音楽教育理数系編入論【前篇】

2015年6月3日
posted by 藤谷 治

『学校で教えてくれない音楽』(大友良英著・岩波新書)という書名はトリッキーである。著者が意図したわけではないだろうが、言葉の(日本語とは限らない)曖昧さが潜んでいるのである。

おそらく著者は、これを「学校で教えてくれない(種類の)音楽」という意味でつけたのだろう。しかし僕はこのタイトルを、半ば意識的に誤解して読み始めたのだった。つまりこれは、「学校で教えてくれない音楽(というもの)」についての本なのではないかと。

音楽学校を除いて、日本のいわゆる「普通の」学校、小中高等学校で、音楽を教えないことは、誰もがうすうす気がついていると思う。

確かに、僕が公立の小中学校に通っていた時にも、「音楽」と称する授業はあった。「音楽室」と称する部屋さえあった。そのへやには音楽に使うもの――ピアノとか、ほかの楽器とか、楽譜立てとか――があって、黒板には五線が引いてあり、壁には作曲家の肖像画が飾られていた。さらには僕も、そこで「音楽」の授業を受けている時には、自分が音楽を教わっているんだな、と思っていた。

しかしあれは音楽を教えているのではなかった。僕が学校で音楽を教わったのは、音楽を専門に教える高校に通うようになってからである。それまでは「音楽を知っている人」に音楽を教わっていた。小学校や中学校では教わらなかった。

じゃ小中学校の「音楽」の時間にやっていたことはなんだったか。僕たちはその時間に、歌を歌う。リコーダーを吹く。カスタネットやトライアングルを鳴らす。たまにレコードを聴かされる。

「音楽」の時間に僕が聴かされたレコードで憶えているのは、モーツァルトの「トルコ行進曲」と、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」と、バッハの「ト短調フーガ」だ。この三曲を特に記憶しているのは、いずれも僕が好きだった曲であったから、そして学校での聴かされ方に腹を立てたからである。

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http://imslp.orgより。Public Domain

クラシック音楽至上主義者の憂鬱

モーツァルトのイ長調ピアノソナタ「トルコ行進曲付き」K.331は、第一楽章が主題と変奏、第二楽章がメヌエット、そして第三楽章が当時流行した「トルコ風行進曲」という、形式的に極めて異例なピアノソナタである。ピアノソナタというのは、当たり前の話だが、ピアノソナタ三楽章全体で一曲だ。第三楽章だけ抜き出して聴かせるなんてことはホテルのラウンジでやることで、教育機関のすることではない。

しかし「トルコ行進曲」は、第三楽章だけでもまるまる聴かせたからまだいい。「ウィリアム・テル」に至っては、教師が時おりレコードから針を上げて音楽を切断し、ここは「夜明け」、次が「嵐」……なんて説明をつけながら、各部分の出だしばかりをちょろっと聴かせて、都合三分か四分で「レコード鑑賞」を済ませてしまったのだった。これだけでも僕は義憤にたえなかったが、あの序曲は通しで聴けば十五分以上かかるから、子供の集中力がもたないと教師が判断したのかもしれないと、百歩譲ることもできなくはない。しかし同じハショリを「ト短調フーガ」でもやったのは、今思い出しても納得できん。「ト短調フーガ BVW578」は、わずかに四分半の曲だからである。

つまり普通の小中学校における「音楽鑑賞」は、音楽を鑑賞したとはいえない。この意見が、僕というクラシック音楽至上主義者の保守主義の原理主義と思われるかもしれない。その通りである。私はクラシック音楽至上主義者の保守的原理主義者としてこれを書いている。理由のあることだ。

「音楽」の授業でやったほかのこと、つまり歌を歌うの、リコーダーを吹くのといったことが、音楽となんの関係もないこともまた明白である。リコーダーを吹いたりトライアングルを鳴らすことは、まだしも楽器のメカニズムを知るうえで有益といえるかもしれないが、楽器を「上手に」鳴らすことは、音楽を知るためには、まったく必須ではない。成果が出ていないことでもそれは判る。学校教育のおかげでプラスチック製のリコーダーは、毎年何百万本も流通しているだろう。ところであなたは、その教育の成果としての、日本におけるリコーダー演奏の名手を、何人知っているか。

『学校で教えてくれない音楽』の著者、大友良英氏は、学校の音楽の時間が嫌いだったそうだが、その主な理由は、どうやら「歌が苦手」だったからだそうだ。僕はそれを読んで共感もし、また気の毒でならなかった。

僕も歌はど下手クソだったが、当時から内心ではなんとも思っていなかった。偉大な音楽家が、おおむね音痴であるのを知っていたからだ。

今のCDにはあまり見かけないが、昔のクラシックのLPには、たまに「リハーサル録音」というのが、おまけについていることがあった(今はYouTubeで映像を見ることができるようだ)。ベルリン・フィルやウィーン・フィルを前に、指揮者がドイツ語や英語で指示を出すのが聞こえる。言葉は小中学生だった僕には理解できなかったけれど、「こういう風にやるんだ」といって歌いだす指揮者の、その歌声が、しわがれて弱々しく、どうしようもないほど調子っぱずれなのには、子供心に呆れたものである。歌というより、声で横棒を引っぱってるようなのを出して指示を出す。カラヤンも、ベームも、バーンスタインもそうである。

もちろん、それでいいのである。彼らは、芸術的な才能や統率者の資質、それにピアノ演奏の技術とは別に、たぐいまれな耳と知識を持っている。それが歌声になってあらわれることは稀なのである。逆にいえば、歌手になるならともかく、歌のうまい下手で音楽的才能を判断することは、ほとんど不可能だと僕は思っている。

実際大友氏は音楽家になった。音痴「なのに」なったのでもなく、音痴「だから」なったのでもない。音楽が好きなので音楽家になったのである。『学校で教えてくれない音楽』には、そんな著者の「みんなにも音楽を好きになってほしい」「だれにでも音楽はできる」という気持ちが、すべての頁に溢れている。

学校は「音楽というもの」を教えてくれない

ただやっぱりこの表題は、「学校で教えてくれない(種類の)音楽」という意味だった。「学校で教えてくれない音楽というもの」ではなかった。そこに著者と、読者である僕との齟齬があった。

「ここにある楽器で、ポンって音を出す。いい音だなって思って、ポン、ポン……って続けて音を出す。もうこれで充分に、音楽の種から芽が出ている感じです。何の音楽かはわからないけど、でも、何の音楽だっていいじゃないですか。音を出して楽しいって感じるだけで、充分それは音楽なんだと思います。授業もそこから始めたらいいのになって思います。

それにしても学校の音楽って、なぜ、そういうふうにはなっていなくて、西洋の音楽体系を教えることから始めるんでしょう?」(6頁)

ここに齟齬がある。それは著者と僕との齟齬である。しかしこれは、著者と「学校」との齟齬とはいえないのである。僕にはそう見える。大友氏と「学校」とが、相対立しているとは、僕には見えない。

なぜなら文部科学省の「中学校学習指導要領」第2章「各教科」第5節「音楽」の冒頭、「目標」には、こう書かれているからである。

「表現及び鑑賞の幅広い活動を通して、音楽を愛好する心情を育てるとともに、音楽に対する感性を豊かにし、音楽活動の基礎的な能力を伸ばし,音楽文化についての理解を深め、豊かな情操を養う。」

また、各学年の「目標」の中にも、「音楽によって生活を明るく豊かなものにし、生涯にわたって音楽に親しんでいく態度を育てる」とか、「多様な音楽表現の豊かさ」とか、「創意工夫」とか、「幅広く主体的に鑑賞する能力」とある。

「音を出して楽しいって感じる」というのと、文科省の「目標」のあいだに、さほどの懸隔があるとは思えないのである。両者はともに、音楽が感性をはぐくみ、情操をやしなう、多様な表現であると主張している。

こう書くと、僕があたかも、大友氏は文科省と同じだ、対立しているように見せかけてるだけだ、とでもいいたがっているように思われるかもしれないが、とんでもない。

大友氏は現代の音楽家のうちでも、最も大きな領域を視野におさめた、ゆえに(ノイズ・ミュージックから「あまちゃん」に至る幅広い活躍を見せながらも)孤高の才能である。『学校で教えてくれない音楽』も、音楽に関する高度な知性を、誰にでも理解できるように書いているところもあれば、紙面から音楽が立ち上ってくるように感じるところもあり、その(実際には聞こえない)音楽のいくつかは、それだけでなぜか胸を打たれるようなものだったりする。

そんな著者の孤高、著作の感動が、学校の音楽教育への疑問に端を発していることは疑いをいれない。

そして僕もまた、恐らく大半の日本人と同様、「音楽の時間」が好きではなかった。

大友氏と文科省のあいだに懸隔が感じられないのは、大友氏が文科省の「目標」をなぞらえているからではない。逆だ。文科省が大友氏の主張に「寄せていってる」ことが問題なのである。

当然なのかもしれないが、大友氏は、学校の「音楽」はちょっと違うんじゃないか、とはいっても、じゃあ学校はどんな音楽を教えてくれたらいいのか、という提言はしていない。氏はただひたすら、自分の考える音楽教育を目指しているだけである。いやそれは狭い意味での「教育」などではない。氏は音楽を広げている。伝えている。氏にとって学校の「音楽の時間」なんか、本当はどうだっていいのかもしれない。実際どうだっていいであろう。

「音楽」は理数科目である

ただ、僕はこれを読みながら、学校での音楽教育について夢想しないではいられなかった。学校とはどういう場所か。教育とは。学校は音楽に何ができるのか。

そしてその夢想をする僕は、大友氏とは真逆の、クラシック音楽至上主義者の保守的原理主義者なのである。

「学校の授業で音楽を教えるとき、最初から『音楽とはこういうものです』という大前提を有無を言わず出してしまっているように思うんです。例えば、『ドレミファソラシド』をかなり最初の段階で教えるでしょ。だけど『ドレミファ』でできている音楽が全てではないですよね。」(4頁)

僕は学校が「ドレミファソレシド」を教えているとは思わない。少なくとも「ドレミファソレシドとは何か」は、学校教育では教えていない。

なぜなら、「ドレミファソラシドとは『音階』のうち『全音階』の『長音階』を意味し、『長音階』とは『全音』と『半音』を組み合わせた7音によって構成される音階であって、その組み合わせとは『全(音)-全-半(音)-全-全-全-半』である」が、こんなことを音楽学校以外の学校で教わった人は、ほとんどいないからである。

「長音階」とは別に「短音階」もあり、短音階には「和声的短音階」と「旋律的短音階」と「自然的短音階」があって、さらに「全音階」がある以上「半音階」もあるわけだが(そしてクラシック音楽で用いられる音階はこれだけではない)、クラシック音楽の基礎になじみのない読者には、とっくのとうに興味半減であろうし、僕も「文章という音の鳴らない場所でクラシック音楽の基礎について説明することの無理」を、早くも感じ始めている。

大友氏のいう、「ドレミファソラシド」をかなり最初の段階で教えるというのは、「音楽にはドレミファソラシドというものがある。とにかくそれはある」と、「丸暗記」の一種を強要される、という意味である。歴史の年号や英語の不規則変化動詞を丸暗記させられるのと変わらない。

しかし、そうであれば、それは学校が他の教科でやっている教育方法と、大差ないわけである。つまり音楽の教科だけが非難されるいわれはないはずだ。

にもかかわらず、大友氏の「音を出して楽しいって感じるだけで、充分それは音楽なんだ」という学校音楽教育批判が、説得力を持つのはなぜだろうか。

大友氏の言ばかりではない。「音楽は楽しいのに、音楽教育は楽しくない」という批判は、ほとんど手あかにまみれているといっていいくらい、何度も聞かされ、また自分でも感じる。それはなぜなのか。

数学だって化学だって、それを楽しめる人にとっては楽しい。けれども「学校で教える数学は楽しくない」という批判は、数学の苦手な人の口から出るのがもっぱらである。「学校で教える音楽」を批判するのは、つねに大友氏のような一流の音楽家なのだ。どうしてか。

理由は簡単である。音楽は学校の外にあるからである。数学者や化学者は、実に多くの場合、その業績を学校の中で成し遂げる。音楽は社会の中で、ライブハウスやコンサートホールで成立し、資本の保護を受けたり、同時代のテクノロジーを利用したりして実現する。そもそも学校とはなんの関係もなしに自分の音楽を創造した音楽家は、クラシック音楽の世界ですら、ハイドンから武満徹に至るまで、枚挙にいとまがない。

「ドレミファ」でできている音楽が全てではないですよね、と大友氏がいう通り、世界には「言葉の数ほどのいろんな音楽」がある。『学校で教えてくれない音楽』の範囲は広い。

では一方「学校で教える音楽」は、どうあるべきだろう。

ドレミファソラシドを教える。とにかくそういうものがあるということを教える。そこから始めるべきだと、僕は考えている。

僕がいっているのは、ドレミファ以外にも音楽はあるとは、教えない、という意味だ。ひどい言い方をすればそうなる。大友氏の『学校で教えてくれない音楽』というのは、要するに「クラシックが音楽の一部にすぎないような音楽」のことだ。それなら「学校で教える音楽」は、クラシック音楽に限定すべきだと、僕は考えるわけである。

ただし現行の文科省指導要領にあるような、「感性」とか「情操」を養う、などという「目標」のためではない。そんなものは断然廃する。「音楽を愛好する心情」も不必要だ。

学校で教える音楽は、物理学的、あるいは数学的であるべきである。

【後篇】につづく)

チーム・パブリッシングの可能性

2015年5月27日
posted by 鎌田博樹

新しい自主出版プラットフォーム・サービスを目ざしている米国シアトルのBooktropeが、とりあえず120万ドル(目標230万ドル)の調達に成功した。その「チーム・パブリッシング」というコンセプトは、商業出版を(会社ではなく)インディーズ出版として実現する潜在ニーズにアプローチしている。

booktrope

booktropeのサイトではその仕組みが4ステップで説明されている。

出版社なしの商業出版

Booktropeの共同創業者、キャサリン・シアーズ氏によれば、同社のアプローチは「チーム・パブリッシング」あるいは「ハイブリッド・パブリッシング」というコンセプトに集約される。基本的には、E-Bookと印刷本の編集・販促・流通に関するサービスを提供する。そして小規模なグループで売上をシェアするモデルを提供する。2013年のSeattle Angel Conference で第1位、GeekWire Startup Dayの最終選考にも選出され、20万ドルあまりのエンジェル資金を確保して具体化した。5月中にサービスの立上げに必要な資金を最終的に確保する予定だ。

チーム・パブリッシングは以下のようにまとめられている。

 ・通常の出版プロセスを、資金準備なしで実現する
 ・本の売上の70%はクリエイティブ・チームに配分され月々支払われる
 ・柔軟なチーム編成で必要なすべての業域をカバーする
 ・Teamtropeプラットフォームがプロセスを支援する

Webサービス・プラットフォームであるTeamtropeは、統合的なチーム出版支援環境で、制作・出版・販売のワークフローを通して出版プロジェクト全体をカバーする。印刷本とE-Bookを同じ環境で管理することで、作業的な重複や手戻りを最小化し、高品質で迅速な出版を可能にするとしている。「印デジ統合環境」が現在の商業出版プラットフォームの標準的要求であることを考えると、Booktropeが目ざすことが、商業出版と同じ品質と生産性をインディーズ出版に対して(リーズナブルな価格で)提供することに置かれていることが理解できる。出版チームがプロフェッショナルによる強力な仮想出版社として機能すれば、企業としての管理費用を負担せずに売上と取り分を最大化できるだろう。その技術は「立派な本をつくり、最大限の読者に評価してもらうという一つの目的に奉仕する」と同社は述べている。

実現すれば出版社に大きな影響を与える

Booktropeに限らず、ベンチャー企業が提起するものは、第1に市場に潜在するニーズであり、第2にそのニーズに対する新しいアプローチ(ビジネスモデル)であり、第3に実用段階にあるテクノロジーの効果的応用である。この順序には意味がある。ちなみに日本では1と2をとばして3だけを評価するのでボタンの掛け違いが生じやすい。1の読みの甘さが2の杜撰さにつながり、3ではフォーカスのない仕様の羅列、使えないシステムとなる例は無数に見てきた。シリアル・アントレプレナーに共通するのは、市場の読みの確かさであり、だから技術的判断を誤らないのだ。

booktrope_apply

チーム出版に参加する道は編集者や校正者、デザイナーなどにも開かれている。

Booktropeがうまく旗揚げできるかどうかは分からないが、現段階ではニーズに対してコンセンサスがあることは確実だ。つまり、第2世代の自主出版の課題は、プロフェッショナルによる出版プロジェクトをチーム(グループ)で実現することにある。

 ・印デジ単一プロセス、同時出版
 ・企画・制作から販売までのワークフロー
 ・チーム・パブリッシングのサポート

の3点ということになる。これらは大手出版社(たとえばハーパーコリンズやペンギン・ランダムハウス)が構築してきたものと同じで、自主出版の中で、商業的な性格の強い部分のニーズを開拓するものとなる。ビジネスとしての品質と規模、それらを可能とする制作、マーケティング、プロジェクト管理をビッグファイブ水準に近づければ、あとは出版社かチーム出版かという、ビジネスモデルの勝負になる。チーム出版は最も成長力が大きく、ビジネスモデルとしての拡張可能性を持った新領域であると思われる。

しかし、出版社が不要になるものでもない。同じプラットフォームを利用することができるし、プラットフォーム・サービスの技術的不完全性をつねに補う能力を持っているのは出版社だからだ。「自主出版2.0」プラットフォームの登場は、出版社とクリエイターの関係に影響することは確かだろう。

※この記事はEbook2.0 Magazineで2015年5月5日に掲載された同題の記事を編集をくわえて転載したものです。

本から本へ直接つながる「読書空間」への一歩

2015年5月23日
posted by 鷹野 凌

5月20日から22日まで東京ビッグサイトで行われていた「第6回 教育ITソリューションEXPO(EDIX)」の初日に取材へ行ってきました。全体をざっと見て回ったのですが、今年はあちこちのブースで「アクティブ・ラーニング」という言葉を見かけました。これは、下村文部科学大臣が昨年11月に行った中央教育審議会へ学習指導要領の全面改訂を求める諮問の中で、何度も出てくる言葉だからでしょう。

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諮問によると、アクティブ・ラーニングとは「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」のことです。それをIT技術によって実現するという意味で、EDIXの出展企業がアピールポイントに使うのは当然のことだと思います。ただ正直なところ、どこかで見たような既存の仕組みを、アクティブ・ラーニングという言葉で飾っている感が否めませんでした。じっくり見たらもう少し印象は違うのかもしれませんが。

次世代ハイブリッド図書館の実現に向けた実証実験

今回の取材の主目的は、5月13日に東京大学附属図書館と京セラコミュニケーションシステムから発表された、「次世代ハイブリッド図書館の実現に向けた実証実験を開始」というリリースの詳細を確認することでした。東京大学の新図書館計画では、学内の学術資源と世界のデジタル資料を統合的に活用する、「東大版ヨーロピアナ」を目指す動きがあります。この実証実験は、そこへ向けての第一歩ということになるのでしょう。

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この実証実験は、東京大学付属図書館が独自に電子化した書籍や、国立国会図書館デジタルコレクション青空文庫Internet ArchiveWikipediaEuropeana DPLA(Digital Public Library of America)、新刊学術書の電子版などを連携させ、コンテンツのネットワーク、すなわち「読書空間」を構築するというものです。

まずプロトタイプとして、夏目漱石の『三四郎』を軸に、作品中の言葉から古今東西の関連書籍やウェブページへのリンクを張る作業が現在行われているそうです。実証実験なので、Wikipediaのように誰でも編集できるわけではなく、まずは専門の研究者の手でリンクされているとのこと。システムは、京セラ丸善システムインテグレーションの「BookLooper」がベースになっています。

例えば、『三四郎』には「カントの超絶唯心論」という言葉が出てきます。

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実証実験用に用いられるシステムで、本文に張られたリンク(最終行の傍線部)をタップすると……

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「関連する書籍『Critique of pure reason』に遷移します」というダイアログが表示され、「はい」をタップすると……

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カントの『Critique of pure reason(純粋理性批判)』が開きます。

ウェブページのハイパーリンクに慣れていると、なんだこんな当たり前のこと、と思ってしまうかもしれませんが、実は本の中から別の本へ直接リンクが張られるのは、現時点の「電子書籍」では画期的なことです。これまでは、本が販売されている場所(ウェブページ)へリンクを張ることは可能でも、本の中から別の本を直接開くことはできませんでした。つまり、紙の本の延長上で殻に閉じこもったような状態だった「電子書籍」の世界が、これでようやくウェブに一歩近づいた、と言っていいのではないでしょうか。

コンシューマー向けの電子書籍にも広がる?

実際のところ、私は合計すると約1000点くらいの「ストアで購入した電子書籍」を持っていますが、本棚は複数のストアに分断されています。そして、同じストアで購入した本でさえ、本から本へ直接ジャンプしたり、本棚内を串刺しで検索したりといったことが、ほとんどできません。読み終わったときにすぐ続刊が開けるとか、専用端末内限定で串刺し検索できる程度です。いまの「電子書籍」って、なぜこんなに不便なんだろう!

例えば拙書『クリエイターが知っておくべき権利や法律を教わってきました。』では、和月伸宏氏『るろうに剣心』や西尾維新氏『偽物語』の話題をパロディ風にとりあげています。本当なら、「元ネタってどういう感じなんだろう?」と思った読者が該当箇所をタップしたら、対象の本を所有している状態であれば元ネタのページが直接開く、所有していなければストアの販売ページが開く、くらいのことができてもいいはずです。

そういう意味で、この実証実験には大きな可能性を感じます。ただ、対象の本がパブリックドメインでない場合は、恐らくリンクできるのは「BookLooper」で取り扱っている本に限られてしまう点がネックになるでしょう。大学図書館向けの学術書が中心ですから、仮に拙書がラインアップされたとしても、『るろうに剣心』や『偽物語』へ直接リンクが張れる日は、当分来ないだろうなあ。

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活発なオンラインコミュニティの作り方

2015年5月15日
posted by サラ・ウェンデル

SarahWendell

「オンライン読者コミュニティ運営の秘訣を教えてください」

たくさんの人たちからよく聞かれる質問です。「スマート・ビッチズ・トラッシー・ブックス(SBTB)」は世界中あらゆる地域の150カ国から読者が集まる、ロマンス小説ファン向けのオンライン読者コミュニティです。コミュニティの活動は活発で、コメントや議論の応酬が何日も続くことも珍しくありません。ここに集う人々の態度は、率直かつ誠実で心がこもった会話にあらわれています。SBTBはどのページも引き込まれるような知的な会話にあふれており、そのことは私の誇りです。

私が友達と一緒にSBTBを始めたのは2005年でした。コミュニティをどうやって構築したらいいのかを教えてくれるマニュアルや道標はいっさいなく、手探りで初めたウェブサイトですが、2015年1月で10周年を迎えます。

少なからぬ人が、私にこう訊ねます。

「10年の間、ロマンス小説について毎日こんなに生き生きとした、愛情のこもった議論がつづくサイトをどうやって作り出すことができたのですか?」

読者コミュニティの始め方や、10年間にわたり、毎月ファンを引きつけてやまないウェブサイトを運営しつづけてきたノウハウを手とり足とり説明できるわけではありません。自分の直感にしたがってやってきたなかで私が理解したことを、記憶を整理しながら説明してみることにしましょう。

ロマンス小説ファン向けのオンライン読者コミュニティ

SBTB top

SBTBを始めた頃、このブログがロマンス小説の出版ビジネスで重要な位置を占めることになるとは思ってもみませんでした。それどころか、自分たちがどこに向かっているのかも、よくわからなかったのです。

私が最初にしたのは——これはいまでも続けていますが——ロマンス小説ファン同士の架け橋になることです。初めの頃の目標は本について正直に話すことでした。つぎに、「同じ本を好きなまだ見ぬ仲間たちを見つける」という目標になりました。

10年後のいま、私は明確な目標を持っています。それはミッション・ステートメントのようなものですが、これまでやってきたことを振り返って、はじめて気づいたことです。現在のSBTBは、ロマンス小説ファン同士を結びつけるだけでなく、「ロマンス小説本と、その読者との間の架け橋になる」という目標をもっています。はっきりとしたかたちを取るようになったのは最近ですが、ずっと以前からそれが私のモチベーションの源でした。

インターネット上になんらかの場所を作ることは、比較的簡単になりました。誰もがどんな話題のブログでも1分もかからずに作ることができます。でもコミュニティを立ち上げるためには、それ以外に「鍵」が必要です。その「鍵」とは、何かが欠落している場所、そこにいる人たちが求めている注意や情報がまだ届けられていない場所を見つけることです。

私が子供の頃には、インターネットは存在していませんでした(私はもうすこしで40歳になります)が、コンピュータという機械の話を聞いてワクワクしたことを覚えています。コンピュータが電子的なネットワークでつながるずっと以前の話です。何かを調べようと思ったら、当時は図書館に行き、目録カードをめくり、書庫の列から本を探し、答えが書いてなかったら同じことを繰り返さなければなりません。調べ物によってはすごく時間のかかる作業でした。

でもいまの子供たちは、世界中のあらゆることを数秒で調べられる世界で育っています。好奇心を満たすためには家を出るどころか、ズボンさえ履く必要もありません(母親としては風邪をひかないよう、ズボンを履いてもらいたいですが)。

こんなに便利な時代に生きているいまの若い人たちは、人と出会ったり、求める情報を手に入れることができなかった時代を経験していません。そのせいで、自分にとって何かが欠けていること、その穴を埋めてくれるような、ある話題に特化した関心をもつ人々を歓迎するコミュニティが作れることに、なかなか気づきません。

ひとたびそのようなコミュニティが不在であることに気づいたなら、次のステップは、機会をとらえて人々を結びつけることです。SBTBは「ロマンス小説ファンが切望していたコミュニティ」だという評価を受けています。SBTBはロマンス小説ファンが集い、本について話し合う場です。ロマンス小説ファンだからといって、からかわれることもありません。

私たちロマンス小説ファンは、そのジャンルが好きだというだけで、書店員や学校の先生、赤の他人からでさえ、笑われたり失礼な態度をとられてきました。自分の好きな本について話す相手を現実生活のなかで見つけることができない読者たちに、同じものを愛し、同じものを読み、それについてあらゆることを議論できる場を提供しているのがSBTBです。SBTBなどのロマンス小説ブログやコミュニティは、現実の世界で孤立しているロマンス小説ファンたちにとって、憩いの場なのです。

コミュニティ構築の4つの鍵

コミュニティのテーマと、そのコミュニティを作るオンライン上の場所が決まったら、次のステップは宣伝です。既存のコミュニティを訪れたり、同じジャンルのブログにコメントを書き込んだり、関連する他のコミュニティを見つけたりすることは、そのような場所を探し求めているファンたちに、新しいコミュニティの存在を知ってもらう良い方法です。

でも大切なのは、そうやって獲得したファンに何度も繰り返し戻ってきてもらうこと。それこそがコミュニティ構築の「鍵」です。私の考えでは、定期的に人々が訪れてくれる、居心地のいいコミュニティを作りたいなら、4つのことを頭に入れて日々の記事を書くといいと思います。それは、

・一貫性(Consistency)
・寛容(Generosity)
・誠実(Authenticity)
・好奇心(Curiosity)

です。

一貫性(Consistency)

まずはじめは「一貫性」です。私の言いたいのは、記事を定期的に更新するということではなくて、コミュニティとしての「一貫性」です。掲載されるコンテンツを、コミュニティの基盤となっている話題に限定することで、そのような「一貫性」が生まれるのです。

SBTBの場合、ロマンス小説のファンと作家が集まるコミュニティなので、実にさまざまな話題があります。ロマンス小説特有の言い回しをはじめ、フェミニズム、セクシャリティ、女性の健康問題、心理学、人付き合い、ジャンルに関する議論、理想の男性像、表紙のイラストに登場する胸筋が発達した男性モデル、などなどです。

コミュニティのなかではジョークや少しひねくれたユーモアも通じるようにしたいので、ちょっとヘンなビデオの投稿や、表紙に登場する女性モデルの悪趣味なヘアスタイルの批評は歓迎されます。スケジュールに沿ったコンテンツの更新も重要ですが、コミュニティの基盤となっている話題にコンテンツを限定することが大切なのです。

寛容(Generosity)

これも「一貫性」と関連しています。SBTBのほとんどのブログ記事は無料で読めます。まだ読んでもいないブログ記事に金をよろこんで払おうとするネットユーザーなんて会ったことがありません。面白くて読む価値のあるコンテンツ制作には、莫大な時間と労力が必要ですが、そうやって苦労して制作したコンテンツを無料で読めるようにするのは、寛容さのあらわれなのです。

コミュニティにおいては、コンテンツだけが寛容さのあらわれではありません。SBTBを訪れ、コメントを書き込むファンに、何を求めているのかを尋ねることも寛容さのあらわれです。そこでSBTBでは、読者とのコミュニケーションのためのコーナーがいくつかあります。

毎週火曜日に更新する「Help a Bitch Out 」 (HaBO) はその一つです。小説のあらすじや設定は覚えていても題名を忘れてしまったとき、HaBOに題名のわからない小説のあらすじや設定を掲載すると心当たりのあるメンバーが返答してくれる、本の探偵サービスです。たいていの場合、題名は数時間以内に判明します。

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「HaBO」はファン同士がタイトルを忘れた本を探してくれるコーナー。

このサービスが人気なのは、サイトの読者が本の題名を探してくれるコミュニティ活動だからだけでなく、自分たちも他の読者のために役立てる、相互の助け合いの場だからです。あらすじは覚えているのに、本のタイトルが思い出せないというのは誰でもあること。忘れてしまった本を一緒に探してくれる読書仲間の存在は、得がたく心強い存在と感じられるはずです。

毎日発信しているロマンス小説の発売情報も、「寛容」なウェブサイト運営の一環です。評判のいい、あるいは熱烈に愛好されている作品が電子書籍または印刷版で刊行されたときは、その販売価格の情報をまとめて、ツイッターで毎日3〜4回投稿します。また、作品ごとにも1日に3回投稿しています。安売り期間が続いている間に、面白い本をなんとか手に入れてほしいからです。

ロマンス小説とそれを愛する人、そして読者同士を結びつけようというこのコミュニティの目的のかげには、私自身の個人的なもう一つの目的があります。それは本の衝動買い仲間を増やすことです。もちろんこれは冗談ですが、自分ひとりだけでロマンス小説のまとめ買いをするのは寂しいですから。

SBTBの読者サービスは他にもあります。いちばん人気があるのは初心者向けの推薦書を選ぶスレッドです。ノラ・ロバーツやリサ・クレイパスなど既刊書が豊富な作家を選び、彼女たちの作品の中から初心者向けの本をコミュニティと一緒に選びます。その結果がSBTBの人気コラム「クラシック・ロマンス:最初に読む本」です。

classic romance

ロマンス小説の名作を紹介するコーナー。

ロマンス小説についてよく知らない初心者でも本を見つけやすいように、不思議な力を持つヒロインと、それを持たないヒーローが登場するファンタジーロマンスや、特定の場所が舞台になるサスペンスロマンスなど、コラムはそれぞれのサブジャンルにまとめてあります。

コミュニティがもっとも推薦する作品を選ぶ過程で行われる会話は、ファンの間での議論を活性化するだけでなく、より実質的な役割を果たしてくれます。人気作家やサブジャンルごとの代表作がリストアップされていれば、将来の読者が自分の読むべき本をみつけることができるのです。

誠実(Authenticity)

「誠実」が目標だなんて当たり前だと思うかもしれませんが、これはコミュニティの形成にはとても重要な側面です。個人が意見を表明することが期待され、それが尊重されるコミュニティをつくろうとするなら、なおのことです。

SBTBに定期的に掲載されるロマンス小説の書評は、とても率直な——ときには率直すぎるほどの——ものです。私たちが感じたことを正直に書くからです。個人の好みの差が書評に反映されることもありますが、それは正直な感想だからです。

書評に対して原稿料を支払うことはありませんし、出版社や作家からの依頼で書評を書くこともしません。書評は私たち読者の正直な感想で、ときには長過ぎると感じることもありますが、読者が本を読んでいるときに感じたことや考えたことが率直に書かれています。できるかぎり誠実に、オープンなかたちで意見を分かち合いたいのです。

意見を分かち合うことだけが誠実さのあらわれではありません。書評やコメントなどの文章からは、書いた人の熱意や情熱が——それが誠実な気持ちである場合はとくに——顕著に読みとれます。ロマンス小説を愛する情熱や、ファン仲間と出会いたいという願望は、決してウソでも演技でもありません。自分が書く記事の対象に、私は真の愛情を抱いています。コミュニティの基盤になるトピックに誠実に向き合い、楽しむことができることは、コミュニティ運営者にとってきわめて重要です。

ファン同士の出会いは、次のようなシンプルな質問から始まることがよくあります。

「私はこの本が好き。あなたはどう?」

答えがイエスであれば「本当!あとでちょっとおしゃべりしませんか?」ということになるわけです。

たとえそれが10人のコミュニティであれ、1万人のコミュニティであれ、誠実な情熱と熱意から生まれたコミュニティの誠実さは、同じような情熱と熱意をもつ新たなファンの心を惹きつけると思います。

好奇心(Curiosity)

最後は「好奇心」です。書評やコメントの文章を書くだけでは、コミュニティは成長しません。ウェブサイトを繰り返し訪れる忠誠度の高いファンを獲得するには、その声に直接耳を傾けるのがいちばんです。サイトの話題にかんする読者の実体験や意見、考えなどを話し合うことはコミュニティの雰囲気を明るくし、議論を活性化し、そして新たなファンをコミュニティに惹きつける求心力の源になります。

さきほどの例で言えば、「私はこの本が好き」という話題のシンプルな共有から始まった結びつきは、それに続けて「あなたもこれが好き?」と尋ねること、つまり好奇心によってより強まります。新たなメンバーを歓迎し、好奇心に満ちたコミュニティができれば、そのコミュニティは長続きします。

サイトを訪れてくれる読者がサイトに魅力を感じているかどうかを測るもっとも効果的な方法は、どのコンテンツがいちばん好きで、どんな要望があるかを尋ねることです。私たちは個別のテーマごとに複数の問い合わせフォームをつくったり、大半の記事の下に読者へのアンケート項目を置いたり、読者の意見や視点に応えるため実際にお招きするなど、いくつもの方法でそれを行っています。

私はSBTBで毎日話をしている女性たちの考えに、たいへん好奇心をもっています。私の書くものに意見を言ったり、コメントをつけてくれる彼女たちにしても同じ思いでしょう。

コントロールを手放す

お話ししたいことはもう一つあります。これがいちばん難しいことかもしれません。コミュニティがある程度まで成長したら、いったん固く引き締めたコントロールを緩める準備をする必要があります。このことは私が『マニフェスト 本の未来』に寄稿した「コントロールできない会話」(原文はこちら)のテーマでもありました。

manifest

運営者がコミュニティを、すべての面で完全にコントロールすることは無理です。そこで起こるすべての会話の主導権を握ったり、方向性を定めることも期待できません。あるコミュニティにファンを惹きつけるということは、究極的には、その場所を自分たちのコミュニティだと感じてもらうことだからです。

SBTBのことをいつでも戻ることのできる、インターネット上の自分の家だと思っている人たちから、私信として、たくさんの感謝メールをもらいました。そうしたメールには必ず、「ようやく私は会うべき人たちと出会うことができた!」といったことが書かれていました。

コミュニティの発展に貢献した人が、それを自分のコミュニティだと思いはじめることも、何か不満があれば文句を言うのも自然なことです。それだけでなく、何か困ったことがあれば、コミュニティの他のメンバーがすぐに助けてくれます。なぜなら彼女たちから見れば、あなたはすでに自分たちによくしてくれている味方だからです。

SBTBが成功し、いまだに成長を続けている理由は、コミュニティ内でロマンス小説について文章を書いたり意見を表明している私や読者たちが、ロマンス小説やその読者である女性たちに対し、一貫して誠実かつ好奇心にあふれた態度で接し、仲間同士を結びつけてきたからです。

いまのところ、私たちのコミュニティにはまだ余裕があります。新しい仲間の参加をお待ちしています。

(翻訳:編集部)

Romancerがリニューアルして販売も可能に

2015年5月12日
posted by 日本独立作家同盟

株式会社ボイジャーの提供している『Romancer』は、Wordファイルなどから簡単に電子書籍フォーマット「EPUB 3」のファイルが制作・公開できるウェブサービスです。それがこのたび、販売委託などの拡張サービスも提供するようになり、魅力的なセルフパブリッシング・プラットフォームに生まれ変わりました。

無料で利用できるRomancerの主な機能

無料で利用できる魅力的な機能としては、以下の2点が挙げられます。

  • 電子書籍の世界標準規格で日本語の縦書き表記などにも対応しているオープンフォーマットの「EPUB 3」が、Wordファイルなどから簡単に制作できる
  • 「公開作品広場」で作品を無料公開でき、ブラウザビューワ「BinB Reader」を利用することで、特別なアプリ等がなくても誰でも簡単に読んでもらえる

制作ツールとしては、縦書き/横書きどちらにも対応しており、縦書き時2桁数字の縦中横指定、目次の自動生成、書誌情報(メタデータ)の追加と奥付 作成、自動EpubCheckによる「正しいEPUB」の書き出し、ビジュアルエディタ(WYSIWYGエディタとHTMLソースを直接編集できるモード が切り替えられる)、表紙用画像を3D風に変換するツールなど、充分な機能を備えています。なお、EPUBの制作機能と公開機能は別であり、RomancerはEPUBを制作・ダウンロードするためだけに利用して、「公開作品広場」には出さない、という使い方もできます。

作品権利のお約束」には「すべて作者ご自身のものです。自動的に、勝手に、ボイジャーが出版/複製/販売する権利をもつようなことは一切ありません」と明言されており、Romancerで制作・ダウンロードしたEPUBファイルを別の場所で公開や販売することに何ら制限はありません

制作方法は、以下の記事が参考になるでしょう。

電子書籍がテキスト入力やWord・PDFファイルのアップロードで簡単に作れるネットサービス「Romancer」を使ってみた(Gigazine)

ちなみにRomancerは、商業出版でも活用されています。ボイジャー発行の『ぼくらの時代の本』も、もちろんRomancerで制作されているそうです。

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新Romancerの有料支援サービス

今回新たに拡張された有料サービスのうち、個人が比較的気楽に利用可能なのは以下の4点です。別途、業務用の法人向けプランもあります。

  • Romancerを経由し、複数の総合電子書店で本が販売できる
  • 月間利用容量拡張(月間50MBの制限解除が有料・2015年7月以降)
  • 電子書籍の制作委託
  • オンデマンド印刷版の制作

この中でインディーズ作家にとって特に魅力的なのは「複数の総合電子書店で本が販売できる」点でしょう。少し詳しく掘り下げます。

複数の総合電子書店で本が販売できる「販売委託」サービス

  • 販売委託対象電子書店はボイジャー直営の「BinB store」と、「iBooks Store」「Google Play ブックス」「Yahoo!ブックストア」「紀伊國屋書店ウェブストア」「楽天Kobo電子書籍ストア」「BookLive!」「Reader Store」「ブックパス」「eBookJapan」「honto電子書籍ストア」「達人出版会」「YONDEMILL」「Kindleストア」の14カ所
  • 費用が発生するのは売れたときの販売委託手数料のみ
  • 販売委託手数料はボイジャーへの入金額に対し20%で、希望小売価格からの換算で7%~18%と比較的低めに抑えられている
  • ISBNコードがない作品には、ボイジャーが採番したものが自動で割り当てられる
  • 販売部数は各書店からボイジャーに月次売上報告が送付された時点で確定するが、タイミングは書店により異なる(おおむね販売翌月から4カ月後とのこと)
  • 入金は販売部数確定の翌々月末日

同じような販売委託をやっているサービスには「BCCKS」が挙げられます。

RomancerとBCCKSの販売委託対象電子書店比較

Romancer経由の印税率は、ボイジャーと配信先の秘密保持条項により一部が「56〜47.2%」と幅で表記されています。詳細が不明なため、明確な数字比較になっていないことをあらかじめご了承ください。

書店 Romancer
の印税率
BCCKS
の印税率
BinB store(ボイジャー直営)
72%
×
BCCKS(直営)
×
70%
iBooks Store
56〜47.2%
35%
紀伊國屋書店ウェブストア
56〜47.2%
35%
楽天Kobo電子書籍ストア
56〜47.2%
50%
BookLive!
56〜47.2%
35%
Reader Store
56〜47.2%
35%
eBookJapan
56〜47.2%
35%
Kindleストア
28%
25%
Kindleストア(独占配信)
56%
×
Google Play ブックス
56〜47.2%
×
Yahoo!ブックストア
56〜47.2%
×
honto
56〜47.2%
×
達人出版会
56〜47.2%
×
YONDEMILL
56〜47.2%
×
ブックパス
56〜47.2%
35%
BOOK☆WALKER
×
50%

前述のように、Romancerで制作・ダウンロードしたEPUBファイルは別の場所で公開や販売ができるので、例えば「BOOK☆WALKER」だけ「BCCKS」で販売委託するといった手も考えられます。なお、「BCCKS」にはEPUBインポート機能があります。

もっとも、この中で「Kindleストア」「楽天Kobo電子書籍ストア」「iBooks Store」「Google Play ブックス」は自分で直接取引することが可能であり、個別に配信手配する手間を惜しまないのであれば、それ以外の電子書店だけを販売委託する形がいいかもしれません。

Romancerの販売委託申込みページ

Romancerの販売委託申込みページ

販売委託申込みページ(会員専用)」からは、例えば「でんでんコンバーター」など他のツールで作成したEPUBファイルも送信可能です。特定の電子書店だけ委託したい場合は、メッセージ欄にその旨を記載するといいでしょう。なお、販売委託申込みをボイジャーに送ると、必ずボイジャーからコンタクトがあり、販売先を念のため確認する工程が入るそうです。

各サービスにはそれぞれ得手/不得手や、できること/できないことがあります。New Romancerをどのように活用するかは、あなた次第です。

Neuromancer

これはNeuromancer。

※この記事は「群雛ポータル」に2015年5月11日に投稿された「WordやPDFから簡単にEPUB 3が制作できるウェブサービス『Romancer』がリニューアルして販売も可能に」を改題して転載したものです。

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