貧困から図書館について考える

2015年4月2日
posted by 伊達 文

みわよしこ 生活保護リアル komattatoki

3月8日、著書『生活保護リアル』(日本評論社)にまとめられたネット連載など、生活保護についての多角的な報道を重ねた功績で貧困ジャーナリズム大賞2014を受賞されたみわよしこさんと、『困ったときには図書館へ~図書館海援隊の挑戦〜』(悠光堂)の著者である神代浩さんによる、第4回LRGフォーラム「貧困と図書館 困ったときに頼れる図書館へ」を聞きに行った。貧困と図書館。生活保護と図書館。一見不思議かもしれないこの組み合わせの接点とは何なのか。

しかしこの問いに入る前に、そもそも図書館とは何かということを考えてみたい。登壇者のお一人である神代さんは文科省の社会教育課長時に、住民がかかえる問題の解決を助ける各地の図書館を応援するための図書館海援隊という取り組みを始めた方である。私は神代さんの活動を最初に知ったとき、先に社会問題があって、そこから図書館に何ができるのか考える、という点に魅力を感じた。

先に図書館があると思うと、図書館だけで視界や活動が完結する。建物内だけ、本だけで完結してしまう。だが本は社会から生まれ、社会の中で誰かに読まれる。本の前に社会を見ないと、本(情報や知識)は必要な人には届かない。すでにある本、すでにある現状の図書館を利用してもらうためだけに図書館活動をするのではなく、社会を見据えた上で図書館がどういう存在でありうるかということ。微妙な差異に聞こえるかもしれないが、後者の前提に立って、貧困・生活保護と図書館との関係がどうありうるかを、考えてみたい。

「生活保護制度はよく知られていない」

一つ目のあり方は、これまで生活保護制度を利用したことのない人が生活保護の受け方を知る手段としての図書館だろう。この日、貧困ジャーナリズム大賞受賞の記念スピーチもされたみわさんは、ご自身が人生の途中で障害者となり福祉関係の場所に出向くなかで身近に生活保護利用者の知り合いができ、その方々の具体的な暮らしぶりに触れたりご自身で周辺情報を調べたりするうちに、これだけ大きな制度で、動いている予算も関わっている人々の規模も非常に大きいのに、生活保護法やその仕組みはきちんと知られていないことに気がついたと言う。

司会を務めたアカデミック・リソース・ガイド代表取締役の岡本真さんからも、誰もがあらゆる分野についてすべてのことを知ることはできない、としたうえで、世の中の大きな関心を集める事柄と、それに対して詳しく知っているわけではない我々の間には常にギャップがあって、そこを埋めることができるかどうかが図書館の役割として、いまいちばん大きく問われていることだと思います、という問題提起があった。

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第一部はみわさんの「貧困ジャーナリズム大賞」受賞記念スピーチだった。

貧困と図書館の関係の二つ目のあり方は、生活保護利用者の学びの手段としての図書館である。『ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)』第2号に掲載された、みわさんの特別寄稿「「知」の機会不平等を解消するために-何から始めればよいのか」には、本や図書館を通して学習手段や調査手段が手に入ったことによって何度も人生のチャンスをつかんできたみわさんの体験が書かれている。知へのアクセスが、人に人生の選択肢を与えることが伝わってくる。人生の途中から生活保護を受けることになった人にとっても、生活保護世帯に生まれ育つ子供にとっても、困難をかかえているからこそ、知へのアクセス権があることはとても重要なはずである。

ところがみわさんが身近に接する生活保護利用者や研究から見ていくと、図書館に通う習慣のある生活保護利用者は、10%もいないと言う。さらに、図書館に行くどころか生活保護を受けることによって引きこもりではなかった人が引きこもりがちになり、つながっていたはずの社会との関係を自ら断っていくことが多いのだとも。

貧困は人と人のつながりを遠ざける

この、生活保護あるいは貧困といったものがその人を人とのつながりから遠ざけるメカニズムを、私自身が年収200万円以下のワーキングプアだった時期の体験を踏まえて考えてみよう。一定額以上のお金を稼いでいないと二重の意味で人の輪から遠ざかることになるというのが、私の体感と観察からの結論である。

第一に収入が少ないということは、当然交際費にかけられる金額もまた少ないということである。具体的に言えばご飯を食べに行こうとなったときに行けるか行けないかの選択肢が狭まるし、行かない本当の理由を何度も言うのも楽しいことではないし、贈り物や手土産の機会にあげられなかったり返せなかったり交換する物の価格が随分違ってくるということだ。こうした具体的に使える金銭の額の違いから、人間関係が疎遠になっていくことがある。

第二に、人と会う場に参加できたとしても、いま何してる、と聞かれていつまでもアルバイトや生活保護とあっけらかんと言えるほど、低収入あるいは生活保護は、同じ社会の仲間として温かく受け入れられているわけではない。みわさんは、生活保護利用者が引きこもりがちになる理由を即答でスティグマと答えた。

「生活保護を受けるということは、お恵みを受けること。働いている人にぶら下がることなので、恥ずかしいというふうに世の中が刷り込まれていっていて、これがいちばん効いているんです」

と。いかに稼ぐ能力を上げて生き残っていくか、またそうあることがかっこいいかという物語が社会でできあがっている中で、貧困そのものが恥ずかしく言いづらくなっている空気がある。こうして自分を卑下したときから、その人が会う人間の数や多様性は大幅に限られてくるように思う。

生活保護利用者がかかえる知的不平等の要因の一つは、この「閉じている」ことだろう。生活保護という制度は存在するのに、生活保護を受けて生きるということ、もっと言えば人に助けてもらうということが、事実上社会で受けいれられていないからである。

このように生活保護利用者のかかえる知的不平等は、通常当たり前に友人に聞けたりすることが人間関係の狭さゆえに聞けなかったり、図書館という知的アクセスのための場所にも行きづらく情報が足りていないことにもあるようだが、それだけでは終わらない。フォーラムの終盤、なぜ日本の生活保護がこんなにうまくいかないのかわかったというみわさんの発言があった。それは、お金は支給するが就労指導に従うようになど「自分のことを自分で考えて自分で決める権利、選ぶ権利をはぎとっている」からだと。

「自分で人生を切り開いていける」ための場所

情報や知識を得たり学んだりすることによって、人生には選択肢が生まれるし、自分で考られることが増えたりもする。今とは違う状態が自分に可能であることを、人はそれ以外の可能性を少しでも垣間見ることで感じることができる。情報や知識にアクセスできることは、自分で人生を切り開いていく可能性を手に入れることと同義だ。

立場は人間を作る。主に非正規(アルバイト、パート、派遣社員、契約社員)で働いてきた経験から、非正規という働き方は人間の思考習性を大きく変容させると感じた。もちろん私の少ない体験からなので、すべてにあてはまることではないが、中でも私が経験した業務委託図書館でのアルバイトは、人の思考力を奪うと思った。細かいミスまでが会議の議題になり、自分で解決策を考えるよりも上からの指示待ちとなる現場で、人は日に日に萎縮し、正規雇用者を過剰に恐れ、自分で考えなくなっていきやすい。

生活保護では、よりそうなりやすいのではないだろうか。自分で調べたり学んだり考えたりする手段との接触が少ない人生を歩んできた、人前で堂々と自己紹介しづらい状態の人が、人間関係を閉じると同時に自分で決めたり選んだりするステージから降り、いつのまにか自立から遠ざかっていっているのではないだろうか。

必要なのは、誰もが自ら学べる場があることだ。きっと図書館が伝えているのは、あなたは自分で調べたり考えたりできる、あなたは自分で人生を切り開いていけるし、その調べたり考えたりする素材は誰かが作って誰かが一緒に調べたりしてくれたもので、あなたは人とつながって生きていけるということだ。本を人と共有するというのは、そういうことだと思う。

本のある環境の大切さ

私は鳥取という小さな街で育ったけれど、家中に本があり、のちにLibrary of the Yearを受賞する鳥取県立図書館に通い、知りたいことを日々学び続け、大学院まで進んだ。そしてワーキングプアだったときも今も、ではどうしたらいいのかを調べたり考えたり人とつながって助け合ったりすることを身につけていたから、楽しくすごしてこられた。

学ぶことには、それだけの大きな力がある。友人の結婚式での新婦から両親へのお礼で、印象深かった言葉がある。子供の頃彼女は両親に図書館に連れて行ってもらった。本を通して様々なことを学んで喜びを得た、しかしそれ以上に学ぶことそのものの喜びを知ったのだと彼女は言った。だから今度は自分が子どもを図書館に連れていきたいと。このかけはしを誰に対してもかけられるようになったとき、社会は大きく変わるだろう。

しかし身近な人間関係さえ狭まりがちな人は、どうしたら図書館に来るのだろうか? みわさんが図書館へ行くことを勧めても、「みわさんがついてきてくれたら行ってもいいけど……」などとなり、みわさん一人の体では支えきれない。しかしこれは大きなヒントだ。岡本さんのこのあとの提案にあったように、図書館に一緒に行くボランティアということも考えられる。ただ、はじめから行く気があるわけではないのだから、まずは行ってみたいと思うきっかけ作りが必要になる。

ここで妥当なのは、図書館に来やすいように、生活保護利用者と定期的に接触のある行政他部署との連携だろう。ところがトークセッション後に会場から寄せられた質問には、生活保護制度を利用したことがある方からの「図書館に行くのは贅沢なことでしょうか?」というものもあった。役所からは「図書館に行く暇があったらハローワーク行きなさいよ、仕事探しなさいよ、読んだって仕事見つからないんだから」と言われると。

これに対しては行政の側に図書館から働きかけて、むしろ図書館の活用を勧めてもらうようにしてもらうことが必要だろう。そうすることで、生活保護利用者自らが学び、行政側が人手をかけて一から十まで指導していた分の負担を減らすこともできるはずなのだ。

変わらなければならないのは、行政だけではない。みわさんの、生活保護受給後に精神的に引きこもりになった場合、ケースワーカーが気づけば精神医療につなぐ、それで行った先のクリニックに本や情報機器があれば図書館に行くきっかけになるのではないか、という提案も貴重だ。岡本さんの言う「生きていくうえで絶対必要になってくる場所に対して図書館の側からもアプローチをしていって、小さな砦をたくさん作っておく」ことが、図書館にできる最初の一歩のように思う。

「図書館員」自身の貧困問題

と、ここまで書いてきた図書館のあるべき姿には、自分でもなんだか現実感がない。なぜこれまでこうした取り組みがなかったのか。神代さんが言うような「図書館員が資料を選ぶ段階で生活保護の情報が冷静に書かれて伝わるような資料を選ぶ」図書館はなぜいままで普及してこなかったのか。図書館はなぜ、知のセーフティーネットとして機能してこなかったのか。

その一つに、神代さん自身が『困ったときには図書館へ』でも指摘しているように、図書館員自体の貧困があるとは言えないだろうか。先述した私が年収200万円以下だったときというのは、大学図書館のアルバイトとして働いていたときのことである。だから「図書館と貧困」というテーマを聞いて最初に私の頭に思い浮かんだのは、図書館員の貧困だった。つまり、図書館が外の貧困に対してどう働きかけることができるかという問い以前に、とくに公共図書館については官製ワーキングプアの一つにも挙げられるような、図書館や図書館員自体が疲弊しているという現実がある。

もちろん非正規かどうかに関係なく、素晴らしい図書館員は様々な図書館で活躍している。が、関東で時給が800〜900円台だったりすることも多々あり、また「1年ごと更新」ないし「3年で更新なし」といった雇用条件では図書館員は定着もしないし、社会を見据えて働くという意識のある図書館員をそろえていくことなどは非常に困難である。こうした条件下で、図書館員自体が、図書館を本だけの存在、図書館という建物内だけのことだと思っている、という状態が続いてきたのではないだろうか。

もちろん雇用条件の悪化は図書館だけの問題ではない。友人に図書館の現場の話をしたとき、景気そのものが回復しないと解決しないだろうと言われたこともある。そうしたこともあって、優れた取り組みをしている少ない図書館の話を聞いても、疲弊した多くの図書館の底上げを求める議論に対して言えば、電気も引かれていない村にブルーレイの美しさを説明するような感じで、私自身、懐疑的に感じたこともあった。

しかし、そうしたことを問題にするよりも、あそこみたいに楽しいことをうちもやってみよう、という事例を広げることで突破口がひらける可能性を、最近の私は見ている。いきなり図書館予算が増えたりはしない。でも乱暴かもしれないけれど、面白いことをどんどんしていくことで、とりまく世界そのものが気がついたら変わっている、そういう時代に入ったと思う。

波はあらゆるところから起こる

波は公共図書館そのものからも起こるかもしれないが、本や情報というツールを使いうるあらゆる場所から、うねるように起こる気がしている。その起爆剤は、マイクロライブラリーと呼ばれる個人や地域の人々の蔵書を開放した共有の仕方だったり、本を読む先の暮らしを提案して人と人をつなぐ部活動をしている天狼院書店のような書店や、これから増えるかもしれない、私を含めて特定の図書館に所属せずにフリーで司書的な活動(調べものを手伝うなど)を行う人間かもしれない。

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鳥取のブックカフェ「ホンバコ」はクラウドファンディングの目標額を5日間で達成。

渋谷に深夜1時まで空いている図書室を作ろうとして森の図書室がクラウドファンディングの日本新記録を達成したのが2014年5月。鳥取で24歳の青年が中心となって、「本で人と街が繋がるきっかけを」をテーマとしたブックカフェを作ろうとする活動ホンバコがクラウドファンディングの目標額を5日間で達成したのがつい先日、2015年3月10日。図書館と呼ばれるかどうかに関係なく、本をめぐる動きは活発だ。

冒頭で定義してみた図書館とはそもそも何かという問いは、より正確に言うと、私たちは知をめぐって何を望みそれを図書館と呼ぶのか、という問いである。これから先、私たちの作ったものが図書館と呼ばれていく。そんな面白いときを、今、私たちは生きている。

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「マガジン航」が再起動します

2015年4月1日
posted by 仲俣暁生

マガジン航のお引越し
2015年4月1日より「マガジン航」のアドレスが、上記のとおり変更になります。これを機に仲俣が編集人と発行人を兼任するかたちであらたなスタートを切り、あわせてアカデミック・リソース・ガイド株式会社からも支援をいただくことになりました(今後の編集発行体制についてはこちらをご覧ください)。

「知識と創造の回路」をつなぐメディアへ

2009年10月に第一期の「マガジン航」を創刊した頃は、まさに電子書籍をめぐる議論が沸騰する前夜でした。グーグルの「ブック検索」をめぐる集団訴訟の余波がさめやらぬなか、アマゾンのKindle(第二世代)の国際版も発売され、翌2010年にはアップルがiPadを発表して電子書籍をめぐる期待はさらに高まりました。

それから5年たち、電子書籍とよばれる本をめぐる新しいサービスは、生活の中に定着しつつあります。しかし同時に、私たちが第一期の創刊時に掲げた「本と出版の未来」というテーマをより深く見据えていくためには、もはや電子書籍や出版の世界だけを見ていたのでは、不十分だということもわかってきました。

ウェブやモバイル、電子書籍等の普及を背景にメディア環境が激変するなか、本と人と社会の関係をめぐる良質な議論の場となるよう、第二期を迎えた「マガジン航」は今後、以下の三つの領域に焦点をあててまいります。

①電子ネットワーク時代にふさわしいメディアの新しい作りかた
②図書館やアーカイブなど知識の公共インフラのありかた
③学術研究者や作家による知と創造の新しい生産・流通のありかた

なお、この機会に寄稿者ごとに記事を閲覧できるなど、ささやかな新機能の追加を行いました。また、これまでの記事は新アドレスにおいても引き続き閲覧可能です。

これからも「マガジン航」へのご支援をよろしくお願いいたします。

マガジン航
編集発行人 仲俣暁生

本の力、本棚の力

2015年3月24日
posted by 塚本牧生

一年ぐらい「本の力」「本棚の力」という言葉が僕の中で引っかかっていて、でもずっとそれをうまく言葉にできずにいる。コンテンツの流通だけを思って「Book as a Service」のようなことを考える一方で、コンテンツの旧世代のコンテナでしかないはずの本というモノ、本棚という場所、そして本屋さんがどこに行ってしまうのかが気になり続けてる。

ヘッダ写真は本文中に出てくる『本屋会議』を、年末の天狼院書店で読んでいたときのものだ。本を書店に持ち込んで、紅茶を買ってコタツで読む。そうした本屋さんが増えていることも、本と本棚と本屋さんについて考えるようになった理由のひとつにある。

文の力と本の力

本屋が消えていく、という話を聞く。そういえば、自炊(本を自分でスキャンしてPDFなどのデータファイルすること)によって、僕の家からも本が大量に消えていく…というか、だいたい消えた。これから僕の家から消えていくのは本棚だ。

かつて本文などのコンテンツと、本というモノと、本棚という場所と、本屋という流通経路は不可分だった。でも僕の家からは本というモノが消えつつあり、コンテンツがデータとして残るだけになってきている。それから、たぶん僕の家にある本というモノと、本だったコンテンツのデータファイルの数が同じくらいになった頃からだと思う。新しいコンテンツは、本ではなく電子書籍で買っても、所有感を感じられるようになってきた。

この先、電子書籍で不便を感じない限りは、僕は本というモノよりも電子書籍というデータでコンテンツを買っていくと思う。それでも本屋さんというものにはなくなって欲しくないと感じる。それは、データファイルでも所有感を感じられるようになったように、時間の問題だったりするんだろうか。それとも、本には本の力、本棚には本棚の力、コンテンツの力に+αするなにかがあるんだろうか。

「町本会ファイナル」と『本屋会議』

あるのかもしれない。昨年末に「町本会ファイナル」というイベントを聞き、その場で買った『本屋会議』もたちまちに読み終えた。町本会、正式名称「町には本屋さんが必要です会議」は、神戸の海文堂書店の閉店がきっかけで作られたという。海文堂は「この本屋さんならでは」の品揃えと並べ方、いわゆる「本棚作り」をしっかりした本屋さんで、そうしたワン・アンド・オンリーの本屋さんすらシャッターを下ろすというのが衝撃だったという。

町本会は一年に渡り多くの土地で本屋さんを回り、町本会を開いて「町の本屋さん」についてその土地の人と語り合い、生き残るのは大型書店だとか本棚を作れる本屋さんだとかいった分かりやすい解が「ない」ということを発見している。『本屋会議』に出てくる本屋さんも、大型書店、本棚を作れる書店、外販が多い書店、客注が多い書店とまちまちだ。でも町本会ファイナルには元気な三人の本屋さんが登壇して「本屋を続ける理由?だって本を売るの楽しいもん」とあっけらかんと言い、本屋会議では本を好きな人が本屋さんを支えるリソースで、でも本好きを育てるのも本屋さんと記している。

「本が好き」ってなんだろう。彼らが言っているのは、もちろん本というモノだ。僕が読み手としてコンテンツが好きなのとはきっと違う。本には本の力、本棚には本棚の力がきっとなにかあるのだ。

『走れ!移動図書館』と「第4回LRGフォーラム 貧困と図書館」

僕が「本の力」という言葉に出会ったのは、3.11以降の東北に「移動図書館」を巡らせたシャンティの鎌倉幸子さんによる『走れ!移動図書館』の中でだった。一年経って、コンテンツの力だけではない本というモノの力、本棚という場の力が気になり始めた頃に、「貧困と図書館」をテーマにした第4回LRGフォーラムがあった。「生活保護のリアル」を連載していたみわよしこさんが登壇されていた。

会場からの「生活保護受給者が図書館を利用することは贅沢か」という質問が心に残っている。みわさんと、同じく登壇者の神代浩さんの回答を受けて岡本真さんが「社会には様々な面でのセーフティーネットが必要で、図書館は知へのアクセスのセーフティーネットを担っている。セーフティーネットが必要な状況の人が、それを利用することを勧めるのは当然」といった旨の回答をされていたと思う。

例えば、みわさんによれば生活保護を受給するにも知っておいた方がよいことはある。そこを支援する形もあるだろうけど、自分で調べることもできるというのは「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」に含まれるだろう。では、質問で出たのだけど新聞や流行小説を読むのは?僕はそれもサポートされるべきだと思う。社会に関わろうとしたときに、時事や流行の知識が社会から切り離されていると、ちょっとハードルがあがる。それがないと社会に関われないわけではないけど、あるとそのハードルを少し下げてくれるとは思う。

本というのはコンテンツを目に見える形にしたモノだし、それを集めた本棚という場には、ここでコンテンツに(あるいは知に)触れられるよというメッセージがある。オープンな本棚は、ここでは誰でもコンテンツに触れられるよという信号を送っている。だから知りたいことがある人はそこに立ち寄っていいし、そこにいる人同士で教えあってもいいし、司書のような人が声をかけて支えてあげてもいい。本棚があるから、そこは「知りたい人のための駆け込み寺」になるような気がする。

本の力、本棚の力、本屋の力

図書館の本棚は、あそこにいけばなんとかなるという「知りたい人のための駆け込み寺」という具体的な場所を作り出しているんじゃないか。それは本というモノの力だし、本棚という場の力だ。でも世の中の本の圧倒的多数は、きっと個人宅のプライベートな本棚に収まってきた、個人の蔵書だ。

個人の蔵書に、本というモノ、本棚という場所が求められる場面はどれだけあるだろう。「英国人は、自分を知的に見せるために読みもしない本を購入する傾向があり、その数は平均で80冊にも上る」のだそうだ。見栄と呼ぶこともできるけど、ある種の矜持とも呼べる。下北沢に本屋B&Bを構える内沼晋太郎さんが「マガジン航」でこう語っているのは、町と住人の矜持とも見える。

街にはきちんと本がセレクトされた本屋さんがあるべきだと思うし、僕ら自身も「街の本屋さん」が大好きなので、それが成り立つ方法として、他のビジネスと組み合わせて、その分で本屋の部分にコストをかけている。イベントやドリンクで利益を上げた分だけ、本のセレクトに時間もかけられるという、そういうことをやっているわけです。

でも本の力とか本棚の力って、矜持という言葉だけじゃ足りない。もっと何か豊かなものがあると思う。いや、本当を言えばあるのかさっぱり分からないのだけど、あって欲しいと思う。神楽坂の文鳥堂書店の閉店を見て、その跡にかもめブックスを開いた柳下恭平さんがインタビューにこう語っている。

音楽を聞いたり、映画を見たり、インターネットをしたり、いろいろな時間の過ごし方がありますが、読書という“オフライン”の時間を、かもめブックスで過ごしていただきたいですね。

“オフライン”の時間のための、そして”オフタイム”のための本と本屋さんというのは、きっとみんなの心にしっくりくるんじゃないかと思う。僕は今でも映画館に行く。映画を観るためだけの場所に行き、2時間前後、ただむさぼるように映画を観る。映画だけを観る。まだ言葉にできていない本の力、本棚の力も、ただむさぼるように本を眺め、本を手に取り、本を読むことの中に、その一つがあるような気がしている。

※この記事は2015年3月22日に「クラウドノオト」に公開された記事「本の力、本棚の力」を、著者の了解を得てそのまま転載したものです。

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求められる「マンガ」、排除される「マンガ」

2015年3月16日
posted by 小田切 博

去る2015年1月25日に国際政策大学院大学でおこなわれた文化庁主催のシンポジウム『震災復興・地域振興・公共サービスから考える 集積された「マンガ知」の使い方』にディレクター補佐として参加させていただいた。

ここではこのイベントを通して考えたことを少し書かせてもらいたいと思う。

相次ぐマンガ・アーカイブ施設の開設

このシンポジウムは2014年に学習院大学と文化庁の共催でおこなわれた連続シンポジウム「マンガのアルケオロジー 視覚的な物語文化の系譜」、「マンガのアルケオロジー2 マンガ研究とアーカイブ」)からの流れで企画されたもので、企画の根底にはこの連続シンポジウムの2回目で主題とされていた「マンガのアーカイブ」をめぐる議論を引き継ぐ意図がある。

大衆文化であるマンガの収集・保存に関しては、劇画ブームといわれた1970年代末に貸本業を営んでいた内記稔夫氏が自身のコレクションをもとにした「現代マンガ図書館」を開館して以降、断続的に問題にされ、80年代、90年代と「マンガブーム」が話題になるたびに、散発的ではあるが識者や評論家などのあいだでは議論されてきた経緯を持っている。

21世紀に入ると2001年に日本マンガ学会が設立され、マンガの学問的研究という点からもアーカイブの必要性が同学会や周辺の研究者から改めて提起されることになった。

中でもその影響が大きかったのは、2000年に日本初のマンガ学部を設置した京都精華大学が06年に京都市との共同事業として京都国際マンガミュージアムを開設したことだろう。これ以降、国内では大学でのマンガ学部の設置や明治大学米沢嘉博記念図書館北九州市漫画ミュージアムなど大学や自治体のマンガ関連施設の開設が相次ぎ現在に至っている。

以上のような経緯を踏まえて、2013年におこなわれたシンポジウムでは、主として「マンガ研究とアーカイブ」の関係に焦点を絞って議論がなされていた。[1]

そうした一連の事情を受けて企画された今回のシンポジウムは、90年代からマンガの書誌のデータベース化に尽力されてきた研究者であり、マンガ学会理事をつとめている秋田孝宏氏(写真)をディレクターに迎え、秋田氏から提出された「マンガ研究の側からではなく、実際のアーカイブ施設、マンガ関連施設に携わるひとたちの生の声を聞く」というコンセプトを具体化するかたちでイベント内容を構築していったものだ。筆者はおもにその企画内容の具体化の部分に携わり、併せて当日配布された資料を作成している。[2]

このシンポジウム自体の詳細については明治大学准教授の宮本大人氏によるレポートが文化庁の公式サイト「メディア芸術カレントコンテンツ」に掲載される予定でもあり(追記:3月24日に公開された)、そちらのほうを参照していただきたいのだが、企画者のひとりとして、企画立案や調査の過程で筆者が強く実感したことは、じつは先に述べたようなマンガ研究における課題のひとつとして議論されることの多い「マンガ・アーカイブの必要性」ではなく、すでに蓄積されてしまっている「文化資源としてのマンガ」の巨大さとそのニーズの意外なほどの多様性だった。

すでにマンガ図書館、マンガ家の記念館、マンガミュージアムなどのマンガ関連施設は全国各地に数十館[3]が存在し、学校図書館や公共図書館でのマンガの収蔵、マンガ喫茶やレンタルブックなどでのマンガの利用まで考えれば、国内に存在する膨大な量のプロダクト、プロパティー(包括的な意味での知財)としての「マンガ」は日本社会においてはすでに文化資源として公認され、その積極的な活用が求められているものといってよい。

[1] こちらのイベントの詳しい内容については「メディア芸術カレントコンテンツ」にマンガ研究者の野田謙介によるレポート「マンガ・アーカイブの現在」が掲載されているためそちらを参照されたい。

[2] この当日配布資料はシンポジウムの報告書に収録される予定である。

[3] 個々の施設の性格がかなり異なるため、「マンガ関連施設」の定義によって増減はあるが、少なく見積もっても40館程度は施設名を挙げられる。

「まちおこし」をはじめとする文化振興施策とマンガ

今回のシンポジウムでは「すでに蓄積されてしまったマンガ」とそのあり方を「マンガ知」というキー概念で象徴し、各現場でその活用を担う当事者である地域活性化事業の当事者に話をうかがうかたちをとった。

・マンガを活用してまちおこしをおこなっている石ノ森萬画館指定管理者・株式会社街づくりまんぼう業務課長である大森盛太郎氏(写真中央)
・同人誌即売会 ガタケット代表でありつつ地方自治体の事業である新潟市マンガ・アニメ情報館、新潟市マンガの家統括館長をつとめている坂田文彦氏(右から二人目)
・現職の公共図書館司書でありヤングアダルトサービス研究会など図書館における若者向けサービス、ポップカルチャーとのかかわりを模索する活動をおこなってきた吉田倫子氏(いちばん右)

そのために今回登壇をお願いしたのが以上の三氏である。[4] 当日は登壇者各位にはそれぞれたいへん参考になるおもしろいプレゼンテーションをしていただいた。改めて、ここでお礼を申し述べておきたい。

ただ、私自身は各登壇者と言葉を交わす前、資料作成のための予備調査の段階からそうした日本における文化としてのマンガの浸透ぶりについて考えさせられていた。

というのは、調査をはじめた直後に多くのマンガ関連施設やイベントの運営者、主催者が地方自治体であり、観光客や産業の誘致、地域ブランドの確立などを目的として「マンガ」がむしろ公的に求められ、活用されていることを実感せざるを得なかったからだ。

このような現象が起きていることの原因はいくつかあるが、行政上のテーマとして「地方分権」が掲げられ、2000年の地方自治法改正以降、都市部への人口集中が続く中で地域活性化のための具体的な地域経営が個々の自治体の裁量によるものになったこと、2001年に制定された文化芸術振興基本法においてマンガやアニメが国や地方自治体が振興すべき「文化」のひとつとして定義されたこと、この二点の影響はかなり大きい。

前者は確立された地域ブランドや観光資源を持たない自治体が、すでに大衆的な認知を持つマンガを「まちおこし」のために利用しようとする動きにつながり、後者は各自治体が文化振興条例を制定する際に条例が対象とする振興すべき「文化」にマンガやアニメを含める根拠となり、結果的にマンガ関連事業を「文化振興」の一環として公認する役割を担っている。

逆にいえば2000年代以降の「マンガ研究」の高まりもこうした政治的、社会的な環境の変化が背景にあってのことだとも考えられるわけであり、実際に先に述べた京都国際マンガミュージアムは京都精華大学とともに自治体としての京都市の事業でもある。

私見では、マンガ研究や批評の現場においてはこうした事情はあまり認識されていないように思う。特に東京などの都市部で出版や研究にかかわっている場合、こうした地方の状況や空気は実感しづらく、またマンガやアニメに関する各地域での取り組みには当然温度差があり、熱心なところもあれば、それほどでもないところもある。

[4] 三氏にはそれぞれ「マンガを活かしたまちづくりと震災復興においての役割」(大森)、「地域に根ざしたマンガ文化の有効活用」(坂田)、「公共図書館におけるマンガの現状」(吉田)というタイトルで興味深い発表をしていただいた。特に大森氏による震災時の石ノ森萬画館と被災者の関係をめぐるエピソードは衝撃的なものだった。

マンガ・アニメはすでに「文化」として浸透している

だが、今回調査を通して実感せざるを得なかったのはそうした温度差を超えて、マンガやアニメが「文化」として日本社会に浸透してしまっているということだ。

たとえば山梨県は少なくとも現状では目立ったマンガ関連施設もなく、積極的に関連事業を展開している自治体ではないが、2013年におこなわれた「第28回国民文化祭 やまなし2013」[5]公式記録を見ると、マンガやアニメをテーマにした企画自体はないものの、マスコットキャラクターや着ぐるみ、戦国武将関連のイベントでのアニメやゲームへの言及など、細かな部分で「特に熱心ではない自治体」の文化事業でも結果的にマンガ・アニメ的な要素が紛れ込んでしまっていることがわかる。

「文化」的なものをプレゼンテーションしようとした際に特に意識せずとも「マンガ」的なものが紛れ込んでしまうほど現在の日本社会では「マンガ」は「文化」なのである。

だが、いっぽうで「マンガ」は依然として排除されるべき「俗悪なもの」である側面もある。それは学校図書館や公共図書館における「マンガ」の扱いに顕著なもので、収集方針を見ると多くの学校図書館。公共図書館では「マンガ」を収集対象から外している。「教育」を目的とするこれらの図書館においては「マンガ」は「教育」に悪影響を与えるものという認識がいまだに支配的なのだ。

各自治体における青少年健全育成条例の制定やそれに伴う「有害図書」指定の実例などを見ても「マンガ」がまったく偏見を持たれていないとはいえないだろうが、それはむしろ「教育」というものとの関係で考えるべき問題だろう。

長いあいだ公認されない大衆文化、カウンターカルチャーとして「マンガ」を語ってきた歴史的経緯を持つマンガ言説においては、時に研究的なインフラの不備や「教育」的な見地からの規制と「マンガ」の社会的な認知の低さが混同されているのではないかと思われることがあるが、ここまで述べてきたように47都道府県の各自治体における「マンガ」への対応を見る限り、日本という社会における「マンガ」の認知はむしろひどく高い。

私たちはそのような実情をきちんと自覚したうえで「マンガ」と社会との関係を考えていくべきだろう。

そのために知るべきことはじつは「マンガ」の外側にこそ膨大にある……今回のシンポジウムはそう強く実感させられた経験だった。

[5] 「国民文化祭」とは1986年から各都道府県が持ち回りでおこなっている文化振興イベント。国民文化祭開催要項にはその趣旨として「文化祭は国民一般の各種の文化活動を全国的な規模で発表する場を提供すること等により、文化活動への参加の意欲を喚起し、新しい芸能、文化の創造を促し、併せて地方文化の発展に寄与するとともに、国民生活のより一層の充実に資することを目的とするものである。」とある。

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2015年3月11日
posted by 小嶋 智

電子雑誌トルタルは、電子書籍の標準フォーマットEPUBを採用しています。

EPUBの制作環境はここ数年でずいぶんそろってきました。でんでんコンバーターRomancerなど、無償で使えるのに高品質なものもあります。でも、トルタルではこういう便利なツールは使っていません。集めた記事のテキストをEPUBにまとめるためにRubyでプログラムを書いています。わざわざこんなことをしているのは、トルタルにはいろんな見た目の記事がたくさんあるからです。

トルタルの記事

トルタルのなかから、連載記事を4つ紹介します(「飯の種」「フランスのパン」「トルタルタルト」「the Room 1058」。クリックで拡大)。

 

 

記事ごとに、デザインが違います。

これらを含めて全部で20以上の、書き手もデザインも異なる記事がトルタルには詰め込まれています。制作するとき、一度に原稿がそろうことは当然ありません。順次作業しながら途中でEPUBにまとめて確認することになります。新しい記事が届いたとき、最後に追加することもあれば、どこか途中に差し込むこともあります。最終的な掲載順はリリース直前に編集長が決めます。

つまり記事ごとにばらばらにHTMLにしたりデザインしたり、順番を入れ替えたり、EPUBを作って確認したり、という作業が頻繁に発生します。これをすばやく間違いなくできるように、プログラムを書いてEPUBを組み立てる仕組みをつくっているのです。

トルタル制作の実際

トルタル制作で記事を追加する手順を「飯の種」を例にとって追ってみましょう。この作業をする前にRubyや制作のためのツールをインストールし、トルタル全体の設定ファイルを作るなどの初期設定は必要ですが、それは済ませている前提です。

1. 原稿のマークアップ

まず、受け取ったテキスト原稿にマークアップをしていきます。トルタル5号ではほぼすべての記事でNoraMarkというマークアップを使っています。

image.logo-wrap(meshi_no_tane.png, 飯の種):

p.pre: 4号に引き続き「タモリ倶楽部」みたいに生きている(ように見える)ライター古田さんにインタビューをする特別編。前回はいろいろな新事実からマインド傾向をうかがったが、今回はより具体的な事実へ掘り下げる。(持田泰)

h2: フリーライター台所事情

iv: —突っ込んだ質問してしまうと26歳でライターになられた際の報酬っていかほどあったんですか?
ie: 1ページのコラムが初仕事で報酬は多分6,000円だったかな。
iv: —ライター業の細かい台所事情って一般サラリーマンである僕なんか未知の世界ですので、この際いろいろ聞かせてもらえるとうれしいのですが、基本原稿に対してお金が出るということでいいんですよね。これは文字数計算なんですか?

「飯の種」原稿の冒頭部分です。

タイトルロゴの画像を埋め込みにはimageマークアップを使っています。p.preとマークアップされているのは前書きです。HTMLの<p>タグにpreというclassがついたものに変換されます。見出しはh2とマークアップします。

それから、インタビューする人とされる人、それぞれの発言先頭にマークアップをしていきます。当然インタビュー記事にしか必要のないものです。NoraMarkでは、このような記事個別のマークアップを定義できるようになっています。

この記事では、iv:というマークアップはHTMLの<p class='interviewer'>に、ie:というマークアップはHTMLの<p class='interviewee'>にそれぞれ変換したいので、その指示を書いたファイルも作っておきます。

modify 'ie' do
  @node.name = 'p'
  @node.classes = ['interviewee']
end

modify 'iv' do
  @node.name = 'p'
  @node.classes = ['interviewer']
end

これはrubyのプログラムですが、設定ファイル的な記述になっている雰囲気は読み取っていただけると思います。

2. スタイルシート

記事専用のスタイルシートを書きます。今回は、インタビューする人・される人の発言が違って見えるようにスタイルを追加します。インタビューアは少し緑がかった薄い色に、インタビューされている人は黒で表示されます。

p.interviewer {
  color: #446644;
  margin-bottom: 1em;
}

p.interviewee {
  color: #000000;
  margin-bottom: 1em;
}

3. EPUBに追加する設定

EPUBの組み立て指示が書いてあるファイルに、記事を追加する設定を書き込みます。まず「飯の種」関係のファイルが入っているmeshi-no-taneというディレクトリに、resources.confというファイルを以下の内容で作ります。

file 'meshi_no_tane.png'
file 'meshi.css'
ordered {
  file 'meshi-no-tane-nora_001.xhtml'
  heading '飯の種(特別編)'
}

ここには、EPUBに追加するファイル(ロゴ画像、css、そして記事自体のXHTML)と目次での見出しを書いています。

それから、全体を束ねているRakefileに次の行を追加します。

      add_resource_dir 'meshi-no-tane'

これで、meshi-no-taneディレクトリの内容がトルタル5号のEPUBに追加される設定ができました。

4. EPUBを生成

確認のため、EPUBを実際に生成します。

トルタル5号のあれこれを入れているディレクトリでrakeと入力するだけで以下の処理が実行されます。

  1. 追加または更新された原稿やスタイルシートがあるか確認
  2. もしあれば原稿をXHTMLに変換
  3. EPUB生成
  4. epubcheckでチェック

epubcheckも通るので、誤ったEPUB(たとえば画像を参照しているのにその画像が追加されていないもの)を作ってしまってもすぐ気づくことができます。

以下、一行目のrake以外は自動的に出てくる表示です。

 [torutaru_5 (master)]$ rake
java -jar ../lib/epubcheck-3.0.1/epubcheck-3.0.1.jar torutaru_5_0228_1530.epub
Epubcheck Version 3.0.1

Validating against EPUB version 3.0
No errors or warnings detected.
[torutaru_5 (master)]$

日付と時間をファイル名に含んだEPUBを生成して、それにepubcheckをかけているのがわかります。ここでは変換のエラーは発生せず、epubcheckも無事通っています。

5. EPUBを確認

生成したEPUBを、iBooksやMurasakiなどのEPUBリーダで開いて確認します。必要に応じて原稿を修正したりEPUBを生成しなおしたりしながら作業をすすめていきます。

道具

ここまでに使った道具を紹介します。

Ruby

プログラミング言語。トルタル制作の道具はほぼ全部Rubyで書かれています。Rubyなくして今のトルタル制作環境は成り立ちません。

Rake

Rubyで標準的なビルドツール。トルタルのEPUB生成からepubcheckまでの手順・トルタルに含めるファイル・記事の順序などは、Rakeが処理するRakefileに書かれています。

NoraMark

必要に迫られて小嶋がつくった簡易マークアップ言語。まだα版レベルですが、トルタル制作には欠かせなくなりつつあります。この原稿も実はNoraMarkで書いています。

gepub

小嶋が2010年から作っているEPUBライブラリ。EPUB3の機能をフルサポートしています。

epubcheck

EPUBが正しいかチェックする重要なツール。EPUBの仕様を策定しているIDPFが提供しています。トルタル制作環境のなかで、これだけはJavaのプログラムです。

今後の野望

雑誌の電子書籍版はごく普通になってきました。Kindleでも買えますし、「dマガジン」のような読み放題サービスもあります。ただ今のところ、ほとんどの雑誌は紙版と同じレイアウトの画像を配置した固定レイアウトの電子書籍になっています。

トルタルは記事ごとにレイアウトしているとはいっても、それほどリッチなデザインではありません。iPhoneでも快適に読めるようにしたいですし、リッチなレイアウトにすると読めるEPUBリーダーが限られてしまう可能性もあるので、今はこれでよいと思っています。でも将来に渡って、電子雑誌が「画像を固定レイアウト」と「デザインはリッチではないけれどリフローでどこでも読める」の二択のままではないだろうと思っています。

小嶋は以前「オトノハ」という電子雑誌を作っていました(今は休止中です)。この雑誌ではリッチレイアウトな版とシンプルな版の二種類を用意しています。

「オトノハ」第3号から。 左: リッチ版 右: シンプル版

「リッチ版」はデザイナーが作ったPDFで「シンプル版」はEPUB(当時はまだEPUB 2)です。当時はこのように、画面サイズに応じて別々のファイルを準備するのがいちばんよい選択肢でした。いまでもそうかもしれません。でもEPUB 3が採用しているHTMLとCSS3の組み合わせは、本来このリッチ版くらいの表現力はあるフォーマットです。

ここ数年で、スマートフォンで見るときとパソコンで見るときでデザインが切り替わるWebページが増えてきました。「マガジン航」もそうですね。技術的にはサイズ・機種に応じて別のHTMLを用意する方法と、同じHTMLのまま画面サイズやデバイスに合わせてスタイルを切り替える方法(レスポンシブ Webデザイン)があります。EPUB 3は後者の機能は利用できる規格で、実際に多くのリーダーが対応しています。同一内容について複数のHTMLを用意する方法は現在EPUB Multiple-Rendition Publicationsとして提案されているので、遠からず使えるようになるかもしれません。

2015年は、デバイスの能力に応じて表示を切り替える電子書籍や電子雑誌がもっと出てくるだろうと考えています。その制作には、論理的なレイアウトから独立した構造を記述した原稿を適切なHTMLに変換する仕組みが必要です。Multiple-Renditionが広まったときには、同一内容複数ファイルを含むEPUBを組み立てる手段も必要になってきます。そう考えると、実はトルタルの制作環境は2015年的電子雑誌への準備がほとんどできているのではないか、と思えてきます。NoraMarkは原稿の論理的な構造を記述するための道具を目指しています。gepubはEPUBの仕様のほとんどをカバーしようとしています。

また、レスポンシブな電子書籍はただでさえ制作コストがかかる上に、既存の紙書籍向けのレイアウト情報の利用は難しいと思われます。でも最初からレスポンシブに作ったデータであれば、紙にレイアウトして出力する方法も2015年にはもっと出てくるのではないかとも期待しています。今でもXHTML + CSSはwkhtmltopdfや、AH FormatterのCSS組版機能で印刷向けにレイアウトにすることができます。最新のWeb技術・規格に対応しつつ美しい組版の実現を目指しているVivliostyleも2015年中にリリースされるはずです(情報開示: 小嶋はVivliostyleプロジェクトにボランティアとして参加しています)。

2015年は、スマートフォンから紙まで連続して対応できる電子書籍制作に、トルタルとして乗り込めるといいなあ、乗り込みたいなあ、と思っています。

【お知らせ】
※本稿の筆者である小嶋智さんを含む「電子雑誌」関係者が集まり、それぞれの「つくりかた」について話をする「第2回 電子雑誌サミット」が3月20日に開催されます。ぜひご参加ください(編集部)。

日時3月20日(金) 15:00-17:30 (14:30受付開始)
出演:堀田純司(AiR)、古田 靖(トルタル)、小嶋 智(トルタル、オトノハ)、鷹野 凌(月刊群雛)
司会:仲俣暁生(マガジン航)

イベント詳細と参加申し込みはこちらから。
http://kokucheese.com/event/index/262337/

なお、鷹野凌さんによる「第1回 電子雑誌サミット」のレポート、「電子雑誌なんか簡単だ!」もウェブで公開されています。

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