ウェブで純文学を発信する

2020年5月11日
posted by 村上政彦

デビュー前の僕は、前衛だった。マルセル・デュシャンとジョン・ケージが守護神で、文学のアイドルは、ヌーボーロマンの作家たちだった。自分で撮影した写真にキャプションをつけて小説と称していた。

しかし地方の若者には、孤独な作業である。理解者が欲しかった。当時、吉本隆明氏が発行していた『試行』という雑誌の愛読者だったので、吉本氏に電話をかけた。

僕は小説を書いているのですが、普通の出版社には受け入れられそうにないので、そちらに掲載していただきたいのですが……

吉本氏は、そうですか、うちは何でも大丈夫ですから、送ってください、と実に親切に対応してくれた。

僕は高揚した気分で、自分の撮影した写真を大きく引き伸ばして額に入れ、タイポグラフィーで打ったキャプションをつけた。そして、うちの近くの宅配便の取扱所まで抱えていって、送った。しかし、吉本氏からの音沙汰はなかった。

考えてみれば、大きな額に入ったキャプション入りの写真を小説として掲載するのは、いくら『試行』でも難しかったのだろう。僕が編集者であっても、いまになってみると、その気持ちは分かる。

横書き小説がめずらしかった時代

その後、文学的な事情によって、僕は前衛を卒業した。そして、彼らが廃棄した19世紀のリアリズム小説を拾ってきて、リサイクルし、カスタマイズし、自分の新しい小説を書き始めた。

ある大手出版社の新人賞をもらったのは、それから3年後だった。同時受賞者がいて、吉本氏の娘の吉本ばななさんだった。僕は不思議な縁を感じたが、『試行』に投稿したことは言いそびれてしまった。

デビューして、ある雑誌に短篇の連作をした。そのなかに、パソコン通信のスタイルを取った作品があった。まだ、インターネットの草創期で、リアルタイムで映像のやりとりをするのは難しいころだったと思う。

しかし、リアルタイムで文字のやりとりをするのも、十分に面白かった。僕は、その原稿をパソコン通信のスタイルそのままに、横書きで出稿した。担当者は面白いと言ってくれたが、編集長が渋った。

ヨコのものをタテにするのが、日本文学だろう――これはそのときの編集長の名台詞である。結局、今回限りということで、その雑誌の歴史始まって以来、横書きの小説が掲載されることになった。

当時、ほかにも何人かの作家が横書きで発表したので、新聞の文芸欄から取材を受けた。これは当時のパソコンでは縦書きができなかったことに原因があると思う。パソコン通信などのやりとりをリアルに再現しようとすると、横書きにするしかなかったのだ。

時代は進んで、多くの人がスマホを手にするようになった。10年ほど前、電車に乗って車内を見ると、一列の座席に座っている人の何人かが文庫や新聞や単行本を読んでいた。

5年ほど前から、みながスマホを見ているようになった。そのころには、すでに活字文化の終焉が語られて久しかった。しかし人々が見ているスマホの画面に映っているのは、活字ではないが、文字だった。僕は、彼らのスマホに何とか自分の小説を送り込みたいと願った。

新しい読書人階級に届けたい

20年ほど前だったろうか。電子本が登場したとき、紙本は、やがてなくなる、と予想された。しかし、その後の進展は、予想に反し、電子本と紙本が共存しているような状態になった。

漫画は別にして、文字の電子本はそれほど売れない。紙本も、文字ものは、やはりそれほど売れない。読書をする人々が相対的に減少しつつある。しかし、まったく読書をする人がいなくなかったのかと言うと、そうではない。

昔、中国には読書人階級があった。知識層のことだ。庶民は文字の読み書きができない。読書は知識人のものだった。いま日本には、新しい読書人階級が生まれつつある。彼らは、専門的な知識人というわけではない。しかし、本を求めて、読書を欲している。

今後、読書をする人々としない人々のあいだには、大きな知識の格差が生じていくことだろう。

僕は、読書をする人にはもちろん、スマホでゲームをしている人々のなかにも、できれば読者を求めたい。そのためには、まず、作品を彼らのスマホに送り込まなければならない。繰り返しになるが、そう思った。

『マガジン航』の仲俣暁生氏と出会ったのは、そんなことをぐるぐる考えているときだった。そのうち原稿を書かせてください、と言うと、仲俣氏は笑いながら、小説でもいいですよ、と言った。僕のなかで、何かが反応した。

『マガジン航』はWEBメディアである。これは、僕が、ここしばらく考えていたことを実現するチャンスではないか。そうだ。小説を書こう。WEBメディアでしか読めない小説を。

そういうことで、僕は、WEBメディアになじむ短篇小説を書き始めた。1章は短く。そして、写真を入れる。それは挿絵のようなものではいけない。作品と有機的に繋がっている必要がある。

1カ月ほどで1作の短篇小説を仕上げて、仲俣氏に送った。面白い、と言ってくれた。そして、発表するにあたって、いろいろとアイデアを出してくれた。『マガジン航』のnote分室に掲載されることになった。それが『ニキ・サントス・クルーズ』という作品だ。

ニキ・サントス・クルーズ

「マガジン航」【note分室】で公開されている短編小説『ニキ・サントス・クルーズ』

なぜアジアを主題に書くのか

僕は、紙本から電子本に乗り換える気はない。つい先日も、『台湾聖母』(コールサック社)という紙本を出したばかりだ。これは台湾の日本統治の時代に教育を受けた台湾の俳人が主人公の小説である。

20年ほど前からアメリカ発のグローバリゼーションにどう対応するかというのが、僕の文学的な問題意識の一つだった。対応の仕方は3種類ある。①グローバリゼーションに乗る(開く)=村上春樹。②グローバリゼーションとは別の極を作る(閉じる)=三島由紀夫。③自分たちの伝統的な文化を見直し、グローバリゼーションを利用しつつ、それを新しく変えて、広げていく(閉じながら開く)。そして、アメリカ発のグローバリゼーションそのものを変質させる。

日本を含むアジアには長い伝統文化の蓄積がある。まず、アジアとは何かを問うことで伝統の内実を探り、そしてグローバリゼーションの鑿で、それを新しく加工して、世界に広げていく。僕は、この第三の道を選んだ。そして、いまアジアを主題にした小説を書いている。

最初から読書をするつもりで、書店に行って紙本を買う読者ばかりでなく、ゲームのあいまにたまたま短篇小説を見つけて、読んでみたら面白かった、という読者を見つけたい。

これから電子本と紙本がどうなっていくのか、僕には予想ができない。しかし、メディアはメッセージであるという考えに従えば、電子媒体は小説そのものを変容させていくことだろう。

僕は、それを愉しみながら、電子本の世界へ乗り出していく。


【お知らせ】「マガジン航」はnote上で【note分室】の活動を開始しました。その第一弾として、村上政彦さんのフォトノベル、『ニキ・サントス・クルーズ』を公開しました。今後もさまざまな作家やクリエイターとコラボレーションしていく予定です。[編集部]

マガジン航 【note分室】はこちら

 

 

人類に必要な物語のために

2020年4月8日
posted by 藤谷 治

第22信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣様

ある程度きちんと日付を書きながらでないと、この話は複雑な印象を持たれてしまうかもしれませんから、煩わしさをこらえて読んでください。

2月29日の土曜日に、僕は青森県の八戸でトークイベントを行いました。当時――と書かなければなりません。これを書いているのは、まだ4月の2日だというのに――、まだ八戸どころか青森県全域に、新型コロナウイルスの罹患者は出ていませんでした。前日の28日だかに、クルーズ船の上客であったらしい仙台の人にウイルスの陽性反応が出たという報道があったのを覚えています。それが東北地方唯一の罹患者でした。……当時は。

もっと楽しい気分で来たかったですよ、と、開口一番、僕は八戸のイベント主催者に言いました。イベントの規模は、もともと小さいものでしたが、さらに縮小したようでした。とはいえその頃の八戸に、ウイルスへの警戒心はさほどなかったと思います。御存知の通り、八戸は夜の社交が盛んなところで、人口に比較した飲み屋の軒数が非常に多いと聞きました。実際、屋台村に軒を連ねた小さな店は、土曜日ということもあってどこも満員でした。

夜に打ち上げがあるのは前もって知っていたので、その日は一泊して、日曜日の夕方まで八戸線にでも乗って遊ぼうか、などと考えていたのですが、翌3月1日の早朝に、妻からのメールがあり、入院したと知りました。もちろん僕は予定を切り上げて帰京しました。

腸炎でした。かかりつけの医者から貰った抗生物質が合わなかったようです。中核病院で妻は、一週間以上入院しなければなりませんでした。

この入院はなかなか厄介でした。妻は身分不相応な個室を与えられましたが、見舞いは一切禁じられていたのです。個室も面会謝絶も、妻の病状とは無関係の「コロナ対策」でした。3月1日は日曜日で病院は外来を休んでいたし、夫である僕が「出張中」だったという事情も病院は知っていたので、最初の日だけは病室に入れたのですが、どうやらこれは病院側の「人道的判断」にすぎなかったようです。

緊急入院でしたから、妻は何も持っておらず、入り用なものがあれこれあります。着替えや薬を僕が持って行くわけですが、持って行っても病人の顔も見られず、ナースステーションで看護師に荷物を渡して、意に添わぬとんぼ返りをしなければなりませんでした。まったく些細なことですが、いい気分のものではなかったです。

10日の火曜日に退院しました。この日は劇作家の別役実氏がお亡くなりになったという報道のあった日です。別役実は僕の青春時代に多大な影響を与えた作家ですが、その話をすると焦点がブレますから割愛します。妻の様子は退院後も決して良くありませんでした。それだけでも困るのに、今度は僕が13日の金曜日に激痛に襲われました。恐らく結石だろうと思われました。5年前にやはり石ができて、ひどい目にあっているのです。その時に石を取り出して貰った総合病院に駆け込んだところ、案の定結石でした。痛み止めを貰い、これはさいわい、23日の月曜未明に尿と一緒に出てくれました。

僕のはただ震えるほど痛いというだけで大したことはなかったのですが、妻の方はそういうわけにはいきませんでした。かかりつけの病院から紹介状を貰って、名医がいるという総合病院へ電車を乗り継いで行きました。

待合室には、果てしなく老人たちが座っていました。体育館でもこんな広いところはめったにないと思われるスペースに、身体の悪い人たちがびっしりと、背中を丸めて自分に渡された番号が掲示板に出るのを待っています。待たされること5時間、金を払うまで半時間、薬が出るまで半時間。医者がいい人だったのと、コロナを警戒してなのか電車が比較的すいていたのと、道端でばったり東直子さんにお会いできたことだけが救いでした。

「これが『普通の病院』のありようなら、最近よく聞く『医療崩壊』になったら、どうなってしまうんだろうね」

果てしない待ち時間のあいだ、できるだけほかの患者と距離を置きながら、僕は妻にそんなことを呟きました。

……仲俣さん、これが僕の「私的な声」です。私的な声こそを読みたい、とお手紙にあったので、一筆書きに書いてみました。

小説は私的な声から始まります。始まるはずです。さきのお手紙の中に、「ポストモダニズムが理想とした小説のあり方」を、「それ自体が批評で(も)あるような小説」と要約されているのを見て、僕は自分が、二十年のあいだポストモダン小説や批評に没頭したあげく、そこから決別しなければ自分の小説は書けないと思い定めた、あの苦しい(とても苦しかったです)方向転換の年月を思い出したのです。僕はずっと、自分の感じているもやもやしたものを、うまく言葉にすることができませんでした。

日本のポストモダン文学者たちの多くは、60年代の学生運動を何らかの形で経験した世代でした。80年代に現れた彼らの「実作」は一見すると斬新で、欧米の文学事情や思想事情に詳しく、しかし古風なインテリ然とはしていない、軽やかなステップを踏むがごとき文学でした。

けれどもその内実は、成し遂げられなかった革命への郷愁と「制度」への怨恨、そして現代社会への失望と軽蔑に満ちていたのです。彼らはそれをそのままに表現してしまえば、彼らよりひと世代上の「左翼文学」と大差ないものになるだろう、そしてそれはバブル時代の世情にそぐわないだろうと判断したのでしょう。結果として日本のポストモダン文学は、「革命(青春や怨恨がここに含まれます)」や「高度資本主義(軽やかさやサブカルチャー)」に裏打ちされた、「歴史の終わり」にふさわしい文学として、インテリ層に受け入れられました。

まさしくそれは「それ自体が批評で(も)あるような小説」だったのです。そしてそれは、文学に向かっていく動機としてはありうるかもしれないが、小説を成り立たせる根本には、本来的に目的がずれている、と当時の僕は、もやもやと感じたのではないでしょうか。小説が「それ自体が批評で(も)ある」ことを目指して書かれるなどということは、本当はありえない。小説の制作技術によってそのような小説は出来上がるかもしれないが、小説としてその動機は嘘なんだ、と、僕は苦しく思い至ったのだと思います。

「それ自体が批評で(も)あるような小説」には、もうひとつ別な理論的(?)援護がありました。物語批判です。蓮實重彦氏の『物語批判序説』や『夏目漱石論』『大江健三郎論』といった一連の批評は、単純な物語批判ではありませんでしたが、しかしその後の『小説から遠く離れて』などを見ると、やはりそこには単純な物語批判も含まれてはいたのだ、と思います。単純な物語批判とは、要するに物語の因数分解でした。小説から「双子」「依頼」「宝探し」といった因数を探し出して、そこからあれこれの小説が持つ構造の類似性を論じていくのです。因数分解をして、どうなるか。どうにもなりはしないのです。そのようにして蓮實氏は、小説がまとっている「深さ」という偶像を破壊して、軽やかな振る舞いの方へ小説を解放したのでしょう。物語批判をはらんだ批評的態度は、その後の批評家たちの中にも、小説への皮肉や反措定のような形で散見されたものです。

しかし僕は、人が物語を批判するのはいいことだけれど、物語とはそのようなものではない、と、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んで気付いたのです。密林の開拓や子どもの予言、男たちを惑わす少女や栗の木に縛られた老人といった物語は、因数ではなく、陶酔の源泉なのです。

そしてそれは、「私的な声」と矛盾するどころか、「私的な声」そのものなのです。久米正雄は私小説至上主義の宣言として「『戦争と平和』も『罪と罰』も『ボヴァリイ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎない」と書いたそうです。一方でフローベールには、ボヴァリイ夫人は私だ、と言っている。どちらも正しいのです。新聞の三面記事から発想して数年がかりで書き上げた、フローベールの実人生とは縁もゆかりもない物語『ボヴァリイ夫人』は、その全編がフローベールの「私的な声」です。それを私小説至上主義者も、ポストモダニストたちも、物語批判論者も、直視はしなかった。僕はそう考えています。

物語が「私的な声」によって書かれるとき、初めてそこに小説はあらわれるのです。小説の可能性を考究し尽した偉大な小説家、ウラジミール・ナボコフ、スタニスワフ・レム、大江健三郎といった小説家たちは、そのような小説をばかり書いたのです。ナボコフは幼女への性愛衝動を持っていたわけではありませんし、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性」について「批評で(も)あるような小説」を企図しただけでもありません。ナボコフは、「幼女に性愛衝動を覚える成人男性、という物語」に魅了され、惑溺し、誰よりも陶酔したのです。『ロリータ』の「批評で(も)あるような」側面については、ナボコフ自身があれこれ語っていますが、そんな側面はあのグロテスクで滑稽で悲劇的で哀切な小説の、ごくごく一部分にすぎないことは、あの小説を読めば明らかです。

これだけ書いて、ようやく仲俣さんの「『新しい批評家』の多くが、『小説』を批評のツールとして再発見して」いることをどう考えるか、という問いかけに、お答えすることができます(すでにここまで書いたことで答えているのかもしれません)。僕は「新しい批評家」たちが(示し合わせたわけでもないでしょうに)次々と小説を発表していることは知っていますが、その殆どを読んでいません。だから擁護するつもりもありませんが、優れた作品もきっとあるでしょう。ただ、「『批評のツール』として書かれた小説」には、批評家が書いたかどうかとは無関係に、限界があると思います。

小説には「私的な声」と同時に「物語」がやはり必要だ、と僕は考えます。「私的な声」も「物語」も、単純な定義しやすいものではないし、またこの二つをひとつの小説に結びつけるには、魅了、惑溺、陶酔がなければなりません。そしてどうやら、魅了されたり陶酔したりというのは、いつでも、誰にでもできるというわけではないようです。書いているあいだ陶酔や惑溺を維持し続けるのは、さらに容易ならざる芸当なのでしょう。

そもそも小説は「ツール」ではありません。「新しい批評家」たちが小説を「ツール」に使っているつもりかどうかは知りませんが、道具扱いされた小説は、僕も読んだことがあります。そういう小説の中にも、『エミール』や『君たちはどう生きるか』のように「成功」しているものもありますが、そのような作品さえ、果たして人があれを「小説」として読んでいるのか判りません(どちらの作品も岩波文庫では「青」ですし)。批評家や歴史家、政治評論家や脳科学者が、明らかに「ツール」として利用している小説を、小説扱いする必要は、作者にも読者にもないのでしょう。

「木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる」……厳しい言葉です。どんぐりの数だけ樫の木が育つわけではありませんから。

しかしすべての世の習いと同じく、文学の栄枯盛衰もどこで何があるか判りません。奢れるものは久しからず、とも限らないので、こんにち残る古典的傑作の大半が、発表当時のベストセラーだったりします。

だからといってベストセラーがみな残るわけでは勿論なく、むしろ「当時はあんなに評判だったのに」というものが、みるみるうちに消えていくのは、僕たちも目にしています。

だから世評に一喜一憂するのは、小説にとっては意味のないことです(身過ぎ世過ぎをしている人間としては、そう達観もできませんけれど)。自作に限らず、他人の愚作が売れたり、底の浅いものが絶賛されたりしても、世情の移り変わりの激しいこんにち、半年もすれば(あんなに評判だったのに……)となってしまうのは、幾度となく経験してきたことじゃありませんか。

今、世界を閉ざしているコロナ禍についても、近いうちにきっと「小説」が出てくることでしょう(それはきっと「純文学」でしょう)。その中には評判をとる作品もあるかもしれません。三島由紀夫が『金閣寺』を書き始めたのは、金閣寺放火事件の6年後だった、などというのは、ある種の人たちにとっては、のんきな大昔のことなのでしょう。それで一向に構いません。どんな人にもその人の考えがありますから(それと身過ぎ世過ぎ)。

僕にはそんな芸当はできません。ましてや小説がそのような芸当にふさわしいツールとも思いません。小説はもっと自由で複雑なものです。そしてどんなときにも必要とされるものでなければならないと思っています。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第20信第21信第23信につづく)

コロナ禍のなかで読み、書くということ

2020年4月4日
posted by 仲俣暁生

第21信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

1月の初めに前回のメールをいただいてから、またしてもズルズルとお返事を引き伸ばしているうちに、新型コロナウイルスの騒動が中国の武漢でもちあがり、やがて韓国の大邱に、そして日本でもクルーズ船を舞台に感染が拡大しました。

それでも当初はどこか対岸の火事に思えていたものが、ヨーロッパに飛び火し、まさしく燎原の火のごとくEU諸国とアメリカに広がるのを目にしたことで、ようやく日本でもウイルス禍が身に迫る危機として感じられるようになりました。

ほんのひと月、いや、わずか数週間で世の中の見え方がガラッと変わってしまう。戦争が始まるときというのは、もしかしたらこんな感じなのではないかと思うほど、いままでにない危機感を感じつつこのメールを書いています。

東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故のときには、それでもまだ、信頼できる人と直接顔を合わせて話をすることで、落ち着きを取り戻すことができました。藤谷さんともあの当時、とくに用事もないのに、なんどかお会いしたことを思い出します。

でも今回のウイルス禍は、人が人と会うことを遮断してしまう。親しい人ほど、会うことができないし、会わないほうがよい。そんな逆説のなかで、僕らはこれから長い時間を過ごさなければなりません。そんなとき、ものを読むこと、書くことはどんな意味をもつのでしょうか。

前回のメールに対して返事が遅れた理由は、現在における「批評のありか」という、あまりにも重たい問いをいただいたからでした。しかもその直後に、僕らとそれほど年の違わない評論家の坪内祐三さんが亡くなられ、自分でも意外なほど、静かな衝撃を受けました。

坪内さんはたしか自身では「批評家」とは名乗っておられなかったですが、まぎれもなく同時代のすぐれた批評家の一人であったと思います。しかも彼は、藤谷さんや僕がこの往復書簡でずっと問題にしている、1980年代以後のポストモダニズム的な思潮に対する一貫した批判者でもありました(他方で彼は、山口昌男という「ポストモダニズム思想家」の門下生でもありましたが)。

昨年から今年にかけて、橋本治さんや加藤典洋さんといった団塊世代の重要な書き手が相次いで亡くなり、さらに彼らよりずっと年若い世代の坪内祐三さんも亡くなったとき、僕が最初に感じたのは、ちょうど元号が変わったばかりであったことから、ひとつ前の「平成」という元号下の時代と重なる、ここ30年ほどの思考や行動について、根本から考え直すことでした。

ところが今回の新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大は、そんな気分さえ吹き飛ばしてしまった。いま考え直さなくてはならないのは、平成の30年間という短いスケールのことだけではないのではないか。ちょうど百年前の時代に起きた第一次世界大戦とスペイン風邪が「19世紀」という時代を完全に終わらせたように、いま僕らは「20世紀」という時代の終焉を目の当たりにしているのではないか。そんな思いが、ますます筆を鈍らせたのです。

いま「批評」はどこにあるのか、「批評家」はどこにいるのか。その問いに対して、ずいぶん前のメールでも書いたとおり、自分自身を「批評家」だと思ったことが一度もない自分は、どう答えたらよいのか。それも返事が遅れた理由の一つです。

自分の「職業」は、第一にそこそこ経験のある編集者であり、第二に、さして影響力のないジャーナリスト(「評論家」を僕はそのように定義しています)である。僕はそう自認しています。

評論家と批評家の違いはどこにあるのか。それがたんに好みや語感の違いにとどまらないとすれば、こんなことだと思うのです。藤谷さんが名を挙げた錚々たる日本の文芸批評家たちは、なによりもまず、彼ら自身が「文学者」でした。つまり「文学」という世界のメンバーシップの内側にいた。したがって彼らが書いた批評もまた「文学作品」でした。

僕はそんな彼らの作品に力づけられ、ときに反発しつつ育ちましたが、その「内部」に加わりたいとは一度も思ったことがありません(例えるならば、すべての野球ファンが、必ずしも野球の選手をめざすわけではないように)。

ところで「批評(家)」という言葉は――とくに日本の文学の文脈では――大きくわけて二つの意味にとられています。一つは、そのテキストがそのまま「文学作品」でもあるようなクリティカルな行為と、その行為者として。もう一つは、藤谷さんがいくつか例を挙げられた「批評理論(セオリー)」に裏付けられたテキストと、その理論家として。

そして日本の(ヨーロッパからは大幅に遅れて到来した)ポストモダニズム思想とは、前者のような批評(家)を、後者に依拠した批評(家)たちが駆逐しようとして、なかばその企図が実現された一連の長い過程だった。この30年ほどを振り返り、僕はそう思うのです。

ところが不思議なことに、他方でいまの優れた(後者の意味での)「批評家」たちは、同時に「小説の実作家」でもあろうとしています。具体的に名を挙げれば、蓮實重彦、四方田犬彦、東浩紀といった人たちです。このほかにも小谷野敦、陣野俊史、佐々木敦といった僕らと世代の近い比較的に親しい人たちも、「小説家」としての仕事を始めています。

藤谷さんが、「物足りない」と感じる批評家の名前が、このなかに含まれているかどうかはわかりません。ただ、これらの「小説を書く」批評家たち自身が、「批評では語り得ないこと」にきわめて自覚的であることはたしかでしょう。

彼らは別に、小説のほうが批評よりも読まれる(あるいは「売れる」)から、小説を書いているのではない。そうではなく、批評という形式で行うよりも、小説という形式によって行うほうが、いっそう批評的であるということに、まぎれもなく自身の「批評」のなかで気づいたからではないか。僕はそう思うのです。

いま思えば、「それ自体が批評で(も)あるような小説」こそがポストモダニズムが理想とした小説のあり方でした。小説家はひたすら小説を書き、批評家(ときには「評論家」も)がそれに批評というかたちで応える――そんな古典的な弁証法が単純には信じられなくなったとき、批評家は実作に手を染め、小説家は「批評(家)の不在」に苛立つということなのかもしれません。

でも、今回のメールで僕が藤谷さんに伝えたかったのは、そうした業界見取り図の話ではありません。何よりも、僕はいま、こんな状況のなかで藤谷さんに「私的」に声をかけたかったのです。

僕は「マガジン航」の編集発行人として、先月はエディターズノートの更新を行いませんでした。エディターズノートというのは、いわば一種の公的ステートメントです。でも僕はいま、ジャーナリストとして公的に何かものを言うことに、まったく意味を見いだせなくなってしまいました。

いま起きている百年に一度ともいうべき巨大な出来事のなかでは、ささやかなメディアの責任者(発行人)としても、出版や編集という職業にかんする専門家としても、胸を張って主張できることがなにもない。であれば、沈黙も一つの言明であろうと考え、エディターズノートの月次更新をやめたのです。

でもこの往復書簡は「公開」ではあるものの、あくまでも藤谷さんへの「私信」です(だから基本的に「僕」という主語をつかっています)。そしてあらためて思うのは、かつてのすぐれた文学者のテキストは、むしろ私的な言明であったことで、その声を太く、響かせていたのではないかということです。そんな私的な声こそがいま僕が読みたい言葉であり、できうることならば誰かに対して発したい声であり、書きたいことなのだ、と気づいたのです。

マルクス主義という、当時は圧倒的な正統性と影響力をもっていた公的な「イズム」に対し、私的な「態度(声)」に依ったことが、小林秀雄を日本的な「批評」の神様としました。日本に特有の「文学者としての批評家」とは、公的な言葉に対して私的な言葉が唯一、勝利をおさめることのできるフィールドとしての「文学」という神話をながらく信じさせてくれた人たちでした。

そんな「小林秀雄的批評」(日本的な意味での批評)を乗り越えようと、ある世代までの頭のいい日本のマルクス主義者(ここでは柄谷行人や浅田彰を念頭に置いています)は、ポストモダニズムの諸理論に依拠して「批評」を更新しようとした。その結果、皮肉なことに日本の「批評」の起源が見失われたのだと思います。

しかも、いわば一連のポストモダニズム思想の主唱者であった「新しい批評家」の多くが、いま「小説」を批評のツールとして再発見しています。いただいた重たい問いに真正面から答えるのではなく、藤谷さんに問いで返すのはズルいやりかたかもしれませんが、こうした状況に対して「小説家」はどう考えますか。

これは藤谷さんがお書きになった古典の問題とも関わるように思います。ちょうどいま、僕は『源氏物語』の新しいバージョン(角田光代による現代語訳と、アーサー・ウェイリーによる古い英語訳のさらなる日本語訳)とを読み始めようとしています。僕にとって『源氏物語』とは、原典だけでなく、翻訳や批評やマンガなどの二次創作を含めた、膨大な副産物すべてが織りなすテクスチャ―のことであり、正直、自分はまだその波打ち際の一部しか経験していないと思っています。だからこそ、そこへの入り口はいくらあってもいい。

源氏物語に対してこの数百年、いや千年以上の間に積み重ねされてきた批評や二次創作の蓄積の厚みを考えると、「文学者でもあるような批評家」も「小説を書く批評家」も、「なんらかの理論(セオリー)に立脚しなければ批評が行えない批評家」も、どうでもよいように思えてきます。

現代の小説の愚直な読者でありつづけたい僕にとっても、必要なのはなにより実作です。「それ自体が文学作品となった批評」は、すでに実作といっていい。そして十年、百年、千年と残るのはふとぶととした樹木のような実作であり、批評とはその周囲に事後的に繁り、そして樹木よりも早く枯れてしまう草むらにすぎません。

たしかに誰も聞く者のいないところでは音楽は響かないし、観る者がいなければ演劇は成立しません。でも文芸作品に限れば、たとえ同時代に適切な批評を得られなくとも、作品は自立して存在しうる。木陰にいっときは繁り、やがて枯れていく草むらに先行して、樹木はひとり屹立しうる――そんな信頼のなかからしか、長い命を保つ実作は生まれないのではないか。小説家に僕が期待するのは、そんな孤独に耐える自信です。

それともこれは、あまりにも酷く高いハードルを実作者に課するものなのでしょうか。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第20信第22信につづく)

続・人文書の灯を絶やさないために

2020年3月11日
posted by 西川秀和

人文書の灯を絶やさないために」という記事で私は人文書の刊行が存続できなくなるのではないかという危機感を述べた。そうした状況の中で少しでも人文書の刊行を存続できるように、前回の記事ではPOD出版、すなわちプリント・オン・デマンドという受注生産方式を紹介した。今回はそれよりも一歩進んだ方式を紹介したい。人文書を刊行する機会を求めている人に推奨する方式である。

POD出版と先行予約販売の組み合わせ

POD出版には著者の経済的負担を軽くするという大きなメリットがある。しかし、その一方、出版社を通さないので編集や校正などのクオリティーが担保されにくいといったデメリットがある。さらに本を製作するうえで自由度が低く制約が多い。基本的に安価なペーパーバックを流通させるという方式である。またPODという印刷方式は一昔前より格段に安くなったとはいえ、オフセット印刷のような大量に刷る方式と比べると高い。

そうしたデメリットを解消しようと、私はBOOTHというサイトを使った先行予約販売を試みた。BOOTHとはさまざまな創作物の販売を仲介するサイトである。私は『ロビン・フッド原典集成』という書籍の先行予約をTwitterで募った。

Twitter広告に使用した画像

Twitterを通した書籍広告で重要なのは画像を準備することである。いったいどのような本なのか一目でわかるようにしなければならない。こうした書籍広告を採用した結果、インプレッション(ツイートを見た人の数)は約50万、販売サイト(BOOTHの特設ページ)を訪れたユーザーは約4,000人を数えた。

募集を開始してから約3週間で500部以上の先行予約を集めることができた。500部をまとめて刷ると1部当たりのコストが抑えられるうえに凝った装幀を採用することも可能である。POD出版より利益率も高い。個人出版で問題になるのが決済や配送だが、それはBOOTHの代行サービスを使うことで解決される。

配送は少数であれば自宅から発送できる。匿名配送という仕組みが利用できるので、作者も購入者も互いに住所をやり取りする必要はない。部数があまりに多い場合は倉庫に委託して配送というサービスも使える。今回は実験的な試みだったので50部程度しか先行予約が集まらないだろうと予測していた。しかし、驚くことに500冊分も予約が集まったせいですべてを自宅で梱包して総計220kgを営業所まで延々と運ぶはめになった。

500部を自宅から発送

また紙書籍の特典としてPDFデータもダウンロードできるようにした。書籍のレイアウトそのままのPDFデータに加えて、スマホで閲覧しやすいレイアウトのPDFデータも提供した。読者から非常に好評であった。

先行予約で500冊を販売した後、POD出版で一般販売を開始する。POD出版のメリットは1冊ずつ注文に応じて販売する方式なのでいつでも購入可能な点にある。先行予約で購入できなかった人にも行き渡るし、細く長く販売を続けられる。このようにPOD出版とBOOTHを使った先行予約販売を組み合わせれば、それぞれのメリットを最大限に活かせるとともにデメリットを相殺できる。

なぜこのような方式を提言するのか

出版業界の現況では、たとえどのように優れた内容の人文書であっても出版できるとは限らない。売れ行きが見込めなければ、そもそも刊行を引き受けてくれる出版が見つからず、公的資金が得られない場合、著者が費用負担を強いられることもある。そうなると、これから自分の成果を発表しようとする研究者の機会が奪われかねない。

誰にでも出版の機会を保障することが人文学の発展や民主主義の成熟に必要なことだと私は考えている。だからこそこのような新しいモデルを提唱している。そしてただ提唱するだけではなく自ら実践している。今後も最適な方法論を模索していきたい。

「真の名」をめぐる闘争

2020年2月18日
posted by 仲俣暁生

最初から言い訳がましい話になるが、このエディターズノートは毎月、月初に書くことにしている。しかし今月はずるずると月中を過ぎても書けず、いっそのこともうやめようかとさえ思いつめた。その理由をまず最初に述べる。

崩壊後の風景

月初に書くという趣向は、もともと小田光雄さんの「出版状況クロニクル」に合わせたいという気持ちがあったからだ。日本の近代出版流通システムが崩壊していくさまを、長年にわたって出版統計等の数字で跡づけ続けている小田さんのブログを読んでいる出版業界人は多く、私もその一人なのだが、そのタイミングで毎月、出版時評をやるつもりでいた。

しかし、日本の近代出版流通システムはもう事実上、崩壊している。その影響は様々なところにあらわれているが、昨年12月の「アイヒマンであってはならない」で紹介した永江朗さんの書いた『私は本屋が好きでした』が指摘する、いわゆる「ヘイト本」(ただしこれには留保が必要で、正確には「嫌韓・反中本」と言うべきだろう)が書店の店頭で目立つ問題もその一つだ。

この記事にはSNSなどでかなりの反響があり、「アイヒマン」という強い言い方への疑義や反発も大きかった。ちなみに私はこの言い方を、たんなるレッテル貼りだとは考えておらず、思考停止状態を指すすぐれた比喩だと思ったので、この記事も「アイヒマンであってはならない」というタイトルにした。だが、それに対して議論が起きたことはよいことだったと思う。

じつは今月のエディターズノートを書くのにうんざりした理由は、ちょうど月初頃にベストセラーになっていた李栄薫(編著)『反日種族主義――日韓危機の根源』(文藝春秋)という本が、やはり日本ではこの種の「嫌韓本」として受容され、読まれているように思えたからでもあった。

この本は韓国の現在の文在寅(ムン・ジェイン)政権に対する批判を込めた政治的著作であると同時に、韓国の国民性を「反日種族主義」という独自の言葉で象徴しようとする本でもある。反体制派が自国の政権批判を行うのも、その土台にある民族文化や精神性を問題とするのもよいが、日本の読者がその尻馬にのって他国を批判する風潮に、心底うんざりしたのだった。

『それを、真の名で呼ぶならば』

そうした鬱々とした気持ちを晴らしてくれたのが、もう一つの「反体制派による自国の政権批判」の本だった。レベッカ・ソルニットの『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店刊)である。この本の書評を依頼されて読み、書評も書き上げてすっきりしたので、ようやく今月のエディターズノートにとりかかる心のゆとりができた。

レベッカ・ソルニットの名が広く日本で知られるようになったのは、東日本大震災の直前に日本でも紹介された『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)という本が、あの震災という経験を経た日本人に身に沁みて受け止められたゆえだろう。震災前に朝日新聞で柄谷行人が書いたこの本の書評も大いに影響力があったようだ。

ソルニットの著作はその後もいくつも翻訳されたが、最近では「マンスプレイニング」という言葉が広く知られる契機となった『説教したがる男たち』(左右社)が記憶に新しい。私自身はこれらの著作に加えて、『ウォークス――歩くことの精神史』(左右社)という長編文芸エッセイに心をうたれた。

彼女ははっきりと政治姿勢を打ち出すアクティヴィスト(反核運動、反グローバル化運動等にコミットし、今回のアメリカ大統領選挙ではエリザベス・ウォーレン支持を明確にしている)だが、写真というメディアの成り立ち(エドワード・マイブリッジについての著作もある)から、サンフランシスコやニューオリンズといったアメリカ諸都市の歴史や風土まで、テーマとなる対象を深く調査し理解する優れたリサーチャーであり、それゆえに一級のジャーナリストでありエッセイストでもある。そして、いかなる組織にも属しないフリーランスの書き手である。

そんなソルニットは『それを、真の名で呼ぶならば』で、2016年のアメリカ大統領選挙の結果として成立した、現在のドナルド・トランプ政権を激しく批判する。そのときに彼女が用いるツールは、正しくものごとの名を指し示すことと、それを力強い言葉で語る「ストーリーテリング」である。

この本の詳しい内容については、あとで紹介するとおり3月6日に訳者の渡辺由佳里さんと行うトークイベントで詳しく触れたいが、なぜ、この本が私の鬱々とした気持ちを晴らしてくれたのか、その理由についてだけはここで述べておきたい。

二つのストーリーテリング

ものごとの「真の名前」を呼ぶことには特別な力がある、という考え方は東アジアの古代社会(諱=忌み名というものが存在した)から、シオドーラ・クローバーが『イシ――北米最後の野生インディアン』で明らかにしたネイティヴ・アメリカンの精神世界まで(さらにはそこからインスパイアされた、クローバーの娘アーシュラ・ル=グウィンが書いた『ゲド戦記』のようなファンタジーの世界にも)広がる、人類の一つの智慧である。

しかし現在はその反対に「ポスト真実」「オルタナティヴ・ファクト」といった、ニセの真実がメディアやネット上でさかんに流布する時代でもある。もちろんソルニットは、名付けやストーリーテリングが「両刃の刀」であることをよく承知している。だからこそ、物事を適切に名付けることも、間違った名付けを引き剥がして真の名に辿り着くことも、いずれもが政治的な闘争であるということを、ソルニットはこの本でじつに力強く、過去の様々な実例を挙げつつ語っていく。

この本を読むと、韓国における反体制派政治結社(李承晩学堂)が自国のナショナリズムに対して与えた「種族主義」という言葉は、果たして「真の名」に値するものかどうか、という冷静な思考が生まれる。私は朝鮮文化史の専門家ではないから学術的な判断はできない。できるとしたら、そこで語られるストーリーに対する評価である。そして、自国民を「嘘をつく国民」とする彼らの自家撞着するストーリーテリングは、私にはなんらの説得力をもたなかった。

レベッカ・ソルニットはアメリカの現在の共和党トランプ政権(あるいは過去の様々な政権)に対する痛烈な批判者である/あったと同時に、アメリカ合衆国の民主主義の伝統のなかに、未来につながる希望の系譜を見出すストーリーを紡ぎ続けてきた人でもある。公民権運動から核実験反対運動や反グローバル化運動を経て、昨今の地球環境保護運動や#metooムーヴメントまで、その系譜は絶えることがないというのが彼女の基本的なスタンスだ(それを「政治的」というなら、そのとおりだろう)。

自国の辿ってきた歴史がもつ正負の両面を真正面から受け止めつつも、その担い手となるべき普通の人々を貶めることはせず、たとえ「暗い時代」(アーレント)のなかにあっても希望の糸を手放さない。そんな態度に、私はソルニットの書く文章の力の源泉を見出した気がした。そして彼女の本を読むことで、「種族主義」という(日本人が漢字から受ける印象としては)実にオドロオドロシイ言葉によって惑わされていた気分を、やっと晴らすことができたのだった。

人とその言葉への信頼

「アイヒマン」も「種族主義」も、ある人にとっては「真の名」であり、別の人にとっては真実から目を背けさせる「偽の名」に思えるに違いない。しかし、そこでは名前と名前との相対的な闘争が起きているにすぎないなどと、高見の見物を決め込むことは誰にもできない。完全に自由な脱政治的・超政治的な立場などは存在しないからだ。そしてソルニットはそうした冷笑主義をこそ激しく批判するのである(同書「無邪気な冷笑家たち」)。

日本の出版界に話を戻すと、いま売れている本の多くもまた、一種の「名付け」(批判的な立場からは「レッテル貼り」)や、「ストーリーテリング」の力に依拠しているように私には思える。日本という国家の歴史記述に修正を加えることを企図したベストセラー本でも、まさに「ストーリーテリング」のあり方が問題となった。

権力を握った側が編むメインストリームの物語(そもそも日本書紀や古事記はそうしたものだ)に対して、まつろわぬ者たちが語る「対抗的な物語」があるのは当然のことだが、いわゆる昨今の「嫌韓・反中本」は、少なくとも日本においては「対抗的であることを装ったメインストリーム」の言説であるからこそ、批判されなければならないと私は考えている。

最後に、レベッカ・ソルニットの『それを、真の名で呼ぶならば』から私が感銘を受けた一節を引用する。事実と感情を対比させたこの言葉にも、危うさはある。だが、それを越えてもなお残る、人とその言葉への信頼を私も共有したい。

言葉は、文字通りではない多くの働きをする。たとえばあの寒さについての短いやりとりが二人の見知らぬ他人の間に温かみを作ったように。日常的に会う人たちとの場合には、こういった小さなやりとりが、近所や、新聞売り場や、病院や、自動車修理店での、楽しく、ときには命綱となるような人間関係を作る。草原の土は、生きた草と死んだ草の両方のみごとな糸状の根っこが、地表のはるか下にまで達し、広く分布した「根茎」によって、その場につなぎとめられている。人間も交流によって、ある種の根茎が生まれ、事実というより感情から生まれた、近所やコミュニティや社会やとわたしたちが呼ぶ複合体に、人をつなぎとめているのだ。(「聖歌隊に説教をする」)


【お知らせ】

3月6日に開催を予定していた下記のトークイベントは中止となりました。新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、米国務省が日本への渡航警戒レベルを2に引き上げました。渡辺由佳里さんの来日中、レベルがさらに上がる可能性があるため、来日そのものが中止となりました。ご了承ください。

渡辺由佳里×仲俣暁生「レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』をどう読むか――デジタル時代の新しい“書き手”の可能性」

日時:2020年3月6日(金)19時から21時ごろ(18時30分受付開始)
会場:シアター・ウィング/WIAS/GLODEA 東京都新宿区若葉1-22-16 四ッ谷ASTY B1F(Googleマップ
参加費:一般 3000円/HON.jp正会員・法人会員 無料