ウィキペディアを通じてわがまちを知る

2015年5月7日
posted by 小林巌生

ぼくがウィキペディアタウンを知ったのは2012年のことだったと思う。イギリスのモンマス(Monmouth)が世界初のウィキペディアタウンに認定されたというニュースがフェイスブックのタイムラインに流れてきたところ、偶然目にとまったのだった。

参考:Welcome to the world’s first Wikipedia Town(Wikimedia Blog)

モンマスはイギリスのウェールズ南東に位置する人口9千人弱の小さな田舎町で、11世紀初頭にノルマン人の軍事拠点として発祥。モンマス城をはじめ千年近くの歴史を持つ遺産が多く残されているらしい。そんなモンマスで、ある活動が立ち上がった。文化機関のスタッフや市民によるボランティアグループが名所旧跡や博物館の所蔵品など街の観光資源になりそうなあれこれについての記事や写真を次々にウィキペディアにアップロード、そして、ウィキペディアの記事へのリンクURLが仕込まれたQRコードを刻印したタイルを町のあちらこちらに掲出、スマホ等でQRコードを読み込むことで、対応するウィキペディア記事へと直接誘導できるようにしたというものだった。

この、一風変わった田舎町の観光振興施策だが、ぼくにはこの活動が単なる観光振興施策ではない、それ以上の価値を秘めていると思えた。そして、日本でもウィキペディタウンを開催しようと考えた。これが、日本でのウィキペディアタウンの誕生のきっかけだった。

ウィキペディアのルールを知る

ウィキペディアタウンの企画を練っていた当時、ぼくはウィキペディアの編集経験をほとんど持っていなかった。そんな状態でウィキペディアを扱うイベントを開催することが無謀であることはわかっていたので、餅は餅屋ということで「ウィキペディアの中の人」に相談することにした。

幸い、ぼくの周囲にはそういうことを相談できる仲間がいたので、すぐに東京ウィキメディアン会の中心人物を紹介してもらうことができた。日下九八氏との出会いだった。

日下九八氏への協力要請は正解で、すぐに、ウィキペディアを編集するなら基本的な編集ポリシーを知る必要があること、とくに、特筆性といわれる、そのことをウィキペディアに載せる妥当性を客観的に説明できること、ウィキペディアに記す文章では典拠情報を明確にすること、また、典拠として望ましいものはなにかなど、いくつかの重要なポイントを指摘されることとなった。一見煩わしくも思えるようなルールだが、そのルールからはずれると、せっかく書いた記事であっても他のユーザーに修正される(修正されること自体は望ましいことだが)、または、削除すらされることもあるというから大変だ。

改めて思い返してみれば、これまでもウィキペディア上でのトラブルというのはニュースとして見聞きすることはあった。そんな事態も外から傍観しているぶんにはウェブらしい話のネタでしかなかったが、いざ、自分がウィキペディアを編集する立場になった場合には遠慮したいところだ。そして、自分が企画したイベントに参加してくれた人にはなるべくポジティブな印象を持ち帰ってもらいたい。そのためには、このウィキペディアのポリシーを知ることが極めて重要であるということだ。

ウィキペディアの「誰でも編集に参加できるウェブの百科事典」という触れ込みはウソではないが、ウィキペディアがここまで維持発展してきた背景にはそれなりに厳格なルールが存在し、クオリティコントロールがあったということがわかったわけだが、一方で、ウィキペディアのコミュニティはあらたに記事を書いてくれるユーザーを求めているという事実もある。ぼくも会場で聞いていたのだが、東大本郷キャンパスで開催された「Wikimedia Conference Japan2013」でウィキメディア財団のジェイ・ウォルシュ氏はキーノートの中でそうした状況についてデータに基に説明をしていた。

参考:「Wikimedia Conference Japan 2013」リポート毎月5億人が訪れるウィキペディアの舞台裏

ウィキペディアにちょうど良い項目があったので、ウィキペディア自身から引用してみよう。

「1日当たりの記事新設数は日本語版設置後順調に伸び続けたが、2007年3月の469件をピークに減少傾向にあり、2008年5月の1日当たりの記事新設数はピーク時と比較して49%減の240件にとどまった。2009年1月に一時300件台を回復したが再び減少に転じ、2008年5月以降は一部240件台もあるものの、概ね200件台後半で推移していたが、2010年5月以降は再び減少傾向に転じ、2011年5月以降はおおむね150件前後で推移している。2012年8月にはピーク時以降で最小となる131件を記録した。2013年4月現在の日本語版の記事新設数は143件であり、内部リンク数上位10言語版(英語版、ドイツ語版、日本語版、スペイン語版、フランス語版、ポーランド語版、イタリア語版、ロシア語版、ポルトガル語版、オランダ語版)の中で内部リンク数ではドイツ語版に次ぐ! 3位につけているものの、記事新設数では10位である。」
出典:「ウィキペディア日本語版」(2015/03/02時点)

典拠を見ると、主に、「ウィキペディア 多言語統計」のデータの解釈であることがわかるが、たしかに、記事新設数はピーク時よりは低い水準で推移している。ウィキペディアの価値について多少乱暴な言い方をさせてもらうと、それは、圧倒的な項目数とピアレビューによる信頼性であると言える。その価値を高めていくためにはユーザーの獲得、それも、単なるユーザー利用者ではなく、項目を新設してくれて、また、間違いを正してくれる、編集者としてのユーザーの獲得が不可欠なのである。

ウィキペディアタウンの仕掛けでは、まちに暮らす一般の人々を対象とするが、その多くはウィキペディアを編集することについてはまったくの素人だ。素人ゆえに前述のような基本的なルールを十分に理解しないまま投稿してくるケースもでてくるかもしれない。しかし、ウィキペディアタウンはウィキペディアに対し、コミュニティの裾野を広げ、コンテンツの拡充という面でメリットを提供できる。さらに、詳しくは後述するが、まちの既存のコミュニティとの連携により見いだされる新たな価値も提供することができる。

コミュニティのガバナンスという視点からはコミュニティの拡大とクオリティコントロールの両立という難しい課題もあるだろう。ウィキペディアタウンの活動をポジティブなものにするために、活動に賛同してくれている「中の人」には、企画時からいろいろとトラブル予防的観点でのアドバイスももらっているし、トラブルに発展しそうな場合にはいわゆる調停役も担ってもらうこともある。

新たに参加するメンバーはこれから書こうとする記事の質を高める努力は惜しむべきではないとは思うが、萎縮して書き込むことを止める必要もない。

従来からのコミュニティメンバーとウィキペディアタウンをきっかけに新たに入ってくるメンバーとの関わりの中でさらにウィキペディアを発展させて行く良い方法を模索することもぼくらに課された課題の1つなのかもしれない。

ウィキペディアタウンの価値

ウィキペディアタウンにはじつに多様な価値があると思うが、ここでは、学びの機会としての価値に注目してみよう。

ウィキペディアタウンは図書館や博物館といった文化機関、または、まちを舞台としたインフォーマルな学びのプログラムとして成立している。そして、一言で「学び」と言っても大きく2つの側面があると思っている。

まず、核となるのはウィキペディアタウンが対象とするテーマについての学びということになる。ウィキペディアタウンでは調査対象を地域の歴史的、文化的、地理的、社会的な特徴としており、参加者は記事を書くために現地調査を行ったり、関連する文献を調べたりする。そして、ときには文化機関の職員による、専門的な知識を活かした講座に参加する機会も提供される。ぼくが過去に企画したウィキペディアタウンでは音楽ホールや美術館のバックヤードツアーを、博物館では展示をみながら学芸員に横浜の歴史を教わる講座なども実施した。参加者はこうした体験を通じて地域のさまざまな事柄について学ぶことができる。

また、最終的にウィキペディアにアウトプットすることを目標とするので、学びの効果も高いように思う。また、ウィキペディアに足跡を残せるという点でワークショップに対する満足度や達成感も大きいようだ。

つぎに、情報そのものについての学びについて考えてみたい。ウィキペディアの編集をはじめると、情報を扱うということがどういうことなのか、根本から考えるようになる。ご存知のとおり、ウィキペディアの記事はすべてユーザーによって書かれており、その確からしさはどこまでいっても不明としか言いようがない。もちろん、コミュニティとしては前述のように強いガバナンスが働いており、全体として必要十分な質は担保できているのだと思うが、個々の記事を取り出したときにそれが正しいかどうかは誰も保証してくれない。

先日、横浜開港資料館でウィキペディアタウンのワークショップを実施したときに、同館の副館長である西川武臣氏が講義の中であるエピソードを紹介してくれた。それは、横浜開港当時、生糸貿易で成功した豪商、中居屋重兵衛についての都市伝説と言えるものであった。中居屋について書かれた資料は明治から現代に至るまで多く発行されているが、多くの嘘が含まれるというのだ。中居屋はペリーを追って下田まで出向き、ペリー艦隊の乗組員に生糸を売ったとか、井伊直弼暗殺に使われた拳銃は中居屋から尊皇派の志士に提供されたとか、いずれのエピソードもそれを裏付ける資料は残されていないのだそうだ。今風に言えば「盛りすぎ」ということか。

参考:「開港のひろば」第50号(平成7年11月1日発行)

ようするに、ウィキペディアに限らず、書籍であろうと、研究論文であろうと、人による情報には不確かなものやいくらかの虚偽が混じり込むことは、むしろ、普通であって、そうした中で、自分が情報と対峙した際、なにをどの程度信用するか判断する能力が情報リテラシーであるということだ。

ちなみに、西川氏は生糸貿易に関する歴史を専門として調査に基づく数多くの著書を持つ。おそらく、西川氏の知ることが真実であろうと、ぼくは思うが、それを確かめるには自ら調査するしかないわけだ。

ウィキペディアタウンにはここで紹介した学びの機会としての価値以外にも、地域にとっては地域の情報をより広範に対して発信できる機会でもあるし、また、アーカイブとしての価値もある。文化機関にとってはコミュニティとの協働の新たな機会となるし、所蔵品の活用の機会ともなるかもしれない。ウィキペディアのライセンスはオープンライセンスであり、そこに蓄積されるコンテンツやデータはオープンデータとして活用されているという価値もある。これらについては、別の機会にそれぞれ掘り下げて紹介してみたいと思う。

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(写真は2015年2月15日に行われた第5回ウィキペディアタウン横浜(IODD2015横浜分科会)の様子。撮影は筆者)

ウィキペディアタウンの今後

最初のウィキペディアタウンから3年が経ち、横浜ではこれまで6回のワークショップを実施している。実はその間にも、二子玉川や京都にはじまり、この活動は全国に波及しはじめている。そうした盛り上がりを受けて、先日、ぼくも活動に参加している任意団体、オープングラムジャパンの主催によりウィキペディアタウンファシリテーター養成講座が日本におけるウィキペディタウン発祥の地である横浜で開催された。北は北海道から南は佐賀まで日本中から40人以上があつまり、たいへん盛況であった。その準備にあたってコアメンバーを中心にさまざまな議論を交わす機会を得て、また、講座の参加者の方々との交流をもって、ぼくは、あらためてウィキペディタウンのもつ大きな可能性を感じることができた。

ウィキペディアタウンは図書館や博物館、美術館、といった地域の文化資本や地域コミュニティといった社会関係資本を活かし、そこに、ウィキペディア、オープンストリートマップ、ローカルウィキといったウェブ上のオープンな技術資本を掛け合わせながら、学びやアーカイブ、情報発信といった活動をレバレッジしていく。今後、ウィキペディアタウンといったときには、単にウィキペディアを編集するにとどまらない、まちをフィールドにウェブを通じて情報発信する総合的な学習プログラムのことを指すようになるのではないか。ウィキペディアタウンの益々の発展に期待をしている。

※この記事はACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)メールマガジン2015年4月6日配信号に掲載された記事「ウィキペディアタウン-ウィキペディアを通じてわがまちを知る」を、著者の承諾を得て改題のうえ転載したものです。

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第6回 夏葉社の営業に同行する

2015年5月1日
posted by 清田麻衣子

2012年初秋。高円寺の本のイベント「本の楽市」に小出版社が集まって出店することを知って立ち寄った。出版社30社以上が出店する「本とアートの産直市」なるものが開催されていたのだ。私が手も足も出ずもがいている出版業を既にやられている方々を、一気にたくさん目の当たりにした。しかもみんな楽しそう!!! お客相手に大変さをアピールする場ではないので当り前なのだが、自分が作った本を、その場でお客さんに売る充実感にあふれた方々の笑顔が、そのときの私にはとにかく眩しかった。

そこに、夏葉社の島田さんも出店されていた。お会いするのは約3ヵ月ぶりだった。夏に話した時に準備中だった『冬の本』という、「冬にまつわる本」について複数の著者に書いてもらうエッセイ集がもうすぐ出来上がりそうという時期だった。私はというと、この3ヵ月間、出版社の準備としてはほとんど報告できるような進展がなく、停滞しているということと、漠然とした不安ばかり並べたててしまった。ひととおり話を聞いた後、出版社を始めるまでの道筋を島田さんは具体的に話してくださり、特に私が営業未経験であることの不安を伝えると、朗らかに提案してくださった。

「11月の終わりに次の本の営業に行くから、よかったら同行してみませんか? 営業がどういうものかは掴めるかもしれませんよ」

2012年11月終わり。夏葉社の7冊目の本『冬の本』の発売を前に、島田さんの新宿、池袋での営業に同行させていただくことになった。

返答の極意

小雨が振る肌寒い朝、島田さんはビニール傘とカバンを持ち、きちんとネクタイをしめたスーツ姿で待ち合わせの新宿駅前にやって来られた。それまで、白シャツにジーンズというラフなファッションでしかお見かけしたことがなかったのだが、スーツ姿は堂々としていて、見まごうことなき立派な営業マン。ジャケットを着ただけでなんだか今日はちゃんとしてる、という気になっていた私は、服装から既に気合いの違いにハッとし、普段着に限りなく近い自分が急に恥ずかしくなった。

書店に足を踏み入れると、さらに島田さんの表情は引き締まった。私は距離を置いてお姿を見守る。

1軒目は某大型書店。バックヤードから本をワゴンに乗せようとしている書店員を見つけると、島田さんはカバンからスッとリリースを取り出し、静かに声を掛けた。20代とおぼしき女性書店員は、複数の著者が並ぶエッセイ集のリリースを見て、「たくさんの人が集まってる本って、この人の原稿だけを読みたいっていう人があまりいないから弱いんですよね」と、まずは消極的なリアクション。しかし島田さんと少し歓談した後、その場で10冊の注文が決まった。

営業未経験の私も〝複数著者は弱い〟という出版界ではテッパンのネガティブセオリーは知っていた。私なら、そういう〝弱み〟をストレートに突かれたら、「ですよね〜」と薄ら笑いでショックを隠すのが精一杯で、二の句が継げなくなってしまいそうだ。

「僕は複数著者についてネガティブな印象を言われた場合、そのこと自体への反対意見ではなく、その中の著者の良いところをプッシュし続けます」

島田さんは朗らかに返答の極意を教えてくださった。これまで、複数著者の他にも〝対談本は弱い〟〝第二弾は売れない〟など、数多のセオリーを提示されて、企画会議や営業部の指摘で企画を却下されるうち、少し浮かんでも「これはダメだな」と何度自分内企画会議で企画を却下し続けてきたことか。たとえセオリーから外れる本でも、一点、揺るぎない魅力があれば、あとは心血注いで作る。社員が自分一人になった時、欠点だらけの自分の長所を自分で誉めて伸ばすようなものだと思った。

棚を見る

そして、島田さんがこの日よく口にしたのが「棚を見る」という言葉だった。書店に入って夏葉社の本を置いてくれそうな棚があるかどうかをチェックし、適切な棚が見つからないと、わざわざ遠くまで足を伸ばして行った店であっても、営業せずに終わることもあった。

この棚の見極めで、どれほど細かい点まで見ているかがわかったのは、某チェーン店でのこと。穏やかな表情を引き締め、いざ出陣!と店に足を踏み入れた島田さんが、早々に苦々しい表情で帰って来た。渡したリリースをちゃんと見もせずに、「FAX送っときますね」と返されたらしい。踵を返し、ベストセラーが並ぶ棚に背を向けて、苦い顔が張り付いたままエレベーターを降りながら、島田さんは敗因を分析する。

「最初声を掛けたとき、あの店員さんはノンフィクションの棚をいじっていたんです。文字ものは人文、社会も含めて一手に管理している。結局、彼がもともとどこが専門の人なのかわからなかった。絶対、FAXは返ってこないです」

つまり、書店員の専門、また性格や好みまで把握できていなかったことが敗因だというのだ。さらに夏葉社の場合は、タイトルは知らなくても本を見ただけで「いい」と思うような、本がほんとうに好きな書店員に訴求力がある。これまで出した本を持って新規のお店に行って、たとえば造本を愛でてくれるようなお店に行くのが意味があるというのだ。

「ちょっとタバコ吸っていいですか」

先ほどの店で溜まった苦い想いを一気に吐き出すように、島田さんは、屋外の喫煙所でタバコの煙をフーッとひと想いに吐いた。煙と一緒に白い息がフワッと広がっていく。そしてそのとき初めて、島田さんがコートを着ていないことに気が付いた。コートにレインブーツの私でも、11月の冷たい雨の降る外回りで、身体は芯から冷えていた。

「店に入ると、コート脱ぐから。コート持って、傘持って、カバン持って、リリース出してってなると、雨の日はコートがあると身動きとりづらくなるんですよ」

気合いと緊張感の詰まった一日だということが垣間みられる一言。感心しきりの私に、

「中にヒートテックを着ています」

島田さんはこう言ってにやりと笑った。

「根は営業マンなんです」

一日に回るのは七、八軒。書店員は平日に休みをとるので、誰か必ず会えない人は出てくる。

午後1時〜2時、書店員が昼休みをとる時間を見計らい、新宿から山の手線で池袋へ移動する。島田さんは新宿駅のホームで缶コーヒーを買った。

「缶コーヒーを買って、途中タバコ休憩を入れて。回るルートは完全に把握。どこからどう見ても、立派な営業マンですね」

その姿を見ながら納得顔の私に、島田さんは、

「このあとキャバクラ行きますよ」

「え!」と真顔で驚くと、「行かないですよ」とすぐに真面目な顔になった。

リラックスと緊張感がいい具合に入り交じるその様子は、プロフェッショナルな仕事ぶりの表われだとも思った。そして書店を回り、キビキビと営業をこなし、一喜一憂する島田さんを見ていたら、心底羨ましさがこみ上げた。

「いいなあ。私も本作りたいです。でもどうしても生活が優先になっちゃうんですよね」

いやいやいや、と島田さんは首を振る。

「僕も生活に苦しんでますよ。きついですよ。本当に親にお金くれって言いたい。でもやっぱり行動してナンボなんです」

島田さんは夏葉社以前、教科書系の出版社で営業をしていた経験がある。しかし、わずか一年だ。よほど中身の濃い一年だったのだろう。その一年で営業成績トップになったという。

「根は営業マンなんです」

という島田さん。編集者だけやってきた私は、やはりモノを売るという感覚が希薄だ。文学青年で、趣味性の高い本を作っている島田さんの、そのセンスと穏やかな人柄を誉める人は多い。だが、夏葉社という「出版社」を支えるもっと大きな柱は、何と言ってもこの商売感覚なのではないかと思う。

「たとえば渋い本はどうやって売ればいいのか。いい本を作れば大丈夫というふうには絶対に思っていません。そこは工夫のしがいがある。本当にいいと思ってもらうことが大事だと思うんです。決して売上に貢献しますという類の本ではないから。そうなると書店の人と僕とのコミュニケーションが大事になってきます。『自分の好きな本を売りたくて、そのために売れる本を売っている』と書店員さんからはっきり言われたことがあって。もちろん売上を立たせることが大前提だけど、それが全部になったときに何をやりがいにするかって、自分が売りたいと思った本をお客さんに買っていただくことがやりがいになるんじゃないかと思うんですよね。だから僕は、なんというか、売れる本ではなく、売りたいと思ってもらえるような本を作らなきゃと思うんです」

この日、池袋のお目当ての書店の担当者はお休みだった。

「できる営業マンは休みを把握してるんです。土日は基本行かない。棚卸し後の朝11時から、学生が帰ってくる4時までが営業の時間です」

どこでも買える本にしたくはない

午後4時をまわり、この日の営業を終えた。営業後、喫茶店に入ると、島田さんはまるでビールを飲むように、コーラをごくごくと一気にあおる。

「営業はまた編集と違ってスポーツみたいな感じありますよね。一日終わった!っていう。勝った!とかいう実感」

「負けた!っていう日ってありますか?」

「めちゃくちゃありますよ。でも僕の場合は、どの本も負けられないし、外せない。そうじゃないと一生懸命やれないと思う。安定した収入が入ってきたら、外れてもいいかなっていうふうにもなるけど、やっぱり僕の場合、外しちゃダメなので」

外してはいけない、というが、誰も外そうと思って本を出すわけではない。どうやったら外さない企画を出せるのか、編集者はいつも頭を悩ませてきたのだ。

「でも外さないっていうのは、外さない企画を作るっていうことじゃない気がしていて。うーん……。売り方でもなく、もっと現場レベルというのはスポーツに近いもののような気がします。毎日ちゃんとやるというか」

なんと。外さない極意は、「毎日ちゃんとやる」!

「ひとりの場合、それが本当に重要で。休まないとか、逆にちゃんと休むとか」

島田さんは、土日も休みはとっているという。しかし意外にも、土日に家で本を読んでいることは少ないらしい。土日の過ごし方がウィークデーに反映されるという話は、あまり読んだことはないのけれど、ビジネス本にはいかにも書いていそうだが。

「土日はサッカー見てます。サッカーを見る楽しさとか、デートをする楽しさっていうのは、仕事に関係するとは思う。僕の作っている本は、一歩間違えるとマニアの狭い世界の本になってしまうから、そこにどうやってポピュラリティをもたせるかっていうのは大事だと思っています」

一般の社会との交流が大事ということか。

「そこがすごく重要な気がするんですよね。それは常に意識しているというか。なんかマニアックにいきがちなんです。でも値段を高く部数少なくやるっていうのはひとつ手固い商売だけど、あんまり面白みを感じなくて」

夏葉社でこれまで出している本は、全部適正部数だったという。そしてなんと、ほぼ増刷している! しかし大事なことは、夏葉社の本が売れそうにない書店に、無駄に力を注がないということ。

「最近思うんですけど、僕は本というよりは革製品を作って売っているような印象があって。たとえば丁寧につくることが付加価値になるとか。だからなおかつ、心を込めて作った本っていうのは、どこでも買える本にしたくはないっていう気持ちがあるんです。65歳まで出版社をやりたいと考えていて。だから65の時も売れるということを前提に考えている。だから最初の5年10年はきついけど、65になったら多少ラクになるんじゃないかな。30年後、35歳の時に作った本が65歳で売れるっていうのがいちばんの歓びだと思います」

その30年に渡る長い長い夏葉社という出版社の、思えばこの日は、貴重かつ地道な「ある一日」だった。そう思うと、気が遠くなるような、しかし同時に、気持ちが奮い立つような、そんな忘れられない一日になった。

次回につづく

聖なるテクノロジー〜『テクニウム』の彼方へ

2015年4月13日
posted by 服部 桂

60年代の米西海岸のカウンターカルチャー全盛期に、トム・ウルフの『クール・クールLSD交感テスト』の主人公ケン・キージーがスチュアート・ブランドに連れられて、マウスの発明者として有名なダグラス・エンゲルバートが開発していたNLS(oN Line System)というシステムを見学しに来たときのことだった。

当時エンゲルバートは、コンピューターとネットワークを駆使して、人間の能力を高める研究をしていた。キージーはメリー・プランクスターズ時代にマリファナ所持で逮捕されて数年経っており、オレゴンの酪農牧場に引退しようとしている最中だった。デモを見たキージーは驚きのあまり眼を見開いたまま、「これこそ、LSDの次に来るものだ」と言うと、大きくため息をついた。コンピューターが作り出す情報のバーチャル世界に圧倒され、これが脳を破壊してしまうドラッグを使わなくても、LSDのように人間の意識を高める何かであることに気付いてショックを受けたのだ。

キージーを連れてやってきたスチュアート・ブランドこそ、あのスティーブ・ジョブズが愛読していたという「ホール・アース・カタログ」(WEC)を68年に出版した張本人であり、メリー・プランクスターズの仕掛け人でもあった。

この68年の12月にはエンゲルバートは同じNLSのデモをサンフランシスコの学会(FJCC)で行い、今度はこれに出席していたアラン・ケイやテッド・ネルソンなどがぶっ飛ぶ番だった。ちょうどスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開されたこの年に、それに匹敵するようなインパクトを与えた「すべてのデモの母」と呼ばれるこの伝説のイベントの演出をしていたのもブランドだった。

パソコン革命とカウンターカルチャーの蜜月時代

いまここで紹介した、さまざまなエピソードが綴られた『パソコン創世「第3の神話」』のまえがきで、著者のジョン・マルコフがさらに興味深いエピソードを披露している。2001年にスティーブ・ジョブズに会ってインタビューしたときの話だ。マルコフのするどい質問に、気分屋でジャーナリスト泣かせのジョブズの機嫌が悪くなり、カメラマンを追い払い険悪な雰囲気が漂い始めた。しかしその後に、ジョブズはその朝にできたばかりのiTunesというソフトを見せてくれた。その新作ソフトには音楽に合わせてサイケデリックな映像も付いており、それを見ながら次第に機嫌が直ってきたジョブズはかすかに笑みを浮かべなから、「若い頃を思い出すな」と言ったという。

マルコフが60年代のドラッグカルチャーの話で応じると、自分もアップルという奇妙なコンピューター会社を作る前に、ドラッグを実験するカウンターカルチャー的なライフスタイルを追求していたと話し始め、「LSDの体験が、自分の人生の最も重要な出来事の一つで、良く知っている人たちが自分を理解できない部分があるのは、彼らがそれを実践しなかったためだ」と言い出した。彼はまた、「私のカウンターカルチャー的なルーツのせいで、今率いている企業の中で、自分がアウトサイダーのように感じるときがある」とも言った。

ジョブズが理解していて、アップルの他の社員が理解できなかったものとは何なのか? それは、彼が2005年のスタンフォード大学の卒業式のスピーチで、「Stay hungry. Stay foolish」とWECの裏表紙に書かれた言葉で締めくくったように、60年代が持っていた、それ以前の時代を突き破るようなパラダイムが醸成されていた時代のアウラだったのではないか。

WECはジョブズばかりか、その時代の若者たちのバイブルでもあり、まさにベトナム戦争や学生運動が盛んになっていた時代の、「右手にWEC、左手に(グレートフル・)デッド」のような存在だったと言われ、当時のロックコンサートや若者の集まる場所では、誰もがこの大判で目立つカタログをかかえていたという。この稀有の時代に青春真っ盛りだった人々が、WECなどが主張するDIYの精神で、ドラッグを捨ててその思いを起業家精神に持ち替えて、シリコンバレーを中心に起きたパソコンやデジタル革命のパイオニアになっていった。

「巨悪」から「道具」へ〜コンピュータ観の変容

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こうした人々の中に、スチュアート・ブランドに初めてオンラインでリクルートされたという、ケヴィン・ケリーがいる。52年生まれのケリーは、やはり60年代にはヒッピーのような生活をしており、写真家のコミューンに出入りしては自分の将来を決めかねていた(上の写真。ケヴィン・ケリー氏提供)。

当時は、コンピューターはメインフレームと呼ばれるIBMなどの大型機が幅を利かせ、それらは大学の研究所や大企業もしくは政府機関にしかなく、科学研究や経営や政策のための専門的な分野でしか使われていなかった。

スタンフォード大学では人工知能の研究も進んでおり、近い将来にコンピューターの能力が人間のそれを上回り、大陸間弾道弾を制御するためのミサイルのシステムが暴走して世界が滅びるというイメージも語られ、情報テクノロジーは産官学と軍事を結び付ける巨大なシステムを形成する怖い存在とみなされていた。学生運動の最中には、ベトナム戦争の爆撃シミュレーションを研究している大学のコンピューター研究所を学生が包囲するという事件も起きている。

「テクノロジー=巨悪」という構図に翻弄されていたケリーも、テクノロジーを忌避して近づかない生活をしようと考えていたが、WECを読んで、人々を抑圧するのではなく、道具として使うことで個人を解放するテクノロジーがあることを知って愕然としたという。

もともと科学やアートが好きだったケリーが当時唯一認めていたテクノロジーは、科学知識とアート表現が結び付いた写真だった。当時はやっと一般人が気軽に買えるカメラが出回り始め、彼は父の友人が日本で買ってきてくれた、ペンタックスの一眼レフで本格的に写真の世界に入っていく。そして、写真家のコミューンに出入りしているうちに、大学に行く気がしなくなって辞めてしまい、将来の展望もなく海岸に家を借りて徹底的に読書をしようと考えた。

そうして読みふけった本の中に、19世紀のアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』があったという。その本に出合った彼は天啓を受けたように読書を中断し、どこか遠くに旅したいと考えるようになる。おりしも、中国語を勉強するために台湾に留学していた友人から手紙をもらい、彼に会いに行こうと旅立つ。

そしてケリーのアジア放浪の旅が始まる。バックパックの中に入っていたのは、カメラと最小限の荷物。ヒッチハイクと野宿を繰り返し、寒村から大都市、ヒマラヤの麓にも足を伸ばし、現地の人々と交流し写真を撮り続け、台湾から日本、韓国、中国、インド、中東へと流れた。エルサレムではキリストの生まれたとされる地で野宿した時、神の魂に触れるという神秘的な体験もした。

WECからWELL、そしてWIREDへ

何度か旅を繰り返しているうちに、気が付くとケリーは30歳を超えていた。アメリカに帰ると、故郷のニュージャージーの山奥で、森の木を切って丸太小屋を作り、養蜂を手掛けながら仙人のようなヒッピー生活を続ける。あるときは、自転車に乗ってアメリカ大陸を横断する旅にも出る。

もともと写真家として生活しようと考えていた彼は、写真のメディアとしての立ち位置に疑問を抱くようになり、若い頃に読んで共感したWECで編集者として働きたいと思い始め、旅行会社を運営しながら旅の本の書評などを投稿していた。そのうちに知り合いの編集者から、パソコンを使った新しいコミュニケーションのツールがあることを教えてもらい、もらったアカウントで活動を始める。オンライン会議室で頻繁に発言しているのが、スチュアート・ブランドの目に留まったのか、メールでリクルートされることになる。

ブランドがケリーに期待したのは、80年代の頭に花開き始めていたパソコンのソフトの評価だった。ブランドにとって、パソコンはWECが目指した個人を解放するDIYツールの急先鋒にあり、それを活用するためには良いソフトを選んで普及させなくてはならないと考えたのだろう。ケリーは「ホール・アース・ソフトウェア・カタログ」というWECから派生したデジタル分野を扱う雑誌の編集長になり、嫌悪していたテクノロジーと真正面から向き合わないとならなくなる。

しかしケリーが驚いたことに、パソコンとネットワークが結び付いたオンラインの世界は、大型コンピューターが支配していた官僚的な世界とはまるで違う、個人が自由に発言して情報を共有し自分を高めていける場だった。彼はそこにテクノロジーの新しい側面を見て困惑した。おまけにブランドが84年に始めたWELL(Whole Earth ‘Lectronic Link)というオンライン・サービスにも関わり、その年に出たスティーブン・レビーの『ハッカーズ』という本に刺激を受けて、コンピューターに入れ込む新しい世代の人々を集めたハッカー会議も開くことで、どんどん自分が嫌悪していたはずの世界に没入していく。

その後に彼は、「ホール・アース・レビュー」(WER)の編集長になり、WECの精神を引き継ぎ、80年代の情報化の中で起きたさまざまなデジタル化とカルチャーの変化を追っていくことになる。彼が最初に驚いたのは、コンピューターの中に生命を表現するという、人工生命の研究だった。無機質でデジタル情報を扱う冷たい金属の塊が、生物のように柔らかく動く様に驚いた彼は、WELLやWERにこの新しいトレンドをレポートし、これは『「複雑系」を超えて』(Out of Control)という彼の初めての描き下ろし本となる。

90年代初頭に、オランダの機械翻訳を扱う面白い雑誌を書評したところ、その編集者が彼のところにやってきて、デジタルの新しい雑誌を作りたいから手伝ってほしいと言われた。それが92年に彼を編集長に「WIRED」という名前で出版されることになり、新しい時代のデジタル・カルチャーのトレンドとして広く世界から支持されるようになる。

テクノロジーに対する「ちぐはぐな気持ち」

ヒッピーを自認し、テクノロジーを捨てて旅していたはずのケリーは、最新テクノロジーまみれの生活を送ることとなり、彼のテクノロジーに対するアンビバレントな気持ちは限界に達しつつあった。「WIRED」がコンデナストに買収されて1998年に編集長を辞任した彼は、こうしたテクノロジーという融通無碍な存在に対するちぐはぐな気持ちを整理したいと思うようになり、ブログにテクノロジーの意味を問う「テクニウム(The Technium)」というコラムを書き、読者のいろいろな反応を受けるようになる。そしてこの考えをまとめて、一冊の本を書くことになる。

2003年に出された本の企画書のタイトルは「聖なるテクノロジー」(Holy Technology)だった。まず彼が気付いたのは、テクノロジーはまるで生物のように進化し多様化し階層化していくということだった。そして翻って考えるに、生物も遺伝子の情報の組み合わせを炭素系の材料で組み上げた、ある意味テクノロジーの一形態だった。

テクノロジーの存在を生命との対比で考えていくうちに、これらはひょっとしたら同じものではないか?と思えるようになった。さらにそのルーツを生命の発生まで遡ってみると、それより前のビッグバンからエネルギーが物質に転化し、星や銀河系になった系譜にも同じ構造があることが分かってきた。

それは、テクノロジーとは人工的・人為的で、自然とは無関係な何か、と考えるわれわれの日常感覚とはかなりずれた感覚だ。テクノロジーとはあくまで手段であり、必要なければ止めればいいと考える通常の見方から、彼はどんどんずれていき、ついにテクノロジーは宇宙のできたときから、それを支配する自律的で自己組織的な流れであり、宇宙の物理的構成や、生命をもその一部として含む原理だというところにまで至った。そしてそうしたテクノロジーの底に潜む原理を「テクニウム」と名付けた。

そして、7年かかって苦労してまとめあげられた本のタイトルは、宗教書と間違えられないよう、『テクノロジーの望むもの』(What Technology Wants:邦題『テクニウム』)となっていた。

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われわれのテクノロジーの概念を拡張しその原理を探ったこの本は、いわゆるテクノロジーのノウハウ本でも技術解説本でもない。それは何かわれわれの現在が向かっている大きな流れを指す「道」のような考えを、人類の歴史から、宇宙の歴史にまで遡り、テクノロジーをめぐる賛成派・反対派の論点を交えながら説き起こす不思議な本だ。

しかし、テクノロジーという自然に反すると思われる概念が、実は自然の要素、もしくはその本質ではないかという疑問は、われわれをまるで違った方向に導く。それはまるで、彼が最初に考えた「聖なるテクノロジー」そのものではないか。

テクノロジーにひそむ「聖なるもの」の正体

コンピューターやネットワークは、俗世界の象徴とも考えられる最先端テクノロジーだが、バチカン法王庁でさえソーシャルメディアを活用する時代であり、ラジオやテレビの時代から宗教とメディアテクノロジーとの縁は切っても切れない。聖なるものが俗化しているのか、はたまた俗なるものが聖化しているのか? トロントのヨーク大学のデビッド・ノーブル教授は、『テクノロジーの宗教』(The Religion of Technology)の中で、ニュートン以降の現在のITまで最も強力なテクノロジー開発を牽引してきたのは「神に救済を求める霊的な人間の野心だ」と論じている。

ポール・ヴィリリオが指摘するように、電子メディアは「光の速度という絶対速度を持つ電磁波を利用することで『遍在性、瞬間性、直接性』という神的な属性を利用可能にした」(『電脳世界』)のであり、まさに古代からの宗教が求めていた何かを具体的に実現しているのは、ただの信仰ではなく、俗世間に跋扈するテクノロジーなのだ。しかし一方でノーブルが言うように、テクノロジーを牽引している底に潜んでいるのは、やはり聖なるものを求める人間の心でもある。

そうなると、この俗なテクノロジーなるものが求めている聖なるものの正体とは、一体何なのだろう? ケヴィン・ケリーがハッカー会議の後の90年に、サンフランシスコで開催した「サイバーソン」という24時間マラソンのようにVR(Virtual Reality)をデモし論議する会合があった。そこにはスチュアート・ブランドやハワード・ラインゴールドといったWERの関係者ばかりか、LSDのグルだったティモシー・リアリー、またウィリアム・ギブスンのようなSF作家も集まっていた。

当時は、テキストが主だったパソコンがグラフィックスやサウンドなど、いわゆるマルチメディアを扱えるようになりつつあり、インターネットが学術目的以外に一般にも開放されつつあった。VRの作るバーチャル世界はゲームのようでもあったが、それはいままで見たことのない「あの世」のような精神世界を呼び覚まし、それが誰をもどこか遠くに連れ出してしまうような不思議な印象を与えるものだった。想像が作り出す世界を新たなユートピアのように語る論議もされ、日常の現実から離れてこうした世界に移り住みたいと真剣に唱える参加者もいた。

情報時代の幕開けを彩ったコンピューターは、戦時中にアメリカばかりかヨーロッパでも開発が始まったが、結局それが今日に至るまで最も過激に花開いたのは米西海岸のシリコンバレーを中心とした地域だった。パソコン時代を支配したのは、IBMやアップルで、欧州のコンピューターメーカーは潰れていった。なぜ、コンピューターはカウンターカルチャーの花開いた西海岸という場所で突出し、VRなどというさらにその先の世界にまで進化しようとしているのか? この地域には未来を牽引する特異な何かがあるのか?

エド・レジスは『不死テクノロジー』の中で、西海岸を中心に展開している、死後も体を冷凍保存して医学が進んだ未来に再生しようとするアルコー延命協会やナノテクを使った再生医療、宇宙移民までを論じている。VRによってコンピューターが進化した未来の世界は、現実を作り変え、われわれの思念を純粋に培養して永遠にそこに保管してくれるエデンの園のようにさえ見える。

またコンピューター科学者でSF作家でもあるハンス・モラベックは、遠い将来には、心というソフトウェアをダウンロードして保存し、現在の体が死によって崩壊しても、未来のロボットに移植して再生したり、宇宙探査機にアップロードして宇宙旅行したりできる、と真剣に唱えている。

なぜIT文化はアメリカ西海岸で花開いたのか

最近公開された映画『イミテーション・ゲーム』は、アンドルー・ホッジスの書いた伝記『エニグマ アラン・チューリング伝』を元に、こうした世界を最初に経験したアラン・チューリングの生涯を描いた映画だ。現代数学の礎を築いた大数学者ダフィット・ヒルベルトが20世紀初頭に、すべての数学の問題は厳密な証明で解けるとした予言を、1936年に「計算可能な数について」という論文で否定してしまったチューリングは、その証明のために、人間の思考の基本的論理を「チューリング・マシン」と呼ばれるモデルで表し、それが現代のコンピューターのアーキテクチャーの基本になったとされる。

チューリングは第二次大戦の最中に、イギリス政府に要請されてドイツ軍の使う最強の暗号エニグマを解読する仕事をし、チューリング・マシンを実体化したようなマシンを使って見事解いてしまう。同じ頃にアメリカでは、大砲の弾道計算を補助するために、ENIACという電子式コンピューターがフォン・ノイマンを中心に作られていたが、チューリングたちはそれより早く、コロッサスというコンピューターを完成させてしまう。

チューリングはもともと、人間の脳と心を、マシンで再現することを目指していたのであって、別に高速計算機を目指していたわけではなかった。同性愛者だった彼は、若いときに恋していたクリストファー・モルコムが18歳で病死してしまったことから、彼の魂をどう蘇らすかに興味を持っていたと言われる。そういう意味でチューリングは、現在の人工知能と呼ばれる分野の始祖とも考えられるのだが、その研究はイギリス本国で花開くことはなく、いつのまにかアメリカのお家芸のように語られるようになり、エキスパートシステムが作られ、IBMのビッグブルーがチェスでカスパロフを打ち負かし、ついにはグーグルのような超巨大人工知能ソフトが世界を支配するようになった。

最近はコンピューターやネットの能力が全人類の能力を上回る「シンギュラリティー」と呼ばれる現象が数十年以内に起きるという説がアメリカの市場を中心に、まことしやかに語られ始めている。これと同じような予想が60年代にもなされたことを考えると、単純に信じることもできないが、なぜいつもアメリカでは、こうした人間を凌駕するテクノロジーが語られるのだろうか?

90年代にイギリスのメディア研究者リチャード・バーブルックたちが、「カリフォルニアン・イデオロギー(Carifornian Ideology)」という論文で、ネット文化を、アメリカ西海岸という地域と60年代のカウンターカルチャーの交錯した、国家を否定したリバータリアニズムを行使するテクノロジー決定論だと論じた。

建国の父トマス・ジェファーソンの頃から明らかなのは、アメリカに逃避して個人の自由を主張した人々は、ヨーロッパの階級社会における運命論や教会の支配を否定して、個人の力で未来を切り開こうとする貧しい人々が中心だった。そうした人々が21世紀に行き着いたのは、レジスやモラベックらが主張するとおり、テクノロジーが作る不死のユートピア幻想だった。そこでは運命、つまり死が肯定されるのではなく、ひたすら永遠のモラトリアムを喧伝するディズニーランドのようなVRの世界が、人々にダイエットや高度再生医療やアンドロイド化を勧めている。人間の存在をテクノロジーという自然に同化させ、精神をアップロードしてしまう文化を牽引している聖なるテクノロジーが、コンピューターやネットワークであると考えられないこともない。

こうした文脈で、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』や現在のITテクノロジーを読み解いてみることは、アップルウォッチやIoTに振り回されているわれわれに、なぜテクノロジーと向き合わなくてはならないかを考えさせ、きっと別の未来を見せてくれることだろう。

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※本記事の著者、服部桂さんのインタビュー・構成による「『テクニウム』を超えて――ケヴィン・ケリーの語るカウンターカルチャーから人工知能の未来まで」がインプレスR&Dより発売中です。

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『批評メディア論』から考える三つの〈com〉

2015年4月6日
posted by 荒木優太

3月27日、東京堂書店にて、大澤聡と山本貴光の対談イベント「言葉が紡いだニッポンの批評空間――装置としての神保町を再考する」が催された。

日本の言論システムの根源を1930年代の膨大な資料から考える大澤初の単著『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、2015)に対し、『文体の科学』(新潮社、2014)のなかで和洋文理のジャンルを問わず領域横断的に文体分析をやってのけた山本を対談相手に迎えることで、絶妙なアンサンブルが化学反応を起こしながら、盛況のうちに幕を閉じた。

このイベントの詳細は『週刊読書人』(4月17日)で文字化されるそうだ。

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私はこのイベントをきっかけに、大澤の『批評メディア論』に関して三つの観点から少しばかり言葉を繰り広げてみたいように思った。私の三つの観点、それは三つの〈com〉について、つまりはコンプリートネス(completeness)、コミュニケーション(communication)、コミュニティ(community)についてである。

コンプリートネスへの欲望

さて、山本の「批評」の語源考から始まり、文学理論(たとえばナラトロジー)の非文学的対象(たとえばエッセイや科学論文など)への適用可能性、図書館の資料と長期で向き合うときに生じるある時代との擬似同期感、『批評メディア論』のパーツ分解的文体など、多くの話題を提供しながら進んだこの対談のなかで、私が最も興味深く感じたのは、大澤の研究態度だ。

critic_media大澤は『批評メディア論』を書くにあたって、当時の主要な言論雑誌をすべて読むために七年半ものあいだ図書館にこもって資料を読み続けたという。そのいささか(大澤自身がいう)「変態」的な情熱というのはどのようにして支えられているのか。

柄谷行人、浅田彰、蓮實重彦、三浦雅士らの討議をまとめた『近代日本の批評』(全三巻、福武書店、1990~1992)を読み、固有名の羅列によって形成された圧倒的な密度を誇る高文脈的な知の世界に魅せられた学部時代の大澤は、自らも批評文を書いてみたいと思うようになる。先人を超えるためには、どうしたらいいか? それは先人以上に本を読み、「勉強」するしかない。その教養主義的な勤勉さが、「コンプリート」を目指す『批評メディア論』に結実した。大澤は大体、このようなことを述べていた。

私が興味深く思ったのは、『批評メディア論』を書いたこのような「変態」的読者は、山本がいみじくも指摘していた『批評メディア論』の影の主役であるところの同時代読者たちと、決定的に異なっているようにみえる、ということだった。

1927年の円本ブーム(一冊一円の廉価版全集)をひとつの象徴的な始まりとし、1930年前後に出版大衆化が到来する。従来、言論や批評の読者として見込めなかった大衆の一定層がターゲティング可能な消費者として捉え直されていく。これで、新しい商売ができる! 大澤の卓見は、この或る時期の商売用に時代限定的に組み立てられた出版システムが今日にまで引き続く言論のプラットフォームの基礎設計として採用されていることを歴史的に示してみせたところにあった。

新時代の言論や批評と同時に、それを支える大衆的な読者たちが誕生した。大衆たる彼らは難解な言論に付き合う時間や能力や金銭に限界を抱えている。すべてをこなすことはできない。たとえば、彼らは雑誌を定期購読するのではなく、多数の雑誌のなかから月々の編集を見比べて購入を決定する、「移り気な読者」だ(p.32)。論壇時評も、アクチュアルな状況を一望できる、読み手の負荷を減らすためのレジュメ的・カタログ的・ダイジェスト的な性格を帯びていた。彼らは、手元にある批評文や具体的な言説を深く吟味することなく、反芻なしに読み捨てながら最新のモードを求めていく。軽薄で凡俗で移り気な読者たち。

「ひとびとは次から次へと新たなテクストを巡回する。もはや反芻などしない。やはり新居〔格〕の言葉を援用すれば、「意味の深い無変化よりも、意味のない変化を愛する」。そうした心性は、適時性を追求してやまぬ新聞や雑誌と相性がよい。ジャーナリズムの時代が到来する。私たちが検討してきたのは、この拡散型読書に対応する編集理念だった。求められるのは速度だ。変化であり効率だ」(『批評メディア論』、p.241、〔〕の挿入は引用者による)

すべてをこなすことのできない読者たち、つまりは、立ち止まらず読み捨てていく読者たち。いうまでもなく、このような読者像は大澤のコンプリートネスの姿勢と対照的なものである。大澤は図書館にこもり、つまりは立ち止まり、反芻し、すべての雑誌に目を通す。同時代読者と完璧に異なる読書態度がここにある。大澤は分析対象と相違するアチチュードを自覚的に身につけることで、同時代読者と融合せず、彼らとの距離を繰り広げ、徹底的な対象化=客体化を企図するのだ。

時代の空気に同調しないこと。『批評メディア論』が成功しているとすれば、その秘訣は分析対象と分析主体の読書のリズムを安易にシンクロさせない、戦略的に練られた読書法に認められるのかもしれない。

コミュニケーションへの欲望

大澤の「コンプリート」を目指す読書の方法は、必然的に他者とのディスコミュニケーションを彼に強いる。図書館でお喋りはできない。図書館にこもりきりの生活を振り返って、大澤は「淋しかったのかもしれない」と繰り返していた。実際、その「淋しさ」を埋めるが如く、本人の希望もあってか、大澤は著書刊行後に様々な場での対談やイベント参加を精力的にこなしている。

『批評メディア論』のような仕事は、その書き手(つまりは、資料の読み手)にディスコミュニケーションの環境を課す。しかし、であるならば、翻って「コンプリート」と対照的であった、あの同時代読者(「移り気な読者」)たちは、ある種のコミュニケーションの可能性に開かれていたと逆算的に読むことができるのではないか。移り気や軽薄さは、あるコミュニケーションの様式と固く結びついているのではないか。

私はイベントで次のような質問をしてみた(記憶頼みなので細部は正確ではないが大体こうだ)。

「私には同時代読者が言論や批評に付き合い続ける欲望がよく分かりません。言論がどんどん複雑化していく。だからレジュメ的ダイジェスト的機能が求められる。しかし、そんなメンドくさいものは端的に無視すればいいのではないでしょうか? たとえば、私は新聞も雑誌もテレビも見ないので、いま流行している言論界のトピックを知りませんし、お手軽にであれ知りたいとも思いません。私と彼らを分かつものとはなんなのでしょうか?」

大澤は次のように答えていたと思う。つまり、それはコミュニケーションの問題であり、人気のテレビ番組が学校でのコミュニケーションのネタになっていたように、流行の言論を介してコミュニケーションする一定の層があったのだ、と。そして、ひとつのテクストに執着するような(つまり私のような)タイプの読者は当時もいただろうが、大衆化する出版システムの本質的な問題ではないのだ、と。

当世風にいえば、コンテンツ消費/コミュニケーション消費とでも要約できる論点がここにあるだろう。映画を観て楽しむことと映画について語らって楽しむことが違うように、テクストを一人で熟読する消費のスタイルとテクストについて論じ合って交流する消費のスタイルは分けなければならない。著書のなかで大澤がロルフ・エンゲルジングを援用しながら「集中型読書」/「拡散型読書」の区別を導入しているのも(p.240)、これと対応している。ある時期以降の出版システムを主導してきたのはきっと後者の消費のスタイルなのだ。なるほど、たしかにこの説明には一定の説得力がある。

しかし、疑問のすべてが氷解したわけではない。さらに追求してみたいテーマがある。それこそ、そのコミュニケーションを支えるようにみえる、コミュニティ(共同体)の問題である。

コミュニティへの欲望

『批評メディア論』の大きな主張のひとつに、〈論壇時評は論壇に先立つ〉というものがある(第一章)。通常、メディアはあるナマの現実をそことは遠く離れた人々に伝えるための媒介として考えられている。第一に現実があって次いでメディアがある、というわけだ。だが、メディアそのものが産んでしまう特異な現実というものがしばしば存在する。メディア産出的現実ともいうべきものがある。それこそが(『批評メディア論』の範囲でいえば)「論壇」であり、論壇時評は「論壇」に先立って、「論壇」の境界画定や定義づけを行う。論壇時評があるから論壇が生まれたのだ。

ここから先は素人考えになるが、この議論を聞いて私が最初に思ったのは「なんか『想像の共同体』の縮小版みたいな話だな」ということだった。

イメージとして創出された近代的「国民」の誕生を論じたベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』。この本は、統一的な単位として表象される「国民」なるものが、新聞と小説を中心にした出版資本主義によって生じる想像的対象であると論じていた。新聞の例をみよう。

「我々はある特定の朝刊や夕刊が、圧倒的に、あの日ではなくこの日の、何時から何時までのあいだに、消費されるだろうことを知っている。〔中略〕しかし、この沈黙の聖餐式〔communion〕に参加する人々は、それぞれ、彼の行っているセレモニーが、数千(あるいは数百万)の人々、その存在については揺るぎない自信をもっていても、それでは一体どんな人々であるかについてはまったく知らない、そういう人々によって同時に模写されていることをよく知っている。そしてさらにこのセレモニーは、毎日あるいは半日毎に、歴年を通して、ひっきりなしに繰り返される。世俗的な歴史時計で計られる想像の共同体を、これ以上に髣髴とさせる象徴として他になにがあろう」(白石隆+白石さや訳、書房工房早川、2007、p.62)

「想像の共同体」のメンバーの各々は、自分や隣人以外に各地に広がる同メンバー、同じ言語を話すところの「国民」の存在に確信をもつが、そのディテール、「どんな人々であるかについてはまったく知らない」。よく知らないけど存在してるに決まっている、この奇妙なリアリティを構成しているものこそ、日々フル稼働して読み捨てられるテクストを刊行し続ける高度な出版システムなのだ。そう、「想像の共同体」とはメディア産出的現実である。

おそらくは、メディアを活用することでコミュニティ(の想像力)をデザインすることができる。「想像の共同体」(国民国家)にしろ「論壇」にしろ、メディアの自律的展開によって現実には存在しなかったコミュニティの形が幻視される。無論、両者では異なる点も多々ある――最大の差異は「想像の共同体」が一応人々の生身の身体という現実的対応物をもっているのに対し、「論壇」はメディア内メディアとして現実的対応物なしに純粋に成立している点だろうか――。しかし、スケールの差異を無視してなお観察しうるこのメディア-コミュニティという二概念の固い組み合わせは、コミュニケーションの問題に大きな影響を与えるようにみえる。

「消費」にあらがうこと

勝手な推測をしてみたい。大澤聡がディスコミュニケーションに耐える「変態」的な読者たりえたのは、既存のメディア-コミュニティを徹底的に相対化し、身を翻して、可能なる想像力から生じる可能なる共同体を新たに期待することができたためではないか。コミュニケーション消費に相当するものはいつの時代もあるだろう。しかし、想像のコミュニティを司るコードを変調さすことによって、期待されるコミュニケーションの形は縦横無尽に伸縮しよう。

コミュニケーション消費にあらがうこと。いや、コミュニケーション消費であれコンテンツ消費であれ、そもそも「消費」なるものにあらがうこと。その力はどのような条件に支えられているのか。それが私がいまだに抱き続けている疑問である。読み、読み返すことに熟練した「変態」的読者の環境的条件こそ考えねばならない。それは例えば、公共的なアーカイヴ空間としての図書館を考えることかもしれない。

大澤が最終的に行き着いたのは、コミュニティというよりも「集団」であった。対談のなかで大澤は、『批評メディア論』は匿名批評で終わっているとよく言われるがそれは間違っていて集団批評で終わっているのだ、ということを強調していた。最終章の最後は、大宅壮一の「集団」的企画が、結局のところ「大宅壮一」という固有名に回収されてしまうジレンマで終わっている(p.276)。ひとつの固有名によって統治/安定化されない集団の多声的な力能をいかに回復するか。加えていえば、その「集団」の共同性はどのようにデザインされるべきなのか、或いは、もはや共同性など要らないのだろうか?

いずれにせよ、少なくとも『批評メディア論』批評は「集団」的になされねばならない。「大澤聡」という固有名の消費に満足せず、多くの人々に読まれ、批評されなければならない。それに足る一書であることは間違いない。「コンプリート」を目指すディスコミュニケーションによって生まれたにも拘らず、読む者にコミュニカティヴな参加を求めてくるこの逆説に、『批評メディア論』の最大の魅力があるだろう。ささやかながら私も自分の宿題を片手にその一員に加わることを希望したい。

「まちおこし小説」が投げかける文筆の公共性

2015年4月5日
posted by 檀原照和

町に向き合って書くこと

特定の土地にこだわって書く作家がいる。

函館の物語を書き続けた佐藤泰志、紀州熊野を舞台にした「紀州サーガ」で知られる中上健次、最近だと大阪を書き続ける西加奈子がいる。多くの場合、作家と結びついた土地は故郷か居住地である。

その一方で村上龍のように横浜に住んでいながら、横浜らしさをまったく感じさせない作家もいる。過去においてはデビュー当時住んでいた福生の物語『限りなく透明なブルー』や、故郷・佐世保での高校時代を追想した『69』のように土地と結びついた作品をいくつか執筆している。しかし現在彼が住んでいる横浜を舞台として選んだ作品は寡聞にして知らない。たぶん村上にとって、横浜の郊外に向き合う必然性は希薄なのだろう。

では必然性がないにもかかわらず特定の土地を舞台にして書かなければならない場合、作家はどのような思考を経て作品をつくっていくのだろうか。

なぜこんな疑問を持ったかというと、以前「マガジン航」でご紹介したライター・イン・レジデンス(執筆逗留)が関係している。作家が見知らぬ土地でレジデンスする場合、なぜか「この町を舞台にして書いてくれればいいのに」という無言の圧力がかかるのだ。これは北海道の浦河でレジデンスの実証実験をしたときに感じたし、逆に書き手のほうからアピールする場合もあるようだ。フリーライターの北尾トロさんは長野県南部の高遠町(平成大合併で伊那市に統合)を「本の町」にしようと奮闘していた頃「本で町おこしするだけでなく、高遠を舞台にした作品も生まれたら」と考え、地元の人たちにアピールもしていたという(地元の人たちはぴんとこなかったらしく、ぽかんとしていたそうだ)。

「まちづくり ライター」でグーグル検索すると、約298,000件もの記事がヒットする。その多くは「ネット媒体を通して町の魅力を文章で伝えたい」と考える人たちの活動紹介やライター募集記事だ。どうやら文筆活動は、まちづくりやまちおこしの新たなツールとして再発見されているらしい。ついに先月「日本ではじめてのライターインレジデンス」[1]という触れ込みで三泊四日・参加費無料の取材・執筆講座まで開かれる事態になった。参加者は「地方」と「文章」という切り口で、「書いて暮らす」を学び、希望すればウェブマガジンの寄稿者として投稿に挑戦できるしくみだという。

こうした動きは「ワーク・イン・レジデンス」とよばれる取り組みの影響下にあるのだろう。既にスキルを持った人が仕事ごと地方にやってくる、というのがこのレジデンスのイメージだ。いや、レジデンスというよりも移住の有り様の一つといった方が現状に即している。生業としてのライター業を居住地の振興と直結させるという方向だ。

私はこの状況に違和感を感じていた。というのも、私がライター・イン・レジデンスの前提として考えているアーチスト・イン・レジデンスでは必ずしも地域を主題にした作品の制作は義務付けられていないからだ。もちろん現代美術が誕生する以前から、逗留地の風光明媚な様を画家が巧みな筆さばきで表現し地元民が感激する、などということはあった。またそれに近いことは現在も行われてはいる。しかしそれがまちおこしやまちづくりと結び付けて語られることは皆無だし[2]、素人さんに「絵を描いて町の魅力を発信しましょう」などと呼びかける例も寡聞にして知らない。

そんななか「私企業の報酬に依らずに公の予算で商店街を舞台にした小説を出版する」というプロジェクトが東京・高円寺で実施された。実在する店舗を舞台に三人の作家が一冊ずつリレー小説(『高円寺エトアール物語』)を書き上げる、という試みだ。期間は2014年10月から翌年の2月までだった。

「土地と文章をマッチングさせて地方からの発信力の強化につなげたい」という近年の流れを受けたプロジェクトだが、小説というのは珍しい。「商店街活性化を促進する」という大前提があるため、舞台設定など物語を構成する要素に縛りはある。しかしその条件さえ満たせば自由度は高く、好きな小説を書いてそれが確実にお金になるというのはなかなか魅力的である。下世話な例えで恐縮だが、かつての「日活ロマンポルノ」では「濡れ場さえ出せばそれ以外の内容や表現は作り手の意思にゆだねられていた」というエピソードと相通じる部分がある。

とはいえ文章を通した創作行為がまちの振興策として扱われることにはやはり若干違和感を感じてもいる。つまり「社会の役に立つこと」「実用的であること」という資本主義的な側面が過度に支配的な風潮に距離をとりたい、という感覚である。こういう文化的な部分に関してはある意味、社会主義のほうが手厚い保護がみられたのかもしれない(もちろん言論統制と背中合わせではあるが)。

こういうプロジェクトが存在すること自体は悪くはないと思う。建築家が自治体から箱物の設計を任されるような感じと言おうか(とはいえ、建築家並みの報酬を作家があてにできるかどうかによっても評価は変わってくるだろう)。

そういえば最近、地方文学賞という言葉を聞かなくなった。地方文学賞は出版社が地方新聞社などが新人の発掘を目的にしたり、あるいは自治体などが文芸活動活動振興のために、当該地域内に限定して作品を募る活動だが、それとは性格を異にする文学プロジェクトを公的な団体が実施するのは悪いことではないはずだ。

[1] 日本で最初に「ライター・イン・レジデンス」という名称を用いた企画は、京都造形大学の「ストーリーヴィル」というプログラムである)。

[2] 作品の制作ではなく、アーチストが滞在することそのものやアートツーリズムの観点から町の活性化が語られるのが通例である。

前提となったのは書き手と商店街の信頼関係の積み重ね

さて、この企画はどのような経緯で誕生したのだろうか。この企画の発案者は商店街ではなく、地元でフリーペーパー「SHOW-OFF」やニュースサイト「高円寺経済新聞」などを運営しているHOT WIRE GROUPという会社だ。

今回のプロジェクトの財源は商店街の予算ではなく、国が立ち上げた全国商店街振興組合連合会の「地域商店街活性化事業(にぎわい補助金)」だそうだ。つまり国の財源を流用した地域振興事業である。商店街活性化を目的にした助成金事業の公募があり、それに応募するかたちで実現した。

この取り組みは単年度事業なので継続の予定はなく、今回のプロジェクトは今年限りの単発である。とはいえ、商店街活性化の助成事業という性格上、たとえ単年度のプロジェクトといえども効果には継続性が求められる。HOT WIRE GROUPが小説というツールを選んだのは、事業が終わっても読んだ人に商店街を印象づけ、思い入れのあるものにするという無形の継続性を期待したからだという。

プロジェクトが10月からはじまったというのも予算との兼ね合いで、「年度が終わるまでにプロジェクトを完結させる」ことを念頭にスケジューリングした結果だそうだ。実際、話そのものは5月から出ていたものの申請書を書くなど下準備に追われた結果時間がなくなり、当初4巻の予定だったものを3巻に縮小しているという。反面、制作はスケジュール通り滞りなく進んだ。

「エトアール通り」は200メートルあるかどうかの短い通りで、そこに面した70数店舗が商店会に加盟しているが、そのうち30店が作品に登場している。事前に3名の執筆者が手分けして店に足を運び、企画の趣旨説明のほか取材と掲載の許可を取ってまわっている。どの店も協力的で、断わられたケースは皆無だったという。それは商店会の業務ということで理解が得られたことに加え、書き手のうち2名が、地元の祭である「高円寺フェス」のスタッフやフリーペーパーのライターとしてお店の方々と面識があったことが関係しているようだった。

とはいえ、店主たちがみんな本を手にとったり読んだりしたわけではなく、自分の店が登場しているとか、本が好きでないと興味を持ちづらい部分もあるようだった。企画の性格上、商店街全体で盛り上がるのは難しいのかもしれない。それは言うまでもなく、全店舗が登場しているわけではないからだ。せめて作家が5名いれば分担してなんとかなったかもしれないが、反面、民主主義的に全店舗を掲載した場合、それが創作の足かせになる可能性もある。掲載されていない店の反応は商店街でもHOT WIRE GROUP でも把握していないそうで、この企画の課題と言えそうだ。

小説の載った小冊子(A5判、32ページ)の配布部数は各巻とも公称5千部。第1巻は無料で配布しているが、第2巻と第3巻はエトアール商店会で買い物したときの特典という形で渡される。したがって実際に商店街に足を運ばないと手に入れることはできない。電子書籍にしたり、通信販売にするなど遠方の読者に配慮するしくみは用意されていない。配布できる範囲に物理的制約があるので、反応のほうも高円寺近辺からのものがほとんどだ。評判は上々で、他の商店街からも「媚びていないのがいい」と言われているという。だからといってターゲット層を地元に限定しているわけではなく、高円寺に興味を持つ人であればよそに住んでいてもぜひ手に取ってほしい、と同プロジェクトの担当者、山藤(さんとう)輝之さんは語っている。

公的資金が投入されたら、地域振興のために書かなくてはいけないのか?

この原稿は「地域振興の手段として物語を書く」という部分に興味があって書いているわけではない。あくまでもレジデンスとの関係から、書くテーマとして「町」を与えられたらどうするべきか、という観点から研究の対象にしている。

拙宅は横浜の黄金町から歩いて行ける距離である。毎秋開催のアートイベント「黄金町バザール」に昨年カナダ人の漫画家/アーチストであるウォルター・スコット(Walter Scott )が参加し、自身のシリーズ漫画『ウェンディー』の新作を黄金町で滞在制作した。『ヨコハマの災難』と題された成果物は短編集で、タイトルこそ「ヨコハマ」となってはいるものの、場所の特定できない欧米の物語が半分、同じく場所の特定できない日本の都市の物語が半分だった。横浜が舞台だと判別できるランドマークや地名、風景などは一切登場しない。黄金町にレジデンスしていたにも係わらず、それは「日本のどこかの町の物語」にすぎず、当然地域振興には貢献しづらいものだった。

このケースは「アーチスト(漫画家)がそこで滞在制作することそのものが地域貢献である」というテーゼに立っており、作家の地域貢献=地域の物語を書くこと、という日本における一般的イメージとは相反するものだった。公的支援で町を舞台にして書く場合、地域振興はかならずしも作品の必須事項ではない。この部分に関して誤解があると思う。地域への貢献はあくまでも作り手の善意か、依頼主の希望なり、都合なりによって盛り込まれるべき要素にすぎない。今回の企画はたまたま地域振興と小説を結びつけたものだった、ということである。

『高円寺エトアール物語』というプロジェクトは、地域アートと比較しながら語られるべき企画だと思う。

アート(とくに「地域アート」や「コミュニケーションアート」)の作り手は、ある地域に滞在してリサーチを行い、住人たちと対話を重ね、ときには教えを乞い、ときには共同作業を行ったり、ある部分を丸ごと人に任せてしまうときもある。そうかと思えば苦情を言われながら方向性を模索したり、あるいは反発してコアな部分だけは固持したりと、一筋縄ではいかない過程を経て作品を作る。その結果として完成した作品は作り手一人の手による成果物という感覚ではない。住民と作り手とが喧々諤々しながらコミュニケーションをとりあった過程も作品の一部であり、成果物は目に見えるものとして残った作品の一部に過ぎない。

文筆業は、アートのように、その制作過程において「他者を受け入れる」機会が極端に少ない。他者が立ち現れるのは、せいぜい取材の過程で当初の見立てが裏切られたときくらい。それから出版や公開前に確認作業をお願いするときくらいであろう。

理由は単純で、自分が作品全体を制御できるからだ。書き手は作品世界において万能の造物主である。ジョン・ケージが作曲する上で易経を使った(チャンス・オペレーション)ように、作り手に制御できない要素を半ば強引に導入することもできなくはないが、そこにポジティブな意味性があるとは思えない。

文学とアートにおけるこの違いは大きい。出版人は今回のようなプロジェクトに関して「公的資金による商店街振興策」にすぎず、「出版」とか「創作」という意味においては実りが少ない、と考えているかもしれない。それは上記に述べたように、地域社会という他者が創作の過程において立ち現れづらいという文学の性質に起因している部分があると感じられる。

もしエトアール通り商店会で行われたプロジェクトが地域アート作品であったならば「作品の力で世界の観方が変わる」ような成果物が誕生したに違いない。ただしそれが振興策になるかというと、それはまた別の話だ。振興策を打ちたい地域と、自立的な創造行為の両立はなかなか厳しい部分がある。もちろん「そんなことは言われなくても分かってるよ」と言われれば、それまでのことだ。

おそらく文学であっても、アート寄りのアプローチを仕掛けることができれば、地域振興を第一義としない作品がつくれるはずである。ただしそれは運営者の理解を得られれば、という前提があっての話だ。公的資金のバックアップで創作活動が行われるとき、アーチストは作家性を許容されて創造行為としてより純粋に近づき、文筆家は地域振興を目的によりサービス業に近づいていく、という暗黙の了解が成立してしまうことがなによりも怖ろしい。

住んでいる町のあこがれの部分を書く

さて、話を『高円寺エトアール物語』に戻そう。この企画の影の主役は第1巻『天狗ガールズ』を書いた増山かおりさん(写真)である。

執筆者の選定はもちろん、校正家も彼女が声掛けしているのだ。偶然か、それとも必然なのか、今回のメンバーは全員高円寺に縁がある面子で固められている。

執筆者の一人、半澤則吉さんはむかし東高円寺に住んでいた時期があり、同じく執筆者の枡野浩一さんも高円寺で暮らしていた時代がある。イラストの樋口達也さんは現在の住まいこそ宇都宮だが、高円寺に17年間住んでいたときは郵便局の配達員としてエトアール商店会を受け持っていたこともある。カメラマンの佐藤正純さんは増山さんと高円寺フェスのアート関連企画で知り合っている。そんなこんなで『高円寺エトアール物語』の制作チームは「ほぼオール高円寺」と言っても過言ではない陣容なのだった。

増山さん自身も高円寺に7年住んでいる。大学を卒業後、すぐに一人暮らしを開始。高円寺以外の場所に住むことは考えられなかったという。

「高円寺が自分にとってのアイコンだったんです。さくらももことかみうらじゅんとか好きなモノがみんな高円寺に関係していて。私の『天狗ガールズ』では、どうして高円寺が好きなのか? という理由を書くことが、結果的に高円寺の魅力を伝えられるいちばんよい方法だと考えました」

タイトルの「天狗」は作中に登場する架空のバンド「テングス」を指している。主人公は女子二人でこのバンドのファンである。バンドのモチーフになっているのは増山さんがハマッているという「イカ天(「三宅裕司のいかすバンド天国」)」出身のスリーピースバンド。高円寺のライブハウスへの出演経験も多く、ドラムは高円寺在住だという。

「高円寺のバンドなんだ、とますます好きになりました。実際になんども高円寺の町中で見かけているんです。尊敬する人と同じ町に住んでいる、という高揚感を書いています」

増山さんの作品は、高円寺の一般的なイメージ……古着とかロックバンドとかサブカルなどのイメージ……を一身に体現してる。

「私の作品はシリーズ一作目なので、高円寺がどういう町なのか示す必要がありました。そこは意識しています。その上でキャピキャピ感を出すために会話する相手がほしいと思って、主役は二人にしました。若い女の子のピチピチした感じが特に出ている天麩羅屋の『天米』の場面は、実体験の反映です。好きなバンドのジャケット撮影地である古い洋館へ行ったときの体験をほぼそのまま書いています。

はじめのうちは物語を成立させるために半ば無理やり書いていたのですが、洋館でバンドのメンバーが座った椅子に腰掛けた話を書いたら筆が滑り出しました。物語のディティールに自分の経験をなぞるように入れると書いていて楽しいですね」

ちなみにバンド名が「テングス」なのは、モチーフになったバンドが日本の中のおどろおどろしいイメージを歌っていることが関係しているという。と同時に、敬愛するみうらじゅんの影響もあるとかないとか。文体の方も大好きなさくらももこの古風な語調から影響を受けているそうだ。高円寺文化の美しい円環が出現しているというわけだ。

この作品はまず骨組みから決めたという。パル商店街と交差するエトアール商店会の手前側からじわじわ通りの奥に行く構成にしたのだ。「端から端まで登場させるという部分をいちばん意識した」というから職人的である。

「この作品は住んでいたからこそできた作品ですね。住んでいなければ書けないことを書くつもりはなかったんですが、端々にそれがにじみ出ていると思います。高円寺に住んでいればバンドマンが多いことは肌で分かりますし、時間帯ごとに変わる町のいろいろな顔も見ています。なにより町の空気が分かります」

では仮に、高円寺が好きで通いつめてはいるが住んではいない、という人が書いたらどうなるのだろうか? あるいは住んではいるものの、それほど町に愛情がない人が書くと、どうちがうのか?

この点に関して私と増山さんの話のなかでははっきりした答えは出なかったのだが、町に対する思いの温度差によって小説はいかようにでも書けるし、書く人が町を決める(町のキャラクターを決定する)側面もあるのではないか、という話になった。「本のタイトルに合わせて商店街の名称が変わってしまった」という逸話をもつ『高円寺純情商店街』(ねじめ正一)は小説が現実を動かした実例だが、小説のイメージに憧れてそのイメージに沿った人が後から集まってくる、という部分もあるかもしれない。そう考えると作品と町の関係は一方通行ではないはずだ。

それからもう1点、仮に見知らぬ町を舞台にして書く場合、どの程度の期間そこに住む必要があるのか、という部分に関しても議論した。増山さんの回答は「すべての季節の空気感を経験するために最低1年は必要」というものだった。私も同感である。できれば数年、最低でも1年は欲しい(あるいは1年の間に数週間の滞在を間隔を空けながら4〜5回繰り返すというかたちであれば、継続して住まなくても大丈夫かもしれない。この部分は検証が必要である)。

海外のライター・イン・レジデンス・プログラムの多くはその期間を3ヶ月間と定めている。滞在中の執筆テーマに関して制限が掛かることは皆無で、滞在先とは無関係な物語が書かれるケースが大半だ。それはこういう事情によるのだろう。

巨大チェーン店を駆逐する独特の雰囲気が高円寺らしさ

短編映画の自主上映会を主題にしたのが半澤則吉さん(写真)の第2巻『キネマボーイズ』だ。自身も映画サークルで作品を制作していたのかと思いきや、内容はまったくのフィクションで、映画は一度も撮ったことがないという。自分自身の経験も物語の中に織り込んでいる増山さんとは対照的に、半澤さんは実生活と距離を置いて書く人だった。小説家志望のライターという半澤さんの有り様も関係しているのかもしれない。

「短編を書くためにはキャラが立っているほうがうまくいきます。ヒロインのマヨちゃんですが、ここまでキャラがうまく立てられたのは初めてなんですよ。キャラものとして上手くいきました。

本来は堅いものが書きたいんですが、今回は30分から1時間でサクッと読み切れる分量を意識しました。とはいえ予定より字数が多くなってしまい、無理を言って写真を削ってもらっています」

2ヶ月程度で書き上げなくてはならないこともあり、半澤さんは書きためていた文章を読み返したという。そのなかにちょうどコーヒーに絡むものを見つけたため、冒頭の部分で流用しているそうだ。

「書き手3人の約束事として、『純喫茶エトアール』という店を必ず出す、というルールを作りました。最初のミーティングで『エトアール』は映画の上映もやる喫茶店、という設定になっています。エトアール商店会にはむかし映画館があったので、実際のお店と絡めて架空のシネマ・カフェを登場させる、という決めごとです。せっかくなので映画を前面に出そうとシネマ・カフェをフィーチャーしました。タイトルも増山さんの『天狗ガールズ』ありきで、ガールズとボーイズで対になっています」

半澤さんがイメージする高円寺の特徴は、なんだろうか。

「『TSUTAYAがない町』ですね。むかしはあったんですが、閉店したんですよ。巨大チェーン店を駆逐する独特の雰囲気が高円寺らしさ。『そういうことじゃねえよ』という空気感。それが高円寺ですね。ユニクロもないんですよ。

それから若者だけじゃなくて、おじいさん、お婆さんもいること。僕の本に登場するそば屋の『信濃』とか増山さんの本に出てくる天麩羅屋の『天米』とか、超渋い老舗なんですよ。長年行きつけている中年や年配のお客さんたちが常連で、年をとっても居心地がいい。みんながなじめる町。そんなイメージですね」

そんな町での反応はどうだったのだろうか。

「出版の仕事に携わっていると、”編集が終わった仕事は過去の話”という感覚になってきますが、今回は自分の名前で出させていただく作品ということで読者からの反応は気になりました。残念ながら生の声はあまり聞けていませんが、著者献本が50部あったので友達や周囲の人には配りまくりました。今回は読みやすさを追求しているだけあって、反応がいいんですよ。配った内40〜50%の人はメールや電話で感想をくれます」

友人に褒められた箇所はあとがきを「5年後」と設定したことで面白い効果が出ている部分だという。この作品はあとがきを上手く使った二重の入れ子構造になっているのだが、現実の店舗を舞台にしていることを踏まえ、あとがきには5年前にはなかった新しい店だけを登場させたのだという。

「取材のとき、いつ開店したのか訊いて廻ったんですよ。5年後の部分と整合性を持たせるためです」

現実の商店街とリンクした小説だけあって、高円寺好きな人でないと気がつかない工夫が施されているのだった。

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