「月光ソナタ」の楽譜が語ること

2021年2月26日
posted by 秦 隆司

昨年5月27日のニューヨーク・タイムズにジュリエッタ・グィッチャルディという女性にまつわる記事が掲載された。ジュリエッタはベートーヴェンがピアノソナタ第14番嬰ハ短調を捧げた女性だった。ピアノソナタ14番は通称「月光ソナタ」と呼ばれている。

第一楽章の出だしは特に有名で、誰でも一度は聞いたことがあるはずだ。その有名なソナタとこの18世紀に生きた女性の記事は興味深く、もっと知りたいと思った。そこでネット上で手に入る文献や関連図書を参照しつつ調べてみた。ふたりの関係を知ることができる断片的な事実や事柄は点在していたが、今回はそれを調べひとつの流れとして見ていこうとする試みだ。

僕自身、舞台となるウィーンを訪ねたことがありベートーヴェンの部屋やピアノも実際にみたことがある。しかし、その時点ではジュリエッタのことは知らなかったので、彼女の足跡は何も辿らなかった。この原稿で彼女とベートーヴェンの姿を浮かび上がらせることができればと思っている。

Beethoven Piano Sonata 14 - title page 1802.jpg
1802年に出版されたジョヴァンニ・キャッピ出版による「月光ソナタ(幻想曲風ソナタOP27-2)」の楽譜。GIULIETTA GUICCALARDIの名前が中央に印刷されている(画像はpublic domain)

伯爵令嬢が楽聖と出逢うまで

1802年に出版されたこのソナタの楽譜を見ると「Giulietta Guicciardi」に献呈されている。ジュリエッタはイタリア語での呼び名で、数々の資料によると彼女の本名はユリー(JulieあるいはGiulieeta)だったが、この楽譜によりジュリエッタの名称が定着した。

ジュリエッタは1784年に生まれた女性で、生まれはハプスブルグ帝国に属するガリツィア・ロメドリア王国だった。グィッチャルディ家はハプスブルグ帝国の伯爵家系で、ジュリエッタは伯爵令嬢だった。ジュリエッタの父フランツ・ヨーゼフ・グィッチャルディ伯爵の妻であるスザンネ(つまりジュリエッタの母)が、やはり伯爵の家系であるブルンスヴィック家から嫁に来ており、グィッチャルディ家とブルンスヴィック家は親戚関係にあった。このブルンスヴィック家との関係がジュリエッタとベートーヴェンを結びつける大きな鍵となる。

当時、まあ現在もかも知れないが、未婚の娘の花嫁修業のひとつとして楽器を習わせることが大切とされていた。数多くの楽器のなかでも、チェロは脚を広げなければならず、バイオリンは演奏時の体の動かし方が女性らしくないとされ、ピアノ(当時はピアノフォルテあるいはフォルテピアノ)が人気だった。ピアノフォルテ以前は鍵盤楽器といえばハープシコード(チェンバロ)が主流だったが、弾き方により音の強弱(フォルテやピアノ)が表せるピアノフォルテが18世紀に普及した。

伯爵令嬢の家族は娘の婿探しに都会であったウィーンを訪れることが多かった。ウィーンでは上流階級で重要な催しとされていた舞踏会や、サロン、演奏会などが数多く開かれ自分の娘を上流階級家族に紹介する機会が多かったのだ。1799年5月、ジュリエッタの叔母にあたるブルンスヴィック家のアナが二人の娘と共にウィーンに滞在した。アナは娘たちのピアノの教師を、ヨーロッパですでに名を馳せていたベートーヴェンに頼むことにした。

娘たちはベートーヴェンのアパートを直接訪れ、ベートーヴェンはその後の彼女たちのウィーン滞在期間の約3週間、お金を受け取ることなく毎日ピアノレッスンをした(リンク先の記事を参照)。

彼女たちがウィーンを訪れた翌年の1800年、ジュリエッタも両親と共にウィーンに移ってきた。ジュリエッタは、従姉妹との繋がりからベートーヴェンにピアノの教育を受け持ってもらうことになった。ベートーヴェンの部屋は乱雑で、床やピアノフォルテの上に食べ残しの皿がありその横に楽譜が散乱し、洋服なども脱ぎっぱなしにされていたという。

16歳の恋人

ジュリエッタとベートーヴェンの史実を調べ、それを小説『The Woman in the Moonlight』として発表した伝記作家パトリシア・モリスローによれば、ジュリエッタがピアノレッスンを受けるためにベートーヴェンのアパートに初めて向かったのは彼女が16歳の時。異なる説もあるがモリスローの説によれば、ジュリエッタが生まれたのは1784年となる。シェークスピアのジュリエットは14歳なので、それより少し年上だ。

ベートーヴェンは1770年に生まれているので、当時は29歳だろう。つまりこれは30歳を迎える男と16歳の少女の恋愛の話なのだ。ちなみにベートーヴェンは1798年、28歳の頃に自分の聴覚がおかしいことに気づき始めた。最初はその聴覚障害を隠していたが、幼馴染で医者であるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラに手紙を書いた。当時、ヴェーゲラはベートーヴェンの生まれ故郷であるボンに住んでいた。

「私の聴力はこの3年間で着実に悪化している」

「昼夜を問わず絶えず笛のような音やブーンという音が聞こえる。私は一体どうなってしまうのか!」

ベートーヴェンが送ったこの手紙は1800年6月29日の日付となっている。しかし、その5カ月後11月16日付けヴェーゲラに送った手紙では、すでにジュリエッタと出会ったベートーヴェンは次のように記していた。プロジェクト・グーテンベルクで公開されているこの手紙を以下に私訳してみた。

「過去2年間、悲惨な私の人生が何であったかを信じることはほとんどできない。難聴症状が幽霊のように私を追いかけ、私を全ての人から遠ざけ、人間嫌いのようにさせる。しかし、実際には、私ほどこの状況に当てはまらない人間はいない! この変化は、私を愛し、私が愛している素敵な魅力的な女の子(ジュリエッタのことと思われる)によって引き起こされた。過去2年間のなかで私は再度幸せな時間を過ごせた。結婚が私を幸せにさせることができるのではと感じたのは初めてだ。不幸なことに、彼女は私と同じ身分の人ではない。実際、現時点では私は誰とも結婚できない。私はまず、頑張って自分自身を奮い立たせなければならない。私の難聴がなかったら、私は今、地球の半分を旅していただろう。そしてそれは私がまだやらなければならないことだ。私にとって、私の芸術を推進させ、追求するほど大きな喜びはない」
https://www.gutenberg.org/files/13065/13065-h/13065-h.htm#let18

ベートーヴェンはこの機に引退することも少しは考えていたようだが、ジュリエッタの出現で人生に光を見出したのかも知れない。またこの11月16日の手紙を送る以前に、ベートーヴェンは7月6日にジュリエッタに次のような手紙を送っている。

「おはよう! 起きる前から、私はあなたのことを考えていた、不滅の恋人!――時には喜びに満ち、そしてまた悲しさを感じ、運命が私たちの定めを聞き届けるかどうかを待っています。私の人生は完全にあなたと一緒か、まったく離れ離れとなるものです。確かに、私はあなたから遠く離れてさまようことを決心しました。私があなたの腕に飛び込み、その腕のなかが私の家であると感じ、私と魂をあなたの魂をユニゾンにして霊の領域に送り出すことができる瞬間が来るまで。ああ!そうなるだろう!私の忠実さを知っているあなたは、勇気を出してください。他の人が私の心を所有することは決してできません――決して、決して!…………」
(注:この手紙でベートーヴェンは「不滅の恋人(immortal beloved)」という言葉を使っているが、この手紙は後に誰が受取人であるかをめぐって論争になったことで有名な、いわゆる「不滅の恋人」宛の手紙ではない)
https://www.gutenberg.org/files/13065/13065-h/13065-h.htm#let18

トマス・K ・シャーマン、ルイス・ビアンコーリ編『The Beethoven Companion: A comprehensive guide to Beethoven—his life and work』によるとベートーヴェンはジュリエッタのレッスンにお金を取ることを拒否したため、ジュリエッタは自分自身で縫ったシャツをあげていたという。

もともとの献呈される曲は違っていた

ベートーヴェンがジュリエッタに「月光ソナタ」を捧げたのは1801年〜1802年の冬だったとされる。出版されたのは1802年の3月だった。出版された楽譜には中央に大きく「GIULIETTA GUICCALARDI」の文字がある。ベートーヴェンがこの作品に与えた名称は「幻想曲風ソナタ」OP27-2だった。

だが「月光ソナタ」という愛称はベートーヴェンがつけたものではない。ドイツの音楽評論家・詩人であるルートヴィッヒ・レルシュタープが1832年、このソナタの第一楽章をスイスのルツェン湖の月光が揺らぐ湖面に浮かぶ小舟に喩えた。この言葉から「月光ソナタ」という名称が広がっていった。

また、「月光ソナタ」はジュリエッタに献呈されるはずの曲でもなかった。ドイツの考古学者であり美術と音楽に関する著述家であったオットー・ヤーンが1852年にジュリエッタにインタビューをしている。その際、彼女はベートーヴェンはもともとは ロンド・ト長調OP51-2を自分に献呈するつもりだったと語った。しかし、このロンドはヘンリーエッタ・リヒノフスキー伯爵夫人に献呈された。

「月光ソナタ」を出版したのはジョヴァンニ・キャッピ(1765-1815)(Giovanni Cappi e Comp.)だった。彼は大手出版社のアルタリア(Artaria & Co.)に関わった人物だった。アルタリアは1700年代後半にハイドン作品を数多く出版し、モーツァルトの最初の83作品までを出版した出版社だった。またベートーヴェンの他にもサリエリ、クレメンティ、グルックなどの楽譜を出版している。

カツラから「タイタス・カット」へ

ベートーヴェンの死後、彼の部屋の秘密の戸棚からジュリエッタとされる女性の細密肖像画が発見された。その肖像を見ると、彼女は自分の髪型を、当時ヨーロッパで流行っていた「タイタス・カット(Coiffure a la Titus)」にしている。彼女の美しさはウィーン上流階級の注目を浴びたようで「La Bella Guicciardi」と呼ばれた。タイタス・カットはフランス革命時に流行ったもので、ベートーヴェン自身もタイタス・カットにしていた。この髪型は貴族たちが高々と髪を結いあげていたことへのレジスタンスだった。

Countess Giulietta Guicciardi
ベートーヴェンの死後、秘密の戸棚から見つかったジュリエッタとされる細密肖像画。髪型を当時流行っていたタイタス・カットにしている(画像はpublic domain)

音楽家に関して言えば、ベートーヴェンの少し前の時代のモーツァルトもハイドンもカツラを用い、ふんだんに髪粉も使っていた。ベートーヴェンもカツラを持っていたとされるが、カツラを被ったベートーヴェンの姿はない。モーツァルトやハイドンたちはフランス革命前のいわゆるアンシャン・レジームの世界のなかで音楽を作り、ベートーヴェンは自己の表現として音楽を作った。ベートーヴェンは芸術としての音楽の性格を全く変えてしまった。ベートーヴェン以前の音楽家は料理人や大工などとあまり変わらない「職人」の世界に属していたが、ベートーヴェンは音楽家を芸術家に変えたと言える。モーツァルトは、ザルツブルグでの自分の地位を騎士より下で料理人より上としているが、ベートーヴェンにはこの構図は当てはまらない。

ベートーヴェンはジュリエッタに結婚を申し込んだようだが、あまり裕福ではないグィッチャルディ家は、身分もあまり高くなく、収入も安定しない音楽家との結婚は許さなかった。特に父親の賛成が得られなかったとされている。ジュリエッタは1803年の11月にやはり作曲家であったヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルク伯爵と結婚をし、すぐにナポリ王国に移っていった。しかし、この結婚後もふたりの接点はあったようだ。

ナポリ王国でジュリエッタは国王のジョアシャン・ミュラと、ナポレオン・ボナパルトの妹であり彼の妻であったカロリーヌ王妃と会っている。ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける秩序回復を目指したウィーン会議が1814年9月から開催された。この会議に向けてナポリ王国は自国の利益を守るために密偵(正式な使節ではなくスパイ的存在)を送ったが、ジュリエッタはそのひとりだった。

一方、この会議に集まった各国代表を前に演奏会を開いたのがベートーヴェンだった(リンク先の記事を参照)。この演奏会はホーフブルグ宮殿内のレドゥーテン・ホール(Redoutensaal)で行われた。資料によるとこの演奏会では交響曲第7番が演奏された。また、同じ1814年5月にはベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」(最終版)初演が、各国の代表者たちの前で催されたという資料もある。これらの演奏会が催されたウィーンでジュリエッタとベートーヴェンは再会したのだろうか。はっきりとした記録はない。

二人は果たして再会したのか?

1821年、当時ナポリの宮廷劇場の支配人を務めていた興行主のドメニコ・バルバイヤが、ウィーンの歌劇場であったケルントナートーア劇場の支配人を任されることになった際、ジュリエッタの夫ガレンベルク伯爵とジュリエッタもウィーンへと赴いた。ガレンベルク伯爵は同劇場の運営委員会の委員に就任、音楽記録の保管任務を担った。

Kärntnertortheater 1830
ケルントナートーア劇場(画像はpublic domain)

1822年にケルントナートーア劇場でベートーヴェンの「フィデリオ」が再演された際、ベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーと劇場側のガレンベルク伯爵が「フィデリオ」の楽譜のことでやりとりをした。すでに聴覚を失っていたベートーヴェンとシンドラーは筆談をおこなっており、ガレンベルク伯爵とのやりとりを報告するシンドラーとベートーヴェンの会話がノートに残っている。

その内容は、自分のところに揃っていない「フィデリオ」の楽譜をガレンベルク伯爵から提供してもらいたいと要請するもので、その際、ベートーヴェンはガレンベルク伯爵の妻であるジュリエッタのことをシンドラーに問いかけ、あまり達者とはいえなかったフランス語で、「私は彼女から夫以上に愛された(J’etois bien aimé d’elle et plus jamais son époux)」と記している。このフィデリオが再演された当日、劇場内にジュリエッタの姿はあったのか。確かな記録はない。

そして、1824年、ベートーヴェンの第9番交響曲の初演がおこなわれたのもこの劇場だった。この頃にはベートーヴェンの聴覚はほとんど失われ、劇場の指揮者だったミヒャエル・ウムラウフが正指揮者として、オーケストラの前に立つベートーヴェンのうしろで指揮をおこなった。演奏が終わっても聴衆に背中を向けたままのベートーヴェンをアルト歌手のカロリーネ・ウンガーが促して彼を聴衆側に向かせたという逸話は有名だ。聴衆からの拍手を浴びるベートーヴェンの姿をジュリエッタは見たのだろうか。これも記録がなく、人々の想像に任せるしかない。ケルントナートーア劇場は1870年に閉鎖され、その跡地には現在ホテル・ザッハーが建っている。

ベートーヴェンは1827年3月、56歳でこの世を去った。一方、ジュリエッタはウィーンに住み続け、1856年3月に73歳で死亡している。

生誕250年の節目に起きた感染症

ジュリエッタの直系の子孫であったピーア・チェルウッド(Pia Chelwood:2019年2月に97歳で死亡)によると、ガレンベルグ伯爵は性的機能に問題があり、ジュリエッタには愛人があり彼女はその愛人との子供の子孫だという。この愛人というのはもちろんベートーヴェンではない。

ベートーヴェンは一生結婚をしなかったが、ジュリエッタや姉妹ヨゼフィーネを含め多くの女性を愛したようだ。しかし、彼が愛する女性は身分が高い女性が多く、結婚までは至らなった。

昨年はベートーヴェンの生誕250年で色々な催しが世界各国で予定されたが、多くの企画は新型コロナウイルス感染症の影響で中止となった。今回題材にした「月光ソナタ」は発表当時から人気となったようで、ベートーヴェンは他人が弾く「月光ソナタ」はもう聞きたくないと言ったという。もし彼が生きていれば、その性格からすると昨年多くの催しが中止となったことを喜んでいたはずだ。

『文學界』編集部に贈る言葉

2021年2月12日
posted by 荒木優太

担当していた「新人小説月評」の末尾が削除されるという事件を経て、2月8日、『文學界』編集長から「最低限必要な寄稿者と編集部との信頼関係が失われた」という理由で月評からの降板が命じられた。とりあえず、担当編集者と決して多くないだろう拙評読者に感謝したい。

私が執筆できたのは2月号と3月号の計2回。最初の話では一年間=12回分を依頼されていたため、いささか不本意な退場となった。改めて確認するまでもなく、私は私の主張がいまなお正しいと思い、『文學界』編集部は明確に道義に反していると思う。とはいえ、人の愚かさには際限がなく、たんに様々なことを間違えるだけでなく、間違いを間違いと認知できない二重の間違いすら犯しがちなことを考えれば、あまりに自己を過信するのも危険なことだろう。

というわけで、以下、私に決定的な落ち度があったとしても通用可能なメッセージを『文學界』編集部に贈りたい。道は二つに分岐する。(ルートa)本当は荒木のいうことに理があると思っているのに体裁上それを認められない場合(ルートb)心の底から自分たちが正しくて荒木が間違っていると思う場合だ。

※ ※ ※

(ルートa)本当は荒木のいうことに理があると思っているのに体裁上それを認められない場合

このルートを選んだことはやはり残念に感じます。ただ、文藝春秋という大会社のサラリーマンであるみなさんには、フリーターである私とは無縁なタイプの守るべきものがあり、本音をいえば今回の処置の乱暴さを批判したいのに、それを実行できない忸怩たる想いを抱えているのかもしれません。私からみれば『文學界』編集部は大きな権力をもった組織体に見えますが、少し視点をずらして、文藝春秋社内における文芸担当の立ち位置などをかえりみれば或いはまた別の光景が広がっていることでしょう。

そのことを承知のうえで、お願いがあります。今度から人に批評の原稿を依頼するときは、やってはいけないことをきちんと伝えてあげてください。

最初、副編集長(の役職だったはずですがいま違っていたら失礼)から月評依頼のメールをいただいたとき、第一に私は原稿料とともに「取り上げる/取り上げない作品に関する自由はどれくらいあるのか?」「文体的な不自由さがあるのか?」と返信で尋ねました。文芸誌の人々は、自由に書いていいというわりには、のちのち無理筋な要求を重ねがちなことを経験的に知っていたからです。お答えとしては、「敢えて取り上げる/取り上げないという選択も、批評行為の一環とします」「作品表記のフォーマット、半期のベスト5選出、という決まり事はありますが、それ以外は評者の自由です。無論、編集者として気になったことをお伝えすることはあると思いますが」ということでした。

また、依頼をくれた副編集長とは別の担当編集者と西大島駅前のロイヤルホストで初対面したさい、私は開口一番「やってはいけないことはありますか?」と尋ねました。人が変われば考え方も違ってきてしまうかも、と考えたからです。お答えとしては、半期ごとにベスト5を選ぶ形式性があるがあとは自由に書いて構わない、とのことでした。

でも、これらの言葉は実際には嘘であったわけです。やってはいけないことは明確に存在し、これに違反すれば、著者の意に反した仕方で原稿の一部を削られ、また一方的に仕事を下ろされることになるわけです。私の書き手としてのイメージもひどく傷つけられました(荒木と仕事するとめんどくさいことになる!)。

私とて、原稿をなにがなんでも変えない頑固さで生きているわけではありません。私が今回の月評を提出したのは、予定された締切日になるより前でした。すぐに「面白かった」という感想のメールを担当編集者より頂戴しました。そこから4日経って、校閲の指摘が入った初校がきました。二つばかり漢字の間違いの訂正を指示しました。さらにそののち、「故に」の漢字を開くかどうかというメールがきて、どちらでもかまわないと返しました。そして校了直前のことです、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)の一文を削るか変更せよとの要求が担当編集者からきたのは。

ゲラは基本的に印刷することを前提にして、誤植をなくしたり細かな表現を改めるために刷られます。問題の一文は最初からあり、読み直す時間も十分にあったのに、よりにもよって校了直前に要求がきたのです。私が編集部に不信感を抱き、さらには自分の主張の正しさを心底信じることができるのは、このような処置は誰がどう見ても乱暴としかうつらないと思うからです。

もし初稿の段階で上記の提案をされていたら、私は頷いていた可能性が高いと思います。別に編集者に意地悪をしたくてやってるのではないのですから。

戻ります。文芸誌という場で暗黙に共有されている、「やってはいけないこと」があること自体の是非はいまは問いません。お願いしたいのは、そういった暗黙のコードを自分たちのなかできちんと言語化しておいてください、ということです。《〇〇という作家は声が大きい人だから批判しないでね》といった露骨なものを期待しているわけではありません。たとえば、《作品をくさすとき××字以上を用いてください、そうでない場合は変更の要求をします》といったようなものです。最低限、《編集部による指示に従わない場合は、こちらで勝手に手をくわえ、担当から外れてもらうこともあります》の事前注意は、実際に起きてしまったことなのですから、ぜひともしてあげてください。

特に若い方に依頼するときは、その種の配慮が大切かと思います。若い人はまだ業界に不慣れなぶん、みなさんの使用している「自由」が特殊なものであることを理解せず、字義通りに受け取ってしまう危険性があります。面倒だなあ、と思われるかもしれませんが、ちゃんと教えてあげることが結果的には双方の満足につながるはずです。教訓として活きるのであれば、この小さな事件も決して無駄ではなかったと思えます。

※ ※ ※

(ルートb)心の底から自分たちが正しくて荒木が間違っていると思う場合

このルートが選ばれたこと自体をとても残念に思います。とはいえ、自分の正しさを決して譲れないという点で私たちは鏡像的な関係に立っています。その正しさを私が追認することはいっさいないにせよ、信念の強度が拮抗している点に最低限のリスペクトを払いたいと思います。

今回みなさんは「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)という表現を評者である私が反対しているのを知っていながら削除してしまいました。これは今後、次の二つのことを受け入れる……少なくとも要求されるストレスに耐えねばならないことを意味しています。

第一に、荒木のような弱小の書き手ではなく、社会的に認められ大きな力をもつ書き手、または編集部の人々と仲がよくて仲違いしたくないような書き手……つまりは、編集の側から見て原稿に手を入れることに躊躇するようなタイプの書き手であっても、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)を撥ねる編集水準を決して落としてはならないということです。非情に徹して、文言を削除したり、ときには彼らから仕事を奪う選択をせねばなりません。

第二に、今回は岸政彦さんの作品を──川上未映子文学との比較のなかで──評すことで事件に発展したわけですが、彼とは違うまだ有名でない作家、賞をとることは望み薄に見える作家、気弱な性格で反論をしてこないような作家……つまりは、編集の側からみて批評家に貶されても特に問題が発生しないようなタイプの作家に対しても、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)の水準で批評されることは絶対に避けねばなりません。仮に興味がなかったとしても、彼らを全力で守るよう努めてください。

もしこの要求が呑めないのならば、みなさんは、文壇内のパワーバランスに準じるかたちで編集方針を風見鶏のように変えていく縁故主義者であると言わざるを得ません。確固たる信念に基礎づけられた一貫した規範で動いているのではなく、贔屓するものにおもねってそうでないものを足蹴にしても素知らぬふりをする虐めをしているだけだと見做さざるを得ません。

少し前に「忖度」の政治に注目が集まり、大いに議論されたものですが、縁故主義者や虐めっ子はこれを批判することができません。社会一般において、その弊害は深刻なものと認められたので──少なくとも私は「忖度」で動く政治は克服されねばならないと考えています──、ぜひともその道を採らないことを願っております。

改めて断っておけば、私自身はそういった編集方針はひどく窮屈に感じます。批評家に対してにせよ、作家に対してにせよ、言いたいことはちゃんと言わせて、喧嘩になったらきちんと喧嘩させてあげたほうが、あらゆる点で──法的・道義的な問題だけでなく編集にかかる心理的コストなどもふくめて──よりよいと思いますが、とはいえ、他者とは私とは異なるから他者であることもまた承知しているところです。はい、お好きになさるとよいでしょう。

ただ、一つ注意していただきたいのは、いくら他者とはいえ、自分たちが選ぶ規範が、状況や属人性によって変幻自在になるもの、端的にいうと恣意的なものであるのならば、非難は必至といわねばなりません。ゆめゆめお忘れなく。

これからの「新人小説月評」は勿論、『文學界』誌面全体のゆくすえを楽しみにしております。

※ ※ ※

編集部がどちらのルートを選んだのかは、いうまでもなく私からは確認することはできない。いずれにせよ、もし仕事に真剣ならば、どちらか一方の「お願い」を聞いてくれることはそれなりに期待してよいだろう。

私は文芸誌とその編集者たちに決して多くのことを求めていない。言葉を奪って無かったことにして、問題が解決したかのように取り繕うその欺瞞が許せないからこそ削除の要求を呑まなかったのだ。たとえば、もし言葉の場を滅ぼすことで満足を得るようならば、私は私が敵対していた卑劣をわが物と認めなければならなくなるだろう。

最後に。この機会に荒木という変な著者を知った新顔の方々にちょっと宣伝する。もし私の書いていることに説得力を感じ、私を応援したいと思ってくれるならば、ぜひとも私の本を買ってほしい。六冊ほどある。

『これからのエリック・ホッファーのために──在野研究者の生と心得』(東京書籍)
『貧しい出版者──政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)
『無責任の新体系──きみはウーティスといわねばならない』(晶文社)
『仮説的偶然文学論──〈触れ‐合うこと〉の主題系』(月曜社)
『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(編著、明石書店)
『有島武郎──地人論の最果てへ』(岩波新書)

私はいわゆる正義漢のような人間ではない。世俗的なことをいえば、もっとカネがほしいただの俗物にすぎない。が、それであらゆる勝手が許されるとも思わない。私をふくめて多くの人が目指すべきは、道義にかなうことと経済的な豊かさが決して背反しない社会、もう少し低いレヴェルだと、道義にかなったからといって経済的に不利を押し付けられることがないような社会である。

本を買って、読んで欲しい。いうまでもなく、批判歓迎である。

削除から考える文芸時評の倫理

2021年2月6日
posted by 荒木優太

月評の文章が削除される

今年から文藝春秋の文芸誌『文學界』で「新人小説月評」を担当している。純文学世界に精通してない方に少しシステムを説明しておくと、『文學界』編集部がセレクトした新人、具体的には芥川賞をまだとっていない純文学作家の小説を、いいとか悪いとか、評していくという仕事だ。文芸時評自体は、前年に週刊紙『読書人』で一年間担当していたこともあって個人的には去年の勢いのままつづいている感もあるが、原稿料や編集者の姿勢といったこまごました違いがそこそこ興味深い。

さて、そんな月評だが、2月5日発売の『文學界』3月号の拙文の末尾「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)が編集部によって削除されるという事件が発生した。

以下、本誌と削除される前のゲラ状態の末尾部分を添付しておく(左:本誌、右:最終ゲラ)。

検閲とはいわないまでも、不変更を指示した文章へのこの種の介入は横暴であり、まずは『文學界』編集部を強く非難したい。

岸政彦『大阪の西は全部海』紹介

『新潮』2月号に掲載されている岸政彦『大阪の西は全部海』の簡単な紹介と個人的所感を記しておく。

岸作は、大阪にある小さな法律事務所の事務員の女性が(どうやらパートナーに対して)一方的に語りかける体裁をとった小説で、理由は不明なものの、自分に子供ができない予感を様々なエピソードとともに喋りつづける。

流れるような関西弁の語り、生まれる生まれないといった主題から容易に川上未映子作品の模造品を連想させる。岸は川上とトークイベントで同席し、2019年8月号の『文學界』には「川上未映子にゆうたりたい」という作家論を寄稿しており、その心酔具合を類推できる。作家同士の付き合いにとやかくいうつもりはないが、現役作家の真似事を読むくらいなら、その作家当人のものを実際に読めばいいではないか、という疑問が先立った。作者自身のデリケートな家族事情を或いは反映しているのだとしても、その印象は覆らない。生まれてこなかった姉がイマジナリーフレンド的に女のなかで喋る細工も、去年の注目作の一つ、木崎みつ子『コンジュジ』(『すばる』2020年11月号)の迫力に比べれば数段劣る。おそらくは作者がこだわっただろう大阪の街の描写も、上記がノイズとなって不調和に終わっていると思った。柴崎友香との近刊共著『大阪』(河出書房新社)にはそういったものは感じない。

総じて、特に面白くはないが、かといって駄作だと声高に主張したいほどのものでもなく、「川上未映子に任せておけばいい」くらいで終わらせておくのが穏当だと判断した。

「批評になっているか微妙といいますか」

さて、本題である。こんな程度の文章になぜ編集部がわざわざ手を入れようとするのか。常軌を逸している。

念のために断っておけば、編集者による原稿の修正や削除の提案自体にはなんの問題もない。よい文章を作りたいという目標が一致するのならば忌憚ない意見こそ歓迎されるべきだ。さらに、編集者が強権的に原稿に手を加えることも場合によっては許されるだろう。特に、差別扇動や凶悪犯罪への示唆などの文言に敏感であることは必須の能力ですらある。

けれども、拙文はそのようなものとは見なせない。提案に留まるならまだしも、原稿の一部を故意に切り取り、それを私の名で掲載させることは書き手への根本的なリスペクトを欠いているといわざるを得ない。

では、なぜこのようなことが生じたのか。担当編集者がメールであれこれと弁明しており、私信のためそのすべて公にすることは憚られるが、ポイントを引用させてもらえば、以下だろうか。

「この言い方はちょっと言いっぱなしになっているのではないかと声がありました。たしかに岸さん、川上さんから反応がありそうな、ちょっと怖い言い回しだなと思います。批評になっているか微妙といいますか」

文字数のパフォーマティヴィティと方針の不貫徹

説得力がない。第一に、文字数を増やさないのは(よくも悪くも)そこまでの作ではないと判断したからだ。貶すとき、400字以上を用いて丁寧に批判することはある。が、それは《不満はあれどそれを論じるに足るほどの熱や野心を感じた》というメタメッセージが発生することを見越して初めて着手できることだ。岸作は少なくとも私にとってはそうではない。

第二に、片言的な評が載せられないというのも理解できない。過去この欄を担当した、たとえば栗原裕一郎や池田雄一のものを読んでそれ言ってんのか、という些事に目をつむるとしても、たとえば一つ前の号、『文學界』2月号の拙評では、末尾を「最後になったが、朝比奈弘治「丘の上の桐子」(學)は……えっと、独特な世界観ですね、カフカみたいですね。」(p.471)で締めている。

未読の方に説明しておけば朝比奈作は別段カフカ的ではない。ではなぜカフカが出てきているかというと、これは前振りがあってのものなので完全に理解したければ全文を読んでいただくほかないが、とまれ、朝比奈からみれば作品世界に深入りしていないのだから、不愉快を感じたとしても仕方ないものだろう──ついでにいっておくと、朝比奈に限らず荒木に評された作家連中は誰であれ、私に怒りをぶつけてもいいし、憎しみの念を抱いてもよい、その前提で書いている──。

その上で、朝比奈のものはスルーできるのに岸&川上のものは削除するという姿勢は、編集部には岸や川上のご機嫌とりでもしなければならない理由でもあるのかしらん、といったあらぬ疑いを掻き立ててしまう。こういった余計なお世話は、岸や川上にとっても迷惑な話ではないか。

そもそも、作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家・樋口恭介がしたとおりウェブに反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。

文芸誌界隈の人々は、しばしば、古き良き(?)文壇的光景であるところの作家と批評家の二人三脚の復活を願うが、この程度も認められないのならば、書評家という名の広告塔しか残らないのは明白だ。

各人が自分の思う「批評」を信奉するのは勝手だが、その規範を他人に押しつけてはならない。そういう自由が各人にはある。以上が編集部を非難する理由である。

正直であることを悪徳にしてはならない

るるとして書いてきたが、実のところ私はそこまで怒ってもいなければ落胆してもいない。今回は『文學界』で起きたことだったのでこれに照準するかたちになったが、文芸誌ではこの種の姑息な介入は日常茶飯であり、私自身、他誌で似たような経験をしてきた。ほとんど業界の体質のようなもので、おそらくこの文章が公にされても特に反省することはないだろうし、人によったら、親切心で文章を削除してやったのになんでこんな仕打ちを受けねばならないのか! と憤慨する人さえでてくるかもしれない。

困ったものだが、彼らの目からは本当にそう見えているのだから仕方ない。

文芸誌やその編集者たちに特に期待はしていない。では、なぜこんなにも長々と書いているかというと、文芸誌に載るような作品を、さらにはその批評を読む少数の読者に語りかけたいと思うからだ。

たとえば、今回私が岸作をあまり評価しないことで大きなフラストレーションを感じる岸ファンの読者がいるかもしれない。『大阪の西は全部海』は岸の著作のなかでも随一の傑作であり、芥川賞をとってもおかしくないのに、と。

実のところ、私は自分のジャッジに絶対の自信をもっているわけではない。自身の無教養は勿論のこと、当該の月評欄は4~10作ほど絞られた対象作──ちなみに3月号では13作が対象となっている──を2週間程度ですべて読み、その評を書くというかなりタイトなスケジュールで回っている。求められる熟慮をすべての作に等しくかけられるというと怪しくないわけではない。だから、そのクレームは本当に正しいのかもしれない。

しかし、同じことを逆にも考えてほしい。もし荒木以外のすべての評者が、『大阪の西は全部海』を駄作と結論づけたならば、「芥川賞をとってもおかしくないのに」とまで感じたあなたの感動は否定せねばならないのだろうか。

そんなことは決してない。『無責任の新体系』(晶文社)にも書いたことだが、文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ。小説のなかの「犬」の字から、柴犬を連想するのかチワワを連想するのかは読者によって異なり、その傾きの背後には読者自身が生きてきた膨大な人生の経験が積み重なっている。岸作からもらった感動の半分は、一人ひとりかけがえない読者が固有の仕方で編み出した創造物であり、それは誰がなんといおうと断固として守られねばならない。

読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己に責任をもつところの私自身にとっての大切な創造物であるということだ。評者としての荒木は知的教養が豊富でもなければ流麗なレトリックの使い手でもない。荒木より才に秀でた読み手は世にごまんといる。私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。そしてこれは他人の正直を決して否定するものではないのだ。

正直は正しいから擁護されねばならないのではない。たとえ間違っているによ、それが現にそうであることを認めなければなにごとも始まらず、少なくとも人を欺くよりかは誠実であるから守られねばならないのだ。そして、誤りうることを最初からなかったかのように修正する力を見逃すことは、大袈裟なように聞こえるかもしれないが、長期的には社会の基盤に重大なダメージを残すように思えてならない。

いつか誰かがもつかもしれない誰にも理解されない正直を、余所の人にめちゃくちゃにさせないためにいまこの文章を書いている。

文句があるなら言論で戦いましょう。大切なのは、裏工作して保身に走る編集者でもなければ、小説の読み方もろくすっぽ知らない文芸評論家気取りでもなく、あなたがどう思ったかということです。きっとそのほうが文学とかいわれるものにとってもよりよい未来をもたらす……と思いませんか?

ブックオフで神隠しに遭う【マンガ版】

2021年1月14日
posted by 飯島健太朗












(原作:谷頭和希〈ブックオフは公共圏の夢を見るか〉第5回 「ブックオフで神隠しに遭う」

物語の命脈と物語による回復

2021年1月6日
posted by 藤谷 治

第26信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

明けましておめでとうございます。昨年末はB&Bのイベントに参加してくださって、ありがとうございました。瀧井朝世さんや田中和生さんにも助けられました。

今にして思えば、まだあの夜の僕は2020年のメランコリイを引きずっていたようです。病的というほどではなかったと思いますが、実は結構、やばかった。現在はやや回復しているようで、小説の執筆も勢いを取り戻しているようです。年が明けたからではなく、あのイベントにも関係する小さな出来事が回復のきっかけなのですが、それは後で書きます。

僕もまた2020年はいわゆる「古典」と見なされている本ばかり読んでいました。と言っても、仲俣さんのようにジャーナリズムからの解放としてではなく、まったく仕事上の必要からです。大学でほとんど不意打ちのように「日本文章史」なる授業を受け持つことになり、去年の後半から慌てふためいて岩波の「大系本」を神保町のワゴンセールで買い漁りました。

古典に関する専門的な知識もなければ定見もなく、僕のような人間に大学が求めているであろう独創的な文学史観すら持ち合わせていないので、選択の余地なしといったテイで『万葉集』から平安朝文学を経て、謡曲で前期を終え、後期は説経節から江戸文学、明治の言文一致から戦後、現代までという、平々凡々たるラインナップを突っ走りました。学生にはあらかじめ「ゴリラ読み」と自称していたくらいです。

ですから古典の読み直しといっても、否応なしの無我夢中で、仲俣さんの読み方などとは比較にもならない読書でした。おまけにコロナの混乱で当初の予定は大きな変更を余儀なくされ、前期は最初の『万葉集』と最後の謡曲をカットしなければなりませんでした。またそのためもあって、僕の古典読み直しは仲俣さんとは大きく違って、和歌は一切素通りしてしまいました。

しかしそんな読み方でさえ、僕には得るものが大きかったです。若かったころの乱読時代に、僕がどんな具合に古典を読んだかと思い返すと、結果的に「逆流」であったと気がつくのです。最初のとっかかりは落語でした。落語の本が文庫になっていると知って、興津要の『古典落語』を読み、そこから円朝を知り、『膝栗毛』から『能狂言』、『今昔物語』をちらちらめくって『源氏』に降参して『竹取物語』に至る……と、おおむねそんな逆流の読み方をしていたと思います。

今回、改めて「まとも」な順番で読んでいって、はっきり感じたことがひとつあります。それはもしかしたら、丸谷才一の時代区分と、少しは通底するものがあるかもしれません(丸谷氏の本を読んでいないのに、何を言っているんだ、という話ですが)。

それは、江戸時代からこっちは全部現代だ、ということです。中学生でも見るような大ざっぱな文学史年表を眺めていると、八世紀の『古事記』から十四世紀の『太平記』、十五世紀前半の世阿弥くらいまでは、ほぼ間断なく「題名くらいは覚えておこう」みたいな代表的文学作品が並んでいます。ところがその後、元禄時代に西鶴が現れるまで、少なくとも散文作品には、受験勉強レヴェルでの重要作品が見当たりません。西暦でいうと『風姿花伝』がだいたい1400年くらい、『好色一代男』が1682年の出版で、そのかんに「これだけは」というほどのものが見当たらないのですから、なんと三百年くらい、ぽっかり空いていることになってしまいます。

もちろんこの時期、歌集や歌論、謡曲や浄瑠璃は盛んだったのですから、散文にこれといったものがないからといって、文学が衰退したなどとは言えません。ただ、この長い年月は、日本の散文とその書き手にとって、大きな大きな変革期だったことは、どうやら間違いがないようです。

変革というより、いっそ逆転と言った方がいいくらいかもしれません。貴族社会が没落し、台頭してきた武家が平安貴族の文化を模倣し継承し、発展させることで、生殺与奪の権を誇示した時、そこで庇護されたのは美術であり演劇であり、また社交としての茶の湯や華道、そして歌道であったのです。物語作者や散文作者を、武家がパトロネージュしたという話を聞きません。物語や散文が再び現れるには、政情の安定と市民社会の成熟をまたなければなりませんでした。

それは要するに、「権力の庇護」の時代から、「権力の抑圧と資本の支配」の時代への移行に必要な三百年でした。世阿弥までの物語作者が、ほぼ例外なく権力者の威勢や趣味の好悪に依存しなければならなかったのに対し、江戸の幕藩体制が整備され、市民が資本主義社会を発達させてからの作者たちは、権力の監視と制限の下で、「版元」とか「売り上げ」といった資本に依存して生きるようになりました。そしてその生の様態は、西鶴からこんにちの我々に至るまで、いささかも変わることはないのです。恒産があるとか副業を持つとかの、作者たちおのおのの事情や、印税や著作権など、制度上の変化はありますけれど、この三百年でもたらされた変化に較べれば、微差といっていいでしょう。

この三百年のあいだ、散文が書かれなかったわけでは勿論ないでしょう。それは史書や日記として続いていたでしょう。しかし物語は? 藤原定家がいなければ、『源氏物語』は間違いなく散逸していたでしょう。けれども定家の時代にすでに、『源氏』は同時代を映す物語ではありませんでした。それは貴族やのし上がった武家の趣味の規範であり、画題であり、失われた時代への郷愁、憧憬でした。

権力の庇護も受けられなくなり、市民社会の資本も整わなかった時代に、物語は世の中からはじかれた人間によって語られていたのです。彼らの多くは下層階級の人間ではあっても、しかし社会の下層に留まっているわけではなく、少数ながら公家や武家、あるいは僧籍にある(あった)人間も含まれていました。

貧農が食わすことのできなくなった子供たちの、女児が人買いに売られるように、男児は寺に置かれて髪を剃りました。しかし仏門で出世できるわけでもなく、居場所のなくなった彼らは、琵琶を持って辻々をまわり、因果応報の戒めを語るという名目のもとに種々の物語を語って、日銭を稼いでいたのです。恐らくは平安初期の『日本霊異記』にあるような逸話に源のあるそのような「かたりもの」は、やがて『保元物語』『平治物語』そして『平家物語』へと結実されていきます。あの壮大な『平家物語』が成り立ってしまうほどに、物語を語る者たちの貧しさは長く続き、組織化もされ、社会の中で固定化されていた、ということでもあるでしょう。

琵琶法師だけではありません。足利家に庇護された世阿弥から、元禄の町民、商人たちの金に庇護された西鶴までの三百年に成立した物語に、浄瑠璃と歌舞伎がありますが、浄瑠璃の前身といっていい説経節は、ささら乞食と呼ばれる者たちによってうたわれ、歌舞伎ももとは河原乞食という被差別民の仕事であったといわれています。詩歌や私的な散文、あるいは公的文書に準ずるような史書や倫理に関わる文書と違って、日本の社会における物語は、かなりはっきりと見捨てられた人間たちのための、見捨てられた人間による創作であり、技芸であったと言えるのです。

同時代の政治的事件を物語とすることに、時の権力があからさまな弾圧を加えたことは、シェイクスピア時代のイギリスも歌舞伎揺籃期の日本も全く同じです。そして歌舞伎作者は、これまたシェイクスピアと同じ手段でこの弾圧に対処しました。すなわち「これは現代の話ではない」とまず逃げを打って、それから同時代の物語を語ったのです。周知の通り『仮名手本忠臣蔵』は、あくまで『太平記』に材を取った塩冶判官と高師直の話であって、浅野内匠頭と吉良上野介の話ではありません。そうであると同時に、『忠臣蔵』が元禄十六年の討ち入りの話だという共通理解は、当時も今も変わりなかったのです。

出自によって地位も職業も、人生もあらかじめ決定される社会から逸脱して、見かけの華やかさとは裏腹に下層民として生きた物語の担い手たちは、卑屈ともいえる搦め手で「お上」の弾圧を避けたのでした。そして「お上」もまた恐らくは、ある意味で騙されたフリをしていたのだと思います。それだけ物語が、どの階層の人間にとっても魅力的であり、また社会の不満のガス抜き的な効果を持ってもいたのでしょう。

物語はアウトローによって命脈を保ってきました。僕には自分をアウトローだ、世間一般の人間とは違うんだなどと気取る趣味はありません(僕の「自己承認欲求」は別のところにあります)。僕はただの小説家、物語作者であり、その身過ぎ世過ぎに鬱々としている、普通の社会人です。

ただ物語作者として、我らの偉大なご先祖様たちのことを思うと、やっかいなメランコリイが、薄皮の剥がれるようにほどけていくのを感じるのです。というか、そう感じることについ最近、気がついたのです。それはあのB&Bのイベントのおかげでした。ゲストのお三方が紹介してくれた「2020年の収穫」を、今の僕はゆっくり読んでいます。昨年最後の読書になった青山七恵さんの『みがわり』は、とても、とても良かった。これを僕は「脱皮」の物語として受け取りました。

そして今はマーガレット・アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団』を読んでいます。まだ最初の百頁しか読んでいませんが、この一冊は僕を回復させてくれます。怒りや悲しみをユーモアで覆う語り口は、「世界は舞台、人はみな役者」という、シェイクスピアの人間観を踏襲するものでしょう。

こんな言葉がありました。

「シェイクスピア本人は古典になるつもりで書いてないよ!」フェリックスは声に怒気をふくませた。「彼にとっての古典とは、古代ローマのウェルギリウスであり、ギリシャのヘロドトスであり……本人はいつオケラになっても不思議じゃない、いわゆる劇団座長にすぎなかったんだ」(鴻巣友季子訳 p.72)

仲俣さんほど速読できるわけじゃないし、読み終わるのにはもう少し時間がかかるでしょう。『みがわり』もそうでしたが、『獄中シェイクスピア劇団』を読んでいると、むしょうに自分の小説を書きたくなるのです。シェイクスピアが「いつオケラになっても不思議じゃない」のだから、僕ごときが仕事もしないで手許不如意を嘆くなんて、おこがましいにも程がありますからね。

実はこの手紙では、仲俣さんのひとつ前の手紙に応じて、「編集」についても書くつもりだったのですが、長くなりました。そのうちまた書きます。それでは。

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