アマゾンの出版エコシステムは完成に向かう

2014年10月17日
posted by 大原ケイ

今年もフランクフルトでのブックフェアが滞りなく終わったが、ヨーロッパでも書籍業界の人たちは出版社に対するアマゾンのやり方を支持するか、反対するかに二分されている印象だ。アメリカで起きているアシェットとのバトルに呼応するかのように、アマゾンがドイツでもボニエール社に対し、同じような措置を取ったことを受けて著者団体が結束して抗議声明を出すなど、攻防喧しい(詳細はこの記事あたりを参照)。

そしてブックフェア開幕当日に、アマゾンはドイツでも「キンドル・アンリミテッド(定額読み放題サービス)」を始めた(この記事も参照のこと)。書籍は定価販売で他国と比べても高く感じるドイツの書籍市場でどこまで加入者を確保できるかが注目される。

そして本国ではアマゾンがスポンサーになる形で、似て非なる二つの新サービスが始まる。拙ブログでも言及したが、これはアマゾンが考える新しい出版エコシステムの一端と捉えていいだろう。

さまざまな「クラウド出版」のしくみ

その一つは、実験的に自己出版を試みようというユーザーが自らの作品を試すラボとして作られたWriteOn(ライト・オン)。今のところ、過去にKDPで著作を出したことがある人にパスコード付きのメールが送られ、アマゾンからの招待がなければ覗けないようになっている。つまりはまだベータ仕様。実はもう夏辺りからずっとやっていたらしく、あのアマゾンがよく今までマスコミや出版業界関係者にバレないようにできたものだと少し感心したり。

ライトオンは現在はベータ版。招待された人しかログインできない。

ユーザーは、例えばこんなことについて本を書きたいと思ったことや、こういう本があったら売れるんじゃないの?というアイディアをぶつけてみたり、書いた文章の一部を載せて添削してもらうこともできる。単なる思いつきの段階でも、下書きの状態でも、クラウドで評価してもらえるところがミソ。

既に公開されているものを見たところでは、色々とアドバイスが付いたり、細かい句読点の位置まで直されているものもあるが、まだまだ作品の点数は少ないようだ。

とりあえず、ここまでの段階では、お金は動かない。すべてフリーのサービスということだ。この先アマゾンがこれをどうマネタイズしていくのか、ここから売り物になる本が見つけ出せればいいと考えているのかはわからないが。

だが、この「クラウド出版」が画期的かというと、そうでもない。

文章を書く人はだいたいみんな本をよく読む人だろうし、みんなで編集していこうよ、という試みはリチャード・ナッシュが5年も前に「カーソル(Cursor)」というサイトを立ち上げて、すでに始めている(Cursorについて詳しく報じた記事はこちら)。

カーソルは2009に立ち上げられた「クラウド出版」のコミュニティ。

こちらは「クラウド」というより、共同作業の仲間を「ピア(peer)」と呼び、なるべく信頼の置けるプロの編集者、プロの著者を集めてやらなければ意味がないとし、招待オンリーのクローズされた環境で始められた。クラウドのQ&Aサービスに喩えるなら、庶民的な「Yahoo!知恵袋」よりも、洗練された「Quora」に近いという印象だ。

ワットバッドはFacebookのアカウントでもログインできる。

他にも、アマゾンの新サービスのニュースを聞いて、みんなが思い浮かべるものとして、「ワットパッド(Wattpad)」というコミュニティーがある。こちらもアマゾンやKoboが始めるずっと前から自著をアップロードできる自己出版サイト&コミュニティーとして定着し、本国カナダ、アメリカ、イギリスなどの英語圏のみならず、フィリピンやアラブ首長国でも展開され、今や毎月3500万人のユニークアクセスがあり、毎日1000もの新しいコンテンツがアップロードされているという。

ワットパッドはあちこちからベンチャー資金を調達しているし、昨年はマーガレット・アトウッドを巻き込んだ詩歌創作コンテストをやったりと、かなりバラエティーに富んだ自己出版体験ができる。スマホ用のアプリのUIがシンプルなので使い勝手がいいらしく、日常的にアクセスするユーザーも多い。グーテンベルク・プロジェクトの電子書籍アーカイブにもアクセスできて、探せば色々と使えそうなコンテンツに行き当たるあたりが、読み放題サービスとして変容しつつある「スクリブド」を連想させる。

後はどれだけクラウドの質とアクセスを上げていけるか、というところである。

アマゾン出版はジャンル小説でクラウドを利用

これとは別に、(下書きではなく)完成した未刊行作品がアマゾン出版(Amazon Publishing)から出すに値するものかどうかを、アマゾンのアカウントをもつユーザーが評価するコミュニティー、「キンドル・スカウト(Kindle Scout)」も準備中だ(作品の募集はすでに開始)。募集ジャンルはロマンス、ミステリー/スリラー、SF/ファンタジーで、作家の側は作品の一部をサンプルとして公開し、どれを全編読みたいかをユーザー(読者)が投票する、というシステムになっている。

いまや「出版社」でもあるアマゾンはクラウドを利用して作家を発掘。

そこで一定の評価が得られれば、アマゾン出版からEブックとオーディオブックが出て、印税は実売の50%、1500ドルのアドバンス(印税の前払い)で5年契約となる。 紙バージョンの権利については著者に残され、自由に他の出版社に持ち込むことができる。

KDPと同じく、アマゾンが売るときの条件を有利にするための細かい拘束があって、原稿の長さは5万ワード前後、そのうち3000ワードほどをサンプルとしてアップし、一定期間はEブックはキンドルのみでしか販売できない。

アマゾン側はプラットフォームを提供するだけなので、作家の側が自分で考えたウリ文句や、あらすじ紹介、著者プロフィールと写真などを用意する。

とりあえずアマゾンは、ラリー・カーシュバウムという業界のベテラン編集者を引き抜き、多額のアドバンスを張ってオークションでエージェントから企画を勝ち取り、紙も電子も同時に出していく、という既存の出版方法は放棄したようだ(カーシュバウムとアマゾン出版についてはこの記事も参照のこと)。

つまり、これまでのアルゴリズム出版をプロアクティブにしたのがこの二つのサービス……なんて書くと横文字ばかり使いやがって……と怒られそうだが、日本ではこんな風に新しいことを新しいやり方でやっているところもないので、それにピッタリの訳語もないのだからしょうがないのである。

言い換えれば、既存の出版社が物書きのプロを育て、プロの仕事としての「本」を売るシステムだとしたら、アマゾンはアマチュアの物書きによるパラダイム構築を進めつつあると言うことだ。

英国のエコノミスト誌が発表した電子書籍形式の記事。

エコノミスト誌が電子ミニブックとして公開した「本の未来(The future of the book)」によると、アマゾンを通した自己出版の売上げは既に昨年で4億5000万ドルに達しているとも、あるいはそれ以上だとも言われている。そしてこの数字は今後も飛躍的に成長していくだろう。

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電子コミックの未来はどこに?

2014年10月15日
posted by 中野晴行

今年は6月に講談社の月刊マンガ誌「少年ライバル」、秋田書店の老舗青年コミック誌「プレイコミック」が休刊。9月には小学館の月刊マンガ誌「IKKI」、集英社の同じく「ジャンプ改」と大手出版社のマンガ誌で休刊が相次いでいる。いずれも販売部数的には苦戦してきたが、個性的な作品を数多く連載し、それらの単行本の売上で雑誌の赤字をカバーしてきた雑誌だ。単行本が雑誌の赤字をカバーしきれなくなった、とすれば、マンガ不況を象徴するような事態である。

2014年は紙から電子への転換点

紙のマンガ出版が苦しんでいる一方で、勢いがあるのが電子コミックだ。

2014年8月、NHN PlayArtが運営するスマートフォン向け無料コミック配信サービス「comico」の人気作品『ReLIFE』(作画・宵待草)の単行本がアース・スター エンタテイメントから発売され、たちまち10万部を超えて話題になった。電子コミックといえば、電子書籍端末やタブレット端末で読むことが一般に想定されているが、2013年秋にスタートした「comico」はスマートフォンに特化したサービスでオールカラー。小さな画面でも読みやすいように縦スクロールで読むスタイルになっているのが特長だ。作品はプロ契約をしたアマチュア作家による公式作品のほかに、読者投稿によるチャレンジ作品、ベストチャレンジ作品があって、『ReLIFE』は公式作品のひとつ。何をやってもダメな27歳の男が、1年間だけ高校生に戻るというファンタジック・コメディである。

これまでのマンガ作品は、人気雑誌に連載されたものが単行本化されるというパターンでないとなかなか売れない、とされてきた。雑誌で周知されることが前宣伝になっているわけだ。「comico」はアプリのダウンロード数300万(2014年6月現在)とは言いながら、紙とは全く別の世界で読まれている電子雑誌だ。その読者が、果たして紙の単行本を買うのかどうか? 7月に単行本発売のニュースを聞いたときから、私としては「あまり期待できないのではないか」と想像していたのだが、見事に杞憂に終わってしまったのである。

マンガ作品の供給源が、これまでの紙のマンガ雑誌から、電子雑誌に移っていく、ひとつの転換点になるのかもしれない。そんなことさえ考えさせられたのだ。

今後は、大手出版社も本気で電子コミックをどう展開していくのかを考えなくてはならなくなるだろう。もちろん各社とも取り組んで入るのだろうが、そのスピードを上げなければ生き残れない。まさに正念場なのである。

携帯コミックから離陸した電子コミック

「携帯電子端末でダウンロードしたマンガを読む」というスタイルの電子コミックが登場したのは、2003年11月。当時、凸版印刷の事業部門だったビットウェイ(現在の出版デジタル機構)がKDDI(au)の第3世代携帯電話向けにコミック配信をしたことにはじまる。フィーチャー・フォンの小さな液晶モニターに対応させるために、マンガのコマを切り分けて読ませるというビュワーも開発して、これが携帯コミックと呼ばれる新しい電子コミックのスタイルを生み出した。

2004年8月にはNTT西日本系のコンテンツ配信会社・NTTソルマーレが「コミックi」のサービスを、翌05年5月には「コミック・シーモア」のサービスを開始して、携帯電話で読む電子コミック、つまり携帯コミックが定着する。

携帯コミックは第3世代(3G)機の普及とパケット定額制によって読者を増やした。また、電話の利用料に乗せてコンテンツの利用料を徴収するキャリア課金は、配信元にとっての利便性を上げた。カード決済やプリペイドカードによる決済よりも、簡便で確実な売上回収ができたのである。

当時の携帯電話がほとんどの国民が持っている電子端末だったことも幸いした。わざわざ専用の端末を買わなくても、いつも使っているケータイでマンガが読めるのだから。

一般に、「日本の電子書籍はアメリカに比べて10年遅れている」と言われてきたが、コミックに関して言えば、アメリカに先んじていたことになる。

携帯コミックはマンガを読むスタイルも変えた。よく読まれているのはお馴染みの少年マンガや青年マンガ、少女マンガではなく、男同士の性愛を描くB.L.(ボーイズラブ)や少年少女の性愛を描くT.L.(ティーンズラブ)と呼ばれる作品。描き手は同人誌作家と呼ばれる人たち。読者は女性が多く、ダウンロードが集中するのは深夜12時から2時。書店に行かなくてもダウンロードして読める、ということが新たな読書スタイルにつながったのだ。

2005年に46億円だった携帯コミックの市場は2009年には513億円を突破する。

実を言うとこの頃、日本のメディアや研究者、評論家たちはこの現象に冷ややかだった。「これは電子書籍ではない」というのである。マンガに対して「文字よりも一段下のもの」という捉え方をするのは、知識層の伝統なのかもしれないが、それなりにマンガに理解を示している人たちも、読まれているのがB.L.やT.L.というジャンルの作品であることをあげて、アメリカの電子書籍市場とは別物である、としてきたのだ。

私もこの時期、イーブック・ジャパンのメルマガに連載しているコラム『まんがの「しくみ」』などで「B.L.やT.L.ばかりでは市場は頭打ちになる。ここからごく普通の人たちが読みたくなる作品を充実させることが必要になる」と書いている。「ほらごらんよ、同じ穴のムジナじゃないか」という声も聞こえそうだが、私は、携帯コミックを否定したのではない。ユーザーを広げよう。市場に普遍性を持たせる工夫をしよう、と言いたかっただけだ。

新メディアはスケベとともに

これは単なる俗説だが、日本でテレビが普及した最初のきっかけはマリリン・モンローが来日したから、という説がある。ジョー・ディマジオとともに日本にやってきた彼女が、記者会見のときにふと足を組みかえた。そのとき、スカートの中がテレビに映った、というのだ。それで世の男たちがあわててテレビを買いに走った、というのだが、どうだろう。一般に言われる皇太子御成婚と東京オリンピックがテレビの普及をうながしたというのが本当のところだろうが、モンロー説もなんとなく捨てがたい。

家庭用のビデオデッキの普及にはアダルトビデオが寄与したという話もある。販売店がお父さんのために1本プレゼントするサービスを始めたところ売れ行きが伸びたというのだが、その結果何台売れたのかというデータは残っていない。アメリカのCES(コンシューマー・エレクトリック・ショー)のお隣の会場では、アメリカ最大のポルノコンテンツの見本市(AVN)があるという話もある。行ったことはないが、これは本当らしい。

とどのつまり、スケベな衝動は人を新しいメディアに向かわせる力を持つということだろう。B.L.やT.L.がその役目を果たしたのであれば、そこをとっかかりにしてメディアをさらに普及させればいい。そのときには、エッチなコンテンツだけではだめで、エッチはエッチとして置いておいて、子どもたちや家族が楽しめるコンテンツを増やすことが大切だ。これがうまく行けば、メディアはテレビやビデオのように生活の一部となることができる。

何もアメリカの電子書籍市場ばかりがスタンダードというわけでもあるまいし、このままコンテンツの幅を広げながら日本独自の電子書籍市場が生まれればいい。マンガがその牽引車になればいい。あとにも書くが、マンガは文字と比較してデジタルとの親和性が高い。マンガで市場を拡大しておいて、文字もデジタルにふさわしいものは電子書籍で読むというのが自然な流れだと考えたのだ。

しかし、この目論見は、2011年度(2012年3月末)に崩れる。電子コミック市場が頭打ちになったのだ。ユーザーの携帯電話(フィーチャーフォン)からスマートフォンへのシフトが予想以上に早かったことが原因である。先にも書いたように、携帯電話は当時誰もが持っている携帯端末だった。小さなモニター画面だが本を読むことにも使える。コマ単位で切り分けられるマンガにはちょうど良い電子書籍端末だった。

紙と電子は10年以内に逆転

アップルの社の多機能のスマートフォン、iPhone 3Gが日本国内で発売されたのは、2008年6月である。しかし、キャリアがソフトバンク1社だったこともあって、それまでの携帯電話の市場は当面安泰だと考えられていた。携帯配信各社もスマートフォン向けを意識しながらも、携帯コミックが中心という姿勢を崩さなかった。携帯コミックは利益を生んでいたのだから、あえて乗り換えることはない。むしろ、積極的にiPhone向けのマンガ配信を進めたのは、イーブック・ジャパンなど、PC向けにマンガを配信してきた電子書店各社や既存の出版社だった。

携帯コミックの配信元の対応が遅れたのにはもう一つ理由がある。

携帯電話を動かしているOSはトロンプロジェクトから生まれた国産OS「ITRON」「μITRON」だ。ビュワーもデータもこれに合わせてつくられている。iPhoneでマンガを読むためには、iOSで動く新しいビュワーを開発し、データを加工しなくてはならない。それには人手と時間ががかかる。当時、日本の携帯コミックのデータづくりは中国と台湾の企業が請け負っていたが、ここが新しいデータの注文でパンクしてしまった。いきなり携帯コミックからスマホコミックに転換するなんてできない相談だったのだ。

こうして、津々浦々にまで普及していた携帯電話が、コミックを読むための電子書籍端末になっていたことが逆に足を引っ張る形になった。ユーザーの携帯からスマホへのシフトは配信元の予想を超える速さで進み、対応の遅れた電子コミックは一時売上を落とすことになった。

仕切り直しして、2012年度から再び電子コミック市場は拡大を始めた。携帯コミックは縮小したが、スマートフォンやタブレット端末向けの配信がそれ以上に拡大したからである。

インプレス総合研究所の「電子書籍ビジネス調査報告書2014」によれば、日本国内の電子書籍と電子雑誌をあわせた2013年度(2014年3月末まで)の市場規模は1000億円を超えた。そして、電子書籍市場のおよそ8割を占めているのが、電子コミック、つまりマンガである。

インプレス総研の報告書によれば、5年後の2018年には電子書籍の国内市場は3000億円に達するという。このままの比率でいくなら電子コミックは2400億円。現在のマンガ雑誌と単行本を合わせた市場規模、3669億円のおよそ3分の2にまで拡大する。マンガ雑誌、単行本(コミックス)の市場は毎年110億円程度の減少を続けているので、10年以内には紙と電子の逆転劇が起きる。

「まさかそんなバカなことが起きるはずがない」と現役のマンガ家やマンガ編集者、マンガファンは考えているかもしれない。が、「起きるかもしれない」という前提で対応を考えないと手遅れになる。

電子コミックの現状と課題

もちろん、新しい動きはいくつも出ている。その中には、成功しているものも多い。

2008年にスクエアエニックスが創刊した電子雑誌「ガンガンONLINE」は同社紙媒体からの移籍組やオリジナル作品を無料配信するWEBマガジンの先行組だが、『男子高校生の日常』(山内泰延)、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(谷川ニコ)、『帰宅部活記録』(くろは)などがアニメ化されるなどしてヒット。単行本も売れている。

集英社の「となりのヤングジャンプ」、小学館の「裏サンデー」など、大手出版社もWEBマガジンを展開しており、「となりのヤングジャンプ」からは『ワンパンマン』(ONE・原作、村田雄介・画)のようなヒット作も出ているが、「となり」「裏」というタイトルからもわかるように、正面切って展開するまでには至っていない。

むしろ熱心なのは最初に紹介した「comico」のようなコンテンツ配信のITベンチャー企業だ。

通販やソーシャルゲーム「モバゲー」で知られるIT大手のDeNAは、2013年8月に小学館系の小学館クリエイティブと提携してマンガアプリ雑誌「少年エッジスタ」の有料配信を開始した。これは、2010年にNTTドコモとの合弁でスタートさせた小説、コミックの投稿サイト「E★エブリスタ」の人気ライトノベルをコミカライズして配信するもの。また、12月には、人気マンガ家の新作を無料アプリで読める「マンガボックス」をスタートさせて、年末には大々的なTVコマーシャルも行った。

「comico」や「少年エッジスタ」は無名の描き手を積極的に採用していて、マンガ家を目指す若い人達にとっては、チャンスが増えることが期待できるなど、楽しみな動きではある。『ReLIFE』の宵待草のような新しい才能も生まれるかも知れない。

しかし、これらの無料配信型で気になるのは、マネタイズの段階では従来の出版市場に頼らざるを得ない、という点だ。有料配信の「少年エッジスタ」も含めて、いずれも単行本化で資金が回収される仕組みになっている。せっかく新しい媒体を利用するのに、紙に印刷される場合の制約に縛られてはおもしろくない。

電子コミックとして完結する方法はないのだろうか? きっとあるはずだ。

一方で、マンガ家の中にも積極的に電子にコミットして、シュリンクする紙の出版からの脱却を図ろうという動きがある。

ひとつは、アマゾンが提供するKindle Direct Publishing(KDP)というセルフパブリッシング・サービスを利用して、自ら出版を行うタイプ。出版社の中抜きをなくすことが可能になるこの仕組みでは、鈴木みそが成功例だ。新作、旧作を含めて積極的にKDPでの電子化を行った鈴木は、2013年だけで1000万円を稼いだことをブログに公表している

赤松健は、絶版マンガを広告とバンドルして無料配信する「Jコミ」(現在は「絶版マンガ図書館」と改称)の正式版を2011年4月にスタートしている。

ただ、ビジネスセンスを持ったマンガ家がそうそういるわけではあるまい。むしろ、「お金のことはわからない。そんな時間があれば作品を描きたい」というマンガ家が多いのではないか。全員が、鈴木や赤松のように成功するという保証はない。

また、紙のマンガをデジタル化して配信するというスタイルでは、やはり紙の制約に縛られることになる。

次のステップへの進化を阻む大きな壁

そもそも、今のように紙のマンガ雑誌やコミックをデジタル化して配信するというスタイルに依拠している限り、決してバラ色の未来が待っているわけではない。紙のマンガ市場が滅んでしまえば、配信するべきコンテンツがなくなってしまうからだ。

先にも書いたように「comico」のようなオリジナルの電子コミックも増えているが、これらの多くは無料で配信したものを紙の単行本にまとめて、これを販売して利益を上げる仕組みになっている。つまり、このまま紙のマンガが滅んでしまえば、電子コミックだって共倒れになる可能性が高い。

ここまではまあまあ順調だったが、次のステップに進むにはひとつ大きな壁を乗り越えなくてはならない。2015年は、未来のマンガを真面目に考える年になる。いや、考えなければならない年になるはずだ。

さて、ここでどうしても言いたいことが二つある。ひとつは「電子コミックで儲ける」のを目的にするのはやめましょう、ということだ。「儲けるな」というのではない。儲けるのは大いに結構。儲からないとビジネスが長続きしない。

だが、儲けるのが目的であっては困る。KDPをつかったセルフパブリッシングで何百万儲けたとか、出版の市場規模が減った分を電子書籍で埋めるためにはどうすればいいか、といった議論ばかりでは未来は拓けない。

もうひとつは、既存の本やマンガのイメージをとりあえず忘れよう、ということだ。

「本というのはめくるものである。だからめくりがない電子コミックはダメ」とか「今あるマンガ表現から外れるとマンガがマンガでなくなる」と言われたのでは、新しいものは生まれない。結果として、今の本やマンガの姿に還ってくるのは別に問題ないのだけど、そこに縛られたくはない。

本もマンガも長い歴史の中で、生まれ、洗練されてきたものだ。縛られないようにするのは難しい。が、長い歴史の中では何度も変革を経験して今日に至っている。既成概念をやぶって新しいものをつくるのは難しい。手塚治虫だって、戦後まもない出版界に「漫画でも小説でもない」ストーリーマンガを持ち込んだときには、ずいぶん非難を受けている。それを乗り越えたから手塚のマンガは今なお、日本マンガに大きな影響を残している。

「劇画」もそうだった。1950年代半ばに登場した頃は、「残酷だ」「絵が汚い」「荒唐無稽」とさんざん叩かれたものだ。しかし、マンガの多様性を生み出す基盤を作ったのが劇画だ。そして現在、劇画の名付け親でもある辰巳ヨシヒロは、世界から最も注目されるマンガ家のひとりになった。

手塚たちの成功は、既成概念にとらわれずに、逆にそれを壊そうとしたところから生まれている。

マンガとデジタルの親和性

では、電子コミックという新しい表現の確立に向けて、私たちはどうすればいいのか。

まず描き手は、デジタルという新しいおもちゃで何ができるのか? 何をしたいのか? を考えてみることだ。いや、考えなくてもいい、試してみることだ。失敗したらまたやり直せばいい。エンタテインメントはみんなそうやって形を成してきたのだ。運がよければなんとかなる。『マンガ産業論』の著者がこんなことを言うのはまずいのかもしれないが、一発で成功する方程式などない。

次はそれをみんなで楽しむ。マンガ家も楽しい。彼をサポートする人たちも楽しい。もちろん読み手も楽しい。

そこから生まれるものは、もはや文学だとか、マンガだとか、映像だとか、ゲームだとか、そういうものをひっくるめたものになるのかもしれない。手塚治虫が「小説でも漫画でもない」ものからストーリーマンガを生み出したように。

それは鵺(ぬえ)のようなものかもしれない。でも、いずれははっきりした形になるはずだ。そもそも、先にも書いたように、絵で読ませる表現手法はモニターで読むという今の電子端末にぴったりの表現手法なのだ。どんな端末を使うにしても文字を読む場合にはストレスが大きい。文字を読むために、本という形は究極の進化だったろう。モニターで読むならコンテンツ側が環境に合わせて進化しなくてはおかしい。見ただけである程度の意味が伝わるマンガは、モニターでも読みやすい。電子書籍の8割をマンガが占めているのは、活字の作家やライターたちが消極的だからではない。マンガとデジタルに親和性があるからだ。

一方で、絵で表現するマンガは2次元に閉じ込められることで大変な不自由を味わっている。動けない。音を出せない。そして、これは日本だけかもしれないが、色がない。集中線やオノマトペはこの不自由を凌ぐために開発された苦肉の表現だ。

つくり手が表現したいものを自由に表現できること。それが喜びになること。そして、できあがったものが読者(そのときには読者とは呼ばないかもしれないが)が喜ぶ。感動し、励まされたりもする。そういうものがこの鵺(ぬえ)の正体になる。

この話をすると、結構な数の人が「それはマンガじゃなくて、アニメかゲームじゃないですか」と言う。そうではない、これは「未来のマンガ」だ。

未来のマンガは当然のことながら電子書籍端末でなければ読めない。紙の本にして収益を上げることはできなくなるかもしれないが、電子コミックに素晴らしい作品があれば、読むためには端末を手に入れるしかない。昭和30年代、わたしが小学生だった頃に、オリンピックを見るためにテレビを買ったようなものである。こうなればしめたもの。電子コミックがビジネスとして成り立つのか、という心配もなくなる。消費者がほしいものを売ってお金を得ていく、という最も基本的なビジネスが成立する基盤ができているのだから。

実を言えば、携帯コミックが成功したのも、「欲しいものを消費者に」ができていたからなのだ。

表現と技術の革新が黒船を破るとき

表現の革新からは、技術の革新も生まれる。つくり手や読者から「こういうことをしたい」「こういうものを読みたい」という声が出れば、端末やソフトウェア(アプリ)はそれに応えるように、創意工夫されて改良されていく。携帯端末やデジタルカメラの進化を見ればよくわかる。

いま日本の電子書籍市場はアマゾンのキンドルストアや、アップルストアのような黒船に覇権を奪われようとしている。しかし、日本の電子コミック表現が進化して、技術も進化した段階で、キンドルは古びた電子書籍になってしまう。紙の本の版面をデジタル化しただけの電子書籍なんて、もはや過去のものになってしまうのだ。

物量作戦で来る相手に正面から向かっていくのは日本の戦い方ではない。相手にはできないことを積み重ねて、最後に勝利を得るのが日本らしいやりかただ。それは、アメリカ大リーグに革命を起こした、イチローの戦法でもある。バットコントロールで野手のいない場所にボールを運び、足で塁を稼いでいくイチローは、パワーヒッターぞろいのアメリカの野球を変えた。

私たちが目指す電子コミックもイチローのように小ワザを積み上げることで、黒船を破ることができる。

もちろん、紙の本も残る。文字ものもそうだろうし、マンガも紙の方が読みやすい作品はたくさんある。「紙の本はレガシーなものになる」という人もいるが、紙と電子がそれぞれ別の媒体になっていくからには、補完関係になるのが自然だ。

これは夢物語なのだろうか。私は夢だとは考えていない。それよりも、ここに書いたような未来が現実にならないのであれば、電子コミックも時代の徒花に終わる、と危惧するのである。

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北海道ブックフェスに参加してきました

2014年10月5日
posted by 仲俣暁生

先週の週末に、北海道の江別と浦河というところに行ってきました。「マガジン航」にも寄稿していただいたことのある北海道冒険芸術出版の堀直人さんが実行委員長をつとめる、「北海道ブックフェス2014」という催しにお招きいただいたのです。

このブックフェスは2010年に「札幌ブックフェス」としてはじまりました。私は2011年にも一度ご招待をいただき、札幌でのトークイベントに参加したことがあります。このときのトークの相手は北海道大学の渡辺保史さんでした。堀直人さんとの出会いのきっかけを作ってくださったのも渡辺さんだったので、彼が2013年に急逝したのは残念でなりません。

今回のフェスに参加したことで、渡辺さんがテーマとしていた「コミュニティとメディアの関係」について、私自身があらためて深く考える機会になりました。

「本」が人と人を結びつける

会場を北海道全域に広げ、名称も「北海道ブックフェス」とあらためた今年は、札幌、江別、旭川、剣淵、浦河、岩見沢、恵庭、苫小牧、北広島、小樽の各所で9月いっぱい、さまざまなイベントが開催されました(各会場についてはこちらを参照)。一つひとつは手作りのイベントでありながらも、開催場所が道内各地に散っていることで、点から線、面へとスケールが広がったように感じます。このうち私が参加した江別(札幌郊外の学園都市)と浦河(日高地方の中心地)でのイベントについて印象を述べることにします。

江別は内陸の町だが、近くを流れる千歳川にかつては港があった。

9月27日に行われた江別でのフェスのトークイベント会場は、小さな商店街のなかにある「COMMUNITY HUB 江別港」というスペース。海から離れた場所なのに「江別港」と名乗るのは、かつてこの地を流れる千歳川に河川舟運の港があったからです。またこの場所が地元の若者達が旅立ち、戻ってくる「港」になってほしい、という思いも込められているそうです。

このスペースは一階がカフェ&ラーメン屋になっており、二階から上がワークショップなどを行うオルタナティブスペースとして使われています。北海道ブックフェスの期間中はここが「古本屋」に変貌し、併せてビブリオバトルやトークイベントなどが開催されるというわけです。

店内のさまざまな場所にコンセプトの異なる「本棚」がある。

この部屋には会期中、地元の大学生の実際の蔵書が展示された。

江別でのトークイベントに参加したのは北海道冒険芸術出版の堀さん、この「江別港」のオーナーである橋本正彦さん、北海道と東北で読み終えた本の再活用をすすめる活動をしている「北海道ブックシェアリング」代表の荒井宏明さん、そして私の四人。畳敷きのちいさな部屋(写真すぐ上)で十人程度が卓袱台を囲み、「編集と何か」「本がもつ力とは」「10年後の未来をどう想像するか」といったテーマで、会場との応答をまじえつつ和気あいあいとした時間を過ごしました。

「ブックシェアリング」は不要になった本を次の読者に手渡すしくみ。

トーク終了後に歓談をするなかで私がいちばん驚いたのは、参加者の中に約120キロ離れた旭川から車を飛ばして来た方がいたこと。旭川でも「北海道ブックフェス」は行われており、そのつながりもあったと思いますが、本が人を動かす力に感動しました。

その夜は「江別港」に宿泊。翌朝は朝食(ラーメンでした!)のあと、本のかたちをした手製のクッキーと美味しいコーヒーをいただいた後、出港する船のような気持ちで、この気持ちよいスペースを後にしました。

「江別港」への入り口。左手は併設のカフェ&ラーメン屋。

本屋のなくなった町に本屋をつくるプロジェクト

翌日は江別から車で約4時間ほどかけて浦河まで移動。雄大な太平洋の景色を望みつつの長距離移動でした。午後に浦河に到着すると、会場の浦河ショッピングセンターMiOでは「浦河ワンデイブックス」が佳境をむかえており、子ども連れを含めた多くのお客さんが来場していました。

この日、浦河に一日だけの「本屋さん」が集合。

北広島のブックカフェ「風味絶佳」も一日だけ浦河で開店。

浦河は人口1万2000人ほどの小さな町ですが、日高振興局(旧・日高支庁)の合同庁舎があるため、規模の割に都市機能が発達しています(浦河町については、この地で体験移住のモニターとして長期滞在した檀原照和さんの体験記も参照)。しかし2012年に大手チェーン店が撤退した後、町には新刊書店がひとつもなくなってしまいました。

今回の北海道ブックフェスの実行委員でもあり、北海道冒険芸術出版のメンバーでもある武藤拓也さんは、2013年に浦河に「地域おこし協力隊」として赴任。現地で生活しながら、札幌のくすみ書房の代表・久住邦晴さんを招いて勉強会を行ったり、浦河での「訪問販売」を成功させたりしています(その記録は武藤さんのブログを参照)。

武藤さんと私はこの日が初対面でしたが、「マガジン航」で以前、くすみ書房の閉店の危機を伝える記事を寄稿していただいたことがあります。武藤さんとくすみ書房との関係が深まったのはこの取材がきっかけとのことで、久住さんも自身が体験したことを、浦河での本屋の復活に少しでも役立てようと、浦河になんども足を運んでいるようです。

この日の「ワンデイブックス」でも、くすみ書房は出張販売を行いました。このほか地元の12組の人たちがフリーマーケットで一日限りの「本屋さん」を開店。また道内の北広島からはブックカフェ「風味絶佳」が参加し、会場の一角でお店を一日だけ開業しました。そして夜には久住さん、武藤さん、そして前日と同様に堀さんと私が加わり、四人でトークをする予定になっていました。

札幌のくすみ書房も一日だけの出張販売。

会場では浦河に「本屋さん」を復活させるための支援金も集められた。

夜に行われたトークイベント「まちと本屋さんの未来 – 浦河に本屋さん作るって本当?」では、浦河に常設の「本屋さん」を復活させるにはどうしたらいいか、という話が展開されました。というのも武藤さんは、町内の「かぜて」というスペースの一間で、今年の11月を目標に「六畳書房」を始める予定なのです。

この夜のトークイベントには30人を超える参加者があり、浦河での本屋さんの復活を実現するため35万円の支援金が集まりました。またこの日も、はるばる北見から来場した方がおられ、北海道における地域間のダイナミックな人の動き方について、目を見開かされました。

図書館とアマゾンと古本屋さえあればいいのか?

浦河でのトークイベントでも、会場の人とのあいだで質疑応答が行われました。「地域おこし協力隊」の人たちや、取材に来ていた放送局のジャーナリストを交えたイベント終了後の打ち上げでも、浦河に本屋さんを復活させることについて、つっこんだ議論が続けられました(ちなみに打ち上げの会場は「六畳書房」の開業予定地でした)。

浦河には立派な町立図書館があり、中規模の新古書店もあります。本を求める人はアマゾンをはじめとするネット書店を利用したり、札幌まで出かけて買ったりもするそうです。つまり新刊書店が存在しなくても、それなりに本へのアクセス手段は存在する。大手チェーン店でさえ撤退するほど、経営的にきわめて困難ななかで、浦河になぜ新刊を扱う「本屋さん」が必要なのでしょうか。

この問いは、じつは浦河だけに向けられたものではありません。会場では電子書籍の話題は一度も出ませんでしたが、このさき電子書籍が普及すれば、ますます「本屋さん」以外の選択肢は増えて行きます。それでもなお、この町には「本屋さん」があったほうがいい、と考える人たちがいます。私自身、自分が多様な本と出会ったステップとして、大型書店の前に中型書店があり、その前段階として商店街の小さな本屋や学校図書館があったことを忘れることができません。

江別と浦河での経験を通じて、「本屋さん」とは、まだ自力では多様な本と出会うことのできない子どもや若者が「本と出会う最初の一歩」のことではないか、と私は考えるようになりました。いつかは彼らもその「港」から出て行くのかもしれません。町の小さな新刊書店など存在しなくても、その役割は大型新刊書店とネット書店と古本屋と図書館、そして電子書籍があれば代替できる――そのように早々に結論づけてしまえば、本の環境に恵まれた大都市住人の傲慢さと言われても仕方ないでしょう。

浦河での「本屋さん」復活への期待は、ノスタルジーや本へのフェティシズムからではなく、コミュニティの実情に根ざしたところから発しているように、私には感じられました。今年の11月に「六畳書房」がスタートしたら、また浦河を訪ねてみたいと考えています。

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第2回 策謀篇

2014年9月30日
posted by 原田晶文

リスペクトがインスパイアでオマージュする

これから話すのは私が久しぶりに本を書こうと思った日々の話だ。

ロビン・スローン著『ペナンブラ氏の24時間書店』(東京創元社刊)については、前回お話した通りだが、かいつまんで言うと、現代アメリカの失業青年がひょんなことから奇妙な24時間営業の古書店の店員となって、奇妙な店主であるペナンブラ氏と出会い最新デジタル技術を用いて伝統的西洋式活版印刷技術で組み上げられた奇妙な謎を解き明かす、という物語である。

この連載をお読みの方は、もちろん、このひと月の間に、すでに、原書をお読みに、なっている、と思うので詳細については割愛させていただく。なお、前回は「ですます調」であったが、今回は「である調」のほうが都合がいいのでこのようにした。文字数も減らせるし。

話を先に進めよう。読者諸兄と同じく、私もこの本を読み、ドキドキしワクワクしハラハラし、感動してエンディングを迎えた。そして、私もみなさんと同じように思ったのである。

「江戸の出版だって負けちゃいませんよ。」

と。……思ったよね?

『ペナンブラ氏〜』では「活版印刷」が重要なキーワードであり、最新のデジタル&出版事情と中世の出版技術の融合が実に面白かったのだが、それだったらわが国の近世印刷技術だって決してひけを取るものではない。当時世界最大の都市であった江戸で発達した印刷・出版技術は、掛け値なしで世界最高峰であり、印刷物の大衆化は西洋のはるか先を行っていたのである。

一応、活字の技術も中国から伝わってはいたのだが、江戸出版の主流は木版印刷だった。これは、英語のような文字数の少ないアルファベットだけで済む言語とは違い、日本語は漢字からひらがな、さらにカタカナまであるため、もうそのまま彫ったほうが早いぜてやんでぃ、ということだったのだろう。江戸時代には多くの出版物が、手彫りで印刷され、あらゆる身分の人々に売りさばかれていたのだ。

また、浮世絵などでも知られる多色印刷の技術力も特筆すべきものがある。当時、これらの絢爛豪華な印刷物は倹約を推奨する幕府によって禁制品とされたので、行商書店の訪問販売を隠れ蓑にした地下流通があったと伝えられている。そのような政府からの抑圧が、かえって印刷技術の発達を促進させたというのも、また興味深い話ではないか。たくさんの本を背負って得意先を回る「貸本屋」も、全盛期には江戸全体で800軒もあったそうだ。

江戸の出版はちょっと小ネタを並べただけでも、こんなに面白い。私は、ロビン・スローンへの感謝と敬意を示すためにも、近世日本の印刷・出版事情をテーマに『和製ペナンブラ』を書いてみたくなったわけだ。

というわけで、今回は小説の執筆に関してのお話である。

タイムスリップするのしないの

まずは、どんな物語にするかを考えてみた。

江戸時代が舞台となるのであればそれは時代小説だ。時代小説は藤沢周平や池波正太郎、隆慶一郎など大家が大勢いるし、最近では冲方丁著『天地明察』の大ヒットもある。小説に限らず漫画や映画などでも幅広く根強い人気のジャンルなのだ。山東京伝や蔦屋重三郎を主人公にして、禁書の規制を強化してくる幕府と対決させるというのも、ドラマチックで面白いだろう。しかし、私は充分な時代考証ができるほどの予備知識があるわけではなく、丸腰で江戸時代人の話を書くのはあまりにハードルが高い。

児童文学やジュブナイル小説の分野では、現代っ子が突然タイムスリップして江戸時代を冒険するというストーリーが少なくない。シリーズ自体はいつも現代劇でも、エピソードによってタイムスリップさせるというようなものもあり、読者を日常から非日常に一気に吹き飛ばすには、使い勝手のよい小道具であるといえるだろう。

最近ハリウッド映画にもなった桜坂洋著『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、同じ時間を何度も繰り返す「タイムリープ」という仕掛けを基軸にしているし、三部けいの『僕だけがいない街』というコミックもタイムリープがテーマになっている。少し前でも『涼宮ハルヒ』シリーズにタイムリープをネタにしたエピソードがあったのは、知られた話だ。

タイムスリップやタイムリープは、『ドラえもん』の昔から多くのストーリーテラーによって、手を替え、品を替え演じられてきたギミックである。これを使わない手はないと思いもしたが、登場人物をタイムスリップさせたら結局舞台が江戸時代になり、あとで描写に苦労することになってしまう。

どうしたものかと思って元の『ペナンブラ氏〜』に立ち返ってみると、そもそも主人公たちは現代人で、現代の世界で物語は終始し、タイムスリップなどしてはいない。私はすっかり思い違いをしていたのだ。昔を語るには、その時代に行かなければならない、と。しかし、小説の世界ではそんなことをする必要はない。時間旅行をするのは読者だけでよかったのだ。本書では登場人物は誰もタイムスリップをさせないことに決めた。登場人物は、ね。

あんたが大将堂:タイムトラベルに関する参考本棚

ひとりブレストで江戸をぐるぐるする

いよいよ、物語のプロットに思いを巡らせる時間だ。

小説を子どもに例えるなら、これはさしずめ仕込みの夜のようだ。作家にとっては一番のお楽しみの時間帯であるといえるだろう。この作品では、私の他には特に誰もスタッフがいないので、作家としての自分と、編集者としての自分が脳内でガチンコ対決をするということになる。

まず、江戸時代の出版物についてだが、大きく分けて評論や学術本のような黒本、子ども向けの赤本、大人向けの娯楽本の青本がある。江戸期の出版は青本が一般大衆にまで大いに広まったのが特徴的なのだが、これが日に焼けて黄色に退色したものを後に黄表紙と呼ぶようになり、娯楽出版物の総称にもなった。

黄表紙作家として最も知られているのは山東京伝だろう。他にも大勢いるが、最も有名な版元・蔦屋重三郎とのタッグは、江戸出版界の黄金時代を築き上げた。この2人は外せない。調子に乗りすぎたこのコンビは、宿敵・松平定信の「寛政の改革」で弾圧を受け、京伝は手錠をかけたまま自宅謹慎を強いられる手鎖五十日の刑に、蔦重は財産の半分を没収というたいへん重い処分を受けることになった。

幕府は以前からも禁書目録を作り、幕府や諸大名にとって都合の悪い内容の出版物や、公序良俗を乱す出版物を取り締まってきた。これは主に宗教的な理由で禁書取締を行った欧州とは少々事情が異なる。絵師の鈴木春信は、美しい多色刷りである錦絵の技術を完成させたが、倹約の世にそのような派手な出版物はけしからんということでこれも禁書目録に加えられた。錦絵の完成は、かの平賀源内も一役買ったと伝えられるが、彼は男色家としても知られているので、歴史の裏で春信と何かあったのではないかという邪推も面白いだろう。

幕府に禁じられた本、とくに艶本などと呼ばれる春画本は、貸本屋が行李の底にこっそり持ち歩き、得意先で売り貸ししていたようだ。これらの本は幕府に知られない裏の流通であるため、絵師達が存分に腕を奮って仕上げ、一般に流通する本より遥かに豪奢な作りだったという説も残っている。また、蔦重は吉原の生まれで、元は吉原大門前の書店で『吉原細見』を売っていた。黄表紙には吉原での出来事を題材にしたものも多く、色街吉原と江戸の出版は切っても切れない関係にあったのだ。

江戸期に隆盛を極めた木版印刷だが、明治に入り本木昌造らが活版印刷を普及させると急激に廃れていった。同時に江戸の貸本屋も消えてゆき、いま貸本屋といえば戦後流行った少年漫画誌を貸してくれるあれのことを指すように変容していったのである。

もしも、江戸の貸本屋が現代でも営業を続けているとしたら、どんな世の中になっていただろうか。ということで、ようやく小説のメインテーマが決まった。「禁書目録を巡っての現代の貸本屋と幕府の末裔の奮闘記」である。

タンターターター、タンタンタン

テーマの方向性が決まり、プロットの輪郭が見えてきたところで、そろそろ決めておきたいのはタイトルである。

近年の流行は、やたら長い文章のようなタイトル。最初のうちは『○○と××と△△』みたいなものだったのが、今では『××が△△だったら○○はどうする?』だの『△△が○○で××している』だのという文章系タイトルが百花繚乱となっている。わざわざ長くしておいて、それから『はがない』などと略すのも最近の流行のようだ。しかし、そのラインを狙っても、いまさら感満点なのでやめておく。

流行には関係ないかもしれないが、英語だけのタイトルもちょっといいかなと思っている。先ほど紹介した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』もそうだが、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を村上春樹がカナ表記で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と改めたのを思い出した。むしろこれは007のサブタイトルの感覚かもしれない。『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』に『ダイ・アナザー・デイ』などなど。

カナ表記に併せて、言葉のリズム感も大事な要素だ。とりわけ黄表紙のタイトルには秀逸なものがいくつもある。『東海道中膝栗毛』、『金々先生栄花夢』、『南総里見八犬伝』などなどなど。長く愛される古典は、タイトルの語呂、語感も素晴らしいのだ。声に出して読むと、「トーカイドーチュー、ヒザクリゲ」、「キンキンセンセー、エイガノユメ」、「ナンソーサトミ、ハッケンデン」である。私はこれらのタイトルを夜中に繰り返し発声することで、基本リズムが「タンターターター、タンタンタン」で共通していることを発見した。

つまり、英語カナ表記でこのリズムのタイトルなら、多くの人々の目と耳から浸透し、大ヒット間違いなしということになるではないか。ということで、タイトルは『ストラタジェム;ニードレスリーフ』に決まった。この言葉の意味については、またいずれしかるべきときに。みなさんも今すぐ3回ずつ繰り返し声に出して、リズム感を楽しんでいただければ幸いである。

あんたが大将堂:タイトルに関する参考本棚

執筆ツール選びで試行錯誤

そして、いよいよ本文に着手していくわけだが、書くためのツール選びには悩んだ。私の場合、普段はノマドワーカー的な動き方になるので、一ヶ所で腰を落ち着けて執筆するということはできない。メインマシンはMacBook Airだが、自宅ではMac miniを使っている。軽装備で出るときはiPad miniで書くこともあり得る。

まず、GoogleDocを使ってみた。番号付きでアウトラインを書き進めていけるので、初期段階ではうまく機能したが、個人的な環境の問題でChromeの動作が鈍くなるという症状に悩まされ、全体のアウトラインまで作成したところで断念した。仕方ないのでデータを.docxで書き出し、MS Wordに移行することにした。

Wordでは第1章を書き上げるところまで試してみた。書くこと自体は特に問題なかったのだが、実は私はWordについてはあまり習熟しておらず、いじればいじるほどストレスが溜まるのだ。その後いろいろ試した結果、長年使い慣れたmiというエディタソフトに落ち着いた。

とりあえず第1章が書けたところで、Adobe InDesignでレイアウトイメージを組んでみた。私は根が読者なので、実際に読むのを想定するとおかしなところがよく見えてくる。説明の過不足もよくわかるし、重複やくどいところも浮き彫りになってくる。InDesign上で三周ほど推敲したらまずまずの仕上がりになってきた。二割ぐらいはInDesignで加筆したかもしれない。

ただ、InDesignは紙やPDFでリリースするのであればそのまま出せるので便がいいのだが、EPUBでリリースするにはひと手間ふた手間余分にかかる。一度textに書き出して、EPUBのオーサリングツールに流し込むのだが、InDesignから直接EPUB形式で書き出すこと自体は現時点でも可能なので、この機能がどこまで実用性があるのか次回までにテストしたいと思っている。

『和製ペナンブラ』のキャラクターたち

物語のアウトライン作成と平行して、キャラクターシートも作成した。

現代パートの主人公は「三重田辰野」。ミエダタツヤは、字面をご覧の通り蔦屋重三郎のモジリだ。物語が始まる直前の段階では、両国駅前の書店のアルバイトをしている。彼は素人童貞でシェアハウスの住人でSNSやMMORPGのプレイヤーで、筋力には少し自信がある日本の平均的な若者だ。思想的にはニュートラルで、一応主人公ではあるが、実際にはこの物語の狂言回し的存在である。『ペナンブラ氏〜』の主人公クレイ・ジャノンがモデルなのだが、アメリカの青年と日本の青年で行動指針に若干の違いはある。

ヒロインは「千束小町・恋川」こと「松葉しずく」さんだ。彼女についてはここでは多くは語れないが、元のキャット・ポテンテよりももっと「猫っぽさ」を強調した設定にした。恋川の名前は、江戸時代の戯作者・恋川春町から頂戴した。

エイジャックス・ペナンブラに相当するのは「神田カンジ」という中年。ペナンブラよりももう少し若い設定になる。日本橋の「本屋横丁」内にある組合事務局を拠点に「貸本屋四六」を1人で運営していて、「本屋仲間」という同業者ギルド(日本貸本屋組合)に所属している。

マーカス・コルヴィナにそのまま該当するキャラクターはおらず、代わりに幕府禁書取締方の末裔で「水野」という人物が登場する。序盤で姿を消す「伊豆宮」もコルヴィナの機能の一部を担当している。

江戸時代パートは、まず平賀源内と鈴木春信が登場。非常に重要なキーパーソンである彼らは後半にも再登場の予定だ。続いて山東京伝と蔦屋重三郎が秘密会合を開くが、この酒宴には、幕府の要人が来訪する。一方その頃、若き日の松平定信は怒り心頭、復讐を誓う。

後半に登場するのは、江戸時代後期浮世絵の大家・渓斎英泉、そして曲亭馬琴。「三代豊国」として知られるベロ藍使いの技巧派・歌川国貞、江戸のポップアーチスト歌川国芳、そして潔癖性の老中・水野忠邦、その配下の渋川六蔵を予定している。北斎、歌麿、写楽も一応出る。これだけのビッグネームをずらっと並べれば、「大江戸オールスターズ」を名乗っても納得していただけるだろう。

江戸出版の参考文献をかき集める

編プロ時代に春画のガイドブックを手掛けた経験から、江戸の出版物についてはある程度の予備知識があったものの、それはあくまで裏流通のものに限った話であり、『ストラタジェム;ニードレスリーフ』のためにはそれだけでは足りない。ひとまず、みんなのWikipediaさんで大まかな予備知識を拾って、Amazonで書名を探して、図書館で借りることにする。ここの図書館はWebで予約して近所の館に取り寄せてくれるので便利だ。

かつてに比べるとだいぶ楽に文献が探せる時代になったが、ネットで横断全文検索までできたら、もっと早く確実に探せるのに、というもどかしさは残った。横断検索自体は仕組みとしてはSideBooksクラウドで出来上がっているので、こいつがもっと普及してくれたら実現は可能なのだが、現在のようなプラットフォーム分断の状況からそこまでたどり着くのはなかなか難しいだろう。

今回集めた大量の参考文献から、代表的なものをいくつか紹介しよう。

内田啓一著『江戸の出版事情』(青幻社刊)は大判カラーで物の本から絵草紙まで幅広く紹介していて、総合的な知識を得ることができた。最初に読むべき本だろう。中野三敏編著『江戸の出版』(ぺりかん社刊)も江戸出版の全容を知るには良い文献だった。これは2010年に休刊になったぺりかん社の専門誌『江戸文学』の記事で構成したもので、さらに江戸出版の深みを知りたいのであれば、この雑誌のバックナンバーを集めるといいかもしれない。鈴木俊幸著『江戸の本づくし』(平凡社刊)も黄表紙を中心におおまかなことがわかる。

禁書目録は『ストラタジェム〜』の大きなテーマなので、重点的に調べる必要があるが、井上泰至著『江戸の発禁本』(KADOKAWA刊)、今田洋三著『江戸の禁書』(吉川弘文館刊)を主たる資料とした。ほかに、江戸パート主要登場人物の山東京伝については棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む』(ぺりかん社刊)が非常に詳しく、京伝の思考シミュレーションに役立った。

春画に関する知識の補強には白倉敬彦著『春画と人びと 描いた人・観た人・広めた人』(青土社)と同氏監修『春画の楽しみ方完全ガイド』(池田書店刊)がある。江戸期の生活習慣などの一般情報の参考文献としては、石川英輔著『大江戸生活事情』(講談社刊)をKindleで購入した。

江戸出版に関する本以外にもう1冊付け加えておきたいのは、筒井康隆著『創作の極意と掟』(講談社刊)だ。小説を書く人、書きたい人、書いた人は本棚の常備本にぜひお持ちいただきたい。必ず役に立つと断言できる。実はこの本は、今回の企画が生まれる前に手に入れており、第1章まで書いたところで、ふと本棚を見たら目に入ったので手にしてみたらまさに今読むべき本だったのだ。メーテルリンクの『青い鳥』のように、探していたら近くにあったわけである。

あんたが大将堂:ストラタジェム参考文献本棚

魅惑のミュージアムめぐり

書籍資料を漁る以外に、博物館や資料館などにも出向いた。私は調べ物をWebで終始させたりはしないのである。フィールドワーク重視のアウトドア派で現場主義なのだ。

まず向かったのは、物語のスタート地点でもある両国だ。ここにはご存知、江戸東京博物館がある。実に無駄な設計の建物だが、展示物は素晴らしかった。出版に関する資料も豊富で、町民の暮らしぶりもよくわかった。吉原の展示が少ないのが残念だ。今回は関係ないが明治〜昭和の展示もなかなか充実している。そのあと散歩がてら浅草まで回り、帰りにカキモリで専用ノートを拵えた。

清澄白河からすぐの深川江戸資料館も素晴らしかった。内部には江戸の街並が再現されていて、町民気分がリアルに味わえる。今回は運良く松平定信の特別展示があり、たいへん良い取材になった。深川資料館通りには個性的な古書店(しまぶっくなど)がいくつかあり、ぶらぶら歩くにはいいだろう。そのまま抜ければ東京都現代美術館(MOT)まですぐに着く。ちょっと上質な休日を過ごしたい向きにはオススメのコースだ。

浮世絵の取材もしておこうということで、原宿の太田記念美術館にも行った。このときは特別展が「江戸妖怪大図鑑」で、大量の北斎、国貞(三代豊国)、国芳が見放題であった。妖怪画は、春画や美人画とはまた異なる緻密なディテールのおどろおどろしさがたまらない。10月から国貞の特別展があるのでまた足を運びたいと思う。ベロ藍の美しさを直に見られるのは本当に喜ばしいことだ。

浮世絵に関しては、長野県松本市の日本浮世絵博物館にも足をのばした。ここでは摺り師による摺り作業の実演も行われており、摺りシーンのディテールアップにたいへん参考になった。あんまり参考になったので、第7章をまるごと松本編に変更したぐらいだ。やはり、実物が見られるのであれば、どんどん出かけたほうがいいのである。家族サービスも兼ねれば一石二鳥ではないか。

求め、探せ、門を叩け。さらば道は開かれん

世の中には、偶然で片付けられないことがたまに起こる。

とある飲み会に参加したときのことだ。江戸の出版をテーマに小説を書こうと思っているという話をしたら、他の参加者の方が最近和書についての本を手掛けたそうで、橋口候之介氏の著書を薦めてくださった。その会話の中で、神保町の一誠堂書店という古典籍を扱う書店のことが挙がり、不思議と印象に残った。

翌日、黄表紙の実物を手に入れてみたくなり、古典籍を扱う古書店を検索したところ、トップに出てきたのは偶然にも一誠堂書店だった。Webサイトで店の場所を確認したら実は何度も行ったことのある店だった。神保町は10年ほど通勤したし、今でもよく行くのだが、恥ずかしながら古書店それぞれの店名までははっきりと知らなかったのだ。

さらに翌日。ひと月以上前から図書館で予約していた本が用意できたと連絡があり、さっそく借りてきた。いま話題の森岡督行著『荒野の古本屋〈就職しないで生きるには21〉』(晶文社刊)である。予約10人待ちからやっとのことで手にしたので、さっそく読んでみたのだが、これはさすがに驚いた。なんとこの著者が過去に一誠堂書店に勤めていたとあるではないか! 初めて耳にした古書店の名前が立て続けに飛び込んでくるという連日のこの偶然は、果たして本当に偶然なのだろうか?

そして数日後、ついに一誠堂書店で本物の黄表紙を目にすることができた。実物を知ることは、小説のディテールの強化にはとても有効である。私は一連の偶然の連続に感謝した。もっとも、一番安い『吉原細見』ですら数万円と高すぎて、買い上げるのは無理だったけれど。もし『ストラタジェム〜』で少し稼げたら、また行ってみよう。

後日、この現象に名前があることを知った。先述の筒井康隆の指南本に「セレンディピティ」という言葉があるが、それがまさにこの偶然の連続のことだったのである。何かに悩み、何かを追い求めているのならば、自ずと答えやヒントは次々に飛び込んでくるものだ。例えば、今これを読んでいるあなたが、ここまでの私の文章から偶然の出会いにより何かをつかんだのなら、それがまさにセレンディピティなのである。

さらなる仕込み。ピントを合わせる作業

第1章を書き上げたところで、いくつかの課題が浮き彫りになった。いわゆる「人称問題」である。原典の『ペナンブラ氏〜』は主人公クレイの視点による一人称小説である。一方、私の『和製ペナンブラ』のほうは、主人公の機能の一部をヒロインが分担してしまったために、三人称視点で書かざるを得なかった。もっと原典の雰囲気に近づけるには、やはりどうしても一人称に直さなければならない。しかし、後々のクライマックスで、どうしても主人公が知り得ないことを地の文で記述しなければならないことがわかっているので、一人称の採用に踏み切れないでいたのだ。

煮詰めて行くと、主人公とヒロインの関係性を物語の中でどこまで高めることができるかが焦点となっていることがわかった。出会ってからどのようなプロセスをたどれば、タツヤは恋川からの決定的な信頼を得ることができるのか? 読者が腑に落ちる理屈を組み上げることができなければ、この小説は失敗である。逆の見方をするのであれば、もし主人公とヒロインの関係性をそこまで書き上げることができれば、本作は青春小説としては成功である。私は一か八か、第1章をすべて一人称で書き直した。

第2章の仮記述が済んだところで、また悩んだ。アウトラインにあらすじや、主なセリフをだいたい書き込んで、ざっと読んでみたのだ。この段階では、ストーリーが主人公たちの行動と会話を時系列のまま順に追っていくだけで、これがなんだか単調でありきたりでつまらない。それと、二人の密室の出来事をそのまま書くのはあまりに下衆いではないか。私は、さて、どうしたものかと筆を休めた。

数日後、きっかけはうっかりすっかり忘れてしまったのだが、私は以前見た映画『メメント』を思い出していた。それをヒントに第2章の構成を改めた。まず、主人公の起床時を基準とし、それ以降を現在進行時間として書き、起床より前すなわち昨夜の出来事を発作的に思い出される回想としてかつ時間軸を逆行する形で挿入する構成に変更した。これにより、朝からの日常風景を淡々と語って読者を焦らしつつ主人公の日常を示し、同時に都合の良い密度で昨夜の出来事(非日常)を、遅延工作を行いながら読者に徐々に刷り込むという機能を得たわけである。実際にどんな感じになったかは、本編リリースをお待ちいただきたい。

江戸パートの記述方法も再考した。当初は江戸出版物を再現した戯作調で書いていたのだが、バンクハウスの仮設本棚で実験公開したところ、どうもこのパートが終わる辺りで閉じている人が多い。なるほど読みにくいページが続くので、この辺で面倒になるに違いない。しばらく悩んでいたが、こうも脱落者が多いのでは、ちっとも本編を読んでもらえないではないか。現代パート同様に平文で書き直し、ただし、こちらは三人称での文体にすることとした。江戸パートの挿絵をどうするかの悩みも無くなったので、これは一石二鳥である。

* * *

さて、最後に今後の予定をお知らせしておき「ます」。

第3回はいよいよ、この本のリリースに関しての話。最終回の予定です。小説の内容についての話題は今回まで。次は電子書籍の体裁を整える技術的な話題に終始するつもりであります。書き上げた原稿をどのような工程でリリースまで持ち込むのか、また、どのように広めるのか、同志諸君の参考になるような体験談をお送りできればと思っています。

今のところの計画ですが、この連載の最終回の公開と同日に、和製ペナンブラ『ストラタジェム;ニードレスリーフ』の「第1巻(仮称)」を皆さんにご覧いただこうと考えています。全8章のうちの第2章まで入れられるのではないかと思いますが、その辺りはこの第2回の反響次第、かもしれません。提供するプラットフォームは現時点ではお知らせできませんが、少なくともリフロー形式でのご用意まではしたいと思っています。もちろんこのあたりの工程も次回詳しくレポートいたします。

それから、第3回の公開と同時に、連載完結と小説リリースの記念を兼ねて『SideBooksユーザーミーティング』を開催します。開催要項は以下の通りなので、近郊お手隙の方はお立ち寄りいただければ幸いであります。

SideBooksユーザーミーティング #01
2014年10月31日(金)20:00〜 途中参加歓迎
会場:Bar『ネッスンドルマ』(新宿ゴールデン街)
http://www.goldengai.net/shop/c/17/
参加費:¥2,000(チャージ料+ワンドリンク込み)
内容:SideBooksおよび本屋横丁デモ
小説またはアプリに関する質疑応答
(内容は追加または変更になる可能性があります)

特典:『ストラタジェム;ニードレスリーフ』PDF版直接配布
※ AirDropで配布しますが、非対応の方には他の方法もご用意しています。
備考:SideBooksをインストールしてご参加下さい。
店内スペースに限りがございます。万が一満席の場合は、しばらくお待ちいただくこともあります(まあ、それはないと思いますが一応)
問い合わせ:info@honyoko.com

20インチ超のタブレットを電子本に使う

2014年9月25日
posted by 西牟田靖

3月末に「自分だけの部屋」に引っ越してからというもの、仕事のための環境はどんどん整っていった。幅180センチのワイドデスクの真ん中にはキーボードとディスプレイを置き、右にはプリンターやスキャン専用機、左には連載の取材の際に拝見した大野更紗さんの机を真似て、小さな本棚を置いている。机の下には、ずらりと本を並べた棚があり、まだそこはあまり埋まっていないが、引っ越し後も着々と本は増えている。

自炊代行業者に送った約1200冊もの書籍のうち、スキャンデータとして納品されたのは500冊あまり。一冊150円の「5営業日納品スキャン」というコースに出した本は送って一ヶ月ほどでPDFデータに変換され、サーバーにアップする形で納品された。一冊100円の「のんびり納品スキャン」というコースの方は半年たった今もまだ大半が納品されていないが、すぐに使うものでもないのでコース名が示すようにのんびり待ちたいと思う。

連載の最終回で示したように、スキャンに出した本の中には一ページがA4という大判サイズのものもある。たとえばシリーズ物の図鑑がそうだ。

電子本を読むために購入したiPad 2の画面はB5判よりも小さい。電子化された図鑑を表示してみたところ、見開きはおろか、一ページだけの表示すら厳しかった。それどころか普段、執筆用のディスプレイとして使っているNANAOの17インチでも、A4判の図鑑を見開きで表示するのは厳しい。執筆時は参考資料となる本や画面をしばしば参照することになるが、電子本を読む際に、ディスプレイをいちいち切り替えたくない。

スキャンし納品された電子本をうまく使いこなすため、解決法を考えてみた。別の画面に映し出すのがよかろうということで、僕は、とある20インチ以上の大画面タブレットに白羽の矢を立てた。それはヒューレット・パッカード社のSlate21という21.5インチのAndroidタブレットであった。パソコンにしなかったのは、あくまで電子本やテレビの閲覧用としての利用しか考えていなかったからだ。値段も安く、春に最安値だった26000円ぐらいの値段で晩夏の時期に、ヤフオクで購入した。

部屋に届くとさっそく箱から出し、コンセントをつないだ。そして電源を入れた後、カスタマイズし使えるようにした。読書用にはiPad 2でも使った「i文庫」という読書用アプリのAndriod版を、そしてネット上の外部ストレージとしてDropboxをインストールした。

21インチのタブレットを仕事用の机に置いた様子。右手は執筆用のWindowsマシン。

「i文庫 for Android」で自炊済みの本を開いてみることにした。PCのハードディスクに格納されているOCR済みの電子本データをDropboxにアップロードし、Slate21にインストールされたDropboxアプリ経由で開こうとしたのだ。すると、さすが21.5インチ。PDF化したA4判の『昭和 二万日の全記録』などを見開きで快適に見られるようになった。ハードカバー本も見やすい。文庫本は逆に画面が大きすぎてやや見づらかった。

A4判の本でも見開き85%の大きさで表示でき、十分読める。

Dropboxを使ってわかったのは、8GBしかない内部ストレージにいったんPDFをダウンロードしなければ読めない、ということだ。そこで、いつもはPCにつないでいる3TBの外付けHDDをSlate21にUSBケーブルでつないでみた。するとちゃんと認識し、こんどは内部ストレージにファイルを移すことなく、PDFを「i文庫 for Android」から開くことができた。

外部HDDもUSBストレージとして認識される。

これで記憶容量の問題はクリアできた。今後は8GBしかないSlate21の内部ストレージに頼ることなく、数百、いや数千という電子本のデータからなる個人蔵書を簡単に閲覧できる、ということだ。これは画期的かも知れない。思わず胸が躍った。

しかも本棚登録や単語の検索もできたから申し分がない。一冊ごとに本棚へ登録する手間がかかったり、写真や文字の配置が複雑なレイアウトな図鑑や雑誌だと単語の検索がうまくできなかったりという改善点はあるが、十分及第点だ。

このようにAndroid版巨大タブレットと電子本の相性はなかなかに良い。書影が出なかったり、検索ができなかったり、タブレット自体が大きすぎて、外へ持ち出せないという問題はある。それでも、大量の電子本蔵書を抱える人や大量の本の電子化を検討している人には、朗報といえる解決法なのではないか。

僕自身、資料を参照しながら書くという態勢がこれでようやく整ったと思えるようになった。自分だけの部屋として、使いやすさが格段に上がった。このサイズのタブレットはあまり売れていないようだが、大量に自炊した人にこそ向いている製品だと思う。個人の電子図書館として利用するにはまだ少々難はあるが、僕が人柱となって使い心地を改善していきたいと思う。

※西牟田靖さんの「床抜けシリーズ」の本連載は終了しましたが、今回は番外編としてお届けしました。なお、同連載は来年、本の雑誌社より単行本化される予定です。