第7回 返品制度の壁と事業計画

2015年9月4日
posted by 清田麻衣子

2013年の年明け、写真集『はまゆりの頃に』は、その年の秋の出版を目指すことになった。

写真家の田代一倫さんはその後、刻一刻と姿を変え、問題が複雑化、多様化していく被災地の人々を撮影し、季節ごとに、所属する「photographers’ gallery」で写真展という形で発表していた。被災地に通い詰め、その時点で800人以上の人を撮影し、お金も底を尽き、撮影中は車で寝る生活を送っていた。話をしていても、頭と心は東北にあって、体だけ東京に居るという感じで、その体も、髪は伸び放題、目はうつろで、服装にも頓着しなくなり、いろいろな意味で危険な雰囲気が漂っていた。

被災地の日常は終わらない。写真家としての覚悟を問われる撮影において、終わり方についてもずいぶん考えていたのだと思う。そして、東北の遅いからこそ眩い5月の「春」という季節と、震災から「3年目」という、死者への弔いの時期を重ね、「終わり」ではなく、「始まり」としてひと区切りしたいということを言っていた。撮影が暴力的行為だという認識が深くあるからこそ、撮影を了解してくれた人のみ、声を掛けたときに立っていたその場所で、真正面から全身を撮影するスタイルをとった写真家らしい、精一杯の誠意の示し方だと思った。そこで、撮影終了からあまり時間が経たず、かつ写真集出版が多い秋に発売を決めた。ついにゴールが見えてきた。

また、2冊目に出す井田真木子さんの本について、過去の雑誌を収集している、東京は世田谷区八幡山の大宅文庫で調べていると、単行本に収録されていないエッセイが予想以上にたくさんあることがわかった。その中には、井田さんが雑誌ライター時代、大宅文庫に通い詰めたということを綴った一篇も含まれていた。会うこともないままこの世を去った作家との微かな繋がりを手繰り寄せたような気持ちになり、静かな閲覧室で、はやる気持ちで文字を追った。

作家になる前に詩人としてデビューしていた井田さんの処女詩集を古本屋で見つけた。奥付の住所が本人の家になっており、探して行ってみると、まだご家族が住んでおられ、つまり、著作権継承者はご健在ということがわかった。本の発売日の目処がたったら、改めて足を運ぼうと心に決めた。これは大きな発見だった。

念願だった2冊の本の作業を進めながら、次第に「本番」が近づいてきたことを感じて身体に血が駆けめぐるような感覚をおぼえた。だが夜ベッドに入ると、昼間の熱を冷ますかのように、心に黒い雲が広がった。この雲の正体ははっきりしていた。お金のことはほったらかしだったのだ。

のしかかる不安

お酒は飲むと強くなる。10年以上に及ぶたしかな訓練によりどんどん耐性はついたものの、元がそう強くはないので、飲んだ記憶はおぼろげだった。なんだか楽しかった感触、どことなくバツの悪い感触だけが翌朝に残った。飲んで消えた時間と酒代をこれほど後悔する日が来るとは思ってもみなかった。

いったん不安と後悔が押し寄せると、ベッドの中で悶々としてなかなか寝付けず、布団をかぶって声に出して叫んだ。

「ひとりで出版社をやるなんて全然思ってなかった!」

のちに、「一人で出版社を始められた経緯を教えてください」と取材される機会が何度かあり、オファーを受けたものの、いざ質問に答える段になると、自分が発したもっともらしい言葉に自分で驚いてしまって、次の言葉が出てこない、ということがよくあった。常に現在進行形で、自分のしていることに確信が持てない。行き当たりばったりなのだ。取材する側からされる側になって初めて、現在進行形の事柄の「意味」や「意義」を問われ、出てきた「答え」が、いかにあやふやなものかを知った。

私の計画性のなさは、特に予算面に如実に表れていた。会社員時代、「本の内容を見極める勘と腕を磨きさえすればよいのだ」と、編集業にあぐらをかいて、なおざりにしていたことはたくさんあったが、中でも最大の事柄は、経理や予算組み、つまりお金にまつわることだった。しかし、もう「本番」は視界に入っている。『はまゆりの頃に』は撮られた人はすべてたいせつな存在であり、できるだけ多くの人の写真を入れたい。「井田真木子本」は、主著はどれも捨て難く、未収録のエッセイも詩も、と入れたいものは増えていき、削りに削ったとしても、2巻組のぶ厚い本になるだろう。

「せっかく出すんだから」と考えだすと、希望に際限がなくなる。しかし形にするには、どのくらいの予算をかけてどんな本を作るのか、という私の中での「上限」を見極めなくてはならない。「部数を増やしてください」とか「もっと予算ください」と泣きつく側も、「じゃあまず買う人の見込みを立てろ」とか「できるだけ安い紙を使え」などと突っぱねる側も自分というのは、なかなかややこしい。

また、私に限らず、出版社をやろうとする人を苦しませる大きな問題に、出版業界の返品制度がある。発売後、取次に出荷する時点で一度売上が立つものの、実際にお金が入るまでは、発売後半年以上の空白期間があるのだ。

なぜなら、書店は注文した本が売れなければ返品という形で取次に戻すことができる。もちろん返品は少ないに越したことはなく、返品されるスピードは遅いほど助かる。取次は、返品の様子を初回の出荷とその後1〜2ヶ月の売れ行きから予測して、およそ半年〜8ヶ月後、出版社に「見込み」の数字で入金していく。売れる本なら何度も注文が来て、途中で在庫がなくなったら増刷という展開もあるが、売れない本なら初回の出荷だけであとは返品処理のみとなり、早いスピードで流通が終わってしまう。売れたら長く入金は続くし、売れなかったら早く入金は終わる。その見込み入金を何度か経て、徐々に売上の実数が確定する。

いずれにせよ、納品から入金までにとても時間が空いてしまうことから、そこまでの資金繰りがとてもたいへんなのである。会計上は売上が立つので利益が出ているように見えても、実際の手元には資金がない、ということが起きるのだ。こういったことも、大枠で言葉だけで理解していたものの、実際の感覚は自分で始めてみて、ようやく掴めたことだった。

この独特な出版経理の基本に基づき、今後の出版計画や予算の都合をつけなくてはならない。だがいくら自分の予定に当てはめて想像しようとしても、頭がフリーズして、ただただ不安でどんより暗くなってしまう。仮の数字でモノを考えるということができない。困りきったときは、とにかく人に聞くしかない。一人で出版社をやるのは、一人で旅に出て人と交流するのと似ていると思った。

創業者支援融資斡旋制度にトライ

美人でしっかり者で、かつ真顔で「えー、ソレやばいんじゃないの?」と、昔からシビアな現実を遠慮せずにビシビシ突いてくれる、高校時代からの友人が大学を出て税理士になっていた。法人にするか、個人事業主にするかを最初に相談したのも彼女だった。藁にもすがる想いで、彼女に里山社の税理士として正式に依頼した。学生の頃、数学の試験の直前に解き方を聞いて丸暗記しようとしていた時と変わらない構図だった。

待ち合わせした駅の喫茶店で、出版経理について事細かに、しかしたどたどしく説明する。

「へー、ややこしいんだね」

さして表情を変えずにそう言いながら、私の下手くそな説明をひととおり聞いて、里山社の出版予定をサラサラとメモした彼女は、カタカタと電卓を叩き、かつて数学の回答を導き出したのと同じように、スラスラとプランを組んでいく。見守るだけで手持ち無沙汰の私は、彼女が頼んだ紅茶を半分も飲み終わらないうちに、自分のアイスコーヒーを飲み干し、ガリガリと氷を噛んで待つ。

「たしかに出版経理はややこしいけど、とにかく入金と出金の額とタイミングを整理することだよね」

30分もしないうちに、『はまゆりの頃に』そして「井田真木子本」上下2冊の予算案、そして入金時期を仮であてはめ、向こう3冊の必要額の目算が出た。黒い雲でしかなかったものは、ごくシンプルな表となって目の前に現れた。なんでこれができなかったんだろう……。しかし、ここで課題がはっきりした。

「やっぱり入金までの長さを考えると、いまの予算だと少し不安だよね。親に借りるか、どこかで借金をするかしたほうが安全だと思う」

やはりきたか……。親に借りたいのはやまやまだが、この先も借りる機会が出てきそうな気がして仕方がない。いざというときに切り札は取っておきたい。しかし、会社員生活が長い私には、「借金」というものにも抵抗があった。

「うーん。どうしても借りないとダメかな……」

すると、彼女はおもむろに、

「ひとつ提案があるの。悪くない手だと思うんだけど」

カバンから取り出した書類には、《創業者支援融資斡旋制度のご案内》とある。

「なに創業者に助成金くれるの?」

すぐムシの良い勘違いをしそうになる私を「ちがうちがう」と彼女が制す。

「まあ借金ではあるんだけど、保証人がいらなくて、しかも利子のほとんどを自治体が肩代わりしてくれるの。しかも返金までの期間が最長7年だから、そんなに無理なく返していける。公的なものだから安心だし。それに法人じゃなくて個人事業主でも大丈夫なの」

つまり、真っ当な事業計画にもとづいて創業しようと考えているものの、当座の回転資金が足りない人に向けて、自治体が銀行側のリスクを軽減しつつ、バックアップしてくれるという制度なのだ。奨学金みたいなものといえば言い過ぎか。

「ただ自治体の審査が降りて、さらに銀行の審査が降りたらなんだけど……」
「やってみる」

即答した。聞けば聞くほど、やらない理由が見つからない。彼女が導き出してくれた青写真をもとに、借りたい額も決まった。それらの数字を書類に書き込んでいけばいいのだ。何度かやりとりを交わし、というかほとんど助けてもらって、数週間後、統括している区の産業振興公社に満を持して書類を提出しに行った。

「おっちゃん」中小企業診断士との絆

手持ちの中でもっとも「信用されそうな服装」で、万全の資料を手に赴いたものの、「これをもとに、中小企業診断士が指導していきますので、面談日は後日お知らせします」と、受付の女性に書類を提出しただけでその日は終わった。あれ? 今日で決着がつくものじゃないの???

区で指定した中小企業診断士が、私が提出した書類をもとに、「信用保証協会」提出用にこれから指導していくという。読み込んだはずの説明だったが、よくわからないところは全部スルーしてしていた。

つまり、信用保証協会という公的な保証会社が「もしも」の事態を保証する。その保証がとれるかどうかが肝心で、その保証をもって、さらに銀行が審査をするという。そりゃそうだ。そんなに簡単に利子を肩代わりして、お金を貸してくれるわけがない。遠い道のりにまた不安が募った。こんなのクリアできるの? しかも中小企業診断士との面談は、税理士ではなくて創業者である私が一人で行かなくてはならない。事業計画書も友人が描いた青写真をトレースする形で提出していたのだが、私自身がイチから説明できるようにしておかなくてはならなくなった。

「ぜんぜんダメだね」

ようやくやってきた面談日。担当になった中小企業診断士は、私たちの友情の結晶ともいえる書類に何度も「ダメ」を繰り返した。思わず憮然としてしまう。しかし、細かく指摘を聞いていると、私が想像していたよりもずっと綿密な資料でなくてはならないことがわかった。自治体の世話になろうとしているくせに、「自治体の雇われ業務なんて、とおりいっぺんの説明で《お役所仕事》として流されるんだろう」くらいに思っていた私は、厳しい口調でズバズバと私の資料の問題点を指摘してくる中小企業診断士の男性に面食らった。しかも、江戸っ子口調で角刈りで、昔堅気の大工のような「おっちゃん」風情で、およそイメージと違う。

「俺は甘いことは言わないよ。俺がこれまでに受け持った人はね、80%だ。80%の確率で通る。でも残りの20%はダメだった。だから俺と何度もやりとりして面倒な想いしてもダメだということもある。アンタ、それでもやってみるか?」

少しさびれた役所の建物の、事務机を一人分ごとにパーティションで区切った小さな面談スペースに、こんな熱い空気が満ちているとは思ってもみなかった。

「……やります」
「そんなら俺は徹底的に何度でも見るよ。あと今度から、ボールペンじゃなくて鉛筆で書いてきな」

鉛筆の理由がわからないまま、言われたとおり修正し、次に書類を見せに行くと、

「ダメだダメだ。ここ書き直して。これじゃ通る確率30%もないよ」

おっちゃん診断士は、私が一生懸命丁寧に書きなおした書類の細かいアラを指摘し、目の前で消しゴムで消して書き直させる。狭い机はすぐに消しカスでいっぱいになる。外注の編集仕事が終わってから取り掛かる、苦手な書類作業はきつかったけれど、何度かやりとりを繰り返しているうちに、次第におっちゃんと私との間には、落ちこぼれの浪人生と熱血予備校教師のような、師弟関係ともいうべき絆が芽生えはじめていた。

暗い雲が晴れる

そして修正を繰り返した3回目の面談のあと、おっちゃんがパイプ椅子にふんぞり返って言った。

「次はボールペンで書いてきな」
「……いいんですか?」

嬉しかった。ボールペンで書いて提出した4回目の面談日。

「ようやく80%まで来たね。俺ができるのはここまでだ。あとの20%は悪いけど、運だな」
「ありがとうございます! 運に賭けます!」

やるだけのことはやった。これでダメなら仕方がない。

数週間後、信用保証協会の面談を無事通過したとの連絡が来て、2月に取り組みはじめてから4ヶ月後、1冊目の『はまゆりの頃に』発売を約半年後に控えたギリギリの時期の2013年6月、無事銀行の審査も通過したという連絡が入った。残り20%の運を勝ちとったのだ!

まずは税理士の友人に報告の電話をすると、いつもはクールな彼女が、「よかったね〜!」と心からの喜びの声をあげてくれた。そして後日、書類をとりに久しぶりに産業振興公社を訪ね、おっちゃんを探した。しかし、面談中とのことで姿を見ることはできなかった。でも私には、狭い面談室で熱血指導している姿がありありと想像できた。

出版社をやると決めてからずっと心に巣食っていた黒い雲が晴れたような、本当に久しぶりに安心して眠れる心地がした。

そして、仮の予定でここまで考える? と思うくらい綿密な計画を立てたことで、私のぼんやりとしていた予定がしっかりと形を持って現れてきた。お金の問題だけではなく、この数ヶ月のやりとりによって、気づいたら、自分のやろうとしていることを俯瞰して見るという、事業者としての基本姿勢が叩き込まれていたのだった。

次回につづく