作用し変化し合うこと——NovelJam観戦記

2018年12月13日
posted by 伊川 佐保子

わたしがNovelJamに申し込めなかった理由

合計しても、そこに居合わせたのはたった8時間程度だった。

それなのに、その様子を見守り、自分自身もなかば参加した気になって、満足げに観戦記を書くことにした。

だが実は、そもそもわたしは観戦するのではなく、参戦者側に回りたかった。回りたかったが、諦めたのだった。

NovelJamは「著者」16名、「編集者」8名、「デザイナー」8名の計32名がチームを組み、2泊3日の中で短編小説を完成させ、しかも電子書籍として出版せねばならないという、なんとも無茶なイベントである。その第3回が、2018年11月23日から25日までの3日間で開催された。

NovelJam2018秋の制作中風景(写真提供:日本独立作家同盟)

はじめてこのイベントの存在に気づいたのはおそらく2018年の2月に開催された第2回のときだったように思うが、そのときからわたしはこの取り組みの無茶さ加減に惹かれていた。

正直に言ってデザインのことはさっぱり分からないから、「デザイナー」枠は無理。でも「著者」枠か「編集者」枠だったら、素人にしろ多少なりとも楽しめるのではないか、だめなら落選するのだろうし応募してみるくらい……、いや、でもやはり無理だ、やめておこう。

そんな風に何度も申し込みを検討し、そして何度もあきらめた。

”面白い”短編小説を著者1人につき1作品、会期中に完成させる

NovelJamの参加要項の冒頭にあった言葉だ。わたしはここにつまずいた。

わたしには面白い小説がどういうものなのか分からない。

高校1年生のとき、文芸部で書いた小説を担任のD先生が読み、「よく分からないし面白くなかった」と感想をくれた。わたしは咄嗟に「じゃあ『ハリー・ポッター』だけ読んでいてください」と悔しまぎれの返事をしたのだが、それから10年以上経っても、自分の小説がわたし以外の人にどう面白く読んでもらえるかというイメージはまったくついていない(念のため補足をすると、『ハリー・ポッター』も担任教員もわたしは大好きだった)。

そんな状態で面白い小説を書くなんて無理だ。ましてや編集をするなんてどう見ても不可能ではないか。わたしにはそう思えてならなかった。

NovelJamを2日間観戦した後になって考え直したとき、参戦者としてあの場にいなかったことを後悔していないかと言えば嘘になる。事実、NovelJamは面白い企みであった。随所で様々な反応が起き、それによって新たな小説が多数生まれた。同時多発的な反応は、その念入りに仕組まなければ発生し得ないものだろう。念入りに仕組まれたゲームの上で本気で戦う面白さは、何ものにも代えがたいことだろう。

それでも、わたしが観戦者という立場で巻き込まれたことは幸運であった。「ほんやのほ」という小さな本屋の開店準備をしているわたしにとって、小説と面白さについて真剣に考えたことは大きな意味を持つものだったからだ。

「面白い小説とはなにか」

さて、「面白い小説とはなにか」。

わたしは「小説が好きだ」と言って生きてきたが、先に書いたとおり、面白い小説がなんなのかはまるで分からない。読まない人よりは本を読み、読む人よりは読まずにやってきたのだろうと思う。同じように、書かない人よりは書き、書く人に比べればほとんど書かずに生きてきた。しかしいまだ「面白さ」の輪郭はちっとも見えてこない。D先生の呪いかとも思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

「この小説、半端じゃなく面白い」と思ったことがないかと言えば、そんなことはないのだ。むしろ日々なにかしらを面白がっていると言った方が正しい(なんならD先生につまらないと言われた自分の小説についてだって、なにかしらの面白さを受け取っている)。

ならば「面白い小説とはなにか」という問いの設定そのものに間違いがあるのかもしれない。

どうも「面白さ」というものは小説側にはないのではないか。面白さはむしろ感情を動かされる人間側に位置しているようである。

もちろん、人がなにかを自発的に面白がっているわけではない。静的な素材である小説が、動くものであるところの人間の認知に作用することによって面白さが生まれているといった方が、より正確なのではないだろうか。

面白い小説、美しい絵画、恐ろしい道具。この修飾は反応として生まれる評価だ。たしかに、ある環境で比較したときに面白いと評価されやすい小説は存在することだろう。だが、それは環境や状況という大きな前提によって成り立つものでしかない。

わたしたち人は皆、作用を受けている。数多くのものによって刻一刻と変化する。しかもそれは目的の到達のための進化ではなく、「変化」「動き」と言った方がよい。

パブリッシングの面白さ

絶対的に面白い小説は存在しない一方で、動きはそれそのものが面白い。

動きと変化こそがこの世界の醍醐味だとは言えないか。反応し変化していくことが、世界の一部であることを示すものだとわたしは信じてやまない。というか、自分も他者もそういう一部であるらしいということが、なにより面白いではないか。

生きていくための平和、生きていくための諍い、生きていくための優劣がある。

それが大局的にみれば差のないことであろうと、わたしたちはその中で生きていくしかない。それならば、心地よくありたいと思うのは自然なことだ。

心地よくあるためには、今この瞬間に心地よくあることと、明日、来年、10年後に心地よくあることを考えなければならない。そのために、小説は書かれればいいと、わたしは思う。書けば気持ちがいいから、書かねば苦しいから書く。よい作用を受けたいから書く。そういうものではないだろうか。

NovelJamは一つの装置だ。面白い動きをする企みだ。さまざまな事情と興味によって集まった数十人が、ただただ同じルールに沿って、他のすべてのことを投げ打って作品を仕上げていく。時には意図を読み違えたり、空回りしたりもする。普通では起きないようなことが、この短い時間の中では容易に起こり得る。それはNovelJamという仕掛けと、参戦者同士の反応によって成り立つものだろう。

だからこそ、振り返ればNovelJamでは絶対的な面白さが求められていたのではなく、この場で「”面白い”短編小説を定義する」という行動が求められていたようにも思われる。なにせNovelJamに参加するのは「著者」だけではないし、生み出されるのはテキストだけによって成立するものではない。NovelJamで行われるのは、「ライブライティング」ではなく「ライブパブリッシング」なのだから。

パブリッシングとはまさに動的なこと、行動である。NovelJamは1人ではなく「著者」「編集者」「デザイナー」という複数人で分業することによって成立するイベントだ。NovelJamが謳う「ジャムセッション」の意味するところでは、以下の2点が肝となるだろう。

・複数人で行われること。
・あらかじめ念入りな計画をせずに実行すること。

問われるべきは狭い意味での、テキストとしての小説ではなく、パブリッシングの即興的な面白さなのではないだろうか。即興の中では、一般性・絶対性に期待する必要は薄れる。それよりもこの状況だから現れるなにかから、ひしひしと作用を受けることがかなえば、その作用によって評価することもむずかしくはないはずだ。

様々な戦略が交錯していた、ように見えた

初日の自己紹介タイムから、戦いはしっかりと始まっていた。わたしは北野駅に向かう京王線の中で、YouTubeのライブ中継を見、Twitterのハッシュタグを追っていただけだ。それでも、印象に残りやすいラップや演奏、フリップ芸だけでなく、自分のアピールポイントを90秒間で伝える様々な試みが見て取れた。怖いくらいだった。

わたしが小説を書こうというとき、それはどこまでも個人的な思考の整頓術、身体のわだかまりの発散法のようなもので、社会性とは縁遠いものだった。発表にしたって、高校文芸部の部誌を除けば、仲のいい知人に押しつけるくらい。しかし、ここではすべて違うのだ。

「著者」も「編集者」も「デザイナー」も、得意不得意にかかわらず、皆なんらかの見せ方で自分を集まった小さな社会の中にアピールすることが求められ、なんらかの方法でそれを行った。この自己紹介がその後のマッチングに大きく影響することは間違いないのだから、当然でもある。その社会的でまっとうな努力に、わたしはどきどきしながら目を見張っていた。

ようやく急ぎ足で会場に到着した14時半ごろ、会場ではマッチングが行われていた。投票と最終的にはじゃんけんでチームが決められる。期待通りの結果に喜ぶ人、そうではないことにショックを受ける人がいる。それでも、決まったならその中で最善を尽くすことになる。

チームメンバーのマッチング中。(写真提供:日本独立作家同盟)

チームが決まると、わたしが座っていた席からでも、初対面の緊張をほぐそうと話す声、打ち合わせスケジュールなどを念入りに相談する姿のあることが分かった。お題が発表されると、すぐさま考え出す表情も見えた。わたし自身は初日そこで帰ることになっていたため、その後のことは分からない。

「作用」と「評価」

次に会場を訪れたのは3日目の作品提出が終わってからだった。後から参戦記を読めばドラマの断片だけは見えるが、3日目再び会場を訪れたときは、空気が初日と比べてよほど落ち着いていることに驚いた。会場でただ審査結果を待つのみという状況は、想像していたよりも和やかに見えた。

じきに審査員らが登場し、席に着く。1人1人の審査員が賞を授与し、講評を行う。すべての賞が贈られると、全体評が交わされた。おや、と思った。それはパブリッシングそのものへの評価というより、各視点から見たテキストへの評価に終始しているように思えたからだ。

だがそれも無理はない。現状電子書籍と呼ばれるものはプラットフォームの厳格な仕様に沿ってはじめて活用が可能になる。それらプラットフォームの一歩外に出てしまえば、それは金銭的な流通からも足を踏み外したようなものだ。ともすれば、制作者側はプラットフォームが許容する行動しかとれない、場合によってはそこから外れる想像すら許さないような状況に陥ってしまう。結果として、小説以外に作用するものを持つことがむずかしいのだ。

だがそれでは、そこで生み出されたものは、長い時間をかけて誕生した他の小説に比べて捉えどころのないものになりがちではないだろうか。小説だけで「戦い」に興じなければいけないのであれば、少なくともそれを今後長く時間をかけて変化するものの種と見て赤ん坊のようにかわいがるか、あるいはまったく別の行動の仕方によって小説を書くほかない。

審査員による講評風景。右から二人目が小説家の藤谷治さん。(写真提供:日本独立作家同盟)

NovelJam審査員の1人である藤谷治さんが、「文学というものが著者によるだけではなく、編集者によっても、デザイナーによっても手を加えられて、初めて「文学」になる」と書かれていた。NovelJamがその体験の場であるならば、2泊3日の中で生まれたものの評価も、それ相応に行われる仕組みを持つべきではないだろうか。またパブリッシングの自由度への模索は、いくらされてもいいものだろう(なお、次回まで待たずとも2月に行われるグランプリ発表まで、NovelJamは続く。その中で総力がいかに発揮されるかというところも、もちろん無視してはいけない点だ)。

制約と自由のせめぎ合い

イベント終了後の打ち上げでは、張り詰めていた身体をほぐすように楽しむ会話が行き交っていた。中には「こんな連携がしたかったができなかった」と振り返る参戦者の声もあった。そこからは作品のテイストなど創作物に関する齟齬ではなく、性質や行動特性の理解までの時間不足による不自由が感じられた。

それを聞いて、こんな想像をした。

もし、NovelJamに枠がなかったらどうだっただろう。

「著者」「編集者」「デザイナー」という枠を設けなくても、成立する方法はないのだろうか。

例えば、なんらかのWeb診断テストを受けてもらうのものいい。あるいは特性の軸がより多岐にわたっていればいいのかもしれない。

編集にしてもどういう進め方が得意なのか、どういう性格でなにが苦手なのかということが分かっていれば、短い時間でより作品に専念でき、相乗効果も生まれやすいのではないか。

「著者」が必要なのではなく、「小説を書く役割の人」がいればいいのかもしれない。「デザイナー」ではなく「デザインができる人」という方がいいのかもしれない。そんな風に思う。

小説を書ける人がもし2人いるならツーサイド小説が生まれるかもしれない。発想が得意な人がいれば、デザインと小説を絡めることも可能になるかもしれない。執筆、編集、デザイン、すべての要素は必要だが、それが1人1要素ずつと決められている必要もないように思えた。

そういえば自己紹介の時に「車で来ているので同じチームになると買い出しがラクです」というアピールをしている人がいた。これもまた立派な特性だ。ようは「どういう時間を一緒に過ごせるか」がイメージしやすい方がいい。などと書くと、はやりのマッチングアプリのようだが、もしかすると近いところはあるのかもしれない。

どうせなら、面白いことをしたい。それは参戦した誰もが思っていたことだろう。そのための制約と自由のバランスが、よりかみ合えばいい。きっとそのためにイベント自らも反応し変化していくのがNovelJamなのだろう。主催者側と審査員、参戦者、わたしたち見学者までもがごちゃ混ぜになって談笑する打ち上げの中、そんな気がしてきて、わたしは安心しながら缶チューハイを飲んだ。

NovelJamのような本屋があるとすれば

もしNovelJamのような本屋があるとすれば、「ほんやのほ」がそれであればいいと思う。

大切なのは「そこでなにが作用したか」「自らどう変化できるか」である。そのために運営者はなんらかの企みを持たねばならない。

それは「ほんやのほ」に限った話ではない。本屋に限った話ですらない。本屋の企みはすべて「お金を得るための施策」に過ぎないと思われるかもしれないが、今時本気でお金を稼ぎたいだけのために本屋をやる人なんていない、と思う。もちろんお金も稼ぎたいだろうが、それよりなんらかの装置として社会の中にありたいのだろうと思っている。少なくともわたしはそうだ。

NovelJam参戦記を読むと、それぞれの試行錯誤が見える。基調講演では編集者の三木一馬さんが「人は他者の追体験をしたいものだ」と話されていた。それは小説について語られていたことだったが、参戦記もまた一つの物語に違いない。それらをぼんやりと眺めていると、NovelJamがわたしにもたらした作用は大きかったのだと分かる。わたしには参戦記、観戦記が面白くてならなかった。藤谷治さんの評も、自分のことのように読んだ。それはわたしが気づけばNovelJamの動きに巻き込まれていたということだ。

NovelJamの直の熱、動きに感化されて、わたしは今この文章を書いているのだと気づくと、それもまた面白い。

執筆者紹介

伊川 佐保子
2019年2月、日本橋大伝馬町に小さな本屋「ほんやのほ」開店予定。1992年東京都杉並区生まれ。気になった言葉をころころ転がして遊ぶ「回文庫」活動中。
ほんやのほサイト: https://books-ho.tokyo
Twitter: https://twitter.com/ho_bo_po
note: https://note.mu/ho_bo_po