第1回 東日本大震災と編集グループ〈SURE〉

2013年2月6日
posted by 清田麻衣子

つい最近まで、自分で版元をやろうなどとはまったく思っていなかった。正直なところ、今も半信半疑だ。

そこで、この連載では、既にひとり、もしくは数人で小規模な出版社をされている方々のお話を聞きながら、そのお話を参考に私が版元をおこし、本を出版する過程をリポートしていこうと思っている。

――なぜこんなことになってしまったのか。

詳しくは後述するが、当初はフリーランスのライターとして、このところ増えているというひとりで出版社をおこした方々に取材したいと思っていた。しかし、今後、フリーランスの編集者としても仕事をしていく自分としては、出したい本の企画を抱え、版元探しをしながらそのような話を聞いているという状況に、

――自分は一体どの立場でこの話を聞いているのだろう?

という当たり前の疑問にすぐにぶち当たってしまった。

――これは自分で出版社をやってみるしかないのではないか?

次第に取材なのか身の上相談なのかわからない形でお話を聞くようになっていった。

この原稿を書いている2013年1月現在、まだ出したい本の中身も資金も準備段階にある。本当に本が出るのか、連載のゴールはどうなるのか、まったくわからない。まさか人生でもっとも大きな賭けに出る過程を世間に晒すとは思わなかった。

だから万が一、何かの理由で本を出すことが出来なくなったら、取材という以上に相談に乗っていただいた出版社の方々、すぐに焦り、怖じ気づく私の背中を押してくれた友人や先輩、そして何よりもまだこの世に存在すらしない版元に人生のもっとも大事な作品を託してくれた著者には、ただただ謝るしかない。……だが、いやだからこそ、そういうことはとにかくないよう気を引き締めて、この無謀な連載をスタートさせたいと思う。

とにかく出版社に入りたかった。

大学4年になり、突然出版社を受け始めた。

「編集者とかいってかっこいい仕事だと思ってんでしょ。どんなことやるのかわかってんの?」

母の辛辣な言葉を背中に浴びながら、慣れないスーツとヒールで繰り返し会社説明会に足を運んだ。就職氷河期真っ只中の1999年。東京にある出版社なら片っ端から履歴書を送ったが、面接官に会うことすらなく、「今後のご活躍をお祈りしております」という趣旨の手紙とともに履歴書は戻ってきた。

【趣味】の欄には「洗濯」と「散歩」。【志望理由】は、芸術学科映像専攻の卒業論文に選んだある映画の感想と、映画の制作過程がくどくど書かれ、その映画の手法を参考に本を作りたいという、チンプンカンプンな意志表明で埋め尽くされていた。

「映画の本を作りたい」といったわかりやすい目標はなく、単に「私」という人間をまるごと知ってほしいという22歳の若者の目も当てられない主張だった。ライターと編集の区別すらついていなかった。受かるはずがない。

その頃の私のお目出度さは相当なもので、返却された履歴書と不採用通知の入った、出版社の社名が印刷された封筒の宛名に、手書きで自分の名前が書かれていることだけでも少し誇らしい気持ちになった。やっぱり出版社の人は字がきれい。しげしげと封筒を眺めていた。

母の言うとおり、何もわかっていなかった。しかし、当時編集者はまだかろうじて「あこがれの職業」で、出版社は「あこがれの会社」だったのは確かだったと思う。ほんの10年ちょっと前までは。

人文系の書籍を発行する老舗版元が希望だったが、募集自体がごく稀にしかなかった。しかも私には経験も教養も(教養は今も)なかった。しかし、親から言われたわけでもないのに、何故か子供の頃から、早く自立して稼がなくてはという気持ちが強かった。今になって思えば、腰を据えてじっくり考えていたら……と思う。とにかく出版社を受けまくって、軒並み落ちた。

それでもようやく、進みたいジャンルとは違ったが、DVD情報誌の編プロに腰を落ち着けた。それからもう少し自分の好みの本を作ることができる出版社へ……とにかく前職の経験プラスαの経験、経験と、自分の経験したい“技術”と会社のニーズを擦り合わせながら、一瞬それが合致してもすぐに蜜月は終わり、の繰り返しで、編集プロダクションを2社、出版社を2社、転々とした。自分の転職のタイミングですぐ入社、となると、先述のとおり、行きたい会社は募集がなく、募集をしている出版社はヒットを狙える自己啓発本やビジネス書が中心の会社ばかりで希望に合わない……と、とにかくなかなか鞘に収まらない。

しかし、出版業界全体が、日本の不況のせいだけではない、業界の構造的な問題からくる苦境にも立たされていた。出版社の倒産も年々増加し、私もその渦中にいた。入ってすぐに会社の縮小や雑誌の休刊にも直面した。

「また辞めんの?」とか「出版社はもうやめておいたら」など、周りからは呆れ半分言われたし、自分でも思った。体力的にもきつい仕事で、大の苦手な細かい確認作業も多く、給料も安かった。決して憧れの職業なんかじゃないことはもうわかっていたが、まだ「これぞ」という気持ちの良い球を投げたことがないのがただ悔しくて辞められなかった。

その後、それまで雑誌編集部にばかり在籍していたので、単行本の編集経験を積みたいという想いから、5社目。某企業の出版部門の契約社員になった。出版社の不安定さを経験し、そこから逃れたいという気持ちもあったと思う。猛烈に忙しくなり、結局、出したかった本とは畑違いの、エンターテインメントのジャンルに限定した本づくりだったが、本という商品の細部を詰める楽しさを感じるようになっていた。それも良いかと思い始めていた。

刊行点数も増やすし、今なら昔は毛嫌いしていた自己啓発本もバンバン作るぞ。職人としての編集者に、それなりの達成感もあった。エンターテインメントの本作りで大半の生活時間を過ごし、仕事が少しでも早く終わると呑みに行く。それなりに順調に回転している気になっていた。

だが、たまに朝まで仕事してそのまま帰宅し、眠りに着く前に、身体は疲労に包まれながら頭だけものすごく冴えた状態で、言いようのない焦燥感に襲われた。経験を積みたいというところまでは良かった。でもそれはさすがに終わった気がする。でもどんどん時間が過ぎて年をとっていく。今はどうにかなっているが、この先どうしたいという希望がなくなっていた。

そして12年目の2011年3月。契約社員から正社員になるか、それとも辞めてまた転職するか。あと一年で決めなくてはならないと、選択を迫られた。もう今の場所にやり残したことはないと思った。では別な出版社にまた転職し、広いジャンルの本を編集するのか――? 転職にはさすがに疲れた。また、学生時代から密かに入社を希望していた、挑戦的に本を出し続けていたある版元が、大幅な社員の縮小に踏み切ったことを知り、衝撃を受けていた。

そのわずか3日後。東日本大震災が起きた。余震と放射能(とその情報)に怯え、初めて死を隣り合わせに感じた。思考停止の状態から突然、視界が開けた気がした。

中堅の版元の多くが、出版点数を増やして自転車操業に陥っている。ヒット本の二番煎じが溢れ、出版点数が増え続けることで、返本が増え、本が売れず、売れないからさらに出版点数が増え……もちろん、手堅く良書を出し続ける出版社はある。だが、台所は厳しい。結果、社員編集者は仕事に忙殺されるか、はたまた会社自体が危なくなって転職するか……読者のためでも著者のためでもない、ただただ会社も社員も倒れないようにするために回転し続けなくてはならないような気がした。この渦から飛び出したいと思った。

ひとまずフリーランスになろう。そして、お酒を控えよう……。しかし必ずしもヒット狙いではないジャンルの本を作りながら、生活していく方法なんかあるのか? このシンプルかつ永遠の難題にはどうやって取組んだらいいのか?

その頃、出版業界ではミシマ社夏葉社といった、ひとりで出版社を立ち上げる人が目立ち始めていた。先の疑問に答えはないかもしれないけれど、そこには光が射しているように見えた。

今後のプランは全然見えない。ただ、既にある場所に自分の居場所を作ってもらうのではなく、自分で場所を作って本を出して暮らしている人たちに話を聞くうちに、自分自身のこの先のヒントを見つけたいと思った。

とにかく勇気ある先輩に会いにいくことに決めた。

編集グループ〈SURE〉の北沢街子さんと会う。

3月11日の地震から6日後、福島第一原発の事故から5日後の2011年3月17日、関西出張があった。この時期、外に出れば地下鉄もコンビニもデパートも節電で薄暗く、会社へ着くと、水を買い占めたという同僚の話に辟易した。だがスーパーへ行くとがらんとした棚に焦りを感じ、一人暮らしの自宅に戻ると頻繁な余震で目が覚めた。気づけばTwitterで地震と原発情報をチェックし、「地震予知」のデマに惑わされるまでになっていた。

そんな折に降って湧いた関西出張で、関西の明るい街中を歩いているだけで心の底からホッとした。目的地は大阪と京都の間に位置する枚方市。京都駅に着くと、夜には東京が計画停電になる可能性があるとのことで、京都で足止めを食らった。もう夕方。思わぬ京都泊が正直、ものすごく嬉しかった。東京からの避難者で宿はどこもいっぱいだったが、何とか空きを見つけた。

こうなったら本屋にでも行こう。ずっと気になっていた恵文社一乗寺店へ向かった。二両しかないチンチン電車の叡山電車に乗ると気持ちが沸き立ってきた。

全国一律、ベストセラーばかりが並ぶ新刊書店と違い、かなり稀少な本を扱いつつ、読者の好奇心を刺激するテーマに分けた棚作りが楽しかった。棚を見ていると幸せな気持ちになった。

そしてこのあと、会社を辞めるまでの1年間、何度か大阪出張があり、そのたびに恵文社一乗寺店、そして同じく左京区のガケ書房、それから三月書房などの京都の個性的な新刊書店に足繁く通うようになった。震災後、それまで当たり前だと思っていた東京中心の回転の早いモノ作りから距離を置いて世の中を眺めてみると、京都の、洗練されていて、かつ目を配れる範囲で成り立たたせている商売のやり方に、文化の成熟度と心地良さを感じていた。

『酒はなめるように飲め/酒はいかに飲まれたか』

そして2012年のあたま。恵文社一乗寺店で異彩を放つコーナーに目が止まった。「編集グループ〈SURE〉」という版元のコーナーだ。鶴見俊輔、山田稔、小沢信男といった錚々たる名前が並ぶが、表紙にはおそらく同じイラストレーターの手だろうか、可愛らしくユーモラスなイラストが描かれている。『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』、『北沢恒彦とは何者だったか?』『酒はなめるように飲め/酒はいかに飲まれたか』など、なんとなく身につまされるタイトル。しかし一般流通の本ではあまり見かけないような自由さ。数冊購入しようとレジに向かった。

ずっとSUREの棚を担当しているというベテラン店員の能邨(のむら)さん曰く、「どこにでも本を卸すということはしない」とのこと。一体どんな人がやっているのか訊ねたら、代表は北沢街子さんという女性だと教えてくれた。「とても40代に見えない素敵な方ですよ」とのこと。

帰りの新幹線でHPを覗いてみた。

「編集グループ〈SURE〉」は「街の律動をとらえる」(Scanning Urban Rhyme Editors)ことをめざして、京都から活動をはじめた集まりです。 楽しく、美しいと思えるものを手づくりすること、街を自分たちの足で歩くことから、この試みを育んでいきたいとわたしたちは思っています。 
(「編集グループ〈SURE〉」HPより)

「街の声を聞く」という言葉に惹かれた。

新卒の時、履歴書に書きまくった稚拙な卒論のテーマは、ドキュメンタリー映画だった。大学時代、夜な夜な熱い議論が交わされる山形の映画祭で、ドメスティックバイオレンスや公害病や貧困などなど、その日上映された映画が扱う問題について、こんなに議論が白熱しているのにもかかわらず、東京に戻ってスクランブル交差点を歩く自分は、周りの歩行者同様、今晩のテレビのことなんかを考えている。とても豊かで突っ込んだ話題に興奮する一方、世間と距離が開いていくドキュメンタリー映画の世界に入っていく勇気がなかった。ヘタレなりに、大学卒業間際、この間を繋ぐ仕事ができないかと考えたのが、本を作りたいと思った最初だった。

本について、活動について丁寧に解説してあるHPによれば、創始者の北沢恒彦氏は、京都市役所で中小企業診断士しとして実際に商店主たちの声を聞く傍ら、雑誌「思想の科学」の編集・執筆に関わり、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の運動にも参加。退職後、個人ジャーナル「SURE」の発刊をしたのが始まりだという。その後、恒彦氏の子である黒川創氏や北沢街子氏らが中心となり、出版活動を続けている。

SUREの取り扱い書店は恵文社一乗寺店他、京都を中心に一部書店にしか卸しておらず、主に郵便振込。郵便での取引が主体となると、一体どうやって読者を獲得しているのだろうか。

北沢恒彦とは何者だったか?お店で直接購入することを名目に京都の事務所にお伺いしてみようと電話した。北沢街子さんらしき女性が出た。電話越しに少しくぐもった声。突然の訪問依頼に、「わざわざいらっしゃるんですか?」と少し驚いた様子だったが、OKしていただいた。

それからおよそ1ヶ月後の2月半ば。大阪出張の帰り、京阪電車で出町柳まで。節電のため寒く静かな電車内で、『北沢恒彦とは何者だったか?』を読む。恒彦氏は最期、自死という選択をするが、「どこかマンガ的な人」と、周囲はその人柄に明るい印象を持っているという。息子である黒川氏は、父の「書く」という行為について次のように綴る。

「原稿料を稼いで食えるような文章ではなかった。だが、彼には書くべきことがあった。(中略)原稿を書くたびに歯が一本抜けたようだ」

鼻の奥がツンとした。生きることは書くことだったのだろう。生ききった人だと感じた。

京都大学の前の小さくて古い長屋の一角。元は米屋だったらしく、看板はないが、表には商店の軒先がそのまま残っていた。古いが手入れの行き届いた佇まいから、何となくここかな、と思った。呼び鈴を押すと、引き戸から「あ、電話の……」と言いながら女性が顔を出した。この人が北沢街子さんだ。ほとんどノーメイクで、おかっぱ頭。くるりと後ろを向くと寝癖がチャーミングだった。中に入れていただくと、下駄箱には大量のスリッパと書籍の包。だがとてもよく整理されている。かつて米屋の店先があったことがわかる小上がりに通していただく。

「こんなところですみません」

笑顔がこぼれた。この日街子さんと話す中で、大人がマナーとして身につけた種類のものではない、見ているほうが心が晴れるような笑顔がとても印象的な人だった。図々しい訪問にもかかわらず、鶴見俊輔、山田稔といったSUREの主だった著者についておおよその知識しかない勉強不足が申し訳なく、縮こまっていたが、笑顔に救われ、途端に気持ちが緩んだ。石油ストーブのチリチリという微かな音だけがする静かな室内が、心地良く感じられた。

「父が切り貼りして作ったA3判のジャーナルを、30部くらいコピーして知り合いに配っていたのが最初で。『編集グループ』って名乗りながら、実際はひとりでやってたんです」

クスクスと楽しそうに笑いながら、街子さんはお父様について語る。恒彦氏は、普段は京都市役所に勤め、京都の街の中小企業診断士として商店街のお店に行き、町の中でのお店の在り方やつながりについて話していたという。

「父は仕事をエンジョイしてました」

晩年は京都精華大学の講師をしながら、個人ジャーナル「SURE」の発行を続けた。

小さなサークルから生まれた本

長机が部屋の中心にあり、ここで鶴見氏や山田氏も交えた勉強会を開いているという。

「京都は狭いので、夜遅くても帰れるから。鶴見さんたちともよく遅くまで話し込んでしまいます」

SUREの本は、この元米屋の「勉強会」から生まれる。入口の大量のスリッパは、来客の多さを物語っていた。

「本は決まったところにしか卸さないです。大量に仕入れて結局売れずに戻ってきて、本も傷むし。直接販売だと装丁も自由にできるから。部数はだいたい少ないものだと500部、多いものでも1500部くらいです」

「勉強会」という小さなサークルから生み出された本に詰まった“知”が、京都に住む文化に親しむ人たちに手渡しされていくような感覚だろうか。京都という土地ならではの成り立ちかただと感じた。

しかし、やはりヒットが持続を支える。125人の人々への追悼文を集めた鶴見俊輔氏の『悼詞』は6刷を重ねた。

「著者に鶴見さんたちのお名前があるから、うちのことを知ってもらえることも多いですね。新聞で取り上げられたり、テレビに出たときは、すごい反響がありました。『悼詞』のおかげもあって、なんとか活動をつづけています(笑)」

現在は、街子さんの兄である黒川創氏と黒川氏のパートナーの滝口夕美氏、そして街子さんの3人で話しながら企画を立てる。

『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』は、「新日本文学」の編集に携わり、小説や俳句、評論、ルポルタージュなど幅広い執筆活動を続ける、今年85歳になる“現役最長老級”作家、小沢信男氏の多彩な(しかしお金にならなそうな)活動を、どうやって食べてきたか、という生活面の視点から迫る対談集だ。小沢氏と異なる世代で共通の作業を続ける津野海太郎氏、黒川創氏が対談相手として参加する。こういった対談形式の本が多いのも、「勉強会」というスタイルがSUREの根幹にあるからかもしれない。

ぼくの家には、むささびが棲んでいた―—徳山村の記録

ユニークな表紙のイラストと装丁はほとんど街子さんが手掛けているという。イラストはだいたい本の内容から着想を得ているらしい。だが、岐阜県徳山村という、ダムで沈んだ村について記した本『ぼくの家には、むささびが棲んでいた―—徳山村の記録』(大牧冨士夫著)の表紙は、内容との関連性が見当たらなかったので訊ねると、

「大牧さんがバーッと机に資料を広げて話すようすが印象的で、それをそのまま装画にしたんです」

そう言いながら、前屈みになって手を広げ、大牧さんの話の様子を再現する街子さん。楽しんで絵を描いている様子が伝わってくる。街子さんはオーストラリアの美大卒。絵で食べていこうとは思わなかったのだろうか。

「そこまでの覚悟というか、重さがなくて、ただよってるんですね」

そう言ってまた笑った。

この取材時(2012年2月)、街子さんらは原発国民投票のための署名集めを手伝っていた。環境社会評論家の中尾ハジメ氏が、SUREのメンバーらに福島原発事故の実情を解説していく対話集『原子力の腹の中で』や、黒川創氏のベン・シャーン展での講演を収録した『福島の美術館で何が起こっていたのか』など、実態のわからない原発の問題を解明していこうとする書籍をその後も続々と発刊している。

「大阪よりもむしろ東京の方が署名が集まらないみたいだけど福島の原発事故のことはもうすぐ忘れられてしまうんですかね」

この日、街子さんはそうやるせなさそうに呟いた。

外に出ると、ちらほら粉雪が舞っていた。街子さんはお酒が好きで、何軒もハシゴで呑んだりしたこともあったらしい。私が最近はほとんど呑んでいないので落ち着いたらぜひ一緒に、と言うと、別れ際、

「いきなりストンと落ち着くときが来ますよ」

と、ニッコリ。力の入った背中をトン、と叩かれたような気がした。

次回につづく

Editor’s Note

2013年1月28日
posted by 仲俣暁生

本日、トークイベント「著者の磨き方」大原ケイ✕佐渡島庸平という記事を公開しました。1 月12日に、東京・下北沢にあるB&Bという書店で行われたお二人の対談をまとめたものです(下記写真をクリックすると記事にとびます)。

お二人のトークの話題は「エージェント」という、日本ではまだあまり馴染みのない仕事をめぐるものでしたが、ニューヨークで文芸エージェントとして日本人作家を英語圏に紹介する仕事を長くつづけてこられた大原ケイさんと、昨年にエージェント会社コルクを立ち上げ、出版社の外で作家の側で創作活動を支援する仕事をはじめた佐渡島庸平さんによる、息のあった対話が実現しました。

この対談の前日譚として、大原さんによる「エージェンシーに電子書籍は追い風となるか」という記事を「マガジン航」ではすでに公開しています。また、エージェントの仕事ととも少し関連しますが、ニューヨーク在住の秦隆司さんが作家に対するアドバンスの話題を「アドバンスをめぐる名編集者の言葉」という記事で報告してくれています。出版社と作家の関係がこれからどうなるか、興味のある方はあわせてご覧いただければ幸いです。

ところで、今回の対談記事の公開に先立ち、「マガジン航」のサイドメニューの構成を一新してみました。「マガジン航」はこれまで、ブログ方式で表示される時事性の高い記事と、サイドメニューからのみアクセスできる比較的長い「読み物」とに分けて記事を公開してきました。

しかし、ブログ部分でも西牟田さんの「床抜け」シリーズなど続き物の記事が増えてきたことと、創刊から3年が過ぎ、全体に過去記事が増えたことから、これまでの記事アーカイブへのアクセスをしやすくする必要を感じていました。

本来はもっと大掛かりに誌面レイアウトを刷新してもよいのですが、現在のシンプルなデザインもわりに気に入っているので、まずはサイドメニューの構造をはっきりさせるための見出しを増やすことで対応してみました。西牟田さんの「床抜け」シリーズや、津野海太郎さんの「書物史の第三の革命」に加え、これからも新しい連載企画を何本か予定していますのでご期待ください。

あわせて、「読み物」コーナーから長い対談やインタビュー記事を独立させ、「ロングインタビュー、対談」の欄をあらたにつくりました。今回の大原さん、佐渡島さんの対談をはじめ、これまでに行った池澤夏樹さんブリュースター・ケールさんへのインタビューも、この機会にぜひ合わせてお読みいただけると幸いです。

今回から、Edtor’s Noteというかたちで、編集人の気軽なコメントをときどきブログ欄に投稿することにします。「マガジン航」のFacebookページでの情報更新とあわせてご覧ください。

「超小型」出版をめぐるセッション

2013年1月24日
posted by 高野直子

1月10日にアップルストア銀座で「『超小型』出版と電子書籍/電子出版の未来」というイベントが開かれました。スピーカーのクレイグ・モド氏は出版シンクタンク PRE/POST の創業者であり、Flipboard のiPhone アプリ版の開発にも関わったデザイナー。過去4年間に関わった電子出版と電子書籍に関する幅広い作品においての経験をベースに多面的な考え方を紹介するセッションでした。

Craig Mod @ Apple Store Ginza

プロダクトとしての日本の書籍や本屋さんが大好き!と話していました。

電子出版の未来、というタイトルにあるトピックは簡単に語りつくすことのできない大きな話題ではありますが、このイベントは包括的なものではなく、今までクレイグ自身がやってきた「超小型」出版(Subcompact Publishing)の試みや、彼がウォッチしている、これから破壊的技術(disruptive technology)となりうる動きを通して自身の考えを述べるという内容でした。

フィジカル・デジタルの間

まずスタートしたのは、「電子書籍・電子出版にこだわっているわけではなくて紙の書籍も大好き」という話から。コンテンツがデジタルとフィジカルの間をいったりきたりできるような「フリップフロップ」的スイッチがある状態が一番理想的である、というように、彼の視点は両方のフォーマットの魅力を理解した上でのものであることを強調していました。

フィジカル(通常、紙の書籍)な作品の利点としては、クリエイターならではの実感的意見も出ました。いわく、デジタルな作品を作るのは終わりがない作業に感じられてしまうとのこと。書籍という物体を出版し実体化することで作品に枠をつけられる事実は、コンテンツ自体の構成や質にも影響があるといえるでしょう。

印象的だったのは、「『本』は最高に精密で確実な装置。誰にでも使い方が分かる。」という発言。最もシンプルで誰もが読み方を知っているのはやはり本という長い間親しまれてきたかたちです。コンテンツを大事にするからこそ、そんなあたりまえとも思えることを改めて重要に感じられるのでしょう。

現在の電子書籍デバイスやスマホアプリとしてパッケージされた読み物、そしてウェブサイトは、その多くが驚くほど「読む」ことを第一に考えたデザインにはなっていないのが現実です(ややこしいスマホアプリ UI の事例)。彼の提唱する「超小型」出版のシンプルさが本という装置=デバイスの次のバージョンをさらに極めたものを目指しているのは、そんな背景があってのことのようです。

Craig Mod @ Apple Store Ginza

Flipboard for iPhone の最初のコミットメッセージ。

次に、フィジカルな本として、Flipboard の iPhone 版アプリに関わった時に作ったハードカバー本についての話がありました。デザインカンプ・git のコミットメッセージ(プログラムのソースコードを保存・共有するシステムで、更新内容を説明したコメント)・手描きスケッチ・ローンチパーティの写真を使って、たった二冊だけ(!)印刷したというこの本。単なるデータだったものをまとめて書籍という枠を与えることで、プロジェクトに関わった濃い経験、感情や思い出をキャプチャして物語をかたちづくることができたと話していました。

「超小型」出版とは?

続けて、デバイスやマーケットプレイスの選択肢、出版側の手間、読み手の学習曲線といった複数の面で電子出版を取り巻く状況が複雑化していっている傾向についての危惧が語られました。このイベントのタイトル画像にもなっている N360(Nコロ)という車を例に取り、バイクメーカーのホンダが今までの先入観を捨てて、いちから製品づくりに取り組むことで、軽自動車カテゴリ全体の性能向上に貢献したモデルを紹介しました。既存の出版システムの焼き直しではなく、シンプルかつ本質的なアプローチが必要というのが「超小型」出版の考え方だそうです。

Craig Mod @ Apple Store Ginza

クレイグは、アメリカにいる間は Nコロの流れを汲む Civic に乗り倒した、とのこと。

少ない記事数で小さなファイルサイズ、流動的な発行スケジュール、などといった彼の考える理想的な条件を満たす「超小型」出版の例として触れていたのは Marco Arment 氏の The Magazine。iOS 向け限定であるこのアプリは、Newsstand のシステムを使って毎月5件前後の記事をユーザーに配信しています。デジタルの良さを活かし複雑さを排除した UI/UX と質の高いコンテンツが人気を呼び、現在すでに黒字運営中とのこと。

同様にコンパクトでデジタルらしいプレゼンテーションとして、クレイグは現職の PRE/POST で現代詩の作品にもたずさわっています。ここで、tapestry というサービスを使った菅原敏さんによる詩(”tap essay”)をご本人が朗読されるというパフォーマンスがありました。改行・余白・タップのリズム・フォントの大小による言葉の強弱など、書籍とは違う方法で詩を表現することができるツールを菅原さん自身も気に入っているとのこと。詩集や個々の詩をシンプルに公開できて読むことができる仕組みに、新たな可能性を感じたと話されていました。

引き続き、ライトウェイトなパブリッシングの例として、既存のソーシャル系サービス(SNS)上で展開している例が挙げられました。Tokyo Otaku Modeは独自サイトやパブリッシングプラットフォームを持つことなく、Facebook ページで数百万という大量のファンを獲得しています。そのファンベースが確立してから公式サイトを構築する、という今までのブランドとはまったく正反対な SNS の使い方も、ある意味「超小型」パブリッシングの流れといえるのかもしれません。

出版とパブリッシングの未来

日本語だと「出版」と「パブリッシング」という言葉のニュアンスはイコールではないかと思います。例えばブログという「パブリッシング」ツールは現在かなり誰にでも開かれたものになっています。とりあえず何らかの形で文章を始めとするコンテンツを世に公開することについてはハードルがかなり下がっていますし、Tokyo Otaku Mode のようにブログやサイトさえ持たずに Facebook でパブリッシングを始めることだってできます。Twitter でフォロワーを爆発的に増やして、何万人、何百万人にメッセージを伝えることも。

一方、日本語で言う「出版」のツール(作品をまとめて枠をつけて売るための道具やプロセス)はまだ技術や知識など色んな壁を乗り越えないとアクセスできないところにあるのが現状です。たとえば The Magazine は、Marco がプログラマだったから可能だったといえるし、Flipboard for iPhone のようなアプリを誰もが作れる世界はまだ来ていません。もちろん、そういった形式のものを作ること自体が、まだ多数の人にとって必要性があるわけではなく、だからこそシンプルになり尽くすことがまだそこまで求められていないというのもあるのでしょう。

しかしここ10年ほどの間に Web サイトの作り方なんてまったく知らない人たちがブログを立ち上げ、SNS で自分の意見を共有できるようになった流れのように、独自のコンテンツを持つ人たちがより本格的な「パブリッシャー」になることも、ツールの進化次第なのかもしれません。その選択肢はまだ確立していませんが、次の段階へ進んでいくリードをとっていくのは出版の本質とデジタルの利点を両方理解して新しいものを作る人たちなんだろう、とこのイベントを通して改めて感じました。

クレイグ・モド氏の文章は、日本語になっているものもあります。「電子書籍に取り組むということ」「”iPad時代の書籍”を考える」など、どちらも2010年のものですが、今のタイミングで読むのも面白いのではないかと思います。以下は、「電子書籍に取り組むということ」より。

93年のCD-ROMじゃあるまいし、ビデオミックスとか、新しい「インターフェースのパラダイム」とかって言うのやめようぜ。

「文章」について語ろう。 電子書籍を語ろう。

「超小型」出版についてのさらに詳しい内容は、彼のサイト内の「Subcompact Publishing」という記事にも詳しく書いてあります。日本語翻訳版は Kindle 書籍として現在購入できるようになっていますので、興味がある方はぜひ手にとってみてください。

※この記事は著者のブログの1月11日の記事、「クレイグ・モド氏の『超小型』出版と電子書籍/電子出版の未来イベントに行ってきました」に大幅に加筆していただき、転載したものです。

■関連サイト
PRE/POST – Publishing
The Magazine
MATTER
tapestry

トークイベント「著者の磨き方」
大原ケイ✕佐渡島庸平

2013年1月24日
posted by ボイジャー

※この記事は1月12日、東京・下北沢にある書店「B&B」で行われたイベント「出版関係者必聴!『著者の磨き方』」のレポートです。

[司会:酒泉ふみ(ボイジャー)、構成:高山みのり(ボイジャー )]

――最初にゲストのお二人をご紹介します。まずはニューヨークと東京を往復する文芸エージェントで、ブログ「本とマンハッタン」でも知られる大原ケイ(写真右)さん。そして、講談社で『バガボンド』『ドラゴン桜』『働きマン』『宇宙兄弟』などの人気作品を手がけ、昨年に作家のエージェント会社であるコルクを設立した佐渡島庸平さん(写真左)です。

大原さん、年末に帰国されて、日本はいかがですか。

大原 ニューヨークより寒いです(笑)。

――佐渡島さん、コルクを創業して4ヵ月が経ちましたね。まず創業の経緯をお話いただけますか?

佐渡島 コルクは三枝亮介という講談社の先輩と一緒に立ち上げました。僕が主にマンガの担当で、三枝が文芸の担当です。創業時は三枝と事務の女性との3人体制でしたが、予想以上に仕事の依頼が来て、すぐに手が回らなくなってしまったので、社員を2人増やしました。

――大原さんはコルクができた時、すぐに佐渡島さんに会いに行かれたとか。

大原 「でかした!」と言いに行きましたね(笑)。もともと講談社時代の三枝さんとは、一緒に仕事をしていましたから。

佐渡島 僕も大原さんの『ルポ 電子書籍大国アメリカ』はもちろん読んでいましたし、ツイッターもフォローしていたので、お会いできてうれしかったです。

エージェントはどういう仕事か

――日本ではまだ「エージェント」という言葉になじみのない方も多いと思います。

大原 「エージェント」といわれて思い浮かぶのは、野球選手などのエージェントかもしれません。エージェントが球団と交渉にあたり、選手は野球に打ち込める。そのあたりは同じだと思います。さらに作家のエージェントの場合、作家に対して「今度は長編で攻めてみましょう」「エッセイも上手だからエッセイもやっていきましょう」などと、企画の段階や原稿の段階からアドバイスします。そんなふうに、著者と密に接して育てていく。それを厳密には「プライマリー・エージェント(primary agent)」といいます。

佐渡島 コルクの仕事は、その「プライマリー・エージェント」に近いです。それから、作品を海外へ持っていく仕事。さらに出版以外のビジネスのあり方を探す仕事もしています。

海外で僕の仕事を説明すると、「それはビジネス・マネージャーだ」と言われます。でも日本では「ビジネス・マネージャー」という言葉に胡散臭いイメージもありますし、みんなが知っている言葉のほうがいいと思って「エージェント」と名乗っています。

大原 日本でエージェントと名乗っている団体や個人は以前からいましたが、私の知る限りでは「出版プロデューサー」と呼ぶべき存在です。著者の作品が売りものになるかどうか、プロの目で見てやるから企画を持ってこい、という。

欧米でエージェントというと、あくまでも作家を育てる時にはお金をとらずに、出版が決まってから、出版社から支払われる印税の一部をエージェント費としていただく。そういう商売です。その点でも、コルクがやろうとしていることは「エージェント」だと感じました。

自分の信じる本を「薬売り」のように売る

――大原さんは具体的にはどのようなお仕事をされていますか。やはり著者とエージェント契約をして、出版社との交渉をされるのでしょうか。

大原 私がやっているエージェント業は、厳密には「トランスレーション・ライツ・エージェント(translation rights agent)」と言います。すでに日本で出ている作品の権利をお預かりして、主に欧米のマーケットを広げるというものです。日本では、著作権や翻訳権は基本的に出版社が扱っています。ですから私は、出版社とエージェント契約をする形になります。

――出版社同士のマッチングみたいなことをされている?

大原 はい。そのためには欧米の編集者の好みを知っていないといけないし、彼らにも「こいつが面白いと言うんだったら面白いだろう」と信じてもらう必要があります。

欧米の編集者は日本のコンテンツが面白いことを知っています。「ポケットモンスター」のピカチュウも、あちらの人にとっては今までにない面白さがあった。じゃあ他のジャンルでも面白いものがあるんじゃないか、と気づいています。

――大原さんがエージェントになったきっかけは?

大原 ずっと日本の会社とアメリカの会社でバイリンガルとして働いていて、アメリカの友人も多くいました。それで、日本で面白い本を見つけてはアメリカの友人に「これ面白いよ」と勧めていました。その延長線上です。

肝心なのは、誰がどういう興味を持って日本語のマテリアルを探しているか。日本にはこんな本があります、あなたの国でも出してみませんか、とブックフェアで並べるのは、ただお店を開いているだけです。私はそうではなくて、「薬売り」のように自分の信じる何冊かをひっさげて、いろんな編集者を訪ねては「何をお探しですか、頭が痛いんですか、おなかですか。じゃあ正露丸いかがですか」というようなことをしています。

――薬売り、ですか(笑)。

大原 相手の求めるものに応じて、この本はこういう内容で、こういう人が読んでいて、ここがが面白くて、たとえばこの作家みたいな感じがするんだよね、と説明できることが必要です。それが私の使命だと思ってやっています。

エージェントと作家との関係

――コルクはいま、7人の作家と契約されていますね。阿部和重さん、安野モヨコさん、伊坂幸太郎さん、小山宙哉さん、三田紀房さん、山崎ナオコーラさん、そして山城むつみさん。

コルクのウェブサイト。ロゴのイラストは安野モヨコさんによる。

佐渡島  エージェントの仕事は作家の価値を高めることだと、僕は思っています。出版社で雑誌を作っていたときは、編集者の側から作家に仕事を依頼していましたが、エージェントになったからには、作家の側から「作品をよくするために協力してほしい」ともちかけていただくのが、本来のかたちです。

いま僕らと契約しているのは講談社時代から担当していた作家たちですが、「僕らは会社を辞めて起業します」と相談したところ、みなさんが「もちろん契約します」と言ってくださいました。

――それだけ信頼されていたということですね。

佐渡島 子どもの頃、親から「あなたの食べ方が汚くても、注意するのは私たち親だけで、他の人は誰も言ってくれないんだよ」と言われていました。たしかに他人がヘンな行為をしていても「ヘンだなあ」と思うだけで、わざわざ注意しないですよね。編集者も同じで、担当している作家が他社でダメな仕事をしていても、ふつうは何も言わない。でも僕は超おせっかいに言いまくっていました。

たとえば安野モヨコさんと『働きマン』をやっている時であれば、『オチビサン』の打ち合わせにも目を配るし、安野さんの事務所の会議にも出ていました。また小山宙哉さんの場合は、彼が上京したばかりのとき、不動産屋さんに一緒に行って物件を探したりしました。 いい作品を作るには、作家が精神的にハッピーで、他のことを気にせずにいられることも大事です。

大原 アメリカでは、エージェントが作家の生活の面倒まで見るケースは、それほど多くはないと思います(笑)。それでも、たとえばアメリカで作家のことを知ろうと思ったら、エージェントの書いた回想録がいちばんその人となりを伝えていたりします。やはり書き手としての作家をいちばんよく知っているのはエージェントですね。それくらいの親密さはあります。

作家の価値をいかに高めるか

――大原さんはご自身の仕事を「薬売り」のようなもの、佐渡島さんは「著者の価値を高めること」とおっしゃいました。でもいまは出版社の編集者が、そこまで手が回らない実情があるような気もします。

大原 基本的に欧米では、1人の著者に1人のエージェントがいて、ひとつの出版社から本を出すシステムなんですね。だから最初の数冊が売れなくても何冊目かでブレイクアウトすれば、過去の作品も売れてペイできる。けれども日本の場合、ある作家を一所懸命に宣伝しても、過去の作品は他社から出ていたりするから効果は分散的です。やはり私は、エージェントがマーケティングも含めてトータルに考えたほうがいいと思っています。

――なるほど。佐渡島さんはそのあたり、どんなことをされているのですか。

佐渡島 コルクを立ち上げてすぐに、アメリカへ行きました。『宇宙兄弟』をハリウッドで映画化したり、アニメ番組を放映できるような人たちを探しに行ったんです。あとはフリップボードなどITベンチャー系の会社に行って、マンガも配信できる可能性があるなら、コルクの契約作家を優先的に配信してほしいという話をしたりしました。

国内でも安野モヨコの『オチビサン』の商品化まわりができないかと、いろんな人に会いに行きました。NHKへ行ってアニメ化の打診をしたり、ジュンク堂の店頭でグッズ販売をしてもらったりと、いろいろ動いています。

その際に考えるのは、何を収入源の核とするか。本という安定的で核になる収入があって、それを増やすために騒ぎを起こすんだ、と思ってやっています。

――エージェントと一括りに言っても、編集から営業まで何でもやるんですね。

佐渡島 出版社のシステムだと、どれだけ大ヒットを作っても1人か2人の担当編集で売り続けることになります。それを4、5人のチームを組んで本格的にやりだすと、もっともっと騒ぎが大きくなって本が売れる。『ONE PIECE』は、10年以上経った今でも年間で数百万部の重版がかかるそうです。20万部や30万部で売り切ったと思っているのは、僕は目標値が低いとしか思えないんです。

――まだまだ届いていない層がある、ということですか。

佐渡島 そうですね。出版社はいま、早く黒字を確定したいがために売り逃げようとしている。在庫が残るのが怖いから、50万部くらい売れると重版をかけないといったことも起きています。売り方次第で100万部、200万部からでもまだ伸びるのに、もったいないと思います。

勝負は刊行前から始まっている

大原 アメリカと日本では本のサイクルも違いますね。アメリカでは、日本のようにパッと作ってサッと売り切るようなことはあまりしない。企画の段階から、10年後も売れる本なのかという視点で考えます。

なにしろアメリカの本は、急には作れないんです。たとえば村上春樹さんの『1Q84』はなるべく早く英語にしたいというので、出版社も翻訳者もあらかじめ決まっていましたが、それでも日本発売から1年半かかりました。翻訳や編集だけでなく、マーケティングも刊行前にじっくりやります。

一方、日本ではスティーブ・ジョブズの伝記が英語版と同時に刊行されましたね。それをアメリカ人に言うと「信じられない!」という言葉が返ってきます。

佐渡島 日本では、雑誌で連載することが事前のパブリシティになって本が売れていました。本は出してから宣伝するものだと多くの人が思っていますが、実際はそうじゃない。出してから、反応を見てからというのは、よほど小規模にやろうとする場合だけです。

その「前パブ」機能が、雑誌が売れなくなることで使えなくなってしまった。それで僕が講談社時代にやろうとしたのが、ネットに作品を出すことでした。ただ社内には「ネットに出して本が売れなくなったらどうするんだ」という人もたくさんいて、そのとき感じていた危機感を、僕の努力だけでは全社的に共有するのが難しかったんです。

――「前パブ」を意識できている出版社は少ないと思います。

佐渡島 でも、「前パブ」なしで売るのは、商品としてあり得ない話です。そして今ならネットが使える。ですからコルクが扱う作品は、まずネットに出して、ある程度話題にしてから出版しようと考えています。刊行前にアニメ化が決まっていることもあるかもしれません。

コルクがそこまでやるのも、出版社の存在を重要だと考えているからです。こちら側もある程度影響力をもった状態で出版社と話したいですし、どの程度売れるのか、まったくわからない作品には、出版社も手を出せないですよね。

出版社はこれからも必要か

――お話をうかがっていると、出版社の存在意義について考えてしまいます。最近は個人出版の話題も増えていますね。

大原 出版のあり方も大きく変わっていくだろうと思います。『Gene Mapper』の藤井太洋さんは、自分で作品を公開して、自分で宣伝されています。そういう人は出版社もいらないしエージェントもいらないということが、すでに証明されたなという思いがあります。

――アメリカの出版社の状況はいかがですか。

大原 アメリカの出版社を見ていますと、やはりアマゾンという脅威にどう対応するかが話題です。ランダムハウスとイギリスのペンギン・ブックスが合併するなど、大きいところはますます大きくなることで力をつけようとしています。日本でいえば、集英社と講談社が一緒になるようなものですね。英語圏での一般書の売れ筋本の四分の一を、この1社で出すような状況になると思います。

その一方で、小さな出版社も元気がいいです。ネットを使って、誰が自分たちの本を読んでいるのかを把握している。それで5,000部売れればOK、1万部売れたら御の字、というくらいの規模でやっているところも増えています。いま私が応援したい出版社は、そういうところです。

佐渡島 僕も講談社のような大きな出版社にいて、ある種の動きづらさはありました。ただそれは、出版社が悪いとか、出版社に可能性がないということではないんです。僕が思うのは、「硬直化した組織では難しい」ということ。たぶんどの業界でも言えることだと思います。挑戦するより逃げ切ったほうがいいと思う人たちが決定権を握る組織では、新しいことはできません。

――制度の問題が指摘されることもありますね。

佐渡島 日本の取次制度と書店の数は、世界的に見ても本当に素晴らしいです。その制度をもっと自由な発想で使えるようにさえなれば、と思います。

――大原さんの目からみても、日本の出版社、あるいは出版制度は硬直化していると思いますか。

大原 出版不況が10年以上も続いてパイが小さくなる中で、大きな組織にこれまでのやり方を変えろというのも難しいのかもしれません。

今回の日本滞在中にも、大きな出版社の人たちと話をすることになっています。彼らの今いちばんの興味は、電子書籍をやるならDRM(デジタル著作権管理、Digital Rights Management)をきちんとかけて、海賊版が出回らないようにすること。もうひとつは、出版にかかわる著作隣接権(出版権)を法的に認めてもらうことです。

――出版社の集まりでは必ず話題にのぼるテーマですね。

大原 海賊版によって自分たちが脅かされると思っている。でもそれは、何か違うと思うんです。せっかく電子書籍というものができて、それによって硬直したシステムが少しでも改善されるなら、いまこそいい機会だと思います。

著者に対しても、きちんと説明できればいいんです。「うちから本を出せば、プロが編集して、プロがデザインします。全国の書店に本を並べてあなたを売り出していきます。自分で出すよりも印税率はこれだけ低くなりますが、それはプロの作業費です」と。そして権利をもっと譲渡してくれれば、出版社ならそれを生かすことができるといえばいいんです。

DRM=Don’t Read Me!

大原 アメリカではDRMをかけない動きもあります。ガッチリとDRMがかかっていると、読者にとって不便ですよね。不便なことは変えていけばいいし、そういうことを著者にもきちんと説明すればいいと思います。

佐渡島 いまの話はすごく賛成です。DRMを入れる、入れないという議論は、いつまでやってもいたちごっこですし、入れるとしても後ろ向きの作業です。

僕は性善説に則ってプランを立てたほうが、多くの人の協力を得られやすいと思います。海賊版が出回ったとしても「感動したから作家にお金を落としたい」と思ってくれる人は、どんな文明でも何十%かはいるだろうと。ですから電子書籍の会社と話す時は、コルクの作家の作品には入れなくていいですよ、と言います。

中国でなぜ海賊版が出回るかというと、読みたくても高すぎて買えないからなんです。海賊版が怖いから電子書籍は出さないという発想でいたら、その作家の作品は話題にもならない可能性が高いんじゃないでしょうか。

大原 アメリカで海賊版をいちばん読んでいるのは、ネットに詳しい20代の男性が中心です。この層はもともとあまり本を読まないと言われている。その人たちが盗んででも読んでくれるんだったらということもあって、それほどガチガチには対策をしていないんですね。

私も性善説をとりたいと思っています。日本で映画館に行くと、上映前に「撮影する行為は違法です」という映像を見せられますね。でも、そこでカメラをサッとしまう人なんて見たことないです。同じように、紙の本を買ったら「自炊行為は違法です」、電子書籍を買ったら「違法ダウンロードしてはいけません」なんて書いてあったら、もう買いたくなくなってしまいます(笑)。

それよりも電子書籍だったら、どのデバイスでも便利に読めて、そこそこ安く買えるような体制を整えたほうがいい。

佐渡島 市場が整って、本が手に入りやすい状況さえできれば、淘汰されて行くと思います。

――そうはいっても、著者からDRMフリーに反対されることはありませんか?

佐渡島 もちろん、反対する著者の方もいます。いろいろな考えの人がいるので、ビジネス面で作家をリードしていく側の人間が、DRMについても決断していかなくてはなりません。

『マニフェスト 本の未来』

――弊社の副社長(鎌田)は、「DRMは “Don’t Read Me!” って意味だね」と言っています(笑)。実は来月ボイジャーから、『マニフェスト 本の未来』という本が出ます。原著は『Book: A Futurist’s Manifesto』というオライリーから出ている本で、ボイジャーで翻訳版を作っているところです。

ところで、この本のオライリーからの契約書には「DRMフリーにしろ」という条件が書いてあるんです。ボイジャーとしても自社の出版物は、できればDRMフリーにしたいと思っています。アメリカではDRMフリーは珍しくないんでしょうか?

大原 DRMフリーを実験的に始める動きが出てきたという状況ですね。音楽業界では以前、ナップスターのような著作権的にグレーなサイトがたくさんありました。アップルが音楽からDRMを外したのも、iTunesがはじまってから5年後です。2007年にアメリカでキンドルが出て、本でもそろそろ、そういう話をしたほうがいいんじゃないかという話が出始めたのは、ようやく去年の今頃ですね。

新人作家の見つけ方・育て方

――そろそろ次のお題に行きたいと思います。佐渡島さん、「コルク新人賞」が始まりますね。

佐渡島 新人を自由に見つけられる時代がきたな、という思いがあります。「モーニング」にいたおかげで、新人の中から小山宙哉を見つけることができたし、『GIANT KILLING』のツジトモや『みかこさん』の今日マチ子とも出会うことができた。でもどんどん雑誌が弱ってきて、新人は本当に「モーニング」に近寄ってくるのか、疑問に思うようになったんです。

それで『宇宙兄弟』ムックを作る時に、ツイッターで作家を見つけてみようと思い立ちました。本を書いたことのない人でもツイッターの文章がうまければ、ある程度長いものも書けるだろうと。実際にかなり読めるものが上がってきて、ああ、これはもうネット上で探す力さえあればできると思った。新人はこちらから見つけて声をかけたいと思っています。

――「コルク新人賞」のサイトを見ると、3年間のサポートを保証すると書いてあります。これは、新人を育てるには3年くらいのタームが必要ということですか。

佐渡島 もうちょっとかかります。小山さんも名前が通るようになるまで7、8年かかっていますからね。新人ですと、3年かけて1作を作れるかどうかです。ネットの場合は、そういう育成のプロセスがすごくやりやすいんですよ。

「モーニング」誌面に載せる場合はお金もかかりましたが、ネットならリスクも少なく、練習として掲載することもできる。僕のツイッターで「みなさん、僕がいま育てている新人です。練習だと思って掲載したマンガです。感想を聞かせてもらえますか」と呼びかけてもいいわけですよね。いろいろな育て方ができます。

『宇宙兄弟』も『ドラゴン桜』も初めの2、3年は全然売れませんでした。その間絶え間なくプロモーションを仕掛けていって、ちょっとずつちょっとずつ部数が伸びて行く。それはもう「手売り」に近い感覚で部数が伸びて、あるところで「爆発する」という感じでした。

仕掛けしだいで本はもっと売れる

――実は先ほどご紹介した『マニフェスト 本の未来』の発起人であり執筆者でもあるブライアン・オレアリさんが、こんなことを言っています。

Write once, read many.

ひとつのコンテンツをいろんな形で見せていくことが、これからの出版だと。佐渡島さんがなさってきたことにも近いのではないかと思いますが、いかがですか。三田紀房さんの『ドラゴン桜』もドラマ化だけでなく、参考書や手帳への展開があったり、他社からも多くの関連本が出たりしましたね。

佐渡島 『ドラゴン桜』という本体を盛り上げるために、関連本がいろいろあっていいだろうと考えました。問題集は数Ⅰ、数Ⅱ、数Ⅲなどのバリエーションで合計20冊以上出しましたし、宝島社や大和書房からも関連本を出しました。本体の『ドラゴン桜』で印税をしっかり確保できていたので、それ以外は全部「賑やかし」という考え方で、お金のことはあまり細かく言わずにやりましたね。

――アメリカの出版社も、売るための仕掛けがうまいな、という印象があります。

大原 たとえばオープンロードという出版社があります。ハーパーコリンズのベテラン編集者が飛び出して作った会社で、本のマーケティングを熟知しているから、紙の世界でやってきたことを電子のプロモーションにも応用して仕掛けていくんです。さらに映画会社とも組んでみたりと、出版社という枠を越えて動いています。自分でもマルチメディア・コンテンツ出版会社と名乗っていますね。

――コルクも最近、安野モヨコさんの作品でユニークな試みをされています。

佐渡島 1月8日に『バッファロー5人娘』という作品を出しました。まず紙の本を祥伝社から、電子書籍はコルクから同時発売しました。電子書籍はフルカラー版もあり、コルクのサイトで試し読みができます。

『バッファロー5人娘』のフルカラー版電子書籍の一画面

この作品に関しては、このほかに「キャンプファイヤー」というクラウド・ファンディング、つまりソーシャルな資金調達を使って仕掛けようとしています。そこでは100部限定で7,000円の本を出します。1冊1冊手作りで、雑誌サイズで、すごく豪華な本です。さらに12,000円の本も出そうとしています。

――12,000円ですか!

佐渡島 フルカラーで50冊だけ、安野さんの手描きのサインが入っています。7,000円も12,000円も、実は原価です。そのぐらい超リッチな本が「ここでしか買えない」というワクワク感を作りたい。

村上春樹以外はみな「新人」

――コンテンツの海外展開という方法もありますね。アメリカでは日本人作家の版権はどのくらい売れるのですか?

大原 アメリカの編集者にとっては、村上春樹以外の日本人作家はみんな新人です(笑)。日本でベストセラーになって、誰もが知っているような人でも。そういう人のほうがかえって難しい場合もあります。日本の出版社の方に「この作家はアメリカでは全然知られていませんから、タダで抜粋を掲載させてください。とりあえず最初はそれでやってやってみますから」ということが話しにくくて。

中村文則『掏摸』の英語版

逆に言えば、無名作家であっても内容とやり方次第ではヒットすることもあります。最近の例では、河出書房新社から出ている中村文則さんの『掏摸』。純文学として売り込むとアカデミックな層に限られると思ったので、あえてクライム小説、ノワールとして仕掛けました。小さいけれどもクライムに強いSOHOプレスというところから翻訳を出したんですね。それが大変売れて、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の「今年の10冊」に入りました。

――すごいですね。

大原 日本の出版社から作家を紹介される際、「芥川賞をとっています、直木賞をとっています」と言われることもあります。でもそのふたつの賞って、日本のことをよく知る海外の出版社だと、「出版社が持ち回りで受賞者を出して、とれなかった作家がひがんでいるあの賞ね」とバレている(笑)。そうでなければ「ナオキ? アクタガワ? フー?」という反応です。

海外に出ていこうとしたら、新人の気持ちでチャレンジできる人がいい。英語でスピーチをしろとは言いません。でも朗読会に出てサインができるくらいの著者のほうが、エージェントとしてはありがたいです。

――コルクの作家の作品も、積極的に海外に出していく予定ですか。

佐渡島 はい。先日アメリカに行った際も、ロサンゼルスでタレント・エージェンシーの出版部門の人たちに会いました。僕らは作家の考えを把握しているから、その場で詳細について話をすることができる。相手も「そういう人が来るなら、ぜひ日本のコンテンツをやりたい」と、かなり前のめりでした。4大タレント・エージェンシーのひとつ、ICMの創業者も会ってくれたんですよ。

大原 すごい。ICM(International Creative Management)というのはアメリカでいちばん大きなエージェンシーです。村上春樹さんもICMですね。

――コルクではアメリカ以外の国、たとえば中国などへの展開も考えていますか?

佐渡島 人口の多いところは全部行きたいと思っていますが、中国は少し時間がかかりそうです。『宇宙兄弟』は1年以上検閲で止められて、OKが出ない状態なんですね。なんだかルールが難しくて。

大原 中国は、読者の数は多くても手続きが大変。それからやはり、日本円に換算すると本の単価が安くなってしまいますね。

佐渡島 中国のほかにはインドとフランスとインドネシア。いくつかの国では、パートナーになりそうな会社が見つかっています。海外でもある程度、自分たちでハンドリングできるようにしたいと思っています。紙の本だと通常はあいだに4人くらい入って人件費もかかりますから、「超売れている作品以外はできません」ということがほとんどでしたが、電子書籍なら海外にプロモーターが1人いればいい。

――翻訳にもお金がかかりますね。

佐渡島 ですからなるべくこちらで翻訳していこうと思っています。『バッファロー5人娘』では、BPSという会社と協力しています。BPSのサイトには『バッファロー5人娘』の全データがDRMなしで置かれていて、ウィキペディアのようにみんなで翻訳できるようになっています。そこで翻訳が完成したら、サイトは閉じて電子書籍にする。そうすれば、翻訳物の権利も作家のところに残せる。そういうふうに、権利の面でもお金の面でも、なるべく海外の出版社にも日本の出版社にも頼らないですむ体制を考えています。

――今後の展開が楽しみですね。さて、そろそろ終わりの時間になりました。貴重なお話を聞かせてくださった大原さんと佐渡島さん、そして会場のみなさん、本日はありがとうございました。

【お知らせ】 ボイジャーは今年、電子と紙、ネットとリアルをつないで、「本と出版の未来」を「考える」から「実現する」へと踏み出すためのさまざまな試みを計画しています。今回の対談イベントはその第一歩ですが、B&Bではこれからも継続的に行なっていく予定です。今後のイベントについてはボイジャーや「マガジン航」のfacebook等で随時お知らせしていきます。どうぞお楽しみに!

アドバンスをめぐる名編集者の言葉

2013年1月21日
posted by 秦 隆司

最近のアメリカの出版界を賑わせているのはモニカ・ルインスキーが回想録の出版社を探しているという話題である。モニカはビル・クリントン元大統領と愛人関係があり、ホワイトハウス内でセックス行為をしたという事件は有名で、彼女の回想録が出版されれば話題となるのは間違いない。

しかし、僕が注目したのは彼女がどんな回想録を書くかではなく、ワシントン・ポスト紙やそのほかのメディアが報じた彼女の本に対するアドバンスの額だった。アドバンスのシステムについては後で説明するが、日本にはない印税の前払い制度と思ってくれればいい。

1200万ドルのアドバンスは適正か?

メディアが報じたのは、モニカの本に1200万ドルのアドバンスを支払う出版社があるというニュースだった。ビル・クリントンも自伝「My Life」を出版しているが、その際に彼の受け取ったアドバンスは1500万ドル。ビルの妻でいまの米国務長官であるヒラリーの方は「Living History」という自伝で800万ドルのアドバンスを受け取っている。

一方、クリントン夫婦がこれまでに受け取ったそれぞれの著作からの印税はビルが3000万ドル、ヒラリーが1000万ドルということで、ふたりともアドバンス額を超えている。印税はもちろん、アドバンスの分を差し引いた金額が支払われる。

この数字と比べた場合、モニカの1200万ドルのアドバンス額は適正かどうか。実はこのニュースの出所が分かっていない。ワシントン・ポスト紙の記事にしても「ナショナル・エンクアイアラー」誌のニュースを出所にしていて、自社のオリジナル・ソースからのニュースではない。「ナショナル・エンクアイアラー」誌は俳優メル・ギブソンがポルノ女優と浮気をしていたとか、ブリトニー・スピアーズの妹が妊娠したとかいう、いわゆるゴシップ記事を売り物にしている雑誌だ。

そこで囁かれたのが、この1200万ドルという金額は、モニカ側が流した情報ではないかという噂だった。アドバンスの額をつり上げるためのメディア操作だというのだ。あくまで憶測に過ぎないが、刊行前の(原稿ができているかも定かではない)本に対する注目度としては高いものがある。これはモニカにとっても悪いことではないと思う。

アドバンスは予想される「利益」に対する報酬

さて、モニカの話はここまでとして、そのアドバンスは一体どういうシステムなのかを紹介しよう。

期待の新人作家を特集した「ニューヨーカー」誌の表紙。

アメリカの出版社は、作家と出版契約を結ぶと、ほとんどの場合ただちにアドバンスを支払う。最近話を聞いた、電子書籍専門の出版社のなかにはアドバンスを支払わないところもあったが、そこでも著名な作家にはアドバンスを支払っていた。アドバンスは日本の印税にあたるものだが、日本の印税は作品の「刷り部数✕定価」(売上げ予想)に対して支払われるのに対し、アメリカのアドバンスは出版社が予想した「利益」に対して出版契約時に支払われるものだ。

有名な人物や作家となると、出版社間でその人物や作家の取り合いとなり、まだ完成されていない作品に対して、アドバンスが数十万ドルとか数百万ドルまで高騰する。そのほかにも「ニューヨーカー」誌で「20 Under 40 (40歳以下の期待の若手作家20人)」などの特集に選ばれると、まだ本を出したことがない新人作家に多額のアドバンスを提示する出版社も現れる。

ちなみに、もし本が売れなかったとしても、アドバンスとして受け取ったお金を返す必要はない。多くのアドバンスを支払ったにもかかわらず、本が売れないこともあるので、アドバンスは出版社にとっては一種の賭けの要素がある。とくに新人の書き手の場合、出版社はアドバンスの金額に頭を悩ますことになる。

名編集者フィスケットジョンかく語りき

アドバンスについて編集者ゲイリー・フィスケットジョンは次のように語っている。

新人作家のアバンスの額をいくらにするかについて、私の30年を超える編集者経験から得た答えは、「ある想像上の車が壊れた場合、その修理にいくらかかるかを自動車の修理工に聞くようなものだ」ということです。

つまり、すべてが机の上の話で、ベテラン編集者といえどもこれといった確信があっての数字ではないのだ。

名編集者として知られるゲイリー・フィスケットジョン。Photo by: Takashi Hata

フィスケットジョンはアメリカ大手出版社クノッフの重鎮で、レイモンド・カーヴァー、コーマック・マッカーシー、ジェイ・マキナニー、そして村上春樹などの編集者だが、当たり前のことながら、デビューしたばかりの作家の本がどのくらい売れるかはフィスケットジョンといえども分からない。

その分からないアドバンスの額を出版社はどのように決めているのだろうか。

クノッフなどの大手出版社では、作家に支払うアドバンスが100万ドルの単位になることもある。僕はクノッフ社全体としてアドバンスに対する年間予算などがあり、そこから取れる作家を決めているのだろうかと思い、彼にそう訊ねてみた。

いいえ、そうではありません。まず、最初にその作品を出版したいかどうかを編集者が決めます。その次に、出版社としてどの程度までの額を提示できるかを決める。その上で、「これ以上、支払ったら誰が考えても、利益が出ない」というラインを見極めて、アドバンス額を決定するのです。

フィスケットジョンいわく、まずは、作品ありきということだ。

ところで、アドバンスは作家にとってなかなかよいシステムといえる。先ほど言ったように、もしアドバンス以上に本が売れれば、アドバンスを超えた分の印税も支払われる。一方、本が売れなくともアドバンスを返す義務はない。ノンフィクションの作家などは、企画の段階でアドバンスの半額が支払われ、原稿入校終了時点で残りの半額が支払われる場合もある。なぜそういうルールなのか。

そうしなければ、本を書けない作家もいるからです。

とフィスケットジョンは言う。

アドバンスは出版社にも作家にも理にかなうシステム

とくに長期の取材が必要なノンフィクション作家の場合、先にまとまったお金がないと取材活動どころか、その間の自分の生活を支えることもできない。つまり、企画としてやりたいことがあっても、経済的にその本の執筆ができない状況に陥る。そんなときに、頼りとなるのが出版社からのアドバンスだ。

アドバンスは作家を育て、額の多いアドバンスはニュースともなり、その作家の作品に大きな注目が集まるという利点もある。そのことを考えれば、アドバンスは出版社にとっても理にかなうシステムなのだろう。

一方、作家側としての問題は、アメリカの大手出版社が持ち込みの企画や原稿を受付けていないところだろう。フィスケットジョンも、リテラリー・エージェントの代理を受けない原稿や企画は受付けない、と言っている。

作家を目指す多くの人々から、自分の作品は水準に達しているのだが、代理をしてくれるリテラリー・エージェントを見つけられないという話をよく聞く。作家にとっては、まず自分の作品を理解してくれて、親身になって書籍出版社や雑誌社に売り込みをしてくれるエージェントを見つけることが大切となってくる。

書籍出版社だけではなく、「ニューヨーカー」誌など雑誌社もそうだが、一度編集者に認められれば、新人といえども手厚い助言を受けられる。本を出版した場合は、作家によっては額が2000ドル(ペーパーバックの単価を18ドルとして、著者の印税率がハードカバーの10%より低い9%。出版社が予想する売上げ部数が約1300部の場合)などという時もあるが、アドバンスも入る。

では、どうやってアメリカの書籍編集者や雑誌編集者は作品を選んでいくのだろうか。これは、リテラリー・エージェントの仕組みとともにある話題なので、機会を改めて話をしてみたい。

※【お知らせ】秦隆司のメールマガジン「ニューヨーク発:秦隆司のアメリカ出版界と洋書、そして英語の話」が始まりました。毎週金曜日にお届け致します。ご興味のある方はこちらからどうぞ。

■関連記事
エージェンシーに電子書籍は追い風となるか
アメリカン・マガジン好きに贈る本
本のジャム・セッションは電子書籍でも続く