「ポケモンGO」のヒットから何を学ぶか?

2016年9月13日
posted by 大原ケイ

谷本真由美さま

なんだかんだでオリンピックも終わって、ロンドンどころか、あのリオでさえなんとか盛大なイベントを開催できたのを見て、少し安堵していいのか、さらに4年後のことを心配していいのかわからない今日この頃です。

さて、日本では誰よりも先にミーハー丸出しで飛びついておいて、もう飽きたなどと、通のゲーマーぶってみせる輩も見受けられる「ポケモンGO」ですが、ニューヨークでもものすごいことになっています。

ポケモンはなぜアメリカでも成功できたか

もともとニューヨーカーといえば、あの小さいマンハッタン島の中を「この私を轢けるものなら轢いてみろ」とクルマにガンを飛ばしながら歩きまわっているので、うってつけのゲームだったと言えるでしょう。いまだに誰もポケモン捕獲中にタクシーにはねられて死亡していないのは、普段から歩きスマホも、ジェイウォーク(横断歩道じゃないところを斜めに渡ること。一応ニューヨークの条例では違法となっているが、誰も守っていない)もお手の物だからかと思っております。

「ポケモンGO」をめぐる騒動で思い出すのは、やはり最初にアメリカで、「ゲームとアニメと映画がマルチメディアでシナジーを起こす」などと言われていた頃のことですね。もう20年近くも前の話です。あの頃、アッシュ・ケッチャム(サトシの英語名)がリビングルーム(お茶の間ではなく)に登場して、ニンテンドーのゲームにはまったアメリカンな小学生たちが、オタク感溢れる大学生・社会人になって「ミュウツー」だの、「ギャラドス」だの言いながらボールを投げているかと思うと、感無量です。

なにしろ、インスタント冷凍ワッフルがポケモンバージョンを出したり、ラジオシティー・ミュージックホールでポケモンショーをやっていたり、プロモーションと称して、フォルクスワーゲンの黄色いビートルを改造したピカチュー車が何台も子供の多い街に出没してゲームをやらせていたぐらいなんですから。

何がきっかけでアメリカでポケモンがブレイクしたかといえば、ニンテンドーがアジア圏以外でのアニメとマーチャンダイスのライセンスを売り飛ばしたからなんですよね。買ったのは、アル・カーンという人物で、それまでにアメリカで「キャベツ畑人形(Cabbage Patch Kids)」という、お世辞にも可愛いとは言えない人形を流行らせたこともある人です。

ちなみに、アメリカ人にとってCabbage Patch Kidsといえば、なんでクリスマスにあんなものを欲しいと思ったのか、本気でサンタさんにお願いしてしまったのか、過去の自分を殴りたいぐらいの黒歴史になっているおもちゃなのであります。そもそもなんでキャベツ畑で子どもが生まれる設定なんだよ? と突っ込んであげると面白いかと思います。

郷に入りては郷に従え

ポケモンのランセンスを根こそぎ買って大儲けした4Kids Entertainmentという会社は、ポケモンのアニメをアメリカ風にかなり勝手にアレンジしたと、いまではオタク系の米アニメファンに責められる存在ですが、「遊戯王」を扱った時のトラブルが元でその後に破産宣告しました。インターネットも一般に普及していないその頃は、サトシがアニメで「おにぎり」を食べていても「あの黒いボールはなんなのだ? ポケモンを捕まえるための道具ではないのか?」というトラブルを避けるために、サンドイッチの絵を代わりに挿入した、などの逸話が残っています。

ブームの頂点ではアメリカで年商30億ドル近いとされていたので、アル・カーン氏はこれで億万長者となりました。その後、ロングアイランドの母校に何億円ものお金を寄付したり、投資を装ったネズミ講で逮捕されたバーニー・メイドフの五番街のお屋敷を破格の安値で買ったときにも、ニュースで名前を見かけました。

もちろん任天堂としては、実は日本のことなどちっとも理解しているわけではなかったこの人物が、濡れ手に粟のごとく、しこたま儲けたのは面白くないでしょう。でももし、任天堂の日本人駐在員が乗り込んでいったところで、ポケモンがアメリカであれほど売れたかというと、私は違うと思います。

郷に入りては郷に従え、ということわざじゃないですが、現地の子ども向け番組のバイヤーと親しいとか、おもちゃ業界のR&Dの人とコネがあるとか、ワッフルやパスタのような異業種商品の流通に詳しいとか、そういう人材がいなければ、いきなり異文化のマーケットに「これ、日本で流行ってるんですけど〜」という理由だけで食い込むのは難しいからです。

そもそも、アメリカ人の子どもたちが何を「クール(カッコいい)」と感じるのかがわからないと、ダメですよね。日本政府側が「クールジャパン」と称して推してくるものが、大抵ハズれているのはそのためです。可愛くないキャベツ畑人形もこうすれば売れるとか、忍者のコスプレと思われるイタリア名の突然変異した亀がヒーローのコミック(ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートル)がなぜか人気があるとか、どうすればアメリカ人がお金を出すのか、こうしたことがわからなければなりません。安倍首相がいくらオリンピックの閉会式でマリオになりきろうが、一国の首相があんなことしてるよ、という笑いをとって終わりです。

これはコンテンツ輸出を目論む出版社にも言えることですが、版権は、それを売るノウハウを持ち合わせていなければ、宝のもちぐされであって、いくら自分たちで守っていても一文にもならないことになります。

4年後をみすえて何をすべきか

日本人的な感覚だと、ポケモンがイケるんだから「妖怪ウォッチ」だっていいだろう、と思いがちですが、日本的な「妖怪」という感覚が海外でどう受け取られるかは未知数です。十分に子供たちにフォーカスグループで実験し(そもそも、「フォーカスグループ」に相当する日本語が思いつかないあたり、マーケティングのコンセプトとして浸透していないものと思われますが)、その上で、ランセンシングに詳しい現地の人たちを雇うのが、成功のカギを握るように思います。

「ポケモンGO」の人気を、相も変わらず「日本すげー!」の一例として捉えたい人がネット上には多いようですが、これはグーグルマップという大容量のデータと、ナイアンティックが「イングレス」に続く新しいARゲームとして英知を結集させたものであって、未だに萌え少女のRPGのレアアイテム狙いで課金させている日本のゲーム界には、逆立ちしても作れなかったろうな、と感じてしまうのであります。

同じ感覚で、4年後に日本側が「おもてなし」と思っていることと、東京にオリンピックを見るために乗り込んでくる外国の人たちが準備しておいて欲しいことはだいぶ違うのではないか、と危惧されます。

残念ながら、政官主体の「クールジャパン」では思いっきりハズれたおもてなしになるのが目に見えるようなので、ここは素直に若い人に任せるとか、海外の人たちの声を素直に聞くとか、「ジジ抜き」を心がけてほしいものであります。たとえば、ハズレは「成田空港に着物を纏ったお姉さんが立っていて、冷たい手ぬぐいを渡してくれる」で、アタリは「成田に着いた途端、ワンクリックで高速の無料無登録Wi-Fiがサクサクと動き、SIMカードが海外登録のクレカでサクッと買える」ということなのですが、これをITには不案内そうな五輪担当大臣に説明するだけでもハードルはかなり高い気がします。

この往復書簡は今回の往復で最終回ということですので、私からはこれが最後のお便りになります。4年後の東京オリンピックをみすえて、日本人は何をすべきか、谷本さんはいかがお考えでしょうか?

※この投稿への返信は、WirelessWire Newsに掲載されます


この連載企画「往復書簡・クールジャパンを超えて」は、「マガジン航」とWirelessWire Newsの共同企画です。「マガジン航」側では大原ケイさんが、WirelessWire News側では谷本真由美さんが執筆し、月に数回のペースで往復書簡を交わします。[編集部より]

テクノロジーの中年

2016年9月5日
posted by 荒木優太

ケヴィン・ケリーの新刊『〈インターネット〉の次に来るもの――未来を決める12の法則』(NHK出版、2016)の原題はThe Inevitable、即ち『不可避なもの』である。なにが不可避なのか? テクノロジーの進歩に伴って条件的に課される、日々新しくなっていく情報/メディア環境での私たちの生活である。しかも、その更新は止むところを知らない。

無限のアップデート、避けられないのは常に新しい未来である。

その絶えまぬ更新的世界観は、各章の副題によく現れている。「BECOMING」(なっていく)、「COGNIFYING」(認知化していく)、「FLOWING」(流れていく)等々、すべて~INGという現在進行形で示される。つまり、全12章=「12の法則」は、私たちが放りこまれている新たな環境の生成変化の現場を、特徴的な動詞の観点から検討しているのだ。

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永遠のビギナーたれ

ケリーの基本的な立場は最初の40頁で、ほぼ理解することができる。乱暴にいえば、あとの紙幅は示された立場から見えてくる新世界の例示である。

要するにこういうことだ。大きな変化のプロセスのただなかにあっても、今後30年間ほどならば技術進歩の方向(または傾向)の基本を抑えておくことができる。透かして見えるそのアウトラインを、拒むのではなく、先ずは飛び込んでみる意欲でもって新環境と協働することで、いま以上のクリエイティヴな成果を得ることができる。

たとえば、ロボット化が進むと多くの仕事に人手が要らなくなるが、そのぶん、人間だけに許された創造的営為に集中できる機会が増え、しかも様々な技術体からの援助を得ることでそのハードルは大きく下がっていくのだ。

ケリーは、このような常なる更新の世界に対して、「この〈なっていく〉世界では、誰もが初心者になってしまう。もっと悪いことに、永遠に初心者のままなのだ。だからいつも謙虚でいなくてはならなくなる」、「永遠の初心者こそが、誰にとっても新たなデフォルトになる」(p.18)と、ユーザーの側のアチチュードの変化を予告する。

変化し続ける世界では、既存の技術体に関する慣れ親しんだノウハウは役立たない。仮に熟練者が誕生しても、一瞬のうちに、初心者へとリセットされてしまう。永遠のビギナーたれ、というケリーの教えには、未来のメディア環境を生き抜くために必要な心構えを認めることができる。

慣れないことにはもう慣れました

しかし、好奇心を大いに刺激するケリー的世界観には、新しさへの眩暈から反動的にやってくる倦怠を感じてしまう人もいるかもしれない。少なくとも私は、新しさが次々と現れる現在の光景に、拒否したいというほど強い意志はないものの、別段大きな興奮を覚えない。

勝手にアップデートしてしまうことで評判を悪くしたWindows10が、仮にずっとスマートだったとして、しかしそもそも、いま以上の利便性を身につけなければならないのか、という根本的な疑問は拭いがたい。

技術が社会に与える革新性への期待で胸を膨らます青年でもなければ、ちょっとでも目立つ新しさに出会おうものなら全力で拒否感を露わにする老年でもない、このアンニュイな気分を共有する人々のことを、「テクノロジーの中年」と仮称してみることにしよう。

中年とは、具体的な年齢を指しているのではない。「不可避」を的確に認識しつつも、大きな期待もなければ悲観的な絶望もない、否定もしなければことさら深入りしたいとも思わない……謂わば、新しさに慣れ親しんでしまった、慣れないことに慣れてしまった心性のことを指している。

このような中年性を私は以前からケリーとは別のテクストで考えていた。ケリーを読みながら、想起したのはやはりそのテクストの存在である。

即ち、ヴァルター・ベンヤミンのエッセイ「複製技術時代の芸術作品」(1936年)という古典がそれだ。

生写真のアウラ?

「複製技術時代の芸術作品」というテクストは、芸術作品のアウラを分析したことで有名だ。アウラとは、英語読みすればオーラのこと。日本語ならば「威光」とでも訳せるかもしれないが、その意味するところは、一回しか生じない芸術的対象の代替不能な輝きを指している。ベンヤミンはアウラの例としてまず第一に、夏のある風景を紹介する。

いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。(引用は多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』所収の野村修訳を使用、p.144、岩波現代文庫、2000)

技術と芸術の関係を論じる文章にも拘らず、夏の風景のような自然物を第一の例として出す不親切から始まり、一事が万事、このテクストは込み入っており簡潔な要約を拒む性格をもっている――素人ながら推測してみれば、テーマ的にいって本来ならば別々の論文のタイトルとして出すべきアイディアをベンヤミンはこの短文に凝縮してしまっているのではないか――。

しかし、その示唆するところは深い。アウラとは「一回限り」の感覚であり、つまりはコピーできないものを指す。それ故、複製技術が発達すると、アウラは消滅の危機に瀕す。たとえば、実際の夏の風景には他に替え難い重みを見出せるのに対し、同じ風景でもそれを写真やポストカードを通して受容するならば、「一回限り」を感受することはない。アウラ喪失の事態である。

では、アウラの有無は技術的に決定されているのだろうか。そうともいえない。たとえば、「生写真」という言葉がもっている独特の響きを想起してもらいたい。アイドルや俳優の写った、そしてしばしばサインの書き込まれた「生写真」は、他のイメージ・メディアに替え難い輝きをもっている(故に、それは「お宝」にもなる)。

先の例でいえば、写真はアウラが宿らない死物であったはずだ。にも拘らず、そこに冠された「生」の感覚とはなんなのか。含意されているのは、イメージを支えるその物質性である。イメージは独立して存在しているのではなく、物的支持体(紙)に託されて流通する。その有限な物質性こそコピーすることのできない「生」性を確保するのだ。

回帰するアウラ

不思議なことが起こっている。ベンヤミンによれば、複製技術が介入するとアウラは消失するはずだった。そしてその指摘は経験的な説得力をもっている、本物のゴッホ作『ひまわり』とTシャツにプリントされた『ひまわり』は当然違うものだ。けれども、そのような複製技術体であれ、私たちはときにアウラを感じてしまう瞬間がある。アウラが還ってくる。アウラの有無を技術決定論的に断定することはできない。

重要なのは、どうやらアウラ発生の裏側には芸術的対象を受容する主体側の要件が大きく関わっている、ということである。多木浩二が解説するように、「アウラを感じうるかどうかは社会的な条件に依存するから、われわれが集団内で芸術に抱く信念というほうが妥当」だ(p.46)。見聞きし体験する側、知覚する側の社会的条件こそ、アウラの大きな函数である。

では、どうやったら「写真」は「生写真」になることができるのか。私の仮説はこうだ。ある主体が写真以降の複製技術的環境を習慣化したとき、翻って過去の複製技術体に宿っていた複製できない有限性が事後的に見出される、その落差(ギャップ)にこそアウラの回帰する余地がある。

イメージの複製は、今日、パソコンの画像データで処理すればほとんど無限にコピーできる。しかし、その状態が習慣化したとき、翻って一枚の写真という複製技術体がもつ複製できなさを感得することになる。

テクノロジーの進歩に伴って、様々な過程的形態が生まれるが、それらを連続的に通過するとき、過去には感じられなかった複製技術体の特性に改めて直面することができる。「生写真」感覚の正体とは、今日のテクノロジーと明日のテクノロジーの間に生じる時間の界面現象なのではないか。

スクリーンのアウラ

同様のことは文字テクストに関しても指摘することができる。直筆ではなくタイプライターで綴られた「生原稿」は、必要な道具一式を準備すればやはりコピー可能なものだが、インクの汚れや紙のよれ具合などは、それが「一回限り」の現象であったことを端的に教えてくれる。文学者の記念館で展示されるのも当然だ。

ケリーは第四章「SCREENING」で、書物がスマートフォンやタブレットなどスクリーンに代替していく現状を俯瞰して、「本の民」と「スクリーンの民」の対立的様相を紹介している。無論、ケリーは後者への期待を隠そうとしない。これもまた「不可避」である。

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ただし、時代が進めば進むほど、特定の型のスクリーンがもつ物質性が逆に浮かび上がってくるかもしれない。SF的な話だが、たとえばバーコードのような模様に触れるだけで文字情報が音声となって脳内で再生される読書環境が一般化したとき、私たちはiPadの平べったさや重みが時代限定的であったことに気づき、その機器でタイプされた文章ふくめて「一回限り」のものとして知覚することは十分ありうる。

活版印刷以降の印刷術は一見、同じ本を複製しているようにみえる。しかし、痕跡本やサイン本がかけがえない対象になるように、それらは元々素材として個々別々の紙で造られている。その個体性に応じて私たちの認識の個体化も生じている。同じことはこれからも起こる。私たちが身体的存在者である以上、環境の物質性を克服することはできず、そこには常にアウラが回帰する余地がある。

いくらデジタル化が進もうと手放せない本の一冊や二冊はあるものだ。だからこそ、手放せないタブレットの一つや二つがあってもおかしくない。

中年の「不可避」

なぜテクノロジーの中年に注目するのか。それは、回帰的アウラの例で分かる通り、技術体を受容する側には経てきた具体的な記憶が宿っていることを無視してはいけないと思うからだ。少し難しくいうと、人間には特有の可塑性があり、新しいものの受容の型は予め歪曲しているように見える。だからこそ受容のさいに落差が生まれる。

美的受容は一律にフラットなものとして考えることはできず、その型には経てきた歴史が刻まれているはずだ。その歴史性をなかったことにすることはできない。ビギナーにはエキスパートの記憶が残っている。

可塑性とは、変化を受け入れる可変性と、受け入れた変化を保存する不可逆性を意味している――ちなみに、可塑性に関するこの両義的な解釈はカトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』(桑田光平+増田文一朗訳、春秋社、2005)が強調していたことだ――。変化に開かれつつも先行する変化の歪みを保存する。これは類比的にいえば、テクノロジーの中年がもつアンニュイな気分にほかならない。

私が指摘したいことは、ケリーとは異なる視角からの二つの「不可避」である。

第一に、これからの人間の生にとって、テクノロジーの中年の状態は「不可避」なのではないか。どんな若々しい青年であれ、常なる高頻度の更新に晒されれば、更新そのものが常態化した結果、中年的達観に至る。可塑性は、永遠のビギナーたれ、という教えを、斜に構えた仕方で、或いは鼻で笑いながら受け取るのだ。

第二に、テクノロジーが進歩すればするほど、アウラが回帰したように、中年による過去の技術体再発掘への欲望の点火は「不可避」なのではないか。それを単なるノスタルジーと切って捨てることはできない。なぜなら、その後ろ向きの発見は、再発見でありながらも、時間をかけなければ決して到達しなかった未踏の新発見でもあるからだ。その魅力は、最新テクノロジーと同期する輝きをもっている。

果して、テクノロジーの中年が、人類にとって歓迎すべき成熟したユーザーなのか、それともノリの悪い老害にすぎないのか。それはまだ、いま現在の私には判断がつかない。ただし、私たちは日々老いながら、ケリー的世界観に対峙せねばならないことに留意しておく必要はあるだろう。永遠のビギナー生活もいつかは終わる。誰しもが死のビギナーにならざるをえず、生まれ変わること(=「この私」の複製)もおそらくないのだから。

続・本屋とデモクラシー

2016年9月1日
posted by 仲俣暁生

2ヵ月前のこのコーナーで、「本屋とデモクラシー」というコラムを書いたところ、何人かの方から、このテーマでイベントを開催できないか、というお声がけをいただいた。そこでさっそく、東京・渋谷に新しくできたLOFT 9 Shibuyaという店で、9月6日に以下のイベントを行うことになった。

#本屋とデモクラシー〜シブヤ・いちご白書・2016秋〜
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/48460

登壇者は、ここ数年に「本屋」を開業した人や、取次・出版社・作家といった書店にかかわる関係者のなかから、以下の方をお招きすることにした(司会・進行は「マガジン航」編集発行人の私が務める)。

・辻山良雄(本屋Title)
・松井祐輔(H.A.Bookstore)
・梶原麻衣子(月刊『Hanada』)
・碇雪恵(日販リノベーショングループ)
・藤谷治(小説家)

これまで「マガジン航」では「本屋/書店」に関する記事を、経営者やオーナー自身にご寄稿いただいたり、インタビュー取材させていただくかたちで掲載してきた。

百年の一念
くすみ書房閉店の危機とこれからの「町の本屋」
「フィクショネス」という本屋の話
いまなぜ本屋をはじめたいのか
京都の「街の本屋」が独立した理由〜堀部篤史さんに聞く【前編】
京都の「街の本屋」が独立した理由〜堀部篤史さんに聞く【後編】
選書専門店「双子のライオン堂」の野望
学生による本の活動ユニット・劃桜堂
北海道のシャッター通りに本屋をつくる

わがままな利用者としての立場から本屋に言及する記事はネットに溢れているが(そして、それも重要だが)、これだけアゲンストの風が吹いているなかで、それでもなお、これから本屋をやろうとする人たちの考え方を知る機会が、あまりにも少ないと思ったからだ。

ところで、今回のイベントに先立ち、とてもタイミングよく西日本新聞社出版部からこんな本が出た。

『本屋がなくなったら、困るじゃないか 11時間ぐびぐび会議』

昨年秋に福岡で開催された「ブックオカ」のイベントの一環として、2日間にわたって行われた「車座トーク」をまとめたもので、現在の出版が抱えている問題が、まさに「車座」のごとき多視点で語られている。東京・荻窪に本屋Titleを開店するまえの辻山さんが、新規開業の「心づもり」を語っておられたり、同じく登壇者であるH.A.Bookstoreの松井祐輔さんが特別インタビューに登場していたりと、上記イベントの予習にうってつけなので、ぜひお読みください。

デモクラシーとローカルメディア

『本屋がなくなったら困るじゃないか 11時間ぐびぐび会議』を読んでハッとしたのは、この企画を主催し実行したのが、九州の書店・出版関係者だということだ。そうか、だからこの本は面白いのかもしれないな、と思った。東京にいて暮らしていると気づかない、その地域その地域が抱えるさまざまな問題・課題が、この本では「九州」という地域を足場に語られていることが、私としてはとても新鮮だった。

「マガジン航」では『ローカルメディアのつくりかた』の著者、影山裕樹さんに新連載「ローカルメディアというフロンティアへ」を開始していただくと共に、影山さんを共同モデレーターにお迎えし、「ローカルメディアが〈地域〉を変える」という連続セミナーを今年の夏から開始している。そして、この第2回目がまもなく9月9日に開催される。

ローカルメディアが〈地域〉を変える
第2回「メディアが地域にビジネスを産み出す」
http://peatix.com/event/187998/view

講師:
・江守敦史氏(一般社団法人日本食べる通信リーグ ゼネラルマネージャー)
・杉浦裕樹氏(NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事、「ヨコハマ経済新聞」編集長)

「マガジン航」がなぜ「ローカルメディア」に関心をもったのかと、このセミナーを始めてから、訊ねられることが増えた。私個人の動機づけは、学芸出版社のサイトで影山さんの『ローカルメディアのつくりかた』について書いた書評で少しふれてみた。端的にいえば、東日本大震災後のメディアの動向に対する違和感、つまり東京という中央から発信されるメディアだけでは、世の中のリアリティを十全にすくいとることはできないという、当たり前の事実に気づいたことである。

その意味で、私の中ではローカルメディアへ関心と、「本屋とデモクラシー」という一文を書いたときの気分とは、共通の根をもっている。

オルタナティブなメディアの必要

「マガジン航」が2009年に創刊されたときの、最大の関心は「黒船」だった。つまり、グーグルやアマゾン、アップルといった外資の巨大IT企業が、日本の出版界にどのような影響を与え、その生態系を変えてしまうのか、ということだった。ようするに、当時の電子書籍ブームは文字どおり「政治的」なものだった。

電子書籍は、その後も「政治」に翻弄された。「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」を受けての出版デジタル機構の設立、そして東日本大震災の復興を名目にした「緊デジ」こと「コンテンツ緊急電子化事業」の無残な失敗。これについては、さすがに「マガジン航」で書くことがためらわれ、WIREDのサイトに『さようなら、「電子書籍」』という文章を書いた。この頃は、なにからなにまで政治や国策に翻弄される「電子書籍」に、正直、うんざりした気分になっていた。

少し時間を遡る。「マガジン航」の発行を長らく支援してくれているボイジャーの人たちと最初に出会ったのは1993年、インターネットの日本での普及以前のことだった。「青空文庫」を立ち上げる前、まだライターとして仕事をしていた富田倫生さんとあるパソコン雑誌の仕事で出会い、ボイジャーの電子出版物「エキスパンドブック」についてお書きいただいた。

それがきっかけでボイジャーという会社とその電子出版事業を知り、1994年に創刊された最初の「ワイアード日本版」で、彼らが刊行したCD-ROM版『寺山修司・書を捨てよ、町へ出よう』について取材させてもらった。さらに1997年に創刊した「季刊・本とコンピュータ」という雑誌では、萩野正昭さん(当時の代表取締役)を副編集長に迎え、8年にわたり一緒に仕事をすることになった。

いま思えば、当時はまだ「電子書籍」という言葉はほとんど使われておらず、「電子出版」という言い方をしていた。CD-ROMどころかフロッピーがおもな媒体だったが、パソコンを使って誰もが電子的な手段で著作を世に問うことができるという「夢」を、素朴に信じていた。その「夢」はまもなく、WWWとウェブブラウザによってあっけなくかなってしまう。だが私のなかでは、その初発の夢と「電子出版」はいまでも結びついている。

成長産業としての期待から、電子書籍を「国策」として進めることや、外資の独占から日本の出版産業を守るために防御的にふるまうことの是非は、ここでは論じない。ただ、私のなかでの電子出版への関心や期待は、いまも「オルタナティブなメディア」としてのものであり、ローカルメディアへの関心と根は同じである。私が大きな影響を受けた元晶文社の編集者、津野海太郎さんに『小さなメディアの必要』という本があるが(青空文庫で読める)、この言いまわしに倣えば、「オルタナティブなメディア」がいまでも必要なのだ。

* * *

アマゾンが日本でもKindle Unlimitedのサービスを開始し、雑誌やマンガといった、出版物のなかでも書店にとって稼ぎ頭だった分野を根こそぎもっていこうとしている。最初の話に戻せば、いま「本屋とデモクラシー」というテーマで本屋や書店を語りたいのも、すでにネットやアマゾンこそがメインストリームになりつつある時代に、本屋や書店のなかに、それに対する「オルタナティブな場所」としての可能性を見出したい、という気分からだと思う。

「マガジン航」では今後とも、さまざまなオルタナティブの考え方や仕組み、それに関わる人たちを紹介したい。電子メディアやテクノロジーの最新の動きも注視していくが、同時にローカルメディアや本屋に対しても、新しい視点で取材していきたい。私のなかで、「電子出版」と「ローカルメディア」と「デモクラシー」には相互に深い関係がある。ぜひ、9月のイベントのいずれかにいらしてください。

Kindle Unlimited上陸について思うこと

2016年8月28日
posted by 田嶋 淳

Amazonの定額電子書籍読み放題サービス、Kindle Unlimitedが、8月2日より日本でも始まり、楽天も雑誌の読み放題サービス「楽天マガジン」のサービスを開始しました。そこで、これらに先立つ既存の「読み放題サービス」についてちょっと思っているところを書いてみたいと思います。

音楽や動画では常識化してきているサブスクリプション型サービス

近年、動画や音楽の世界では、定額で見放題、聴き放題型のサービス――サブスクリプション契約型のコンテンツ提供サービスが一般化してきています。

動画配信では今は日本における事業では日本テレビの傘下となったHuluを皮切りに普及が進み、現在はアメリカ最大手のNetFlixに勢いがあります。今テレビを購入するとリモコンの目立つ場所にNetFlixのボタンが配置されているという話もあり、もうこれは完全に一般化したと見ていいでしょう※1。ちなみにこれは従来の放送と通信のバランスを崩すかなり大きな動きです。

一方、音楽の世界でも聴き放題サービスが続々と登場してきています。海外で大きな勢いがあり、近々日本上陸も噂されるSpotify、アジアに拠点を置き、日本を含むアジアの楽曲に強いKKBOX、LINEのサービスとして登場し、かなりの注目を集めたLINE MUSIC、3500万曲という膨大なラインナップを誇るGoogle Play Music、AppleのサービスということでiTunesを始めとした従来のシステムに統合された形で提供されるApple Musicなど、こちらも既に飽和状態と言ってよいかと思います。

Amazonもまた、Amazon有料会員(プライム会員)への統合サービスという形で、サブスクリプション型のAmazonプライム・ビデオPrime Musicの提供を日本でもKindle Unlimitedに先行する形で始めています。

まだ課題の残るビジネスモデル

ただ、こうしたネット経由のサブスクリプション型コンテンツ提供サービスはまだまだ黎明期ということもあり、さまざまな課題も浮かび上がってきています。

Apple Musicの3ヶ月間無料キャンペーンでキャンペーン期間中にアーティストへの楽曲利用料支払いが行われないという方針に抗議して、米国のビッグアーティスト、テイラー・スウィフトがApple Musicから楽曲を引き上げると表明し、Appleが即座に方針を変えて支払うことになったという一幕が過去にありましたが、新しいビジネスモデルだけにこういった権利者と事業者の駆け引きは当分付いて回りそうです。

また、LINE MUSICが有料期間に移行した途端に利用者数が激減したなどという話もあり、事業者側にしてみればそれはもちろんタダでサービスを展開し続けられるワケがないのですが、利用者視点としてはラジオやYoutubeの代替と見ているとすれば話がわからなくもありません。また、次から次へと聴き放題サービスがサービスインし、一定期間無料で聞けるキャンペーンを行っていますから、サービスを次々に乗り換えればかなりの間無料で音楽を楽しめるのも確かです。

いずれにせよこれは利用者側に「常識」的なものがまだ形成されていない新しいサービスだからこそ起きている現象だとは言えそうです。

電子雑誌にサブスクリプションを根付かせた「dマガジン」

では、本題である出版でのサブスクリプションサービスはどうでしょうか。すぐに思い浮かぶ成功例は、電子雑誌市場でのdマガジンの成功です。これはこれまでほぼ不毛の地だった電子雑誌の世界にサブスクリプションを持ち込むことで、紙に比べて売り上げが大きいとは言えないまでも計算できる一定の売り上げが見込めるものにしたという点でとても評価できるサービスです。

おそらくはNTTドコモのサービスとしてスマホの契約者を取り込むところからスタートし、ゼロからのスタートではないという立ち位置が良かったのだろうなと思っていますが、出版社にしてみれば各雑誌に一定の売り上げが上積みされるわけで、有り難いことに違いありません。

また、このdマガジンで配信されている電子雑誌は、写真の権利関係の影響などで一部変更があったりはするものの、ほぼ紙雑誌のデータをそのまま流用して作れる固定版面のEPUBデータですから、制作技術面での参入障壁も非常に低いです。レイアウトで見せているようなタイプの紙の雑誌をリフロー型に作り変えるのは相当以上の手間がかかりますし、雑誌ということで時間もかけられない以上さらに大変なことになるのは明白ですから、「今は固定版面でよい」というのは現実的な判断だと思います。もちろん今後もずっとこのままでよいのかという課題はあるでしょうが、それは各雑誌側が今後考えるべきことになるでしょう。

電子雑誌の技術面では、epubの次世代規格として検討中のものの中に「Epub Multiple-Rendition」という策定中の規格があり、これに各ビューアが対応してくれば結構大きな影響が出てくるだろうなと思っています。これはひとつのepubパッケージ内に複数のepubデータを収納するというような規格なのですが、固定版面型データとシンプルなリフロー型データを両方収納しておき、適宜切り替えて読ませるといったような使い方が期待できるわけです。

この電子雑誌の読み放題サービスには、Kindle Unlimitedにわずかに遅れる形にはなりましたが楽天も「楽天マガジン」で 参入してきており、まさに熾烈な競争がスタートしたと言えそうです。楽天マガジンはKindle Unlimitedと違って雑誌のみの読み放題ですし、Kindle Unlimitedとは違い、楽天Koboのアプリに統合する形ではなく専用アプリを用意する形を取るなど戦略に違いは見られますが、現時点ではどちらが 優位とも言えません。今後の展開を注視して行きたいところです。

書籍の「定額読み放題サービス」

さて、肝心の書籍の定額読み放題サービスはどうかと言えば、こちらも既に先行している例はあり、auの展開する「ブックパス」Yahoo!ブックストアの「月額読み放題プラン」などがあります。いずれも手軽な値段でコミックや軽い読み物などを楽しめるという性格のストアです。また少々変わり種としては、有斐閣が展開する法律系古典書籍の定額読み放題サービス「YDC1000」などもあります。

Kindle Unlimitedはまさにここに参入したわけですが、当然ビッグプレーヤーということで相当以上のインパクトはあったと言ってもよいでしょう。予想したとおり、サービス開始時点でのコンテンツの中心は軽い読み物やコミック、ビジネス書でした

また、Amazonはサービス開始初年度には通常の販売と同額の代金を出版社に支払うとの話もあるようですので、これが本当なら、今後それなりに人気作がラインナップに入ってくる可能性はあると思われます。ただ、既に現時点でAmazonからの条件面の変更を理由として配信ラインナップ変更を表明した出版社もあったりしますので、今後どうなるのかは本当に流動的で読めません。

KU

堅い専門書などは一見向かないが……

一方、専門書など「堅い」タイプの本はKindle Unlimitedのような一般向け読み放題サービスには一見向かないようには思えます。ただ、例えば新刊発売後の数ヶ月間だけKindle Unlimiedで読めるようにしておき、プロモーションとして利用する手はあるのではないかと思います。

先日の紀伊国屋書店新宿南店の閉店に象徴されるように、利幅の薄い本を商品とする書店は大型書店ですら苦戦を強いられているのが現状であり、従来新刊の販売プロモーションに大きな役割を果たしてきた書店店頭の面陳、平積みの面積は減り続けています。これを補完する意味で、一定期間電子読み放題サービスに出すというのは意味があるように思います。

「堅い」本は現在でも多くの場合は紙で購入されていますし、通常手元に置いておいて折に触れて何度も参照したいものでしょうから、数ヶ月で読めなくなるのであれば結局「試し読み」と同義になるでしょう。従来も書店店頭では全ページ目を通すことができたのですから、これによって書籍の売り上げが減るといったようなことは無いのではないでしょうか。

ただし、普通に考えれば他の大量のコンテンツに「埋もれ」ますから、出版社の側で販促用Webページを用意し、SNS等で拡散をかけるなどの方法で独自に導線を用意してやる必要はありそうです。

また、「堅い」本であっても、例えば大学で教科書に使われるようなものなどにはちょっと向かないようにも思いますし、実際にどの本で仕掛けるかは各出版社が慎重に判断する必要はあるでしょう。

*  *  *

書籍の「定額読み放題サービス」というのは一見、従来の紙の本ではちょっと考えようが無かったビジネスモデルであるように思われます。ただ、例えばネットカフェ/マンガ喫茶は、場所やドリンク、コミック以外のゲームなどのコンテンツ提供と込みであるとは言え、「定額読み放題サービス」としての側面を持っています。

また、地域や大学などの「図書館」は、各地域の税金や大学の学費などを原資に書籍を購入し、地域住民や学生に書籍を貸し出しているという意味で広義の「定額読み放題サービス」であるとは言えそうです。もっとも図書館にはそれ以外にもの地域や学校内のコミュニティセンターや、長期にわたっての資料のアーカイビングなど他にさまざまな役割がありますから、「読み放題サービス」としてのみ考えるのは無理がありますが。

いずれにせよ、デジタルコンテンツでのサブスクリプション型サービス自体はもう大きな流れとして定着してきており、出版の分野でも一定の地位を占めると思っています。ただ、そこでの主流がKindle Unlimitedになるのかどうかはちょっとまだわかりません。この分野が今後どう発展し、定着していくのか、しばらくは目が離せないところです。

※1 参考:ネットフリックスの時代(西田宗千佳/講談社現代新書)

※この記事は著者の個人ブログ「電書魂」で7月19日に公開された同題のエントリーに、Kindle Unlimitedの日本でのサービス開始を受けて加筆いただき、再編集のうえ転載したものです。

第1回 Kindle Unlimitedは貧乏大学院生への福音となるか?

2016年8月23日
posted by 山田苑子

人は千差万別な事情があって大学院に通うことになるわけで、理由や動機はともかく入ってしまったが最後、史料/資料を集めることからは逃げられない。これには万人が同意してくださるところであろう。

今回、連載の機会をいただいたので、現役大学院生の図書利用術を、電子書籍やデジタルアーカイブを含めて紹介してみたい。名づけて「アーカイブ・ハック」、ようするにケチケチ利用術である。

「借りるより、ポチってしまえ 、ホトトギス」

新幹線片道2時間半の通信制大学院に遠距離通学しているため、大学の図書館はほぼ利用できない。先日、所属大学図書館で借りてみた(1冊2,400円の本)のだが、約月イチでの登校なので、期限である3週間に返却は間に合わない。期限切れになると同時に、ご丁寧に電話での「返却願い」が留守電で入る。返却したところ今度は「あなたの返却には不備がありました」とのメールがわざわざ送信されるほどの手厚さだ。

大学図書館側としては郵送貸出を整えているのだ、充分なサービスなのだと仰るかもしれないが、たった3〜5冊借りただけで配送料が往復1,200円以上(従量課金)かかる。職員によるお叱り手間賃を返却送料に還元したほうが返却促進には有効なのではと思う。返送の手間と余計な出費とお叱りでイライラを産み出し、かつ手元に残らん貸出本。いずれにせよの出費であれば、ええいうっとうしい買ってしまえとなるのが人情だろう。

そのような図書館難民なので、最近は、借りるより買ってしまうことが増えた。もうこれは致し方ない。自然の摂理である。おかげでAmazonが儲かるという寸法だ。Amazonは新品も古本も一緒に検索でき、さまざまな古本屋のさまざまな状況の古本も一括検索できるのがよいところだ。かつては「日本の古本屋」の常連であったが、いつの頃からかAmazonで探すのが先になってしまった。

私はAmazon Student会員なので、プライム会員と同等のサービスが受けられ、さらにAmazon.co.jp が販売する該当書籍を購入するとAmazonポイント+10%となる特典もある。ゼミで「これ読まなあかんで」と言われたそばから、目の前のPCでサクッと検索してとりあえずポチれば、家に着く頃には到着している(こともある)。見たことがない本は「なか見!検索」もあるので目次も読めて安心だ。

Amazonが日本でサービスを始める前、つまり20世紀には、こんな便利なサービスはなかった。そこで誰もがやっていた(はずな)のは、本屋と図書館で目次と後書きをチェックしてから生協で発注する、というフローだったのではないか。ユーザーとしてのタスクは21世紀の現在もまったく変わっていないが、チェックと発注のための労力が減ったわけで、文明の進化はまことに素晴らしいと言うほかない。そしてAmazonでブックサーフィンしていると、当然、Kindleバージョンもあるよ、という本が出てくる。

そんな私の前に福音のように登場したのが、Amazonの月額固定・電子書籍読み放題サービス、Kindle Unlimitedである。月額は980円だが、30日間の無料期間があるというので、さっそく試してみた。

アマゾンが日本でも始めた読み放題サービスKindle Unlimited。さっそく無料体験をはじめてみた。

Kindle Unlimitedは節約術になるか

まず最初に結論を言おう。Kindle Unlimitedは大学院生としての節約術にならない。これが実感だ。「大学院生としての」 ということは、論文や課題、レポートを書くのに参考になる文献がどれだけ読めるか、ということだ(もっと言うと参考文献リストに書いて指導教官に怒られない著者の本、とも言える)。

調べてみたところ、直近1ヶ月でAmazonで買った本(Kindle、新品本、中古本、送料含む)の合計金額は、送料込みで12,555円だった。ここから論文には関わらない本を除くと、合計11,475円(8冊)。1冊平均約1,400円。一方、Kindle Unlimitedの利用料は]たった月額980円(税込)。このうちの1冊でも利用できるのであれば、万々歳ではないか。そう皮算用していたのである。

直近一ヶ月に買った本で、Kindle版が出ているものは1冊、しかもUnlimited非対応であった。

だが、さらに調べてみると、この直近一ヶ月の8冊のうち、Kindle版があるのは1冊(白幡洋三郎プラントハンター―ヨーロッパの植物熱と日本』、講談社選書メチエ)だけだった。Kindle版より古本が安かったのと、図版が多用されている本なので、このときは紙で買った。今回あらためて確認したところ、Unlimited対応ではない。無念。

8冊を調べただけではあまりにもデータが少なすぎるので、さらに大学院の研究やレポートのため購入した関係書籍を加え、全20冊を調べてみたが、有料課金Kindle版が存在するのは前述の1冊のみであった。電子書籍化の確率は1割に満たず、しかもその1冊はUnlimited対応ではない。残念ながらKindle Unlimitedは、大学院生としての書籍代節約術としては当面、役立ちそうにない。

マイ・パーソナル・漫画喫茶?

ところで紙のマンガを購入しなくなって、もう随分経つ。貧乏大学院生は人生を賭けて収集したマンガストックを切り崩して、なけなしの棚を論文関連書籍に解放するよりない。そのような棚難民が、マンガを電子コンテンツとして購入するようになるのは必然の流れである。

残念ながら論文関連書籍では当面まったく役に立たなそうなKindle Unlimited。しかし貧乏学生としては、それを抜きにしても書籍代の節約術になるかどうか、気になるところだ。

そもそも私は、完全にマンガは電子派なのだ。紙のマンガはここ数年、1冊も買っていない。すべて電子コミックである。最近1年間で電子コミックに使った金額を計算してみたところ、片手の数万円くらいにはなっていた。ただし「これを読もう」という明確な意志はほぼなく、ネットでみかけた「おすすめリスト」に入っていたからなんとなくとか、「第一巻は無料」という文言につられて読み始めることが多いという、大学院生らしからぬ思考停止的利用法だ。

Kindle Unlimited対応のマンガを活用することで、このウン万円の一部は節約できるかもしれない。しかしこれは、時間の節約にはまったくならない。ほとんどマイ・パーソナル・漫画喫茶である。社会人大学院生としてこの奈落に身を乗り出してよいものなのだろうか。

眼下に広がる電子の暗闇は、いとも優しく私を見上げている。ネットをちょっと検索すれば、優良な読むべき「おすすめマンガリスト」が出てきて、あっと言う間に一日が経過しそうな冊数がラインナップされている。これとdアニメとかを契約していたら人生「詰む」気がするが、一方で楽園の匂いもする。

怠惰で流されやすい自宅警備系院生にとって、無料で読めるマンガの山は時間を消費するのにうってつけだ。Kindle Unlimitedは、修論の締め切り直前は絶対に契約を切っておかなければならない(もちろん今も30日間の無料契約期間中である)。

(つづく)