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様式によって動き出すものがある

第34信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

暑さ寒さも彼岸までという昔からの言葉どおり、台風14号が通過した後の東京はすっかり涼しくなりました。私が仕事場にしている部屋は陽当りがよすぎて、夏の間はどんなにエアコンを強くかけても室温が30度以下にさがらず、日中はアタマをつかって考える仕事ができません。そんなぼんやりしたアタマを抱えたまま、今年の夏はコロナ禍が3年目を迎え、ウクライナでの戦争が半年も続き、そして多くの著名人が生涯を終えました。

山田風太郎の『人間臨終図鑑』を繙くまでもなく、人の亡くなり方も享年も様々ですが、死を悼む側の人の振る舞いはどんな文化でも、ある程度まで様式化されています。堪えきれない喪失感を抱く人も、実際には少しも悲しくない人も同じ様式をなぞることで、痛みを軽減したり共有したりできる――それは人類が生み出した一つの知恵かと思われます。

私自身も昨年の秋に母親を亡くし、あの震災の直前に父親を亡くしたとき以来、久しぶりに葬儀を行う立場に置かれました。さいわいコロナの波が一段落していたので、家族と親族だけの小規模な葬儀で見送れたのは幸運だったのですが、一抹の寂しさもありました。というのも、母の友人・知人は、以前には入所先のホームにたびたび見舞いに来てくれていたのですが、長引くコロナ禍のなかで体調を崩された方も多く、連絡をとること自体が困難でした。母方の親族も、健在だと思っていた伯母が一足先に鬼籍に入っていたことを知らされ、あまり縁のないイトコ同士でぎこちない近況報告をするにとどまりました。

若いころから私は冠婚葬祭がひどく苦手で、親族以外の葬式にも結婚式にもほとんど出たことがありません。それでも今回ばかりは、葬儀という形式や手順を踏むことで、自分のなかで気持ちの整理がつけられたところがありました。それこそ、昔からの「人類の知恵」に救われたのかもしれません。儀式や様式というものには、傍からは無駄や無意味に思えたとしてもそれなりの力があるということを、この歳にしてようやく思い知ったのです。

藤谷さんは一つ前の手紙で、ご自身の「内なる神」について書いてくれました。藤谷さんの小説にみられるキリスト教的なモチーフは以前からとても気になっていたので、その秘密をチラリと見せていただけたのは、読者の一人として喜ばしいことでした。とはいえ、無粋な唯物論者である私にとって、宗教とはひたすら退屈で膨大な手順をともなう様式に過ぎず、それと共存している信仰体系を「信じる」人の気持ちは、いまもって想像することができません。私自身も現世利益のための神頼みくらいはしますが、その結果がどうあれ、感謝も逆恨みもした覚えがありません。

そんな私には、信仰という側面から宗教について語れる言葉は、なに一つありません。しかし様式ということに話を戻すことができるのであれば、もう少し意味のあることが書けそうです。そう、文学表現にもさまざまな様式があるからです。

この往復書簡以外にも、藤谷さんとはSNSを介してやりとりをすることがあり、なにかの折にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読むよう強く促されました。私も「SF小説の祖」と呼ばれることもある、この作品の概要は知っていました。「フランケンシュタイン」とは、映画やその他で繰り返しビジュアル化されてきたあの「怪物」の名ではなく、その創造者となった若い科学者の名前であること、作者メアリー・シェリーは高名なロマン派の詩人パーシー・シェリーの妻であり、フェミニズム的な視点からもこの作品がたびたび議論されてきたことなどです。

この小説が書簡体というスタイルで書かれていることは、廣野由美子さんの『批評理論入門――『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)を以前に読んだときに教えられたのですが、まさにこの「書簡体で書かれている」という予備知識こそが、私をこの小説から遠ざけていた最大の要因でした。物語の本丸に入るまでが迂遠で退屈に思えたのです。

今回、私が読んだのは芹澤恵さんの優れた訳による現行の新潮文庫版ですが、ご存知のとおり、その冒頭はこう書かれています。

手紙 一

イングランド在住 サヴィル夫人机下

一九**年十二月十一日
サンクトペテルブルグにて

ご安心ください。いやな予感がする、とずいぶんご心配いただいたぼくの計画ですが、今のところ、なんら災難に見舞われることなく運んでいます。昨日、当地に到着したところです。最愛の姉上のお心を安んじることこそ、第一の任務。まずは、ぼくが元気なこと、今回の計画はきっと成功するだろうとの自信をますます強めていることをお知らせします。

当地はロンドンよりはるか北に位置します。街の通りを歩いていて、北からの冷たい風に頬を軽く打たれると、五感が引き締まり、嬉しさが湧きあがってきます。この感じ、わかっていただけるでしょうか? この風は、これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれているのです。
(以下略)

怪物のビジュアルやあらすじだけで、この『フランケンシュタイン』という物語を記憶している読者にとっては、サンクトペテルブルグからイングランド在住の「サヴィル夫人」宛に認められたこの書簡は、やや意外な導入かもしれません。しかし「この風」つまり導入の文章は、まさしく「これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれている」のですね。

フランケンシュタイン博士と彼が創造した怪物との死闘は、まさにこの「北の大地」で行われます。その目撃者であり報告者である「ぼく」の手になるこの文章は、書簡体小説という文学の様式に則っており、そしてもちろん「書簡」が求める当時の様式にも則りつつ、この小説の核心から吹き付ける「風」をも表現しています。この小説をすでに最後まで読み終えている現在の私にとって、この書き出しはとても優れたものに思えます。しかし未読の段階の私には、退屈でうんざりするような様式の始まりに思えたのです。

様式といえば、この往復書簡もそうですね。もう何年も、公開のかたちでやりとりさせていただいているこの連載は、ともに小説や文学、創作や出版にかかわる藤谷さんと私が、誰に気を遣うこともなく自由に近況報告をしあう場であって、それ自体は「書簡体による文学表現」ではありません(少なくとも、私はそう考えていつも書いています)。それでも往復書簡という形式あるいは様式をとることで、すでに一定のルールができてはいます。

たとえば、基本的に交互に書くこと、相手の投げかけた疑問や話題に応えること。一回あたりの長さもそれなりに定まってきました。なにより、ここでお互いがもちいている言葉遣いそのものが、私も藤谷さんが実際に人に会って話すときや、SNSでのやりとりとはずいぶん違うはずです。もちろん、そうした制約のある形式、様式だからこそふだんは話せない、書けないことがやりとりできるかもしれない、と思って提案したのです。

その後、私はジョージ・オーウェルの『動物農場』も、川端康雄さんの(これまた秀逸な)訳文による岩波文庫版で読みました。この作品が(スペイン市民戦争に義勇兵として従軍したオーウェルにとってはその段階ですでに明らかであり、第二次世界大戦末期にはさらに歴然としていた)ソ連の全体主義体制を根本から批判した物語であること、オーウェルの代表作とされることの多い『一九八四年』(こちらは既読でした)と基本的なモチーフを共有すること等を、私は知識として知ってはいました。

しかしこの小説は、たんなる政治的寓話ではなく、岩波文庫版では正しく副題に「おとぎばなし」が追加されているとおり、原題にもA Fairy Storyという語が添えられています。そして私は『フランケンシュタイン』を敬遠したのと同じ理由、つまり「おとぎばなし」であることを苦手として、『動物農場』を長く読まずにきたのです。

この物語との出会いを促してくれたのは、私が読んだ版の訳者でもあるイギリス文学研究者、川端康雄さんの『オーウェルのマザー・グース 歌の力、語りの力』(岩波現代文庫)という本です。ここで川端さんは「政治小説」とみなされてきたオーウェルの諸作品のなかから、マザー・グースに代表されるイギリス民衆の「唄」や生活誌を拾い上げています。政治的なメッセージを「おとぎばなし」という様式で伝えることにまどろっこしさを感じていた私は、この本でようやくこの作品の、そしてオーウェルという「小説家」の面白さに目覚めたのでした。

もっとも、一般の読者にとっては事情は逆かもしれません。事実、ジョージ・オーウェルで最も読まれている作品がなにかと言えば、間違いなくこの『動物農場』でしょう。オーソドックスな近代小説の様式ではないこの「おとぎばなし」と『一九八四年』、そして記録文学的なノンフィクション作品ばかりが長く読みつがれ、オーウェルの真面目な小説が当時もいまもさして読者を得ていないのには、なにか理由があるはずです。

メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』の元になる話を、スイスにある詩人のバイロン卿の邸宅に夫のパーシー・シェリーとともに寄寓した際、長雨に降り込められた退屈しのぎ怪談ごっこのなかで思いついた、というのはよく知られたエピソードです。メアリーはのちに職業作家になりますが、出版されたのはこの作品が最初で、書簡体小説という形式も彼女のオリジナルではなく、「実話の伝聞」という怪談の定型的な様式に、書簡体という別の様式を重ねたものでしょう。

こうしてみると、このところ藤谷さんがずっと「物語」の問題にとりつかれている理由が、私にも少しだけ理解できるような気がします。以前に藤谷さんに、小説を書く上でジャンルというものをどのくらい意識するか、とお訊ねしたことがあります。そのときは現代の小説(産業)におけるジャンルというニュアンスでしたが、もう少し文学史的に言い換えるなら、近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその「様式を借りて」書いてこられたのではありませんか。

内容ではなく、様式こそが大事だといいたいわけではないのです。しかし、たとえそこに込められたメッセージは空虚だったり、ありきたりだったりしても、様式に則ることで、何かが動き出すということがあるのではないでしょうか。フランケンシュタインが作った「怪物」とは、メアリー・シェリーが生み出した「物語」のことでした。そしてこの「怪物」は、いまも私たちを魅了しつづけているのですから。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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