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小説の”古層”へ

第35信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

10月半ばの僕のフェイスブックの記事に、仲俣さんが恐らくは何の気なしに「時代小説なんてどうですか」と書いた、その一言に自分でも驚くほど触発されて、今の僕は平将門についてあれこれ調べています。

フェイスブックでやり取りしていた時点では、僕は『将門記』を流し読みしていただけでした。ウィキペディアの将門の記事を理解するのにもひと苦労だったくらいです。今でも当時の位階や行政制度はなかなか頭に入りません。それでもなぜか熱は冷めず、先日は「将門まつり」にかこつけて、茨城県の坂東市を歩きましたし(26000歩という自己ベストを記録しました)、北関東の地図を見たり、ネット上に少なくないらしい「将門ファン」のサイトを覗いたりして、今は再び『将門記』を細かく読み返しています。幸田露伴の『平将門』は読みましたが、仲俣さんに勧められた澤田瞳子『落花』(中公文庫)は買っただけで積んであります。

完全に無知であることをいちから知るのは楽しく、調べること自体に惑溺してしまいそうですが、やはり「これを小説にするには」ということが念頭を離れることはありません。御存知の通り将門というのは比較的信用できる史実一に対して伝説が百くらいの人です。そのせいか将門を描いた「時代小説」の多くは、それら伝説を剝ぎ取り、いわば「生身の将門」を目指したものが多いようです。史実があいまいで想像の余地が大きいから、リアルに書くのもきっと楽しいことと思います。

しかし千年の時の流れるうちに猛烈に膨れ上がった伝説を、ごっそり捨ててしまうのはいかにも惜しいと思えてなりません。史実を追うのに忙しい段階ですから、伝説を調べるのはまだまだ先になりそうですが、それでも目に入ってくる「将門伝説」を瞥見すると、開いた口がふさがらぬ思いがします。怨霊伝説ばかりではありません。出生伝説、影武者伝説、為政者として、また武者としての伝説、そして死後の遺児伝説に至るまで、将門のことならどんな荒唐無稽も許されるという暗黙の了解でもあったのかと思うほどです。同じように広く語り継がれている「義経伝説」さえ、将門のそれに比べればずっとリアルでしょう。

仲俣さんは前の手紙で、僕が「とりつかれて」いる「『物語』の問題」について書いてくれました。「近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその『様式を借りて』書いてこられたのでは」ないか、というのは、面映ゆくも嬉しいご指摘でした。

明治以後の日本の近代文学が、物語をすっかり投棄してしまったわけではありません。圓朝もいたし仮名垣魯文も人気があった。しかし彼らの「物語」を重んじる態度は、「小説」を西洋列強に比肩する国家樹立に資する「文学」にしなければならないと勇む、帝大出身の学士たちによって蔑せられました。

この時に物語に代わって称揚されたのが、まさしく「自然主義やロマン主義やモダニズム」であったわけです。そして「ポストモダニズム」はというと、これはもう僕たちのカッコイイ合言葉だったわけで、意味はよく判りませんでしたが(今でも判りませんが)、資本主義社会の最先端を行くジャパニーズ・カルチャーにふさわしい逃走と脱構築の思潮、みたいな感じでした。

しかもそこでは、どうやら「物語」が「批判」されていたようでした。物語とは、語る者と語られる者が同質であることを確認しあうための装置として機能するがゆえに、果てしなく制度化されていく……。そんな風に、僕は理解していました。いや、むしろ理解しないままそんな風に受け止めてしまった、と言ったほうがいいでしょう。物語は自由の対義語に等しく、自覚しない凡庸さと紋切型に自足した言葉を再生産するだけだ。物語から解放された表現こそ「ポストモダニズム」の課題だ……。二十歳からほとんど二十年、僕はそう信じて疑いませんでした。

そういう、厳密な定義などはよく判らないままに流布された、あの頃の「ポストモダニズム」というのは――ここまで書いてきて気がついたことなんですが――、西洋文化を規範とし、既存の文化を野蛮と退けた明治の「維新」の思潮と、さして違いはなかったのかもしれません。結局それは、文学を含む人文全般が、国威発揚の一翼を担った・担おうとした、政治運動だったのです。つまりポストモダニズムとは、党派だったのです。ポストモダニズムという言葉など聞いたこともないまま80年代を生きた人たちは、言うまでもなく、圧倒的多数でした。僕はそのことにずっと気がつかなかった。

物語に対する僕のこだわり(よくも、悪くも)は、そんな「ポストモダニズム」に熱狂した自分への反省、あるいは反動から始まりました。斬新で難解で、世界文学の最先端を行くと評判だった『百年の孤独』を(ノストラダムスの)1999年に読み、それが難解でないばかりか斬新ですらないことを発見しました。それは、「むかし話」の濃密な集積によって、ひとつの村の未開から繁栄、そして衰亡までをわずか百年の時間に凝縮させた、巨大で堂々とした「物語」そのものであったのです。あの小説=物語は、今でも僕の中で衝撃波を震わせています。

その後、カルヴィーノの『イタリア民話集』やアストゥリアスの『グアテマラ伝説集』を読み、今は『今昔物語集』や義経伝説、将門伝説に目を向けています。小説や現代文学に対しても、僕はそのような目を向けているのかもしれません。それは決して、公平な視線ではないでしょう。現代文学には現代文学の役割が、それ以前の文学とは違う、なんらかの役割があるのでしょうから。

つい数日前、僕は授業で三遊亭圓朝を取り上げました。そしてついでに二葉亭四迷のよく知られた「余が言文一致の由来」も読みました。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

で、仰せの儘にやつて見た。(「余が言文一致の由来」)

学生たちの前で『牡丹灯籠』を読みながら、僕はつくづく思いましたよ。二葉亭四迷がどれだけ苦労して言文一致体をこしらえたか、その努力と成果には敬意を惜しまない。しかし二葉亭と逍遥が「人情」を小説表現の上位に置き、勧善懲悪を排斥するために「物語」を軽視し、しかし文体の模索は圓朝を参考にしたとき、彼らは圓朝の皮だけ取って身を捨ててしまったのだと。(後年の逍遥は『小説神髄』をはじめとする初期作品を「旧悪全書」と呼んでみずから否定し、馬琴をはじめとする江戸時代の読本への愛着を隠しもしませんでした)

それは社会状況の大変化に伴う、新しい文学と文体のために必要な改革宣言だったのかもしれません。また逍遥や二葉亭が始めたと言っていい「文学」とは別に、物語文学は現代にいたるまで書き継がれています。文学から物語が消滅したことはありません。

けれども逍遥が、小説の「主脳」は「人情」であり、「真を穿つ」ものであり、「ローマンス」を「奇異譚」として退けて以来(明治19年のことです)、物語は現代においてもなお、古層を保っています。それは物語がそれだけ、不気味なほど強靭である証左でもあるでしょうが、また同時に物語が、無批判に反復されているからでもあります。

物語が新しい可能性を見せてくれるとしたら、それは個々人の手による新しい創作の中にしか現れないでしょう。カルヴィーノが、アストゥリアスが、ガルシア=マルケスが達成したような創作の中にしか。これら偉大な名前にはとうてい比すべくもありませんが、僕の小説もそのような試みの隅っこにあります。この試みが果たしてどんな可能性に至るか。それは、やり続けなければ判らないのです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第36信につづく)

執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。
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