第38信(仲俣暁生から藤谷治へ)
藤谷治様
5月の連休中に思い立ってTwitterをやめました。Facebookはずいぶん前にやめていて、いまはそれらに費やしていた時間を、書き下ろしの本の執筆と読書に宛てています。先日、小冊子をお渡しするため下北沢でお会いしたときに話したとおり、いま書いているのは、平成年間の現代文学史を自分なりの視点で語る試みです。
この本は十年前に声をかけてくれた編集者からいただいた企画です。しかしこの間、私はほとんど一文字も書けずにいたのでした。同時代の文学史を一人の書き手が独力で語るには蛮勇が必要です。その勇気をなかなか出せずにいたのですが、SNSをやめると手持ち無沙汰の時間が山ほどあり、その間に集中して仕事をすると、思いがけず順調に筆が運びました。この調子でなんとか年内に第一稿を書き上げたいと思っています。
この往復書簡を五年前に始めたとき、文芸と出版の世界が土台から大きく変わろうとしているのではないか、という話から書き起こしました。それから現在までの間には長期間にわたる世界規模のパンデミックがあり、いま私たちは世界戦争の鳥羽口に立っています。土台から大きく変わろうとしているのは文芸と出版どころではない。「世界」そのものが揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。
そんななかで、昨年から専任教員として教えている大学の学生たちと一緒に、五月の終わりに「文学フリマ東京36」に売り手として参加しました。2020年に出した文芸時評集に収めた文章よりあとに書いた、いまも継続中の時評の文章をまとめた小冊子を試みにつくってみたのです。
2019年にインディペンデント文芸誌「ウィッチンケア」の編集発行人・多田洋一さん、同誌の常連寄稿者でもある編集者・ライターの木村重樹さんとの共同ブースで文学フリマに出展し、持参したコピー本もそこそこ売れて手応えを感じていたのですが、今回はコピー本ではなく印刷会社に簡易印刷を頼みました。それには理由があります。
私がゼミで受けもっている学生二人が、初めて見に行った前回の文学フリマに大いに刺激を受け、自分たちもあのようなものを出してみたいと言い出したのが話の発端でした。私は大学で学生に「編集」という仕事について教えており、学生は卒業までに課題としてそれなりの分量の編集物を制作しなければなりません。
しかし学内で制作される編集物は「出版」されることなく、成績評価されて終わりです。せっかく編集の実務を覚えたのに、自分たちが書いたもの、デザインしたものを「出版」しないのはもったいない。自分が表現=制作したものが他人の目にふれて評価されること、その評価を自身で引き受けることが教育効果として大きいのはもちろんですが、それ以上に、本や雑誌はただつくるだけより、原価計算から販売までを自分の責任で行うほうが、はるかに楽しいはずだと思ったからです。
とはいえ私自身は、今回の文学フリマにそんなに手間暇をかけるつもりはありませんでした。自宅に両面印刷ができるコピー機があるので、20〜30部程度のコピー本を制作し、お茶を濁そうと思っていたのです。しかし学生たちが自腹で出版物を制作し、その仕上がりがそこそこ見事なのを横目でみているうちに、考えが変わりました。これは自分も本気を出さなくてはいけない。そう思ったのです。
今回は「ウィッチンケア」が用意してくれたブースの隣に、もう一つブースを確保し、そこを学生のための場所にしました。学生側のブースで自主制作物を販売したのは、卒業生や他コースの学生も含めると5人。かなりボリュームのある文芸誌から、薄い小冊子(いわゆる「ジン」)、そのほか雑貨や写真などいろいろなものが並んでいました。正午から午後5時までの五時間の間に、学生のブースはお客さんが絶えることなく続き、私たち(いちおう「プロ」であるはずの)より遥かに大きな売上だったようです。
先日、下北沢でお会いしたときにも話したとおり、私のつくった小冊子も(自分の手間賃を考えなければ)印刷費と用紙代を取り返せる程度の売上はありました。隣の学生たちの熱気が伝わったおかげかもしれませんが、なんとか面目を保つことができました。
* * *
ひと昔前、大状況と小状況という言い方がありましたが、大状況として世界を眺めると、なにひとつよいことが起きていないように思えます。しかし今回の文学フリマに集まった1万1000人を超える(史上最大規模だったそうです)作り手と読者の双方から感じた熱気は、少なくとも「文芸と出版」の世界に対して私が感じてきた否定的な印象を、かなりの部分で払拭してくれるものでした。
なにより、初めて自分の「言葉」を世に問うた学生の勇気ある行動に、私自身が大きな刺激を受けたのです。彼女たちが文学フリマで売り出した制作物は、狭義の「文学」を扱ったものではありません。でも藤谷さんの「〈文学〉とは読者を特定しないすべての言葉のことである」という定義に従うなら、彼女たちがあの場で世に問うたのは、まぎれもなく〈文学〉です。私はあらためて、そのような〈文学〉を構成する一員になりたいと思ったのでした。
今回の小冊子の売れ残り(なにしろ100部もつくってしまいました)は、神保町のすずらん通りにある「PASSAGE」という古書店に持っている私の棚「破船房」で売ることにしました。「破船房」の名は、以前にやっていた「海難記」というブログのタイトルを受け継いだものです。荒海のなかを漂う破れ船は激動の二十一世紀初頭を生きる私自身の似姿ですが、そう簡単に沈むわけには行かないぞ、という決意の現れでもあるつもりです。
年に二回の大きな即売会としての文学フリマと、小さな販売拠点としてのPASSAGEを得たいま、私は小さな出版活動を始めようと、本気で考えるに至りました。まだ本にまとめていない雑誌やネット上での連載記事がたくさんあります。自分で書いたものを自分で編集し、レイアウトとデザインをした上で印刷業者に手渡すまでの作業は、私にはなんの気苦労もなくできます。どんな商品でもそうですが、最後の難関は流通と販売です。しかし百部単位の出版物ならば、文学フリマとPASSAGEだけでも、時間をかければ売り捌ける気がしてきたのです(甘い見通しかもしれませんが)。
そこで藤谷さんに提案です。この往復書簡を本にしませんか。私が編集し、本に仕立てます。どんな本にするかは、これから一緒に考えましょう。
本にするならば、どこかで終わりにしなければなりません。そしてこの往復書簡を終了させるタイミングとして、いまがちょうどよいように思うのです。2018年から現在までの五年は文学(あるいは「小説」と呼ぶべきでしょうか)、出版、編集のどの領域も揺れ動いた、まさに激動の月日でした。この間に藤谷さんとやりとりしたメールをあらためて読み返すと、そのときどきの切迫した話題を通して、やはり一つの筋道があったように思えます。
それは、言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではないということです。私の好きな書き手の一人、レベッカ・ソルニットが『暗闇のなかの希望』で書いているとおり、未来が見通せないということは、逆説的な意味で「希望」でもある。ただしその「希望」は、闘志を失わずに動き続けることによって、はじめて仄かに見えてくるものでもある。
以前の手紙で、読むこと、書くこと、編むことのトライアングルをまわすということを書きました。藤谷さんとのこの往復書簡を書籍化するアクションを、ささやかなその契機にできたらと、いまの私は考えています。五年もの間、途中で大きな中断を幾度も挟みながらも、私との手紙のやりとりにお付き合いくださった藤谷さんが、ぜひこの提案を受けてくださることを祈っています。
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執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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