第1回 モビリティの時代のメディアを探して

2016年5月25日
posted by 影山裕樹

この5月の大型連休に帰省し、地元のゆるキャラやB級グルメをことさらに宣伝するPR冊子を手にとっては捨て、いつものように普段の仕事がある都会に戻ってきた人も多いだろう。よくある行政発行のフリーペーパーを見ると、そこそこの予算や人員がかかっているのに(市民の税金で)、デザインも内容も、残念なものが多い。

地域創生、コミュニティの再生が叫ばれ、地方自治体はこぞって中心市街地活性化事業や、観光客誘致を展開している。だが、多くの場合、それらは地域の経済を活性・再生することに重点が置かれている。一時の“経済”が、“地域に根ざした文化”そのものよりも優先され、人を惹きつけるデザインや地元のとっておきのストーリーを紡ぐ文章よりも、いま、地元が一押しの商品・観光資源”を前面に押し出すことが重視されてしまう。

そこには、宣伝広告とメディアの区別がない。“どんなメッセージを、誰にどのように届けるか”という一連のメディア戦略が存在しない。だから、予想外の驚きもなければ、未知の情報も提供されない。手に取る人にとってみれば、無料ティッシュ広告のような単純接触効果しか生まない場合が多い。

東京から地方へ、編集・出版のフィールドが広がっている

しかし、ちょっと待ってほしい。じつはいま、“面白い”地域情報誌やローカルメディアが次々に生まれているのだ。これらのローカルメディアは、観光客誘致のためのPR冊子や、クーポン券付きの使い捨てタウン誌とは一味違う。コンテンツ、デザイン、テーマなど様々な面で東京のメディアと比べても遜色ないばかりか、首都圏発の一般商業誌に比べても、自由でインパクトが強い。

こうしたローカルな場所で制作されているフリーペーパー、雑誌、本などの紙メディアの作り手たちを取材した『ローカルメディアのつくりかた』(学芸出版社)をこの5月に上梓した。この連載では、本書でとりあげた例だけでなく、さまざまな“ローカルメディア”について見ていきたい。

この本で紹介したような新しいタイプのローカルメディアの登場を見ていると、雑誌、書籍などの出版社、編集やデザインといったクリエイティブ業種が集中する首都圏から地方へと、メディアづくりのフロンティアが移りつつあるように思える。

それを裏付けるように、いま、各地の地方自治体の入札マーケットが活況だ。入札案件としては、イベントの什器の購入から広報紙の印刷・編集まで多様で、とくに後者は地元新聞社、テレビ局、首都圏の広告代理店などの大手だけではなく、地元の小さな印刷会社、中小出版社などが受注する例も多い。

入札に参加する条件として、その地域に事業所を構えていなければならないなどの制約も多いが、それを逆手に取って地元企業と連携して首都圏のクリエイティブ人材が関わり、完成度の高いローカルメディアが生まれる例も増えている。

『雲のうえ』

『雲のうえ』

“角打ち”や、“地元サークル”特集など毎号切り口が斬新な北九州市発行の「雲のうえ」はその先駆けとして挙げられるだろう。しかし、都会で活躍するクリエイティブ人材が関わるから面白いのだ、と考えないでほしい。それは、都会は洗練されていて、地方はクリエイティブではない、という先入観を知らず知らずのうちに内面化していることにほかならない。メディアづくりの主体や、それを受けとる読者のコミュニティさえもが、いまや都会からローカルへと移行している。僕が“ローカルメディアが面白い”と言うのは、こうしたまぎれもない時代の変化を多くの人に直視してもらいたいという意図を込めている。

地域に特化した流通の仕組み

では、数ある地元PR誌とここでいう“面白い”ローカルメディアの違いはなんだろうか。僕が本書で取材したローカルメディアは、大まかに分けて以下の基準で選んでいる。

1. デザイン、エディトリアルな構成が練られている
2. コンテンツ、文章力、写真などのクオリティが高い
3. 取り上げるテーマ、取材対象がローカルを掘り下げている
4. 地域に特化した流通の仕組みを発明している

1〜3は比較的共感してもらえる評価基準だろうが、とくに本書で重要視したのは、4の「地域に特化した流通の仕組み」にこだわっているローカルメディアである。

『みやぎシルバーネット』

『みやぎシルバーネット』

たとえば、宮城県仙台市で毎月発行されている「みやぎシルバーネット」。この新聞が面白いのは、ターゲットを宮城県仙台市周辺に住む高齢者に絞っているということ。この新聞は、折り込み広告を受注する地元の広告代理店から独立した千葉雅俊さんが、取材・執筆、デザイン、広告営業、配布作業まですべて一人で行っている。それも月刊で、20年間絶えることなく続けられているのだ。

目玉はなんといっても「シルバー川柳」。お年寄りから集められた珠玉の川柳を、虫眼鏡で見ないと読めないくらい、ぎゅうぎゅうに詰め込んで掲載している。千葉さんがこの新聞の配布先を仙台圏に限定している理由は明快だ。近隣地域に住む者同士に、投稿を介して交流を生みたいからだ。しかも地元の病院や老人クラブのネットワークを活用し、配布先は絶妙にコントロールされている。だからこそ、「今月はどこどこの誰々さんの川柳が載っていたなぁ」という楽しみがあるのだ。3万6000部という部数を誇っていても、あくまで同紙はローカルな読者のコミュニティに奉仕している。

配布先にも自分で納品するので、ラックの後ろに上下反対に詰め込まれる、なんていう不幸な状況は作らない。毎月余りが出ないし、紙面を超えた交流会が活発に開かれる(カラオケ、温泉旅行など!)。「すべて自分でやる」とはつまり、コンテンツを作ることだけではなくて、それが届けられ、その先に読者の交流が生まれるという、メディアのプロセスのすべてをコントロールするということなのだ。

読書体験の“外側”をデザインする

『城崎裁判』

『城崎裁判』

メディアづくりのプロセス全体を見るという視点は、ローカルメディアの現場では非常に重要な要素だ。たとえば、作家の万城目学さんが城崎温泉に滞在して書き下ろした新作小説『城崎裁判』が面白いのは、首都圏の書店には並ばず、地域限定発売で、地元にわざわざ来ないと買えないこと。仕掛け人の一人、ブックディレクターの幅允孝さんはこの試みを「地産地読」と語っていた。

あえて、“流通経路を限定する”ことで、読者の移動を促進する。そもそも城崎温泉の旅館の若旦那たちが「本と温泉」というNPOを立ち上げ発行されている同書は、防水加工され、温泉に浸かりながら読むことが推奨されている。乾燥した日持ちする食材ではなく、長く読み継がれる賞味期限の長い本が、温泉街の新しい“お土産”になった瞬間だ。これもまた、読者の体験総体をデザインする優れたメディアの実験と言える。

それは、僕が関わった2013年の十和田奥入瀬芸術祭で試したアイデアでもあった。

昨今、地域の芸術祭が乱立している。初めて開催される地域芸術祭は、初期の段階では実行委員の体制や記録・広報の戦略が定まっていない場合が多い。そのため、美術館の展覧会カタログの形式が、芸術祭の記録集でも踏襲されがちだ。

美術展や芸術祭は会期が終われば見ることができないし、1年後、10年後にその成果を判断するには、記録物しか手段がない。だから、参加作家はきちんと撮影された作品図版を大きく掲載して残したいし、自治体などの主催団体は、入場者数や反響をデータとして残したい。ところが、協働する出版社としては、会期が終わりかけに発行される記録物を出版しても、売上を見込むことが難しい。そのため出版企画として成り立ちにくく、芸術祭の記録は書店マーケットに流通する書籍として発売されないことが多い。

この主催者—出版社との間に立って、両者の欲望が満たされる記録物のあり方はないだろうかと、編集者である僕は考えざるをえなかった。その試行錯誤の果てに生まれたのが『十和田、奥入瀬 水と土地をめぐる旅』(青幻舎)という本である。

『十和田、奥入瀬 水と土地をめぐる旅』

『十和田、奥入瀬 水と土地をめぐる旅』

地域の物語を作るためのライター・イン・レジデンス

『十和田、奥入瀬 水と土地をめぐる旅』は当初、芸術祭の記録集を作る(その担当者として編集者の僕が入る)という枠組みでスタートした。先述のように、芸術祭の記録集は書店では売りにくい商品だ。

そこで僕たち企画チームは、詩人の管啓次郎さんを共同の編著者として招き、彼と一緒になって小説家三名(小林エリカ、石田千、小野正嗣)と、写真家(畠山直哉)を芸術祭の“参加作家”として招き、現地で滞在・取材してもらい、一冊のアンソロジーに仕立て上げるという計画を立てた。そして、芸術祭の初日に必ず発売することを目標とした。そうすることで、現代アートを鑑賞する芸術祭というよくある構造のなかに、文学という新しい要素を投げ込むことができると考えたのだ。

同書は芸術祭の会場で売られるのみならず、全国の一般書店でも販売され、青森という縛られた土地の外へ、芸術祭の“会場”を広げることができた。十和田、奥入瀬にまつわるフィクションとして編まれた本書は観客の町歩きを補う副読本になるため、芸術祭を目的に青森へ向かう新幹線の中で、あるいは帰りの飛行機の中で読むことで芸術祭の体験が増幅される。それは『古寺巡礼』を手に京都・奈良の寺社をめぐる観光客の身振りにも似ている。観光パンフレットを手にまわるのと、より深い知識を背景に観光地をめぐるのでは、体験の質も変わるはずだ。

記録を目的とした本は、起こったことをそこに留めるというパッシブな機能しか果たさない。しかし、本というメディアは、それ自体が新たな経験を作るアクティブな機能を果たすこともある。

ともすると、メディアは作り手→受け手に一方的に情報を与えるものと誤解されがちだ。しかし実際のところ、メディアは受け手と作り手の活発な交歓が生まれたり、読者の次の行動の契機になった時にこそ真価を発揮する。

モビリティの時代、メディアに関わる僕たちのような人間は、全国に均一に配本されるという、近代以降に完成された出版流通の仕組みを利用しつつも、ときに読み替えて、読者の移動を促す仕掛けづくりを絶えず編み出すことに商機を見出すべきではないだろうか。この連載では、そうした試みをこれからも取り上げていく。

[記事中の写真:喜多村みか]

(つづく)


【セミナー開催のお知らせ】
この連載に関連した連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の第一回を、7月28日に東京で下記の要領にて開催いたします。

テーマ:「持続可能なまちづくりにメディアを活かす」

日時:7月28日(木)14:00-18:00(開場は13:30)
会場:devcafe@INFOCITY
渋谷区神宮前5-52-2 青山オーバルビル16F
http://devcafe.org/access/
(最寄り駅:東京メトロ・表参道駅)
定員:30名
受講料:8,000円(分科会・交流会への参加費込み)

講師:

・田口幹也氏(城崎国際アートセンター 館長兼広報・マーケティングディレクター)
・小菅隆太氏(「社会の課題に、市民の創造力を。」issue+design所属。広報・PR担当)

※セミナーの詳細と参加申し込みは下記のpeatixのイベントページにて。
http://peatix.com/event/177662/

5508

影山裕樹・著
『ローカルメディアのつくりかた 人と地域をつなぐ編集・デザイン・流通』
(学芸出版社)

英米のEブックを支えている読者は誰?

2016年5月24日
posted by 大原ケイ

谷本真由美さま

ご無沙汰しております。

谷本さんのロンドン・ブックフェア・レポート「電子書籍の未来を握るのはインディー系」を読みました。私はエージェンシーが集まるフロアだけ、ちょこっと顔を出しました。ブックフェアを見るより、エレベーターを待っていた時間のほうが長かった気がします。

先月はロンドンのブックフェアに続いて、アメリカでもいちばん大きいブックフェアである「ブック・エキスポ・アメリカ(BEA)2016」がありました。今年は開催市がシカゴだったので私は行かなかったんですけど、この10年ほどずっと、出版業界の中心街ニューヨークで開催していたのを、久しぶりに他のロケーションに移してみたら、入場者は2割ほどダウンとのことです。

でも、これは仕方ないですね。私と同じで、オフィスのあるニューヨークでやってるならちょっと顔を出しに行くか、という出版人も多いけれど、シカゴとなるとどうしても足が遠のいてしまう。その分、普段はニューヨークなんて遠くて行かれない、という人が大勢駆けつけたのなら、それもよしだと思います。

これに加えて、普段からチャカチャカと慌ただしいニューヨーカーっ子気質とちがって、ミッドウェスト地方は人間がのんびりしてる(というか、アメリカ全土を考えればこっちのほうが平均的なのですが)こともあり、シカゴにいる知り合いからは「どこもすっき空き、場内のスタバでさえ並ばずに買えたし!」「なんだか慌ただしくなくて落ち着くわぁ」という嬉しい悲鳴が届いておりました。

そしてコッソリ言うと、入場者数が減った理由の一つに、昨年のニューヨークには「招待客」枠を盾に数百人単位の人海作戦で乗り込んできた中国勢さまが、今年は来なかったというのもあったそうです。

Eブックも海外の視察団も蚊帳の外

そもそもブック・エキスポ・アメリカは、有名なロンドンやフランクフルトのブックフェアとは少し性質が違って、あまり世界中から出版人が集う感じではないのです。ロンドンやフランクフルトなど、ヨーロッパ大陸のブックフェアは版権マーケット、つまり、英語圏だけでなく、各国の人たちが自分の国で出せば売れそうな本の情報を早いうちに掴みに行くフェアなんですね。

それに対してアメリカのブック・エキスポのメインターゲットは本を仕入れてくれる人、つまり書店のバイヤーや図書館の蔵書担当司書といった人たち。出版社の側がホストとなって、彼らに「これからこういう本を出しますのでよろしく〜」「いつも仕入れてくださってありがとさんです」というアピールをする場なのです。

Eブックが登場した2008年からは、毎年日本からも「電子書籍をリードする市場の視察」という名目で大勢の出版業界人が来ていたようですが、実はブック・エキスポに来てもたいした情報は得られなかったはずです。数年前からすでにEブック関連のブースは、別にIDPF(国際電子出版フォーラム)というかたちで、会場の地下階に追いやられていたぐらいですから。

AAP(全米出版社協会)の発表では、2015年のEブック総売上は前年比12.7%ダウン、冊数でも2014年の2億3400万冊から2億400万冊に落ちたとか。「ビッグ5」と呼ばれる全米最大手の5社に限って言えば、全体の売上に占めるEブックのシェアが38%から34%になった、という数字も聞きました。これに中小の出版社の数字を入れると、アメリカでEブックは出版市場全体の3割ぐらいで落ち着いてきそうな気配です。これは実は、前々から私が言っていた通りなのです。えっへん。

セルフ・パブリッシングという新しいパラダイム

とはいっても、これはAAPに売上を報告している全米の出版社400社の卸売時点の話(書店やオンラインで売れた末端価格や部数ではない)なので、Eブックはオワコン、というわけでもないのです。これもしつこいくらい言ってますが、谷本さんがロンドン・ブックフェアでご覧になったとおり、既存の出版社を通さない、「インディーズ作家」と呼ばれる人たちによるセルフ・パブリッシングがEブックの大きなビジネスとなっているんです。

ところが、セルフ・パブリッシングをしている作家が売上を報告するシステムもないし、そのプラットフォームとしていちばん大きいKDPをやってるアマゾンも数字を出さない。なので、実際のところ「インディーズ作家」たちの本がどのくらい売れているのかは、よくわからないわけです。そういう事情があるので、マイナスの数字が出たところで日本みたいに「出版不況が〜」と嘆いている人は誰もいません。

アメリカでは(そしておそらくイギリスもそれに近いかたちで)、これまで紙で出ていた本は同日発売で、Eブックでも買えるのが当たり前になってきています。ざっくり言うと、平均的な新刊のハードカバーの値段が25ドル、同時刊行されるEブック版が15ドル、少し待ってペーパーバックが出るけどEブックより数ドル安いくらいです。イギリスは新刊だと最初からペーパーバックの本も多いので、Eブックに乗り換えるのも早かったですよね。

英米の出版界は日本と違って、

・よっぽどの事情がない限り新刊と同時にEブック版も出るので、ある本が何かの拍子に急に売れ出して紙の在庫が一時的に尽きた場合も、「売り逃し」がない。
・取次が書店に対して新刊を自動配本(どこの書店にどの本が何冊置かれるかを取次が決める)したりしないので、各書店が刊行前からカタログを見て何を仕入れるかを決め、出版社から直接注文できる。
・出版社側が決めた希望小売価格より高くなければ、各書店がどのぐらい安く本を売るかは書店の采配に任されている。
・ペーパーバックはEブックよりほんのちょっと安いだけなので、いわゆる「文庫に落ちてくるのを待つ」必要がない。

といった特徴があるので、今後もEブックの展開はいろいろ考えられるでしょう。

女の子もおばさんもEブックを読む時代

英米でEブック産業を支えている、つまり通勤途中や寝る前の時間にKindleやKoboでミステリーやロマンスを読んでいるのは、あいかわらず年配の女性が多い、というのも日本との大きな違いですね。考えてみれば今回のロンドン・ブックフェアでも、私が会った版権担当者もエージェントも編集者も一人を除いてみな女性でした。

盛んに日本の企業もコンプライアンスを徹底しなければグローバル時代に生き残れないとされ、その流れで「ダイバーシティ(多様性)」に欠ける職場環境はよろしくないわけですが、(特に決断を下せる管理職のポジションに)まだまだ男性が多い日本の出版社や書店だと、残念なキャンペーンを見かけることがありました。

たとえば、炎上しかけて秒速で終了したK書店の「本当は女子にこんな文庫を読んでほしいのだ」フェアや、某取次と12の文庫出版社が組み、全国の書店で展開された「文庫女子」フェアなどですね。後者の「たとえば香水を纏うように たとえばルージュを引くように たとえばハイヒールを履くように」というコピーは、汗かきながらすっぴんで突っかけ履いて本を読むこのおばさんには突き刺さるものがありました。

実際のところ、若い女性はもう紙の本なんてなくても全然平気なのかな、と思ったりします。一時期注目されたケータイ小説もティーンエイジャーの女の子たちが支えていたし、BLをケータイで読めればわざわざ書店に行かなくてもいい。アメリカでもKindleをずっと使っているのは圧倒的に女性層です。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』や『ゴーン・ガール』のように映画化されて話題になるのも、世界中の女性に読まれた結果、バカ売れした本なのですから。

YA(ヤングアダルト)の本をベストセラーに押し上げる力を持ったいろいろな国の女性が、自発的に日本のものを「KAWAII」といって支持するのならともかく、男目線の萌え少女コンテンツを「クール・ジャパン」と売り込んで行っても、果たして勝算はあるのかな? と少々疑問に思います。どうせ何かキャンペーンを張るのなら、もう少し彼女たちが求めているものと真剣に向き合ってほしいですね。

※この投稿への返信は、WirelessWire Newsに掲載されます


この連載企画「往復書簡・クールジャパンを超えて」は、「マガジン航」とWirelessWire Newsの共同企画です。「マガジン航」側では大原ケイさんが、WirelessWire News側では谷本真由美さんが執筆し、月に数回のペースで往復書簡を交わします。[編集部より]

パナマ文書事件が明らかにした「第五階級」とは

2016年5月13日
posted by 秦 隆司

匿名人物のデータ情報提供という形で発生した「パナマ文書(Panama Papers)」をめぐるスキャンダル。これは中米パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」によって作成された内部文書が「南ドイツ新聞(Suddeutsche Zeitung」に漏らされたもので、内容は1977年から2015年まで扱った会計書類や契約書などが含まれる。

この法律事務所は顧客にとって最も有利な租税回避地(いわゆるタックスヘイブン)となる国や地域を選び、そこに法人などを設立するのを手助けしていた。ここを利用した20万社を超える企業や株主、それに会社役員などの情報を含む総数1150万件に及ぶ文書情報が流出したのが今回の事件だ。この膨大なリーク文書に関してはこれからも分析が行われ、大きな影響を与えると思われる。

このパナマ文書に関するニュースを世界中のさまざまな媒体が取り上げているが、多くはそこに何が書かれてあり、国や人々がいかに反応しているかというものだ。

「第五階級」の登場

そんなニュースの中で、気になったのが4月11日付のニューヨーク・タイムズ紙の「Panama Papers Leak Signals a Shift in Mainstream Journalism(パナマ文書リークは主流ジャーナリズムに起きている変化を告げている)」という記事だった。

この記事は、新聞界、言論界、ジャーナリストなどの「第四階級(Fourth Estate)」と、ハッカー、ブロガー、文筆活動家などの「第五階級(Fifth Estate)」との融合が始まり、次の段階ではその融合された形がジャーナリズムの主流の一つになっていくのではないかという内容だった。

その話を始める前に、少し「第四階級」と「第五階級」の説明をすると、中世ヨーロッパでは身分制度が確立されていて、この身分制度は「Estates of Realm(身分の領域)」と呼ばれていた。最も知られたものの一つに封建時代のフランスの身分制度があり、フランスでは「聖職者」「貴族」「平民」と身分が分かれていた。

「Estate」とは「〜界」や「範囲」を意味する言葉で、フランス革命前までは聖職者がFirst Estate、貴族がSecond Estate、平民がThird Estateとされていた。そして近代になって、ジャーナリズム界、言論界をこの三つの階級(Estate)とは違った新たな階級として、「第四階級」と呼ぶようになった。そして、2013年にはWikileaksの創設者ジュリアン・アサンジを描いた映画『フィフス・エステート/世界から狙われた男』(ビル・コンドン監督)が公開され、ハッカーやブロガーなどが第五階級に属する住人と一般に言われるようになった。

先ほどのニューヨーク・タイムズの記事の話に戻すと、記事が伝えていた第四階級と第五階級の融合はかなり刺激的な流れだと思えた。

第四階級と第五階級の住人の違いは何か、そして、いま第五階級と言われる分野にはどんな人々が属するのか、また、それが融合された世界とはどんなものになるのか。それを今回のこの記事で見ていきたいと思った。

まず、第四階級と第五階級に属する人々の違いはどこにあるのか。これはかなりはっきりとしていると思える。

ジャーナリスト、評論家、そして組織としては新聞社、雑誌社などが、現在、第四階級に属していると言える。そして、第四階級の住人たちは情報についてある種の教育を受け、個人的な情報は報道してはならない、情報入手のために違法行為は行ってはならない、自分たちの報道には責任が伴うと考えている。

一方、第五階級の住人の精神の根底には、すべての情報はオープンにさせるべきだという考え方がある。とくに、政府の関わった資料、情報、プログラミング・コードも公開されるべきで、彼らは情報をオープンにすることがより良い社会に通じると考えている。

WikiLeaks事件とはことなる展開

今回のパナマ文書のリークを見てみると、匿名人物から情報を得た「南ドイツ新聞」はアメリカの非営利組織「国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)」と共に、情報の分析を行っている。ICIJはパナマ文書プロジェクトなるものを立ち上げ、各国の報道機関やジャーナリストは自国に属する情報の分析を行っている。

パナマ文書が持ち込まれた先の一つであるジャーナリスト組織ICIJの特設サイト。

パナマ文書を分析しているジャーナリスト組織ICIJの特設サイト。

リークされたデータの一部が公開され、ウェブから検索できるようになった。

リークされたデータの一部が公開され、ウェブから検索できるようになった。

日本からの参加者もある。ICIJが発表しているパナマ文書プロジェクトへの参加者はこのリストから見ることができる。日本からは澤康臣氏(共同通信)、奥山俊宏氏(朝日新聞)などが参加している。

今回のパナマ文書については。情報提供をした匿名人物が誰なのか、またその人物が情報をどのように得たかはまだわかっておらず、その行為が違法であるか、合法であるかもわかっていない。パナマの検察が調査しているとのことだが、未だその調査結果はでていない。

ICIJのディレクターであるジェラード・ライル(Gerard Ryle)氏は、ジャーナリストらしく今回のプロジェクトでは「公的ではない人間の個人的な情報が公にされないよう特別な配慮を図り、ゲートキーパーの役割を果たしている」と言っている。

これに対し、Wikileaksは「もし99%の検閲を行うならば、それは1%のジャーナリズムに過ぎない」と言っている。

たしかにWikileaksは2010年から11年にかけて起こった「アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件」では、最終的に米国外交機密文書約25万点を未編集のまま公開している。

この情報をWikileaksに提供したチェルシー・エリザベス・マニング(出生名は男性名のブラッドリー・エドワード・マニング)はスパイ活動などの罪に問われ35年の実刑判決を言い渡されている。ICIJがパナマ文書の情報の公開に慎重なのは、情報元を守るという意識もあると思える。

先ほどのニューヨーク・タイムズの記事では、マニングの実刑判決はアメリカ連邦政府からの機密データの漏洩を食い止めようとする攻撃的とも言える態度の表れとしているが、もしこれで機密データの流出がくいとめられると政府が考えているなら「Fat Chance(大間違い)」だともしている。

調査ジャーナリストたちと彼らの情報源は刑務所に送られるかもしれないという恐怖の下にはあるが、重要な情報を流すことに怖気づくまでになっていないだろう。これからも、情報のリークは起こり、ジャーナリズムはそれを取り上げるだろう。

「第五階級」とは誰か?

今回のパナマ文書でもそうだが、第五階級の人間には既存のメディアが必要だ。その理由は、未だウェブサイトだけでは拡散性が足りないことがある。そして、情報の信憑性を得るには、やはり既存メディアの力があった方がいい。ウェブだけではなく、例えば大手新聞が伝えるのなら、それは事実なのだろうと人々は考え、それが世論をつくり、政府や検察を動かすことにつながる。

しかし、第四階級と第五階級がいかに融合していくか、未だこれといったモデルはできていない。

ではいま、第五階級はどんな人々が属しているのだろうか。

ポインターは「第五階級」に相当する人たちの一覧を発表。

ポインターは「第五階級」に相当する人たちの一覧を発表。

メディアの専門教育研究機関ポインター・インスティチュートからの記事によると第五階級の住人には以下の人々がいる。

*新聞社やメディアに属するプロジャーナリスト
*レポーター、ライター、作家を含むフリーランス・ジャーナリスト
*ドキュメンタリー映画・ビデオ制作者
*ジャーナリズムの教育者、メディアについての評論家、批評家
*ブロガー
*ソーシャルメディアを使ってコミュニティを作る人々
*ジャーナリズム界に資源や資料を提供する組織や人間
*さらに優れたジャーナリズムが必要と考える市民活動家
*ジャーナリズムのことを考える学校の教授・先生や学生・生徒

最近では新聞社や出版社が多くの記者や編集者を解雇してきているので、個人でニュースを発信できる人々の中に、ニュース収集技術を持った人々も増えてきている。

そしてこれまでは、外部の情報提供者からの提供により、機密データを得てきた既存メディアだが、それも変わっていく動きがある。

「ハッカー・ジャーナリズム」の可能性

いままでは、ジャーナリズムとデジタルの関係は、ニューヨーク・タイムズが発表した「デジタル・ファースト」の提言でもそうだが、デジタル技術を使い、いかに記事を見せていくか、読者を増やすか、広告や講読料などの収入につなげていくかが中心となっていた。

しかし、コロンビア大学やノースウエスタン大学などがコンピュータ・サイエンスとジャーナリズムを組み合わせた学位を与えることなどを始めている。これは、今後ジャーナリスト自身がハッカー的な情報の取り方ができるようになることを示している。あるいは、ハッカーがジャーナリストとして仕事をすることになるとも言える。

コロンビア大学のコロンビア・ジャーナリズム・レビューはもう6年も前に「ハッカー・ジャーナリズム」台頭を検証する記事を出している。

一方では、政府側もハッカーと呼ばれる人々の協力を得る局面が増えてくるだろう。

ニューヨーク・タイムズの「F.B.I. Says It Needs Hackers to Keep Up With Tech Companies(テクノロジー企業と互角に戦っていくためにはもっとハッカーが必要とFBIは言っている)」という記事では、FBIは専門的な高い技術を持った人々を雇い入れる必要があると述べている。彼らがすぐに見つかるわけではないので、第三者機関(サードパーティ・ハッカー)の手を借りることになるが、サードパーティ・ハッカーたちの倫理観に不安があり、さらなるデータ流出リスクを生み出すのではないかという意見を紹介している。

この記事は、情報を守る側と取る側が今後さらに激しいせめぎ合いを繰り広げていくことを示している。

これまでは公式発表、インタビュー、取材などが情報を獲得する手段だった主流ジャーナリズムだが、今後ハッカー的な手法で情報を入手する動きが出てくるのは確実だろう。そういうことができる能力を持つジャーナリストが育っているからだ。そして、その情報入手の手段は常に合法と言えるものではなくなるかもしれない。しかし、その情報が大きなニュース価値を持つとき、ジャーナリズムはどう発表あるいは隠していくのだろうか。

第四階級と第五階級の境界性が薄れていくなか、ジャーナリズムはどんな形になっているのだろうか。価値があるニュースがもたらされたとき、すべてを公開するのがより良い社会につながると信じる人々と、個人権利の保護という名の下に検閲をすべきで、それが社会的正義だと考える人々。そのどちら側も、情報を得ることができるとき、ジャーナリズムはどうなっていくのだろう。答えはまだ出ていないが、何かが変わっていくことは確かだ。

私が有料メルマガ配信をやめた理由

2016年5月9日
posted by 渋井哲也

私は有料のメールマガジン(メルマガ)の配信を2015年ごろにやめた。その理由を語ると同時に、これまでの経験をふりかえってみたい。

無料メルマガの時代

もともと「まぐまぐ」が始まった頃1990年代後半から、私は無料メルマガを配信していた。一時は1000人くらいの読者がいたと記憶している。現在は休刊中だが、2006年ごろまで、10年ぐらいは定期的に発行していた。

当時発行していたメルマガのタイトルは「ライター兼大学院生のてっちゃんニュース」だった。いま考えれば、色気も味気もないタイトルだが、新聞記者をやめて大学院に入り直し、ネット上の独自メディアの可能性をいろいろ探っていた時期だったのだ。

大学院生時代にはじめた無料メルマガ。

大学院生時代にはじめた無料メルマガ。

ほかにも自身のホームページ「てっちゃんのお元気でクリニック」のコンテンツがあり、さらに電子掲示板やチャット、ブログがあった。それらの一つに、私はメルマガを位置付けた。いまで言えば、ツイッターやフェイスブックと似たような感じでやっていた。

創刊当初は月2〜4回、メルマガを発行していた。メインの記事はブログで書いたが、ブログにアクセスしない人にも届けたい場合や、掲示板やチャットでのやりとりしたなかで気になったこと、取材協力をお願いしたいこと、あるいは、執筆した作品の紹介などをしていた。メルマガだけを読む人もいるため、ブログには書かないような内容のコラムも書いた。

しかし、ひとつ落とし穴があった。「まぐまぐ」はタイトルの変更が容易にはできない。01年には大学院を修了していたのに、いつまでも「ライター兼大学院生の〜」というのは変だ。そのため、別のサービス「めるま」に発行元を変えることにした。ここでは「生きづらさな時代」というタイトルで、やはり月1〜4回、無料メルマガとして発行した(内容は「まぐまぐ」時代と同じ)。また、「まぐまぐ」からの移行を嫌う人もいることを想定し、「めるま」と「まぐまぐ」の両方で配信していた。さらに、読者とのコミュニケーションも求めていたので、「めるま」ではメーリングリストも使っていた。

SNSの登場と雑誌媒体の凋落

2004年、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)が日本でも相次いで登場する。いくつかのサービスを経て、mixiにたどり着いた。mixiにはまったことで、メルマガの発行がおろそかになった。自分に関する話とか、コラム的な話はmixi日記に書くようにした。メルマガは誰が読者なのかよくわからない。一方、mixi日記は当時「足あと機能」もあったことから、どんなタイトルの記事を書けば、どんな人が見にきているのかがわかった。

もちろん、mixi日記で書いたことは「商品」ではない。ただ、商品になる前の下書きの場として機能していた。それをもとに原稿を仕上げたこともある。mixiでの反応はわかりやく、それをヒントにして原稿をアレンジしていた。メルマガという一方向メディアよりも、SNSという双方向メディアによって、新たな視点の原稿を生み出せるのではないかと感じていた。

ただ、mixiで書くことは内向きになりがちで、多数に向けて発信する内容とは違った。「発信」よりも、「コミュニケーション」がメインだった。多数に向けての発信は、私の場合「カフェスタ」でしていた。カフェスタも一種のSNSだが、mixiよりは、書く人の意識が外を向いていた。しかし、04年6月に、佐世保市で小6同級生殺害事件が起きてしまった。事件の加害者と被害者が日常的に交流していたのがカフェスタだったことで一部で注目されたこともあり、ゲームサービスが終了したり、複数のチャットルームに同時に入室できないなどサービス内容が変貌を遂げていく。

その一方で、雑誌で書く場がどんどんなくなっていった。ライターが食えない場合に最後にしがみつくのはエロ本だったが、そこでも徐々に活字部分が減っていく。一時期、私は「アクションカメラ」でも連載コラムを書いていたが、同誌は2003年に廃刊した。それとは別にアダルトビデオのコラムを書いていた雑誌もなくなった。エロ本の誌面でルポルタージュを書いたこともあったが、いまはもうそんな場を与えてくれる雑誌はない。エロ本での仕事がなくなった時期とSNSの登場時期が重なるのは、はたして偶然だろうか。

ついに有料メルマガに参戦

そんな時代にネットでの発信をどのようにしようかと考えていたところに、2006年、ニコニコ動画が登場した。同年、J-Castニュースが始まる。また、07年にはニコニコニュースもできる。桜チャンネルがインターネットでも配信し始める。08年には「ガジェット通信」、09年には、BLOGOS、いずれも独自コンテンツを作ろうとしていた。ニコニコニュースは同年、日本インターネット報道協会にも加盟する。

独自のニュースを作ろうとの動きは、紙媒体のネット版でもあった。たとえば、「日刊サイゾー」とか「日刊SPA!」、「NEWSポストセブン」がその例だ。とくに日刊サイゾーは「メンズサイゾー」や「サイゾーウーマン」、「ビジネスジャーナル」など幅広い展開をした。しかし、スマートニュースやグノシー、アンテナなどのキュレーションメディアの台頭もあり、また、裁判リスクの回避もあってか、のちに、ニコニコは独自のニュース制作から撤退する。かわりに、12年、有料コンテンツの新しいかたちとして「ブロマガ」が始まり、私も参戦した。

2010年10月、まずFoomii(フーミー)というサービスで有料メルマガを発行することになった。当時、メルマガには再び注目が当たるようになっていた。2000年代前半に市民メディアが台頭するも失敗。個人でニュースやコラムを発信したい人たちが、ニュースサイトによらずに発信したいという欲求も背景にあったと思われる。

2011年3月、私はBLOGOSの有料メルマガにも参加することにした。しばらくして、FoomiiをやめてBLOGOS一本に絞った。BLOGOSで書くものはニコニコと同じ内容でもよいとのことだったため、12年10月、私はニコニコでも有料のブロマガを始めた。当時、私は東日本大震災の被災地を取材していたが、発表する場が少ないことが悩みだった。二つの有料メルマガは、その発表の場として位置付けていた。

ニコニコチャンネルの有料ブロマガの記事一覧ページ。

ニコニコチャンネルの有料ブロマガの記事一覧ページ。

執筆意欲が減った三つの理由

しかし、三つの理由で私はその後、有料メルマガで書く意欲をなくしていく。

一つは、ネットのニュースサイトでの配信のほうが効果を期待できることがわかったからからだ。ニュースサイトにコラムを書くようになったのは、「News Cafe」(20〜40代の女性がメインターゲット、アクセスの80%が女性ユーザー)と、乗換案内の「ジョルダン」(20代、30代の会社員がメイン、7割が東京および関東のユーザー)が配信するニュースサイトが最初だ。これらは原稿料が出た。

「ジョルダンニュース!」の著者記事の例。

「ジョルダンニュース!」の著者記事の例。

「News Cafe」に書いたコラムは、InfoseekニュースやExciteニュース、OKmusic.jpでも配信される。多くのユーザーに情報を届けるとしたら、こちらのほうが届く。そこで震災情報を含めて、こちらでは意識的に「情報」を配信した(このコラムは現在も週1回配信されている)。一方、「ジョルダンニュース」では震災関連のコラムを書くことになった。「News Cafe」ほどのページビューはないが、メルマガよりも多くの人に届けられるからだ(こちらは昨年6月で連載が終了した)。

意欲低下のもう一つの理由は、有料メルマガには編集者がいないことだ。無料メルマガのときは商品ではないために、質の問題は考えなかった。先ほども書いたように、商品としての記事を書くための下書きやマーケティングの意味もあった。だが有料となれば、それなりの質を担保することを考えてしまう。私自身は、有料メルマガをひとつも読んでいない。どのあたりまでの満足度を求めればよいかは自分でも迷うところだ。

編集者は記事の質を向上させるための装置でもあるが、市場に商品を届ける役割もある。ライターよりも編集者のほうが、ビジネス的な観点が必要になる。もちろん、その両方の役割が一人でできる人は、有料メルマガでの成功者になりうるだろう。残念ながら、私にはその観点が欠けている。

私が有料メルマガを辞めた最大の理由は、読者があつまらないことだ。それなりの数の読者はいたが、3桁には届かなかった。以前、歌人・枡野浩一さんがメルマガを始める前に、相談されたことがあった。私はそのとき「有料で購読してくれるのは、ツイッターのフォロワーの100の1くらいではないか」と答えた。枡野さんは実際、そのくらいの読者を集めたようだ。だが、有料メルマガを仕事と考えると、読者が3桁に達しないようではものすごく安い原稿料になってしまう。

プロジェクトチームづくりから始める必要

では、自身が編集者的な面を持てばいいではないか、というかもしれない。ブロマガを発行する際、私はその観点も必要だと思い、何人かにコラムをお願いしていた。ただし、こちらも収入が安定しないため、無料で寄稿していただいた。そのせいもあって、執筆を催促することに遠慮がちになってしまった。読者が多く、潤沢な資金があれば、もっと強気に出られるのだが、当時の私にそれはできなかった。

今後、私がネットでコンテンツを有料配信するとしたら、きちんとしたプロジェクトチームをつくるところから始めるだろう。メディアアクティビスト・津田大介氏の「メディアの現場」、実業家・堀江貴文氏の「ブログでは言えない話」、お笑い芸人・水道橋博士氏の「水道橋博士のメルマ旬報」が成功例だ。

私も「まぐまぐ」で「週刊 石のスープ」というメルマガをフリーのライター3人で配信していたこともある。しかし、このときもきちんとした責任の分担をしていなかった。誰が編集長なのか。また、どんなメルマガにするのか話し合いが足りなかった。14年を最後に配信していない、

いま成功しているメルマガは、ネットである程度知名度があり、かつ、ファン層が「メルマガにお金を出していい」と思える「人寄せパンダ」を執筆陣に加えているところばかりだ。ビジネス戦略がこれまで以上に必要になるだろう。

もちろん、私だけでなく、いつかはこうした展開をしなければならないときがくる。再び挑戦するかもしれない。そのときはメンバーを募集するか、募集しているプロジェクトに参加するだろう。

それまで、有料メルマガはやりません。

対談「50年後の文芸はどうなっているのか?」
藤谷治✕藤井太洋

2016年5月2日
posted by E★エブリスタ

2016年3月5日、小説投稿サイトE★エブリスタ主催のイベント「2066年の文芸 第二夜」が、下北沢の本屋B&Bで行われました。「東京国際文芸フェスティバル」の一環として行われた同イベントでは、作家の藤井太洋さんと藤谷治さんをゲストにお招きし、「50年後の文芸はどうなっているのか?」という大きなテーマについてお話いただきました。今回はマガジン航の読者の皆さまに、その一部を抄録でお届けします。
(司会・構成:有田真代)

このイベントは東京国際文芸フェスティバルの一環として下北沢の本屋B&Bにて行われた。

このイベントは東京国際文芸フェスティバルの一環として下北沢の本屋B&Bにて行われた。

文学とテクノロジーの関係

藤谷 藤井さんのお仕事を拝見していると、「小松左京が現役だったら、きっとこういうことを率先してやっているだろうな」と思うことがあるんです。小松左京は当時、「一桁1万円」のキャッチフレーズで売りだされた12桁の卓上計算機をいちはやく購入したり、執筆にワープロを導入するのも早かった。最先端のテクノロジーをとにかくまず使ってみて面白がった人です。文学とテクノロジーのあいだには本当は密接な関係があるはずなんですが、僕にはまだ掴みきれていないところがあります。それが藤井さんにはどう見えているのか聞きたいです。

藤井 紙の上でやっていたことをデジタルに移行することで、恐ろしく消えている部分がいくつもあると思っています。たとえば、コンピュータって画面上で文章を消してしまうと、原稿の見た目、姿が変わってしまうじゃないですか? 冴えているときに書いたものを間違えて消してしまったとき、紙だと残りますけど、コンピュータだと取り返しがつかない。それを補うために、過去の履歴を細かく残せるScrivenerを執筆に使用したり、校正にInDesignを使用したり、いろいろなツールを使っています。

藤谷 僕の場合、「こう書けばスマートだ」と思いついたことも、ご飯を食べたら忘れちゃう(笑)。けど、それは永遠に忘れたままにしますね。僕自身はこれほど細かい内容を残したことはないので比較はできませんが、旧式の文学に対する考え方から言えば、「失われたものは永久に失われたと思ってやるべき」というところに、書いていくという営為、行いは鍛えられたと思っているんです。失ったものを拾うくらいだったら、必死こいて思い出すか、新たにそこにふさわしい一語を生み出すほかないと思うんだけど、もしかしたらそれは昔の体育で「水を飲むと弱くなる」と教えていたように、時代錯誤な考え方なんじゃないかと思うこともあります。本当はどちらなのかな。

藤井 私の場合、4年前まで小説を書いたことが一回もなくて、促成栽培のように長編を書いているので(笑)、経験が浅いゆえにいろいろな方法を試しているというのもあります。実際に書く経験を積んでいくにしたがって、過去から拾うことは少なくなってきましたね。書きはじめたときに書こうとしたことが間違って消えてしまってないか確認する作業は毎回欠かさずやっていますが、ようやく、昔のものを掘るよりもいま書いたほうがよくなるケースが増えてきてはいます。

藤谷 実際にこの書き方で、藤井さんは評価の高いものを出しているんですもんね。物書きって基本的に、「勝手にやっている」ものなんですよ。でも「勝手にやる」ことには終わりがあって、それは本が出たときです。本が出たあとは、世間がそれをどう見るかがとても気になる。なぜなら、自分がやったことが、時代や社会とどう切り結ぶかがわかってくるから。そう思うと、藤井さんの執筆方法の方が社会と触れていると思うんだけど、いま初めて見たばっかりだから、どう捉えていいかまだ分からない。

エゴイズムがあれば、文体は変わらない

――逆に藤谷さんが細かく変更履歴を残しながら執筆した場合、いま書かれているものとは様子の違う小説ができあがるのか、それとも最終的なアウトプットは変わらないのか、興味があります。

藤谷 でも、根本的な発想は作業には左右されないでしょ?「こういうものを書きたい」とか、「こういうものがテーマだ」ということについて、ツールが書き手に向かって要請してくることはありますか?

藤井 ないとは言えませんね。私が使っているScrivenerというツールでは章や節、シーンがしっかり分かれているものを書きたくなりがちだとは思います。細かい断章で完結していくような形にはなりますね。

藤谷 僕の文体が変わるとしたら、それは内容が違うからですよ。普段は手帳とかメモに一度手書きで書いたものをワープロで清書していくんですが、連載などで執筆が間に合わなくなってくると、清書しながら途中から続きを直接ワープロで書いていくんです。そうしても、手書きで書いた箇所とワープロで書いた箇所とで、内容や文体が変わったりはしないですね。

藤井 素晴らしい。

藤谷 それはもちろん僕が素晴らしいからなんだけど(笑)、それ以上に、小説ってエゴイズムで書くじゃないですか? エゴイズムがあれば、文体は変わらないのでは?

――それはエゴイズムなんですかね? 藤谷さんの中にあるエゴイズムというよりは、作品自体が持つ文体や世界観にドライブされて出てくるものなのでは?

藤谷 そうです、それと「エゴイズム」は同じ意味です。藤井さんだってそうなんじゃないの? 一つの小説が要請する文体というのがあって、それにしたがって書くわけだから、ツールで変わるわけではないんじゃないの?

藤井 当然、小説に要請される文章を書き出すようにはしていますが、私の場合は推敲の結果ですね。最後に出ていくときには、要請される文体になっている確信はありますが、その途中経過で片手で打ったり、音声入力したりしているときは、ツールごとの「揺れ」は確実にあります。

藤谷 二葉亭四迷の『浮雲』は、最初と最後で文体がまったく違っていて、未完なんですね。文体が変わってしまったから、どうしていいかわからなくなって未完なんだろうという説もあるんだけど、読んでいて統一感がないわけですよ。ところがその「統一感のなさ」が、物を書いている自分から見ればうらやましい魅力を持ってるんです。「統一」「全体のバランス」を考えていると、小説は生き生きしないんじゃないかという気が最近はすごくしていて。たとえば編集者や校閲から表記ゆれを指摘されても、漢字を統一することにできるだけ抵抗しています。「怖い」と「恐い」と「こわい」とか。藤井さんみたいにツールでがっしり作って考えていくと、「統一性による殺風景」みたいなものは生まれてこない?

藤井 あるでしょうね。出ると思います。

藤谷 そこをワイルドにいってみようとは思わないんですか? 推敲しないでみるとか。

藤井 あんまりそれはしないですね……最終的に、作品が出ていくときに生き生きしていればいいと思っています。

電子書籍の提案する読み方

藤井 漢字を統一することに抵抗するというお話がありましたが、電子書籍の時代になって、これからは読者が文章を読むスピードにあわせて、ソフトが漢字をひらいたりひらかなかったりするようになるかもしれないと思っています。

藤谷 そうなったら怒らない? 何のために漢字にしたの!? って。読む人のことなんか考えたら、読む人のためのものができないと思っちゃう。読む人は、見たことも聞いたこともないものに触れるつもりで、びっくりしてほしい。だからそこにソフトが出てきて、「今日はご精が出ますねー、この漢字はひらいてあげましょう」……冗談じゃないよ~! でもそうなりそうなんですか?

藤井 Kindleの英語版にはいま「Word Wise」という機能がありまして、難しい言い回しの上に、簡単な英語のルビがつくんです。英語読者はこれにより初めて「ルビ」というものを見て「何じゃこりゃ!」と、結構みんな驚いてるんですけど(笑)。実際使ってみるとよくできていて、スイスイ読んでるとWord Wiseが減って、モタモタ読んでるとまた増えてくる。難しい単語だけでなく、熟語や言い回しにも言い換えがつくので、結構ためになるんですよ。いま『アンクル・トムの小屋』を読んでいるんですが、時代も時代だし、聖書の引用なども山のように入っているので、さすがに難しくて、Word Wiseを拾いながら読んでます。たかだか百数十年前の小説でもこういった機能が必要になっちゃうんだなと思うと、これからはルビが増えたりはすると思いますね。

藤谷 でもそれは注釈ですもんね。辞書を引くのと同じことをKindleがしてくれているということですね。

藤井 現時点ではそうです。導入としてはおもしろいと思うんですけど、これが行き着く果てはどうなるんだろう? と。10年20年で大きく変わるとは思いませんが、50年後はかなり変わっていくと思う。

――一部のスマホ小説ではLINEのチャット画面のように、登場人物の顔のアイコンとふきだしで会話文が表現されます。これもある種の「読みやすさ」を追求した結果ですね。

藤谷 じゃあ読んでいる人は、登場人物をイラストでイメージするんだ。ラノベなんかはすでにそうだもんね。でも、みんなはあれでいいの? 自分の頭の中で、登場人物を近所の可愛い子に当てはめたりはしないの?(笑)

藤井 ふきだしを使うオンライン小説では、会話文から役割語が追い出されているものを見ることがあるんですよ。会話が平板でもイラストのアイコンでキャラ分けができちゃうからなのですが、現実の会話にものすごく近い。たとえば男女の役割言葉がなくても、女性男性どちらが話しているかはっきりわかる。それは評価したいな。ふきだしは嫌ですが。

藤谷 根本的に、文章がビジュアル的なイメージに依存するのはどう思う?

藤井 私はあんまり好きじゃないですけどね。

藤谷 小説を読んでる人間にとって、アンナ・カレーニナという人は、誰にとっても存在しないわけですよ。そこがいいんじゃない!

Web小説は現代の『三銃士』?

藤谷 「2066年の文芸」という話でいくと、今後はあまり頭を使わないで読んでいけちゃう小説が求められるようになるのか、昔ながらの古色蒼然とした、イメージは読者が作っていく小説が残っていくのか、どうなると思いますか? テクノロジーの進化の観点から。

藤井 読まれ方の違いで一番大きく変わるのは、終わらない作品が、より増えることだと思います。デビュー作が代表作で100巻以上あるというようなもの。そんな作品と「ここからここまでですよ」とパッケージで完結する作品で分かれていくと思いますね。読む側も、映画とテレビドラマのようにそれぞれ分けて消費するんじゃないかなと。

藤谷 でもそれって、19世紀の小説と同じですよね。ざっくりとした小説の歴史でいうと、ユーゴーやデュマが19世紀にグツグツグツグツ『レ・ミゼラブル』や『三銃士』を、もういつまで経っても『三銃士』! みたいに書いているのに対抗して、フローベールらが簡潔な小説を書くようになった。それに影響を受けて、1920年代から30年代にかけて、ヘミングウェイとかアメリカのハードボイルド作家が出てきて……と、小説は長くなったり短くなったりしている。その繰り返しの中で、また『三銃士』に戻るということ?

藤井 そういう作家がこれからまた生まれてくると思います。スマートフォンで読まれる、横書きで吹き出しがつくスタイルの小説では、そういう終わらない話が「小説」として認識されていくのではないかと。

藤谷 でもそれはやっぱり『三銃士』と一緒ですよね。そこまで新しい感じはしない。「Kindleじゃないとできない話」とか、「スマホとか電子書籍の上でだけ起こっていること」があれば面白いと思うんですが、僕が岡目八目で見るかぎり、まだあまりない気がしていて。携帯小説から『三銃士』くらい面白いものが出てきたらいいですけど、その辺りはどうですかね?

――Webでの連載小説が紙と一番違うのは、公開したらすぐにコメントがつくことですかね。週刊漫画誌の連載のように、読者の反応に合わせて展開を微調整していく人もいます。

藤谷 藤井さんにもそういう経験があるんですか?

藤井 私はまだ連載の経験が少ないのですが、反応を見て内容を変えるということはないですね。何を書くか決めてから書くので。

藤谷 藤井さんがやったセルフパブリッシングと、小説投稿サイトとはまた違いますよね。そこが藤井さんに「勝手にやる」という、小説家としての資質があったところだと思う。小説投稿サイトにいる人に僕がちょっと首を傾げちゃうのは、小説の基本は「勝手にやる」ことなのに、何で群れるの? という点なんです。もちろん、書いている人たちに群れているつもりはないと思います。自分の作品を書いて、反応が良ければ嬉しいと原理的には思うんだけど、絶対そこには何らかの「空気」があるはずだとも思うんです。たとえば僕が「小説家になろう」に匿名で投稿したら、「なろう系」の小説じゃないし、どう受け取られるかはわからない。けど、僕は自分が書いてきたものが間違っているとは思わない。

「幸運」は優れた作品の必須条件

――小説投稿サイトの作家は、必ずしも全員がプロ志向ではないところが面白い点だと思います。エブリスタの場合は作品の販売もできるので、会社員や主婦の方が月に数万円だけ稼いだり、プチ作家、日曜作家的な人がいっぱいいるんですね。

藤谷 ディレッタントが生まれる土壌が日本の文学史にはなかったので、それができたのはいいことですね。ジュリアン・グラックが書いた『シルトの岸辺』という、本当に素晴らしい小説があるんですが、もしグラックが日本の出版状況にいたら、これは読者に届いてないと思う。フランスには、ディレッタントが小さな出版社から1,000部の本を出して、本屋もその1,000部をいつまでも売ってくれるというシステムがあるから、この小説は僕の手にも届いたわけです。そういうことをネットが担っているとしたら素晴らしい。ジュリアン・グラックがネットから現れるには、まだ時間がかかると思いますけどね。

藤井 小説投稿サイトの場合、参加している人が多いので、名作があっても埋もれてしまうのが一番つらいところですね。「カクヨム」がオープンしたときに40本くらい読んでみて、なかには面白い作品もあったんですが、ランキングから見るに読んだ人は私を含めて5人くらいじゃないかと。数が増えてくると、今度は見つからなくなる問題がある。

藤谷 藤井さんはなぜ何万人もいるネット上の小説家の中から、プロになれたんだと思いますか?

藤井 私が小説を書こうと思ったのが2011年の冬、『Gene Mapper -core-』が書き上がったのが2012年の春。たまたまKoboが日本にきたのが2012年7月、Kindleが10月だったんです。当時電子書籍で売られていたSF作品はほぼ全部旧作で、そこにピカピカの新作をねじ込めたのが大きかったですね。これがもう一年早くても、もう一年遅くてもデビューできたか分かりませんし、仮にデビューできていたとしても、時期はもう少し遅れていたかもしれません。

藤谷 作品が優れていたことは前提として、それを拾い上げるツールとして電子書籍のプラットフォームが機能したという良いケースですね。

藤井 それは本当にたくさんの幸運をもらったと思いますね。

藤谷 商業出版の世界でも、小説の数が増えて埋もれてしまう現象はありますが、僕は自分自身の境遇も含めて同情しません。「優れた作品である」ことの指標のひとつとして、もちろん「良い作品である」というのとは別の次元で、「運がいい」というのがあるんです。小説家になるにも幸運は必要だし、書いたものが読まれるのにも幸運が必要で、それは作品の内容とは一切関係がない。だって『シルトの岸辺』、みんな知らないでしょ? けれどナボコフの『ロリータ』はみんなが知っている。それは『ロリータ』という小説が幸運だったからです。

藤井 いま「エブリスタ」や「なろう」や「カクヨム」で書いている人の中から、デュマみたいに立ち上がってくる人がいないと私は思わないので、面白い作品を見つけたら広めたいなと思っています。やはり誰かが褒めて、拾い上げないと作品は浮き上がってこない。レビューをするスタイルが生まれると、日本の文学界も変わっていくと思います。

AIが書いた小説は運を掴めるか?

藤井 星新一さんの小説のプロットを分解して、人工知能(AI)に星さんのような小説を書かせるプロジェクトがいま行われています。AI作家は幸運をつかめるでしょうか? 執筆の途中経過にはまだまだプロの手がかかっているので、大変そうなんですが。

藤谷 それはコンピュータが書いた小説に、人間が赤字を入れるということですか?

藤井 その逆ですね。筋立てや、「登場人物は二人の場合と三人の場合がある」「二人の場合はこういう関係性のバリエーションがある」「こういう発明品がある」「こういう発明品だと結末はこういうパターンになる」……というパラメータを与えて、コンピュータが文章を出力するんです。

藤谷 もうコンピュータが小説を書いてるわけですね。その小説、面白かったですか?

藤井 星新一さんの1,000編の中に混ぜられると、私は気付かないでしょうね。いまはショートショートですが、今後長くなる可能性も十分あるのではないでしょうか。開発者は必死で頑張っていると思う。はたして、そうやって書かれたものは運をつかめるのか? と考えると、面白い問いだと思います。

藤谷 そのとき、人間のエゴイズムが問われますね。でもそうなってくると、さっきおっしゃった「終わらない小説」のほうがAI作家には向いてそうですね。

藤井 ショートショートのほうが難しいんじゃないかという気はします。いくらつけたしても構わないし、いままで書いたことを捨ててもいい、終わらないスタイルの小説が「エブリスタ」「なろう」「カクヨム」などのプラットフォームに上げられ、読者のフィードバックを受けながらひたすら続いていくというのはあり得ますね。

藤谷 正直に言うと、自分の本を買ってくれる人の割合は少しでも上がってほしいので、ネットや、ましてAIから優れた作家が現れたらどうしようという気持ちもあるんですが。

藤井 でも小説ってそこまで食い合いにならないですよ。私は小説家になる前はソフトウェアを売っていたんですが、ソフトってひとつ売れちゃうと、ほかのソフトは売れないんですよ。アンチウィルスソフトってひとつしか要らないじゃないですか? でも小説はテーマが被っていても、同じ人が何作も買ってくれますよね。たとえば維新ものだと、登場人物がほぼ100%同じなのにも関わらず、維新ものだけを何十冊も読む人がいる。

藤谷 それでいうと、「SF」とか「時代小説」はジャンルの中に入るでしょ? 自分はジャンルに入る小説をめったに書かないから、「このジャンルを読もう」という人が買ってくれないんです。ガチガチの密室ものでも書こうかな……(笑)。でも僕はそこも、骨の髄までエゴイストなの。「ジャンル」っていうもの自体に、もう抵抗を感じてしまう。

藤井 ジャンルはたしかに強いですよ。ジャンルはいいです(笑)。

2066年の文芸

藤井 あと、小説書く人って読むんですよね。私も経験上、書くようになってから読む量が桁違いに増えました。昨年、『NOVA+ 屍者たちの帝国』という、『屍者の帝国』の二次創作をプロがやる大森望さん企画のアンソロジーに参加したんですが、感想を検索していたら、Webで作品を書いている人が結構読んでいて。書く人って絶対に本気で読む人にも転換していくので、どんどん皆さん書き始めてほしいです。

藤谷 じゃあ藤井さんは、これからの小説、文芸のありかたについてはあまり悲観していない?

藤井 全然ないですね。ただ、人口が減っていくと読者は減ってしまうので、英語版をどんどん出していきたいというのはあります。

藤谷 去年、「新刊小説の滅亡」という小説を書きました。主要な商業出版社が軒並み新刊小説を一切出さなくなるというスペキュレイティブ・フィクションで、それを書いてからいろいろ気持ちも変転したんだけど、「書いていく」こと自体に大きな変化はないだろうと思うんです。変わるのは「書かせる環境」ですよね。「商業的な文芸出版は残るだろうか」という意味での50年後はどう思いますか?

藤井 「新刊の刷り部数がかなり減っている」という話はずっとありますが、インクジェットを使ったオンデマンド本になると500部くらいからできるので、そうなったら商業的に今の文芸を支えているボリュームが残るかは心配ですね。ただ、全体のボリュームは下がっても、トップセラーが売る数は変わらないじゃないかなと思います。ロングテールの傾きがもっと急になると思う。

藤谷 流通形態そのものの変化についてはどう思いますか? 出版社→取次→書店という流通の流れや、再販制度が変わると、本が本屋や読者に届くまでに、予想がつかない変化が起こりそうですが。

藤井 日本に限って言えば、50年経つと地方自治体の三割は人口減でなくなるはずなので、逆に書店が残るくらいの都市部じゃないと暮らしていけないと思います。かつて奄美大島には12軒の書店があったんですが、今は4軒で、その内のひとつがTSUTAYAです。残りの3軒は学校の教科書を卸すような本屋さんで、皆さんTSUTAYAでしか本は買わない。県庁所在地から離れた場所から次第にそうなっていくと思います。逆に、人が住んでいる場所には必ず本屋があるという現象が起こるのではないかと。

藤谷 東京や大阪の大都市か、マッドマックスかみたいな世界になるわけだ(笑)。そうなると、文芸出版の世界の規模が適正になるかもしれないですね。本当なら文芸出版なんて5、6人いればできるはずなので、今はどう考えても出版社がでかすぎる。雑誌が出版を支えていた時代もありましたが、今は逆転しつつあるので、大変革は起きる。そうすると、文芸の世界はやりやすくなるかもしれません。

左が藤谷治さん、右が藤井大洋さん。

左が藤谷治さん、右が藤井太洋さん。

【登壇者プロフィール】
藤井 太洋
小説家。表紙のデザインから広告まで自身で手掛けた電子書籍『Gene Mapper -core-』が、2012年Kindle本年間ランキングで文芸部門1位にランクイン。翌年、同作を改訂した『Gene Mapper -full build-』(早川書房)でデビュー。2014年『オービタル・クラウド』(早川書房)で日本SF大賞、星雲賞を受賞。
藤井太洋さんの小説「不滅のコイル」の試し読みはこちら

藤谷 治
小説家。1998年にオープンした下北沢の書店「フィクショネス」経営のかたわら創作を続け、2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館)でデビュー。2013年『船に乗れ!』(ポプラ社)がアトリエ・ダンカンプロデュースで舞台化。2014年『世界でいちばん美しい』で織田作之助賞受賞。
藤谷治さんの小説『おがたQ、という女』の試し読みはこちら