第1回 ブックオフという「図書館」の登場

2019年2月14日
posted by 谷頭 和希

二種類の「古本屋」から考える

突然だけれど、「古本屋」といわれたとき、あなたの頭にはどういった風景が思い浮かぶだろうか。

薄暗く狭い店内にぎっちりと本が重ねられ、店の奥ではこわそうな店主のおやじがぶすっとした顔で座っている――

あるいはこうだろうか?

蛍光灯で明るく照らされた店内にはぴっしりと本が並べられ、そこかしこにいる制服を着た店員がにっこりとした顔で呼び込みをしている――

多くの人にはこの二つの光景のどちらかが思い浮かんでいるのではないだろうか。まったく異なるこの二つの古本屋は、そっくりそのまま「ブックオフ以前」と「ブックオフ以後」の古本屋に対応している。日本を代表する古本屋チェーンである「ブックオフ」。「新古書店」ともよばれる矛盾した呼び名があるその古本屋は、それほどまでに日本の古本をめぐる風景を変え、そしてそれは古本の風景だけではなく、本そのものをめぐる風景をも変えたのだ。

どういうことか。

ブックオフのいきおいが増してくる過程においてはそのビジネスモデルを絶賛して称揚する論調と、一方でとても激しい拒否反応が示されるという正反対の動きが起こっていた。

例えば大塚桂一『ブックオフ革命』(データハウス、1994)はこのあたらしい販売モデル(これについてはあとではなそう)を「革命」と呼び称賛したのに対して、小田光雄の『ブックオフと出版業界 ブックオフ・ビジネスの実像』(論創社、2008)ではほとんど怒りにも近い筆致でブックオフが出版界に巻き起こした変化への批判がつづられている。

でも「90年代はブックオフの時代だった」と小田がこの本で認めているとおり、それを否定的に語るにしても、あるいは肯定的に語るにしても、ぼくたちと本を取り巻く風景に「ブックオフ」が欠かせないものになっているということは認めざるをえない事実である。

だからこそ、この文章でぼくはブックオフについて賛成とか反対とかいった意見表明をこえて、ブックオフについてかんがえてみたい。ブックオフ以降、それがどのような風景をぼくたちに見せてくれていて、そしてぼくたちと本をめぐる風景をどのように変えたのか、そしていかなる可能性をそのうちに秘めているのか。

新しいタイプの「図書館」としてのブックオフ

ブックオフは1990年に営業を開始し、それまでの古本屋の概念を大きく打ち破る経営体制を取りながら90年代から現在に至るまで爆発的にその店舗の数をふやしてきた。

ブックオフの新しさの一つは古本の値段設定とその価格を決める方法にあった。従来の古本屋は本に精通した店主がじっくりと一冊一冊を手に取り、中身を見て、その総合的な観点から値段が決められた。一方、ブックオフでは、古本の価格をつかさどるのは「見た目のきれいさ」と「本の新しさ」というわかりやすい基準のみ。いかにそれが古典の名著だったとしても、あるいは著者のサインが入っていようともあまり見た目が良くなければ、あるいはそれがふるい時代に印刷されたものであれば売値は最低価格の100円。買い取りのときの値段は10円程度にしかならない。「価格破壊」ともいわれたその値段設定は現在まで続き、「定価の半額以下」の値段でさまざまな本がブックオフの中にはひそんでいる。

ブックオフはすでに一種の「図書館」として機能している。

こうした極端ともいえる経営方針に対しては、もちろんのことながら「本の価値を軽視している」とか「新刊書店を苦しめている」といった辛辣な批判が寄せられた。前述した『ブックオフと出版業界』を執筆した小田光雄もきわめて手厳しくブックオフを批判しており、それはほとんど悪口のようでさえある。しかしここではあんまり感情的になりすぎず、その批判をいったんカッコに入れて、裏側から事態を見てみよう。つまり、考えようによっては、ブックオフのおかげでぼくたちは最低100円という値段で古典から比較的新しい本までをも読めるようになったのである。

いうなれば、ブックオフとは新しいタイプの「図書館」であるとは考えられないだろうか。

もちろん、ブックオフは商業施設であり、金銭を支払わなければそこで商品は買えない。すなわち図書館の無料原則の埒外にある。でも、その「利用」料金は限りなく低い。そしてこれは「業界」的に見れば全くうれしいことではなく、その観点からブックオフや図書館は否定形で語られてきたわけだ。

だがあくまでも私は一消費者としての目線から考えてみたいのだ。一消費者からすれば本が安いのはとてもうれしいことだ。それに安ければ多くの人がそこで本を買うことができる。そうした観点からみればブックオフとはだれもがその中に入ることを許され、そこでの立ち読みまでが許された(ブックオフの特徴の一つとして「立ち読み」を公然と許可したことがある)図書館のようであり、それを実現しているのではないか。

それだけではない。ブックオフが「安さ」を通じて、本と私たちをめぐる出会いを広げる可能性もあることを示唆しておこう。

例えば中高生や大学生など、日常的にいろいろな文章の断片に触れる機会の多い人たちがいる。そんな彼らがその断片から少し気になった名作やら古典を読んでみたいと思ったとき、ブックオフではきわめて高い確率でそれが最低100円で手に入る。幸いなことに、そうした作品は多く出回っているから安い可能性が高いのだ。

ここに本来は出会わなかったかもしれない人と本が「安さ」によって結びつくきっかけがある。こうしたプラスの観点からもブックオフを語ることができるのではないか。

こうしたブックオフの図書館的な側面を、ぼくは「ブックオフの公共圏」と呼んでみたい。公共圏とはプライベートな空間に対する公の空間圏域のことをしめす。ブックオフは図書館や昔の古本屋が作り上げてきた人が集まる場所としての役割をまたことなる現代的な方法で出現させているのではないか、そしてそれは、いままでの「公共」という概念ではとらえきれないような公共空間なのではないか、というのがぼくの推論である。

最初に思い浮かべてもらった古本屋のうち、「ブックオフ以前」、つまり昔ながらの古本屋について書かれた書籍では古本屋をめぐる人間関係や地域とのかかわり、そこで生み出される濃縮な人間模様が称揚されることが多い。試しにネット通販サイトのAmazon.comで「古本屋」と検索してみると、こんな本が出てきた。

  • 高橋輝次編『古本屋の来客簿 店主たちの人間観察』(燃焼社、1997年)
  • 中山信如『古本屋おやじ―観た、読んだ、書いた』(筑摩書房、2002年)
  • 樽見博『古本愛』(平凡社、2008年)

タイトルには「人間観察」や「おやじ」、「愛」といった人間味・人情味があふれる単語がならんでいて、ひとたび中を開いてみればこの手の単語がもっとたくさん出てくる……。

もちろんこうしたタイプの古書店を否定するつもりはないのだけれど、その言葉にはどことなくノスタルジックな雰囲気が漂っている。そこでは本の内容や質的価値を通じて人々が集まり、独特の公共空間が形成されていることが述べられる。でもブックオフではこの「内容や質的価値」という部分がそっくりそのまま「安さ」にスライドする。「安さ」にひかれてそこには人があつまってくる。そこで生み出される特殊な公共圏。それをブックオフの公共圏と呼んでみたいのだ。

ではブックオフの公共圏は図書館や古いタイプの古本屋にくらべていかなる特徴をもち、どのような公共圏を描き出しているのか。次回からはその輪郭を少しずつ探ってみることにしよう。

(続く)

執筆者紹介

谷頭 和希
ライター。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業後、早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。デイリーポータルZ、オモコロ、サンポーなどのウェブメディアにチェーンストア、テーマパーク、都市についての原稿を執筆。2022年2月に初の著書『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)を発表。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。2017年から2018年に「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。