風刺とジャーナリズム

2015年1月14日
posted by 小林恭子

フランスの週刊紙シャルリ・エブド(Charlie Hebdo)のパリ本社で、1月7日午前中に発生した銃殺事件は欧州を中心に、世界中に大きな衝撃を与えている。同紙はあらゆる対象を風刺するメディアで、2011年にはイスラム教の預言者ムハンマドを風刺画の題材として取り上げ、火炎瓶を投げ込まれる事態を経験している。

今回は覆面姿の数人が編集会議中の部屋に押し入り、「アッラー・アクバル(イスラム教の)神は偉大なり」と叫びながら編集者や作家らを無差別に銃殺したと言われ、イスラム教批判の言論を封じたと解釈された。

ペンは暴力よりも強し、として発刊継続を伝える「シャルリ・エブド」紙の公式サイト。

権力者を徹底的に叩き、笑いのめす風刺画の存在

「表現・言論の自由を暴力で奪った」となると、西欧の感覚では社会全体への暴力攻撃、基盤を支える重要な価値観の否定と見なされる。2011年、ノルウェーで反移民・極右的傾向のある青年が77人を殺害する連続テロ事件を起こし、このときも欧州や全世界に大きな衝撃が走ったけれども、今回の攻撃は、西欧の歴史、文化、社会の成り立ちとは切っても切れない中核の部分にどかんと来たように受け止められている。

「表現・言論の自由の確保は大事だが、『絶対的な』表現の自由というのもいかがなのものか」――などと、通常であればそれこそ言論の自由の下に言えるはずだが、テレビで事件のニュースや人々の声を聞いたり見たりしていると、とてもそんなことは言えない雰囲気が充満している。

7日夜から世界の各都市で発生した追悼・抗議デモに「私はシャルリ・エブドを支持する(Je Suis Charlie)」と書かれたプラカードを持って多くの人が集まったが、そういうことをせざるを得ないほど、動揺やショックが広がっている。

ツイッター上では、銃殺事件発生後、犠牲者への追悼と抗議の意味を込めて #JeSuisCharlie のハッシュタグをつけたメッセージが飛び交った。7日だけでも100万回ツイートされたという(ウェブサイト「ウォールブログ」)。

8日付のドイツの複数の新聞は1面にシャルリ・エブド紙の風刺画を再掲載し、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙も中面にシャルリ・エブド紙の風刺画を再掲載した。

イギリスのインディペンデント紙の同日の1面には、通常のような記事ではなく、同紙の漫画家が描いた風刺画が掲載された。銃殺によって言論が封殺されたことへの抗議の意を表明していた。

またガーディアン紙は、政治漫画が通常出る面に言論封殺への怒りを表す風刺画を出した。

風刺表現の源は?

印刷物に好きなことが書ける・描けるようになったのは、イギリスでは17世紀以降だ。それまでは事前検閲制があって、ときには発禁処分となり、ときには印刷屋が牢屋に入れられるという苦難の道があった。だからこそ、表現の自由は尊い。苦労をして勝ち取ったものだからだ。

欧州の風刺画の歴史のこれまでを、歴史家サイモン・シャーマの記事「Liberty and laughter will live on」(フィナンシャル・タイムズ 1月8日付)を参考にまとめてみる。

シャーマによれば風刺画の発生は宗教改革に端を発する。あらためて述べるまでもなく、「宗教改革」(15-17世紀)とはルターの贖宥状批判がきっかけとなり、教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会から「抗議派」(プロテスタント)が分離した動きである。プロテスタントからすれば印刷技術とはカトリックが教会のイメージ作りに利用する道具だった。そこで、ローマ教皇を怪物のように、国王を殺戮の実行者として描きだした。

イラスト付きの新聞を発明したのはオランダと言われている。16世紀半ば、住民の大部分がプロテスタントであったオランダ(当時のネーデルランド連邦共和国北部)は、カトリックを押し付ける宗主国スペインからの独立を求める戦争(「八十年戦争」)を起こす。スペイン王家に対する自国の反乱の歴史の説明に、プロテスタント打倒の戦いを指揮したアルバ公爵を戯画化して描いた。最初の近代的な風刺画家はロメイン・デ・ホーゲ(Romeyn de Hooghe)であった。ホーゲはオランダ総督ウィレム3世の指揮の下、オランダ侵略をもくろんだカトリック国フランスを打倒する戦争(「オランダ侵略戦争」1672-78年)に参加し、風刺画を描いた。オランダにとって自由対宗教的な暴政との戦いであった。

宗教戦争を経た後の18世紀は欧州の風刺画文化の黄金時代とよく言われている。

政治家から教会関係者、王室、銀行など、ありとあらゆるものが風刺画の対象となった。イギリスには「コーヒーハウス」と呼ばれる場所があった。イギリスと言えば紅茶のイメージがあるが、当時はコーヒーが大人気だった。コーヒーを飲み、タバコをふかしながら議論に興じた。新聞に相当する印刷物、富裕層が購読料を払った手書きのニュースレターが置かれ、一種の図書館でもあった。さまざまな階級の人々がここで新聞を読んだり、友達に会ったり、ビジネスの相談をした。風刺画はお店のウインドーにも飾られ、道行く人を楽しませた。

風刺は伝統であり文化の一部

イギリスの風刺画文化はアメリカや欧州他国にも広がっていった。

18世紀当時の風刺画を見ると、日本人の私からすれば、「ここまでこんな風に描いていいの?」と驚くものもたくさんある。例えば放蕩者として有名だったジョージ4世。醜く太った身体でだらしなく椅子に座っている様子をギルレイが描いた。権力者を笑いのめし、不恰好に描く数々の風刺画。権力者に対し、「えらそうにしているけど、どうなの?」と突っ込みを入れる国民の視線が見てとれる。裸の一部を露出させたり、スカトロジックな表現もお手の物だった。

風刺を絵を使って表現する文化は雑誌「パンチ」(現在は廃刊)、「プライベート・アイ」につながってゆく。サッチャー政権時代のエスタブリッシュメントをデフォルメした人形を使ってテレビドラマ化した「スピッティング・イメージ」や、新聞の政治漫画もその一部だ。盛んに行われる王室風刺もかなり痛烈だ。

そしてフランスでは今回のシャルリ・エブド紙、カナール・アンシェネ(Le Canard enchaîné)紙などがある。

権力者を「これでもか!」と言うほど茶化し、批判し、笑いのめす――これが伝統であり、文化の一部である。どこまで茶化すのかはその国の文化や慣習に沿って、その媒体の編集者、風刺画家自身が決める。どこまで許容されるかの線引きは難しい。他国あるいは他の文化からすれば、「これはちょっと」というものが出てくる場合もあるだろう。

「批判するな、笑いのめすな」と言われると、編集者や風刺画側は徹底して抗戦する。権力者だったら風刺画で批判されることを避けることはできない。なまじ文句も付けられない。「笑うためのものなのに。洒落が分からない」と言われるか、「表現の自由への侵害だ」と大騒ぎされる可能性もある。

戦いながら勝ち取ってきた「自由」だから貴重だし、脅かされる気配があれば、徹底して戦うしかない。

シャルリ・エブド紙にはどんな風刺画が出たのか

シャルリ・エブド紙の風刺画の対象にはタブーはほとんどないように見える。宗教で言えばキリスト教も、ユダヤ教もイスラム教も笑いのネタになった。大胆な風刺画を描いて対象を叩きのめし、笑ってきた。

下はシャルリ・エブド紙の事件前の最新号の表紙だ。この号では人気作家ミシェル・ウエルベックを戯画化している。ウエルベックは『服従』という題名の小説を出したばかり。2022年には、フランスにはイスラム教徒の大統領が就任しているという設定だ。ウエルベックは複数のインタビューの中で、小説のテーマは「18世紀から西欧に存在した啓蒙主義は終わった」であるという。フランスがイスラム教に「服従」する未来を題材に選んだ小説は、別の形のイスラム教批判と見えなくもない。

これまで、シャルリ・エブド紙はどのような風刺画を掲載してきたのかをネットで検索してみると、ずらりと並ぶ。

預言者ムハンマドの姿を描くことさえ、偶像崇拝を禁じるイスラム教では「冒涜的」と見なされるが、シャルリ・エブド紙は、2011年にはパロディ版シャリア(イスラム法)を巻頭特集にした。このときは本社ビルに火炎瓶を投げ込まれた。

米ワシントン・ポスト紙は1月8日付の紙面で、シャルリ・エブド紙がパロディ版シャリアを特集した号の表紙を再掲載した。ムハンマドが「笑い死にしないと、100回むちで打つぞ」と言っている漫画である。

シャルリ・エブド紙は、2012年9月、車椅子に座っているイスラム教徒の男性とその後ろにいるユダヤ教の男性を描いた風刺画を表紙に掲載したこともある。「触ってはいけないもの 2」と見出しをつけた。車椅子のアイデアは2011年に公開されたフランス映画「アンタッチャブル(「触ってはいけない」)からヒントを得たようだ。映画のポスターの中で、事故で身体が不自由になった、金持ちの男性が座る車椅子を貧しい黒人男性が押していた。

さらに、その号の中面には裸のムハンマドが陰部をこちらに向けた風刺画が掲載されていた。米「ニューヨーカー誌の報道によれば、発売の1週間前にパリの警察が編集長に電話し、内容の再考を求めたそうだが、シャルリ・エブド側はこれを拒否。発売日の水曜日から2日後、フランス政府は約20のイスラム教国にある大使館や学校などを閉鎖した。

当時、シャルリ・エブド紙は政治家や他のメディアから批判を浴びたようで、フランスの当時の外相がイスラム教徒が住む国からの強い反応が予期され、「火に油を注ぐ行為に本当に意味があるのか」とラジオで発言したという。

デンマーク風刺画事件

世界はグローバルになり、誰もがつながるようになってきた。ある国のある文化の洒落が、ほかの国や文化でも洒落として通じるとは限らず、知らずのうちに誰かを侮辱してしまうことがある。侮辱し、問題を気づかせ、笑わせる――そんなことが目的なのに、「こんな風刺画はダメだ」と大きな抗議運動が起きることがある。風刺画を作った側の命が危なくなることがある。

そんな事態が発生したのが2006年のデンマーク風刺画事件だった。

「欧州ではイスラム教をネタにしたジョークやこの宗教の批判がしにくい雰囲気がある」――そう思ったのが、デンマークの新聞ユランズ・ポステンの文化部長(当時)だった。そこで、何故そうなのかという議論を巻き起こすため、風刺画家たちにイスラムをテーマにした風刺画を描いてもらった。

複数の風刺画を新聞に掲載したのは2005年だった。ムハンマドを描いた風刺画がいくつかあり、デンマークのあるイマムがいたく心を傷つけられた思いがした。「侮辱された」。風刺画の一つはムハンマドの頭部にダイナマイトがついていた。まるでムハンマド=テロリストとでも言っているかのようだった。

イマムはエジプトのイスラム教徒の指導者たちに「相談」した。それからあれよあれよと事態が大きくなり、世界中にいるイスラム教徒の大反感をかってしまったのである。文化部長や風刺画家たちは身を隠さざるを得なくなった――。

風刺画の画像はネットサイトやツイッターを通じてグローバル社会のさまざまなところに流れていった。

このとき、率先してユランズ・ポステン紙に掲載された風刺画を再掲載したフランスのメディアの一つが、シャルリ・エブド紙だった。

フランスとイギリスの微妙な温度差

筆者はイギリスに12年ほど住んでいるが、風刺画問題と表現・言論の自由について、イギリスとフランスとの間には微妙な温度差があるように感じている。

イギリスでは、9日になって「表現の自由にも一定の歯止めが必要だ」と言う声が目に付くようになった。民放チャンネル4のニュース番組で、小説家のウィル・セルフが「絶対的な表現の自由はない」と述べていた

2006年、シャルリ・エブド紙はデンマークの風刺画を再掲載したが、イギリスの新聞はどこも印刷しなかった。「腰抜けだ」と、当時イギリスの全国紙で政治漫画を描いていた知人が言ったことを覚えている。「編集長同士が連絡を取り合い、出さないように決めていた」。

腰抜けかもしれないが、さまざまな文化を持つ人とともに生きるための策だった気もする。

ガーディアン紙は、今回、8日付の紙面とウェブサイトにシャルリ・エブド紙が掲載した風刺画数枚を掲載した。しかし、扱いは小さく、選択もおとなしいものだった。読者から「何故もっと風刺のきつい漫画を出さないのか」と繰り返し聞かれたという(アラン・ラスブリジャー編集長。8日に開催されたイベント「ガーディアン・ライブ」にて)。

編集長は「理由は私たちはシャルリ・エブドではないからだ。通常のガーディアンの編集方針に沿って、何を出すか出さないかを決めてゆく」とも語った

「ガーディアンはシャルリ・エブドの風刺を行う権利を支持する」。しかし、その手法はシャルリ・エブド紙が掲載していた風刺画を同様に出すことではなく、同紙がメディアとして生き延びるよう、資金を提供することだと考えている。発行元ガーディアン・メディア・グループは10万ポンド(約1700万円)の寄付をしたという。

今回の事件後、多くのイスラム教徒たちが「テロ行為はイスラム的ではない」、「容疑者たちにはイスラム教の名前を使って欲しくない」と声をあげている。確かにそうなのだが、イスラム教を風刺の対象として取り上げることにためらいが出るのは確実だろうと思う。

11日、表現の自由を守る意思を表明するデモに、パリでは100万人以上、フランス全体では370万人とされる市民が参加した。「私はシャルリ(Je Suis Charlie)」というメッセージを書いたプラカードや、表現の自由を象徴するペンや鉛筆を手にする人があちこちに見られた。フランスは暴力による口封じには負けないぞという思いが強く出たデモだった。

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新年に考える〜『21世紀の資本』を読んで

2015年1月4日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。今年も「マガジン航」をよろしくお願いいたします。さっそく新年最初のエディターズ・ノートをお送りします。

今年に入って私がはじめて買った本は、トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房)でした。すでにアメリカではベストセラーになっており、昨年12月に日本版が刊行されると国内でも大きな話題となりました。定価が5940円(本体5500円)もする高額な本であるにもかかわらず、アマゾンでも本日時点でランキング総合一位となるなど好調で、さっそく重版がかかったようです。

海外でベストセラーになったからといって、日本でも同じように売れるとは限らないのが出版ビジネスの難しいところですが、『21世紀の資本』の翻訳版は日本でも同様に成功しそうです。事前にさまざまな雑誌が特集を組んだり、解説記事が書かれたこともありますが、そうしたことがなされた理由の一つとして、ウェブサイトでの著者および出版社の積極的な情報開示が挙げられるのではないでしょうか。新年最初のコラムは、そのことについて書いてみたいと思います。

図表など関連データもネットで公開

『21世紀の資本』の日本語版は、「はじめに」の大半と原注がアマゾンの「なか見!検索」で読めます。またみすず書房のサイトでは詳細な目次と「はじめに」の一部が公開されており、書評掲載情報やTEDで行われた著者ピケティの講演の様子を伝える下記の映像も紹介されています(リンクはこちら)。

本書に限らず、みすず書房はウェブサイト上で自社の本をきわめて丁寧に宣伝・告知しており、人文書・専門書の出版社として理想的なかたちだとかねがね思っていました。出版社が自社の本を、他のどこよりも丁寧にウェブで紹介するのは当然のことです。

ピケティの『21世紀の資本』に関して言えば、英語版の版元であるHarvard University Pressも自前でプロモーション映像を用意し、introductionの全文を公開したりしています(これはKindleのサンプル版でも読めます)。こうしたウェブ上での本の宣伝・告知のスタイルが、他の日本の出版社でも当たり前になることを期待したいところです。

図表など関連データもネットで公開

『21世紀の資本』では、著者のピケティ自身が同書で使用した図表や統計データ、本文の一部、プレゼンテーション用のデータや販促のための素材を公式サイトで公開しています(英語版フランス語版)。そして今回の日本版でも、訳者のひとりである山形浩生氏がこれら英仏語版のサイトと相互リンクを張るかたちで、同じ体裁のサポートページを用意しています。これがじつに素晴らしい。

この本が重要なのは、帯にも刷られた「資本収益率(r)が産出と所得の成長率(g)を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出す」という結論部分だけでなく、その結論を導き出すために著者(ら)が収集・分析した長期間分にわたる統計データの積み重ねです。

ピケティは公式サイトでこれらのデータを公開することで、本書が投げかけた問題提起に対する、反論もふくめた議論を喚起しようとしているわけです。日本語版においてもこうしたネット上での情報公開までが踏襲されたことは、本書の価値をさらに高めることでしょう。

知識人の(そして出版社の)果たすべき役割

『21世紀の資本』の「はじめに」には、こんな一文があります(p3-4)。

社会科学研究は、一時的なもので不完全なものだし、それは今後も変わらない。経済学、社会学、歴史学を厳密な科学にするなどとは主張しない。でも事実やパターンを辛抱強く探し、それを説明できそうな経済、社会、政治メカニズムを落ち着いて分析すれば、民主的な論争の役には立つし、正しい質問に注目させることはできる。論争の条件を見直す役にも立つし、いくつか暗黙の想定やまちがった想定を明らかにすることもできるし、あらゆる立場を絶えず批判的な検討にかけることもできる。私の見解では、これこそが社会科学者を含む知識人の果たすべき役割だ。知識人は他の市民と同じ立場だが、でも研究に没頭する時間を他の人よりも持っているという幸運な立場に置かれた(そしてそれに対して報酬を得られる――これは顕著な特権だ)人々なのだから。

ここで言われている「知識人の果たすべき役割」を実行するためにこそ、この本は書かれたわけですから、図表や統計データのネット上での公開も、そうした「役割」から導かれた当然の義務ということなのでしょう。

長引く景気低迷と、それに輪をかけて悪化する「出版不況」の弊害として、日本ではお手軽で内容の乏しい本が量産されています。日本社会には課題が山積していますが、そうした本の多くはここでピケティが述べているような「正しい質問」や「民主的な論争」を導くどころか、偏った立場から一方的な主張を述べ、その結論を快く受け取る読者のみが快哉を叫ぶという構図を固定化させるばかりで、いっこうに開かれた議論につながりません。

すべての本(少なくとも文芸書以外)は、その結論を伝えるためだけでなく、著者の思考の過程を読者が共有し、そこからあらたに建設的な思考や議論が生まれるために刊行(パブリッシュ)されるはずです。であるならば、その本が伝えようとしているメッセージの一部や、社会において果たそうとしている機能を、本を手に取る以前の読者に出版社が的確に伝えることは、ネットワーク時代において、たんに本を「電子書籍化」すること以上に必要ではないか。そうすることが結果的に、本を(紙であれ電子であれ)売り伸ばすことにつながるのではないか。

ピケティのこの大冊が日本でも好意的に受け止められているのは、著者のみならず、訳者と出版社がその思いを共有し、実践したからではないでしょうか。ピケティは今月末に来日し、日本でも講演を行うようです。この講演の内容が公開され、そこからさらに議論が活発になされることを期待しながら、『21世紀の資本』の続きを読もうと思います。

あらたな時代の本のスタイルを求めて

2014年12月31日
posted by 仲俣暁生

今年最後の「マガジン航」の記事をお送りします。最近読んだ、二つの本の話題です。ひとつはボイジャーから紙の本と電子書籍として同時に刊行されたクレイグ・モド氏の『ぼくらの時代の本』、もうひとつは新潮社から刊行された山本貴光氏の『文体の科学』。どちらからも、きわめて新鮮な刺激を受けました。大げさではなく、この二冊には「本の未来」を考えるためのたくさんの鍵が隠されている――そう思える理由を、今年を締めくくるにあたり、つらつらと書いてみることにします。

本を「デザイン」と「スタイル」から考える

この二冊にはいくつか共通点があります。ひとつは著者のバックグラウンドです。クレイグ・モド氏は紙の本の装丁、スマートフォン用アプリや電子書籍のデザインと設計に携わってきたデザイナー・開発者であり、自身でもPRE/POSTという出版レーベルを主宰するパブリッシャーでもあります。また山本貴光氏はゲーム作家としての経験をもち、書物史とゲームデザインのいずれにも深い見識をおもちです。この二冊は、いわば「文理融合」的な背景をもつ著者が、書物について「内容」からではなく、むしろスタイルやデザインといった「形式」の側面から考察するというアプローチをとっている点で、とても似ているのです。

もう一つ、どちらも歴史的な視点から、本の現在を捉えようとしている点でも共通しています。人類の歴史のなかで、きわめて長い時間をかけて徐々に形成され、定着してきた本の「デザイン」や「スタイル」(「モノ」としての装丁や装飾だけでなく「文体」も含めた広い意味での)に十分な敬意と関心を払いつつ、来るべき時代のあたらしい本(そこには当然、電子書籍をはじめとする電子メディアが含まれます)の姿やかたち、つまりデザインとスタイルを模索しているからです。

さらにいえば、どちらも短期間に一気呵成に書かれた本ではなく、ここ数年の電子書籍をめぐる喧しい議論を脇に、「本とはなんだろう」という大きな疑問に対して長い時間をかけて取り組んだ、ねばりづよい「観察と思考」の記録である、という共通点もあります。

山本氏の『文体の科学』は、新潮社の雑誌「考える人」の2011年冬号から2013年春号にかけて「文体百般〜ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」という題で連載された論考をまとめ、改題して単行本にしたものです。またモド氏の『ぼくらの時代の本』も、ここ4年の間にウェブや電子書籍として断片的に発表されてきた「“iPad時代の書籍”を考える」「『超小型』出版」といったエッセイを単行本としてまとめたものです(刊行に先立ち、本書のためのバージョンがDOTPLACEでも連載されています)。

最後に、どちらの本も本文テキストの理解を助けるため、ふんだんに図版や注釈が掲載されており、内容においても形式においても、みごとに「デザイン」されていたことにも言及しなければなりません。

多様なスタイルの共存と、それにふさわしいコンテンツ

二つの本の内容に踏み込んでみましょう。まず、モド氏の『ぼくらの時代の本』のまえがきから少し長めに引用します。

 ぼくらの時代の本とは何だろう?
 ぼくらの時代の本とは形のある本だ。しっかりとした紙にインクで印刷され、頑丈な製本にはしおりが挟み込まれていて、タイポグラフィにも神経が行き届いている。数々の荒波を乗り越えてぼくらの本棚に陣取り、認識され、手に取られ、注目されるのを待っている。
 ぼくらの時代の本とは形のない本だ。デジタル上に漂い、ぼくらのiPhoneやiPad、Kindleやその他リーダーの中に存在している。それらは画面の大小や、解像度の高低に関係なく、スクリーンを埋め尽くしている。何の警告もなく消えてしまうものもあれば、コンピュータネットワークの中で繰り返しコピーされるものもある。
 ぼくらの時代の本とはその両方を行き来する本だ。

電子書籍をめぐる議論で一時期よく見かけられた、「これがあれを終わらせる」式の運命論ではなく、本はいくつもの「スタイル」を共存させながら、それぞれにふさわしいデザインと中身によって持続していく、ということを再確認した、力強い宣言です。

二つの本に違いがあるとすれば、モド氏の「観察と思考」が本や雑誌全体のユーザー・インタフェースに重点を置いているのに対し、山本氏の本では叙述形式としての「文体」までもを「観察と思考」の対象としていることでしょう。

『文体の科学』という本が検討の対象とするのは、小説をはじめとする「文芸」における文章の個性だけでなく、より広い意味での言葉のスタイルです。それを山本氏はより一般的な「配置」という言葉で表現することを企図し、同書の27ページでは次のように宣言しています。

 ここで整理しておけば、文章における配置には次のような水準がある。

 ・文字の配置
 ・語の配置
 ・文章の配置
 ・空間の配置

 つまり、本書ではこの最後の要素を含めて文章のスタイルというものを考えてみたいのである。こうした多層的な配置を前提としたうえで、誠に僭越かつ乱暴ながら、ひとまず文体とは「配置」である、といってしまいたい。

ここだけをとりだすと、「配置」はたんに組版やエディトリアルデザインを指すように受け取れられるかもしれませんが、この本で山本氏は、「対話」「法律」「科学」「辞書」「批評」「小説」といった具合に章を立て、文章の構造や目的、機能ごとに、それぞれにおける「文章の配置=スタイル」を検討していきます。

新しい革袋には新しい酒を

本を「形式(スタイル)」と「内容(コンテンツ)」に分離した際、前者を後者から独立して扱えるものとみなすことに対する疑念(少なくとも留保)も、二つの本に共通しています。少なくとも、「同じコンテンツならば、どんなスタイルで読もうと読書体験は同じ」という単純な見方をとらず、この問題を緻密な考察の対象としているのです。

媒体の変化がもたらす読書の変質という問題に対しては、山本氏のほうがやや強い懸念をもっているのに対し、モド氏は「形を問わないコンテンツ(Formless Content)」と「明確な形を伴うコンテンツ(Definite Content)」にコンテンツを区分けした上で、前者(たとえば大半の小説)に対しては、読書の「質」の違いは乗り越え可能な技術的課題とみなしている感があります。

二つの本に共通するのは、本(あるいは「文章」)とは限りなく多様であり、当然それぞれにもっとも相応しいスタイル(「文体」という意味でもグラフィカルな「デザイン」という意味でも)がある、という事実に対する、繊細で敬虔な感覚といえばいいでしょうか。科学的であることと芸術的であること、サイエンスとアートの感覚の共存といってもいいかもしれません。その先にはじめて、「新しい革袋には新しい酒を」という言葉にふさわしい、スタイルにおいても内容においてもまったく新しい「本」が登場するのだと私は思います。

長引く出版危機を反映してか、このところ「本についての本」が数多く出版されていますが、その多くに、本への信頼や愛情から発したものにせよ、いくばくか情緒的だったり独断的だったりする傾向があることは否めません。そうしたなか、年の瀬に続けて読んだこの二冊の本は、本に対する深い理解の上に、観察にもとづく冷静で知的な思考がなされているがゆえに、未来への希望に満ちた、とても愉快な読書体験を与えてくれました。この年末年始、読む本が見当たらないという方は、ぜひこの二つの本を手にとって読み比べてみることをお薦めいたします。

では、みなさまよいお年をお迎えください。
来年も「マガジン航」をよろしくお願いいたします。

インフォメーション(The Information)

2014年12月29日
posted by ケヴィン・ケリー

今年は新著『テクニウム〜テクノロジーはどこへ向かうのか?』(原題 “What Technology Wants “)が邦訳され、来日も果たしたケヴィン・ケリー。彼が2011年に行ったジェイムズ・グリック(『インフォメーション〜情報技術の人類史』)へのインタビューの抄録が、堺屋七左衛門さんのブログ「七左衛門のメモ帳」で、クリエイティブ・コモンズ 表示-非営利-継承 4.0 国際ライセンスのもとで翻訳・公開されました。電子書籍やネット時代の出版にかんする議論が展開されており、きわめて興味深い内容ですので、同様の条件で「マガジン航」にも転載いたします(編集部)。

* * *

今月のワイアード誌で、私はジェイムズ・グリックと対談して、グリックの新刊について話を聞いた(訳注:原文発表は2011年3月)。まず、その記事の抜粋を示す。その後に、未公開対談の一部を掲載する。

情報はあらゆる所を流れている。電線や遺伝子を通じて、また、脳細胞やクオークを通じて流れている。今ではどこにでも存在するように思われているが、つい最近まで、情報とは何か、あるいは、情報がどのような役割をするか、私たちは全く知らなかった。科学作家ジェイムズ・グリックは、新刊『The Information(邦訳:インフォメーション―情報技術の人類史)』の中で、人間の生活の中で情報の役割が拡大していること、そして、新しい技術の速度や量、重要性が増加し続ける理由を実証している。


(チャールズ・バベッジとジェイムズ・グリック。生き別れの双子?)

ケリー:あなたが書いたチャールズ・バベッジの話が気に入っています。バベッジは1820年代に計算機の基本的概念を考案しましたが、当時、彼自身を含めて誰も実際には作れず、実現したのはそれから1世紀後でした。

グリック:バベッジは、時代から突き抜けた人です。当時の人々は、彼の考えを理解できませんでした。数学者ですが、プログラムできる機械を考案したのです。その他に、錠前破り、鉄道列車の運行計画、暗号解読などに熱中していました。

ケリー:ハッカーの元祖ですね!

グリック:そうです。今では多くの人が、彼と同じことに没頭しています。これらすべてに共通するものがあります。それは情報です。

ケリー:あなたの本では、情報があらゆるものの基礎だと言っています。

グリック:現代物理学では、ビットすなわち二値の選択が、究極の基本粒子だと考え始めています。ジョン・ホイーラーは、この考え方を「イット・フロム・ビット (it-from-bit)」と説明しています。その意味は、現実の世界を構成する基本要素(it)としての原子や素粒子は、物質ではなくエネルギーでもなく、情報のビット(bit)だということです。

ケリー:なんだか宗教的ですね。物質世界は実は非物質である、と。

グリック:不思議に思うでしょうが、ここは正確に理解する必要があります。情報には、その基盤となる物質があります。情報は、必ず何かに載って伝達されるのです。

ケリー:それを突き詰めると、原子を構成するすべてのビットが、宇宙という非常に大きな計算機の中を走り回っているということになります。この考え方を最初に採用したのがバベッジです。

グリック:宇宙とは何かという感覚を縮小するのでなく、計算機とは何かという感覚を拡大するという意味において、その比喩は納得できます。

ケリー:しかし、あなたが指摘するように、これが比喩ではないと考える科学者もいます。私たちの知っている宇宙はすべて情報である、と。

グリック:私は物理学者ではありませんが、この発想は、みんなが感じていることと共鳴するところがあります。情報は人間が最も関心を持っているものです。情報がこの世界で果たす役割についてよく理解すれば、私たちはうまく市民生活を送ることができるでしょう。

以下に示すのは、紙面の都合で「ワイアード」のインタビュー記事には収録されなかった部分である。一般的に興味深いものではないかもしれない。しかしこの対談では、今私が熱中している画面上の出版が話題の中心なので、ここに掲載しておく。

ケリー:あなたは、ジャーナリストの中でもちょっと変わっていますね。ニュースを報道するだけでなく、ニュースを作っています。1990年代初めに、情報について書く立場から転身して、インターネットプロバイダー会社「パイプライン」(ワイアード誌の紹介記事参照)を創設しました。少しのビットを紙の上に載せていたのが、大量のビットを電線に載せる仕事に変わりました。その経験から、何か学んだことはありますか?

グリック:1993年、私が電子メールというものを知ってから2年後に、電子メールサービスを一般の人々に有料で提供する会社を始めました。私は安価なインターネットアクセスが欲しくて、他の人たちもみんなそう思っているような気がしたからです。歴史の重要な瞬間に、この大きな変化のまっただ中にいることは、非常に刺激的でした。後悔はありませんが、いつも考えていたのは、この会社を経営する本物のビジネスマンを見つける必要があるということです。私は本を書く仕事に戻らねばなりません。お金はいくらか儲けましたが、自分で会社を始める必要はなかったと気がつきました。もう少し待っていれば良かったのです。

ケリー:近頃あなたは、過去の著書の電子書籍化やiPad(アイパッド)版の製作に手を出しているそうですね。どことなく1993年の事態の再現のようにも思われます。著作者たちは、出版社がデジタル出版の方法を理解するまで待ちきれずに、自分自身によるデジタル出版に飛び込んでいきます。この場合にも、ただ待っていれば良いと思いますか?

グリック:そうですね、これは著作者にとっては手ごわい問題です。出版社は、遅ればせながら電子書籍の可能性に目覚めて、電子書籍の権利を管理したがっています。しかし、私の意見、そして著作者団体オーサーズ・ギルドの意見としては、出版社が権利を保有するという明確な規定がなければ、権利は著作者のものです。著作者はこの権利を活用して著書を電子化する方法を見つけるべきだと考えています。

ケリー:あなたの次の著書は、紙での出版だと思いますか?

グリック:そうなるでしょう。しかし、紙だけには限りません。私は今まで以上に電子機器で読書していますが、どんな媒体であっても、本は本だと思っています。

ケリー:本を書いて生計を立てている者として、電子書籍の価格が1冊3ドルに向かって進んでいっても、自分は生き残れると思いますか?

グリック:出版社は電子書籍について神経質になっていますが、彼らはそれで多くのお金を稼いでいます。電子書籍は非常に利益が大きいのです。出版社が顧客に請求する金額が多すぎる一方で、近視眼的に著作者への支払は少なすぎるからです。市場の力が出版社に対して働くようになれば、著作者への支払を増やしつつ代価を下げられるし、優れた出版社は、それでも利益を得ることができると思います。

ケリー:あなたは、グーグルブックス計画の中止を求める、オーサーズ・ギルドによる5年前からの訴訟に深く関わっていました。

グリック:私の意見や発言は、当時も今も変わりません。すなわち、グーグルのこの行動はすばらしいと思っています。世界のために非常に有用なものを生み出そうとしています。しかし、著作者が著作権を持つ作品で利益を得るのであれば、その利益を権利者と共有するべきなのです。グーグルとの和解条項では、この問題を解決しました。しかしご承知のように、チン判事による和解案の承認は、宙に浮いたままです。判事が和解案を現状通り承認すれば、全員にとってすばらしいことです。今はオンラインで一部しか見ることのできない本が、全部見られるようになります。そして、グーグルは多くの収益を上げることができ、その利益の範囲内において、著作権者に対して妥当かつ正当な利益の分配が行われるようになるでしょう。

(日本語訳:堺屋七左衛門)


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※この記事は2014年12月27日に「七左衛門のメモ帳」に投稿された同名の記事を、クリエイティブ・コモンズ 表示-非営利-継承 4.0 国際ライセンスの下で転載したものです。

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楽天Koboライティングライフが日本で開始

2014年12月22日
posted by 鷹野 凌

12月18日午前10時、「楽天Koboライティングライフ」のベータ版がリリースされました。7月の東京国際ブックフェアでは「年内リリース」と予告されていたので、「なんとか間に合った」といったところでしょう。リリース当日、渋谷の楽天カフェで行われた記念イベントに行ってきましたが、懇親会では関係者の方々が少しほっとしたような表情だったのが印象的でした。

コンセプトは「出版に自由を」

イベントはまず楽天ブックス事業 副事業部長 田中はる奈氏が、楽天Koboライティングライフのコンセプト「出版に自由を」について説明しました。

・著者がストレスなく簡単にコンテンツを出版できること
・著者ができる限り多くの読者へアクセスできるようにすること
・著者が自分の本を効果的にプロモーションする体制を整えること

それを実現するための特徴は、以下の3つとのことでした。

・価格を無料に設定できる
・独占配信じゃなくてもOK
・配信料はかからない

いずれの特徴も、Amazonの「Kindleダイレクト・パブリッシング(以下、KDP)」を強く意識していることが伺えます。KDPは、販売価格を常時無料にできません。プライスマッチングを使った裏ワザがありますが、確実性に欠けます。

70%のロイヤリティを獲得しようと思うと、Kindleストアで独占配信する必要があります。他ストアでも販売していると35%のロイヤリティオプションしか選択できず、無料キャンペーンやレンタル対象にもできません。

また、KDPで70%のロイヤリティオプションを選択すると、別途電子書籍のファイルサイズ1MBあたり1円(日本国内の場合)の配信コストがかかります。ただし、ファイルサイズが10MB以上の場合は配信コストがかからない設定になっており、マンガや写真集などは優遇されている状態です。

楽天Koboライティングライフの料率は以下のとおりです。

・販売価格299円〜10万円は70%
・販売価格80円〜298円は45%

そんなに安くしなくても意外と売れますよという意味を込めて、299円以上と未満で大きな差を付けているそうです。これによって、楽天Koboでは299円に設定する本が多くなることでしょう(KDPで70%ロイヤリティを得るための最低価格250円に設定する人が多いのと同じ理屈)。なお、リリース後3カ月間(2015年4月1日の朝8時59分まで)は、特典ロイヤリティとして一律85%というキャンペーンをやっています。

何より、納税者番号不要なのが大きい

楽天の方はアピールしていませんでしたが、私は他の何より、楽天Koboライティングライフの利用には納税者番号が不要なところが大きなアドバンテージになると感じました(アメリカの納税者番号は Taxpayer Identification Number 略称TINだが、Rakuten Kobo Inc.はカナダなので Social Insurance Number 略称SINということになる)。

現在日本で、楽天Kobo以外の総合型電子書店において個人が直接出版できるサービスを行っているのは、Amazonの「Kindleストア」、Appleの「iBooks Store」、Googleの「Google Play ブックス」の3カ所です。「BCCKS」や「メディアチューンズ」などを経由すれば他の電子書店でも個人が出版することは可能ですが、「直接」ではありません。

日本のKindleストア、iBooks Store、Google Play ブックスで個人出版をする上では、TINを記入しないとアメリカの源泉徴収でロイヤリティから30%引かれてしまいます。そこで、租税条約に基づく優遇措置を申告するため、アメリカ合衆国内国歳入庁(Internal Revenue Service、略称IRS)に、電話かFAXでTINを申請する必要があるのです。この申請手続きが非常に面倒なため、KDPに興味はあるけど二の足を踏んでいるという方々は多かったのではないでしょうか。

楽天Koboライティングライフの場合、支払い手続きをカナダのRakuten Kobo Inc.から日本の楽天株式会社に委託する形にすることで、納税者番号を不要な形にしているようです。もっとも、当然のことながら日本の税金はかかるため、源泉徴収(課税所得330万円以下の場合1回の支払額が100万円以下の場合、源泉所得税と復興特別所得税で10.21%)された額が振り込まれ、確定申告をする必要があります。

もちろん個人が直接出版できるサービスは他にもいろいろありますが、楽天の2014年9月末時点で9556万人という膨大なユーザー母数や楽天スーパーポイント経済圏は、著者にとっても大きな魅力です。楽天Koboの売上も、2012年に比べると7倍以上になっているそうです。

下線部は初出時「課税所得330万円以下の場合」と記載しましたが、正しくは1回の支払額が100万円以下の場合」です。お詫びして訂正します。

ただし、まだベータ版

現時点ではまだ、予約販売ができない(発売日指定は可能)とか、日本国内向けだけで海外販売ができないといった制約があります。また、カナダ版「Kobo Writing Life」には用意されていたオンライン編集機能が、縦書き対応の難しさから日本への導入は見送られています。そのため、唯一対応しているファイルフォーマットである「EPUB 3」ファイルを自分で用意しなければならないというハードルがあります(なお、EPUB 3はつい先日ISO/IECからTechnical Specificationとして出版され、国際標準フォーマットになりました)。

ただ、最近ではさまざまなEPUB 3制作ツールが、無料で提供されています。

・「でんでんコンバーター」(マークダウン方式のEPUB 3変換ツール)
・「Romancer」(WordファイルからのEPUB 3変換、またはオンライン編集ツール)

また、「一太郎2012 承」以降や、「CLIP STUDIO PAINT」Ver.1.4.0以降は、EPUB 3出力に対応しています。日本でKDPが始まった当時に比べたら、「EPUB 3ファイルを自分で用意しなければならない」というハードルは格段に低くなったと言えるでしょう。

とはいえ、オフィシャルで便利なツールが提供されていれば、それだけハードルが低くなるのも事実でしょう。他にも、現時点では「著者ページ」に該当するものがないとか、ダッシュボードから販売ページに直接飛べない(自分で検索しなければならない)など、細かな不満はいろいろあります。

だからこそ楽天も「ベータ版リリース」と言っているのでしょう。本格サービススタートは、2015年3月予定と聞きました。それまでのあいだ、不満なところはどしどし楽天へフィードバックして、よりよい良いサービスにしてもらえたらいいなと思います。

なお、これは余談ですが、サービス利用規約には秘密保持条項(第7条)があり、「本規約の内容を第三者に開示または公開してはなりません」と書いてあったので、どこまでの内容を記事に書いていいのか不安でした。イベントで質問したところ、「利用規約は基本的に誰でも見られる状態になっているので、とくに公開してまずいような内容はない」とのことでした。ホッ。

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