな想像をした。

もし、NovelJamに枠がなかったらどうだっただろう。

「著者」「編集者」「デザイナー」という枠を設けなくても、成立する方法はないのだろうか。

例えば、なんらかのWeb診断テストを受けてもらうのものいい。あるいは特性の軸がより多岐にわたっていればいいのかもしれない。

編集にしてもどういう進め方が得意なのか、どういう性格でなにが苦手なのかということが分かっていれば、短い時間でより作品に専念でき、相乗効果も生まれやすいのではないか。

「著者」が必要なのではなく、「小説を書く役割の人」がいればいいのかもしれない。「デザイナー」ではなく「デザインができる人」という方がいいのかもしれない。そんな風に思う。

小説を書ける人がもし2人いるならツーサイド小説が生まれるかもしれない。発想が得意な人がいれば、デザインと小説を絡めることも可能になるかもしれない。執筆、編集、デザイン、すべての要素は必要だが、それが1人1要素ずつと決められている必要もないように思えた。

そういえば自己紹介の時に「車で来ているので同じチームになると買い出しがラクです」というアピールをしている人がいた。これもまた立派な特性だ。ようは「どういう時間を一緒に過ごせるか」がイメージしやすい方がいい。などと書くと、はやりのマッチングアプリのようだが、もしかすると近いところはあるのかもしれない。

どうせなら、面白いことをしたい。それは参戦した誰もが思っていたことだろう。そのための制約と自由のバランスが、よりかみ合えばいい。きっとそのためにイベント自らも反応し変化していくのがNovelJamなのだろう。主催者側と審査員、参戦者、わたしたち見学者までもがごちゃ混ぜになって談笑する打ち上げの中、そんな気がしてきて、わたしは安心しながら缶チューハイを飲んだ。

NovelJamのような本屋があるとすれば

もしNovelJamのような本屋があるとすれば、「ほんやのほ」がそれであればいいと思う。

大切なのは「そこでなにが作用したか」「自らどう変化できるか」である。そのために運営者はなんらかの企みを持たねばならない。

それは「ほんやのほ」に限った話ではない。本屋に限った話ですらない。本屋の企みはすべて「お金を得るための施策」に過ぎないと思われるかもしれないが、今時本気でお金を稼ぎたいだけのために本屋をやる人なんていない、と思う。もちろんお金も稼ぎたいだろうが、それよりなんらかの装置として社会の中にありたいのだろうと思っている。少なくともわたしはそうだ。

NovelJam参戦記を読むと、それぞれの試行錯誤が見える。基調講演では編集者の三木一馬さんが「人は他者の追体験をしたいものだ」と話されていた。それは小説について語られていたことだったが、参戦記もまた一つの物語に違いない。それらをぼんやりと眺めていると、NovelJamがわたしにもたらした作用は大きかったのだと分かる。わたしには参戦記、観戦記が面白くてならなかった。藤谷治さんの評も、自分のことのように読んだ。それはわたしが気づけばNovelJamの動きに巻き込まれていたということだ。

NovelJamの直の熱、動きに感化されて、わたしは今この文章を書いているのだと気づくと、それもまた面白い。

出版ジャーナリズムの火を絶やしていいのか

2018年12月3日
posted by 仲俣暁生

1949年の創刊以来、出版界が置かれている状況を刻々と報告しつづけてきた「出版ニュース」が2019年3月で休刊することが決まった。また『出版年鑑』も今年8月に出た2018年版で終了し、2019年版は刊行されないことも出版ニュース社のサイトと「出版ニュース」11月下旬号で正式に告知された。

「出版ニュース」は1949年に日配(日本出版配給株式会社)の解体に伴い独立した出版ニュース社が刊行する旬刊(月三回刊)の雑誌で、戦時下の出版流通を担った統制会社である日配時代に刊行されていた「新刊弘報」「出版弘報」の流れを組む。また当初は博報堂が出資者となっていたが、現在はそのような資本関係はないという。

日配時代には戦時下の物資窮乏のため、書籍が完全買取・買切制になった時期があった。「出版ニュース」の前身「出版弘報」は、そうした時代に販売店(当時すでに1万5000軒あったという)が本の現物を見ることなく注文できるよう、一種のブックカタログとして刊行されていたようだ。日配は戦後、商事会社としてしばらく存続した後、占領軍の指導のもとで解体され、現在のトーハン、日販ほかの取次会社に分割された。しかし戦時下にできた合理的な出版物流システムは戦後も存続し、日本の高度成長期の出版業界を支えたとされる。

こうした日配時代の日本の出版業界の姿を知ることができるのも、出版ニュース社がその出自である日配についての詳細な資料をまとめた『資料年表 日配時代史――現代出版流通の原点』(荘司徳太郎、清水文吉・編 1980年刊)や『私説・日配史――出版業界の戦中・戦後を解明する年代記』(荘司徳太郎・著 1995年刊)といった労作のおかげである。いわば出版ニュース社は、日本の現代出版流通史の生き証人といっていい。

出版ジャーナリズムの基礎が失われる懸念

今回の発表により、「出版ニュース」だけでなく『出版年鑑』の刊行が止まってしまうことを知った衝撃は大きかった。日本の出版業界の現状を知るための基礎資料として、その役割はきわめて大きいものだったからだ。

出版市場の統計データであれば、全国出版協会・出版科学研究所が発行する「出版月報」や『出版指標年報』によって知ることもできるし、電子書籍市場の動向も上記資料やインプレス総合研究所が発行する『電子書籍ビジネス調査報告書』でカバーできる。しかし『出版年鑑』はこうした報告書類が伝える市場動向だけでなく、著作権法を始めとする法規・規約、出版社・編集プロダクション・取次・書店などの名簿、『出版ニュース』の主要記事をまとめた縮刷版、書籍や雑誌だけでなく、オンデマンド本やオーディオブックまでを含めた目録といった、出版業界を構成するあらゆる要素を盛り込んだ総合カタログだった。

『出版年鑑』の発行のためには日常的な活動として「出版ニュース」の刊行は不可欠であり、同誌休刊が報じられたときに私がもっとも懸念したのは『出版年鑑』の継続が不可能になることだった。「出版ニュース」休刊を伝える新聞記事で、同社の清田義昭代表は「出版業界が厳しい中での休刊にじくじたる気持ちはあるが、社員4人の小さな会社で私自身も高齢になり、潮時だと感じた」と述べていた。

昨今の出版業界の厳しさは、日配時代にまで遡ることができる雑誌の全国流通に適合した「合理的」な出版流通システムが、雑誌というメディア自体の崩壊によって意味を失い、その結果、書籍を含めた出版流通システムが自壊しつつあることに起因している。おなじく日配に歴史的な起源をもつ「出版ニュース」の休刊は、その意味ではたしかに一つの「潮時」が訪れたことの象徴なのかもしれない。

しかし現在の「出版ニュース」は、創刊時のような出版業界の広報宣伝誌ではなく、在野の様々な書き手(出版人や編集者だけでなく、作家や批評家、ジャーナリストや図書館人なども含まれる)を起用した、出版ジャーナリズムの貴重な媒体となっている。いわゆる「出版業界紙」とは一線を画したその誌面には、再販制度や有害図書規制といった重要テーマをめぐって、意見を異にする論者にも公正に場が与えられていた。

出版ニュース社は来年、創業70年を迎える。そして出版業界はいま、日配が解体された戦後まもない時期とおなじくらい大きな激動期にある。にもかかわらず「出版ニュース」と『出版年鑑』の休刊によって、報道や研究の基礎となる信頼度の高い一次資料と、それをもとに活発な議論が行えるジャーナリズムの場を私たちは失うことになる。

こうした営みの後を継ぐ義務は、より若い世代の出版人や、広義の「出版」を担うIT系の企業も含めた後進のパブリッシャーにもあるのではないか。小誌もささやかなその一端を担っていきたいが、せめて『出版年鑑』だけでも継続刊行できる仕組みを、出版業界の側でも真摯に考えてほしい。

編集を経なければ、文学は存在できない

2018年11月28日
posted by 藤谷 治

第8信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

先日、仲俣さんから依頼された、「NovelJam」というイベントの審査員をやりました(実は「先日」どころではなく、これを書いている僕にとってはつい昨日のことなのですが)。

参加費を払って集まった数十人が、その場でお題を与えられ、2泊3日で短編小説を仕上げるだけでなく、それを電子書籍として販売すらする、という、まあ乱暴といっても過言でない、べらぼうなイベントです。2泊3日の3日目には僕たち審査員が朝から審査を始めるのですから、参加者には実質1日半ほどしか「小説の制作」には充てられません。

しかもそれはあくまでも「小説の制作」です。これが「執筆」ではないところがまた、このイベントの興味深くも暴力的な特徴です。参加者にとって「執筆」は、目的達成ではなく通過点でしかありません。彼らは執筆した小説を編集し、表紙(電子書籍でも「表紙」というのかどうかは知りませんが)をデザインし、作品をプレゼンテーションして、「商品化」にまでこぎつけるのです。

初日前夜にオペラの序曲を書かなければならなかったというモーツァルトやロッシーニの逸話、あるいは1日で映画1本撮影したというマキノ雅弘の伝説(いずれも真偽不明ですが)を想起させるような離れ業に、ロッシーニでもマキノでもない人たちが一心不乱に取り組んでいました。

僕たち審査員は最終日に行っただけ、しかもそのかん1作1万字の小説を16作、4時間以内に読むという、参加者たちに負けず劣らずの無理難題を強いられていましたから、彼らの現場は殆ど判りませんでしたが、垣間見るだけでもその切迫した雰囲気は充分に伝わりました。

ここで「NovelJam」の詳細を語るつもりはありません。ただあのイベントには、僕たちがこの往復書簡でまさに語ろうとしていることそのもの、という側面がありました。つまり参加者は、全員が小説を書いたわけではないのです。彼らは「著者」のほかに「編集者」「デザイナー」と役割を分担し、チームになって小説の電子書籍化に取り組んでいたのです。

ここまで書いたものを読み返して、誤解されるかもしれないと恐れたので申し添えますが、僕は「NovelJam」を大いに楽しんだのです。また種々に意義のある試みでもあると思います。参加者が「小説を商品化する」というプロセスの一端をでも、実地に垣間見ることができるのは、それだけでも大きな経験でしょう。その意義を認めたうえで、あの場で感じ、また驚いたことを、これから書きます。これはあの催しについてというより、いわば「『編集啓蒙』の弁証法」とでもいうようなことです。

彼らのプレゼンテーションを見てから気がついたのですが、イベント参加者のうち、「著者」は普段から小説を書いている人が殆どでした。プロとして活躍している人もいたようです。また「デザイナー」もプロであったり、ヴィジュアルな制作を日常的にしている人ばかりでした。ところが「編集」を担当した人の中には、あの場で初めて編集をすることになった人が、ちらほらいたようなのです。

それを知って僕は、そうなの? と驚くと同時に、作品を読みながら感じていた疑問が氷解もしました。最終決定稿として渡された小説に、誤字脱字、遺漏や体裁の不統一が散見されたからです。誤字脱字の訂正は、編集ではなく「校閲」の仕事だ、ということなのでしょうか? 審査の途中で受けたインタビューで、僕は思わずいってしまいました。「編集担当の人は何をしているのですか?」と。

その時点ですでに僕は、このイベントは「完成度」を求める場所ではない、と理解はしていました。「Jam」です。勢いと情熱で突進すること自体が目的でもあるはずです。だから僕の「何をしているのですか?」は、何やってんだよキチンとしろ、という意味ではありませんでした。文字通りのことを尋ねたかったのです。「編集」を担当した人は、あの即興で小説を制作するチームの中で、どんな役割を担っていたのか?

恐らくその答えの中に、今「文学」が――「書いた人間が読者を特定できない文章の総称」としての「文学」が――、編集というものをどのように捉え、どのように位置づけ、そしてどのように「あしらって」いるかが、如実に反映されているはずです。僕たち審査員は、作品を即興小説として評価しました。しかし実際には、あそこに提出された作品はどれもチームの作品であり、本来ならば著者と同時に編集者にも、デザイナーにも、評価と評言がなければならなかったはずです。

もちろん主催者の皆さんは、それをよく理解していました。だから表彰は作品の最優秀賞だけでなく、優秀なチームに対しても与えられましたし、賞状には個人名ではなく、作品名と共にチーム名が記されたのです。しかしそれでも、参加者の皆さんに、文学というものが著者によるだけではなく、編集者によっても、デザイナーによっても手を加えられて、初めて「文学」になるのだ、ということが、どれだけ理解してもらえたか、審査員としてはこころもとないのです。――2泊3日で体得できたことは、少なからずあったでしょうけれども。

『燃えよ、あんず』をお読みくださった由、有難うございました。

実際に書いた原稿は、完成稿より二割ほど多かったでしょう。都合100枚ほど捨てたと思います。

編集者から、登場人物の告白を、数十枚分削除すべきだとアドヴァイスされたときは、とてもつらかったです。身を切る痛み、と形容してもいいくらいでした。

編集者のアドヴァイスに、作者は必ずしも従う必要はありません。しかし削れというアドヴァイスに抗するのに、作者はただその箇所に愛着があるだけでは、また苦労して書いたと主張するだけでは足りません。自分の書いたものに、愛着のない個所など、苦労せず書いたところなど、存在しないのですから。作者にはその箇所を作品が保持するための、「読者としての」堅固な理由がなければなりません。その箇所を読者が読まない方が作品を優れたものにする、というアドヴァイスに説得力があるのなら、作者はどんなに愛着があっても、そこを削らなければなりません。

しかしそれは理性の判断で、感情は激痛から逃れられません。僕は編集者にメールを送りました。「腕を切れば命が助かると医者が言えば、患者は腕を切るしかないのです」と。

編集は文学の医術であり、医師は時に患者の人生に対して残酷な判断を下します。多くの場合、医師は患者に感謝されますが、それは患者が病気から解放されてからです。

『燃えよ、あんず』は、読者から終章を評価されることが多く、その評価は僕を複雑な気持ちにさせます。あの部分を書いたのは僕ですが、あれを最後に持っていくのが良いと判断したのは、編集者だからです。

当初、あの部分は第三部の後半にありました。それを終章にするとは、作者の僕は考えもしていませんでした。編集者がそれを提案していなければ、小説は現在の形になっておらず、現在の評価も得られなかった。その評価は、他のすべての評価と同様、作者の僕がすっかり頂いています。そして僕は、それが僕の手柄ではないことを、よく知っているのです。

こういうことは、程度の差はあれ、どんな小説にもあるでしょう。また小説に限らないでしょう。ことさらに僕が自作にからめてこんなことを書いたのは、それがこれを読むであろう人々に対する「編集の啓蒙」の一助になればいいと思ったからです。

文学は、編集を通過しなければ存在しえない、あるいは、存在してはならないものだ、という、文筆業者にとってはわきまえていて当然の事実から、僕たちは「啓蒙」を始めなければならないでしょう。その先には、さらに「啓蒙の弁証法」があるはずで、そこまで行かなければ「編集の露呈」を果たしたことにもならないのかもしれません。前途遼遠です。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信|第9信につづく)

露呈されている「編集」を見出すこと

2018年11月21日
posted by 仲俣暁生

第7信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

新著の『燃えよ、あんず』を拝読しました。下北沢にあった藤谷さんのお店と同じ「フィクショネス」という名前をもつ本屋に集う、ちょっと変わった人たち(ぽんこつたち?)の演じる物語をたいへん楽しみました。現実のフィクショネス(と書いてから気づきましたが、こういう言い方はちょっと面白いですね)はすでにないわけですが、小説内の「フィクショネス」はとても魅力的で、あたかもまだ実在しているようでした。

前回の書簡で「編集を明確に露呈させる」ことの必要性に触れられていました。僕は自分の本業を「編集者」だと考えているので、これは真正面から答えなくてはならない問いです。藤谷さんが「小説」について考えているのと同じ密度で思考し、お返事しなくてはと思っているうちに、徒にときが過ぎてしまいました。

そこでまず先に、『燃えよ、あんず』という小説を読んで気づいたことについて書きます。前にお目にかかったときだったか、この小説は少し前に出された『小説は君のためにある』が理論編であるのに対する実践編である、と仰っていましたね。ようするにこの二冊はセットで読むと、さらにいろいろなことがよくわかるということです。

『燃えよ、あんず』には藤谷さんによく似たオサムさんという店主が出てきますが、彼はようするに狂言回しみたいなもので、主人公でも真の語り手でもありません。この小説を成り立たせているのはもちろん登場人物たちなのですが、同時に作中で多くの書物への言及があります。たとえば、フローベール『ボヴァリー夫人』、ブロンテ『嵐が丘』、ナボコフ『ロリータ』、ベルナノス『田舎司祭の日記』、そして――いや、これから読む読者の興を削がないよう、ここではこのくらいにしておきましょう。

しかも、これらの作品が小説のなかでどのような意味をもつのかは、それを実際に読んだ人にしか十分にはわからない――もちろん、一冊も読んでいなくても物語の筋を楽しむうえでは支障はないのですが――、つまり読者の教養に委ねられた部分の多い小説です。その意味でこれは、まさに「小説によって書かれた小説」「小説によって演じられている小説」だと思ったのです。

小説を書くためには、なによりもまず小説を「小説として」読まなくてはならない。書くことと読むことは表裏一体であり、もちろんそこには書かれつつある小説に対するジャッジメント――自己批評――も必要です。なんのことはない、僕が長谷川郁夫さんの本に刺激を受けて、力こぶをいれて主張した「読む人、書く人、作る人」の編集感覚のトライアングルというものを、すぐれた小説家は自分ひとりのなかで日夜ぐるぐると回しているのだな、ということに遅まきながら気づきました。

それと同時に、もう一つのことにも思い至りました。

『燃えよ、あんず』に登場する人たちの大半は、作中の「フィクショネス」という本屋となんらかの関係をもっている。「文学の教室」と「チェス将棋イベント」、この二つの定期的に開催される催しの常連メンバーたちです。現実のフィクショネス(まどろっこしくてすみません)でも「文学の教室」は開催されており、お店がなくなったいまも近所の本屋B&B に場所を移して継続中で、私も二度ほどお邪魔させていただきました。

現実のフィクショネスも、小説内の「フィクショネス」も、いわば一種のコミュニティになっている。そしてその主宰者である藤谷さんや「オサム」さんは、この場を知らず知らずのうちにか、あるいは明確な意図をもってか、私の言葉で言えば「編集」しているわけです。どのような人を受け入れ、どのような人にはご遠慮いただき、場の雰囲気やクオリティを望ましいかたちで維持する――これはまさに「編集」ですよね?

そして店とは「見世」つまり世の中に対してその場をオープンにする、つまり露呈させることです。すでにフィクショネスはある意味で、まだ小説家になる以前の藤谷さんが、自身の価値観にもとづき「編集を明確に露呈させる」場であったということです。

その後、藤谷さんはお店(場)としてのフィクショネスは閉じられましたが、「小説(フィクショネス)を書く」というかたちで同じことを続けられている。しかも、より多くの人に向けて。

こう考えると、「編集」という行為は出版編集の専門業者に委ねられるものではなく、社会にあまねく存在しうると考えたくなります。もちろん、いかなる分野にも専門家は必要ですが、少なくとも編集に関してだけは、アマチュア(本来は「愛好家」という意味であって「素人」ではありません)であること、つまりいつまでもやって飽きないことのほうがはるかに必須の条件なのです。

この往復書簡のあいだに起きた事件は、まさに出版編集の専門業者による「編集」が抱える構造的な問題を孕んでいました。そこにあったのはアマチュアの情熱ではなく、商業上の打算であり、その結果に対する責任逃れでした。

僕自身、アマチュアとしての「編集者」と、出版編集の専門業者との間で引き裂かれる気持ちになることもあります。さらに自分が著者として出版にかかわるときは、よき編集者との共同作業にめぐまれて、自分の力以上のものができることを経験してきました。だから、ここで編集者不要論のような極論をいうつもりはまったくありません。

ただ、「編集を明確に露呈させる」という問いをいただいたことに対する答えとしては、もしかすると必要なのは編集を「露呈させる」ことではなく、すでに「露呈している」編集行為を発見すること、あるいは自覚的に再演することなのではないかな、という気がしたのです。

ありがたいことに、来月には僕も7年ぶりに小さな本を出すことができそうです(文芸評論ではなく、マンガ評論の本です)。著者としての自分は編集者とのコラボレーションによってしか成り立たないし、これまでの僕の「本」はつねにそうした協業の結果でした。編集者とはなにがしかの「意図」をもって本をつくる人ではなく、作者のなかにある方向性や本質を、本をつくる作業の中で浮かび上がらせてくれる人のことでしょう。著者としての僕はどうやら、そうした編集者に恵まれてきたようです。

すべての本は、じつはそのような「編集」の結果として露呈されている。それを読み解き、わがものにするための努力は読者の側に委ねられている。いまはそう思えてならないのです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第8信につづく)


11月23日(祝)午後に東京・下北沢の本屋B&Bにて下記のトークイベントがあります。詳細はリンク先のサイトをご覧ください。

藤谷治×内沼晋太郎
「小説が待っている〜本を書き、本をつくり、本を売る、その先で」
『小説は君のためにある よくわかる文学案内』刊行記念

技術書典は“エンジニアたちのコミケ”である

2018年11月5日
posted by 小林徳滋

技術書典[1]は技術に関わる人にとってのコミケともいえる、年に2回のインディペンデントな本の即売会です。Techbooster達人出版会が共催し、ボランティアベースで運営しています。Techboosterはmhidaka(@mhidaka)さんが主宰する技術書を書くサークル、達人出版会は高橋征義さんが代表の技術書専門の電子出版社です。

2016年6月25日、秋葉原電気街口近くの通運会館の2階と地下1階で産声をあげ、2017年からは春と秋の年2回開催となりました。最近では2018年10月8日に技術書典5が東京・池袋のサンシャインシティで開催されました。この間、参加サークル数は57サークルから470サークル超へ、参加人数は1400人から1万341人へと8倍近い規模に成長しています。

【表1】技術書典の開催歴

開催日 会場 サークル参加費 参加サークル数 参加人数
第1回 2016/6/25
(土)
11:00 〜 17:00
秋葉原通運会館 個人5000円/企業10000円(税込) 57(個人48/企業9) 1400人
第2回 2017/4/9
(日)
11:00〜17:00
秋葉原UDX アキバ・スクエア 個人7000円/企業15000円(税込) 195(個人179/企業16) 3400人(入場時カウント)
第3回 2017/10/22
(日)
11:00〜17:00
秋葉原UDX アキバ・スクエア 個人7000円/企業15000円(税込) 193(個人170/企業23) 延べ3100人(実人数2750人)
第4回 2018/4/22
(日)
11:00〜17:00
秋葉原UDX アキバ・スクエア 一般7000円/パトロン20000円(税込) 246 6380人(整理券配布枚数)
第5回 2018/10/8
(月)
11:00〜17:00
池袋サンシャインシティ2F 展示ホールD 一般7000円 /パトロン20000円(税込) 470超 のべ10341人(うちサークル・スタッフ等関係者は889人)

(注:この他に2017/4/29~4/30にかけてニコニコ超会議との共催で「超技術書典」が開催されている)

筆者は初回技術書典から第5回まで連続してCAS電子出版というサークルで出典すると共に、第2回と第5回には企業スポンサーとしても支援しています。ここではサークルとして出典した経験を報告するとともに、技術書典の市場性・優れた点についてまとめてみます。

これまでの開催状況と出典をふりかえる

■技術書典(初回)[2016/6/25 開催]

通運会館の入り口は狭く、整理券を配布して入場規制中。

技術書典という催しが開催されることを知ったのはTwitterからでした。筆者は、2015年末からCAS電子出版ブランドのプリントオンデマンド出版を初めており、ちょうどこうした機会が欲しいと考えていましたので、すぐに申し込みました。自分で書いた『PDFインフラストラクチャ解説』という本をアマゾンなどのオンライン書店で販売していましたが、オンライン書店では実際の本を手に取って見ていただくことができません。実物の本を見て買ってもらえるような機会として、ぴったりのイベントと考えたからです。

募集要項には「募集サークル数は40で、申し込みが多いときは参加サークルを抽選で決める」とありました。このときは、応募サークル数が予想を超えていたことから、主催者が会場のフロアを2階と地下1階の2フロアに増やして当選するサークル数も追加したようです。

めでたく4月30日に参加サークル確定の連絡があり、他に制作を進めていたタイトルの完成を急ぐことにしました。結局『PDFインフラストラクチャ解説』(当日限り1500円税込)、『MathML組版入門』(同1600円税込)、『スタイルシート開発の基礎』(同2300円税込)、『XSL-FOの基礎』(同2500円税込)、『DITAのすすめ』(同800円税込)の5タイトルを各10冊持ち込みました。このときはまだイベントでどのような売れ方をするかをまったく理解しておらず、全部10冊、しかも100円単位での値付けという初心者ぶりです。

サークルの配置場所は入り口近くの良い場所でした。1サークルに割りあてられるスペースは折り畳みの長机半分で、となりのサークルと机を半分ずつシェアします。開場すると来場者が折りかなさるようにやってきますが、びっくりしたのは左隣サークルの一冊1000円の冊子が飛ぶように売れていたことです。

一方、我がサークルはぽつぽつ、という感じでしたが、それでも『PDFインフラストラクチャ解説』が1時間28分で完売、『MathML組版入門』は2時間39分で完売となりました。『MathML組版入門』は著者の道廣氏の知り合いの方に多く買っていただいたようです。結局、50冊中で39冊が売れて売上は6万6400円となりました。出品した本はいずれもかなりニッチな分野のタイトルなのですが、事前にブログなどで告知していたことと、新しいタイトルを用意したこともあり、それを目的に来られたお客様が目立ちました。

技術書典で本を売ってみて驚いたことは、冷やかしの参加者は少なく現金をもって本を買いにくる来場者が多いことです。領収書を用意したのですが、実際には領収書が欲しいという人は数人しかいませんでした。つまり、会社の経費という人はほとんどいなくて、自腹で買っていることになります。このあたりで技術書典が同人誌市場の延長線にあることを実感できました。

初回ということもあり、知り合いの方が多数見えましたが、あとで聞きますと開始前には通運会館の入り口前に長蛇の列ができ、急遽、整理券を配布して入場規制。その後は一般来場者は数時間待ちだったようです。待ち時間の長さに驚いて、入場しないで帰ってしまった人もいたようです。

■技術書典2[2017/4/9開催]

入場待ちの列、

第2回は秋葉原UDXに会場を移して開催。弊社は、主催者の依頼でPDF入稿用チェッカーの技術協力することになりました。またCAS電子出版でのサークル参加に加えて、会社としてスポンサーにもなりました。

当日はあいにくの大雨。それでも朝10時過ぎに入り口前のかなりの列ができていました。11時に始まるとたちまち会場は満員になります。我がサークルは、『XSL-FOの基礎』を大幅に書き直して第2版とし、『PDFインフラストラクチャ解説』を少し改訂して第1.1版としたのみで新タイトルの用意ができませんでした。そのためか、全部で85冊持ち込んで38冊しか売れず、売上額は5万7500円。入場者数が大幅に増えたのに販売実績は減少という残念な結果に終りました。

初回と同じタイトルを持ち込んだため、すでに知り合いのお客さんは購入済みで、新規のお客さんを開拓できなかったのが敗因でしょう。とくにXML関係の本は市場がニッチなためなかなか売上が伸びませんでした。

■技術書典3[2017/10/22 開催]

「技術書典3」。外は大雨

3回目から春秋の年2回開催となり、前回から半年の間をおいての開催です。開催日は10月下旬でしたが大型台風21号の上陸と重なってしまいました。この日、東京は暴風雨だったにも関わらず会場の秋葉原UDXは熱気に包まれました。

我がサークルは、『タグ付きPDF・仕組と制作方法解説』という新タイトルを制作、6タイトル合計110冊を持ち込みましたが、結果は31冊2万8500円の売上で、惨敗です。この日、いちばん売れたのがなんと『タグ付きPDF・仕組と制作方法解説』という、PDFの超ニッチな技術の話です。このようなニッチな本が売れるのは技術書典ならではと言えますが、同じタイトルはどんどん売上が落ちてしまうことを痛感しました。

■技術書典4[2018/4/22 開催]

熱心に内容をチェックするお客さん。お隣のジャストシステムさんは飛ぶように本が売れてました。朝、徳島から飛行機でこられたとのこと。

4回目も秋葉原UDXでの開催でした。技術書典といえば雨というジンクスができかけていたのですが、この日はうって変ってよい天気とあって、入場者数が前2回と比べて倍増となりました。天候に加えて、参加サークル数の増加も来場者増に繋がったのでしょう。

我がサークルは、新タイトル『PDF CookBook・PDFでこんなことができる!PDF Tool API によるPDF調理法』を用意して既刊と合わせて7タイトル合計96冊を持ち込みました。過去の経験から新刊本は大目に56冊を用意しましたが、結果的には30冊を販売。もちろん売上冊数では一番です。一方、既刊本は少なめに持ち込んだのですが、入場者数が増えたためか既刊タイトルは全部売り切れてしまいました。

とくに『PDFインフラストラクチャ解説』は数時間で売り切れとなり機会損失が大きかったようです。それでも売上金額は7万500円と4回目にして最高額になりました。持ち込み数を少なめにしているのは、重い本を疲れた体で持ち帰るのは精神的にもつらいためですが、そんなことを言わずに、余るほど持って行くほうがよかったかもしれません。いずれにしても、4回目の売上が最高になったのは比較的売れる新刊があったことと、なんと言っても入場者数が増えたためです。

■技術書典5[2018/10/8 開催]

会場の中が混雑しすぎないよう運営が入場規制中。入り口近くは人の流れが増えたり減ったりします。

技術書典5は、さらに規模を拡大して池袋サンシャインシティでの開催。参加サークルは470を超えました。弊社の他のイベントとの関係もあり、CAS電子出版としてではなくスポンサーとしての参加となりました。

今回は、新刊として『CSSページ組版入門』と『PDF CookBook 第2巻』の2タイトルを追加、既刊含め9タイトル110冊を持ち込みました。結果的には、『CSSページ組版入門』は持ち込み部数が少なかったこともあり、開始1時間で売り切れてしまいました。どうやらVivliostyleで技術書典の本を作っているサークルが増えているらしく、技術書典ではCSS組版人気が高まっているようです。

『CSSページ組版入門』のPDF版はWebで無料配布する予定でしたので、紙版をたくさん売ってからPDFを無償で配布したら「話が違う」と叱られるかもしれない、という気持ちもあって持ち込む数を減らしましたが、結果的には売り切れ。「来週からPDFを無償で配布します」と説明しても「いや紙版が欲しいんです」というお客さんがいました。結局、9タイトル中4タイトルが売り切れ、合計78冊販売して売上は9万5500円となりました。もう少したくさん持ち込めばよかったと反省しきり。一発勝負の技術書典で最高の結果を出すのはなかなか難しいものです。

市場としての技術書典

1. 全体としての規模

初回から第4回までは主催者により参加サークルを対象とするアンケートが実施されており、約半数のサークルが回答しています。この結果を見ますと、初回から3回目にかけてサークルの持ち込み数平均値はほぼ同じですが、頒布数の平均値は若干減少気味で、完売率が下がっています。これは参加しての実感と一致していますが、おそらく天候による来場者数の減少によるものでしょう。

ところが、第4回は持ち込み数と頒布数の平均値が大幅に増えています。これについては後述します。

【表2】技術書典サークルの持ち込み数と頒布数など(参加アンケート結果と分析による)

持ち込み数(平均) 頒布数(平均) 頒布総数 回答数 情報源
第1回 166部 137部(完売率は82.6%) 7800冊前後(参加者一人あたり5.5冊) 38 [2]
第2回 170部 132部(完売率は78.9%) 2万2400冊前後(参加者一人あたり6.5冊) 94 [3]
第3回 164部 119部(完売率は64.7%) 2万冊前後(参加者一人あたり7.2冊) 104 [4]
第4回 208部 168部(完売率は78.3%) 4万冊前後(参加者一人あたり6.2冊) 131 [5]

頒布単価はアンケート項目にはありませんが、主催者の目測では500円~1000円とされています。技術書典では現金でおつりを数えて渡す手間や間違いを減らすために、500円刻みで頒布価格を設定することが多いようです。仮に平均750円としますと、技術書典4の全参加サークルの取引規模は3000万円となります。来場者一人あたり約5000円にあたりますが、この推測値は大き過ぎはしないでしょう。

2. 他の流通手段との比較と連携

ちなみに、私の書いた『PDFインフラストラクチャ解説』は、2016年1月に初版を発売し、紙版・PDF版・電子書籍(EPUB・Kindle)で販売しています。このうち紙版はアマゾン・プリントオンデマンドなどのオンライン書店と技術書典で販売していますが、2018年9月までの紙版販売数(トータル298冊)のうち技術書典(1~4)で全体の約20%にあたる57冊を販売しました。このように、技術書典での販売がかなり大きな比重を占めています。

タイトルによっては技術書典でしか売れないというものもあるようですし、年に2回の開催が定着すると、技術書販売市場での比重が高まるでしょう。技術書典で売れ行きのよかった本を商業出版したり、BOOTHなどのオンラインストアで販売するサークルも増えていますので、今後は技術書典と他の流通サービスの連携も強化されていくことでしょう。

3. 技術書の新しいスタイル・新しいスターが登場

技術書典4では、群を抜いて大量の部数を販売した湊川あいさん、mochikoAsTechさんという“巨人”が登場しました。湊川さんのレポート「#技術書典 初の非常口サークル爆誕、1000部以上売れた #マンガでわかるDocker 一部始終」[6]によりますと、湊川さんの本を買うための待機列が、なんとUDXの一方の壁際から他方の壁まで達してしまったため、非常口に待機列を逃がすという前代未聞の事態になったようです。

また、mochikoAsTechさんの「初めて書いたDNS本が初参加の #技術書典 4で750冊売れた話」[7]によればDNS本を400冊持ち込み2時間で完売してしまったとのこと。技術書典4でサークルの持ち込み数・頒布数の平均値がぐっと増えたのは、スターの登場と来場者の裾野の広がりによるものでしょう。

技術書典5では、湊川あいさん、mochikoAsTechさんは、ますます大量の部数を売りさばいたようです。湊川あいさんはfacebookで技術書典5に新刊・既刊合わせて3000冊持ち込むと宣言していましたし[8]、mochikoAsTechさんは『AWSをはじめよう』を1500冊、『DNSをはじめよう』を740冊、合計2240冊を持ち込んで、DNS本が完売、AWS本は1350冊を販売したとのこと[9]。技術書典5のアンケート結果はまだ発表されていませんが、頒布総数が飛躍的に増えているかもしれません。

このように技術書典を踏み台にして、技術書の新しいスタイル・新しいスターが登場したと言ってもいいでしょう。彼女らの本は、いずれも難しい技術をやさしく伝える本。技術書典の発足当初はオタクエンジニアが勉強成果を発表する場という位置付けでした。これに対して、技術書典5では技術をやさしく伝える本が爆発的に売れる場になったということは、来場者の裾野が各段に広がったことを示しているとも言えます。

大成功した要因

技術書典の大成功の裏には、Techboosterのmhidakaさんをはじめとする主催者や運営ボランティアの存在があります。第2回目から公式ファンブック「技術季報」も毎回一部1000円で販売されています。技術書典でいちばん売れる本であり、運営の裏話やサークルの経験談が紹介されています。以下、この「技術季報」も参考にしながら技術書典の運営の特徴の一端を紹介してみます。

1. Webページでの事前チェック

技術書典のWebページではサークルリストというWebカタログ機能が提供されていて、参加サークルはここに頒布物の情報を登録します。サークルリストは一般参加者向けには約1ヶ月前に公開され、参加者はマイページで気になったサークルにチェックできます。各参加サークルは、自己サークルの被チェック数を見て、人気の度合いを測ることができます。

サークルによっては被チェック数を参考にして持ち込み部数を決めているようです。mochikoAsTechさんは技術書典4で初めて40部持ち込みの予定で参加申し込みをしましたが、サークルリストの被チェック数の増加を見て、持ち込み数を400部まで増やしたそうです。こうしたフィードバックの仕組みも技術書典のよいところでしょう。

2. サークル配置

技術書典の会場は、場所によっては満員電車並の混雑度になります。各サークルに割り当てられるのは机半分ですから、人気サークルでは来場者が隣にはみ出してしまいます。また、人気サークルの配置によって、人の流れが悪くなり、お目当てのサークルに辿り付けなくなります。とくに湊川あいさんやmochikoAsTechさんのような人気サークルでは縦の待機列ができてしまい、人の流れが完全にブロックされてしまう可能性もあります。

技術書典4までは、運営がサークル配置問題に大きな労力をかけていたようです。「技術季報4」には、技術書典5からサークル配置問題を解決するためのサークル自動配置プログラムを開発したことが紹介されています。運営がIT関係者からなるボランティア集団であることが生かされています。

3. 電子決済

技術書典には現金を握りしめて買いに来る来場者が多いのですが、QRコードによる電子決済の取り組みも始まっています。技術書典5ではピクシブ株式会社によるpixiv Payと主催者の提供する決済システムが提供されていました。主催者の電子決済の仕組みは技術書典3から提供されていましたが、技術書典4まではあまり使われていなかったのではないでしょうか。

しかし、技術書典5では電子決済の利用者がかなり増えたという印象を持ちました。我がサークルでは電子決済に対応しなかったのですが、購入者から「電子決済できませんか?」という質問を頻繁にいただきました。こうしてみますと、次回からは電子決済への対応は必須になるでしょう。全面的に電子決済になれば、おつりを数える必要がなくなりますので、販売価格設定の自由度が高くなります。電子決済のほうが消費税アップにも対応しやすいということもあります。

* * *

技術書典は当初と比べ、来場者の層もかなり変化し、技術書市場への影響力も増しています。このような技術書典の成功は、開催を企画し、運営に注力してこられたTechboosterのmhidakaさんや達人出版会の高橋さんをはじめ、運営ボランティアの皆さんの創意工夫と努力のたまものと言っていいでしょう。技術書典が今後とも継続、ますます発展することを強く期待します。

情報源

[1] https://techbookfest.org/
[2] http://mhidaka.hatenablog.com/entry/2016/12/27/114901
[3] https://blog.techbookfest.org/2017/07/21/tbf02-report/
[4] https://blog.techbookfest.org/2018/01/09/tbf03-report/
[5] https://blog.techbookfest.org/2018/07/13/tbf04-report/
[6] https://note.mu/llminatoll/n/n9c716089e1bc
[7] https://mochikoastech.hatenablog.com/entry/2018/04/26/012240
[8]https://www.facebook.com/minatogawaai/posts/2102458513402819
[9] https://note.mu/mochikoastech/n/n3fe11ea0a282