第13信(仲俣暁生から藤谷治へ)
藤谷治様
明日の夜に、荻窪の本屋Titleというお店で藤谷さんをお招きして行うトークイベントの準備をしながら、このメールを書いています。せっかくなので今回の手紙は、この企画の趣旨を説明するところから始めさせてください。
僕は「kotoba」という季刊の雑誌に創刊時から関わっています。以前はメディアについての本を紹介する書評の連載をしていたのですが、何度かのリニューアルを経ていまのかたちになったのを期に、また新しい連載を始めることになりました。そのコンセプトは「新刊書ではない本を紹介する」。僕はほかの雑誌や新聞でも書評を書く機会が多いのですが、どうしても「新刊紹介」にならざるを得ない。書評は出版社による本の販売促進のシステムに組み込まれていて、書き手同士のあいだにも互恵的ともいうべき本のやりとりの習慣があり(こちらについては僕は肯定的ですが)、ともすれば書評もそのようになりがちです。
ただ、あまりにも本の情報が新刊偏重であるために、わずか5年、10年前、それどころか一年前や半年前に出た本でさえ、あっという間に人々の視野から消えてしまうことには、書き手としてだけでなく、読者としても虚しさを感じます。僕らがまだ若い頃、たとえば村上春樹の『羊をめぐる冒険』や村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』は、もう少し長い時間をかけて読者に浸透していったし、また長く話題に登りうる本だったように思います(もちろん、単行本と文庫化のタイミングで二度、話題になるということも含めて)。
でもいまは、あまりにも多くの本(しかもそのなかには、皮肉なことですが「良書」も多いのです)が出すぎているために、僕のように出版メディアそのものを論じることが仕事の一部であるような者にとってさえ、自分がぜひとも読むべき本と日々出会いそこなっている気がしています。
それはニッチなジャンルの本に限りません。ここでいきなり「古典」というと意味が広くなりすぎてしまうので「モダン・クラシックス」という言い方をしますが、少なくとも数十年は読みつがれておかしくない、その分野の読み手の間では定評が固まっている著作でさえ、いまは書店の店頭で簡単には手に入らない、少なくとも新刊書(ここではこの言葉を「古書ではない」という意味でつかっています)として手に入れることが難しい状況が続いています。
それで今回、新しい連載の話をいただいた機会に、とにかくロングライフな本、あるいはそのように読みつがれてほしい本を取り上げて、あえて「百年の名著」として打ち出そうと考えたのでした。
ただし選ぶ本の範囲を広げてしまうときりがないので、21世紀に入ってから出版された本という枠をはめました。いまはちょうど平成という時代の終わりに差し掛かり、この30年間を振り返る企画が花盛りですが、僕のなかではどうしても平成初期の約10年間と、21世紀に入ってからの約20年間との間に断絶があるのです。
思えば藤谷さんが小説家としてデビューしたのも、僕が文芸評論の本を書いたのも21世紀に入ってからです。出版という営みにはっきりとアゲインストの風が吹き始めるのは平成も後半に入ったこの頃からですが、自分自身はそのなかで、本の書き手として遅いデビューを果たしたという自覚があります。
そんな僕が勝手に選ぶ「名著」ですから(しかも季刊誌での連載なので、年に4冊しか選べません!)書きっぱなしではこころもとない。そこで本を選んだ理由やその評価、できることならば今世紀における「名著」や「古典」の条件について、この連載記事が掲載された号が出たあとで、毎回誰かと話をしてみたいというのが、明日お越しいただくイベントの趣旨なのです。
初回に選んだのは、イアン・マキューアンの『贖罪』です。この本はとっくの昔に文庫化されていたのですが、昨年暮れにあらためて一冊にまとめたかたちで再文庫化されました。最初の二分冊による文庫化のときにも手にとった記憶がありますが(そしてもしかしたら買った記憶もあるのですが)未読のままになっていました。マキューアンはその後に出た『ソーラー』が面白く(藤谷さんとこの本をめぐって少し話をしたときは、意見が合わなかったことを覚えています)、最近の作品も手元にあるものの、なかなか読むきっかけがなかったところ、今回の再文庫化がとてもいい契機になりました。
文庫本がもつ役割は本来、このようなかたちでモダン・クラシックスを確定していくことにあったと思います。でもいま、文庫本はあまりにも大量に出過ぎており(その背景には一作あたりの部数減があるわけですが)、その結果ひとたび文庫化されても書店の棚につねに置かれるとは限らない、という状況が続いています。確実に手に入れるにはむしろブックオフに行ったほうが早い、というような逆説的なことさえ起きている。
そうしたなかで、バーチャルなかたちでもいいので僕なりに「モダン・クラシックスの条件」を考えてみたいのです。このアイデアの原点は丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂の三氏がかつてやった『文学全集を立ちあげる』という座談会です。現実的に「世界文学全集」や「日本文学全集」を刊行することが難しくなりつつあった2000年代の初めに、それならばいっそのことバーチャルな企画として、いま文学全集を編むとしたらどうしたらよいか、そのラインナップを思う存分論じてみようという痛快な読み物でした。
その後、河出書房新社から池澤夏樹編による世界文学全集と日本文学全集が相次いで企画され、後者はいまも刊行中ですが、丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂の破天荒な試みにくらべると(なにしろ実現すると全300巻にもなります!)ささやかな出版企画に見えます。ましてや僕の連載は年4作。3年続けても12作しか選べませんから、一作ごとのセレクトには気を使います。でもこういうゲームを皆がしてみたらよいと思い、あえて誇大広告気味のタイトルを掲げた次第です。
明日の会場を提供していただく荻窪の本屋Titleは素敵な店です(藤谷さんはもういらしたことがあるでしょうか)。昔ながらのごくふつうの町の本屋という佇まい(もともとはお肉屋さんだったそうですが)と、コンパクトながらも考え抜いて選ばれた本が与えてくれる安心感、二階のギャラリースペースの展示や、お店の奥のカフェスペースなど、「こんな本屋が家の近くにあったらいいな」と思わせてくれます。JRのふたつの駅どちらからもずいぶん遠いのに、わざわざ足を運ぶ方が多いのは当然でしょう。
もちろんそれはこのお店を開いた辻山良雄さんが、リブロで長い経験を積んだプロの書店人だからです。辻山さんはとても落ち着いて見えるのでうっかり誤解してしまいますが、僕や藤谷さんよりは一回り近く若い世代です。プロフィールを拝見すると1997年にリブロに入社とありますから、辻山さんが本格的に活躍なさるようになったのは21世紀に入ってから。つまり日本にもアマゾンという強敵が上陸したあとに、現場の書店人として苦闘をしてきた方です。21世紀になってから生まれた百年後にも読みつがえるべき本について語るイベントを、僕が本屋Titleでぜひやりたいと考えた理由の一つがそこにあります。
僕はいま、自分の読書生活の中心を「新刊ではない本」に少しずつ、移したいなと考えています。もちろん「書評」という仕事には同時代批評という役割があり、同時代の作品に対するリアルタイムの伴走者であることは、批評家や評論家にとってかなり大切な機能です。でも同時に、もう少し引いた目で「同時代」を眺めることが、そろそろ僕らぐらいの年齢になると必要になってくる気がします。
平成元年にまだ25歳だった自分にとって、1990年代は十分にリアルタイムの時代でした。眼の前で起きるいろいろな出来事を、歴史のなかに位置づけることはまだ不可能で、むしろ切迫した同時代感覚のなかで、それをどのように言葉にするかを考えていた気がします。
でも21世紀は僕らにとって、中年以後の時代です。そしてそろそろ、人生の最終コーナーも見えてきた。そんな自覚のなかで、これからの時代に読みつがれるべき「百年の名著」を自分なりに考えてみたいと思っています。明日の夜、またお目にかかれるのをとても楽しみにしています。
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【お知らせ】
「21世紀に書かれた百年の名著を読む」第1回
仲俣暁生×藤谷治「イアン・マキューアン『贖罪』を読む」
3月29日に東京・荻窪の本屋Titleにてトークイベントを開催します。開始時間は19時30分。料金は1000円+ドリンク代500円、定員は25名です。詳細な内容と参加申し込みは以下のサイトをご覧ください(満席の際はご容赦ください)。
http://www.title-books.com/event/5955
執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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