魂のことをする

2023年4月6日
posted by 仲俣暁生

第36信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

大江健三郎さんが亡くなりました。その死に自分でも驚くほど静かな衝撃を受けています。

生前はろくに読まなかった作家をその没後にようやく読み始めるのは、あまり行儀のよいことではないでしょう。しかしいま私は彼の遺した膨大な作品群を、晩年に書かれたものから遡るかたちで、取り憑かれたように読んでいます。

1935年生まれの大江健三郎は私の父母とほぼ同世代であり、1963年生まれである彼の長男・光さんも私や藤谷さんと同学年です。ある時期から大江健三郎は、いわば「家族小説」とでも呼ぶべき話をもっぱら書くようになりましたが、そのことが私から大江の作品に手を伸ばす機会を奪った理由のひとつでした。若い時期は誰しもそうでしょうが、家族という人間関係をうまく扱いそこねていたのです。

しかしいま私は、むしろ大江健三郎の家族小説にこそ心惹かれています。個別の作品への感想や論評はきりがないので避けますが、現在から遡って大江の小説を読んでいくなかで、1980年代に書かれた連作集――『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』(1982年)、『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)、『河馬に嚙まれる』(1985年)、『静かな生活』(1990年)――がもっとも豊かな読後感を与えてくれたからです。

あらためて読んでいくとよくわかるのは、大江健三郎が日本の近代文学的な伝統から切れている作家だということです。彼自身そのように意識して(ブレイクやオーデン、ダンテに依拠しつつ)小説を書き始め、やがて自身のルーツである「森」を根拠地に、巨大な物語世界を幾度もかたちを変えて語り直してきました。世界にむけて開かれた文学であると同時に、きわめて私的な経験に裏打ちもされている、それが大江健三郎という作家の特異性でしょう(もちろん、本質的にはあらゆる文学がそうなのですが)。

ノーベル文学賞を受賞したとき大江健三郎は、いまの私や藤谷さんと同じ年頃、還暦直前でした。大学在学中にデビューしてすぐに芥川賞を受賞し、59歳でノーベル賞を受賞――こうした文学者としてのあざやかな成功の裏で、大江自身はおそらく自分の書く小説にいつまでも満足することがなかったはずです。一度は、もう新しい小説は書かないと発言したものの、相次ぐ親しい友人(武満徹、伊丹十三など)の死にむしろ「励まされ」(これは大江健三郎の重要な語彙のひとつです)たかのように、さらに20年近く、彼は偉大といってよい小説を書き続けました。驚嘆すべきことです。

私が本当の意味で大江健三郎を「読んだ」のは、2017年に出た加藤典洋の『敗者の想像力』(加藤さんはこの本が出た2年後に亡くなりました)での卓抜な『水死』論に触発され、同作からいわゆる「おかしな二人組(スゥードカップル)」三部作へ、そしてさらに『宙返り』へと、大江健三郎の「晩年の仕事(レイト・ワーク)」を読み継いだときです。昨年2022年にはすぐれた大江健三郎論として、長年にわたり大江にインタビュー取材をし続けてきた元読売新聞の尾崎真理子による『大江健三郎の「義」』、そして谷崎論や井伏論の著作もある仏文学者・野崎歓の『無垢の歌──大江健三郎と子供たちの物語』の二冊が出ました。これらを頼りに未踏の大江作品を読んでいくのは、なんとも新鮮で充実した体験でした。

思い起こせば、私が同時代の小説、とりわけ純文学を面白く読むようになったのは、1990年代半ばを過ぎてからのことでした。きっかけは同世代の魅力的な小説家の相次ぐ登場でした。ここでは阿部和重と星野智幸の名を挙げるにとどめますが、いまの私なら、この二人に大江の影響が歴然たることに即座に気がついたでしょう。無知とはなんと恐ろしいものでしょうか、そのことに無自覚なまま私は彼らに代表される新しい文学の誕生を歓迎したのです。そして、このときすでに大江健三郎はノーベル賞作家でした。

大江健三郎は私にとってながらく巨大な盲点であり、もしかしたら心理的タブーでした。私個人だけでなく、もしかしたらある世代全体にとって、そうだったかもしれません。

大江健三郎は旺盛な創作活動の傍らで、愚直なまでに戦後民主主義の達成を擁護する立場から政治的発言をしてきました。そうした愚直な政治性からは距離を置いた、いわゆるポストモダンの小説家や思想家――ここではやはり村上春樹と柄谷行人の名を挙げるにとどめますが――もまた、それぞれの長い迂回を経て、反戦や平和、つまり普遍的価値への「愚直」なコミットメントをするようになっていく。大江健三郎が揺らぐことなく「愚直」であり続けたのとは好対照ですが、たどり着いた場所は同じでした。

1980年代から90年代を経て、21世紀の最初の四半世紀がそろそろ終わろうとする現在まで、日本でもっとも大きな影響力をもった小説家はまちがいなく村上春樹です。まもなく発売される彼の最新長篇には、封印されている初期の中篇作品と同じ題名が与えられていることが話題になっています。村上春樹のこの「新作」を楽しみにする思いが、私のなかにないわけではありません。しかし大江健三郎の作品を少しずつ読んでいくなかで、これまでに一度も考えたことのない、こんな問いが生まれてきました。

この十数年、大江の次にノーベル文学賞を受賞する日本人作家がいるとしたら、それは村上春樹だろうと言われ続けてきました。しかし、あらためて考えてみるならば大江健三郎はノーベル賞受賞後も現役の書き手であり、村上春樹にとって、手強い同時代のライバルでもあったはずです。デビュー二作目に『1973年のピンボール』という題名を与えた村上春樹が、大江健三郎の意識的な読者でなかったはずはありません。

なにより、村上春樹自身、大江と同様に日本の近代文学的な伝統から切れたところからスタートした作家でした。違うところがあるとすれば、依拠するものがヨーロッパ文学から、アメリカ文学に切り替わっただけでしょう。そして21世紀になっても書き続けた大江の創作活動の総体こそ、村上春樹「以後」の文学への根本的な「批評」でもあったと、いま、私は考えています。

大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した際のストックホルムでの講演、「あいまいな日本の私」のなかで、当時の日本文学を「東京の消費文化の肥大と、世界的なサブカルチュアの反映としての小説」と述べ、それらとは「ことなる、真面目な文学の創造を願う」と述べています。「サブカルチュアの反映」とは、この時期にはすでに大江の論敵であった批評家の江藤淳が、村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に与えた評言でした。もちろんこの言葉は、村上春樹の小説に対してもよく当てはまる「批評」です。

「魂のことをする」という、大江健三郎の独特な言い方があります。「魂のこと」とは、普遍的であり、かつ個別的でもある価値、たとえば同じくらい愚直な「文学」のような言葉に対応するものでしょう。日本の現代文学のなかに希望の芽を探し出す「大江健三郎賞」を2014年で休止した後、こんどこそ自分にとっての「魂のこと」に残された時間を費やすことを決め、大江健三郎は私たちの前から姿を消しました。その消え方も含め、じつに見事でした。

そろそろ晩年が近づいてきた私たちも、自身の「魂のこと」に取り組まなければない時期かもしれません。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。