本とパブリック・ドメイン

2016年1月4日
posted by 仲俣暁生

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original image by Cienkamila; slightly edited by odder,(CC BY-SA 3.0

あけましておめでとうございます。おかげさまで「マガジン航」は、創刊から7回目の正月を迎えることができました。昨年から本誌の発行元となったスタイル株式会社の他のウェブメディアとも連携し、いっそう充実した誌面を提供してまいります。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ハッピー・パブリック・ドメイン・デイ!

さて、毎年1月1日は著作権保護期間にかかわるベルヌ条約で保護期間算定の区切りとなる日であり、この日を境としてパブリック・ドメインに置かれる作品が世界中で生まれます。そのことをもって元日を「パブリック・ドメイン・デイ」と呼ぶ人たちがいることを、青空文庫の故・富田倫生さんから教えられたのは6年前のことでした。

今年のパブリック・ドメイン・デイには、日本では谷崎潤一郎、江戸川乱歩、高見順、中勘助、安西冬衛といった、1965年に物故した作家がパブリック・ドメイン、つまり「本の公共地」に加わりました。青空文庫の「そらもよう」というコーナーでは「いまだ来ない本のための青空」という文章が公開されており、13作家の13作品の青空文庫入りが伝えられています。

PD-day

「パブリック・ドメイン・デイ」という呼び方があることを知って、私は「マガジン航」に当時こんな記事(「新年にパブリック・ドメインについて考える」)を書きました。以下、少し長くなりますがこの文章から引用してみます。

グーグルをはじめとする営利企業が電子アーカイブ事業に積極的に参入してくるなかで、日本の青空文庫や、アメリカのインターネット・アーカイブのような非営利の電子アーカイブの重要性は、これからますます高まっていくでしょう。そのときに考えたいのは、著作物が「パブリック・ドメイン」に置かれている、ということのもつ本質的な意味です。それはたんに経済的な意味で「タダ」である、という以上のことであるはずです。

「出版(publishing)」という言葉を、紙の本を刊行することだけに限定して用いるのではなく、あらゆるメディアにおいて「ものごとを publicにする」という意味をもつことに、多くの人があらためて注目するようになっています。インターネットはすでに、立派なpublishingのツールです。

「出版」という行為は作者や出版社にとっての私的な商業活動であると同時に、公的領域にかかわるパブリックな活動としての側面をつよくもっており、その両面をもつことが、出版の最大の魅力でした。しかし、「出版不況」と呼ばれる事態が長期化するなかで、早期の絶版や長期の在庫切れが示すように、出版という行為のパブリックな側面が軽視され、私的で商業的な側面ばかりが目立つようになってしまいました。

そうしたなか、日本でも欧米諸国に足並みを揃え、著作権保護期間を現行の作者の死後50年から70年に延長しようという動きが絶えません。保護期間延長問題の是非について考えることは、作者や出版社にとって「出版とは何か」ということを、その根本から考えることでもあります。あらたな「パブリック・ドメイン・デイ」を迎えた機会に、あらためて「パブリック・ドメイン」という言葉に思いを馳せたいと思います。

もっとノンフィクション作品の「電子化」を!

しかし、すでにご承知の方が多いように、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が大筋で合意に至ったことにより、日本における著作権保護期間は現在の「著作者の死後50年」から「70年」へと延長されることが決定的となりました。さいわい条約の批准や国内法の整備はまだ行われていないため、今年の元日には1965年に物故した作家の作品が追加されましたが、来年以後はパブリック・ドメインとなる対象が20年ほど巻き戻されてしまいます。これはとても残念なことだと言わねばなりません(TPP合意の報を受けての青空文庫のステートメントも参照のこと)。

しかし、そのことだけで本にとってのパブリック・ドメインの領域がやせ細ってしまうと心配するのは早計でしょう。なにより、著作権保護期間がすでに切れている作品のうち、現時点で青空文庫で公開されているものは、わずか1万3187作品(本日時点)にすぎないのです。「わずか」というのは、青空文庫がこれまで行ってきた活動が不十分だという意味ではありません。世の中には膨大な著作権保護期間の切れた作品が、パブリック・ドメインとして利活用できる状態となることなく、手付かずで残されているという事実のほうに、私たちはもっと目を向けるべきだと思うのです。

著作権保護期間が以前から70年だった地域では、今年ようやく1945年に物故した人物の著作物がパブリック・ドメインに加わります。Wikipediaのこの一覧をみると、ハンガリーの作曲家バルトークらと並んで、アドルフ・ヒトラーやアンネ・フランクといった著名人の名も並んでおりドキッとします。『アンネの日記』をパブリック・ドメインとして公開する動きに関しては、アンネ・フランク財団が抗議する姿勢を見せており、インターネット上でも議論となっています(この件についてはカレント・アウェアネス・ポータルのこの記事が参考になります)。

ところでいま日本では、あの戦争の時代を生きた人々が残した膨大なテキストは、いまどのくらい容易に目にすることができるでしょうか? 昨年は「戦後70年」の節目ということもあり、日本でも第二次世界大戦時の記憶をとどめようという議論は盛んでした。しかしそのことと、著作権保護期間の延長問題やデジタル・アーカイブとをリンクさせた議論はあまり目立たなかったように思います。

これまで青空文庫がアーカイブしてきたのは主に近代文学作品でした。記録文学をはじめとするノンフィクションの領域の電子アーカイブ化は、国立国会図書館が電子アーカイブ化を行っている図書や文書(国立国会図書館デジタルコレクション)を除くと、あまり手が付けられていない状況といっていいでしょう。

さらに著作権保護期間切れの作品のほかにも、「孤児作品」と呼ばれる、保護期間が切れているかどうかが不明の作品が膨大にあります。それらをどのようにして、あらたな読者や利用者の元にとどけていくか。そのたいへんな作業は青空文庫だけでなく、多くの人の手によって担われるべきです。

「マガジン航」はこれからも、青空文庫をはじめとするデジタル・アーカイブの動きに注目してまいります。企画のご提案、ご寄稿を心よりお待ちしております。


【イベントのご案内】
持田泰「變電社の試み ~『デジタルアーカイブ』『パブリックドメイン』がもたらす自己出版の可能性を探る」

日本独立作家同盟のセミナーに、「マガジン航」にも何度かご寄稿いただいている變電社主宰の持田泰さんが登場します。第二部ではゲストに国立国会図書館の方もお迎えし、本誌編集発行人もトークに参加。本とパブリック・ドメインの問題に関心のある方は、ぜひご参加ください

日時:2016年1月30日(土)14:00~17:00(13:30開場)
出演:持田泰(變電社) 、大場利康(国立国会図書館)、仲俣暁生(マガジン航)
場所:グラスシティ渋谷 10F HDE, Inc.(東京都渋谷区南平台町16番28号)

※イベントの詳細とお申し込みはこちらをご覧ください。
http://peatix.com/event/140645 

クレイグ・モドが韓国パジュで話したこと

2015年12月17日
posted by ボイジャー

paju

2015年10月8日、韓国 paju bookcity が主催する編集者のためのセミナーに、クレイグ・モドは他の外国講師と共に招聘された。

坡州市(パジュ paju)は大韓民国京畿道北西部に位置する市。板門店のある軍事境界線(38度線)を隔てて北朝鮮と接する最前線で、市域に非武装地帯がある唯一の市である。ソウル市内からは北へ車で小一時間のところにある。

2001年から韓国政府がサポートし、ここにアジア出版文化情報センターを目指してきた。現在約250企業が87万5000平米に広がって印刷、出版、流通、関連文化施設、ホテルを構えている。この時期、BOOKSORIと銘打った催しが行われており、多くの来場者で賑わっていた。

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開始前のカンファレンス会場風景。約100名の参加者のほとんどが女性で、出版関係者が多数だった。

『ぼくらの時代の本』韓国語版がマウムサンチェク社より発売開始されるちょうどその機にあたり、会場では刷り上がったばかりの本が先行販売されていた。

マウムサンチェク社は、2000年に発足。強さより柔軟性を、読者に主張するよりも浸透することを基調とし、社名を「マウムサンチェク(心の散歩)」としたという。企画コンセプトにインパクトがある文学者・話題豊富な芸術書・自由の幅を広げる人文書を目指し、米原万里作品を出版・紹介するなど韓国での出版の新しいトレンドを作ってきた。

その間、作家パク・ワンソ、シン・ギョンスク、キム・ソヨン、チョン・イヒョン、キム・ヨンハ、キム・ジョンヨクらの作家陣、パク・チャヌク、ポン・ジュノ、キム・ジウン、リュ・スンワンなどの映画監督、パク・ヨンテク、パク・サンミ、ノ・ソンミなど芸術家たちの感覚的で深みのある本に、独自のカラーとテリトリーを築いてきている。

ボイジャーにとって、自社発行の作品がアジア地域で翻訳・刊行されるのは初めての経験だった。韓国関連コンテンツ専門の出版社として、東京神田神保町にあるクオン社の金承福さんの協力によってこうしたチャンスを得ることができたことを感謝したい。

さて、前置きはこのくらいにしよう。お後がよろしいようです。どうぞクレイグ・モドの韓国でのお話をたっぷりとお聞きください(以下は抄録です。全文はロマンサー版にてお読みください)。

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森は本のアンソロジー

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クレイグ・モド:もっと年配の人を期待していたようですが、今日お話するのは私です。私も自分のことを年寄りだと思うことがあるから、ちょうどいいかもしれません。

それでは講演を始めます。

「印刷という媒体は時代遅れで終焉を迎えつつある。過ぎ去った時代の遺物として埃まみれの、図書館という博物館に永遠に保存される…」

1992年にブラウン大学のロバート・クーバー(Robert Coover)教授がニューヨークタイムズに寄稿した記事の一部です。

本も印刷も健在である現在、この予想が外れたことは周知の事実です。印刷は終わると言われ始めたのが100年も前だということを考え合わせると、これは非常に重要です。印刷の将来も明るいものだと思います。

日本でキンドルが発売されたのは3年前ですが、アメリカではその何年も前から発売されていました。電子出版先進国のアメリカ人として言えることは、印刷の展望は将来も明るいだろうということです。「印刷は健在」であると同時に「デジタルもなくならない」。つまり出版の将来は印刷とデジタルが共存する世界です。面白いことに、印刷かデジタルかの一方を選ばなくてもいい。そう気がつくと、じゃあ両方を使って面白いプロジェクトを始めてみようという気になります。

これから印刷とデジタルを組み合わせた面白いプロジェクトをいくつかご紹介します。

これはノルウェイのオスロ近郊にある森林です。この森で、スコットランド人アーティストのケイティー・パターソン(Katie Paterson)さんが推進している「未来図書館」というプロジェクトがあります。

未来図書館は2014年から2114年までの100年間、毎年一人ずつ作家を招き短編を書いてもらう予定です。2014年度はマーガレット・アトウッドさん(Margaret Atwood)さん。今年はデイヴィッド・ミッチェル(David Michael)さんが招かれました。書かれた短編は、100年後にこの森の木を原材料にした紙に印刷される予定です。また印刷されるまで誰も読むことができません。

これから未来図書館の紹介ビデオを再生します。声はパターソンさん自身のものです。

「未来図書館」はこれから100年間、この森で育まれます。今、未来図書館の木を植えるための場所を整地しているところです。植林は1ヶ月後には終わっています。そして100年後、これらの木を原材料にして紙を作ります。

100年間、作家を毎年一人招いて短編を書いてもらいます。文章はフィクションでも、未完のノンフィクションでも、一文字の詩でも構いません。作品は図書館の特別保管庫に保存され、スタートから100年後の2114年に出版される予定です。それまでは誰にも読まれることはありません。

マーガレット・アトウッドさんは次のようにビデオの中で述べています。

「すばらしいアイディアなので、その場でイエスと即答しました。この場所で育った子供たちは、みな必ずこの森に何かを埋めたことがあります。子供たちはいつか誰かが見つけてくれることを願って、それぞれ何かを土に埋めます。私もこの場所で育ちました。だから未来図書館に強く惹かれたのです。」

「ノルウェーの森は成長する。100年後、本のアンソロジーになるために」

昨日、印刷博物館に行って韓国紙について教えてもらいました。韓国紙は千年も持つそうです。未来博物館プロジェクトに韓国の紙作りの経験が生かせたら面白いと思いました。

一見、少し変で無意味にも思えるこのプロジェクトに興味を惹かれたのは、どこかに「楽しさ」を感じさせるプロジェクトだからです。

このプロジェクトがきっかけになり、「固定媒体」の特徴について考えました。つまり、100年後の図書館を計画できる事実は、たとえ核戦争で世界が終わっても、本を作ることはできるはずという前提の上に成立しています。

何であれ100年後の姿を、特にインターネットの場合、100年後の姿を話し合うことは非常に難しいです。でも固定媒体ではそれができる。この「回復力」が未来図書館の魅力だと思います。固定媒体のような、日常業務とは直接関係のないことを考えさせるシンポジウムは貴重な機会です。しかしこのような場でもデジタルの100年後の姿を議論することはできません。100年後どころか6ヶ月後の姿も議論できません。

見失われた目標 本の楽しみ

クレイグ・モド:私たちにとって最も重要なのは、読書を「楽しませる」その方法です。これは編集者でも、作家でも、デザイナーでも、出版社の方々でも同じだと思います。読書を楽しませる……このことは非常に重要だけれども、同時に見失われることが多い目標でもあります。

「本のページの特性や品格の50%は字形で決まりますが、残りの50%を決める要素はページのマージンの中に隠れています」

これはロバート・ブリングハースト(Robert Bringhurst)著の「エレメント・オブ・ザ・タイポグラフィク・スタイルス」という本に書かれている言葉です。ページのマージンは触ることができても読書の注意をひかない、本の引き立て役です。本の中で私がいちばん好きな部分でもあります。存在はしても注意をひかない引き立て役は、アプリの設計や製品デザインでも重要視される部分です。

私が好きな映画の一つに『舟を編む』という日本映画があります。この映画の一シーンは、私が過去1、2年で見た映画の中でいちばん気にいっているシーンです。

この映画を見たことがある人はいらっしゃいますか?……8人……面白い映画ですよね。

この映画はラブストーリーとして宣伝されていますが、辞書の編纂を題材にした映画です。ものすごく厚い、紙の辞書を15年がかりで作り上げる人々を描いたヒューマンドラマです。

この、本が山積みにされた部屋で猫と一緒に暮らしているのが主人公です。彼は夢中に辞書作りに取り組みます。

映画も終盤、編纂開始から14年経過した頃に辞書用紙にまつわるエピソードが登場します。

紙業者は主人公に辞書用紙のサンプルを見せながら、この紙は軽くて薄くて辞書には最高の紙だと説明します。業者に勧められて紙を触った主人公は不満足そうに「うーん」とうなり声をあげて、目の前の本棚から古い辞書を取り出します。

「辞書の使いやすさを決める中心的な要素は紙を触ったときの感触です。理想的な紙は指に吸い付いても前後のページには吸い付かない。ほら、パラパラとめくってもちゃんと一ページずつめくれるでしょう。そういう紙が必要なのです」

そう説明します。

主人公から手渡された辞書を触った紙業者は、辞書に不向きの紙を持ってきてしまい申し訳ない、もっと努力すると言い、主人公に深々とお辞儀をして謝りました。

触ることはできても注意をひかない紙の感触。これが本作りの成否を決める引き立て役、つまり本のマージンに相当する要素です。

デジタル・レボリューションの産物

クレイグ・モド:本を一部から印刷できるPOD出版により、本と戯れる実験的な本作りが簡単にできるようになりました。POD出版はeBookと同じぐらい重要なデジタル・レボリューションの産物です。

POD印刷機を使い実験的な本作りに取り組んでいるイギリス人アーティスト、ミシャー・ヘンナー(Mishra Henner)さんを紹介します。

彼はオンラインで集めた様々なデータをまとめた紙の本を作っています。この本は「ノー・マンズ・ランド」という、南ヨーロッパの街を歩く女性が写っているグーグル・ストリート・ビューの写真を集めた写真集です。

「アストロノミカル」という本もヘンナーさんが作った本です。太陽系を縮小した本で、一ページは約100万キロに換算されます。全12巻、各巻は500ページほどです。

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この本が宇宙のようにつかみどころのないものを取り込み、本という形で実現できたのも、紙の本だからです。つかみどころのないものを本という箱の中に入れて理解を促す、本という理解法の素晴らしい利点です。 このクレイジーな本を見てください!

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ほとんどのページは真っ黒に塗りつぶされています。宇宙空間だから真っ黒なのは当然なのですが太陽から始まって、黒、黒、真っ黒です。

ちょっと変わったデジタル・プロジェクトをもう一つ紹介します。「モビー・ディック(白鯨)」を絵文字で書き直した「Eモビー・ディック」という本です。アマゾン・メカニカル・タークのワーカーが長編小説を一行ずつ絵文字に書き直しました。実際に印刷された本を手に取って見てみると非常に力強く感じられます。

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前へ進むということ

クレイグ・モド:読書は前に進む、進行する作業です。この「進行」という概念は本だけではなく、建築や映画でも重要な概念です。

私が好きな本の一つに「カンファレンス・オブ・バーズ」という非常に美しく作られた本があります。ケースを開くとインクの種類や奥付にまで注意が払われていて、まるで芸術品のような本が現れます。模様のように切り抜かれた穴からは次のページを垣間見ることができ、ページというレイヤー同士をつなげています。

美しさに見とれていると……目次です。

この本ほど優雅に読者を本文まで誘導できるキンドル本はありえないでしょう。

何故でしょうか?

本作りを始めてから10年以上経ちました。私は本が大好きですが、もう本作りはやめよう、毎年そう思います。でも次の年になったらまた本を作っている。どうしてもやめることができません。

東京に住んでいた頃、日本の紙業者や作家やアーティストと一緒に本作りの仕事を10年間していました。東京にいた頃、私の人生に強い影響を与えた2冊の本に出会いました。2冊のうちの1冊は「シティ・シークレット・オブ・ローマ」という、大学の近くの書店で見つけた本です。

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20年ほど前に出版された本ですが触って心地の良い布張りの表紙、ちょうど良い大きさの寸法、ポケットに入れると少し曲がる柔軟性。この本は色々な意味で完璧なオブジェでした。その後本作りを始めた時、この本の触ったときの感触やバランス、読むのにちょうど良い紙とインクのコントラスト等は大変参考になりました。

もう1冊はこの本です。これは初代キンドルが特許を申請した際に使われた図です。キンドルが日本に上陸してからわずか3年ですが、アメリカではその何年も前から売られていました。つまりアメリカのキンドルユーザーはその成長を見守ってきたといってもいいと思います。

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私が「ユニバーサル・ブック」と呼んでいるキンドルがアメリカで最初に発売されたのは2007年です。私はキンドルに大きな影響をうけました。どのくらい影響されたかというと、紙の本を作るのをやめてeBook制作に集中したほどです。

キンドルはアマゾンが独自で作り上げたものではなく、コンピューター・サイエンス思想の伝統から出現したものです。

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この図を見てください。60年代から70年代にかけて活躍したコンピューター・サイエンティストのアラン・ケイ(Alan Kay)が1968年に発表した「ダイナブック」の概念図です。

「本で可能なことはすべて、しかもダイナミックに」

これはアラン・ケイが想像したダイナブックです。発表は1968年です。凄いでしょう。

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彼が影響を受けた人の中にヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)という科学者がいます。戦時中マンハッタンプロジェクトで核爆弾の開発に関わったあと、戦後は「知性の増幅」を提唱した科学者です。

彼は1945年にアトランティック誌に寄稿したエッセイ「アズ・ウィー・メイ・シンク」でメメックス(MEMEX)と言う、その後のコンピユータの発展に大きな影響与えたコンセプトを提案しました。

「まったく新しい形の百科事典が出てくるだろう。項目同士が網の目のように関連付けられていて、メメックスに入ることによりさらに力を発揮するだろう」

彼が説明しているのはウィキペディアです。彼はウィキペディアの出現を1945年に予言したのです。機械化されて高速で柔軟性のあるメメックスは「人類の記憶」を補助する巨大なデータベースです。

この思想は、その後のマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)にも影響を与えました。マクルーハンは1969年に情報の発展について、

「世界中の全ての本は一台のデスクトップに収まるだろう」

そう言及しています。

情報の縮小、つまり知識を検索、移動、そして携帯可能にする思想はこの時代からありました。

1974年に出版されたボルヘスの「砂の本(El libro de arena)」は始まりも終わりもない本です。同一のページが一ページもありません。これはTwitterです。

次はテッド・ネルソン(Ted Nelson)です。情報接続の複雑性を表す「Intertwingularity(知識の総合関連性)」という用語を考え出した人です。

彼曰く、人々が情報を「リニア(線形)」と捉えるのは本がリニアに構成されていることに起因する、しかし実際の思考は複雑に関連する各要素がお互いに接続しようとすることにより起こる、つまり思考はノン・リニア(非線形)に進行するという理論を発表しました。

この考え方はその後、World Wide Webやハイパーテキストの開発に発展しました。実際に彼はハイパーテキストの開発チームの一員です。

1945年から80年代にかけて様々な人が発表した思想の流れを受け継ぎ、2007年に発売されたのがアマゾン・キンドルです。

どんな価値があるか?

クレイグ・モド:2007年から2013年の数年間、キンドルで読めるものはほとんどキンドルで読んでいました。でもある日突然、キンドルで読むことをやめてしまいました。完全にです。特別意識したわけじゃないけども、なんとなく飽きてしまったのです。

何故か? それを理解するには紙とデジタル、二つの媒体のバリュー・プロポジションを比較してみる必要があると感じました。ある媒体の登場から、その媒体のバリュー・プロポジションが確立されるまでには何年も時間がかかる場合があります。

デジタルのコア・バリュー・プロポジションは、

  • すべての本を、
  • あらゆる場所で、
  • 即座に、
  • 同じ方法で流通させることができる、

この4点です。

デジタルのバリュー・プロポジションは、特に紙の本との接触が制限されている遠隔地の人々にとってはパワフルなものです。

ワールド・リーダーという団体があります。アフリカのガーナ、ケニア、タンザニア等の遠隔地で電子図書館を運営している団体です。私も2年前に訪問しました。ワールド・リーダーは紙の本を送ることが難しいけれどネット環境のある遠隔地の村々にキンドルを送る運動しています。住民百人ほどの小さな村にとって、デジタルの「アクセス」バリュー・プロポジションは大きな意味を持っています。

紙の本のバリュー・プロポジションは、まず第一に所有権です。購入した本を取り上げる権利は誰にもありません。次にオープン・プラットフォームです。紙のページなら好きなようにデザインできるし、紙という媒体は誰の所有物ではないから使用料を支払う必要もありません。好きなフォントや画像、それに一風変わった、読書を楽しませるデザインも可能です。

最後に、紙の本には私が「ロング・アーク・リレーションシップ(Long Arc Relationship)」と呼んでいる読者との長い関係があります。読者と紙の本との関係は10年以上になることもあるし、子供の代に受け継がれた場合は百年以上になることも十分に予想できます。これは非常に重要なことです。

このような紙の本のバリュー・プロポジションをデジタルに、特にeBookという枠組みの中で考えてみると2007年から2013年までのeBookには「楽しみ」が欠けているように強く感じました。

ワールド・リーダーの例はあくまでも遠隔地の話です。北米やヨーロッパ、それにアジアのように書籍配送網が確立されている地域では「アクセス」というバリュー・プロポジションの意味が薄れるだけではなく、デジタル媒体の短命性を反映し、本媒体そのものへの信頼性が下がっているともいえます。アマゾンで購入したeBookが10年後もそこにあるかという保証は誰もできません。その反面、アフリカやインドのように本を手に入れることが難しい地域ではアクセスというバリュー・プロポジションの一項目が他の項目を圧倒します。

ただ私のような本好きにとって、本との長期的な関係は非常に重要なものです。キンドルに飽きたけれども、デジタルに飽きたわけではありません。凄いと思ったり、ヒントを得たりしたデジタル・プロジェクトはありました。ただeBookプロジェクトではなく、eBookのようだけど、一風変わった本を制作したプロジェクトです。

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書店に「生活提案」は可能か?

2015年12月13日
posted by 福嶋 聡

bookstore
original image: Thomas LeuthardCC BY

11月13日(金)、グランフロント大阪で開催された「BOOK EXPO 2015 秋の陣」のイベント企画「明日につなげる書店人トーク」に登壇した。他の登壇者は、梅田蔦屋書店店長 亀井亮吾氏、井戸書店代表取締役 森忠延氏、司会は文化通信社常務取締役 星野渉氏である。

各々簡単な自己紹介をしたあと、星野さんが投げた最初の質問は、「梅田蔦屋書店ってどうなの?」であった。登壇者の一人の店を最初から直接のターゲットにするのは異例かもしれないが、今年の大阪でのもっともトピカルな話題であるので、と星野さんは付け加えた。

事前に告げられていたこの質問に備えて、ぼくは『TSUTAYAの謎 増田宗昭に川島蓉子が聞く』(日経BP社)を読んでいた。実際に店を訪れた感想と、増田宗昭社長の理念、戦略を絡めて、率直に感想を述べようとしたのだ。そのことは間違いではなかったと思う。時折いささか意地悪な突っ込みも交えて投げかけた質問への亀井店長の答えは、ほぼ増田社長の考えと重なっていたからだ。

ぼくはまず、オープン後まもなく梅田蔦屋書店を訪れて、その独特の書店空間づくりに大変刺激を受けたことを言った。店のつくり方に賛否は分かれるし、後述するとおりぼくにも思うところはあるのだが、いくつもの喫茶、座読用スペースからクロークや靴磨きコーナーまで設けた書店空間は、ユニークであることに間違いはない。そしてこの空間づくりに、増田社長の強い意志が反映していることも、明らかである。

増田社長は、今日の(リアル)書店の衰退の最大の原因を、ネット書店の台頭に見る。その認識は間違っていないと思うし、(リアル)書店の存続のために、ネットにはできないことを目指すという方向性にも、賛同する。それは言い換えれば、「本をわざわざ買いに行きたくなる」場所であり続けることであり、そのために最も大切にしてきたのが徹底してお客さんの視点=顧客視点を持ち続けることだという姿勢にも、共感する。そうした認識と姿勢、戦略から増田社長がたどり着いたコンセプトが、「生活提案」である。

「生活提案」と書店コンシェルジュ

戦後のモノ不足の時には、モノの生産そのものが、高度成長期、バブル期にはモノを売るプラットフォームが求められた。それに対応して現れたのがコンビニエンスストアであり、ショッピングモール、楽天などのインターネット市場だった。音楽、映像、出版物をコンテンツの容れものとして一つに括り消費者に提供するTSUTAYAもこの時代に生まれた。そして、モノが行きわたった今日、さらにし商品を売って利益を得るために必要なのは、「生活提案」である。そして、本こそ「生活提案」の塊である。「雑誌でも書籍でも、人が人に何かを伝えようとして、言い換えれば、何かを提案しようとして作ったもの」だからだ。そうした認識の上に、代官山を皮切りに、蔦屋書店が登場した。

そこには、日々の応対の中で、客に有効、適切な提案をすることの出来る店員の存在が不可欠である。ジャンルごとに配される、知識・経験豊富で提案型の書店員は、コンシェルジュと呼ばれる。

だが、ぼくは、書店のコンシェルジュは、原理的にあり得ない、と思っている。多くの場合、買い求められる書物については、間違いなく書い手である読者の方が売り手である書店員よりも詳しいからだ。ぼくたち書店員に精一杯できるのは、顧客の背中を見ながら、その姿が見えなくならないように辛うじて後を追うことだけである。

確かに、ジャンルによっては、場合によってはさらに絞られた分野で、コンシェルジュ的な働きをできる書店員は存在するだろう。児童書や推理小説の専門店は誕生しえたし、「時代小説なら任せて」という人もいる。だが、それは例外的で、まして、人文書、社会科学書、理工書、医学書、芸術書、そして実用書も含めて、通常1人の書店員が担当する1ジャンルの範囲をカバーできる人はいないのではないだろうか? 顧客の背中を追うことがぼくたちいせいぜいできることであるならば、大切なのは、増田社長じしんが言われているように、徹底してお客さんの視点=顧客視点を持ち続けること、徹底的に訪れてくださった読者を見るということであり、客に聞くということではないか?(ただし、ぼくは増田社長ほどには、ビッグデータの有効性を信じてはいない。ぼくたちの顧客は、いつも個々の読者だからだ。)

更に言えば、「生活提案」という理念そのものについても、書店におけるその具体的な展開をイメージするときに、疑問が残る。本が「生活提案の塊」ならば、注力すべきは、多様で魅力的な本を展示紹介することであり、書店を「まるごとカフェにする」ことではないのではないだろうか?

人文書の本質

確かに、購書空間が本を探し、吟味するために快適なものであることは大切である。だがそれはあらゆる商業空間に共通の課題であり、「生活提案」という理念ゆえではない。本を購入したあと、居心地のよいカフェで美味しい飲み物を飲みながら新しい本を繙くのは至福の時間だが、それは読者一人一人の嗜好に任せるべきことで、ことさら書店が「提案」することではない。至福の時間が流れるのは、あくまでも本の内容によるのだ。周囲のことなど全く意識に上らないほどに読み耽り、没入する本を提供することこそ、出版=書店業界の役割である。

もっと言えば、本の「底力」から見ると、「生活提案」というのは、むしろ少し緩すぎる表現なのかもしれない。本には、時に読者の思考や生き様そのものを更えてしまう力があるからだ。

その意味では、梅田蔦屋書店の品揃えは、ぼくには物足りない。売上シェアは決して高くはなく、ニッチといってもよいかもしれない人文書の棚には、質量ともに主張がないからだ。

もちろん、そのことに合理性はある。ジュンク堂の売上構成比を見ても、実用書、ビジネス書の率は高い。しかも、それらのジャンルは、誰もが今すぐ実行できる「生活提案」に満ちている。蔦屋書店で実用書、ビジネス書ジャンルが圧倒的な存在感を持つのは、当然かもしれない。だが、誰でも今すぐ実行できることには、読者や読者を包む状況を、決定的に更える力は無い。

一方、人文書の本質は、世界のありようそのもののオルタナティブの提示である。究極の提案である。カフェスペースなど読書環境の「充実」のために、そうした究極の提案が切り捨てられているとしたら、少なくとも、「更える」力はその空間には感じられず、ぼくは魅力を感じない。そして、それが販売シェアの精査の結果であるとしたら、やはりデータは、現状肯定を前提とした戦略しか産み出さなかったと思うのである。

ピケティの大著を待つまでもなく、現代世界の最大の問題は、拡がり続ける格差である。いみじくも、増田社長は『TSUTAYAの謎』の中で、最初に就職した鈴屋の社長の遊びっぷりのゴージャスさに驚き、「ライフスタイルって、究めたらもっともっと上があるんだって思った」と語っている。梅田蔦屋書店の「靴磨き」コーナーにおける靴を磨く人と磨かれる人の非対称な風景こそ、格差の象徴であった。


※この記事は人文書院のウェブサイトでの著者の連載コラム「本屋とコンピュータ」第158回(2015/11)にタイトル、小見出しを加えて転載したものです。

大原ケイさんの版権輸出コンサルティング・サービスを開始します

2015年12月7日
posted by 「マガジン航」編集部

「マガジン航」およびスタイル株式会社は、文芸エージェントの大原ケイさん(Lingual Literary Agency)と共同で、会員制による月額固定の版権輸出に関する総合的なコンサルティング・サービスとして、「その本の版権、海外でも売りませんか?」を今月より開始いたします。

ニューヨークに拠点をもつ文芸エージェントの大原ケイさんは、電子書籍ビジネスの動向や、日本と海外の出版文化の違いについて、さらには日本の文芸作品の海外展開が抱える諸問題について、多くの記事を「マガジン航」に執筆していただいている本誌の常連寄稿者です。

今回あらたに開始する「その本の版権、海外でも売りませんか?」は、大原さんがこれまでの出版エージェントとしての豊富な知見をもとに、海外版権ビジネスに関するコンサルティング・サービスを本誌の読者に対してウェブと面談を介して行うものです。出版社だけでなく、海外への版権輸出に関心のあるすべての事業者は、ぜひこのサービスをご利用ください。

なお、本サービスは「マガジン航」が2015年4月に発行元をスタイル株式会社へと移した後、はじめて手がける商用サービスとなります。2009年に創刊した本誌は、おかげさまで無事に創刊6年を迎えることができました。この間、電子書籍ビジネスの本格的な離陸や、スマートフォンやタブレットといった新しい電子デバイスの普及もあって、本と出版の世界ではさまざまな変化がありました。

しかし「出版不況」と呼ばれる状況は改善されず、取次や書店を介した出版流通の疲弊や、長期的トレンドとしての少子高齢化、そして電子書籍ビジネスでのプラットフォームの寡占や国際化といった流れのなかで、日本の出版界は先行きを見失いつつあります。

さいわいなことに、本誌には約100人におよぶ専門的な知見をもつ寄稿者と、本と出版の未来に共通の関心をもつ良好な読者コミュニティが存在します。「マガジン航」は今後とも、本と出版の世界で起きている変化を正確に伝え、論評・解説を加えてまいりますが、現在起きているメディア環境の大きな変化に対応するためのサービスも積極的に提供していきたいと考えています。

このたび大原ケイさんと開始する「その本の版権、海外でも売りませんか?」は、本誌寄稿者をはじめとする専門家の知見やノウハウを、本誌の読者コミュニティに会員制サービスとして提供する試みの第一弾です。今後もあらたなメニューを追加していく予定です。どうぞご期待ください。

※本サービスの概要については、下記サイトをご参照ください。
/ohara-kay/

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副次権ビジネスのすすめ

2015年12月7日
posted by 大原ケイ

谷本真由美さま

ご無沙汰してます。

先日はWirelessWire Newsの記事で私の「クール・ジャパンはどこがイケ(て)ないのか?」に言及してくださり、ありがとうございました。たいへん楽しく読ませていただきました。

“メイロマ”さんとは2009年にロンドン・ブックフェア会場近くのパブで初めて会ったときに1杯やりながら、とりとめもないおしゃべりをしたことを思い出します。あれからずいぶん時間が経ちますね。

あの記事にも書いたとおり、「日本の悪口を書きまくっている人」みたいに言われる私たちですが、観光客としてではなく、あくまでも日本人という立場で日本と海外を頻繁に行き来していると、どうしてもこの国の変に思えるところが目についちゃうんですよね。それをネット上で素直につぶやいてしまうと「うるせぇ、出羽の守が」とか「在外BBAはすっこんどれ」と叩かれてしまうわけです。

一方で、日本人が自慢する「多機能の洗濯機」を見ても、感動するどころか「これを安い給料で作り出すためにどれだけみんなでサービス残業したんだろうか」という思いが先に立ち、空回りする乾いたカタカタという音が聞こえてきそうです。

最近、日本の本屋さんに行っても同じ気持ちになります。

カバーのデザインから花布(はなぎれ)まで、匠の技を駆使して美しく読みやすく装丁され、お値段も良心的な本が読み切れないほど並んでいます。しかしながら、それらの多くは読まれることもなく(日本の書籍の返品率は40%超、雑誌に至ってはさらに多い)取次に送り返され、裁断されてしまう……。エコ・ロハス・グリーン・スローライフで地球にやさしいというわりに、これじゃ森の木だって「ムダに切るんじゃねーよ、ちったあ電書で読みやがれ」と言いたいことでしょう。

欧米のエディターに比べると、日本の編集者はやらされていることが多すぎて、年間の刊行タイトル数のノルマも半端ないんですよね。海外だと「それって、エージェントやマーケティングやパブリシティーという、全然ちがう部署の人たちの仕事でしょ?」ってことまで引き受けていて、しかも電子書籍の仕事までまわってくる。

だから、うっかり「その本、おもしろいですよね。ちなみに海外翻訳権ってどうなってるんですか?」などとこちらが水を向けたりすると「え? これ以上、なにをさせようと言うの?」と死んだ魚の眼になって避けられたりして……。

著者の人たちも、本業の小説執筆の合間に、エッセーをやまほど書いたり、話の合わない作家以外の人と対談したり、大学などで教えたりしないとまともな生活ができないくらい原稿料は安いのです。だから、せっかくニューヨークあたりのブックフェスティバルが「日本の著者も招待したい」と言ってきても「海外に行っている時間が取れない」と断られる。メイロマさんも既に年に数冊も刊行されるような速いペースで執筆しているので、効率悪いなぁ、と感じたことがあるのではないでしょうか。

同じ労力を使って仕上げた1冊の本なのだから、なるべく長いあいだ棚に置けるように、いつまでも絶版にならないように、ひとりでも多くの読者の元に届くように、ということなど、編集者も著者ももはや考える時間もとれないみたい。でも、そんな自転車操業がいつまでも続けられるはずもありません。

だからせめて、ひとつのソリューションとして、新しく読者層を開拓するってのはどうでしょう?と私は言いたいんです。いま現在の読者だけじゃなくて、これから何年も先に本を読むようになる若い人たち、そして、日本人以外の読者のことも最初から考慮に入れて想定して本を作る。なぜそれができないんでしょう?

十分に忙しすぎる出版社の人たちには、自分たちで他の言語に翻訳して、さらに日本でその本を印刷して海外に持っていって自分たちで売ることなど、できるわけがありません。たんに海外翻訳権を売っぱらえばいいのです。

本に対するニーズは国によってさまざまです。装丁にこだわらない国もあるだろうし、サクッと割愛して読みやすい本にしたい国もあるでしょう。大事なのは、その国の流儀にはイチャモンをつけないことです。印税だけありがたく受け取っておけばいいのですから。

つまりは、「天ぷら蕎麦も冷やし中華もありまっせ、食べたいものがあったらテイクアウトして、その後はケチャップかけようが、コンブーチャと名前を付けようが、かまいません。ただ、お代はしっかり払ってね」というのが副次権ビジネスです。そこから何か違う新しいものが生まれてきて、斬新な「メイド・イン・ジャパン」ができるかもしれません。こちらがわざわざ本を作り変える必要はないのです。

なにが「クール」なのかを判断するのは、それを享受する側であって、正当な和食だけを認可する「スシ・ポリース」を繰り出す日本政府ではないのですから。

ちなみに私はハンバーガーなら、ケチャップが付いてないほうのバンにマヨネーズつけたりするし、ロブスターを食べに行くときはバッグに味ぽんを忍ばせますし、コカ・コーラにはレモンスライスを入れないと飲めませんが、とりあえずこれでアメリカ人に文句を言われたことはありません

とりとめもない話になりました。これから始まる往復書簡を楽しみにしております。

※この投稿への返信は、WirelessWire Newsに掲載されます


今回から始まる連載企画「往復書簡・クールジャパンを超えて」は、「マガジン航」とWirelessWire Newsの共同企画です。「マガジン航」側では大原ケイさんが、WirelessWire News側では谷本真由美さんが執筆し、月に数回のペースで往復書簡を交わします。[編集部より]