「電子空間の中の文学」に向けて

2015年2月16日
posted by 仲俣暁生

ここまでの道のりは遠かった――。先週アマゾンがMac向けデスクトップ用読書アプリ、Kindle for Macを日本語対応させたのを受けて、さっそくダウンロードして使ってみての率直な印象です。ああ、これでやっと「電子書籍」の最初のステージが完了したのだな、との思いを深くしました。

Kindleの英語版と日本語版とでは、これまでもサービスの投入時期にタイムラグがありました。Kindle for PC/Macの日本語対応は、とりわけリリースが望まれていたもので、私自身もそれを待ちかねていた一人です。

すでにアマゾンは1月21日にPC(Windows OS)向けのKindle for PCを日本語対応させており、今回のKinde for Macはそれに続いたもの。また、このほかにKindle Cloud Readerも日本語対応が少しずつ進んでおり、画像の書籍・雑誌・マンガであればウェブブラウザ上で閲読可能になっています(英語版書籍はリフロー型の書籍も閲読可能)。こちらも日本語のリフロー型書籍も含めた完全対応が待たれます。

Kindle Cloud Readerこそ、まだ完全に日本語対応していませんが、とりあえずKindle端末(PaperWhite, Voyage, Fireなど)でもスマートフォンやタブレット(iPhone、Android)でも、PCとMacいずれのデスクトップでも、Kindleユーザーは電子書籍の蔵書を、環境を問わず自在に読めるようになりました。

このようなマルチ読書環境の構築において世界的には先行していたアマゾンですが、日本ではすっかり他社の後塵を拝した観があります。専用端末とスマートフォン/タブレットとPC/Macのデスクトップ環境のすべてで電子書籍が読める環境は、楽天Koboがいちはやく実現しましたし、BookLive!もMacOS用ビューアを除くすべてを揃えています(Macからでもウェブブラウザを介して閲読可)。紀伊國屋書店のKinoppyやアップルのiBooksも、アマゾンより先にデスクトップでの閲覧環境をリリースしています。

しかし、紙の本も含めれば圧倒的な存在感をもつアマゾンが、スモールスクリーンの端末だけでなく、多くの人がウェブに接する際のインターフェイスであるPC/Macのデスクトップ向け環境を用意したことは、大きな意味をもつものと考えられます。

Kindle for PC/Macの日本語対応がここまで遅れた理由はよくわかりません。しかし、このようなマルチ読書環境=プラットフォームとして電子書籍をまっさきに最初に打ち出したのはアマゾン自身です。いまもまだ誤解している人がいるようですが、Kindleとは「読書専用ハードウェア」の名称ではなく、こうした読書環境の全体を指しています。

そのような「環境」の兆しとして、英語版のKindle for PCが登場したのは2009年11月のことでした。当時、私は英語版のKindleでこのサービスをすぐに試し、 「マガジン航」で以下のような記事を書きました。

Kindle for PCを使ってみた
Kindle for PCを使ってみた(続)

冒頭の「道のり」とは、一つにはこの間のことを指しています。ようやくアマゾンが、ここにきてKindleという電子書籍プラットフォームの「パズルの最後の一コマ」を埋めたことで、2009年以来の「電子書籍」のパラダイムは、ひとまず完成をみたと言えるでしょう。それは「いつでも、どこでも、電子書籍がシームレスに読める環境」の実現です。

はじめからしまいまで読んで行く」のではない電子書籍

Kindle for Macがリリースされたので、私はこれまでに買った電子書籍をいろいろとデスクトップで読みなおしてみました。その結果、この仕組みはKindle端末やスマートフォン、タブレット上での「読書」とちがって、どちらかというと「研究」「調査」などに向いているのではないか、ということに気づきました。

デスクトップのビューアがふつうの「読書」に向かない、と言いたいわけではありません。しかし、「デスクトップ」と呼ばれるユーザー・インターフェイスは、もとはといえば作業スペースとしての「机」のメタファーですから、読書に没入できるように設計された読書端末がもたらす経験とは、おのずと異なってくるはずです。

そのことを確かめるうえで、ちょうどいい本はないだろうか。そこで私が思い出したのは、国文学者で文芸評論家でもあった前田愛の『都市空間のなかの文学』という本です。

1982年に筑摩書房から発売されたこの本を、大学時代に読んで以来、なんども読み返してきました。数すくない愛読書のひとつなので、ハードカバー版は古本で買い直しましたし、1992年にちくま学芸文庫に入った折も、のちに電子書籍版が出たときもすぐに買い求めました(私はKindle版で書いましたが、楽天KobohontoReaderStoreなどでも売られています。プラットフォームによって価格差があるのでご注意)。

じつはこの本は、以前エキスパンドブック版としても電子書籍化されています。そのときのデータを久しぶりに立ち上げてみました。

文字の解像度やビューアのこまかな仕様を除けば、新旧二つの電子版(上がKindle版、下がエキスパンドブック版。クリックで拡大表示)の佇まいはそっくりですが、それは見た目だけのこと。電子書籍のバックエンドの仕組みは、この数年間に一変しました。

エキスパンドブックに象徴されるかつての電子書籍は、「目次」「柱」「しおり」といった、紙の本がもつ内部構造や体裁を再現し、その使用感をできるだけ受け継ぐことに力が注がれていました。その上で、文字サイズや行間、段組などを、好みの状態にカスタマイズできることが売りでした。

しかし、いまの電子書籍はウェブの存在を前提にしています。出版や販売のためのプラットフォームとしてだけでなく、電子的な「読書」を支援する環境としても、ウェブの存在を抜きには考えられません。冒頭で述べた「道のり」とは、電子書籍をめぐるこうした環境の激変をも意味しています。

ウェブ上のアーカイブと電子書籍をつなぐ

『都市空間のなかの文学』の序文にあたる「空間のテクスト テクストの空間」という文章のなかで前田愛は以下のように述べています。

 M・ビュトールは、はじめからしまいまで読んで行く書物というものが書物ぜんたいのなかでは例外的な存在であって、私たちの社会でもっとも重要かつ不可欠な書物は、参照する書物、辞書のタイプの書物であるといっている。「そうした書物は二十世紀文明の特徴です。どんな都会も、どんな近代国家も、電話帳というあの本質的な物体、検討されることあまりにすくないあの不朽の著作が欠けていたら存続しえないでありましょう」(「文学、耳と眼」清水徹訳)。いかにも楽譜状のテクスト『モビール』を書いた人にふさわしい発言であるが、ここでビュトールがあげている電話帳という書物の型態は、文学テクストの「内空間」を規定して行くうえである示唆を提供してくれるはずである。

「はじめからしまいまで読んで行く書物というものが書物ぜんたいのなかでは例外的な存在」であるという指摘は、「電子書籍」の場合にも言えることでしょう。そもそも書物の電子化は、辞書や百科事典といった「参照する書物」がまず先行しました。上の引用箇所で「二十世紀文明の特徴」とされている「電話帳」は、ウェブの時代には「検索サイト」「検索エンジン」へと進化し、すでに21世紀文明にとって不可欠な要素となっています。

「参照する書物」がスタンドアロンの電子書籍からウェブへと溶け出した(Wikipediaがその象徴)のち、携帯電話や読書専用端末、スマートフォンやタブレットといったスモールスクリーンの電子機器が普及することで、「はじめからしまいまで読んで行く」タイプの本の電子化が進みました。「ケータイ小説」や電子コミックによって電子書籍市場が立ち上がり、いまもマンガやエンタメ系の小説、ライトノベルなどの「読み物」が、電子書籍市場の中核をなすのはたしかです。

しかし、そこで電子書籍の進化が止まってしまっては、紙の書物がこれまで果たしてきた役割の、ごく一部しか代替したことになりません。

この本で、前田愛は夏目漱石や森鴎外、樋口一葉らの近代文学作家をおもに論じています。幸いなことに、文中で引用されている作品の多くは著作権保護期間が過ぎており、ウェブ上にそのテキストの多くが公開されています。これは本書が書かれた30年以上前の時点では、想像もつかなかった環境でしょう。

本書には、東京という「都市」のさまざまな地名への言及もあります。紙の本では、それらの場所を示すためには地図の一部を挿絵で取り込むしかありませんでした。しかし、古今東西の無数の地図にも、いまならばウェブ検索で手軽にたどり着けます。それどころかGoogleMapをはじめとする地図アプリによって、ダイナミックに地図を体感することもできるようになりました。

本格的に文学研究をするとなれば話は別でしょうが、初学者や文学愛好家にとっては、電子書籍になった『都市空間のなかの文学』は、こうしたネット上に散らばるさまざまなアーカイブに向けて開かれた、かっこうのポータル(玄関)になっています。

かつて本書がいちはやく電子書籍化された理由のひとつに、この本で論じられている「都市空間」を「サイバースペース=電子ネットワーク空間」に読み替えてみたいという、編集者のひそかな意図があったのではないか――私はそう考えています。この本を手がかりに、青空文庫におさめられた漱石や鷗外、一葉の作品に親しむのもいいでしょう。明治から大正にかけての時代に東京という「都市空間」におきた変容を、ネット上の古地図やGoogle Mapと作品テキストを相互参照しつつ、味わってみるのもいいでしょう。

そのためのアーカイブは、すでにネット上にあまた存在しています。2年前に書いたこの記事で、私は電子書籍とウェブの相互連携の重要性について述べました。今回のKindle for PC/Macの日本語対応は、この動きをさらに前進させてくれる気がします。

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なぜ「悪いこと」は「良いこと」より強いのか

2015年2月4日
posted by 秦 隆司

どこで暮らしていても、言いたいことを言わなくてはならない状況に直面することがある。僕の場合は、それがニューヨークで起こるため、必然的に人種や背負っている文化の違う人々との争いとなる。

自分を出していくのをよしとする人々が多いなか、僕も何度かは正面を切って相手と争ったことがある。そんないざこざの中でも、はっきりと記憶に残る争いがある。それは子供に関わることで、ある白人家族と言い争いになったものだ。これは僕と妻、向こうの夫婦、そしてベビーシッターまでを巻き込んだ争いになった。子供たち同士は仲が良いということで、幸い子供たちを巻き込むことはなかった。

数度の口頭での言い争いを経て、僕は彼らに文句のメールを出すことにした。こちらの主張をはっきり書き、いかにこちらの言い分が正しいかを書いた。不思議なことに、心の中にあった彼らに対する否定的なことを全部書いたら、気持ちが晴れ、さばさばした気分になった。この争いは、書くという行為が精神的に何らかの効果があるのではないかと感じさせる事件だった。

一方、メールの方は、結局相手に送り、向こうからは半分言い訳のようなメールが返ってきたので、一応の成功であったが、その白人家族との関係は終わってしまった。

「否定的な単語の多い文章」は書き手の健康に寄与する?

この事件の後、僕は書く行為と人の心理について興味を抱き少し調べてみた。心理学者ジェームス・ペネベーカーたちの研究によると辛かった経験を書くという行為は、精神的な健康はもちろん免疫力などの肉体的な改善ももたらすという。また、否定的で不愉快な意味を表す単語を多く使った文章は、それらの否定的な単語をわずかしか使っていない文章よりも、書き手の健康に寄与するという。

なるほどな〜と僕は思った。しかし、書くという行為は否定的な要素が良い方向に作用する例だが、自分の海外生活のことを考えれば憂鬱だと感じる時間は長く続くのに、楽しいという感情はすぐに消えてしまう。

そんなことを考えている最中に、僕はニューヨーク・タイムズのある記事(Praise Is Fleeting, but Brickbats We Recall, ALINA TUGEND, March 23, 2012)を読んだ。

これは「良いこと」と「悪いこと」が人間に与える作用について語った記事で、この記事のなかに登場するスタンフォード大学コミュニケーション学科のクリフォード・ナス教授によると「人は『良いこと』と『悪いこと』の情報を脳の違った部分で処理する」と語っている。そして、「悪いこと」の情報は「良いこと」の情報に比べ、より詳細に伝わり、その思考のための時間も多く割かれるという。

僕はこの記事を読み、「悪いこと」と「良いこと」が人にどう作用するのかをもっと調べてみようと思い立った。

文学の世界に目を向ければ、悪いことばかりが起こる作品は成立するが、良いことばかりが起こり続ける作品は成立しない。例えばジョン・リドリーの「Everybody Smokes in Hell(邦題:地獄じゃどいつもたばこを喫う)」のように登場人物のほとんどが死んでしまう、読んでいて目が点になってしまような作品はありえるが、良いことだけが起こり続ける作品というのは児童向けの絵本以外は知らない。また、ジャーナリズムの世界を見ても良いことばかりを報道する新聞は(どこかにあったような記憶があるが)報道媒体の主流にはならないだろう 。

何故だろう。

「悪いこと」が「良いこと」よりも強く人に作用するという証拠は、身の周りに転がっている。例えば、5000円を失った悔しさは、5000円を得た喜びよりも大きいという実感を持つ人は多いだろう。

心理学者のS.E.テイラーによると、これは人間の心の調整能力の違いによるという。人は短い幸福のピークを過ぎると、その幸福を与えてくれた新たな状況に慣れてしまい、新たな幸福を得る前の精神状態に戻ってしまう。一方、不幸に対してはずっとその不幸の心理を引きずるという。

この例は、その幸福や不幸の衝撃がさらに大きくなった場合のことを考えればもっと明確になってくる。

例えば、トラウマという言葉がある。これは過去に起こった衝撃的な不幸がその人の人格や人生に否定的な影響を及ぼすことを言い当てた言葉だ。トラウマは不幸についての言葉だが、幸福な事象に対するこの種の言葉は見当たらない。

やはり「悪いこと」は「良いこと」より強いようだ。

心理学者ケン・シェルドンやリチャード・ライアンたちの研究によると、良い1日はその人の翌日に大きな影響を与えないが、悪い1日は翌日にもその人の幸福感に影響を与えるという。つまり悪い1日を経験した人物は、少なくとも連続した2日間の悪い日を経験することになる。一方、良い1日の経験は良い1日を作り出すだけだ。

「悪いこと」と「良いこと」の心理学と経済学

ここまでは、自分の心の中だけの「悪いこと」と「良いこと」の関係の話だが、対人関係でも両者の力関係がある。

J.M.ゴットマンという心理学者によると、人間関係を成功させるためには相手との良い交流が悪い交流を数として上回ってなくてはならないという。その比率は良い交流5回に対し悪い交流1回。この5対1の割合に満たない人間関係は失敗に終わる可能性が高いという。

悪い出来事は、良い出来事よりも人間関係に及ぼす影響が強い。そのため、良好な人間関係を維持しようとする時、相手に良いことをするというよりも、悪いことをしない方が何倍も重要になってくる。つまり人間関係の場合、相手との良好な関係を望む人は、相手との悪い交流を避けることが大切となる。

また、敵対する人間関係においても「悪いこと」は「良いこと」よりも強いようだ。

前述のニューヨーク・タイムズの記事では、否定的な意見を言う人の方が、肯定的な意見を述べる人より頭が良いと見られることを紹介している。否定的な言葉の方が、人の注意を喚起し、思考を促すからだ。つまり人は否定的な言葉の方が肯定的な言葉よりも重要だと感じ、その否定的な言葉を発する人物に重きを置くことになる。先ほどのスタンフォード大学のナス教授は「頭の良い人々の前でレクチャーをする場合、否定的な事柄を多く言うべきだ」と語っている。

また、同じ理論で、物を創り出す人よりも、それではまだ駄目だと言う人の方が優秀だと思われる。このいわゆる「ダメ出し屋」がクリエーターよりも高い評価を受けることについては、友人である竹永浩之のTwitterがある。

同様に悪い行動を取る人間は、良い行動を取る人間よりも強い人間という印象を与える。特にそれが敵対する人間関係の場合、悪い行動を取る人間は、自分よりも強い人間だと思いがちだ。

また、企業はずっと昔から「悪いこと」は「良いこと」より強く人に作用するという真理に気づいていて、企業にとって都合のいい方法を編み出している。

企業内ではこれは「罰」と「報酬」の関係で現れる。

間違った答えに対する罰は、正しい答えに対する報酬よりも、人間に強く作用する。この罰と報酬の関係では、ロバート・ティンダルとリチャード・ラットリフの「罰環境」と「報酬環境」についての実験がある。これは子供たちを、正しい答えを出した場合にトークンを与える「報酬環境」と、間違った答えを出した場合に大きな雑音にさらす「罰環境」に置くと、「罰環境」にいる子供たちの方がずっとよい成績を上げるというものだ。

そして物事を学ぶ場合も罰からの方が、報酬からよりもずっと早く物事を学ぶという他の報告もある。

しかし、罰には副作用が伴い、人をいらいらさせたり、怒らせたり、精神不安定にさせたりする。そのため罰は結果を出させる理想的な方法とはされていないが、その副作用さえ無視してしまえば、罰は素早く、効率的に結果を出させる方法となる。

子育てや人を判断する際にも影響?

「悪いこと」が「良いこと」よりも強いという仮定を支える実験はまだ数多くある。例えば、心理学者のデビッド・ロウやクリステン・ジェイコブソンたちは『Genetic and environmental influence on vocabulary IQ: Parental education level as a moderator』という著作で親の教育レベルと子供のIQの関係を調べている。この調査は、悪い環境は子供の知的成長に悪い影響を及ぼすが、良い環境は子供の知的成長にほとんど影響を及ぼさないことを示している。

つまり、悪い親は子供のもともと持っている資質に悪影響を与えることができるが、良い親は子供が元来備えている知能をさらに向上させることはないということだ。言い方を変えれば、親は遺伝的に備えている子供のIQを低くすることができるが、高くすることはできない。

このパターンも「悪いこと」が「良いこと」よりも強いという仮説に当てはまる。

また、初対面の人の場合、悪い部分の情報が良い部分の情報に比べより強く伝わることは多くの実験で証明されており、この伝わり方の違いには「ポジティブとネガティブの非対称性(positive-negative asymmetry)」という一般的な名称がついているくらいだ。

社会心理学者のビンセント・イゼルビットとジャック=フィリップ・レインズは参加者に好感が持てる役を演じる俳優と、好感を持てない役を演じる俳優を選んでもらうという実験をおこなった。実験参加者はその俳優に対する情報を聞き判断をしていく訳だが、参加者は俳優の僅かな悪い情報で即座にその俳優は好感が持てる役には適さないと判断に達する一方、良い情報ではその俳優が好感の持てる役に適しているという判断はなかなか下さなかった。そればかりか、最初に俳優の良い情報を聞いても、次に悪い情報を聞くと、すぐに好感の持てる役には適さないと、その俳優を好感の持てる役から除外した。

相手に悪い印象を持つのに人は少ない材料で判断し、判断を下す速度も早い。また自分の持ったその悪い印象が正しいと確信する傾向にある。B.I.ボルスターとB.M.スプリングベットの『The reaction of interviews to favorable and unfavorable information』では、就職面接の際の最初の好印象は4つほどの悪い情報で不採用の判断に変わってしまうが、最初の悪い印象をぬぐい去り採用の判断に至るには9つの良い情報が必要だと述べている。

また、どんなに良いことをしていても、一度悪いことをするとそれがその人の本性だとされてしまうのはよくあることだ。そしてその確信はなかなか揺るがない。しかし、どんなに悪いことをしていても、一度良いことをすればそれがその人の本性だと思う人はまずいないだろう。この心理もポジティブとネガティブの非対称と言えるだろう。

スポーツの試合に金を賭けさせる心理実験がある。実験参加者には、まず実験会場でスポーツの試合の勝敗に対して金を賭けさせる。そして1週間後、実験会場に戻りその賭けを清算する。この時、その試合について参加者に語ってもらう。そうすると参加者は、賭けに負けた試合については長々とその過程を話すが、賭けに勝った試合にはそれほど多くを語らなかった。

これは幸福そうな人を見る時と、不幸そうな人を見る時にも当てはまる人間の心理だ。ダグラス・クリュルとジェイ・ディルの『Do smile elicit more inferences than frowns do? The effect of valence on the production on spontaneous inferences』によると、人々は不幸そうな行動に対して、その不幸の原因を推量するのには長い時間を使い、幸福そうな行動の原因の推量には多くの時間を使わなかったという。

幸福な場面に遭遇すると人々はさっさと「幸福なんだ」と答えを出してしまうが、不幸な場面に遭遇した場合「何故この人々は不幸なのか」と様々な複雑な思考をめぐらせ、答えを出すのに長い時間をかける。この人間の心理を見事についた一文にトルストイの 「幸福な家庭はそれぞれに似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」というアンナ・カレリーナの有名な出だしの文章がある。

テロリズムは「悪いこと」の衝撃を利用する

では何故、人にとって「悪いこと」は「良いこと」よりも強く作用するのだろうか。その答えは人間の生物としての本能の中にある。悪いことを良いことよりも強く意識するのはその生物の生存に関係している。もし、悪いことをすぐに忘れ、また同じ失敗を繰り返すのなら、その生物の生存は危うい。良いことに集中しその快楽の享受を生きる目的とする生物よりも、悪いことを避けるのにより大きなエネルギーを注ぐ生物の方が生き残るチャンスは増す。

生物は1日1日、毎日を生きていかなければならず、どんな素晴らしい日々も、命を落とす出来事が起こる1日とは引き換えにはできない。悪い1日は、それまでの素晴らしい日々を帳消しにしてしまう。良い1日は悪い1日ほどの重要性を生み出さないのだ。

しかし、これほど「良いこと」に比べ「悪いこと」が強いのに、人はおおまか自分の人生は幸せだと感じている。それは、何故だろうか。それは、人生の中で「良いこと」が「悪いこと」を数で上回っているせいだという。先ほどのゴットマンの数字を使えば、幸福だと思えるには悪いこと1に対し良いことが少なくとも5つは必要となる。この数字は、私たちがお互いに相手に親切に接する大切さを教えてくれている。

もうひとつの理由は、悪いことが起こった場合人は、それはたまたま独立して起こったものだと考えるからだ。一方、良いことが起こった時はそれは人生の大きな流れ中でのなんらかの結びつきで起こったものだと考える。そのため、人は自分の人生は総合的に見れば良いものだと考えるのだ。

さて、「悪いこと」は「良いこと」よりも強いというのは本当のことらしいが、問題はその事実をどう使うかだろう。最後に「悪いこと」の衝撃を道具として使うテロリズムのことを少し話したい。テロリズムは「悪いこと」の衝撃を増幅させて、その恐怖や混乱の中で自らの存在を主張していくやり方だ。

心理学者のジェームス・ブリッケンリッジとフィリップ・ジンバルドーは著作「The Strategy of Terrorism and the Psychology of Mass-Mediated Fear」で、テロリズムの社会に中に恐怖の感情を増幅させるやり方を「ソーシャル・アンプリフィケーション」と呼んでいる。著者たちはまた「The Role of the Medai」という章でテロリズムとマスメディアの関係にも深く踏み込んでいる。

「テロリズムの重要戦略としてのゴールのひとつは、暴力行為を通してコミュニケートすることにある。そのため、マスメディアはテロリズムにとって欠かすことのできない「酸素」と呼ばれている」

彼らによると、テロリズムには自分の存在やその主張を世界に流すためにマスメディアが必要で、そのテロ暴力の衝撃が強ければ強いほど、マスメディアが広く彼らの存在を訴えてくれる。また、マスメディアにとっては読者や視聴者を獲得ができるため、テロとマスメディアは「共存」の関係にあるという。

1960年後半にテレビ衛星中継が開始されて、テロの方法が変わったともいう。テロリストが文字よりもずっと強い衝撃を与えることができる画像や音声での効果を狙うようになったのだ。

そして、インターネットが広まった今、テロリストはテレビ・ジャーナリズムの検閲も簡単に飛び越えられるようになった。インターネット上で捕虜の姿を見せ、その処刑の様子を映し出し、さらなる衝撃を作り出し自分たちの存在や主張を社会に流そうとしている。

様々な「悪いこと」が頻繁に起こり続ける社会というのは、その土台が弱まっていく。テロリズムはとってはその弱さや混乱が必要なのだ。

「良いこと」は「悪いこと」に比べ、弱いのだが、個人的には弱い方の味方につきたい。きれいごとを言っているのではなく、本当にそう思う。感情があるので、常にそうできるか分からないが、できれば自分の出来る範囲で社会のなかや人との関係で良いことの数を増やす力になりたい。そうして、人への「良い」を増やせば、自分の中の「良い」も増えると感じている。「良い」は人と自分に作用して、2倍になるのかもしれない。そう考えると、「良いこと」もまんざら弱くないのだと納得することができた。

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2015年1月26日
posted by まつもとあつし

1月7日に起ったフランス紙へのテロ事件には驚かされた。事件そのものにではない、日本のネット界隈で起った反応に対して、だ。結論から言えば、日本の言論、ひいては民主主義は危ういと言わざるを得ない。

最初に驚かされたのは、「表現の自由といっても、あそこまで酷い風刺画を描いたのだから、暴力の応酬があっても仕方がないではないか」といった意見がまことしやかに語られたことだった。実際、私の元にも「銃撃は許されないが、殴られるくらいは覚悟しておくべき」という意見が寄せられたりしている。

暴力の中身や程度の問題なのか?

たしかに一連の風刺画はイスラム教徒の感情を逆なでするものだ。知人に信徒がいる私としても、直視するに耐えられないものもあった。だが、それでも「表現の自由」が暴力によって脅かされても仕方が無い、という意見には強く反発する。

暴力の程度や中身が問題ではない。なぜか?「表現には表現で対抗すべき」という大原則が守られなければ、「民主主義」の前提が根底から覆ってしまうからだ。自由に意見を戦わせ議論し、合意を形成していくプロセスが、利害関係者双方の法のプロセスを経ない暴力に対する恐怖によって機能しなくなることは絶対に避けなければならない。

教科書的な、聞き飽きた意見に聞こえるかも知れない。しかし、民主主義や法による秩序は、人間が元来生まれ持った仕組みではない。私たちが長い時間を掛けて築き上げて来た極めて人工的なものだ。それが暴力や私たちの社会の誤った判断によって、脆く簡単に崩れ去ってしまう例は、歴史を振り返れば枚挙にいとまがない。

法律学も一般には「人の命は地球よりも重い」という前提で体系化されている。そして私たちは同時にそうではない現実があることも十分すぎるほど知っている。それでもなお、意地悪な見方をすればそんな「お題目」を掲げなければ、自由や民主主義といった人工システムを構築し、守ることができないのだ。だから私たちは愚直に、そうではない現実を認めながらも、「表現の自由を守れ」と叫ぶほかない。

かつてエーリヒ・フロムがファシズムを「自由からの逃走」と喝破したように、私たちは困難な状況において私たちの人間らしさ=自由を簡単に放棄しがちな生き物だ。だから念仏のようにそれを唱え続け、自由を脅かすものに対して「No」と言い続け、自らの立ち位置を常に確認しなければならないのだ。

ヘイトスピーチ規制法制化への危惧

今回の事件に対して、移民国家フランスにおける民族・宗教の問題の存在を指摘する声もある。風刺画はイスラム教徒に対するヘイト差別である、といったものだ。そう受止められても仕方がない面もあるだろう。フランス文化や歴史の研究者ではない私にとっては、民族・宗教の問題を俯瞰して理解し解説するのは正直荷が重い。しかし仮にイスラム教徒への差別や排外主義がテロの背景にある、あるいは今回の事件を契機に、そういった動きが強まるのであれば強く「反対」したい。その意味で問題を単純化し、武力=暴力の行使を容易にする「テロとの戦い」というフレーズにも強い警戒感を覚える。

だが、その「反対」が表明できるのも、表現の自由あってこそのものであることを忘れてはならない。日本国内でも在日外国人に対するヘイトスピーチへの規制が唱えられているが、私は表現そのものに網を掛けるのではなく、従来の脅迫罪や騒音規制条例で取り締まられるべきだと考えている。何をもって差別的な表現とするのか、その判断基準は洋の東西を問わず極めて曖昧なのだ。私たちが「ヘイト」を封じるために掛けた網が、いつの間にか私たちの表現そのものを縛ることにならないように注意しなければならない。

つまりは、このような立場に立てば、私たちも民主主義という主張を掲げる「原理主義者」で、それを前提に置かないイスラム国のような政治体制を保つ国や地域から見れば異端で理解不可能な存在だ、と言い換えることもできるかも知れない。しかし、言論の自由、表現の自由といったメリットを享受する以上は、その利益を守る立場に私は立ちたいと思う。表現者の端くれとして、その大前提を守るためであれば、それがポジショントークだと言われても一向に構わない。

何かを表現する、という入り口が広く開かれていることと、それがもたらす結果に対して責任を問われるというのは別次元の問題だ。それと同じように、表現の自由を脅かす「テロ」には断固として反対するが、暴力に暴力で応酬する可能性のある「テロとの戦い」はやはり別次元にあり、警戒すべき表現なのだ。

「禁書」と「焚書」を混ぜて論じるなかれ

『はだしのゲン』閉架問題も記憶に新しい。表現へのアクセスに対して一定のゾーニングを行う「禁書」と、表現そのものを無かったことにする「焚書」も区別して論じられなければならない。

『はだしのゲン』の閉架は、ある種の思想を持つ人物からのクレームを契機に、実質的に図書へのアクセスを封じる処置が取られたことが問題となった。だが、私も「マガジン航」や朝日新聞に寄稿、コメントを寄せたように充分に反論が可能だ。実際世論の盛り上がりもあって、閉架処置は回避されている。たとえ「禁書」となってもその状態は回復可能だということを示したとも言えるだろう。

しかしフランスの新聞社に対するテロは、表現者を殺害し彼らが再び表現できる機会を永久に奪った。そして、その恐怖によって新たな表現者の出現を封じることを狙っている。まさに「焚書」であり、もう元の状態には回復させることは困難だ。禁書と焚書では全く異なる結果がもたらされ、同列に論じることは到底できない問題だということが分かるはずだ。

フランスのテロとデモ、日本でのヘイトスピーチと表現規制を巡る議論は、実は地続きの問題であり、民主主義のメリットを享受する私たちに突きつけられた踏み絵と呼んでも良いはずだ。(その観点まで至れば「私はシャルリだ」というスローガンも首肯できる部分もあるのだが、多くの論者が既に指摘するように、「テロとの戦い」同様、副作用の方が大きいと筆者も感じる)

中には「追悼デモ」に対して、その警戒の言葉をぶつける向きもあったが、石を投げるのであれば、実際に暴力を行使しようとしている極右勢力や権力者に対してであるべきだろう。表現の自由を守ろうと叫ぶものに対して、批判、揶揄するのはあまりにも迂遠だし、結果としてテロの目的を助けることにもつながりかねない。

今回の一連の出来事で、ネット界隈で比較的リベラル、あるいは論理的に物事を論じていると感じていた人々が、あたかも禁書と焚書を同一視した反応を示したのは残念だった。風刺画やポルノのような過激な表現や暴力的なテロは私たちの理性を失わせ、短絡的で誤った判断へと誘う。こういった難しい局面にこそ、過激な表現や暴力に動じることなく、私たちが普段当たり前のものとしてその価値を忘れがちな「表現の自由」という原理原則に立ち返るべきだと私は考える。

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マーケティングを超えるクリエーターたち

2015年1月19日
posted by 堀田純司

経済学者のジョン・メイナード・ケインズが20世紀の前半に用いた「アニマルスピリット」という言葉があります。「野心」や「欲望」といったニュアンスで使われますが、要するに「成功したい」という人間の意欲をさす概念で、こうした欲望こそが「人間の経済活動を推進する」とされるものでした。

たとえばデフレ下では、モノの価値が下がります。それは逆にいうとお金の価値が上がる現象。ということは、人はただ現金を握っていれば、自分の財産が増えていく。アニマルスピリットをたぎらせて冒険に挑むよりも、安全志向のほうが有利ということになってしまいます。

実際、デフレ時代には安全志向というか、欲望の薄い人々の登場、いわゆる「草食系」の人々が話題になったりしました。この傾向は現代も続き、メディアではしばしば「若者の~~離れ」などと、車のようにかつてはステイタスとされたものにこだわらなくなった状況が取り上げられます。

これでは社会が停滞してしまう。日本もインフレ時代へと舵を切りました。確かに「アニマルスピリット」はそれ自体で否定されるべきものではありません。「儲けたい」「成功したい」、「お金持ちになって高価な車に乗り、女の人にモテたい」。真面目な話、健全で大切な欲望です。余談になりますが、漫画界出身の私などは若い頃、「漫画とは人間の欲望を全肯定する表現だ」と教わったものでした。哲学者ニーチェもこうした欲望を大地の論理として肯定しています。

ただ、確かにアニマルスピリットは大切なのですが、21世紀の現代、人の欲望も多様になった。人が目指す「成功」にも多様な形がある。草食の「アニマルスピリット」があってもいい。こういうことをいうと「競争原理を否定するのか」と誤解されたりすることもあるのですが、拙著『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーターたち』の取材を通して、若い世代にはやはり自分と同じような考え方をする人が少なくないと確信するようになりました。

現代の若者の価値観を取材した

この本は、ある意味で世代論です。自分たちの世代と、今の若い人はなにが違うのだろう。それを知ろうとした時、普通だったら広告代理店の市場調査のようなものに目を通すかもしれません。あるいはアカデミズムの文献を参照することもあるでしょう。

しかし本書ではそれを「若い世代と実際に対峙して作品をつくっている、現場のクリエーターに取材する」ことで、知ろうとしたものでした。

広告関係の人に「なんで雑誌つくっている人は、もっとマーケティングしないの」と言われることがあるのですが、それはちょっと違うかなと思っていました。

常々感じてきたことなのですが、優れた創作者の体内で行われるマーケティングは、そうした会社が行う調査よりもよりディープ。繊細に、官能的に時代をとらえ、そこにさらに自身の感性が重なっているものなんです。しかもその知見は「作品の成功」という形で、裏打ちされている。

本書では、それを教えてもらいたいと考え、映画化もされた大ヒット作品『アオハライド』の作者、咲坂伊緒さんや、メジャー青年誌で活動しながら実験的な手法も取り入れる漫画家、浅野いにおさん、ライトノベルの分野で「経済」を描き成功した小説家の支倉凍砂さんなど、さまざまな創作者に取材させてもらいました。

ただ実際の取材では、すでにメジャーで活躍している人だけではなく、メジャーとインディーの狭間で支持を広げている若い人たちにも話を聞かせてもらっています。特に音楽業界では、既存の「メジャー」のあり方が揺らいでいる。メジャーレーベルが、同時にインディーズも運営して、しかもそちらのほうからヒットが出ていたりします。この領域のセンスも教えてほしかったためでした。

実際に話をうかがって痛切に感じたのは「この世界にもはや正解はない」という感覚が、広く共有されていること。たとえば、かつての日本社会では「学校を出て、就職すれば一生安定」というモデルが、人生の正解として機能していました。もしこのコースに乗りそこねたとしても、「手に職をつければ、それで食べていける」というモデルもありました。

音楽の世界も同じです。かつては「メジャーレーベルからデビューする」が成功の方程式として厳然として存在していた。たとえば80年代から90年代初頭のバンドブームのころ、当時の雑誌のメンバー募集欄では「当方プロ志向、メジャーを目指さない人はお断り」などという募集がよくありました。「メジャー志向。学生不可、社会人不可」というメンボも見たことがあります。「メジャーを目指す以外、すべての退路を断った人間でないとダメ」。自分などはそのストイックさに「厳しいな」と思ったものです。

しかし今では違います。もはや学校を出たからといって、就職できるとはまったく限らなくなった。かつていろんなところで語られた、「平凡なサラリーマンなんかになりたくない」「俺も結局、平凡なサラリーマンになるのかな」という言葉が、今にして思えばなんと傲慢だったことか。選挙の宣伝で「夢は正社員になること」と流れたり、「公務員になることが夢」などという時代がまさか来るとは、当時の誰も考えていなかった。

「メジャーデビュー」は選択肢のひとつでしかない

コンテンツの世界にも変化は押し寄せ、もはやメジャーデビューが成功への「正解」とはいえなくなり、いわば「選択肢のひとつ」となりました。

たとえばメジャーレーベルからCDを出しても「プレスは50枚だった」などというニュースが流れることがある一方で、ニコニコ動画で支持を集めたクリエーターが、カラオケの印税だけで1000万円以上の収益を上げ、さらに作品世界をもとにした小説や漫画まで展開されるといった例も出ています。

メジャーとアマチュア。この場合はどちらが成功者なのでしょうか? しかも現代の激しいところは「ではニコニコ動画で人気を集めるのが正解か?」というと、たちどころにそれも過去のものになってしまうところです。あっという間に競争者が押し寄せ、コンテンツの数が多くなりすぎる。個々の作品は情報の海に埋もれてしまい、ランキング上位は、すでに初期にヴァリューを獲得した人がどうしても目立ってしまいます。

こうした事情は音楽だけに限りません。たとえば漫画分野にしても、コミックマーケットなどで同人誌を売るほうが、収益だけならばむしろ有利なケースがあることは以前より知られていましたが、近年はさらに漫画誌で連載をしても単行本化のハードルがますます高くなっています。漫画家というものはデビューして数年の間が厳しい。その期間に連載をしても単行本にならないのであれば、LINEまんがなどスマホをプラットフォームにした配信のほうが経済的にはむしろ有利ということも、現実味を帯びてきました。

そのような時代の変化を反映して、現代の若い創作者は「正解はこれだと、押し付けないようにしている」と異口同音に語っています。たとえばAJISAIというバンドのボーカリスト、松本俊さんは「これが正しい」というメッセージを歌わないように気をつけているという。この複雑な社会で、人生の答えは人それぞれにあるはずだから。

またApplicat Spectraのボーカル、ナカノシンイチさんも「今の時代、どんな選択肢もありえるじゃないですか。ではその選択肢の中でなにが答えかというと、それは歌詞でも言わないようにしてるんです」と語っていました。答えは自分で探すしかない。その方法を歌にしていると。

「もはや世界に正解はない」。しかし、そうであれば、彼ら青年たちはなにを拠り所にして、活動を続けているのでしょうか。それは「バランス」だと、OverTheDogsの恒吉豊さんは指摘しています。

今の時代、「自分の意見が絶対正しい」という信念の強さよりも、「どんな言葉も幾分かは正しくて、でも違う視点から見ると間違っているところもある」というバランス感覚を大事にしたい。上に挙げたような「メジャーになる以外の選択肢はない」というような信念の強さは現代では共感されづらい。

似たような意見を、実は編集の現場でも聞きます。たとえばあるオタク系漫画誌の編集長が「今ってあまり個人個人の重いドラマは読者に受け入れられず、それよりも複数のキャラクターの人間関係を描いたほうが共感される」と話していました。これは日本だけではなく、たとえばスーザン・コリンズが書いた『ハンガー・ゲーム』(邦訳はメディアファクトリー刊)のように、アメリカのヤングアダルト小説にも同じ感覚が見られます。

恒吉さんは「理屈で片付けようとしているわりには、なにも整理されてない時代だと思う。そのことに若い人のほうが気がついていると感じる」とも語っていました。

今の世の中は、ありとあらゆる言葉があふれている。たとえば原発の稼働問題にしろ、増税にしろ、金融政策にしろ、いろんな立場のどんな言葉もある。あらゆる言葉が語られて、どの言葉もなにかは正しくて、どこか間違っている。その結果かえって「言葉の力がすごく弱くなっている」と。

こうした時代、どんな意見もある程度正しく、ある程度間違っているのに、ただ自分の成功体験を語るだけの大人は、少々押し付けがましいと感じられるかもしれません。

「“売れる”ってこと自体が90年代の現象」

ロックンロールバンド、The Bohemiansの平田ぱんださんは、今の時代にまだ、売れる時代のやり方で続けようとする人がいるのは嫌だったと語っていました。

“売れる”ってこと自体が90年代の現象なんだから、今の時代に売れることを目指すのが、そもそもおかしいと思っています。それはもう今後はないことなんだから。

私のようなバブル世代とは違って、今の若い人は生まれた時から縮小の時代しかしらない。だからぜんぜん感覚が違う。このことはよく指摘されることですが、しかし私は平田さんの肉声を聞いて「そこまでか」と感じたものです。ただよく考えると、これは絶対に平田さんの価値観が正しいのです。

そういえば、1974年から1981年にグレイトフル・デッドのマネージャーを務めたリチャード・ローレンも、若い音楽家へのアドバイスとして「音楽をやりながら、食えていればそれで成功。それ以上をのぞむのは危険な道だ」と言っていました。

大量に製造し、大量に流通させる「メジャー」という仕組み。その流れに乗れば、ある程度の部数が出て成功を手にできる。車、高価なブランドの服、豪邸。そうしたステイタスシンボルも手に入る。そうした時代は過去のものになりました。

では平田さんのような青年はなにを大切にして活動を続けるのでしょうか。この人のブログに、好きなCDを買って「お金を、お金よりも大切なものに変えるのは幸福」という言葉があります。「ステイタス」を追いかけるのではない。それよりも身近で価値のあるものを、大切にする。その感覚は、案外、私にもわかるものであり、この取材でお会いした多くの普通の若者たちにも共感されるものでした。

「そんなことでは成功せん!」というご意見もあるでしょう。「欲望をたぎらせて、一心不乱に野望を追いかけてこそ、成功も手に入る」という意見もあるかもしれません。「だから草食系はダメなんだ」と。

ですがそうした「成り上がりの道」が夢として機能したのは、実は人類史上空前の発展の時代の話でした。歴史家、エリック・ホブズボームが言うところの「黄金の時代」。20世紀の、社会が一体一丸となって大量生産と大量消費に取り組んだ時代の成功のモデルです。

この時代、確かに努力は全面的に肯定していいものでした。努力することで、成功する道筋が見えていた。今とは違い「がんばれば夢は叶う」が、空疎なキャッチフレーズではありませんでした。

しかし、2000年代、いわゆるゼロ年代にアニメーション『コードギアス 反逆のルルーシュ』を大ヒットさせた谷口悟朗監督は、むしろあの時代が異質だったのであり、人間の本質はもともと誰だって、どんな世代だって努力なんかしたくないんだと指摘しています。私も、おのれのライフスタイルを振り返って、まったくその通りだと感じます。

現代の企業は「大人の事情」ばかり聴こえてくるところほど、業績が厳しい。一方、大ヒット商品は「波乗りしている時にも動画を撮影したいなあ」とか「火星に行きたいなあ」などと大人げない領域から生まれており、グローバルに展開する大きな企業は、そうした個人の創造性を、巧みに取り入れている。

たとえばAppleのiPhoneも、故スティーブ・ジョブズの「こんな電話があったら、すごいほしい」という大人げのないセンスから生まれたものだと思います。

であれば大量製造、大量消費の時代の成功の論理よりも、新しい波に目を向けたほうがいいのではないか。古典的な「アニマルスピリット」だけではなく、いろんなアニマルが生活できる社会を目標にすれば、かえって経済的な成功も見えて、日本が「新しい資本主義」のモデルをつくることもできるのではないかと感じます。

脂の乗った欲望よりも、自分の身の回りの実感を大切にする日本の若い層のライフスタイル。これからの時代、きっとそこから新しい発想が出てくることでしょう。

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電子と本のハイブリッド小説が問いかけるもの

2015年1月17日
posted by 「マガジン航」編集部

2014年10月23日に東京・下北沢の本屋B&Bで、ロビン・スローンの『ペナンブラ氏の24時間書店』という小説をめぐって、「デジタルと本のハイブリッド小説が問いかけるもの」というトークイベントが行われました[登壇者は米光一成さん(ゲームデザイナー、ライター。電書カプセル監督。写真中央)、内沼晋太郎さん(ブックコーディネーター、本屋B&Bの共同経営者。DOTPLACE編集長。写真右)と「マガジン航」編集人の仲俣暁生(写真左)の三人]。これはそのイベントの様子をほぼ完全にテキストで再構成したものです。

『ペナンブラ氏の24時間書店』のあらすじ
ぼく(クレイ・ジャノン)は失業中の元デザイナー。通りかかった24時間書店という本屋で店員募集の貼り紙を見つけてアルバイトをすることに。ペナンブラという老人が運営するその本屋には、グーグル検索では出てこない本が置かれている。しかもペナンブラは「本の中身を絶対に見てはならない」と厳命。常連客は変人ばかり。ぼくは店の正体が気になり、友達の協力の元、こっそり調査を始めた。

Part 1 これは今の時代の「青春小説」である

★これ俺だー!

仲俣:ぼくはこの本、なるべく多くの人に読んでもらいたいんですよ!
米光:読まないと友達の縁を切る! って、フェイスブックで激しかったもんね。
仲俣:はい、そうです(笑)。巻末解説(全文がこちらで読めます)を書かれた米光さん、まずこの本の面白さをあらためてお話し頂けないでしょうか。
米光:あのねあのね……好きなんですよ!
内沼:(笑)。
米光:「これ俺だー!」って思うタイプの小説って、自意識が邪魔をしてすごい語りにくいんです。興味ない人が読むと面白いのかどうかがぼくにはわからない。だから、解説でも、いちばん最初に書いたの。このキーワードに興味がある人はぜひ読めと。
仲俣:キーワードを解説のなかで羅列されていましたよね。
米光:古書店、稀覯(きこう)本、電子書籍、グーグル、秘密結社、暗号解読、愛書家、最高の本、3Dスキャナ、『ドラゴンソング年代記』、データ・ビジュアライゼーション、活版印刷、フォント、活字、博物館アーカイブ、地下の図書館、オッパイ物理学、インターネットコミュニティ、キンドル、kobo、コンピュータ、ハッカー、特撮、特異点(シンギュラリティ)、書体、ブックスキャナ、魔法使い(ウィザード)、テーブルトークRPG、みたいなね。ぜんぶ重要なキーになる。

★夏目漱石の『三四郎』を連想

仲俣:米光さん、あまりにも愛が深すぎて、今も言葉が詰まってますね。
米光:うん。
仲俣:ぼくはね、夏目漱石の『三四郎』をちょっと連想したんですよ。
米光:!!
仲俣:『三四郎』も、当時の世相を写した「現代小説」として書かれたわけです。『ペナンブラ氏の24時間書店』も、今の時代ならではの青春小説としての筋立てがある。ぼくはそこが一番面白いと思ったんですよね。
米光:思いつかなかったー!
仲俣:この作品の舞台はドットコムバブルがはじけた2000年代以降の、Koboとかキンドルが登場しているまさに「今」の話じゃないですか。サンフランシスコでベーグル屋のサイトをデザインしていた若者が失業し、本屋で不思議な老人と出会い、バイトを始める。いわば「メンター」に当たる人を得て、素敵な彼女もできて。仕事に悩んだり恋愛したり友達に助けられたり……と青春小説に必要な要素が揃ってる。ある種の成長小説、教養小説ですよね。
内沼:なにもできなかったぼくが、世界を変えるような発見を!
米光:冷静だあ。いま、感心しながら聞いちゃった。
仲俣:だから、冒頭から面白いと思った。ベーグル屋のウェブサイトの話とか、そこだけで笑えるじゃないですか。
米光:ぼくがいちばん最初に掴まれたのは、本屋でバイトし始めて、ターゲティング広告プログラムを使うところ。
仲俣:あそこはいいですねー。
米光:今の若者だったらやるやるー。
内沼:B&Bはやってないですけどねー。
米光:やんないのー?
内沼:やってもいいですよね。なるほどって思いました。

★ぼくらの時代の話

仲俣:内沼さんは書店を経営する立場であるし、ロビン・スローンとも年が近いんですよね。
内沼:ロビン・スローンと同い年と聞いて納得しました。ほんと今の小説だなあと。主人公のクレイが言うんですよ。

〈本を手に入れる場合、心地よさ、手軽さ、満足感の面から順番に並べると、ぼくの入手先リストはつぎのようになる。
1. バークレーにある〈ピグマリオン〉みたいな、一〇〇パーセント、インディペンデントな本屋
2. 広くて明るい〈バーンズ&ノーブル〉。あそこが大企業なのはわかってるけど、現実に目を向けよう〉

内沼:最初に行くのがインディペンデントな本屋っていうのは、リーマンショック以降の話だと思うんですよね。自分で言うのもなんですけど、B&Bみたいな店。
米光:だよねー。
内沼:日本で言うと、B&Bに行って、そのあと紀伊國屋書店、みたいな。ぼくらの時代の話だなって、親近感を持ちました。ディティールが面白い。
仲俣:そのあたり、ちゃんと分かってて書いてる。あと、MacBookで、ペナンブラ書店の3D模型を作ったときに、

〈それっぽい光がそれっぽい窓から差し込み、それっぽい店に鋭角の影を落としている。これを聞いてすごいと思ったら、あなたは三十歳を超えてますね〉

って、年齢で線を引くでしょう。ぼくはもう50歳ですけど、笑ってしまいました。これは世代論を言っているだけじゃない。実は、小説全体の中で3Dや影が重要なキーワードになっている。でも、そこに、若者らしい生意気さをちょっと入れこんでるのがいいなと思って。同世代の人が読んだら、なおさら共感できる小説じゃないかな。
内沼:パーティに出席できない主人公のために、彼女がビデオチャットで映像を中継して参加させるっていうシーンがあって。
米光:自分は本屋でバイトしてるから、彼女がノートPCを持って歩き回る。「人工知能のプロトタイプなの」「パーティ用の愛想のいい冗談を言うようにデザインされた。さあ、試してみて」って紹介してて。
仲俣:あのビミョーな疎外感ね。
内沼:疎外感と、でもいちおう参加してる感じと、ちょっとだけ特別扱いな感じ。
仲俣:分かる分かる。
内沼:これも今、実際にある。
米光:やってる?
内沼:ぼくはやってないですけど、最近だと遠距離恋愛してるカップルが家に帰ったらスカイプを繋ぎっぱなしにしたりするらしくて。一緒に住んでる感覚で。
米光:そっか。同居はできないけど、会話して時間を共有してる。
内沼:そういう経験のある人います?(客席に)。あ、いない。ぼくよく聞くんですよ。

★グーグルの社員が登場

仲俣:このなかで、とくに好きなキャラクターはいますか?
内沼:みんな好きです。米光さんがおっしゃってたように、自分と近すぎて語りにくい世界だと、全キャラクターが愛おしいんですよね。この世界にいたいなーと。
米光:ねー。
内沼:そんな感じしますよね。
米光:グーグル社の美人の彼女欲しいもんね。
内沼:グーグル社の美人の彼女欲しいですよねー。すごい役に立つんですよね。グーグルのリソースが。
米光:というか、彼女がいないと成り立たない冒険。だから、ちょっとスパイ小説っぽくもあって。
内沼:そうそう。
米光:今、現代でスパイ小説を書くとこうなんだ。007がやってたことを、ふつうの人ができるんだ。グーグル社員の彼女がいれば。
内沼:グーグル規模のコンピューターがないとできないことにチャレンジしたり。
米光:いいなー、グーグル。
仲俣:それにくわえて、子供の頃に読んだ岩波少年少女文庫とか、「ドリトル先生」シリーズとか、ジュール・ヴェルヌのSF小説に通じる、ベーシックな物語の楽しさがある。ロビンみたいに教養のある人なら、もっと小難しい高踏的な小説だって書けるかもしれない。でも、主人公が店員募集の貼り紙を見て、ペナンブラ氏にいちばん好きな本を聞かれてさ『ドラゴンソング年代記』です、って答えるでしょ。
米光:ティーンのころに読んだ小説を挙げる。
仲俣:あれは、ぼくらの世代だと何に相当するだろう?
米光:『グインサーガ』(栗本薫)とか『ドラゴンランス』『銀河英雄伝説』(田中芳樹)
仲俣:そんな感じですよね。で、ペナンブラがそれを受け入れる。
内沼:「あれはいい、とてもいい」って笑顔で。
仲俣:そこが感動しましたね。

★職人へのリスペクト

内沼:あと、ここも好きですね。主人公と同居してるマットが言うんですよ。

〈「いや、やりながら学習するってことがさ。おれたちの仕事もそうなんだけど、コンピュータ使いのやつらとは違うんだよ。あいつらは毎回同じことをする。なんでもかんでもピクセルだ。おれたちの場合はすべてのプロジェクトが異なる。新しい道具、新しい素材。何もかもが毎回新しいんだ」
「ジャングルモンスターみたいに」
「そのとおり。おれは四十八時間で盆栽の達人になる必要があった」〉

内沼:このセリフからも、職人へのリスペクトを感じます。最近ネットで1000時間理論、なんでも1000時間あればマスターできるっていうの見かけますよね、あれって、半分ほんとで半分嘘だと思ってて。
米光:うんうん。
内沼:スキルって、積み重ねていくうちにシャンプする瞬間がある。マットは48時間で盆栽の達人になれる人なんですよね。それは、彼のなかにオールドナレッジがたくさんあって、ずっとコンピューターで何かやってた人よりも、スキル的なジャンプが素早くできる。
米光:あとさ、何かを「やるぞ!」って決めたときに、入門書を買ってきてまるまる読んでから始めるんじゃなくて、まずはやっちゃう。やりながら必要なところをちらっと読んでいく、みたいなやり方って、今のやり方だよね。
内沼:そうそう。
米光:その感覚が出てていいですよね。
仲俣:
作者のロビン・スローンも30代前半と若いし、主人公も若いんだけれど、その一方で、ペナンブラ氏とか、彼の24時間書店に通う人たち、あと、ネタバレにならない範囲で言うと、秘密結社の人たちとかは、はるかに年長なわけです。
米光:まあ、お年寄りと言えるくらいの人たちで。
仲俣:ですよね。そういう人が次々出てくる。ぼくや米光さんは、どっちかって言うと、こちら側に近づきつつあるじゃないですか。
米光:いやいや、ぜんぜん、ぼく、読んでるときは主人公側だったよ?
仲俣 & 内沼:はははは。

★前日譚『1969年のエイジャックス・ペナンブラ』

仲俣:ITなどの新しいハイテクノロジーを描く一方で、この小説は、過去をどんどんさかのぼるというか、過去と対峙していく。この小説には、『1969年のエイジャックス・ペナンブラ(Ajax Penumbra 1969)っていう短い前日譚があって、それは英語版だけなんですが頑張って読んだんですよ。
米光:おおー。
仲俣:『ペナンブラ氏の24時間書店』を読んだときに、サンフランシスコを舞台にした本屋さんの小説なら、絶対出てくるだろうなーと思ったのが、リチャード・ブローティガンの『愛のゆくえ』っていう小説なんですよね。
内沼:うんうん。
仲俣:これは1960年代末のサンフランシスコの変わった図書館に住み込みで働く青年が主人公の話なんです。その図書館には、みんなが自分のいちばん大切な思いを書いた本をもってくるんだけど、それを保管する場所なんです。
内沼:似てますよね。
仲俣:そう。『ペナンブラ氏の24時間書店』ではブローティガンのこの本には言及されていないけど、『1969年のエイジャックス・ペナンブラ』にはちゃんと、この本を読む場面が出てくるんですよ。60年代から繋がってるサンフランシスコのカルチャーと、現代のITとが二層構造にしてあるんですよね。ただし、ウソも混ざってる。「ゲリッツズーン書体」とか、あれぼくネットでさんざん調べましたよ。
米光:そうそう、ないんだよな。ほんとにあると思ってた。
仲俣:でも、そういう虚実をまじえつつ、サンフランシスコという場所とか、西海岸のカウンターカルチャーにも接続していて、そこにも共感しながら読んだんです。

★くすぐりがいっぱい入ってる

仲俣:あと、我々の業界向けのくすぐりもありますね。たとえばkoboユーザーはちょっと複雑な気持ちになる台詞とかねー。
米光:ははは。“koboって書いてある。マジで? ふつうコボを持ってる人なんていないよ。”って驚かれるという。でもそのへん、実感と合ってる。それが分からなくても読めないわけではないのだが、分かると終始ニヤニヤしながら読める。
仲俣:でも、『ペナンブラ氏の24時間書店』の電子書籍はKoboでもちゃんと売っています(笑)。
米光:これも好き。唖然とした表情を喩えるとこ。

〈“404 ページが見つかりません” というエラーメッセージを顔で表現したらこんな感じだろう。〉

内沼:いいですねー。
米光:それから、自分の才能を活かしている友達を表現するときに、

〈これがマットの秘密兵器、パスポート、刑務所からの釈放カードだ。彼は美しいものを作る〉

って言うの。
モノポリーをやってると、刑務所からの釈放カード! あの感じかーっていうのが分かったりとか。まあ分かんなくてもなんとなくニュアンスは伝わるみたいな表現がたくさんあって、そこも面白いですね。テーブルトークRPGやってる人は必読。そのへんのくすぐりもいっぱい入ってる。
仲俣:
謎の本屋の店主の名前が、エイジャックス・ペナンブラ。このエイジャックスという名前で、クスっと笑いますよね、少しでもウェブ業界で仕事していれば。
内沼:そうですね。ぼくがいいなーと思ったのは「奥地蔵書」にウェイバックリストっていうルビがあるところ。これはインターネット・アーカイブによるキャッシュデータ閲覧サービスの名前ですから。
仲俣:そんなふうに、解読できるキーワードが複数仕込まれてるわけです。

★オッパイ物理学ってほんとにある?

内沼:絶妙にありそうでなさそうなところも面白いですよね。
仲俣:さっきの「ゲリッツズーン書体」もそうですが、半分くらい嘘ですからね。
内沼:オッパイ・シミュレーション・ソフトウェアを開発してお金持ちになった、ニール・シャーという友達がいたりとか、本屋に飛び込んでくるグーグル社員の女の子キャットがすごい可愛いとか。
米光:女の子が可愛いのはありえるもーん。
内沼:オッパイ物理学って言葉は実際にあるんですか?
米光:ゲーム業界ではね、3Dになったとたんに、どうおっぱいを揺らすのかが売上に影響する重要課題になったのね。
内沼:なるほど。ニール・シャーはけっこうな発明をしたんですね。
米光:彼が日本にいたらゲーム業界にひっぱりだこ。
内沼:実際にそういうプログラムってあるんですか?
米光:どうなんだろー。詳しくは知らないけど、専門の会社ではないのかなー。やっぱあるのかなー。
内沼:あるのかなー(笑)。
米光:あってもおかしくない。人体をリアルに動かすのってすごい技術なので。

★グーグル社の秘密

米光:あと、グーグルの社員食堂では、栄養学的にカスタマイズされたメニューがひとりひとりに出るってのは本当なの?
内沼:解説でも書かれてましたね。
米光:読んだ仲間で大激論ですよ。ないような気もするけど、あって欲しいからありということでって結論を出し。
内沼:さすがにそこまでじゃないだろうけど、ぎりぎりありそうな。
米光:そうそうぎりぎりありそう! だから近未来小説っぽくもある。
内沼:
ぼく、キャットがクレイに頭の冷凍保存の話をするところが好きなんです。
米光:
“「あなたの頭も冷凍する。千年後にあなたはあたしに感謝するから」”
内沼:グーグル社員の可愛い女の子が真面目に言うのがいいなーと。キャットにとってはそれが愛情なんですよ。
一同:ははははは。
米光:しかも、寿命の延長を研究してるグーグル・フォーエバーっていう部署があって、そこに頼まなきゃー、みたいなね。それはほんとにあるの?
仲俣:半分はホラ話でしょうね。ただ、エンターテインメント小説だけど、グーグルについて知りたいっていう関心も、読む際のフックになりますよね。あと後半は本の歴史が絡んだ謎解きになるんだけど、そこにも嘘が混ざっている。

Part 2. EPIC2014、クラウドファンディング、アーカイブ

★ロビン・スローンってどんな人?

仲俣:絶妙なホラという話になったから、ロビン・スローンがどんな人なのかを紹介しますね。彼を語るときにはずせないのが「EPIC2014」です。
米光:2014年までのメディア状況を未来予測したと言われているフラッシュムービー。
内沼:2004年当時話題になった8分ほどの動画です。流します?
仲俣:じっさいに見てみましょう(下の動画は日本語字幕版)。

米光:メディア史博物館が2014年に作ったという設定で。
仲俣:そこからして嘘なんだけどね。
内沼:その動画を作ったのがロビン・スローンなんです。
仲俣:ロビン・スローンとマット・トンプソンの2人組ですね。ロビンは大学を卒業後にポインター(Poynter)というジャーナリズムの研究所に通っていて、そこに在籍中にこの動画を作ったんです。
内沼:
かなりの打率で当たってますよね。
仲俣:いまでいう「キュレーション」とかも出てきますね。ちなみにロビン・スローンはこのとき24歳。ジャーナリズムをきちんと勉強して、かつITのトレンドを見ていたから、10年経ってもそんなに外れていない、というのはすごい。ただ、この動画にはたとえばユーチューブは出てこないんです。2004年にはユーチューブはまだなかったので。
内沼:まあでも、ユーチューブみたいなのは出てきましたよね。テレビを買収するやつ。
仲俣:同じように、ツイッターもフェイスブックも出てこないけど、トレンドは外してない。ロビンのバックグラウンドを知るにはすごくいいムービーです。
内沼:ブログやユーチューブで、個人が広告収入を得るようになったとか、情報がニュースキュレーションみたいにカスタマイズされて届くようになるとか、このあたりは完全にその通りですよね。
仲俣: 大学の授業でネットのことを教えるとき、ずっとこれを学生に見せてきたんだけど、何度も見てると、だんだん、これは冗談なんじゃないかと思えてくるんですよ。たとえばGoogleとAmazonが合体してGooglezonって、どーんと出るところは、笑いを喚起してるんじゃないか、って。メディアの人、とくに新聞社の人は、あれを見て暗い顔しちゃったわけだけども、この小説を読んで、「やっぱりあれは笑っていいんだ」と。
米光:はははは。

★新しい出版のやり方

仲俣:ロビンは世界中に知られた「EPIC2014」を作って、その後はどうしたのか、気になっていたんです。ポインターを辞めたあとに、ゴア元副大統領が立ち上げたカレントTVという、ニュース専門のテレビ局に「雇ってくれ」と押し掛けて、職を得るんです。そのあとに、KDP(キンドルデジタルパブリッシング)で『ペナンブラ氏の24時間書店』のショートバージョンを自己出版しているんですよ。KDPが出てきたときに、すぐにやっている。そういう、新しいことが出てきたらすぐやってみるところも、今風の若者です。それは『ペナンブラ氏の24時間書店』の登場人物にも投影されていて、ロビン・スローンという作家の面白さと、この小説が持っている、今の若者にとってのリアリティにズレがなくて、当事者という感じがするんです。
 もうひとつ他の映像も映していいですか?

キックスターターの映像を流す)

仲俣:これは2作目の小説『アナベル・スキーム(Annabel Scheme)』を出すために、キックスターターで出資を募ったさいのプロモーションムービーです。これは女性探偵の話で、その相棒が「型落ちのコンピューター」だという設定のミステリーなんです。

(客席から笑いが起こる

仲俣:英語が分かる人は笑ってます。
米光:いいなあー。
仲俣:キックスターターで彼は、当初の予定よりたくさんのお金を集めたので、執筆、印刷、製本、発送まで、すべての過程をブログで公開したんですね。それを文芸エージェントと出版社の人が見ていて、この2作目や『ペナンブラ氏の24時間書店』のショートバージョンを読んで、めでたくこの本が出版された。それでニューヨークタイムズのベストセラーリストに入るほどになった、という一種のシンデレラストーリーなんです。
この映像を見て思うのは、勝手に言っちゃいますけど、彼はずっと小説家になりたかったんだと思うんですよ。「EPIC2014」で世の中に衝撃を与えたあとも、KDPやクラウドファンディングを使って、いろんな形で小説を出版する試みをしていた。新しい出版のやり方を、いちはやく実践していたんです。だから、さらに共感をしてしまうんですよ。
米光:そうか! なるほどね。
仲俣:しかも小説として面白い。ぜんぶ自分でやって、なおかつ小説が面白い。そういうすごい才能は、日本にも藤井太洋さんのような人がいるけれど、ロビンはそのサンフランシスコ版という感じがしたんです。
米光:作るのが好きな人の小説ですよね。
仲俣:そう、ものを作ることが好き。
米光:苦しんで苦しみぬいて書くタイプの小説家と、作る作業そのものが楽しいタイプの小説家がいて、ロビン・スローンは明らかに作るのが好き。もう、ニヤニヤしながら書いていくタイプ。

★紙とデジタルの対立を乗り越える

内沼:主人公のルームメイト・マットがものを作る達人っていうのも象徴的ですよね。
仲俣:コンピューターだけじゃなくて、手作りの人も出てくる。
内沼:一方、主人公の幼なじみ・ニール・シャーは、オッパイの揺れをリアルに再現する3Dプログラムを開発していて。2人とも、主人公がペナンブラ書店の謎を解くときに役立つんですよ。これって象徴的ですよね。
米光:そうだね。どっちが良い、悪いではなく。
内沼:そうそうそうそう!
米光:紙の本や活字文化が衰退して、いろんなことが失われていることが通奏低音として流れている。でも、デジタルハイテクノロジーでいろんなことが変わっていくことも、ちゃんと描かれている。紙とデジタルの単純な対立じゃない。
内沼:どっちもあっていい。半分は希望的観測かもしれないけど、やっぱり、ぼくらの実感としても、そうだよなって思う。なんて言うんですかねー、仲間意識っていうか。そうだよな、分かってるな、みたいな。
米光:分かってるよねー。
内沼:握手したいかんじがする。

★アーカイブの場所

内沼:ちょっと話変わるんですけど、全体を通して「アーカイブするのは大事」っていうエピソードが出てくるんですよね。
仲俣:後半ですね。
内沼:ネタバレになるので詳しくは言えませんが。
米光:前半も、24時間書店自体が、奇妙なアーカイブの場所として成立している。
内沼:アーカイブが大事っていうのは、今、すごくリアルな話じゃないですか。例えば最近出た福井健策さんの新書。

──(客席から)これですか?(場内のお客さんがカバンから取り出す)

内沼:
そうです! 『誰が「知」を独占するのか―デジタルアーカイブ戦争』(集英社新書)
米光:すごい。お客さんの能力高すぎ。
内沼:「欧州がグーグルと闘うのはなぜか。」という帯がついています。国が日本の知的資産をきちんとデジタルアーカイブ化してないことへの警鐘を鳴らした本です。で、やっぱり、グーグルがデジタルアーカイブを作ろうとしているからこそ、『ペナンブラ氏の24時間書店』は成り立つ。
米光:しかも「どうアーカイブするか」がキーになってる。後半は「そのアーカイブのしかたでいいのか」が争点になってくる。
仲俣:この話は表面上、ある秘密結社に若者たちが戦いを挑む話ですよね。そのなかで、いろいろと「グーグルでは検索できないもの」が出てくる。
米光:グーグル検索には引っかからない、存在しないはずの本が、24時間書店にはたくさん置かれている。それが謎になっている。
仲俣:グーグルでは検索されない知のアーカイブがあって、若者はそれに出会う。直接的にグーグルが敵だとは言ってないけど……。
米光:そうねー。だからスパイ小説として見ると、巨大悪の組織グーグルと戦っているんだが、グーグルを大活用している。不思議な構成ですよね。
仲俣:アーカイブが大事だというのは、本質を突いている。小説の鍵であり、ロビン・スローン自身のメディア観でもあるのかな。インターネット・アーカイブの創設者ブリュースター・ケールが2011年に来日したときに、当時の国立国会図書館長の長尾真さんに小さなハードディスクを渡して、インターネット・アーカイブの中身はこれに全部入りますと言っていた。これだけ小さなものの中に、データとしてならばすべての知は入りうるんだと。それとどう付き合って行くのか、って。

★アーカイブが取りこぼすもの

米光:でもこの本って、それに入りきらないものがたくさんあるんだぜってことをすごく言ってる。直接的には言わないんだけど、そこがテーマですよね。オールドナレッジ、OKがあるんだと。グーグルはOKを集めようと頑張っているが、膨大に集めているからこそ、そこが欠けてるんだって認識も、ビビットに正しく感じるし。
内沼:ほんとそうです。
米光:しかもOKをたくさん溜め込んで、えっと、むはー、どこまで言っていいの?
内沼:あははははは。
米光:OKの象徴である「あるもの」をデータ化するんだけど、それだけでは謎が解けない。データにしたときに色んなものが削がれていくんだってことがキーになっている。あ、関連書籍として『ラインズ 線の文化史』(ティム・インゴルド/左右社)を持ってきたんだけど。
仲俣:この話とどう関連するの?
米光:そう、後半の内容に触れるから、あんまり言えないってことに気づいたわー。ラインズって何かというと、つまり、書いたときの軌跡(=ライン)なんですよ。活字になった瞬間にその軌跡が失われることを追求する……、
仲俣:あー!
内沼:わー、ぎゃー。
米光:いま、この本の説明をしてるんだよ!
仲俣 & 内沼:ははははは。
米光:軌跡が失われていることが、丹念に、でもポエティックに、いろんなところに飛び火させながら書かれている。筆記だけではなくて、例えば旅行。歩いて旅行してたときは軌跡だったけど、乗り物による運搬になった瞬間に、駅と駅、点と点を結ぶものになってしまった。どんどん断片化して、軌跡が失われることによって、我々は何かを失ってるんじゃないか。
内沼:関連書籍ですね!
仲俣:東大の記号学会のシンポジウムで、この本が置いてあったんですよ。つい買ってしまって。そのまま積ん読にしていました。
内沼:ぼくも気にはなってたんです。
米光:けっこうハードな本ですけど、すごく刺激的。

★「人がにおいについて話し出したらおしまい」

仲俣:藤井太洋さんの自己出版によるデビュー作『Gene Mapper -core-』は、インターネット後の世界を書いたSF小説でしたよね。インターネットが崩壊して次のネットワークの時代になったとき、インターネットの中身が今でいうオールドナレッジになってしまう。その未来から現在を相対化したのが藤井さんの『Gene Mapper -core-』だとしたら、ロビンの『ペナンブラ氏の24時間書店』は、過去の知識とどう向き合うかが書かれている。別に、昔のものがいいよね、データより物が大事だよねっていう言い方じゃないんだけど…。
米光:主人公がペナンブラに本のにおいについて話すシーンが印象的で。

〈「なんでも携帯電話で読むものとばかり思っていたよ」
「みんながみんなじゃありません。いまだに、その……本のにおいが好きな人はたくさんいます」
(略)
「人がにおいについて話し出したらおしまいだよ」〉

内沼:ペナンブラでさえそう言うわけですよね。名言ですよ。ぼくも「本の匂いが……」とか言う奴に、次からはそう言おう(笑)。
仲俣:紙の本はもうなくなってしまうの? といった底の浅い議論を乗り越える感覚を持っていて、そこがすごくいいなと思ったんです。
内沼:そう、だから、馬鹿にしてる対象もいっしょなんですよね。リアルなところで共感するというか。
米光:そこじゃないんだよってとこを、ちゃんと乗り越えている。

(このあとで10分休憩)

Part 3 どうすればもっと読んでもらえるか作戦

★ロビンを日本に呼ぼう!

仲俣:休憩中のエピソードを。さっきまで一番前にいて、お帰りになったクレイグ・モドさんは、ぼくらの友達です。
内沼:DOTPLACEで「ぼくらの時代の本」という連載をされていて、ボイジャーから12月に本が出ます
仲俣:彼が携帯でずっとメールしてるから、何をしてるんだろうと思ってたら、ロビン・スローンに連絡していたというんですよ! 東京でこんなやつらが会を開いて、ロビンを日本に呼びたいって言ってるんだけど、来る? って聞いてくれたらしい。そしたら「行く!」って返事が来たらしいです。

(客席から「おおー!」とどよめき)

仲俣:もしそうだとしたら、あとは旅費だけの問題なので、ぜひぼくらで盛り上げて、ロビンを呼びたいですね!

★本屋でどこの棚に置いていいのか分からない本が不当に扱われている問題

仲俣:これから先は、この本をさらに盛り上げるにはどうしたらいいか、話しましょう。ぼくは『ペナンブラ氏の24時間書店』は「文理融合小説」だと思っているんですよ。スティーブ・ジョブズが「リベラルアーツとテクノロジーの交差点」と言ったように、この2つがあってこそ、クリエイティブなものが生まれる、その実践例だと思うんです。でも、いまの日本では本や本屋さんが好きな人はITが苦手で、IT好きな人は図書館や本に反応してない、という気がします。
米光:ぼくは本もITも好きだし、そういう人はぼくの周りにはたくさんいる。そこに届くか届かないかの問題がある。つまり「本屋でどこの棚に置いていいのか分からない本が不当に扱われてる問題」です。この本は小説の棚に置かれますよね。もちろん小説として面白いからそこに置いていいんだけど、そこじゃない人が手に取らないでしょう。
仲俣:内沼さんのところではどこに置いてます?
内沼:この店だったら、やっぱり「本の本」のコーナーに置きますよね。電子書籍とか、本の装丁とか、出版の未来とか、いわゆる本について書かれた本の棚。そこにずっと置いておくタイプの本です。でも、ふつうのお店ではそうはいかないですよね。

★関連図書を並べたい

米光:ジャンルが分けられない問題は逆に言うと、いろんなところと接続してるっていうことだから。関連図書を並べてみたいな。
内沼:そうですよねー。例えば、シンギュラリティって何だろうって思ってる人がこれを読むといいですよね。グーグル社員の女の子キャットが、会話の中で説明してくれる。
仲俣:説明がすごく分かりやすくていいですね。
内沼:『テクニウム』(注:テクノロジーの発展と生物の進化とを重ね、「What Technology Wants=テクノロジーの望むもの」を明らかにしようとする大著。著者のケヴィン・ケリーが来日時にB&Bでトークショーを行った)もそういう話じゃないですか。そういうところに置いてあってもいいんですよね。
仲俣:棚も作ってみたいよね。
米光:うん棚作りたい。
仲俣:『ペナンブラ氏の24時間書店』や『アナベル・スキーム』の前に、ロビン・スローンがキックスターターでやったのが、新しいリベラルアーツを見つけよう、っていうプロジェクトなんですよ(PDFがダウンロード可)。今の時代の教養は何を読んで身につけたらいいのかを仲間と一緒に考えて、小冊子を作ったらしい。そういった、どこにでも繋がっていく彼の教養の幅広さは、この本にも詰まっている。文理融合、デジタルもアナログも理系も文系も文学もテクノロジーも、というあたりを、ぼくらが分かりやすく解きほぐしていくことが大事なのかもね。

──(客席から)この小説を読んで、いちばん近いなーと思ったのは『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ/東京創元社)なんですよね。

3人:あー!
仲俣:実はそうかも。

──(客席から)そういう王道の外文に持っていくのもアリかなーと。

米光:
そっちもあるよと。
仲俣:やっぱり棚作んなきゃ!

──(客席から)ある意味教養小説だし。

仲俣:意識はしてると思いますよ。
米光:そうね。若者向け『薔薇の名前』みたいなね。

──(客席から)さきほどから関連書で挙がるのが、海外小説ですよね。日本の書籍に繋がるキーワードが出てくると売りやすいんじゃないでしょうか。

仲俣:逆に言うとね、そこで名前が出てこないことが、日本の小説とか本がつまんないことの象徴なんじゃないかな、って。
米光:うーん。
仲俣:こういう小説がなぜ、日本でふつうに書かれて読まれないのかな、って思うんです。ひとつは、ITは生活に定着しているけれど、小説に書きにくい面があるでしょ。
米光:そうですね。それこそ、少し前までは小説に携帯電話を出さなかった。「もう、携帯ない時代にします」っていう作家さんもいたぐらい。ITや携帯を出した瞬間に、今までの表現の艶みたいなものが失われるから、そこと格闘している人もいるし、格闘せずに、ないことにしている人もいる。
仲俣:ずっとフェイスブックやツイッターやってる主人公のことを、小説のなかでどう描写したらいいか、ものすごく難しいですものね。
米光:でもね、長嶋有さんの『問いのない答え』(文藝春秋)は、ツイッターでの交流を描いているから。
仲俣:『問いのない答え』、読んでないけれど気になります。
米光:あと『すべてがFになる』(森博嗣)は近いかもしんない。
仲俣:ドラマではなくて、原作の小説のほうですね(笑)。
米光:ウィンドウズを使わないほうね(笑)。
内沼:ドラマ版は、工学部の助教授がウィンドウズ使ってて、「こんなの犀川先生じゃない」って叩かれている。
米光:あれも、文理融合だし、今の感覚の青春小説っていう意味でも近いし。

──(客席から)ぼくは出版社の営業なので、本を読む前にPOSデータを見ちゃうんですけど。TSUTAYAさんで、この本と一緒に一番買われているのが、『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』(佐々涼子/早川書房)なんですよ。

3人:ああーー!
内沼:やっぱり出版関係なんですね。
米光:本に興味ある人が買ってるってことだねー。ちょっと、今のこの感じも小説っぽかったね。ぱっとすぐ調べて。
仲俣:さっき、クレイグがロビンにすぐメールしたみたいにね。
米光:これで冒険が進む、みたいな。
内沼:アマゾンだと、関連書籍は東京創元社や早川書房のミステリーですね。出版関連の本は出てこないです。
仲俣:いろんな文脈があるから、それでもいいんじゃないですかね。

★次に読んでもらうなら誰?

仲俣:次にこの本を読んでもらうなら、誰がいいかな?
米光:声の大きいIT系の社長に刺さって欲しい。それこそ堀江(貴文)さんとか。
仲俣:ぼくもあるITベンチャーの立ち上げに関わったことがあって、ドットコムバブルの盛衰を間近で見たんですよ。ユーチューブがぐーんと伸びるなか、日本の同じようなビジネスがまったくかなわずに敗退していく姿とか。だから、主人公がITバブル崩壊のあとに失業してる感じがすごく分かるんです。なので同時代のITベンチャーにいる人たちには、ぜひ読んでほしい。

──(客席から)この何年かIT系で売れた本って、ふだん本を読まない人が読んだ本なんですよ。この本もそこに届かないとダメだと思うんですね。正直な話、ふだんぼくが見ているブログのなかでも、仲俣さんしかこの本のことを書いてない。それはたぶん、「EPIC2014」と結びついていないから。誰かが言わなきゃいけない。

米光:
言ったんだけどなー。声を大にして。

──(客席から)「EPIC2014」が有名になりすぎて、誰が作ったかはあまり語られてこなかった。

内沼:じゃあ、「EPIC2014」についてかつて書いたブロガーで、今もまだブログやってる人に、本を送ればいいってことですね。

──(客席から)そうですそうです。当時「EPIC2014」見た連中はみんな読めっていう。

仲俣:この本の献本先も集合知でやったら面白いかも(笑)。カート・ヴォネガットみたいに、はじめは大学生がカルト的に支持していた作家が、より多くの読者に見出されて売れていく、そういうことになりうる本ですよね。

★帯コンテストもやりたい

仲俣:会場の皆様にも、「ペナンブラ愛」を語っていただきたいです。せっかくいらしてくださったので、東京創元社の担当編集の方、コメントを頂けるでしょうか。
担当編集者どうも、担当編集です。翻訳の先生からのご紹介で、この本を読みました。やるとなって、ミステリーとSF、どっちで出そうか悩みました。SFの担当者とどっちがやる? って話になって。結局、ミステリー担当の私がやりました。
米光:謎で引っぱってわくわくさせるところや、スパイ小説っぽいところはミステリーだし、ホラ話が混ざってるところはSFでもある。
仲俣:文脈の多い本だから、ある売り方を試すと、それ以外だと読まない人が出てきちゃうますよね。たとえば、帯を何種類か作ったらどうでしょう。
内沼:いいですね。米光さんが解説に書いたみたいに、例えばシンギュラリティとか、電子書籍とか、これに興味ある人は読めって書いてあったら、置かれるべき棚が変わってくるかもしれません。うちだったら「本の本」の棚に置くように、他の書店さんも、あそこにも置こうかなって。
仲俣:帯コンテストもやりたいですよね。勝手に帯をデザインするコンテスト。

──(客席から)オッパイ物理じゃない?

米光:
オッパイで攻めるべきかもしんないねー。
仲俣:ロビンが来るまでに、そういう実験をして盛り上げていきたいですね。じつは、翻訳者の島村さんもいらっしゃってます。ひとことお願いします。
島村:
翻訳者の島村浩子です。この作品を、アメリカに住んでらっしゃる渡辺由佳里さんのブログで拝見して、これは面白そうだと。そのときはまだ出版されていなくて、電子書籍も手に入らない状態だったので、リーディングを私がやりたいと申し出たんですね。本書を読んでいただいた方はお分かりだと思うんですけど、彼、日本が大好きだと思うので。
仲俣:そうですね。
島村:ぜひ日本に来て欲しいと思っています。あと、電子書籍と紙の本だけでなく、オーディオブックも出てきますよね。
内沼:オーディオブックのシーン、いいですよねえ。ネタバレになっちゃうから言えないー。
米光:そうそう。そこでこう、話が展開するところがねー。
島村:オーディオブックの良さも取り上げていて、ほんとうに彼は、なんていうんでしょう、紙の本も、電子書籍も、オーディオブックも対立するものではなく、どんなものもありなんだ、ということを書いている。そこを楽しんでいただけたらと思いますね。

★コミカライズやbotもアリ?

──(客席から)オーディオブックになったりはしないんですか?

担当編集者:日本では今のところ予定はないですね。
米光:作中でも出てくるという意味で、オーディオブック化するのはいいかもしれないですね。
仲俣:キャラクターが魅力的だから、コミカライズやアニメーションにもきっと向いてるよね。
米光:うんうん。
内沼:漫画化して欲しいですよ。
米光:昨日ひさしぶりに読んだときに、気に入ったフレーズを #24時間書店 でツイートしたんですよ。それは反応よかったなー。やっぱりいいフレーズがあるから。
仲俣:創元社にペナンブラ氏のbotをやって欲しいな(笑)。
米光:今から読む人は、 #24時間書店 で、フレーズを引用してもらえると。きっと、色んな人が色んなところを気に入ると思う。ぼくとかは、ボードゲーム好きならわかる箇所を引用したけど、入射角によっていろいろ違うと思うんだよね。
仲俣:じつは、『ペナンブラ氏〜』の翻案小説を書いている方がいらしています。もしコメントがあればぜひ。

──(客席から):ぼく英語が苦手で、「1969年のエイジャックス・ペナンブラ」が読めないんですよ。どこかで出していただけないかなーと。

仲俣:あれは紙の本にするには短い話なので、電子書籍なら出せるかも。

──(客席から):あと、ミスタースローンが日本に来たらですね、「EPIC2014」の小説化をお願いしたい。

米光:
2014年来ちゃったからなー。
仲俣:「EPIC2014」の冒頭にはディケンズの『二都物語』の冒頭の言葉(It was the best of times,
it was the worst of times)がそのままが使われていて、欧米人なら分かる。日本で例えるなら、「祇園精舎の鐘の声〜」で始まるような感じ(笑)。「EPIC2014」はじつはフランス革命を意識した勝ち抜き合戦の話で、マイクロソフトがグーグルゾンに負けて、最後ニューヨークタイムズとグーグルゾンが戦う……というエンタメの構造になっている。だから、物語化もできると思いますね。前日譚の翻訳、ノベライズ、コミカライズ、キャラクターシート、帯、ハッシュタグ、bot。たくさん出てきました。
米光:いろいろ展開していかないと。
仲俣:いま客席から発言してくれた原田晶文さんには、「マガジン航」で「和製ペナンブラ」のメイキング・オブ(「もしも、ペナンブラ氏が日本人だったら」)を書いてもらっているんです。
米光:和製?
仲俣:「もしも、ペナンブラ氏が日本人だったら」という設定で小説を書いてもらって、それを電子書籍で発売するというプロジェクトなんです。先月から始めて、そのスピンアウト版がもう読めるんですよ。
内沼:へー。
仲俣:面白いですよ。日本人と欧米人の書物観の違いとか、浮世絵とか平賀源内とか、和本好きにはたまらないネタが満載なので、興味のある方はぜひごらんください。こういうふうに、読むだけじゃなくて、創作意欲を掻き立てる面もありますよね。あれを読むと、自分でもなにか書きたいと思いませんか?
米光:うんうん。
仲俣:思いますよね?
内沼:思いました。
米光:ねー、なんだろうね。そのかんじあるねー。

★「本屋さん」小説として

内沼:さっきクレイグが教えてくれた話を。
仲俣:そうですね。お手元に本がある方は、裏表紙をご覧ください。そこに描いてある本棚の、下から6段目の棚に、原書の表紙が描かれている。
米光:
おおー。
内沼:こういうのいいですよねー。
担当編集者:表紙をスカイエマさんにお願いしたときに、本棚を描いてくださいって話したんです。そしたら、ラフが重なるごとに、どんどん本棚が高くなっていって。
内沼:はははは。
担当編集者:ディティールが細かくなって。
仲俣:読んでからこの表紙を見ると、ほんとにいいんですよね。
内沼:いいですよねー。あーこの子があの子だったんだーとか。
島村:ロビン・スローンも、アメリカ版以外でいちばん気に入ってると聞きました。
米光:表紙に描かれたこの本屋さんに行きたい。
内沼:日本だと天井の高い物件がないんだよなー。あったらはしごに上って本を探したい。

──(客席から)
本屋さんが喜びますよね、この本は。

米光:本屋さんはもちろん、本屋さん好きは好きな小説。

★その場所に最適な何かが本屋である

──(客席から)この本は、実際の書店の魅力をとても大事にしてるのかなーと思ったんです。デジタルの本をネットで買うのとは違う、書店の魅力を改めてアピールしている。

仲俣:単純に、紙の本はいいよね、リアル書店はいいよね、という話だけじゃない。「1969年のエイジャックス・ペナンブラ」を読むと、なおさらそれが分かるんです。というのも、前日譚は書店に絞られない、「場所」についての話なんです。
米光:うんうん。
仲俣:若き日のペナンブラ氏が、前の店主の時代の「24時間書店」を訪ねるんですが、なんとその店はかつて海だった場所にある。サンフランシスコは東京と同じく、海を埋め立てて拡がった都会なんです。そういう都市の来歴のなかに、書店という場所が置かれている。そういう意味では、「サンフランシスコについての小説」でもある。「本はいいよね、書店はいいよね」という話からはみ出す動機があるように思います。
米光:その場所に最適な何かが書店であるっていう。今日のイベントをB&Bでやる意味も大きいよね。
内沼:あと、他の都市にも秘密結社があるんですけど、他のところは、書店っていう形式を取ってないんですよね。つまり、ペナンブラ氏のところだけ、ふつうに買える本も売っている。
米光:途中で、ふつうの本も置きやがってって怒られてるからね。
内沼:これって武雄市図書館に近いですよね。図書館なんだけど、手前で本を売っていると。
米光:そっかー!
仲俣:だから、たぶんタイトルがミスリードなんですよね。
内沼:そうそう。つまり、図書館も本を売ったほうがいいよってペナンブラさんは思っている。ふつうの人が読みそうな本を売ることが、この店の間口を広げるんだみたいなことをペナンブラさんは言う。これはCCCも言ってることだなーと。それもぼくは面白かった。

★「コミュニティ小説」であり「店番小説」でもある

米光:ある種のコミュニティ小説でもある。
内沼:そうですね、やっぱり、本屋っていろんな人がぷらっと来る場所なんだってことはすごく大事にされてて。ここが開かれた書店じゃなかったら、グーグル社員の女の子だって来ない。隣のキャバレーみたいなお店の女の人が本探しに来るのもいい話。
仲俣:ぼくがこの業界に入るきっかけも、本屋のアルバイトだったんです。若い頃に本屋のアルバイトをすると楽しいですよ。なにしろ、レジに座ってるといろんな人が来る。つまりこれは「店番小説」でもある(笑)。
内沼:たしかに店番小説。しかも、店員はお客さんの記録をつけるというルールがある。理由はクレイに知らされないけど、とにかく記録をつける。これ、人がたくさん来る本屋だとできないけど、ほんとはやったほうがいいことなんですよ。
米光:B&Bやってないの?
内沼:やってないですけど、ほんとは取りたいですねー。
仲俣: TSUTAYAはそれをPOSレジで早い時期からやりましたよね。でもそういうビッグデータじゃない、小さい書店ならではの質的なデータを取ったら面白いかも。
米光:こんな人がこんな本買ってったとか。
内沼:何と何を買った人は、こんな服を着ていて、何歳ぐらいでっていうメモがもしこの店にアーカイブされてたら、見たいですよ。毎日来て見ますねー。

★今の時代の本の売り方

仲俣:B&Bはペナンブラ氏の書店みたいなこと一ヶ月くらい続けてやってもいいと思うな。
米光:書店名も変えよう。ミスター内沼の24時間書店にしようよ。
内沼:それを一日だけやるとかはありかもしれないですね。
仲俣:ロビンもこの本の発売記念で、24時間のトークイベントをやったらしい。それはノリとしてすごく分かるよね(下はその様子を含む映像。イベント当日は未上映)。

内沼:そうか、B&Bを24時間あける日をやればいいのか。で、夜中、ぼくがここにいて、B&Bの3Dモデルを作る。

──(客席から)B&Bさんは遅くまでやってくれてるけど、本屋さんって早く閉まっちゃうのが寂しいなーってすごい思ってて。なので、閉店後の店内を活用したい人の秘密結社ネットワークがあったらいいのにって思うんです。閉店後にコンサートをやって、外に「24時間書店ここでやってます」ってポップアップを貼ったり。

内沼:なるほどなるほど。
米光:いいねー。
仲俣:いろんな場所に24時間書店が出没したら面白い(笑)。書店についての本、ということを超えても、この本は書店員や図書館員には読んでもらいたい。
米光:図書館小説でもあるからねー。

──(客席から)本屋じゃないお店も便乗して、24時間書店やってますって言って、この本だけ置いちゃうとか、いいかも。

仲俣:いいですね。本が出たときに、アメリカでいろんなイベントをやっていて、そこでは女性歌手が歌って場を和やかしたり、ソーシャルメディアを使ったりして、すごく楽しそうに売っている。読者と作者が出会う場所を作っているのが羨ましくて、これが今の時代の本の売り方だと思ったんです
米光:うんうん。
仲俣:ただ、この本がアメリカでも、すごく広範に共感されているかというと、そうでもないのかもしれない。孤軍奮闘なのかもしれないし。
米光:勝手になんか面白いことをやっている。
仲俣:そう。だから、日本でももっと勝手にやったら面白いと思う。ロビン・スローン的なことを先にやってしまって、そこに本人がやってくるのがいいですよね。
米光:共感する仲間がいるよって示せるのは、いいね。
仲俣:そういうことを、今日ここに来たひとたちと一緒にやれたらいいなと思いました。

(構成:与儀明子)