第2回 出したい本に出会う

2013年5月15日
posted by 清田麻衣子

出版社に務め、多忙を極める女性編集者に、「休みが嫌い」という人は結構いて、私は完全にそうだった。稀にぽっかり時間が空くと、自分自身のブラックホールに飲みこまれるような感覚に襲われて怖くなり、月曜日、会社へ向かいながらイヤな顔をしつつ、内心、安堵していた。会社員として働いていると、いつも目の前のことで忙殺される。「たいへんだ」と歎き、なんでこんなに働かされてるんだ、と会社に悪態をつきながら、思考停止状態になることを望んでいたのだと思う。だからフリーランスになるのが怖かった。

しかし、震災の後、その限界を思い知った。この先を見据えて、会社の仕事に埋もれて止まる思考を奮い立たせ、今いる世界の外の、興味のあるものに手を伸ばしていこうと決めた。学生に戻ったような、初々しい心持ちになっていた。

そんな折、知人からある写真集の出版パーティに誘われた。大学時代、写真に興味を引かれ、卒業して1年間写真史を学んだが、好き嫌いの範疇から抜け出せず、軽い挫折感とともに遠ざかっていた。だが、久々に写真を見てみようと思った。

そこに、福岡県出身の写真家がいた。その人は福岡などで写真を撮っていたのち、新宿のphotographers’ galleryという、写真家たちによって運営されているギャラリーに活動拠点を移すため、2年前上京してきたという。田代一倫さんといった。

私は父親の転勤で、7歳のときに福岡から横浜市のたまプラーザという新興住宅地に越してきた。だがずっとどうしても、故郷を聞かれると「福岡」と答えていた。福岡の風景は、幼い頃住んでいた東区のあたりと、父に連れられて行った天神の風景くらいしか思い出せないのに、どうしてもたまプラーザの画一的な町並みに愛着が湧かず、微かな記憶しかない福岡がいつまでも原風景だった。田代さんは、次に福岡を含めた九州北部と韓国の南で撮影した作品の展示をやるという。

「椿の街」シリーズのDM。

数日後、送られてきた展示のDMは、福岡市早良区の室見川という川の橋の上から、上半身裸の少年がカメラに真っ直ぐ視線を向け、まさに今、川に飛び込もうとする瞬間を撮った写真だった。

同じ福岡とはいえ私は見たこともない場所なのに、意識のとても深い底に眠っていた風景を思い出したような感覚になった。山の濃い緑の色、なめらかな山の稜線、川の緩やかな蛇行の具合に、九州地方特有のものがあるのかもしれない。しかし、写真の中央に佇む少年もまた同じように知っているような気がしたから、それは風景のせいだけでもないようにも思う。

少年は橋を両手で掴み、裸足ですっくと立っていた。川に飛び込むことだけしか頭にないようなその佇まいが、潔く、凛々しくて、尊いものを見ているような、羨ましいような気持ちになった。

私は福岡に住んでいた幼い頃、兄とその友達に混ざって夏になると川でザリガニを採っていた。だが女は私ひとりで、男の子と違って川でノビノビ立ちションもできない。なにかと足手まといだったのだろう。夢中でザリガニを採っていて、気付くとよく巻かれていた。そんな遠い記憶が甦った。

東北地方沿岸部の700人を撮影した写真

2011年11月、展示を見に行って感想を田代さんに告げ、もっと写真が見たいとお願いした。数日後、写真を持ってきてくれた田代さんは、スーツを買ったときに店で入れてくれるケースを持っていて、何かの式の帰りかと思ったら、「これしか入れるものがないんで」と言い、取り出した箱の中には、写真がバサバサと入っていてギョッとした。写真というモノよりも、「写真そのもの」のことしか考えていない様子が可笑しかった。

その中に、2011年の4月から何度か東北地方を訪れ、震災で被害を受けた地域の人々を撮っている写真が混じっていた。同じ構図で人物を真正面からカメラ目線で撮影した写真ばかり。その時は一体なぜこんなに単調な写真を撮るのか不思議に思った。だが彼は「こういうふうにしか撮れない」という。そしていまは、3月の展示に向けて大詰めに入っているということだった。

震災から1年後の2012年3月、新宿・銀座ニコンサロンで、震災を記録した写真を7人の写真家が1週間交代で展示とシンポジウムをおこなう「Remembrance 3.11」という企画展で、その写真は発表された。「はまゆりの頃に」というタイトルだった。

東北地方沿岸部に住む人々を、同じ構図で真正面からカメラ目線で撮影した写真が40点ほど展示されており、展示会場の真ん中には、私家版の写真集が4冊置か れている。展示はその写真集からの抜粋で、春・夏・秋・冬で分冊された4冊の写真集には、1年間かけて撮影された、のべ700人もの東北地方沿岸部に住む 人たちが収められていた。撮影した人は全員掲載しているということだった。ものすごい分量だった。だが夢中で読んだ。

新宿ニコンサロンでの展示。

2011年4月23日 岩手県宮古市田老田中「震災を思い出すので、直後はなかなか自分の家に戻ることができなかった」高価な物ではなく、自分にとって大切な物を探す方々と対面すると、物に対する人の価値観を改めて考え直します。
2012年7月24日 岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦「オレンジ色がはまゆり、白がやまゆり。あれ?逆か?」家で鉢植えにするために、花を抜いて来たという男性です。海辺の崖に咲くはまゆりと、山に咲くと言われているやまゆり。両方を一気に持って帰れることを、私は羨ましく思いました。

2012年6月23日 宮城県仙台市青葉区国分町

震災直後は、実家のある岩手県遠野市に帰っていたという男性です。それから半年後、再び国分町に戻ってホストを再開したそうです。

2013年2月22日 福島県双葉郡楢葉町山田岡美し森「弁当買ってて、来るのが遅くなりました」いわき市から福島第一原発に働きに来ている男性です。現在は作業員の方の送り迎えをするための車を洗って除染する仕事をされているそうです。

がれきの中で佇む女性、がれきを撤去する男性から、仙台の歓楽街で朝帰り途中のほろ酔いの若い女性、東京から被災地を見学に来た男性、正月に初詣するヒップホップ少年など、イメージの「被災者」と重なる人から、こちらの期待を良い意味で裏切る人まで、震災後から1年間、東北地方沿岸部に居たあらゆる人たちが、同じ構図で撮影されていた。前に見た時わからなかったその意図は、じわじわと理解できた。

写真の下には、地名と撮影日に加え、被災地の状況、写真家として感じたこと、31歳のごく普通の青年としての正直なためらいといったことが文章で添えられていた。その文章は、状況を冷静に伝えるだけでなく、感情を率直に、かつ抑制の効いた言葉で綴られていた。

ページを繰るごとに、地震と津波、そして原発事故が与えている影響の、テレビなどでは伝えられない細かな事実や、時間の経過を丁寧に読み取ることで気づく被災地の人々の変化、東北に住む人々のそれまで抱えてきた問題の数々などがじわじわと伝わってきた。

災害や戦争のニュースで莫大な死者の数を聞いても驚くだけで、気持ちがついていかないことに、空しい気持ちになることがあった。今回の震災もそうだった。だからこそ、「東北の人の集合体」ではない、ひとりひとりの人が生きている証拠を丁寧に収める必要がある。田代さんはそのために、撮影する側のエゴがなるべく入り込まないかたちで記録しているのだろう。わかりやすい、みんなが求める「東北」ではない、多様な人々を記録し、見る人に感じ、考えてもらうこと。それが、田代さんがやりたいことなのだと思った。

タイトルの「はまゆり」とは、東北地方沿岸部によく見られる花の名前。首都圏から見た「東北」という意味でつけられた括りでこの地方の人々を捉えるのではなく、はまゆりのように、その土地がもつ性質と関わりを持ちながら生きる人々の繋がりを捉えたいということだった。丁寧に、そしてものすごく誠意をもってこの震災という戦後の日本で起きた未曾有の出来事に向き合っているのだと感じた。この人は私が想像していたよりも、ずっとすごいことをやろうとしている。

佐藤真監督の映画がきっかけだった

田代さんの写真集を見て思い出したのは、大学時代、卒業論文で書いた、佐藤真監督というドキュメンタリー映画監督の『阿賀に生きる』そして『まひるのほし』という映画を観た時の感覚だった。

佐藤さんの映画の抑制の効いた演出で繋がれる映像は、最初、入り込むのに時間がかかり、眠くなった。題材も水俣病や、障害者のアート作品制作、という地味なテーマで、登場人物も地味だ。物語を紡ぐというよりは、映像のコラージュといった編集で、クライマックスのわかりやすいポイントもない。BGMはおろかナレーションもない。

ただ、その映像の世界に集中すると、たとえば『まひるのほし』では、障害をもった彼らが一心不乱に版画の木を彫る音がやけにリズミカルなことに気づき、ああ、こういう作業の歓びの積み重ねが、彼らにとっての「アートをする」という感覚なのか、と楽しい気持ちになったり、私にとっては意外なことで怯える瞬間を彼らの瞳の奥に見つけ、障害を持つ人々の感覚の鋭さに胸が痛くなったり、彼らの動揺を前にしたカメラが迷ってブレたのに気づいて、撮影者と被写体の繊細な関係に気が引き締まったり、といった細かい気づきのひとつひとつが連なり、何かを「知る」とはこういうことか、と思った。

インパクトのある映像やドラマチックなストーリーで障害者の現実を「知らされる」のではなく、細かな「気づき」の連続を通して、初めて障害をもつひとたちの存在や生活を、自分なりに考えることができた。

本当に伝えたいことがあるときに、こういった一見遠回りな手法がいちばん効果的なのだ、ということを知った。それはそれまでの人生にない発見で、深い感動だった。

そして佐藤さんの作品をテーマに卒論を書いた。その過程は経験したことのない密度の濃い時間で、大学を出たらこういう時間がもう今後持てないなんて絶対に嫌だと思った。それにはとりあえず、文章を世に出す仕事、出版だ、という遠回りな考えのもと、編集者になり、それからずっと佐藤さんと仕事をしたいという思いを抱きつつ、こういう地味な題材の、わかりにくい手法の作品が世間に受け入れらづらい現実に尻込みした。

とにかくまずは自分に力をつけようと、会社を転々とし、4社目の出版社で、どういうわけか団塊世代向けのカルチャー誌を作っていた2007年9月。関東に台風が直撃した日だった。編集部で目にしたヤフーニュースで佐藤さんの訃報を知った。49歳だった。会社のデスクで思わず悲鳴が漏れた。「間に合わなかった」と思った。気づけばずいぶん遠い所に来ていた。

自分の原点であると同時に指針だったものがなくなり、糸が切れた凧みたいになっていた。世の中の思考停止に憤ってこの仕事に興味を持ったはずなのに、そこから全速力で逃げて、自分の思考を停止させていた。

そして2012年春。田代さんの私家版の写真集を見たときに、大学の時、佐藤監督の映画を観たときと同じ感覚を味わったのだった。

田代さんは、いつかは私家版をまとめて出版できたらと考えているようだった。写真展を見て、その興奮を本人に伝えたが、当初、月刊誌の作業に追われる会社員の感覚では、この数百ページにも及ぶ本を編集するという意識はなかった。というか、震災、津波、原発といった、人間の本質的な問題に触れるテーマに向き合う勇気も、そういったことに全力で取組んでいる人に向き合う覚悟もまだなかったのだと思う。

しかし、その後田代さんと話をするうちに、いつしか「こんなふうに編集したほうがいいと思う」と頼まれもしないのにどんどん意見を言っていた。そして次第に、他の編集者にこの本を出されるのは嫌だと思うようになっていた。

本を作るノウハウは身につけた。ライターと編集の区別すらつかなかった新卒から始まって、ひととおりの武器は揃えたはずだ。自分で考えることを停止した状態の人と、繊細な感覚の世界とを繋ぐことはできないだろうか? 自分自身の課題が、本をつくる糸口になるかもしれない。

写真家の田代さんにとっては、初めての写真集になる。しかもものすごい気迫で「できるだけ多くの人を載せたい」と言っている。たしかにある程度分量がないと伝わらないとは思う。しかしいったいカラー何ページの本になる??? どこの版元がこの無謀な本を出してくれる??? 不安は山のようにあったが、編集者として、いまの自分にとって、この本を作ることが大事なことのように思った。なんの目算もなかったが、勢いで「この本を編集したいです」と伝えていた。

だがこの時はまだ、自分で版元をやろうとまでは思っていなかった。

次回につづく

※写真家・田代一倫の展示「はまゆりの頃に 2012年冬」は2013年6月2日まで、新宿のphotographers’ galleryで開催されています。

今回は、2012年冬の福島県の写真と、原発作業員を撮影した作品が展示されています。ぜひ足を運んでみてください。ちなみに、現在、撮影した人数はのべ1000人を超えています。