あらたな時代の本のスタイルを求めて

2014年12月31日
posted by 仲俣暁生

今年最後の「マガジン航」の記事をお送りします。最近読んだ、二つの本の話題です。ひとつはボイジャーから紙の本と電子書籍として同時に刊行されたクレイグ・モド氏の『ぼくらの時代の本』、もうひとつは新潮社から刊行された山本貴光氏の『文体の科学』。どちらからも、きわめて新鮮な刺激を受けました。大げさではなく、この二冊には「本の未来」を考えるためのたくさんの鍵が隠されている――そう思える理由を、今年を締めくくるにあたり、つらつらと書いてみることにします。

本を「デザイン」と「スタイル」から考える

この二冊にはいくつか共通点があります。ひとつは著者のバックグラウンドです。クレイグ・モド氏は紙の本の装丁、スマートフォン用アプリや電子書籍のデザインと設計に携わってきたデザイナー・開発者であり、自身でもPRE/POSTという出版レーベルを主宰するパブリッシャーでもあります。また山本貴光氏はゲーム作家としての経験をもち、書物史とゲームデザインのいずれにも深い見識をおもちです。この二冊は、いわば「文理融合」的な背景をもつ著者が、書物について「内容」からではなく、むしろスタイルやデザインといった「形式」の側面から考察するというアプローチをとっている点で、とても似ているのです。

もう一つ、どちらも歴史的な視点から、本の現在を捉えようとしている点でも共通しています。人類の歴史のなかで、きわめて長い時間をかけて徐々に形成され、定着してきた本の「デザイン」や「スタイル」(「モノ」としての装丁や装飾だけでなく「文体」も含めた広い意味での)に十分な敬意と関心を払いつつ、来るべき時代のあたらしい本(そこには当然、電子書籍をはじめとする電子メディアが含まれます)の姿やかたち、つまりデザインとスタイルを模索しているからです。

さらにいえば、どちらも短期間に一気呵成に書かれた本ではなく、ここ数年の電子書籍をめぐる喧しい議論を脇に、「本とはなんだろう」という大きな疑問に対して長い時間をかけて取り組んだ、ねばりづよい「観察と思考」の記録である、という共通点もあります。

山本氏の『文体の科学』は、新潮社の雑誌「考える人」の2011年冬号から2013年春号にかけて「文体百般〜ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」という題で連載された論考をまとめ、改題して単行本にしたものです。またモド氏の『ぼくらの時代の本』も、ここ4年の間にウェブや電子書籍として断片的に発表されてきた「“iPad時代の書籍”を考える」「『超小型』出版」といったエッセイを単行本としてまとめたものです(刊行に先立ち、本書のためのバージョンがDOTPLACEでも連載されています)。

最後に、どちらの本も本文テキストの理解を助けるため、ふんだんに図版や注釈が掲載されており、内容においても形式においても、みごとに「デザイン」されていたことにも言及しなければなりません。

多様なスタイルの共存と、それにふさわしいコンテンツ

二つの本の内容に踏み込んでみましょう。まず、モド氏の『ぼくらの時代の本』のまえがきから少し長めに引用します。

 ぼくらの時代の本とは何だろう?
 ぼくらの時代の本とは形のある本だ。しっかりとした紙にインクで印刷され、頑丈な製本にはしおりが挟み込まれていて、タイポグラフィにも神経が行き届いている。数々の荒波を乗り越えてぼくらの本棚に陣取り、認識され、手に取られ、注目されるのを待っている。
 ぼくらの時代の本とは形のない本だ。デジタル上に漂い、ぼくらのiPhoneやiPad、Kindleやその他リーダーの中に存在している。それらは画面の大小や、解像度の高低に関係なく、スクリーンを埋め尽くしている。何の警告もなく消えてしまうものもあれば、コンピュータネットワークの中で繰り返しコピーされるものもある。
 ぼくらの時代の本とはその両方を行き来する本だ。

電子書籍をめぐる議論で一時期よく見かけられた、「これがあれを終わらせる」式の運命論ではなく、本はいくつもの「スタイル」を共存させながら、それぞれにふさわしいデザインと中身によって持続していく、ということを再確認した、力強い宣言です。

二つの本に違いがあるとすれば、モド氏の「観察と思考」が本や雑誌全体のユーザー・インタフェースに重点を置いているのに対し、山本氏の本では叙述形式としての「文体」までもを「観察と思考」の対象としていることでしょう。

『文体の科学』という本が検討の対象とするのは、小説をはじめとする「文芸」における文章の個性だけでなく、より広い意味での言葉のスタイルです。それを山本氏はより一般的な「配置」という言葉で表現することを企図し、同書の27ページでは次のように宣言しています。

 ここで整理しておけば、文章における配置には次のような水準がある。

 ・文字の配置
 ・語の配置
 ・文章の配置
 ・空間の配置

 つまり、本書ではこの最後の要素を含めて文章のスタイルというものを考えてみたいのである。こうした多層的な配置を前提としたうえで、誠に僭越かつ乱暴ながら、ひとまず文体とは「配置」である、といってしまいたい。

ここだけをとりだすと、「配置」はたんに組版やエディトリアルデザインを指すように受け取れられるかもしれませんが、この本で山本氏は、「対話」「法律」「科学」「辞書」「批評」「小説」といった具合に章を立て、文章の構造や目的、機能ごとに、それぞれにおける「文章の配置=スタイル」を検討していきます。

新しい革袋には新しい酒を

本を「形式(スタイル)」と「内容(コンテンツ)」に分離した際、前者を後者から独立して扱えるものとみなすことに対する疑念(少なくとも留保)も、二つの本に共通しています。少なくとも、「同じコンテンツならば、どんなスタイルで読もうと読書体験は同じ」という単純な見方をとらず、この問題を緻密な考察の対象としているのです。

媒体の変化がもたらす読書の変質という問題に対しては、山本氏のほうがやや強い懸念をもっているのに対し、モド氏は「形を問わないコンテンツ(Formless Content)」と「明確な形を伴うコンテンツ(Definite Content)」にコンテンツを区分けした上で、前者(たとえば大半の小説)に対しては、読書の「質」の違いは乗り越え可能な技術的課題とみなしている感があります。

二つの本に共通するのは、本(あるいは「文章」)とは限りなく多様であり、当然それぞれにもっとも相応しいスタイル(「文体」という意味でもグラフィカルな「デザイン」という意味でも)がある、という事実に対する、繊細で敬虔な感覚といえばいいでしょうか。科学的であることと芸術的であること、サイエンスとアートの感覚の共存といってもいいかもしれません。その先にはじめて、「新しい革袋には新しい酒を」という言葉にふさわしい、スタイルにおいても内容においてもまったく新しい「本」が登場するのだと私は思います。

長引く出版危機を反映してか、このところ「本についての本」が数多く出版されていますが、その多くに、本への信頼や愛情から発したものにせよ、いくばくか情緒的だったり独断的だったりする傾向があることは否めません。そうしたなか、年の瀬に続けて読んだこの二冊の本は、本に対する深い理解の上に、観察にもとづく冷静で知的な思考がなされているがゆえに、未来への希望に満ちた、とても愉快な読書体験を与えてくれました。この年末年始、読む本が見当たらないという方は、ぜひこの二つの本を手にとって読み比べてみることをお薦めいたします。

では、みなさまよいお年をお迎えください。
来年も「マガジン航」をよろしくお願いいたします。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。