最善なアウトプットのための、適切な“調べる”を調べたい

2023年4月18日
posted by 山田苑子

こんにちは、心は永遠の大学生、山田苑子です。

いま、大人の勉強と調べ物というテーマは、大ブームらしいです。『調べる技術:国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』が好評で早くも六刷3万部とか(*1)。『独学大全』も出版後すぐ話題になっていました。

誰でもネットで簡単に検索できる時代となった結果、結局「調べる」が結構難しいことだ、ということが可視化されつつあるのがこの5年位じゃないかな。私自身、ちょっとだけ大学で非常勤講師をした時は、結局学生に調べる方法ばかり伝えていたような気がします。だからこそ「調べる」本が今、ブームなんでしょう。

現実問題として、「調べ過ぎる」ほうが怒られる。

でもね、ちょっと待って欲しい。私、仕事として複数業界の専門誌ライターをしてもうすぐ10年目に突入する者なんですが、原稿を納品して「よく調べてくれた!」「そんなに調べ上げてくれて、すごいね!」などと言われたことは、まぁ、ほぼ無いに等しいんです。それは毎回大幅に締切を破り倒しているから、ではあります。クライアントさんとしては「サッサと出してくれ」としか言いようがありません。

調べなくても怒られるし、調べすぎても怒られる。それなら調べないで怒られたほうが、コスパはいい気がします。怒る人はだいたいヒントをくれるはずですから、そこから辿った方が早い。だとすると、「まずは、調べない」が、ごく普通の選択になるんじゃないでしょうか。

思い返しても、自分が調べたことに対して「足りない」と激詰めしてきたのは、史学科在籍時代に顔を出していたあらゆるゼミの教員陣、そして大学院時代の指導陣。つまりアカデミックの人達だけです。自分の場合、18歳から22歳という若い時代に「調べが足りない」と激詰めにさらされたことが、その後の習慣に大きな影響を与えているようには思います。

特に修論を書いた後は、この影響をハッキリと日常的に感じています。何を書いていても指導教授の「それは誰が言うたんや、あんたか?! あんたの勝手な意見か」という言葉が脳内で襲ってくるようになりまして。「いや、先生に説明出来るほどは、調べ切れてません……」と思うと、体が勝手に動いて調べている。

そんな状態なので、私自身は「よし、もう調べなくていいや」って思えたことが、一度もないんです。常に、いつも、ビクビクして、調べて、調べて、「もうこれ以上は、締め切りを踏み倒すと食い詰める」というタイミングでなんとかアウトプットをまとめているに過ぎません。

で、結局、どこまで調べたら「オッケー」なのか。

私のメモリアルを駆け抜けてみると、「調べ続けてしまう」という行動そのものの動機として、「調べること」が好きか嫌いかは、あまり関係ないのではないかと思えます。コレは最早、「業(ごう)」に近い。編集氏の言葉を借りれば「呪い」のようなものでしょう。脳内に巣喰う何かを鎮めるために、調べ続け、その結果をくべ続けて祭祀を行い続けている。そんなイメージです。

この呪いをどこで断ち切っていいのか、今、私は切実に知りたい。「調べる」ことを推奨している方々に聞いてみたいんです。「私は、いつ、調べるのを、終えたらんいいですか」と。

「どこまで調べたらいいかって、結局、調査の前段にある“目的”を達成できるかどうかによるからなんとも言えないよねー」そんな答えが返ってくることが、まぁ、瞬間的に思いつきます。「調べる」には大抵、目的があるはずです。提案書のため、企画書のため、取材原稿のため、論文のため、何かをつくるため、何かを証明するため……。

だとしたら、調べることよりも、何を調べるべきか考えるところが「調べる」のキモな可能性があります。自分の目的を達成できたところが、「調べる」の終わりなんでしょうか。生意気を言うようですが、なんかそれって、底が浅い感じがします。

あと「調べる」っていうと、ちょっと前までは「ググれカス」って言葉がよく取り沙汰されていました。今なら「ChatGPTに聞いとけ!」と言われそうです。実際、そこで出てきた情報をもって「調べた」と言い切る人も、昨今、結構、いるようです。

インターネットに載っていない情報や歴史は、そもそも存在しないと考えている人たちもいるようだ……なんて、笑い話なのかホラーか分からない話も聞くようになりました。大学のレポートとかじゃないですよ、出版書籍の話です。担当の編集が“仕事”してるかどうかはともかく、著者はきっとこう言うでしょう、「自分はよく調べて、書いてます」って。

はて、そうだとしたら、そもそも「調べる」ってなんなんでしょうか。私も一生に一度くらい、自信を持って「よし、調査終わり!」って、なってみたいモノです。

ところでこの原稿、ここまでで「調べる」っていう漢字が一体何回出てきたか、数えてた方はいらっしゃいますか。あまりに回数が多いので、私はだんだんゲシュタルト崩壊してきていて、調べるを調べるよりも調べと調べる、ほら「妙なる調べ」っていうじゃないですか、アレ、なんで同じ漢字なんですかね、それを調べたくなって今すぐ漢和辞典が必要な精神状態になってるんです、いやここはやはり『字統』か。そうすると事務所までいかないと……でもああ、さっきから、編集氏から「それ調べる前にとにかく一度、初稿出してください」って、ホラ、連絡が……。

(次回に続く)

*1 記事公開時の累計部数が誤っていると版元よりご指摘があり、正確な数字に修正しました。この件については「調べ」が足りないままでした。お詫びして訂正いたします(編集部)

棺を蓋うて事定まる

2023年4月10日
posted by 藤谷 治

第37信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

二人の偉大な日本人芸術家が、ともに三月のうちに亡くなったというのは、僕にとっても思うところの多い出来事でした。三日に大江健三郎氏が亡くなったと報道され、その死と業績について思いめぐらしているうちに、坂本龍一氏が二十八日に亡くなったと、四月に入って報じられました。

有名人の、報道によって知らされる死というのは、いつもであればある象徴性をともなったマイルストーンのように感じられるばかりで、その肉体的な死には思い至らないものですが、三月の大きな二つの死は、僕にはけっこうな生々しさをもって迫ってきたのでもありました。というのも、僕は二月に母の臨終に立ち会ったばかりなのです。母の年齢は大江氏に近く、死因は坂本氏のそれと同種のものでした。

無論、だからといって僕に彼らの死が「判る」などとは毛頭思いません。それらの死を同列に扱うような非礼もするつもりはありません。

ただ、「棺を蓋うて事定まる」という古い言葉が、ひと月前、ふた月前までとは、まるで違う重さと厳しさを持つのを、人間の生の厳しさとして感じます。

大江氏も坂本氏も、世界的な評価を得た日本人ということで、その死亡記事は新聞の一面トップに掲載されました。「反戦」「非核」「自然との共生」といった言葉が、どちらの記事にも並んでいました。

これらの言葉に、二人が力を注いでいたことは事実です。しかし同じこれらの言葉によって、彼らの「事(がたとえ半ばでも)定まる」のでは、やはりたまったものではないという思いがあります。ましてや、これらの言葉によって彼らが「批判」されるのも「称賛」されるのも、快く見ていられるものではありません。

そういった批判や称賛は、僕自身が30年前に彼らへ、とりわけ大江氏の仕事に対して感じたものでもありました。仲俣さんとちがって学生時代から大江健三郎を、「読まなければ話にならない」ものとして読んでいた僕は(そういうことが「コモン・センス」として通用していた時代でした!)、同時にそれが80年代という、直近の過去を嗤うことが新感覚と見なされた時期――ポストモダン、とも言うようですが――であったがために、いわばあらかじめ否定的な態度でもいたのでした。

仲俣さんは大江氏を「日本の近代文学的な伝統から切れている作家」と評していますが、それは今現在の視点から見たときの評価だと思います。現役作家であった頃――今の僕たちよりも若かった頃――の大江健三郎は、僕には文壇そのものに見えました。芥川賞や谷崎賞、野間文芸賞や三島由紀夫賞といった、主だった文学賞の選考委員をかけ持ちし、のべつまくなしジャーナリストや批評家たちと論争を続けていたのが大江健三郎で、そういう文壇ゴシップを無視して氏の小説を読むことはできませんでした。論客としての大江氏には直情径行の感があり、冷静で紳士的に見えた論敵・江藤淳の方が、僕は好きでした。

読まなければいけない文学としてでなく、これは本当に素晴らしい、と思えるようになったのは、88年の『キルプの軍団』からです。ディッケンズの小説をモデルとして、極左集団と暴力犯刑事とオリエンテーリングを組み合わせたこの小説は、ひたすら読んで楽しく、作者の小説技術の粋を極めたものでありながら、同時に心のこもった青春小説の傑作です。後年、僕は確かどこかの大学系文芸誌で大江作品の特集をした時に依頼されて、この作品について短い文章を書いた覚えがあります。(ちなみに今、書棚のどこを探しても、その雑誌も原稿も見つからないんですけれど、調べてみるとそれは、「早稲田文学」の2013年6号でした)

以後の作品も決して文句なしに、というわけではありませんでしたが、比較的短い、あまり批評の対象にならなかったような長編小説や連作短編が、僕は好きでした(『人生の親戚』や『静かな生活』)。驚かされたのはノーベル賞受賞以後の作品で、『取り替え子(チェンジリング)』や『二百年の子供』『美しいアナベル・リイ』といった小説を、老いただの書くのをやめるだのと言いながらも書き続けたのは、驚くべき積極性です。これから老齢に向かっていく僕たちの、もっとも学ぶべきありようでもあるでしょう。(しかしこうしてみると、同じ80年代以降の大江作品でも、僕と仲俣さんとの挙げる小説が、ほとんど重ならないのは興味深い)

なんの話をしていたんでしたっけ。そうでした「棺を蓋うて事定まる」でした。これは僕のアテにならない予想にすぎませんが、大江氏の論争や罵倒は、棺が蓋われたこれからは、次第に色褪せ、消えていくものだと思います。そして氏の反戦や反核の言葉が、それに次ぐのではないでしょうか。こんにちトーマス・マンやロマン・ロランの政治的エッセイを読む者がいないのと、それは同じだと思います。

最後には、小説が残るのです。いうまでもなくそれは「エッセイよりも小説の方がエラい文学なのだ」なんてことじゃありません。人間がもっとも多様で、制御不能で、遠慮ないとき、つまり孤独なときにあらわれる表現が残るのです。大江健三郎の場合、それは小説であり、坂本龍一にとってのそれは、音楽だったのでしょう。

「魂のこと」とは、そういう孤独な表現のことなのかもしれません。生きている、つまり魂が肉体とくっついたままでいる人間に、「魂のこと」だけを抜き出して考える、あるいは表現するのは、おそらく、とても難しいことです。

ただ、種々の死を短期間に突き付けられ、ようやっと心の落ち着いた今、あらためて思います。僕たち生者は死者の価値を「定める」けれども、死者たちもまた生者に向かって、問いかける目を向けている。彼らは私たちに尋ねているのです。生者よ、お前たちは私を批判する権利を持っている。私の生前の行いを最初から最後まで洗い直し、解釈し、位置を定め、あたいを決めることができる。だがそれをするお前は何をしているのだ。お前は自分の生の時間を使って、これまで何をし、これから何をするつもりなのだと。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第35信第36信|第38信につづく)

魂のことをする

2023年4月6日
posted by 仲俣暁生

第36信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

大江健三郎さんが亡くなりました。その死に自分でも驚くほど静かな衝撃を受けています。

生前はろくに読まなかった作家をその没後にようやく読み始めるのは、あまり行儀のよいことではないでしょう。しかしいま私は彼の遺した膨大な作品群を、晩年に書かれたものから遡るかたちで、取り憑かれたように読んでいます。

1935年生まれの大江健三郎は私の父母とほぼ同世代であり、1963年生まれである彼の長男・光さんも私や藤谷さんと同学年です。ある時期から大江健三郎は、いわば「家族小説」とでも呼ぶべき話をもっぱら書くようになりましたが、そのことが私から大江の作品に手を伸ばす機会を奪った理由のひとつでした。若い時期は誰しもそうでしょうが、家族という人間関係をうまく扱いそこねていたのです。

しかしいま私は、むしろ大江健三郎の家族小説にこそ心惹かれています。個別の作品への感想や論評はきりがないので避けますが、現在から遡って大江の小説を読んでいくなかで、1980年代に書かれた連作集――『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』(1982年)、『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)、『河馬に嚙まれる』(1985年)、『静かな生活』(1990年)――がもっとも豊かな読後感を与えてくれたからです。

あらためて読んでいくとよくわかるのは、大江健三郎が日本の近代文学的な伝統から切れている作家だということです。彼自身そのように意識して(ブレイクやオーデン、ダンテに依拠しつつ)小説を書き始め、やがて自身のルーツである「森」を根拠地に、巨大な物語世界を幾度もかたちを変えて語り直してきました。世界にむけて開かれた文学であると同時に、きわめて私的な経験に裏打ちもされている、それが大江健三郎という作家の特異性でしょう(もちろん、本質的にはあらゆる文学がそうなのですが)。

ノーベル文学賞を受賞したとき大江健三郎は、いまの私や藤谷さんと同じ年頃、還暦直前でした。大学在学中にデビューしてすぐに芥川賞を受賞し、59歳でノーベル賞を受賞――こうした文学者としてのあざやかな成功の裏で、大江自身はおそらく自分の書く小説にいつまでも満足することがなかったはずです。一度は、もう新しい小説は書かないと発言したものの、相次ぐ親しい友人(武満徹、伊丹十三など)の死にむしろ「励まされ」(これは大江健三郎の重要な語彙のひとつです)たかのように、さらに20年近く、彼は偉大といってよい小説を書き続けました。驚嘆すべきことです。

私が本当の意味で大江健三郎を「読んだ」のは、2017年に出た加藤典洋の『敗者の想像力』(加藤さんはこの本が出た2年後に亡くなりました)での卓抜な『水死』論に触発され、同作からいわゆる「おかしな二人組(スゥードカップル)」三部作へ、そしてさらに『宙返り』へと、大江健三郎の「晩年の仕事(レイト・ワーク)」を読み継いだときです。昨年2022年にはすぐれた大江健三郎論として、長年にわたり大江にインタビュー取材をし続けてきた元読売新聞の尾崎真理子による『大江健三郎の「義」』、そして谷崎論や井伏論の著作もある仏文学者・野崎歓の『無垢の歌──大江健三郎と子供たちの物語』の二冊が出ました。これらを頼りに未踏の大江作品を読んでいくのは、なんとも新鮮で充実した体験でした。

思い起こせば、私が同時代の小説、とりわけ純文学を面白く読むようになったのは、1990年代半ばを過ぎてからのことでした。きっかけは同世代の魅力的な小説家の相次ぐ登場でした。ここでは阿部和重と星野智幸の名を挙げるにとどめますが、いまの私なら、この二人に大江の影響が歴然たることに即座に気がついたでしょう。無知とはなんと恐ろしいものでしょうか、そのことに無自覚なまま私は彼らに代表される新しい文学の誕生を歓迎したのです。そして、このときすでに大江健三郎はノーベル賞作家でした。

大江健三郎は私にとってながらく巨大な盲点であり、もしかしたら心理的タブーでした。私個人だけでなく、もしかしたらある世代全体にとって、そうだったかもしれません。

大江健三郎は旺盛な創作活動の傍らで、愚直なまでに戦後民主主義の達成を擁護する立場から政治的発言をしてきました。そうした愚直な政治性からは距離を置いた、いわゆるポストモダンの小説家や思想家――ここではやはり村上春樹と柄谷行人の名を挙げるにとどめますが――もまた、それぞれの長い迂回を経て、反戦や平和、つまり普遍的価値への「愚直」なコミットメントをするようになっていく。大江健三郎が揺らぐことなく「愚直」であり続けたのとは好対照ですが、たどり着いた場所は同じでした。

1980年代から90年代を経て、21世紀の最初の四半世紀がそろそろ終わろうとする現在まで、日本でもっとも大きな影響力をもった小説家はまちがいなく村上春樹です。まもなく発売される彼の最新長篇には、封印されている初期の中篇作品と同じ題名が与えられていることが話題になっています。村上春樹のこの「新作」を楽しみにする思いが、私のなかにないわけではありません。しかし大江健三郎の作品を少しずつ読んでいくなかで、これまでに一度も考えたことのない、こんな問いが生まれてきました。

この十数年、大江の次にノーベル文学賞を受賞する日本人作家がいるとしたら、それは村上春樹だろうと言われ続けてきました。しかし、あらためて考えてみるならば大江健三郎はノーベル賞受賞後も現役の書き手であり、村上春樹にとって、手強い同時代のライバルでもあったはずです。デビュー二作目に『1973年のピンボール』という題名を与えた村上春樹が、大江健三郎の意識的な読者でなかったはずはありません。

なにより、村上春樹自身、大江と同様に日本の近代文学的な伝統から切れたところからスタートした作家でした。違うところがあるとすれば、依拠するものがヨーロッパ文学から、アメリカ文学に切り替わっただけでしょう。そして21世紀になっても書き続けた大江の創作活動の総体こそ、村上春樹「以後」の文学への根本的な「批評」でもあったと、いま、私は考えています。

大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した際のストックホルムでの講演、「あいまいな日本の私」のなかで、当時の日本文学を「東京の消費文化の肥大と、世界的なサブカルチュアの反映としての小説」と述べ、それらとは「ことなる、真面目な文学の創造を願う」と述べています。「サブカルチュアの反映」とは、この時期にはすでに大江の論敵であった批評家の江藤淳が、村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に与えた評言でした。もちろんこの言葉は、村上春樹の小説に対してもよく当てはまる「批評」です。

「魂のことをする」という、大江健三郎の独特な言い方があります。「魂のこと」とは、普遍的であり、かつ個別的でもある価値、たとえば同じくらい愚直な「文学」のような言葉に対応するものでしょう。日本の現代文学のなかに希望の芽を探し出す「大江健三郎賞」を2014年で休止した後、こんどこそ自分にとっての「魂のこと」に残された時間を費やすことを決め、大江健三郎は私たちの前から姿を消しました。その消え方も含め、じつに見事でした。

そろそろ晩年が近づいてきた私たちも、自身の「魂のこと」に取り組まなければない時期かもしれません。

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小説の”古層”へ

2022年11月28日
posted by 藤谷 治

第35信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

10月半ばの僕のフェイスブックの記事に、仲俣さんが恐らくは何の気なしに「時代小説なんてどうですか」と書いた、その一言に自分でも驚くほど触発されて、今の僕は平将門についてあれこれ調べています。

フェイスブックでやり取りしていた時点では、僕は『将門記』を流し読みしていただけでした。ウィキペディアの将門の記事を理解するのにもひと苦労だったくらいです。今でも当時の位階や行政制度はなかなか頭に入りません。それでもなぜか熱は冷めず、先日は「将門まつり」にかこつけて、茨城県の坂東市を歩きましたし(26000歩という自己ベストを記録しました)、北関東の地図を見たり、ネット上に少なくないらしい「将門ファン」のサイトを覗いたりして、今は再び『将門記』を細かく読み返しています。幸田露伴の『平将門』は読みましたが、仲俣さんに勧められた澤田瞳子『落花』(中公文庫)は買っただけで積んであります。

完全に無知であることをいちから知るのは楽しく、調べること自体に惑溺してしまいそうですが、やはり「これを小説にするには」ということが念頭を離れることはありません。御存知の通り将門というのは比較的信用できる史実一に対して伝説が百くらいの人です。そのせいか将門を描いた「時代小説」の多くは、それら伝説を剝ぎ取り、いわば「生身の将門」を目指したものが多いようです。史実があいまいで想像の余地が大きいから、リアルに書くのもきっと楽しいことと思います。

しかし千年の時の流れるうちに猛烈に膨れ上がった伝説を、ごっそり捨ててしまうのはいかにも惜しいと思えてなりません。史実を追うのに忙しい段階ですから、伝説を調べるのはまだまだ先になりそうですが、それでも目に入ってくる「将門伝説」を瞥見すると、開いた口がふさがらぬ思いがします。怨霊伝説ばかりではありません。出生伝説、影武者伝説、為政者として、また武者としての伝説、そして死後の遺児伝説に至るまで、将門のことならどんな荒唐無稽も許されるという暗黙の了解でもあったのかと思うほどです。同じように広く語り継がれている「義経伝説」さえ、将門のそれに比べればずっとリアルでしょう。

仲俣さんは前の手紙で、僕が「とりつかれて」いる「『物語』の問題」について書いてくれました。「近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその『様式を借りて』書いてこられたのでは」ないか、というのは、面映ゆくも嬉しいご指摘でした。

明治以後の日本の近代文学が、物語をすっかり投棄してしまったわけではありません。圓朝もいたし仮名垣魯文も人気があった。しかし彼らの「物語」を重んじる態度は、「小説」を西洋列強に比肩する国家樹立に資する「文学」にしなければならないと勇む、帝大出身の学士たちによって蔑せられました。

この時に物語に代わって称揚されたのが、まさしく「自然主義やロマン主義やモダニズム」であったわけです。そして「ポストモダニズム」はというと、これはもう僕たちのカッコイイ合言葉だったわけで、意味はよく判りませんでしたが(今でも判りませんが)、資本主義社会の最先端を行くジャパニーズ・カルチャーにふさわしい逃走と脱構築の思潮、みたいな感じでした。

しかもそこでは、どうやら「物語」が「批判」されていたようでした。物語とは、語る者と語られる者が同質であることを確認しあうための装置として機能するがゆえに、果てしなく制度化されていく……。そんな風に、僕は理解していました。いや、むしろ理解しないままそんな風に受け止めてしまった、と言ったほうがいいでしょう。物語は自由の対義語に等しく、自覚しない凡庸さと紋切型に自足した言葉を再生産するだけだ。物語から解放された表現こそ「ポストモダニズム」の課題だ……。二十歳からほとんど二十年、僕はそう信じて疑いませんでした。

そういう、厳密な定義などはよく判らないままに流布された、あの頃の「ポストモダニズム」というのは――ここまで書いてきて気がついたことなんですが――、西洋文化を規範とし、既存の文化を野蛮と退けた明治の「維新」の思潮と、さして違いはなかったのかもしれません。結局それは、文学を含む人文全般が、国威発揚の一翼を担った・担おうとした、政治運動だったのです。つまりポストモダニズムとは、党派だったのです。ポストモダニズムという言葉など聞いたこともないまま80年代を生きた人たちは、言うまでもなく、圧倒的多数でした。僕はそのことにずっと気がつかなかった。

物語に対する僕のこだわり(よくも、悪くも)は、そんな「ポストモダニズム」に熱狂した自分への反省、あるいは反動から始まりました。斬新で難解で、世界文学の最先端を行くと評判だった『百年の孤独』を(ノストラダムスの)1999年に読み、それが難解でないばかりか斬新ですらないことを発見しました。それは、「むかし話」の濃密な集積によって、ひとつの村の未開から繁栄、そして衰亡までをわずか百年の時間に凝縮させた、巨大で堂々とした「物語」そのものであったのです。あの小説=物語は、今でも僕の中で衝撃波を震わせています。

その後、カルヴィーノの『イタリア民話集』やアストゥリアスの『グアテマラ伝説集』を読み、今は『今昔物語集』や義経伝説、将門伝説に目を向けています。小説や現代文学に対しても、僕はそのような目を向けているのかもしれません。それは決して、公平な視線ではないでしょう。現代文学には現代文学の役割が、それ以前の文学とは違う、なんらかの役割があるのでしょうから。

つい数日前、僕は授業で三遊亭圓朝を取り上げました。そしてついでに二葉亭四迷のよく知られた「余が言文一致の由来」も読みました。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

で、仰せの儘にやつて見た。(「余が言文一致の由来」)

学生たちの前で『牡丹灯籠』を読みながら、僕はつくづく思いましたよ。二葉亭四迷がどれだけ苦労して言文一致体をこしらえたか、その努力と成果には敬意を惜しまない。しかし二葉亭と逍遥が「人情」を小説表現の上位に置き、勧善懲悪を排斥するために「物語」を軽視し、しかし文体の模索は圓朝を参考にしたとき、彼らは圓朝の皮だけ取って身を捨ててしまったのだと。(後年の逍遥は『小説神髄』をはじめとする初期作品を「旧悪全書」と呼んでみずから否定し、馬琴をはじめとする江戸時代の読本への愛着を隠しもしませんでした)

それは社会状況の大変化に伴う、新しい文学と文体のために必要な改革宣言だったのかもしれません。また逍遥や二葉亭が始めたと言っていい「文学」とは別に、物語文学は現代にいたるまで書き継がれています。文学から物語が消滅したことはありません。

けれども逍遥が、小説の「主脳」は「人情」であり、「真を穿つ」ものであり、「ローマンス」を「奇異譚」として退けて以来(明治19年のことです)、物語は現代においてもなお、古層を保っています。それは物語がそれだけ、不気味なほど強靭である証左でもあるでしょうが、また同時に物語が、無批判に反復されているからでもあります。

物語が新しい可能性を見せてくれるとしたら、それは個々人の手による新しい創作の中にしか現れないでしょう。カルヴィーノが、アストゥリアスが、ガルシア=マルケスが達成したような創作の中にしか。これら偉大な名前にはとうてい比すべくもありませんが、僕の小説もそのような試みの隅っこにあります。この試みが果たしてどんな可能性に至るか。それは、やり続けなければ判らないのです。

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様式によって動き出すものがある

2022年9月24日
posted by 仲俣暁生

第34信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

暑さ寒さも彼岸までという昔からの言葉どおり、台風14号が通過した後の東京はすっかり涼しくなりました。私が仕事場にしている部屋は陽当りがよすぎて、夏の間はどんなにエアコンを強くかけても室温が30度以下にさがらず、日中はアタマをつかって考える仕事ができません。そんなぼんやりしたアタマを抱えたまま、今年の夏はコロナ禍が3年目を迎え、ウクライナでの戦争が半年も続き、そして多くの著名人が生涯を終えました。

山田風太郎の『人間臨終図鑑』を繙くまでもなく、人の亡くなり方も享年も様々ですが、死を悼む側の人の振る舞いはどんな文化でも、ある程度まで様式化されています。堪えきれない喪失感を抱く人も、実際には少しも悲しくない人も同じ様式をなぞることで、痛みを軽減したり共有したりできる――それは人類が生み出した一つの知恵かと思われます。

私自身も昨年の秋に母親を亡くし、あの震災の直前に父親を亡くしたとき以来、久しぶりに葬儀を行う立場に置かれました。さいわいコロナの波が一段落していたので、家族と親族だけの小規模な葬儀で見送れたのは幸運だったのですが、一抹の寂しさもありました。というのも、母の友人・知人は、以前には入所先のホームにたびたび見舞いに来てくれていたのですが、長引くコロナ禍のなかで体調を崩された方も多く、連絡をとること自体が困難でした。母方の親族も、健在だと思っていた伯母が一足先に鬼籍に入っていたことを知らされ、あまり縁のないイトコ同士でぎこちない近況報告をするにとどまりました。

若いころから私は冠婚葬祭がひどく苦手で、親族以外の葬式にも結婚式にもほとんど出たことがありません。それでも今回ばかりは、葬儀という形式や手順を踏むことで、自分のなかで気持ちの整理がつけられたところがありました。それこそ、昔からの「人類の知恵」に救われたのかもしれません。儀式や様式というものには、傍からは無駄や無意味に思えたとしてもそれなりの力があるということを、この歳にしてようやく思い知ったのです。

藤谷さんは一つ前の手紙で、ご自身の「内なる神」について書いてくれました。藤谷さんの小説にみられるキリスト教的なモチーフは以前からとても気になっていたので、その秘密をチラリと見せていただけたのは、読者の一人として喜ばしいことでした。とはいえ、無粋な唯物論者である私にとって、宗教とはひたすら退屈で膨大な手順をともなう様式に過ぎず、それと共存している信仰体系を「信じる」人の気持ちは、いまもって想像することができません。私自身も現世利益のための神頼みくらいはしますが、その結果がどうあれ、感謝も逆恨みもした覚えがありません。

そんな私には、信仰という側面から宗教について語れる言葉は、なに一つありません。しかし様式ということに話を戻すことができるのであれば、もう少し意味のあることが書けそうです。そう、文学表現にもさまざまな様式があるからです。

この往復書簡以外にも、藤谷さんとはSNSを介してやりとりをすることがあり、なにかの折にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読むよう強く促されました。私も「SF小説の祖」と呼ばれることもある、この作品の概要は知っていました。「フランケンシュタイン」とは、映画やその他で繰り返しビジュアル化されてきたあの「怪物」の名ではなく、その創造者となった若い科学者の名前であること、作者メアリー・シェリーは高名なロマン派の詩人パーシー・シェリーの妻であり、フェミニズム的な視点からもこの作品がたびたび議論されてきたことなどです。

この小説が書簡体というスタイルで書かれていることは、廣野由美子さんの『批評理論入門――『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)を以前に読んだときに教えられたのですが、まさにこの「書簡体で書かれている」という予備知識こそが、私をこの小説から遠ざけていた最大の要因でした。物語の本丸に入るまでが迂遠で退屈に思えたのです。

今回、私が読んだのは芹澤恵さんの優れた訳による現行の新潮文庫版ですが、ご存知のとおり、その冒頭はこう書かれています。

手紙 一

イングランド在住 サヴィル夫人机下

一九**年十二月十一日
サンクトペテルブルグにて

ご安心ください。いやな予感がする、とずいぶんご心配いただいたぼくの計画ですが、今のところ、なんら災難に見舞われることなく運んでいます。昨日、当地に到着したところです。最愛の姉上のお心を安んじることこそ、第一の任務。まずは、ぼくが元気なこと、今回の計画はきっと成功するだろうとの自信をますます強めていることをお知らせします。

当地はロンドンよりはるか北に位置します。街の通りを歩いていて、北からの冷たい風に頬を軽く打たれると、五感が引き締まり、嬉しさが湧きあがってきます。この感じ、わかっていただけるでしょうか? この風は、これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれているのです。
(以下略)

怪物のビジュアルやあらすじだけで、この『フランケンシュタイン』という物語を記憶している読者にとっては、サンクトペテルブルグからイングランド在住の「サヴィル夫人」宛に認められたこの書簡は、やや意外な導入かもしれません。しかし「この風」つまり導入の文章は、まさしく「これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれている」のですね。

フランケンシュタイン博士と彼が創造した怪物との死闘は、まさにこの「北の大地」で行われます。その目撃者であり報告者である「ぼく」の手になるこの文章は、書簡体小説という文学の様式に則っており、そしてもちろん「書簡」が求める当時の様式にも則りつつ、この小説の核心から吹き付ける「風」をも表現しています。この小説をすでに最後まで読み終えている現在の私にとって、この書き出しはとても優れたものに思えます。しかし未読の段階の私には、退屈でうんざりするような様式の始まりに思えたのです。

様式といえば、この往復書簡もそうですね。もう何年も、公開のかたちでやりとりさせていただいているこの連載は、ともに小説や文学、創作や出版にかかわる藤谷さんと私が、誰に気を遣うこともなく自由に近況報告をしあう場であって、それ自体は「書簡体による文学表現」ではありません(少なくとも、私はそう考えていつも書いています)。それでも往復書簡という形式あるいは様式をとることで、すでに一定のルールができてはいます。

たとえば、基本的に交互に書くこと、相手の投げかけた疑問や話題に応えること。一回あたりの長さもそれなりに定まってきました。なにより、ここでお互いがもちいている言葉遣いそのものが、私も藤谷さんが実際に人に会って話すときや、SNSでのやりとりとはずいぶん違うはずです。もちろん、そうした制約のある形式、様式だからこそふだんは話せない、書けないことがやりとりできるかもしれない、と思って提案したのです。

その後、私はジョージ・オーウェルの『動物農場』も、川端康雄さんの(これまた秀逸な)訳文による岩波文庫版で読みました。この作品が(スペイン市民戦争に義勇兵として従軍したオーウェルにとってはその段階ですでに明らかであり、第二次世界大戦末期にはさらに歴然としていた)ソ連の全体主義体制を根本から批判した物語であること、オーウェルの代表作とされることの多い『一九八四年』(こちらは既読でした)と基本的なモチーフを共有すること等を、私は知識として知ってはいました。

しかしこの小説は、たんなる政治的寓話ではなく、岩波文庫版では正しく副題に「おとぎばなし」が追加されているとおり、原題にもA Fairy Storyという語が添えられています。そして私は『フランケンシュタイン』を敬遠したのと同じ理由、つまり「おとぎばなし」であることを苦手として、『動物農場』を長く読まずにきたのです。

この物語との出会いを促してくれたのは、私が読んだ版の訳者でもあるイギリス文学研究者、川端康雄さんの『オーウェルのマザー・グース 歌の力、語りの力』(岩波現代文庫)という本です。ここで川端さんは「政治小説」とみなされてきたオーウェルの諸作品のなかから、マザー・グースに代表されるイギリス民衆の「唄」や生活誌を拾い上げています。政治的なメッセージを「おとぎばなし」という様式で伝えることにまどろっこしさを感じていた私は、この本でようやくこの作品の、そしてオーウェルという「小説家」の面白さに目覚めたのでした。

もっとも、一般の読者にとっては事情は逆かもしれません。事実、ジョージ・オーウェルで最も読まれている作品がなにかと言えば、間違いなくこの『動物農場』でしょう。オーソドックスな近代小説の様式ではないこの「おとぎばなし」と『一九八四年』、そして記録文学的なノンフィクション作品ばかりが長く読みつがれ、オーウェルの真面目な小説が当時もいまもさして読者を得ていないのには、なにか理由があるはずです。

メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』の元になる話を、スイスにある詩人のバイロン卿の邸宅に夫のパーシー・シェリーとともに寄寓した際、長雨に降り込められた退屈しのぎ怪談ごっこのなかで思いついた、というのはよく知られたエピソードです。メアリーはのちに職業作家になりますが、出版されたのはこの作品が最初で、書簡体小説という形式も彼女のオリジナルではなく、「実話の伝聞」という怪談の定型的な様式に、書簡体という別の様式を重ねたものでしょう。

こうしてみると、このところ藤谷さんがずっと「物語」の問題にとりつかれている理由が、私にも少しだけ理解できるような気がします。以前に藤谷さんに、小説を書く上でジャンルというものをどのくらい意識するか、とお訊ねしたことがあります。そのときは現代の小説(産業)におけるジャンルというニュアンスでしたが、もう少し文学史的に言い換えるなら、近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその「様式を借りて」書いてこられたのではありませんか。

内容ではなく、様式こそが大事だといいたいわけではないのです。しかし、たとえそこに込められたメッセージは空虚だったり、ありきたりだったりしても、様式に則ることで、何かが動き出すということがあるのではないでしょうか。フランケンシュタインが作った「怪物」とは、メアリー・シェリーが生み出した「物語」のことでした。そしてこの「怪物」は、いまも私たちを魅了しつづけているのですから。

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