人文書の灯を絶やさないために

2019年5月20日
posted by 西川秀和

このままでは人文書の刊行が存続できなくなる。私はそんな危機感をずっと抱いている。なぜか。人文書の刊行は、あまりに大きな経済的負担を著者に強いるからだ。人文書の灯を絶やさないためにどうすればよいのか考えてみた。

人文書出版の厳しい現状

経済的負担がほとんどなくてすむ幸運な著者もいる。著者が有名であったり、需要が見込める分野であったり、条件はいろいろある。しかし、著者が無名であったり、需要がそもそも少ない分野であったりすれば、出版機会に恵まれないという問題がある。

私はアメリカ史の通史シリーズをいくつかの出版社に持ち込んだことがある。提示された出版条件はさまざまだった。中には「500部を著者が買い取る」という条件を提示する出版社もあった。仮に著者割引で買い取るにしても100万円以上を支払うことになる。幸いにも「初版印税なし」という条件で刊行してくれる出版社を見つけることができた。無名の著者が需要の少ない分野で人文書や学術書を刊行したい場合、一般的にはありえない条件でも「幸いにも」と言わなければならない。

他にもこんな話がある。ある研究者が大手出版社から新書を出したいと思った。しかし、つてがない。そこで大手出版社の編集者に顔が利くという人に仲介料を支払った。仲介料は印税の半分と聞いた。「初版印税なし」と比べれば破格の条件かもしれないが、それでも一般的にありえる条件なのだろうか。

私は著者負担なしで刊行できている。まことに幸いなことなのだろう。しかし、もし著者負担が求められていれば、人文書を刊行すれば刊行するほど、赤字になっていたはずだ。ビジネスという観点から見れば、最初から破綻したモデルである。もちろん人文書の刊行は単なるビジネスではない。文化を創る営みだ。しかし、刊行を続けるためには著者の経済的負担をなるべく減らさなければならない。さもなければ人文書の灯はやがて絶えるだろう。ではどうすれば灯を絶やさずにおけるのか。新しいモデルを模索するべき時が来ているのではないか。

持続可能なモデルの採用

私は実験的試みとしてPOD出版を活用して何冊か翻訳書を出版している。PODとはプリント・オン・デマンドの略である。わかりやすく言えば受注生産である。どのような流れで本が読者に届くのか。私が翻訳した本の中から『ジェロニモ自伝』を例にして簡単に説明する。今回、私が利用しているのはNextPublishing Pressというサービスだが、サービス提供者によって若干の違いがあることはお断りしておく。

『ジェロニモ自伝』の表紙デザイン。

『ジェロニモ自伝』の原著は著作権が失効している書籍である。したがって、版権を取得する必要がなく、経済的負担も発生しない。Wordで訳文を作って最後にPDFに変換する。そして、PDFをPOD出版を仲介する企業のサイトにアップロードする。刊行に関して著者がすることはそれだけである。あとはPOD出版を仲介する企業とその提携先であるAmazonが受注、製本、配送、そして、売上金の回収までやってくれる。

初期費用はほぼゼロである。しかも在庫は発生しない。したがって「500部を著者が買い取る」といった条件が課されることもない。POD出版は薄利多売には向かないが、人文書のようにもともと発行部数が少なく価格が高い書籍に向いている。

売上はどの程度なのか。POD 出版は受注生産なので実売部数である。実売部数のデータは著者がすべて把握できる。『ジェロニモ自伝』の売上は以下の通りである。

『ジェロニモ自伝』(POD)193 冊(2018年8月~2019年4月)
『ジェロニモ自伝』(Kindle)96 冊(2018年8月~2019年4月)
※旧版と改訂新版の合計

また他の例として『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』のデータも挙げておく。『ビリー・ ザ・キッド、真実の生涯』も『ジェロニモ自伝』と同じく、著作権が失効した原著を独自に翻訳した書籍である。

『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』(POD) 440冊(2018年5月〜2019年4月)
『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』(Kindle)250冊(2018年5月〜2019年4月)

非常に少ない数字のように思われるかもしれないが、もともと人文書の刊行は数百部単位であることが珍しくない世界だ。ただPOD出版は著者の受け取り分を高く設定できるのでそれなりの経済的対価を得られる。

筆者がPODで出版した人文書。

今後の課題

POD出版も万能ではない。著者が執筆から編集まですべてこなすのでいろいろと問題はある。主な問題点はクオリティーである。出版社を通して書籍を刊行する場合、編集者の手が入る。したがってクオリティーは担保される。また読者の信頼も得やすい。POD出版に欠けている点である。

宣伝や広告をどうするか。これも課題である。書籍はその存在を知ってもらえなければ購入してもらえない。POD出版は書店に並ばないので手に取って見てもらうことができない。ただ人文書の場合、ネット検索していろいろ調べて購入する人が多いので、販売サイトで詳細な内容説明さえ載せれておけば見つけてもらえると私は考えている。なお『ジェロニモ自伝』や『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』に関してはSNSによる告知を除けば宣伝や広告は皆無である。

このようにPOD出版にはデメリットもあるが、人文書の刊行において著者の経済的負担を大いに軽減できるという計り知れないメリットがある。POD出版による人文書の刊行は、知と創造の新しい生産・流通のありかたであり、人文書の灯を守る持続可能なモデルだと私は信じている。

執筆者紹介

西川秀和
大阪大学外国語学部非常勤講師。専門領域はアメリカ大統領。アメリカ史に関する書籍(『アメリカ人の物語シリーズ』『アメリカ歴代大統領大全シリーズ』)を商業出版するかたわら、POD出版を活用して独自に歴史関係の書籍を翻訳出版。
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