「フィクショネス」という本屋の話

2014年9月16日
posted by 藤谷 治

1998年7月4日に開業した東京・下北沢の書店「フィクショネス」を、2014年7月22日に閉店しました。本当は開業と同じ7月4日に閉店したらきっちりしてていいと思ったのですが、閉店の腹を決めたのがひと月前で、それまで十数年続けてくれた詩人カワグチタケシの「詩の教室」(毎月第3日曜日)をしっかり終えて貰うため、この日を終業日としました。

「人のいうことを聞きたくない」

「フィクショネス」を開くまでの僕は鬱屈したサラリーマンでした。横浜のポルタという地下街に今もある書店から始まって、書店中心に職場を二、三度変えました。自分は小説家であるはずなのに、なんでこんなことやってるんだと思いながら毎日満員電車に乗っていました。その鬱屈は、結果サラリーマン生活を放り出して「フィクショネス」を開いてしまった程度には、度外れたものだったと思います。貯金も保険もつぎ込んで、親からお金も借りました。

ですから心情としては第一に独立ありきだったわけですが、その心情と「本屋をやる」というのは僕の中で完全に一致していました。ほかの商売はやったことがないし、本に囲まれているのが好きなのです。というより本の詰まった本棚のないところでは、恐らく僕は生きていかれないと思います。これは書店経営者の絶対条件でもなければ必要条件ですらありません。完全に僕の物神崇拝(フェティシズム)です。

(ちなみに僕は、今ではなんの証拠も残ってないからいいますけど、優秀なサラリーマンでした。最後の勤め先は新刊書店と古書店を両方経営していて、グッズの店やネット販売もありました。僕はこれらすべての店舗がひとつのデータベースで統括されるPOSシステムをさる業者に作らせました。その後その業者から独立の記念に超格安で譲られたのが「フィクショネス」のレジスターです。知っている人は知っているが、それはあの貧弱な店には似つかわしくないほど優秀なレジスターでした。)

とにもかくにも、なんでもかんでも、サラリーマンでだけはいたくないという動機で始めましたから、やることなすこと無茶苦茶で、場当たりもいいところでした。「サラリーマンでいたくない」というのは、要するに「人のいうことを聞きたくない」ということでしたから、本屋をやろうとは思っても、取次のいいなりにはなりたくなかった。それに取次と契約するには、開業前に補償金というのが必要で、それが店舗面積一坪につき五十万という話もあったくらいで、そんな金はありませんから、自分の売りたい本を神田村へ行って買い取って売ろうという、露店みたいな発想で始めました。下北沢ならそういう商売も、なんか成り立っちゃうんじゃないかと夢想したわけです。ちなみに下北沢の物件は、「月刊店舗」という雑誌に広告が出ていて、ひと目で気に入り、ほかは見ませんでした。(あ、今思い出しましたが、田舎暮らしに憧れて、越後湯沢駅前の物件を見に行ったりしましたが、やはり無理がありました)

開店当初はそれでもずいぶんがんばりましたが、やはり袋小路の二階、しかも雑誌もエロ本も置いてないのでは、赤字もいいとこでした。僕の計算では、一人で賃貸物件で書店を経営して仕入れ代や必要経費をさっぴいて、なおかつ利益(僕の給料)を出すには、最低でも日計五万円は売り上げなければならない筈でしたが、そんなに売れた日は十六年間で五日か六日あったくらいでしょう。のちに週末に人を集めて句会、文学の教室、詩の教室、といったワークショップの真似事をしてみましたが、さしてプラスにはなりませんでした。

本ではなく「自分を売る」

こんなところで、こんなやり方では、本は売れん、ということを思い知りました。

そこで考えたわけです。本を売ろうとしても、駅前で長いことやっている町の本屋さん(当時の下北沢では北口の「博文堂」が強かったです)にはかなわない。しかしせっかく下北沢という、明日を夢見る貧乏な街に店を出したんだから、この街の特異性をこっちに引き込むことを考えよう。すなわち、やりたいことを思うさまやろう。そして本ではなく「自分」を売るべきだと。

90年代後半の下北沢には、路上で無料マッサージをやる人だの、おもちゃのピアノの弾き語りだの、漫画の朗読家だの、儲かってるかどうかは相当疑問だが、やりたいことを勝手にやっている人が溢れかえっていました。路上で呼び込みなんかは恥ずかしくてできないけれど、僕だってやりたことはあるんだから、それを前面に出して生きて行こうと考えました。

そこで実行に移したのは、おもにふたつのことでした。ひとつはお客さんに必要以上に話しかけることです。「フィクショネス」には、いちどきに不特定多数のお客さんが来ることはめったにありませんでした。そこで入ってきたお客さんに、天気の話とか、棚から取り出した本についてとか、いろいろ話しかけてみました。まず六割から七割のお客さんには相手にもされず、煙たがられたりもしましたが、これで意外と店を気に入ってくれる人が増えました。やはり下北沢を訪れる人というのは、よそと違うものを求めているのだと思います。

もうひとつは小説を書き始めたことです。小説は子供の頃から書いていましたが、本腰を入れて書くようになりました。一年かけて『ぼくらのひみつ』という小説を書いて自分でプリントして店先で売ったりしたのは、今ではこっぱずかしい思い出です。この小説はのちに全面的に書き直して早川書房で本にして貰えました。

自分を売るために実行したこのふたつのことは、結果的にいくつかの大きな成果を生みました。お客さんの中にはフリーのライターや編集者がいて、雑文書きの仕事を回して貰ったりもしました。とりわけネットの占いサイトの「診断結果」を書くのは有難い仕事でした。タロット占いは自分でも「フィクショネス」のテーブルでよくやっていました。蛇足ながら僕の占いの唯一の欠点は、絶対当たってしまうことでした。タロット占いは、あるコツさえつかめば絶対に当たります。が、そのコツはもちろん、企業秘密です。

結婚相手もお客さんから見つけました。その女性(つまり現在の妻)がプレゼントしてくれた万年筆で、五か月かけて『おがたQ、という女』という小説を書きました。これが新潮新人賞の最終候補に残りまして、浮足立っていたら、「フィクショネス」常連だったあるフリーの編集者から、

「藤谷さん、これ受賞するかもしれないんだから、今のうちから次回作を書いておいた方がいいよ」

とアドヴァイスを受け、即座に書き始めたのが『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』です。ところが案に相違して新潮新人賞は落選してしまいました。意気消沈して「次回作」も中断し、占いライターで食いつないでいました。

「宝くじ」に当たる

それが2002年のことで、明くる03年の春、背のひょろ長いお客さんが「フィクショネス」にやってきて、店内をきょろきょろ見渡しました。

「このお店は、持ち込みの本がずいぶん多いですね」
「ええ、ウチは自費出版や持ち込みは、断らずに置いてます」
「……店長さんも、何かお書きになっているんじゃありませんか?」

そういってその背の高いお客さんは、名刺を出しました。そこには、小学館文芸編集部、と書いてありました。

この人に絶叫しながら『おがたQ』のプリントコピーを渡したのが、僕の小説家人生の始まりです。宝くじに当たったようなものでした。以来僕は書き詰めに書いていますが、それはこの心細い宝くじの幸運が途切れないよう、蜘蛛の糸をおっかなびっくりよじ登っているようなものなのです。

小説家になってからも、十年間、「フィクショネス」を続けました。理由はいくつかありますが、ひとつは「フィクショネス」にいるのが好きだったからです。もうひとつは誰でも好きな時に来られるのは、小説家としての営業面に役立つだろうという計算でした。実際、未知の編集者がふらりとやってきて、今度ぜひウチにも、というようなお話をいただくことは、ままありました。

しかし最大の理由は、見たことも聞いたこともない人々を見ることができる、たまにはお話もできる、という楽しみのためでした。「フィクショネス」を訪れてくださるのは、僕を知っている人ばかりではありませんでした。中学生や就活中の学生、おばさん、俳優、大金持ち、頭のおかしい人、ファンの人が台湾から来てくれたこともありましたし、近所の閉店した風俗店の行方を追っている税務署の人も来ました。書斎にこもっていたのでは決して出会うことのなかった人々と、ちらりとでも接することができるのは、小説家として得難い経験でした。

けれども書店としての収支が赤字という状態は十数年間、ついに変わりませんでした。そうして僕は五十歳になりました。働き盛りです。執筆の佳境に自動ドアが開いたり、電話が鳴ったりすることに、ややくたびれても来ました。より家賃の安いところに引き籠もって、集中して仕事がしたくなりました。

「自分」を売りたいと思ってやってきましたが、「自分」が売れたのです。こう書くと、なんだか「フィクショネス」を見捨ててしまったような、お店に対して申し訳ない気持ちが湧き上がってきます。あの場所は本当に僕を幸運で救ってくれました。今は、なんとか「フィクショネス」という名前(ボルヘス『伝奇集』の原題です)だけは残して、今後のパブリックな活動に使おうと思っています。

*   *   *

この原稿を僕は、新しく見つけた隠れ家で書いています。ここがどこかを知っているのは、僕と妻だけです。編集者も知りません。メールアドレスと携帯番号、それに僕の自宅の住所は、関係各所に知らせてありますが、ここのことは一切秘密にしています。

ついこの間まで僕は、日本でいちばん会える小説家でした。今は行方知れずです。しばらくはこの極端な変化を楽しみたいと思っています。

在りし日の「フィクショネス」の入り口に立つ著者。

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電子出版のマーケティングを考える(完全版)

2014年9月11日
posted by 鷹野 凌

本稿は、出版業界紙『新文化』2014年9月11日発行号に寄稿した原稿の完全版です。文字数制限でカットされた部分を残し、文体を敬体へ修正しています(著者)。

値引き以外の手段でどうすれば売れる?
『4P』に基づき論考

紙の書籍・雑誌とは異なり、電子書籍は再販価格維持制度の対象ではありません。だから電子書籍は販売促進策として、値引きを用いることが多いです。値引きコストを負担しているのは、出版社の場合もあれば電子書店の場合も、両社で折半している場合もあります。2割引や3割引は珍しくなく、中には7割引という 破格のセールもあります。

値引きは手間なくできて、効果の出やすい販売促進策です。ただ、安易に値引きを繰り返していると、ブランド評価を下げたり、通常価格で売れなくなったり、利益を圧迫したりします。では、値引き以外の手段で、どうすれば売れるでしょうか?

本稿では、マーケティング手段の代表的なフレームワークである『4P』に基づき論考します。要するに「何を」「いくらで」「誰が(どこが)」「どのように」売るのか? という話です。

製品施策(PRODUCT)
──売っていないものは買えない

初めに「何を」の「製品施策(PRODUCT)」について。何よりまず、ユーザーが欲しいと思う作品が市場へ供給されているかどうかです。ベストセラー上位に名を連ねている、東野圭吾氏、村上春樹氏、百田尚樹氏、西尾維新氏などの作品がまだ電子化されていないのは、電子書籍がなかなか普及しない理由の一つになっていると断言していいでしょう。売っていないものは買えないのです。

インプレス総合研究所は『電子書籍ビジネス調査報告書2014』で、2013年の電子出版市場を1013億円と推計していますが、そのうち8割はコミックとのことです。コミックはビッグタイトルが次々と電子化され、紙と電子が同日発売されることも珍しくありません。だからこそ電子コミックは売れているのです。著作権法改正で出版権が電子に拡大されたことが、作品供給拡大への後押しになることを祈るばかりです。

また、本の内容が重要なのは言うまでもありません。ただ、本は財を消費する過程で初めて特徴が理解できる「経験財」。表紙やタイトル・著者名はパッと見て 分かりますが、内容を読まずに価値判断するのは困難なので、内容紹介や他者の感想などの付帯する情報(メタデータ)が重要な判断材料となります。電子書店 によっては試し読みができない場合もあり、購入意欲を著しく削がれてしまいます。

これは電子書店に限らず、リアル書店にも言えることです。とくにコミックやライトノベルは、シュリンク包装した上で陳列されている場合が多いです。そこで電子書店アニメイトブックストアは、バーコードを撮影すると電子版の試し読みができるアプリを用意しました。実は、同様の仕組みはhontoやKinoppyなど他の電子書店でも提供されてきたのですが、リアル書店内での撮影は「デジタル万引き」「マナー違反」などと言われてしまう可能性がある矛盾も孕んでいるのが難しいところ。柔軟な対応が望まれます。

価格施策(PRICE)
──電子書店はサービス

次に「いくらで」の「価格施策(PRICE)」について。一般的に紙の本の販売価格は、コストの積み上げや類書の価格を参考にして決められます。しかし本来、ユーザーの認める価値と販売価格が合致するかどうかが重要です。

筆者は1年ほど前に、紙と電子の価格差を調査しました。紙と電子が同じ表示価格の場合もあれば、電子は安く設定している場合もあります。平均すると電子の表示価格は、紙の8割ほどでした。これは奇しくも、公正取引委員会が2012年11月から翌年2月にかけて、出版社に対し行ったアンケート結果と合致していました。このアンケートでは、紙に対し電子の希望小売価格は「八掛けくらいが妥当」という出版社が最多でした。すなわち、1年前の時点では「出版社が売りたい価格」が電子書店における表示価格になっていたわけです。

問題はこの八掛けが、ユーザーの認める価値と合致しているかどうか。これはもちろん、本のジャンルやターゲットとするユーザーにもよるでしょう。また、紙と異なり、物質を所有できず利用権の形で提供されるため、電子書店の閉鎖とともに消えて読めなくなるリスクに怯えるユーザーも多いです。DRM(デジタル著作権管理)の有無や、異なる電子書店間での本棚共有といった救済措置の有無も、価値判断に影響します。つまり、ユーザーは単に目先の安さだけに釣られるのではなく、電子書店をサービスとして判断しているのです。

電子書籍の販売で、ユーザーに最も近い位置に立っているのは電子書店です。電子書店側が販売価格の決定権を持っているホールセール(小売)モデルの場合、電子書店はユーザー動向を加味して販売価格を調整したり、短期間のセールで様子見したりします。

そういったユーザーの情報が出版社や著者にも共有されればいいのですが、電子書店だけが情報を握っていると言いなりにならざるを得ない場合もあるでしょう。それゆえ、出版社や著者自身が直販することにより、ユーザーの情報を取得していくようなことも必要となります。

流通施策(PLACE)
──ほとんどのユーザーは固定客

次に「誰が」の「流通施策(PLACE)」について。作品の対象が浅く広い読者を想定しているなら、なるべく多くの電子書店で扱いたいし、専門性の高いジャンルはブランド構築のため専門店だけに絞るという戦略もあり得ます。インプレス総合研究所によると、半年以内に1店の電子書店しか使わなかったユーザーは6割、2店までで8割以上を占めます。

つまり、ほとんどのユーザーは使い慣れた電子書店で買い続ける固定客なのです。だから、どの電子書店がどういうジャンルに強いかを把握しておくことも重要でしょう。また、読み放題やレンタルなど、特殊な利用形態を提供している電子書店もあります。著者との契約次第ですが、単巻売りが厳しい場合に選択肢の一つとして有望です。

取り扱い点数や配信先電子書店が多いほど、手間を省くため電子取次を使うメリットは大きくなります。しかし逆に、介在する人が多くなるほど、情報の伝達速度は遅くなります。筆者の経験上、取次経由で価格や紹介文の修正を依頼すると、反映まで数週間かかることも珍しくありません。売上げ報告も、締めてから60日後や90日後です。

直接取引なら、価格や紹介文の修正は遅くとも翌日には反映され、売上状況は毎日確認でき、翌月中旬には確定数字が出てきます。直接取引できないとしても、せめて数日レベルで修正が反映可能なシステムにして欲しいところです。

プロモーション施策(PROMOTION)
──SNSはコミュニケーションツール

最後に「どのように」の「プロモーション施策(PROMOTION)」について。マスメディアやネットメディアを使った「広告」、値引きやクーポンを使った「販売促進」、ニュースリリースや編集記事を用いた「広報」、ユーザーによる「口コミ」、そして関係者による「直接販売」などがあります。

販売促進策として、BOOK☆WALKERの『きせかえ本棚』はユニークです。購入特典として、そのシリーズ専用の本棚イラストがプレゼントされるため、コレクションとしての満足度が高いです。

ツイッターやフェイスブックに代表されるソーシャルメディアは、ユーザーも著者も編集者も同じフィールドに存在でき、作品の購入もインターネットでできるため、有効的なプロモーション手段です。ちょっとした空き時間で、著者や編集者が「手売り」できます。ただ、投稿内容がいつも商品の宣伝だけだと、ユーザーから敬遠されてしまいます。ソーシャルメディアはあくまでコミュニケーションのためのツールです。

小学館の『CanCam』がGoogle+を活用し、『新世代モデル』オーディションの一次選抜をユーザーが選ぶ形で行ったのは、コミュニケーションツールとしての特性をうまく活かした事例と言えます。

逆に「炎上」を恐れるあまり、ソーシャルメディアへ投稿する度にいちいち上司の決裁が必要な企業もあると聞きます。なんとバカバカしいことでしょう。即応性がソーシャルメディアの醍醐味です。現場を信用できず充分な権限と責任を与えられないのであれば、ソーシャルメディアの活用は諦めたほうがいいです。ましてや「電子書籍の拡販」など望むべくもないと断言しておきます。

※この記事は鷹野凌さんのブログ「見て歩く者」に2014年9月11日に掲載された、「”電子出版のマーケティングを考える” を出版業界紙『新文化』2014年9月11日発行号に寄稿、完全版を公開します」を、クリエイティブ・コモンズ 表示・非営利・継承 2.1 日本 (CC BY-NC-SA 2.1 JP)  のライセンスにもとづき転載したものです。

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第6回「未来の図書館」を試しにつくってみる

2014年9月9日
posted by アサダワタル

奈良県立図書情報館「佐保川ラジオ」の実践から

最近、本屋や図書館で開催される企画に携わることや、「本のある場所」の未来について考えることが多くなってきた。その背景には、当然のように「売れない」とか「もうネットでいいじゃん」といった、その場所の存在意義を激しく揺さぶる問題意識が存在している。

だからこそ、「本」を通じて人と人とが語り合うような独創的な場づくりに注目が集まり、本屋も図書館もそのようなイベントの開催が増えているのだろう(本と人とをつなぐ仕掛けづくりについては、寄稿した「LRG(ライブラリー・リソース・ガイド)」の第5号もぜひ参考にしてほしい)。一介の書き手としては、本が売れなくなるのは正直困る。でもこういった「本を使った実践」に対するニーズが増えてきていることは、「本」や「本のある場所」をいかにして愉快痛快に使いこなすかをテーマに連載してきた立場としては知恵の絞り甲斐があるってものだ。

そして、今回のテーマは「未来の図書館」だ。そんな大層なテーマを僕が扱えるのかって問題も重々承知の上だが、この『マガジン航』で掲載された「未来の図書館をつくる座談会」の内容も踏まえつつ、そこで語られたビジョンに対して、具体的なアクションを通じて細やかながら「応答」をしてみたい。そのアクションとは奈良県立図書情報館で開催された「佐保川ラジオ ―未来の図書館のためのメディアプログラム2014―」である。

まずはその概要紹介をしつつ、その中でもとりわけアーティストの藤本由紀夫氏によって語られた講座「未来のアーカイブ」の内容に突っ込んでいきながら、本稿を展開していこうと思う。

図書館で一日限りのラジオ放送

2014年5月26日、奈良県立図書情報館で「佐保川ラジオ ―未来の図書館のためのメディアプログラム2014―」と題されたイベントが開催され、僕は企画構成の一部と司会を担当した。図書館のすぐ横に流れる佐保川(さほがわ)の名を冠につけた、この企画の趣旨は以下のようなものだ。

いろんな人が集って、新しいコンテンツとコンテクストが生まれて、発信されて、同時にアーカイブされていく。そんな新しい図書館のあり方を探るために、奈良県立図書情報館で1日だけのラジオ局を開局します。特設の公開スタジオから、音楽ライブからトークまでさまざまなプログラムを発信します。(企画チラシより)

本連載の第5回でもお伝えしたように、この奈良県立図書情報館は、以前から「本」というリソースを、人と人が出会う触媒(メディア)として考え、数々の先駆的なイベントを開催してきたところだ。僕も、介護民俗学を提唱する六車由実さんと行なった「本の原点」を探る対談企画や、地域コミュニティに関するトークイベント、音楽ワークショップなど、様々な企画でこの図書館に関わってきた。そして、今回はなんと「図書館で一日限りのラジオ放送」を行い、「公開収録スタジオ」と化した会場でのトークとあわせて、Ustream を活用した音声配信を展開したのだ。

会場では「未来の図書館」というテーマに何かしらの関わりを持つ美術家、編集者、オーガナイザー、批評家、ミュージシャン、本を活用したワークショッププログラムに取り組む実践者たちを中心に番組プログラムが編成された。このなかから主要な番組をいくつか紹介しよう。

こちらは12時から配信されたトーク番組「ようこそ、ライブラリアン!!! 図書館は僕らのプレイグラウンド」の様子である。ゲストは中野裕介氏(写真右手)、聞き手は本企画ディレクタ―の浅利大生氏(写真左手)だ。会場は出入りが自由で、各テーブルには、番組プログラムに関連する様々な蔵書が置かれ、トークを聴くもよし、本を読むもよしといった場づくりが展開されていた。

中野さんは、「パラモデル」という現代美術ユニットにて活躍する傍ら、パートタイムの図書館スタッフとしても働いている。パラモデルは、プラレールや水道管など、身近な玩具や日用品を用いた大規模な模型的インスタレーションを展開することで有名なユニットだが、中野さんからすれば「図書館もメタフィジカルな情報の模型」らしく、アーティストとして図書館という現場を見つめる彼の視点は大変興味深い。このトークからは、図書館に膨大に収められた書籍や資料を「情報の模型のパーツ」と捉え直し、読書や調べものだけでなく、そのパーツを使って創造的な何かを生み出すことの可能性を多分に感じることができた。

9時間にわたる番組の総合パーソナリティを務めたのは、FMでラジオパーソナリティを務めた経歴をもつジャンヌ・フォーサイス氏(写真右手)だ。「生番組」であるトークやライブと、事前に収録したコンテンツを巧みに繋ぎながら、軽快なトークを披露してくれた。

こちらは17時半から配信されたコンサート+トーク番組「4分33秒と4分33秒論」の様子。ゲストは音楽家の中川裕貴氏(写真ともに左手)と批評家の佐々木敦氏(下の写真右手)だ。現代音楽作品の代名詞とも言えるジョン・ケージの楽曲「4分33秒」をラジオ番組で実演するという実験的な取り組みを行なったうえで、ちょうどこの時期、『「4分33秒」論――「音楽」とは何か』(Pヴァイン)を上梓した佐々木さんを交えた音楽番組が展開された。

こちらは17時半から配信された討論番組「未来の図書館についてみんなで考える」の様子。僕が司会進行を務めさせていただき、お客さん参加型の討論番組を作り上げていった。一日の流れを振り返りながら、「未来の図書館に収蔵してほしいもの」「未来の図書館にあったらいいなと思うサービス」「予想! 未来の図書館はこうなる…!?」という三つのお題に向き合った。参加者の中には図書館関係者も数人いて、現実と理想のギャップも含めたリアルな意見が散見された。

「本」の生成と収蔵のサイクルをつくりだす

ざっと全貌をかいつまんで紹介してきたが、この企画は当日のラジオ配信だけに留まるものではない。大事なポイントとして、これらの配信内容はすべて音声で記録され、のちにこの図書館に「資料」として「収蔵」されるということだ。本企画のディレクターの一人である奈良在住の音楽オーガナイザー 浅利大生氏は、ラジオの冒頭で企画背景をこのように語った。

浅利:もともとは音楽イベントの企画の依頼をいただいていたんです。でも、普通にやっても音楽に関心がある人しか来てくれない。実は自分自身も普段(別の)図書館で働いているので、もっと図書館という特性を生かした企画をしたいと思っていたんですね。そこで“ラジオ”というアイデアが出ました。ラジオ(番組)という場づくりをすることで、音楽に限らずいろんなジャンルの企画も混ぜこぜにできるし、総合的に“図書館の使い方”を語ることができると考えました。

さらに、その全編を記録すれば、図書館の資料として収蔵できるのではないかと。そう、だからこのイベントは、本がその場で生まれて図書館にアーカイブされるというサイクルを、ラジオというコンテンツを通じて自前でやってしまう実験なんです。

浅利さんが意図する「本がその場で生まれて図書館にアーカイブされるというサイクル」とは、もう少し細かく言えば、図書館という場所ならではの情報リソース(ごく端的に言えば「本」)を肴に市井の利用者が語り合い、その語り合った内容が何かしらの形で記録され、媒体化され、その媒体がその図書館にそのまま収蔵され、そして今度はその媒体を肴にしてまた誰かが語り合い……といった永遠に続くサイクルのことだ。

この話に近い内容を、「未来の図書館をつくる座談会」(Part 2)でnumabooksの内沼晋太郎氏が以下のように発言している。

内沼:(略)それぞれで生まれた「読み」みたいなものが、それぞれの館で記録されていると面白いですよね。(略)「知」とか「データ」がインターネット上ですべて共有されるとしたら、地域にあるリアルな図書館の財産は、突き詰めればそこにある情報ではなくて、むしろ周りにある環境や周りに住んでいる人だということになる。

これは完全に未来の話になってしまうけれど、たとえば、ある本を読んでこう考えた人がいる。その人はどうやら世田谷区のある図書館の近くに住んでいて、そこで読んだらしい。だったら自分も図書館に行って、その人とちょっと話してみたい、ということで出会った二人が話したことが、またインターネット上で共有される……みたいな。

「佐保川ラジオ」は、まだまだ「イベント」という枠を借りて実験している段階だ。いわゆる市井の図書館利用者が自発的にこのような取り組みをするに至るまでには、図書館側、利用者側双方にそれ相当の(「本」を使いこなすという意味における)メディアリテラシーが求められるだろう。しかし、こういった取り組みが、図書館側と外部のディレクタ―のタッグによりひとまずモデル的に進められていくことは、今後も増えゆく可能性を僕は感じているのだ。

「ラジオ」という体裁が生み出すアーカイブ

ただトークを収録するだけではく「ラジオ」という体裁を取ることで、僕は収蔵される媒体化への手間を結果的に省くことができると考えている。再び「未来の図書館をつくる座談会」(Part 2)から内沼さんとリブライズの河村奨さんの以下の発言を引いてみたい。

内沼:「本」の価値は「書かれたこと」がすべてではなくて、それを読者がどう受け取って頭の中でどう理解し、どう考えたりするかによって違ってくるし、そういうことが生まれてくるのが、本の良さでもある。でも「どう読むか」は人によって違うし、ある人と人が出会って読み方がぶつかったときに、またそこから新しい方向に発展したりする。ここまで含めて全部が「本」だとすると、「知」はいろんなところに渦巻いている。いま話しているこの座談会も、録音しているだけでmp3というファイルになるわけで、突き詰めれば、それも図書館の収集対象になってしまう(笑)。

(中略)

河村:
固定化には、つねにコストがかかるんですよ。そういう意味では、電子書籍はまだコストが低いほうにある。でも、いましゃべっているこの話を全部文字に起こすかどうかは、内容によりますよね(笑)。つまり、その部分にどのくらいコストをかけるかという話が、固定するかどうかの判断にかかってくる。

このくだりは大変興味深い。例えば「佐保川ラジオ」にしても、トークの内容をいわゆる「冊子本」として収蔵しようという話であれば、その作業コストたるや膨大だ。9時間の内容を文字に起こし、しかも「イベント」に参加していないと伝わらない視覚情報やライブ感をどうやって文字化するかなどなど……。結局、大幅な「編集」を加えないと読み物として成立しないことになってしまう。しかし、だからといってトークイベントの音声を記録したものをそのまま収蔵するだけでは、それを初めて聴く人にはやはり伝わりにくいだろう。そこで「ラジオ」という手法の出番だ。なぜなら、ラジオはそれ自体がリアルタイムで行なわれる「編集」行為だからだ。

「佐保川ラジオ」は、トークイベントではなく、あくまで「ラジオの公開収録」という体裁をとった。目の前に(トークイベントという意味では)参加者がいるにも関わらず、ここにはいないラジオのリスナーに向けて語りかけるという話し方を重視していた。この場にいなくても音声のみでわかるように語られた内容は、現場固有の文脈がいい意味で削ぎ落とされ、後々アーカイブにアクセスしたときにも聞きやすいという意図もある。さらに具体的な工夫として、「ジングル」や「CM」(ゲストに関連する情報や本にまつわるイベントの告知)を定期的に挿入することで、トークの進行が間延びしないような、聴く人にとって心地のよいリズム感を生み出したのだ(余談だが、僕の司会も往年の田原総一郎氏のように、強引かつ熱っぽい振る舞いを意識した)。

無論、「誰でもラジオなんてできるわけじゃないだろ!」というツッコミは覚悟のうえだが、技術上もそれほど複雑なことはやっていないようだ。ジングルを用意し、関係者に15秒くらいのCMを(凝らなければiPhoneのボイスレコ―ダーなどで)簡易録音してもらったMP3データを収集すればいいし、配信に関してもネット環境さえ盤石であれば、普段のトークイベントの音響機材にあわせてユーストリーム配信のアウトプットを設けるだけで実現可能だ。

あとは、本業のラジオDJでなくとも多少喋れるスタッフを配置すればコトは進む。トークの内容を文字に起こして編集するのもいいが、こういったラジオという体裁でリアルタイムに編集しながら、同時にアーカイブを生み出していくことも、ひとつの実践として各地で行なわれてもいいのではなかろうか。

「未来の図書館」についての具体的な提案—藤本由紀夫氏の言及を踏まえて—

さて、ここからは、14時から配信されたアーティストの藤本由紀夫氏(写真右手)による教養講座「未来のアーカイブ」にて語られた内容に言及しながら、引き続き「未来の図書館」についてより具体的な提案を行なっていきたいと思う。

ちなみに、聞き手は「佐保川ラジオ」のもうひとりのディレクターである編集者の岩淵拓郎氏(写真左手)。岩淵さんと言えば、本連載2回目で取り上げた「一巻書房」の主宰であり、以前から「本を使いこなす」ことに対して様々なアプローチをしてきたユニークな人物だ。なお、本稿では奈良県立図書情報館に特別に許可をいただき、この藤本氏のプログラムのみネット上での音声公開も実現した。テキスト上では二人の発言に対して僕なりの編集を加えているが、語られた内容をすべてそのまま知りたい方はぜひ音声を参考にしてほしい。

紙の本のすごさと電子書籍ならではのアーカイブ

では、これからトークの内容で興味深い箇所をいくつか抜粋しながら、「未来の図書館」を考える上でのポイントを確認していこう。まず、最初は「紙の本」の可能性を強く実感してきたという以下の言及から紹介する。

藤本:まず図書館の前に、「本」というものに興味を持っていたんですね。1993年に『タルホ・フューチュリカ』という電子書籍が出版されたんです。稲垣足穂の作品を収めた電子本でした。ボイジャーが電子出版物用のファイル形式である「エキスパンドブック」を開発し、この作品が出版された。それを知り合いがプロデュースしていて、これに音楽を付ける依頼を頂いたんです。それがきっかけとなって本格的にMacを触ったんですよ。

最初はバックグラウンドで音を付ける感じで頼まれていたんだけど、そのハイパーカードのプログラムの仕組みを見ていたら、「これで、文章の文字数と音の高さを関連づけて読めるようにしたら作曲できるなぁ…」と。そこでプログラムを作ってね、それがすごく面白かったんですよ。その時に僕は「21世紀は紙の本はなくなるな」と思って、じゃあどういう形の本ができるのかって考えてみた。つまり「本の未来」に強い興味を持ったきっかけがこの電子本だったんです。

岩淵:僕はその時代ってギリギリ知っているか知らないかぐらいの世代なんですよ。例えば本という形態が電子化されていく中で「もう紙の本はなくなるぞ」みたいな時代の盛り上がりってあったんですか?

藤本:このときはすごくありましたね。ボイジャーも、Appleがパワーブックというノートブック型のコンピューターを出したんですが、あれを見た時に「本を開くスタイルだからこれは本なんだ」って思って、こういうエキスバンドブックという電子書籍ソフトを作ったらしいのですね。(略)

岩淵:藤本さんもその時は新しい形態に対する新しい可能性への期待というか、ある種のドキドキ感があったわけなんですよね?

藤本:もちろんそれはあった。マルチメディアだからテキストだけでなくてグラフィックも音声も入れられるわけで。音の作品を作っている者とすれば、「本の中に音が入れられるんだ」というのがまさに理想郷だな、という浅はかな考えを抱いていたんですよ(苦笑)。悲しかったのが、1993年にできたこの本が4〜5年でもう読めなくなってしまったこと。(略)そのとき、愕然として。21世紀に紙の本がなくなるって思っていたら、20世紀中にこの本が読めなくなるっていう…。

そこで「デジタルって弱いな」って実感して。VHSもその頃もう危ないぞって言われていたし、新しいとされていた色々なメディアが10年後まで持つんだろうかって考えたら、全部危ないなって思ったんですよ。それに引き換えて紙の本といったら、10年後は絶対あるっていう確信というか。そう考えると「紙の本ってなんてすごいんだろう」という方向に今度は興味がわいていったんです。

藤本氏が制作した『タルホ・フューチュリカ』については、かつて本誌でも音楽批評家の川崎弘二氏が取り上げていた(「タルホ・フューチュリカ」をいま読むには)

藤本さんと同じく、川崎さんも

「タルホ・フューチュリカ」という17年前の電子書籍を、意図された形態で「読む」ためには、古いMacintoshを常にメインテナンスした状態でキープし続けるしかないのかもしれません。今回の経験は、メディアを使用したさまざまな芸術作品と同様、電子書籍もいずれは消失し、厳密な意味では再演・再現不能になるという、当たり前といえば当たり前のことを、あらためて考えさせられる機会となりました。

と述べているように、当時のテクノロジーに依存した「本」をその意図通りに読み継いでいくことの限界という、電子書籍ならではの問題が指摘されている。それを回避するには「やっぱり紙の本だよね」となるのは納得できる話ではあるが、しかし一方で僕は、電子書籍の進化に伴う「本」の表現の可能性を見届けていきたいという思いもある。

と同時に、テクノロジーの進化は必然的に過去のメディアを産み落とすものなので、それらを歴史的・文化的に価値あるものとして享受する機会を図書館が設けることにも意味はあるだろう。端的には、「『タルホ・フューチュリカ』をいま読みたい!だったら図書館へ行こう!」という図書館になればいいのではないだろうか。これを実現させるには、「未来の図書館につくる座談会 」(Part 3)にてリブライズの河村さんが語った、

河村:図書館に、これまでに出た電子書籍が再生できる完璧なエミュレーターを置けばいいと思うんです。ある世代の電子端末が使えなくなったら、それらを包含するエミュレーターを作る。何十種類かのエミュレーターがあれば、100年前に出た電子書籍であっても、読めるようにするのは技術的には難しくないはずです。

この提案が現実味を帯びてくる。現在の電子書籍がいずれ『タルホ・フューチュリカ』のような事態になることは当然見越したうえで、電子書籍ならではのアーカイブについて様々な試作がなされていくべきだろう。

文字だけでは伝わらない何かを伝えるための場所

藤本さんは、「音」を扱ってきたアーティストだ。それゆえに、誰かによって語られたことが文字起こしされたとしても、文字だけでは伝えられないものがたくさんあることを痛感してきた。そこで今回彼が準備したのが、敬愛してやまない稲垣足穂氏が出演したNHKラジオのインタビュー音声である。

藤本:ラジオと言葉と本というテーマで、僕の強烈な体験の素材を持って来ました。(略)1970年の4月なんですけど、朝起きて新聞のテレビ欄を見たらラジオのところに「稲垣文学の世界」って書いてあって、NHKのインタビュー番組だったんです。朝の9時からでして、もう数分前だったんですが「おっ!」と思って家にあったオープン(リール)のテープレコーダーに録音したんですよ。

僕は稲垣足穂の声をこのとき初めて聞いたんですけど、繊細なイメージを持っていたんです。神戸で若いとき生活をしていて、モダンな小説を書いていたので、洒落た繊細な人かと思っていた。でも、いきなりガラガラ声で関西弁で早口で吃ってて、まったくイメージを覆されたんです。「読んでいるイメージと声ってこんなにも違うのか…」と思ったんですけど、聞いていて10分くらいしたらね…。

稲垣足穂って1900年生まれで10代の頃はライト兄弟が飛行機で飛んで数年後ですから、いわゆる飛行機乗りになりたくて。一分の一の飛行機(の模型)を神戸のトアロードのところでみんなで造っていたらしんですよ。その頃の話を聞き手の瀬戸内晴美(現在の瀬戸内寂聴氏)が聞いていたら、この恥ずかしがり屋の70くらいのおじいちゃんが当時のことを思い出しちゃったんでしょうね。そこがね、すごいんです。

著作権の関係でNHKラジオの音声を読者に聴いていただけないのは残念であるが、このあと、稲垣足穂氏は、プロペラが回り出すときの音を、突然大声でこう表現したのだ。

「コンタックペ、コンタックペ、ブルルルルルルルルルルッ。」

藤本:その時、「稲垣足穂って本当にすごいな」って思って。何年か経ってこの対談が全部文字起こしされて単行本に収録されたんですけど、それを読んでみたら、まぁ当然ですけどカタカナで「コンタックペ、コンタックペ、ブルルルルルルルルルルッ。」なんですよね。(略)でも無理なんですよ。文字でこの情報を伝えるのは。なんて言ったかといわれれば「コンタックペ」かもしれないけど、流れで聞いていくとすごい人だってわかる。何を言っているのか理解してではなくて、話し方とか全部ですよね。音楽聴いているみたいなもの。(略)そのなんとも言えない音の情報もすごく大事だってことを、このとき強く思ったんです。本来、マルチメディアに興味をもったのはそういうことからだったんですね。

この発言からは、「本」という存在が意味を理解するためだけにあるのではなく、「体験」を伴うメディアとしてどのように編まれるべきかを考えさせられる。だからといって「本を開けば、当時のトーク音源も同時に流れる」みたいな単純な発想の話ではない。僕が考えるポイントは、「未来の図書館」が文字だけでは伝わらない何かを伝えるための場所として、どのような創意工夫ができるか、ということだ。

活字化された内容の音源にアクセスできるという「過去のアーカイブを参照する」レベルのものから、この「本」を元に新たな体験を生み出す「未来に向けた二次創作」というレベルまで様々にあるだろう。僕は後者に可能性を感じている。抜け落ちた「体験」を過去に遡って補うだけでなく、この「佐保川ラジオ」の実践のように、図書館にある「本」を肴に新たな「体験作品」を創作するような場づくりを行なうという発想。言い換えればそれは、図書館で誰もが行なっている「読書」という行為そのものの意味を、新たに捉え直すことにもつながるのだ。

「読書」という「体験」を創造する図書館へ

藤本さんは、自身の音作品の制作経験を振り返りつつ、以下のように語る。

藤本:「インタラクティブ」って言葉がよく言われますけど。その場合はただ作品が出来上がっただけでは、実は作品は完成していない。つまり、鑑賞者、誰か受け取り手が積極的に参加する必要があるんです。本にしてみても、本を持っていることと、本を読んだこととは違うわけですよね。(略)本っていう形のあるものだけがあるわけではなくて、それを読むっていう行為がカップリングされて初めて成り立つ。つまり書物と読書が対になっているわけです。それは、楽器を演奏することと同じなんですよ。僕の作品もオブジェを作るんだけど、それをどう体験するかは、鑑賞者の力に寄るところが大きい。だから僕の作品は本と似ているなぁと思っているんです。

岩淵:最近よく図書館で本を使ったイベントがたくさん開催されていますが、本をイベントにすると「本自体のイベント」になるんですよ。「読書」という行為がそこからこぼれ落ちることがあって。本というのが真ん中にあるのに、本を読んでいるイメージがないというか。先ほどの「書物と読書が対になっている」というお話はなるほどと思いまして、確かに藤本さんの作品って本当にそういった(コミュニケーションを伴う)作品ですよね。

藤本さんに言わせれば、「書物と読書が対になっている」のは「楽器と演奏が対になっている」のと同じなのだ。この非常に「体験」的な「読書」のあり方は、さらに具体的な提案につながっていく。この大きくて真っ白な「本」の存在がその象徴だ。少し長いが引用する。

藤本:100頁で、サイズが1頁40cm×60cmです。なんでこの大きさかっていうと、これは本ですから「読書」してほしいわけですよね。それで「読書」っていう行為がこれからどうなるか、という関心がひとつあるんです。僕自身も今、本は大体はネットで読むんですよ。それこそ17世紀の本とかGoogleが全部スキャンしてますから、とんでもない書籍がPDFでダウンロードできて、とっても便利。

それから、本屋に行ってもこのくらい大きい本はなかなか扱えないでしょうし。以前、イームズの写真集が本屋に売っていて、すごいいいなって思ったんですけど、買おうと思ったら重たすぎてレジまで持って行けないくらいだったから、家に帰って結局Amazonで購入した。だからその場所に本があるってことは、自分のなかで機能しなくなっているんですね。便利な電子ネットワークの中にデータがあればすぐアクセスできて手に入れられる。欲しい本はいくらでも送ってくれるんだけど、そうすると文字情報が電子化していく流れは避けられないと思うんです。

じゃあその後で、「読書」という行為にいったい何が残るんだろうって思って気がついたのが「紙の魅力」だなと。あともう一つはこの本が「楽器」として捉えられるのであれば、それをどう「演奏」するかっていうのは「演奏者」の技量なんですよね。これを一つの「曲」として出して、この「本という楽器」で「演奏」する、というのがこの大きな本の作品の目的なんです。

紙の種類が25種類、2枚ずつで50枚、計100頁を僕がプログラミングして、配列してあるんですよ。そうすると頁をめくっていくと紙が違うんですよね。(実際にめくりながら)当たり前のことですが、紙が変わると指の感覚が変わるんですね。この指先で読んでいるってことがよくわかるんですよ。それとこれだけ大きいと、めくるときのこの変化が絶妙に違ってくるんですよ。

さらに全然印刷されていないんです。紙ばっかりが出てきて、100頁ありますけど印刷された頁は10頁のみなんです。しかもほんとにちょっとした言葉だけが入っている。一つの音として自分で演奏して、本っていうものを体験できる。だから文字とか画像を見るだけが本じゃない。文字や画像だけならもう電子ネットワークで見られるけど、この紙を「めくる」という行為、「読書」という行為のこの贅沢さは、こういう物質があって、こういう形をしていて、自分でこうやってめくらないと楽しめない。

たぶん未来はこうなると思うんです。だから図書館ってこういうことを体験する場所になっていくのではないかって思って、この本を発行したDNP文化振興財団より、奈良県立図書情報館に寄贈させていただきました。

岩淵:実は昨日この作品を受け取りまして、思ったより大きいと感じました。それでとりあえず自分で全部めくってみたんですよね。本当に「読書してるな」っていう時間になるんですよ、不思議とね。すごくそれが面白くって。それで本がもしこういう風になっていくとしたら、美術館や博物館と図書館との境界がますます見えにくくなっていくような気がしたんですが。

藤本:そうですね。昔、ヨーロッパでは版画は図書館で見せるものだったという話を聞いて、はっと思って。だって版画ってプリントなんだから、印刷物は図書館なわけですよね。それと美術館や博物館はコレクションが主なんですよね。コレクション自体はいいんだけど困ることがあって、それは収蔵してしまうと人に触らせないということなんです。僕のように手にとって鑑賞してほしいとか体験してほしい人にとっては、いい場所ではないんですよ。

図書館がいいところはコレクションはするとして、それを読みたい人に対して手に取って読んでもらえるシステムがあること。これはすごくいいことだなぁと。だから理想は自分の作品は実は図書館に収めたいんです。図書目録みたいに作品の目録があって。この作品を自分は観たいなと思ってカウンターに行ったら作品が出てきて、しばらくの時間その作品と一緒に過ごして、また返すというシステムだとすごくいいと思います。これからの図書館は紙の本だけでなく「もの」(オブジェ)として収蔵していくジャンルをなんとか広げてもらえないかという気持ちを持っているんです。

図書館って未来があるんですよ。まだ手をつけていないことがいっぱいある。だから今を守る必要はないんですよね。もう電子ネットワークは便利なわけなんですから、そっちでできることはどんどんそうしていって、それで電子ネットワークではできないこと、つまりわざわざその場所に行って体験できるっていうことがこれからの図書館ならではの役目なんじゃないでしょうか。

電子書籍ではなく、実物の「本」にしかできない「体験」を提案する図書館。文字情報だけでなく、一つの「もの」としての「本」を扱っていく方向性は、岩淵さんが言うように博物館、美術館とのあり方と重複する点が多いだろう。でも、ガラスケースに入っている作品をありがたく眺めるだけでなく、実際に手にとって「使う」ことができるのは図書館のすごいところだ、と藤本さんは語る。

言われてみれば、僕らは何の疑問もなく図書館にある本を直接手に持ち、かつ家に持ち帰っていた。これが美術作品だと、ほぼありえない話だ。つまり、「もの」としての「本」という視点からすれば、あらためて図書館の寛容さに驚かされるというわけだ。

岩淵:図書館という場所が基本的に開かれているというか、市民が使える状態にしておくという前提がある中で、アーカイブや所蔵する際に、美術館、博物館なら学芸員がいて「この作品をうちでこれこれこういう理由で買いましょう」ということがありますよね。でも図書館では「開かれている」という事実を前提にして、「じゃあ何を入れようか」って話になる際に、どういう基準で(そういった「もの」としての「本」の)収蔵を考えればいいんでしょうか?

藤本:図書館が「開かれている」なんていう嘘はやめたほうがいいと思うんですよ。無理でしょう。国立国会図書館のようにすべてのものを所蔵するってことが物理的に無理だと思うので、各々の図書館がそこなりの方針でものを持つっていう風にしていかないと。そんな「開かれている」からって、みんなの要望を聞いていてもブックオフと同じになってしまいますよね。だったら図書館として意味がないと思います。

「あの図書館に行けばこれについては持っている」とか、「それについて知っている司書の人がいて、話を聞くと教えてくれる」とか、「こっちの図書館に行けばまた違う分野の…」というふうになっていくといいのではないでしょうか。それこそ旅行がてらに立ち寄るとか。そうすることで、ちゃんとした施設としての存在意義が逆に出てくると思うんです。

岩淵:藤本さんの作品がもし図書館に収蔵されたら、作品がちょっと壊れたり、傷んだりしてくると思うんですけど、それはアーティストというお立場からはどうなんでしょうか?

藤本:本だって修復の人がいるわけだし、それは直せばいいって感覚ですね。傷んだり、壊れたりするのが駄目だから、人に見せないとする方がいいのか、当然人が使えば傷んだりするんだから、そのときはどうしたらいいかを考えておくかで変わってくるし、そうやって壊れるのがいやだったら図書館に寄贈しなければいいと思います。あんまり最初から否定的なことから計画していくと、未来っていうのは絶対つまらなくなる。ある程度楽天的な人が考えていかないと、面白い展開にはならないと思います。

大事なのは、利用者が文句を言わないことですね。読書している人がだんだんお互いに本を傷めつけているわけだから、文句を言い出すと読書ができなくなってしまう。そうすると自分に返ってくるわけですよね。図書館を運営する人と図書館を利用する人が一緒に図書館を作っていくって考えていけば、「開かれている」とか言う意味はあまりなくなってくるんじゃないでしょうか。

どこまでも「開かれている」という不可能性を逆手にとって、あらためてその地域や文脈固有の図書館を各地で生み出していくことに意味を見出すべきだというのが藤本さんの考えだ。

運営者と利用者が共に図書館を作っていくという発想は、(藤本さんが言っていることはどちらかと言うと “意識” の問題であることは踏まえつつも)計画・建設段階から地域住民とのコミュニケーションを重視しながら、ハードとプログラムと同時に生成していく、昨今のコミュニテイデザイン的観点を踏まえた美術館構築の現場(例えば青森県八戸市の「八戸ポータルミュージアム はっち」や福島県猪苗代町の「はじまりの美術館」など)の動きも参考にできるかもしれない。

まとめ:イマココから「未来の図書館」を始めてみよう

さて、ここまで奈良県立図書情報館で開催された「佐保川ラジオ ―未来の図書館のためのメディアプログラム2014―」の仕組みと、その中で語られたアーティスト 藤本由紀夫氏の言及を元に、「未来の図書館」をつくるうえでの提案を行なってきた。また、本誌で掲載された「未来の図書館をつくる座談会」とも絡めることで、昨今の“未来の図書館的談義”で語られやすい内容を、より具体的な提案へとつなげてきたつもりだ。

 ・「本」の生成と収蔵のサイクルをつくりだす
 ・「ラジオ」という体裁を活用するアーカイブ
 ・紙の本のすごさと電子書籍ならではのアーカイブ
 ・文字だけでは伝わらない何かを伝えるための場所の構築へ
 ・「読書」という「体験」を創造する図書館へ
 ・「開かれている」という不可能性を逆手にとる

こういったキーワードを並べつつ、僕が最後に言いたいことはとっても基本的なこと。まず細やかな取り組みでもいいから、これらの観点を踏まえたモデルケースを、ある意味質を問わず乱発してみることの大切さだ。

語るだけでなく実際に「イマココから未来の図書館像を小ちゃいながらも具体的につくってみる」ことを繰り返し、同時にその取り組み自体を「本」として図書簡に収蔵し、発信していくことまでを愚直にやる。しかしそれはあくまで「モデル」だ。その実践の先でより問われてくることは、いわゆる(僕らのような)文化的な企画をすることや執筆を専門とする者ではなく、その地域ごとに存在する市井の図書館利用者自身が取り組む、有象無象の小さな実践に対してこそ「ここには未来の図書館の片鱗がすでにあるのではないか」という視点を一層向けてゆくことだと思う。モデルを積み重ねることで、それらの実践を見出すための視点の解像度をとにかく高めていくということだ。

そこに何か特別な「運営者と利用者が一緒にやってます」といった「開かれた感」がなくとも、「本」や「図書館」を使いこなすという意思を自覚した者同士が、暗黙の了解のもとで共に未来の図書館を作り上げてゆくといった、数々の萌芽が見られるに違いない。

(次回につづく)

Editors’ note

2014年8月30日
posted by 仲俣暁生

今年の春に日本語訳が刊行されて以来、ことあるごとに人に薦めている本があります。アメリカの新人作家、ロビン・スローンの『ペナンブラ氏の24時間書店』(東京創元社)という小説です。

これがどういう作品で、ロビン・スローンがどういう人物であるかは、他のサイトでこんな記事を書いたことがあるので、そちらを参照していただくとして、なぜ多くの人に『ペナンブラ氏〜』を読んでほしいかというと、この本は私がずっと抱いていた不満をズバリと言い当て、しかもスカッと解消してくれる本だったからです。

それはどんな不満か。ようするに、「本が好き」な人はウェブやテクノロジーの話題に疎く、逆にITやネットの専門家とは、本について突っ込んだ話をすることが難しい。文理融合の呼び声がかかって久しいですが、少なくとも日本では「二つの文化」(C. P. スノー)の間の壁はいまだに高く、溝は深い。しかしこの小説は、「本」と「コンピュータ」のどちらの世界にも当分に足をかけ、その広がりの中で壮大なエンタテインメントが展開される、なんとも爽快な作品だったのです。

たとえば「電子書籍」は、スティーブ・ジョブズが「テクノロジーと人文知(リベラルアート)の交差点」と表現した場所で生まれるべき、サービスや商品のはずです。にもかかわらず、いまの「電子書籍」は技術的にもパッとせず、人文知の面からも物足りない、そんな中途半端なものに思えていたのです。

そんな思いをかかえて、ソーシャルメディア上で『ペナンブラ氏〜』の名を連呼していたところ、あるセミナーで知り合った電子書籍サービスの方が敏感に反応してくれました。そして、日本を舞台にした「和製ペナンブラ氏」とでもいうべき物語を書いてみようか、と仰ったのです。では、ぜひその顛末の報告を「マガジン航」でお願いしたいと申し出たところ、快諾を得ました。

短期集中連載『もしも、ペナンブラ氏が日本人だったら』がスタート!

そうした経緯で始まった原田晶文さんの短期集中連載「もしも、ペナンブラ氏が日本人だったら」(全三回を予定)の第一回「遭遇篇」をお送りします。お読みになるとわかりますが、この記事もなかなか本題に入りませんが、その「迂回」にもきっと意味があります。独特の語り口もふくめ、ぜひご堪能ください!

電子書籍時代の文学賞:星新一賞顛末記

2014年8月27日
posted by 小関 悠

昨年、星新一賞という短編SFを対象とした文学賞が創設された。私は「KIT (Kid Is Toy)」という作品を応募し、入選したが、作品は公開されることなく、結局は自分でKindle Direct Publishingを使って出版をすることにした。

これはなかなか嬉し悲しい体験だった。嬉しいというのはもちろん、私の大好きな作家の一人である星新一の名を冠した賞を受賞したということ。グランプリ、準グランプリ、優秀賞といったより上位の賞もあったが、それでもこれまで長く小説を書いてきてはじめて獲得した賞だったので、喜びはひとしおだった。

入選はしたけれど

執筆中から、作品の出来栄えには満足していた。学生時代は同人誌などに精を出した私も、就職して結婚して子供が生まれ、なかなか昔のように小説を書く時間もない……というありがちな経緯を辿っていた。そこで与えられた「上限一万字の短編SF」という星新一賞の手頃なお題は、小説を書く楽しみを再発見する良い機会であった。題材は自然と子育てになり、子供のかわりにロボットを育てる超少子化社会というディストピアものが出来上がった。

一方、入選に喜びつつ、その作品がどこにも公開されないというのは、ストレスフルな状況だった。作品を応募したのは締切直前の十月末。三月に入選が伝えられて授賞式に参加したものの、その時点で明らかになっていたのは、グランプリ、準グランプリ、優秀賞といったより上位の受賞作が、主催の日本経済新聞社から無料の電子書籍として出版されるということだけであった。

いただいた賞状とホシヅルのキーホルダーを手に、その時点ではまだ呑気にも、作品は電子書籍に収録されるのか、そのうち日経本紙に掲載されたりするのか、まとまって紙の本になるのか、などと思っていた。しかし三月末に上位の受賞作だけを収録した電子書籍が出版され、あれこれあって入選作は結局は表に出ることなく手元に戻ってきた。6月27日のことであった。

いつだって出版はできる

「KIT (Kid Is Toy)」はロボットを育てる社会を様々な視点で各四百字以内で描き、その超短編を束ねるという構成であった。応募した段階では二十五人による視点で描かれており、全体で400×25の一万字という計算である。これは短編とはいえ一万字の作品を一続きに書く気力がなかったこと、星新一賞であるからにはできる限り切り詰めた超短編にしたいと思う反面、一万字という与えられた制約は目一杯使ってみたいと考えたことが理由である。

しかし応募後、あるいは受賞後も、ロボットを育てるというテーマに取り憑かれていた私は、ずっと作品を書き足していた。超短編の数は36まで増え、全体では一万五千字に近付いていた。作品が出版されることなく、自分の思い通りに使えるようになったことを確認すると、私は応募した一万字の「オリジナル版」をTumblrにCreative Commons By 2.0として公開し、増補した「完全版」をKindle Direct Publishingから100円で販売することにした。

以前にもKindle Direct Publishingで小説を出版したことがあったので、作業は簡単であった。表紙画像を作って、自作の変換スクリプトでテキストファイルからmobiファイルを作るだけ。「オリジナル版」をTumblrにアップロードしたせいで、「完全版」がネットにある作品のコピーと見なされるトラブルはあったが、それでも6月30日には発売にこぎつけた。原稿が手元に戻ってきて、4日目であった。

プラットフォーム、タイムリーさ、キュレーション

以上の貴重な経験から、私は三つの教訓を得た。一つめは文学賞はプラットフォームとして整備される必要があること。作家側の立場から言えば、作品をどこかに応募するときは、どこに掲載される可能性があるのかをちゃんと認識しておくこと。私は無邪気にもなにか受賞すれば、人の目につくようなところに、例えば日経本紙やウェブサイトに、掲載されると思いこんでいたが、実際はそうではなかった。同人誌活動に頼るしかなかった時代と異なり、今では誰でも作品をオンラインに掲載し、販売までできる時代である。作品を埋もれさせるために、わざわざどこかへ応募する必要はない。

もっとも、この問題は星新一賞自体が認識しているようで、現在作品を募集している第二回の要項では、入選という賞がなくなり、また受賞作は第一回同様に電子書籍として日経ストアで無料配布されることが明記されている。日経ストアがお世辞にも使いやすいプラットフォームではないことを鑑みると、このことを当初から知っていれば私は応募しなかっただろう。

二つめの教訓は、タイムリーさ。作品は鮮度が命であるとは、文学に限らずよく言われることである。星新一賞が発表され、私の入選も発表されると、大勢の友人知人や、そうでない人までが話題にしてくれた。シェア、いいね、リツイート。あの瞬間に作品がオンラインで誰でも読めるようになっていれば、と私は思う。受賞作の名前が発表され、作品全文は後日公開というのは、多くの文学賞、特に新人賞でよく見られる形式ではあるが、電子書籍として配布するのであれば、それでは遅すぎる。賞が話題になった瞬間には、作品にアクセスできるようにすべきであり、そのアクセス手段は限りなく簡単なものでなければならない。

もしかすると、今後の文学賞は受賞発表だけで良いのかもしれない。編集や出版は著者任せで、ただ発表まで出版しないことだけがルール。いや、それよりも求められているのは、山のよう出版されている電子書籍に後から光を当てるような文学賞だろうか。

三つめの教訓は、文学賞とは山のような作品から一部だけを選ぶという行為であり、流行りの言葉でいえばキュレーションなのだということ。であれば、キュレーターの意図というのがなによりも重要になってくる。

電子書籍時代の文学賞

星新一賞では、授賞式後の懇親会で審査委員長の新井素子氏が受賞者一人一人に声をかけては作品の講評をしていて、そのことが素晴らしく印象的だった。星新一賞にはジュニア部門もあって、何人かの小中学生が親を連れて新井氏の講評を聞いていたのだが、あれは一生ものの経験だったのではないかと思う。私も講評していただき、内容は「趣味の悪さがとても良いが、様々な人の視点を描いているのに文体にバラエティがない」というものであった。もちろん私にとっても一生ものの経験である。

しかしそれらの講評は、わずかに公式サイトに掲載されているだけで、新井氏の評を横で聞くだけで面白そうに思えたジュニア部門の作品は、グランプリを除いてやはりどこにも公開されていない(あるいは、どこかで中学生が電子出版をしているのかもしれないが)。応募作品は、一次・二次選考の期間、複数の評者から独創性など幾つかの観点で点数付けされていたとのことなので、それならいっそ全ての応募作品が、その点数と講評と共にまとめられていたら面白かったのではないか。

今後どれだけ電子書籍の人気が拡大していくのかは色々な意見があるだろう。しかしKindle Direct Publishingなどのおかげで、作家個人にとって出版のハードルは限りなく低くなった。当然、既存の文学賞も新規の文学賞も、そうした変化に適応していくことになるだろう。応募作をキュレーションして、タイムリーに公開できるプラットフォームとなる文学賞は、今後生まれてくるのだろうか。

もしかすると、アマゾンがKindle Direct Publishing作品からキンドル賞を発表する日が来るのかもしれない。たとえば、受賞作はKindle端末にプリインストールとなれば、応募するほうにはとても魅力的ではないだろうか? 受賞作が読めるのはKindleだけ。そのとき、既存の文学賞はどう対抗するのだろうか。

キッドイズトイ(完全版)
http://www.amazon.co.jp/dp/B00L7ZAC7S/

キッドイズトイ(オリジナル版)
http://youkoseki.tumblr.com/post/90342403360/kit

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