〈文庫〉の思想と「読書運動」

2016年11月1日
posted by 仲俣暁生

このところ興味深い「読書論」の本を続けて読んだ。いずれも「読書の秋」に向けて出版された本だと思うが、これらを手がかりに今回は読書について考察してみたい。

そもそもなぜ、秋は「読書」の季節なのか。秋分を過ぎて日が短くなり、夜の時間が長くなるからだと思いこんでいたが、戦後まもなく制定され現在に続く、「読書週間」なる活動の影響も大きい。公益社団法人読書推進運動協議会のウェブサイトでは、読書週間がはじまった経緯が次のように紹介されている。

終戦まもない1947年(昭和22)年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。

そして『読書週間』は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。

読書週間のおかげで日本が「本を読む国民の国」になった、などというのはまったくの嘘だが、戦後の国家再建の合言葉だった「平和」や「文化」と「読書」という活動が密接に結びついていることがよくわかる。また、この「運動」の担い手はあくまでも、「出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関」といった本やメディアの送り手であり、受け手(読者)側からの活動ではなかったこともわかる。

戦後の混乱期には出版物そのものが不足しており、どんな本でも雑誌でも飛ぶように売れた、と多くの本が当時の「読者」の姿を伝えている。そのことと考え合わせると、この時期になぜ「供給側」が、ここまで読書運動を推進しようとしたのか、腑に落ちないことが多い。軍事国家から平和国家への転換にあたり、国民規模の読書運動が必要だという建前の裏側に、戦中に活発になされたという、読書への総動員体制ともいうべき「国民読書運動」の名残があるように思えて、私には気持ちわるい。

「20世紀読書」の終わり

日本人にとって「読書」とはなんであったか。その歴史を綴った本がほとんどなかった、と『読書と日本人』(岩波新書)のあとがきで著者の津野海太郎は語る。五千年を超える「本」の歴史と、それが一気に大衆化・産業化した20世紀以後のことについては、多くの本が書かれてきた。

ところが、そのどちらでもない『日本』という中間レベルでの読書の歴史が、どうもうまくつかめないのですよ。

『読書と日本人』はそのために、第一部「日本人の読書小史」と第二部「読書の黄金時代」の二部構成となっている。とりあえずここで問題にしたいのは、後者で描かれる「20世紀読書」のほうだ。先の世紀を「読書の黄金時代」と呼ぶ理由は、それが「だれもが本を読む時代」であり、それを可能とする制度や技術のインフラが一気に揃った時代だったからである。

しかし津野は、このような時代は「歴史上、これ以前にはなかったし、そしてこちらがより重要なのですが、この先もおそらくないであろう読書の輝かしい最盛期」だという。20世紀という時代は、その意味で「特殊で例外的な時代であったらしい」というのが本書後半の主題である。

津野のいう「だれもが本を読む時代」のなかで、「だれもが」として名指されているのは、女やこども、そして「大衆」である。日本だけでなく先進国で20世紀に一気に進んだのは、ペーパーバック革命とでもいうべき、本の大量生産化・廉価化だった。

日本では改造社をはじめとする多くの出版社が手掛けた「円本」(一巻あたり1円程度という、当時としては破格の廉価で販売された全集企画本。基本的に前金制で分売不可)ブームに対抗して、岩波書店が相次いで創刊した「岩波文庫」(1927年創刊)、「岩波新書」(1938年創刊)が、さらなる価格破壊と大衆化をすすめた。現在も「文庫本」「新書本」が書店の店頭で大きな存在感をもつのは、津野のいう「20世紀読書」のパラダイムがいまなお有効であることの証明だろう。

しかしこうした時代は遠からず終わる、いや、すでに終わりかけている、というのが津野の考えである。その当否を問う前に、もう一つの「読書論」に触れてみたい。

三木清がみた〈文庫〉という夢

『読書と日本人』のなかでも紹介されているとおり、岩波書店が「岩波文庫」を創刊するにあたり、ブレーンとして大きな役割を果たしたのは哲学者の三木清である。有名な「読書子に寄す」の草稿を書いたのも三木だった。

三木は学生時代、岩波茂雄の支援を受けて1922年から24年にかけてドイツとフランスに留学した。三木が到着した当時のドイツは第一次世界大戦後のハイパーインフレ期であり、外貨による留学者には貴重なドイツの書物をいくらでも買え、「千万長者の経験」ができた「天国の時代」だった。

その三木清が戦時下の1942年に刊行した『読書と人生』という本は、いまは講談社学芸文庫に収められている。この本は三木が生きた時代、つまり20世紀のほぼ前半まるごとにおける「読書」のあり方を伺うのに格好の資料でもある。

この本に納められたエッセイで三木が繰り返し語るのは、「新刊書ではなく古典を読む」「解説書ではなく原典を読む」「図書館で借りずに本は購入する」「濫読よりは熟読」といったことだ。三木のこうした読書観は、ほぼそのまま「岩波文庫」という出版プロジェクトの思想として結実した。

三木は個人蔵書(「文庫」という言葉はそもそも、これを意味した)について次のように述べている。

本は自分に使えるように、最もよく使えるように集めなければならない。そうすることによって文庫は性格的なものになる。そしてそれはいわば一定のスタイルを得て来る。自分の文庫にはその隅々に至るまで自分の息がかかっていなければならない。このような文庫は、丁度立派な庭作りのつくった庭園のように、それ自身が一個の芸術品でもある。(「書物の倫理」

三木は読者がそれぞれに「性格的」で「スタイル」を得た、自前の個人図書館(=文庫)をもってほしいと願ったのだ。岩波茂雄名義で公開された「読書子に寄す」のうち、三木清の思いがもっとも伝わるのは冒頭のこの部分である。

真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。

大正から昭和初期にかけて、おもに大学生や都市生活者の間に広まった「教養主義」的な読書観は、このようにして「かたい本」から始まった。だがこの時代には、同時に「おもしろくて、ためになる」をキャッチフレーズとした講談社の一連の雑誌の読者にみられる、より広範な読書大衆も生まれた。前者を特徴づける言葉が「教養」ならば、後者を特徴づけるのは「修養」であり、いまでいうビジネス書や自己啓発書に近い。

出版史を語る上で「岩波文化」と「講談社文化」という対比がよくなされるが、「二十世紀読書」の黄金時代において、両者はまさに「車の両輪」としてフル回転しつつ、巨大化する出版産業のための読者のプールを生み出していったことがわかる。

三木清の『読書と人生』をいま読むときに注意しなければならないのは、この本に収められたエッセイの大半が1931年から1942年までに書かれたことだ。掲載先も「東京堂月報」「学燈」「学生と読書」「読書と人生」といったミニメディアが中心で、『改造』や『中央公論』といった当時の代表的な総合誌ではない。

この時期の三木は、1930年に治安維持法による検挙・勾留を経て釈放された後、政治的な問題意識のもとでの執筆が困難な状況にあった。1945年3月に二度目の逮捕・検挙を受け、その年の終戦にも関わらず三木は9月に獄死にいたるが、もし無事に戦後を迎えていたなら、どのような読書論を語っただろうか。

1947年秋に戦後型の国民読書運動として「読書週間」が開始される以前、すでに人々は読書に飢えていた。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』は、この年の7月に刊行がはじまった新たな西田幾多郎全集を待ちかねて、発売の3日前から岩波書店のまわりに集まり、徹夜で並んだ人々の写真を紹介している。現代であれば人気ゲームソフトやアイドルのファンが繰り広げる光景が、当時は哲学者やその全集本に対してみられたということだ。

西田幾多郎は三木清の恩師であり、彼の思想の原点ともいえる存在だった。「読書運動」とは無縁のところで、本への飢餓を訴える膨大な読者層が存在したことを、この写真は教えてくれる。

角川文庫の時代へ

読書とはまったく疑問なしに「よいこと」であり、積極的に「しなければならない」ことだ、という立場から語られる「読書」論は、「20世紀読書」の時代を経由した現在では、そのままでは説得力を欠くものとなっている。

三木清が『読書と人生』で綴った読書観は、彼自身が幼少期に本のない環境で育ったこと、「岩波文庫」以前には古典を廉価で手軽に購入し、所有できる仕組みが存在しなかったという、「読書の黄金時代」以前の読書経験によって培われたものだろう。

三木の孫世代にあたる私自身の読書史を振り返ると、彼と同様、少年時代はほとんど本や書店のない環境で育ったが、1970年代の後半までは、「かたい本」の権威はまだしも残っていたように思う。けれども、中学に入る頃に、「文庫本」のもつ意味が大きく変わることになる。

今年からちょうど40年前にあたる1976年に、創業者・角川源義のあとを継いだ長男の角川春樹が断行した経営刷新により、それまで国文学の真面目な版元だった角川書店は、出版方針を大きく切り替える。いまでいうエンターテインメント小説を文庫の主軸に据え、ミステリーやSFといったジャンル小説も大胆に取り入れた。

「見てから読むか、読んでから見るか」をキャッチフレーズとした角川文庫と角川映画の連動は、現在にいたるメディアミックスの流れに先鞭をつけたものとしてよく語られる。

まさにその渦中に、私は「本を読む」ようになった。生まれて始めて自分の小遣いで買った本は、角川文庫の筒井康隆だったことを覚えている。新潮文庫のトルストイ『人生論』とどちらを買うかで最後まで悩み、筒井康隆が手元に残った。それは教養とエンタテインメントのどちらを「文庫」に求めるのか、という選択でもあった。

私が大学に入学した1980年代のはじめには「ニュー・アカデミズム」がもてはやされたが、いま思えばこれは「岩波文庫」以前の教養主義への回帰だったように思える。その証拠に、ニュー・アカデミズムの「古典」は文庫本のような廉価版で刊行されることはほとんどなく、高価かつ少部数の専門書のまま、なぜか「大衆的」な読者を獲得していた。

bunko

古典的な名著は「読まない」ほうがよい?

「20世紀読書」はすでに爛熟の時代を終え、ゆっくりと(あるいは急激に?)衰退しつつある。そうしたなかで、最近読んだ「読書論」でよかったのは、ちくま学芸文庫に入ったピエール・バイヤールの『読んでない本について堂々と語る方法』だった。人を食ったタイトルにも関わらず、本書の主張は真摯で説得力のあるものだ。

バイヤールの主張はいっけん、三木清とは対極的である。いかに本来は読まれているべき古典であっても、いやそのような古典であればあるほど、「タイトルだけ知っていればよい」「人から概要を聞いただけでもよい」、さらには「むしろそうした本は読んでいないほうがいい」とさえいう。

なぜなら、読書の本質にあるのは一冊一冊の本の内容を正確に理解し、記憶することではなく、〈ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体〉を把握することだからだ。バイヤールはそれを〈共有図書館〉と名付ける。その上で、肝心なのは〈共有図書館〉全体をイメージできること、個々の本がそこでどのような場を占めるかがわかることだ、という。

ここまでくると、バイヤールと三木の考えはそれほど遠く離れていない。三木は彼なりに、当時の〈共有図書館〉を――『読書と日本人』にある津野の言葉に従えば〈家庭図書館〉として――誰もが所有しうるよう、「岩波文庫」という商品企画を立案・実行したのだった。

読書に対する強い権威付けがあり、「読むべき本を読んでいない」ことが禁忌であり、率直に語りにくいことであるような社会では、それについて「堂々と語る」ことは難しい。バイヤールの本の終盤には、フランスにおける根強い読書観を物語るものとして、このような記述がある。

これらの禁忌のせいで、われわれは書物というものを、学校時代以来、触れてはならない〔神聖な〕ものとして思い描いており、書物になにか変化を加えるとすぐに罪悪感を抱くのである。

こうした禁忌を取り払うことなしには、文学テキストというこの無限に変化する対象に耳を傾けることはできない。文学テキストは、会話や書きものによる意見交換の本質的な一部であり、読者ひとりひとりの主観性と彼の他人との対話から生命を得ているのである。

この「禁忌」はすでに日本ではほとんど失われており、「読むべき本を読んでいない」ということも、恥とは感じられていない。「20世紀読書」がもたらした大衆化が行き着く果ては、「誰もが同じ本を読むわけではない」という当たり前の事実の容認であり、その反面で起きる「古典」つまり基本図書としての正典(カノン)の喪失だ。しかしそれを「上から」の読書運動によって押し付けることは難しい。

国家は「読書」に介入すべきか?

戦後の「読書週間」の歴史について調べていくと、布川角左衛門が1957年に書いた「読書週間十年の回想」という文章がみつかった。これによると、読書運動は戦後に始まったというよりは、戦前に行われたいくつかの運動のリバイバルだったようだ。

1947年の戦後最初の「読書週間」は、布川によれば、アメリカで11月に行われるChildren’s Book Weekに着想を得たもので、GHQの民間情報教育局(CIE)の出版顧問であったフレデリック・メルチャーに示唆されたものだという。それが翌年から憲法公布日である「文化の日」を前後とする二週間の開催に変更となった。

戦後の読書週間に図書館界が参加している事情も、布川の上の文章が伝えている。関東大震災が起きた翌年の1924年に、日本図書館協会が「読書週間」という企画を開始している(のちに「図書館週間」と改称)。それにあわせて出版業界では1933年から「図書祭」を開催した。この「祭」は文字どおりの祭祀であり、以下のような趣旨だったという。

図書を尊重することは古来の美風である。しかるに近時図書の刊行多きを加ふるにしたがい、図書尊崇の念薄らぎ、ややもすれば図書に対する真の反省謝恩の徳を閑却するがごとき風をみるにいたった。ここにおいて、本会はまず精神運動として『図書祭』を興し、図書に対する反省謝恩の美風を涵養するの計画をたて…(略)…図書の功績を讃え、敬虔なる感謝を捧げ、もって図書ならびに読書に関する世人の自覚を高め、良書に親しみ、良書を尊ぶ美風を振興することを企図した。

当然ながらこの「図書祭」は国策に利用され、布川によれば、日中戦争の勃発後は「国民精神作興に関する詔書渙発記念日に改められ、政府の『国民精神作興週間』と呼応することになった」という。このような神がかった「書物観」や「読書観」が、現代ではすっかり失われたことは、とてもよいことだ。

しかし昨今の「文字・活字文化の日」制定や「読書週間」の活動に、同様のにおいを感じないわけにはいかない。戦時下の国民読書運動は、「国民精神総動員運動」によって国策に絡め取られていった。その中心となったのは当時の公共図書館(戦後に「公民館」となったものが多いらしい)であり、「貸出文庫」「移動文庫」といった、いまでいう開架図書や移動図書館車の利用促進のかたちをとったようだ。

自力で本を読めない幼児への読み聞かせや、読書習慣を身につける機会のなかった青少年に図書との接触機会を与えるような「読書運動」は、つねに行われるべきだろう。しかし読書運動が「国民運動」の名のもとになされるのは、平時であれ戦時であれ受け入れがたい。本をめぐる業界(出版業界や図書館界)が戦時下にちかい、困難な状況にあることはたしかだろう。しかし、だからといって「読書」を安易に国策とつなげてよいのか。

2005年に制定された「文字・活字文化振興法」では、以下が定められた。

(文字・活字文化の日)
第十一条  国民の間に広く文字・活字文化についての関心と理解を深めるようにするため、文字・活字文化の日を設ける。
2  文字・活字文化の日は、十月二十七日とする。
3  国及び地方公共団体は、文字・活字文化の日には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする。

誰もが本にアクセスできる環境を整備することは国及び自治体の義務とすべきで、その限りでこの法律の制定には意義もある。しかし読書はあくまでも「個人」の営みであるべきだ。「文字・活字文化の日」も「読書週間」などというお祭り期間も、そうした環境が整っているならば、本来は必要がないものだ。

三木清のテキストは、いまでは「青空文庫」でその多くが読める。彼の読書論も、そこには数多く収められている。彼が岩波文庫の創刊時に込めた願いは、すでにインターネット上の「文庫(ライブラリー)」に――どんな国策とも無縁のまま――受け継がれている。これこそが〈文庫〉という思想の栄光であろう。

第4回 本から始めるまちづくりと「専業」ではない出版のかたち

2016年10月26日
posted by 影山裕樹

今年のゴールデンウィーク、ちょうど瀬戸内国際芸術祭の春会期と夏会期の間の比較的観光客の少ない時期に小豆島を訪れた。目的は主に、小豆島を起点として数日間瀬戸内に滞在し、アート作品を堪能しに行くためだ。

小豆島の名物、ヤシの木。

フェリーで土庄港に着いて海岸沿いへ向かうと、ヤシの木や白い砂浜、瀬戸内海の穏やかな海が迎えてくれた。芸術祭に訪れる観光客が、こうした瀬戸内の自然や時間に癒されるのがよく分かる。到着してからはさっそく、現代芸術活動ユニット「目(め)」の作品や、ワン・ウェンチーの地元産の竹4000本を使った巨大ドーム作品「オリーブの夢」などを見て回った。しかし個人的にいちばん印象的だったのは、ちょうどその時期に開催されていた「肥土山農村歌舞伎」だ。

農村歌舞伎とはその名の通り、地域の住民が毎年手作りで生み出す伝統的な歌舞伎で、歴史も長く、会場となる舞台も趣深く、なにより地元のお年寄りが前方の席に陣取って、化粧をして綺麗な着物を着て台詞回しをする子供たちの演技を食い入るように見入っているのが微笑ましかった。おひねりも飛び交っていた。

肥土山農村歌舞伎の舞台。

現在、全国各地で様々な芸術祭が開催されているが、現代アート作品よりも、地元に根ざした伝統的な祭りに旅行者がふとしたきっかけで出会ってしまう、偶然の回路を作るほうが大事なのではないか、とそのとき感じた。地域振興にアートを用いるという手法がブームとなりつつある昨今、そもそも地元に古くからある、しかも市民たちの手で作られ、楽しまれる伝統的な芸能や文化の価値をこそ現代と接続しなくてはいけないのではないだろうか。そのために、アートやメディアといったものが少しでも役に立てばいいのに、と思う。

オリーブ会社が経営する出版社「瀬戸内人」

小豆島にはまた、『ローカルメディアのつくりかた』(学芸出版社)で取り上げた「せとうち暮らし」を発行する出版社、瀬戸内人(せとうちびと)に100パーセント出資する地元オリーブ会社・小豆島ヘルシーランドがある。この会社は、島内に複数のアートスペース施設を持つ「MeiPAM」をグループとして保有しており、瀬戸内国際芸術祭の会場にもなっている。

「迷路のまち」を感じさせてくれる施設「MeiPAM」の外観。

MeiPAMで作品が展示されている「目(め)」は前回の瀬戸内国際芸術祭の時期からこの小豆島に関わり続けており、地元市民を巻き込んだかたちで継続したプロジェクトを展開している。その成果は二つの作品に結実しており、恒常的な展示として瀬戸内国際芸術祭のお客さんや、地元の人に親しまれている。そして、その活動を全面的にバックアップしているのも小豆島ヘルシーランドなのだ。

『せとうち暮らし』はもともと、香川県でフリーランスで情報誌のデザインなどを行なっていた小西智都子さんが地元の仲間たちと構想した雑誌で、小西さん自ら立ち上げたROOTS BOOKSという個人出版社から発行を続けていた。同誌は全国の一般書店にも卸していたが、なかには瀬戸内海の島々のカフェや美容院などにも置かれており、たまたま小豆島の歯医者で偶然これを見つけ、支援を買って出たのが小豆島ヘルシーランド相談役の柳生好彦さんだった。

その後、神奈川から豊島に移り住み、「一人出版社」として活動していたサウダージ・ブックスの淺野卓夫さんが合流。現在は「瀬戸内人」へと名前を変え、雑誌『せとうち暮らし』以外にも、地元ゆかりの作家・黒島伝治らの書籍を刊行しているほか、小豆島の「迷路のまちの本屋さん」という本棚の企画なども仕掛けている。今後はより小豆島ヘルシーランドの事業と連動した書籍も発行されていくだろう。

最近、企業が出版社を買収したり、自社の内部に出版部門を立ち上げる事例が目につく。たとえば精神障がい者のための自立訓練事業所が行う、メンタルヘルス専門の出版社ラグーナ出版、リアル脱出ゲームの会社が仕掛ける謎専門出版社SCRAP出版などが挙げられる。

他にも大地の芸術祭、瀬戸内国際芸術祭などのアートイベントを手がける北川フラム氏が代表を務める現代企画室や、大手住宅メーカーによるLIXIL出版など、昔から本体の事業と関連した出版社を抱える企業は多くあった。出版不況と言われて久しい現在、出版事業単体で利益を出し続けるのには限界がある。そこで今、本体の収益事業に貢献する専門出版社の存在感が高まりつつあるのだ。

近江八幡に根ざす菓子舗たねやが、地元貢献のために「たねや農藝」という農業のような試みをしたり、ハイクオリティな広報誌『ラ コリーナ』を発行しているように(連載第2回を参照)、小豆島ヘルシーランドのような企業が文化事業を地元で多数仕掛けるうちの一つの枝葉として出版社を立ち上げるのは、とても自然な流れのように感じる。

「出版とはこうあるべき」だとか、「利益率がどう」だとか肩肘張るのではなくて、狭いパーティションに区切られた編集部から外に出て、もっと自然に、風通しのいい地域の景色に身を任せながらメディアや出版を考えることはできないか。それが僕自身がローカルメディアに興味を持った一つの理由でもある。

「本」が起点となり、地域が変わろうとしている

また、これまで取材を重ねてきた全国のローカルメディアの大きな特徴の一つに、大手取次会社を通した出版流通に乗らないということが挙げられる(一部をのぞいて)。全国隅々まで新刊が時差なく届けられる出版流通の仕組みは、大型書店のない地方の住人に本を届けるという重要な意義がある。ただ、昨今のローカルメディアの流行を見るにつけ、従来の出版産業の“リングの外”のほうがより面白いことができるようになっていると感じる。

先日は久しぶりに、地域限定発売「本と温泉」(連載第1回を参照)が話題となっている城崎温泉へと足を運んだ。最近、このプロジェクトの仕掛け人であるBACHの幅允孝さんが地域プロデューサーに就任し、城崎温泉に昔からある城崎文芸館のリニューアルオープンを手がけることになったためだ。

城崎文芸館はJR城崎温泉駅から近いにも関わらず、温泉街のメインストリートから外れたところにあるため、地元の人や観光客の動員に苦戦していた。そこで、全国から注目を集める「本と温泉」プロジェクトと連動したかたちで、新しい客層を開拓するために「KINOBUN」という愛称をつけ、リニューアルの企画が立ち上がった。

城崎文芸館“KINOBUN”企画展。

現在、館長を務める原良式さんは、同館の課題について「これまで文芸館は常設展しかなかったので、地元の人も一度来たらそれで終わりでした。定期的に企画展を開催することで、何度も来てもらえる施設にする必要があったんです」と語る。

記念すべき第一回の企画展は「本と温泉」の第二弾であるタオル表紙の本『城崎裁判』を執筆した万城目学さんを特集したもの。展示内容もちょっと変わっていて、万城目さんが原稿を書くPCの画面写真や、事務所で愛用しているロッキングチェアが置かれていたりと、「地元ゆかりの大作家」という大仰なしつらえを意図的に避けている印象を受けた。

さらに、企画展のチームはアートディレクションをスープデザインが手がけ、特別展示としてライゾマティクスの映像作品も置かれるなど、文学に親しみのない若い層にもうったえかける内容になっている。幅さんはそもそも、志賀直哉来湯100周年をきっかけにこのまちに関わるようになったのだが、「いつまでも昔の文人を推していてもお客さんは来ない。文芸館をやわらかく、幅広い方に来てもらえる施設にしたかった」と語った。

ライゾマティクスによる映像作品

『ローカルメディア〜』で詳しく紹介したとおり城崎温泉には、震災以降、地元の豊岡市にUターンした田口幹也さんが館長を務める城崎国際アートセンターも精力的に活動を続けているし、今回の文芸館のリニューアル、そして湊かなえさん書き下ろしの第三弾が今年の7月に刊行された「本と温泉」と、新しい文化的な取り組みが複合的に絡み合い、点と点が繋がり面へと広がっていると実感した。

「本」というメディアが起点となり、地域が変わろうとしている城崎温泉のここ数年の盛り上がりを見ていると、まるでそれ自体が一冊の本から始まった、一つの(未完の)物語のように見えてくるから不思議だ。

城崎温泉名物のカニをイメージした装幀の、湊かなえ『城崎にかえる』。

「出版」という枯れた技術にも “水平思考” を

大都市に比べて人口の少ない地方で読者や観光客を獲得するためには、独自の流通の仕組みを編み出したり、単体のイベントだけで終わらないよう文化的な拠点を作り出す必要がある。だから今、地方で成功しているローカルメディアの担い手たちは、編集やデザインという制作スキルそのものよりも、特に流通に注力をそそいでいる。

その場所でしか買えない「本と温泉」や、自社のショップのみで配布する『ラ コリーナ』、会員数(読者)を限定し消費者と生産者の結びつきを強める「食べる通信」、取材・執筆、広告営業のみならず配布まで自ら一人で行っている『みやぎシルバーネット』がまさにそうだった。ローカルメディアにとって、流通のあり方は自らのメディアの存在証明であると言っても過言ではない。

また、単に本やメディアを出すことだけが出版社の役割ではない。本やメディアと連動した場づくりやコミュニティの醸成が、メディアづくりと同じか、それ以上に重要だ。だからこそ、企業やNPOなどが手がける、専業ではない出版社というあり方が活きてくる。

任天堂の伝説的な開発者、横井軍平氏は生前、古くなり安価になったテクノロジーを“横にスライド”することで新たな商品を生むという意味の「枯れた技術の水平思考」という名言を遺した。批判を恐れず言えば、DTPや印刷が手軽となった「出版」「メディア」のテクノロジーは今や「枯れた技術」なのかもしれない。

だからこそ、それを“水平思考”し、今までなかった場所に取り入れることで、新たな市場や関係を育む。あるいは、今まで出版社の内部にあった人的資本である編集者のスキルをまちへとインストールすることで、“地域を編集する”という観点も生まれるだろう。

少なくとも、僕が面白いと思うローカルメディアの担い手たちは、自分が手がける本やメディアの売り上げよりも、それが地域にどんな物語を残したか、どのように人と人がつながりあったか、という視点を大事にしながら仕事をしていた。

一冊の本は、単に読まれるためだけに作るものではない。読書体験の先に、どんな物語を編むかが重要なのだ。

* * *

「マガジン航」との協働で今年の7月にスタートしたセミナー「ローカルメディアが〈地域〉を変える」の第3回目は、「地域に根ざした企業メディア」をテーマに今回の記事で紹介した小豆島ヘルシーランドの域事業創造部マネージャー/MeiPAM代表・磯田周佑さん、たねやグループ広報室長の田中朝子さんを講師にお迎えする。ローカルメディアの重要なプレイヤーである地域に根ざした企業の取り組みを詳しく知りたい方はぜひお越しいただきたい。


ローカルメディアで〈地域〉を変える【第3回/最終回】
「メディア+場」が地域を変える:瀬戸内、近江八幡、鎌倉の事例から

第一部では、瀬戸内(小豆島ほか)と近江八幡という二つの地域で、地元企業が「メディア」と「場」を連動させて行っている実践を紹介。小豆島ヘルシーランドの地域事業創造部マネージャーで、『せとうち暮らし』を発行する出版社「瀬戸内人」を経営する磯田周佑氏、滋賀県近江八幡市の「たねやグループ」広報室長で、同社の広報誌「ラ コリーナ」編集長である田中朝子氏に、それぞれの地域での実践についてお話をうかがいます。

また第二部のディスカッションでは、鎌倉をテーマにしたフリーペーパー「KAMAKURA」の活動にたずさわっている合同会社アタシ社のミネシンゴさんにもご参加いただき、第一部の登壇者やモデレーターの影山裕樹さんとともに、企業が根ざす地元に拠点を作ることだけではなく、なぜそこにメディアが必要なのか? あるいは、メリットがあるのか? について討議します。このディスカッションをもって、今回の連続セミナーの締め括りといたします。モデレーターは『ローカルメディアのつくりかた』(学芸出版社)の著者・影山裕樹と「マガジン航」編集発行人の仲俣暁生がつとめます。

日時:2017年2月13日(月)14:00-18:00(開場は13:30)
会場:devcafe@INFOCITY
渋谷区神宮前5-52-2 青山オーバルビル16F
http://devcafe.org/access/
(最寄り駅:東京メトロ・表参道駅)
定員:30名
受講料:8,000円(交流会込み)

講師:

・磯田周佑(小豆島ヘルシーランド(株)マネージャー/MeiPAM代表 /(株)瀬戸内人会長)
・田中朝子(たねやグループ社会部広報室室長)
・ミネシンゴ(編集者・合同会社アタシ社代表)※講師のプロフィールなど詳しい情報と前売り券はこちらから。
http://peatix.com/event/223768/view

続・我輩はいかにしてカクヨム作家となりしか――敗戦編

2016年10月24日
posted by 波野發作

「獲りました」

などとご報告できればよかったのだが、現実はそのような超展開は見せてくれず、最終選考に残った70作品のうち、受賞作品の栄誉に輝いたのは俺の作品以外の「たった3作品」だった。これらの作品は今後書籍化され書店店頭に並ぶ。おめでとうございました。

落選したからといってこのままフテ寝するわけにもいかず、これで放り出してしまうと「マガジン航」の編集人にお仕置きを受ける羽目になるので、俺は血涙を流しながらでもレポートを書かねばならぬ。もう少しだけおつきあい願いたい。

コトの詳細については、2016年7月23日の「我輩はいかにしてカクヨム作家となりしか」)をご覧いただけばわかるのだが、ざっくり説明しておくと、

①カドカワが運営する「カクヨム」という投稿型文芸サイトがあり、

②そこで「エッセイ・実話・実用作品コンテスト」)が行われ、

③俺も『我輩は本である ~白紙が紙くずになるまで~』という作品で参加(応募)した……、

ということである。

9月30日に同サイト上で発表があり、拙作はあえなく落選となったのである。無念。

残念ながら、受賞作に入ることはできなかった。

手応えがあったか、といえばそれなりにイケそうな気はしていた。ただし、無条件にではない。ある程度受賞作品が多ければなんとかなるかもしれないな、という程度である。7、8本受賞作があるのなら、運がよければ紛れ込むぐらいはできるかなーという程度の期待であったので、受賞作が3作であった時点で、まあしょうがないかなあとは思っている。そりゃあ人並みに断腸の思いではあるけども。

受賞作品はいずれも名作

今回受賞されたのはこちらで発表されたとおり、以下の3作品である。

鯨武長之介『モノクローム・サイダー

高野りょーすけ『東大生が1日を50円で売ってみたら

原田おさむ『パチンコ屋店員芸人奮闘記「それでも僕は、やめていない」

あらすじを読むだけでもわかるが、いずれも素晴らしい作品である。お目が高い、と言わざるを得ない。

鯨武さんの『モノクローム・サイダー』はレトロゲームにまつわる青春ストーリーで、先日めでたく連載が再開された押切蓮介『ハイスコアガール』にも通ずる、ヒット作となる可能性に満ち満ちたもの。本作自体はランキング下位からの編集部選出であるが、これについては後述する。

高野さんの『東大生が1日を50円で売ってみたら』、東大生である彼が1日50円のギャラでなんでもします、とブログで宣言して、いろいろな体験をするというもの。春頃に話題(騒動?)になったブログのあの当人である。俺が当時目にしたのは「自分の代わりに働いて給料をよこせ」という乱暴な人物とのやりとりでだけあったが、そんなのはほんの瑣末事で、じつは高野さん自身は金には代え難い貴重な経験をたくさんしていたのだったという物語。

原田さんの『パチンコ屋店員芸人奮闘記「それでも僕は、やめていない」』はパチンコ店店員で食いつなぐ「まだ売れていない」ピン芸人の悲哀を赤裸々に描いたもので、業界ものとしても非常に面白い作品である。

そして選考発表のウェブサイトには、二ヶ月あまりに渡って選考作業をされた「生活実用第3編集課」からのコメントが添えられていた。

最後に一つ、強調しておきたいことがございます。今回の編集部による選考基準はあくまでも「書籍化に適しているかどうか」でした。そのため、作品の品質は高いにも関わらず落選とせざるをえない作品がたくさんありました。それは最終選考はもとより、第一次選考でもそうでした。

俺もそういった公募の現場をのぞき見た経験があるので、70点もの作品から受賞作を絞り込むのはさぞ大変な作業であったろうと思う。お疲れ様でした。

この時点で原稿はすでにできているのだし、文芸作品だから図版の制作もないのだし、これらの受賞3作品は年内には発売されるだろう。そういうスピーディさがなければこの賞自体あまり意味があるとはいえない。それこそ「ターゲット・フルスピード・ツーマンス」(「世界一難しい恋」より)でお願いしたい。

受賞作品の傾向は「コンテクスト・マシマシ」

こうして受賞作品を読み比べる中で、それぞれに添えられた「編集部からのコメント」を眺めていると、これらの作品には「とある傾向が」あることが見えてくる。

それは「コンテクスト(文脈)が多い」ということだ。

期間中の順位だけで言えば、受賞作の全てがランキング上位のものというわけではない。

『東大生が1日を50円で売ってみたら』が期間中ランキング5位。『モノクローム・サイダー』は19位。『パチンコ屋店員芸人奮闘記「それでも僕は、やめていない」』は84位だった。

(※期間中ランキングは現在はもう見られない。上記順位は俺の手元に残してあるデータによるもの)

受賞作の選考がランキングだけに依存しないことは最初からわかっていた。もしランキング順位が選考基準となるのであれば最終選考などというものは必要がない。人気投票上位から順に書籍化すればいいだけである。

しかし、書店で売る以上は「編集者的」「営業的」に都合のいい作品でなければ、選ぶことはできない。人気があるということは、売れるために必要な「誰が読むのか」という問いかけへの担保にはなり得る。ただ、「カクヨムの読者」という強いバイアスのかかったものを唯一の拠り所とするのには、商業上の無理がある。出版という投資を行うにあたっては、十分時間をかけて編集部選考を行う必要があったというわけだ。

何をもって「売れる」と判断するか。これは出版というギャンブルにとって永遠の課題である。明確な法則があるなら誰も苦労はしない。

ランキング以外に何か売れそうな要素がないか、を判断するのが編集部選考だったわけだ。予想はしていたが、それは非常に顕著な形で受賞結果に現れることとなった。

19位の『モノクローム・サイダー』の受賞は編集部コメントにもある通り、同じ作者のもう一つの応募作品『パステル・プロムナード』の存在が大きい。こちらの作品は受賞作の続編なのだが、ランキングでは4位である。

『モノクローム・サイダー』も期間前から公開されていたためにランキング順位こそ高くはなかったが、以前から高い評価を得ていた作品なので、集計のタイミングさえ合っていれば1位になっていてもおかしくないものだ。実際、★数だけで言えば堂々のトップ作品である。実力ナンバーワンの作品で、しかも人気の高い続編もあるとなれば書籍化の旨味は一歩抜きん出ている。数字だけ見ても受賞は妥当であると言えるだろう。

5位の『東大生が1日を50円で売ってみたら』の編集部コメントには、作者ブログの人気も選考に加味したと明記してある。前述の通り彼の活動自体に話題性があり、ブログの固定読者も見込めるのであれば書籍化の十分な理由となるだろう。そもそもコンテストなどなくても、いずこかの出版社からブログ主にオファーがあってしかるべきコンテンツである。

たまたまカクヨムの企画にマッチしてこういう形になったが、春に話題になった時点で誰かが声をかけていてもよかったのではないのかな、と思う。いずれにしても、作品単体だけでなく、さらにブログでの地道な活動がバックボーンにあれば、これまた書籍化は妥当であると言える。

『パチンコ屋店員芸人奮闘記「それでも僕は、やめていない」』の作者、原田おさむさんはWikipediaにも記事がある芸人さんだ。公式ウェブサイトには芸風がわかる動画もある。そりゃ世間一般に知られるほど有名な芸人さんではないけれど、芸人と作家が売れるためにできることはただ一つ「やめないこと」しかないわけで、それを実践している方ということだから今後どうなるかはわからない。

今回の受賞で原田さんの著書が書店に並ぶことになったのだが、アメトークあたりで「作家芸人」として又吉先生や田村先生と肩を並べたりすることになると愉快だなと思う。そして編集部コメントにあるとおり、この作品は期間中ランキングこそ84位ではあるが、これはコンテスト前から公開されていたためで、期間を区切らないPVトータルでは候補の70作中ナンバーワンである。そのような作品を拾い上げるためにも編集部選考枠というものは必要であったということなのだろう。

このように、このコンテストの受賞には、単体の出来不出来だけではなく、作者の作品外での活動が大きく寄与している。今回のようなノンフィクション領域であればなおさらだ。どんな作品か以上に、誰が書いたのかも重要なファクターだったのだ。それは受賞作を見ればわかる。

作品と作品を取り巻く話題や売れる要素を積み上げたとき、この3作品が他の67作品を凌駕していた、というシンプルな結果が見えてくる。

反省会。敗戦の弁に代えて

こうして受賞作を分析して比べてみると、拙作『我輩は本である ~白紙が紙くずになるまで~の弱さは歴然としている。残念ながら、受賞作に割って入るほどの力は持ち合わせていなかったのだ。やはり急ごしらえで体裁だけ整えても、常日頃からコツコツと活動をし続けている方々にはそうそう敵うものではない、ということだ。ここまで書いてくる中で、俺としてはきっちり結果が腑に落ちてしまった。

ただ、もう少し受賞枠があれば、なんとかなっていたのかなぁとか、候補ぐらいには入ったのかなぁとか、少し妄想するぐらいは許されてもいいかなとは思う。そのぐらいいいじゃないか。少しはがんばったのだから。

そもそも『我本』はまるっきりのノンフィクションというわけでもなく、実際の出来事を元にはしているが、登場する個人や企業は実在のものとは関係がないし、大いに脚色もしている。「取次」のパートに至ってはまったくのSFであったわけで、こりゃあかん。勝てば官軍ではあったが、敗者には敗者なりの敗因がしっかりとあるのだ。あとは、主人公の名前が「ユニクロ」なのも商標的にはまずかったかもしれない。あとで「ユトリロ」ぐらいに改変しておこう。

とはいえ、勢いにまかせて10万字も書いてしまったので、このまま終わらせるのはもったいない。せっかく中編出版小説が書きあがったことだし、大いに活用していきたいと思う。人目を憚らず本音だけ言うと、獲りそこねた20万円をどこかで取り戻さなければならーぬ。

最近はウェブ公開と出版を並行するケースが増えている。タダで読めるものをわざわざ他で売るという、今までは考えにくかったビジネスモデルが成立してきているという話を聞いた。

現在ヒット中の『リゼロ』こと『Re:ゼロから始める異世界生活』がそうだ。メジャータイトルとしてカドカワから発売され、アニメ化もされたというのに、元の「小説家になろう」でのウェブ公開はそのまま継続されている。しかも今後も削除の予定はないと作者が公言しているのだ。もちろん書籍化にあたっては編集部の手が入って加筆修正もされているわけではあるが、一般にはメジャーにいくと無料公開は取りやめるのが通例であったので、これは新しい動きであると言えるだろう。

また、先日の東京国際ブックフェアのボイジャーブースでの講演で漫画家の佐藤秀峰氏が言っていた「海賊版が増えても、正規版の売り上げには影響がなかった」という言葉に依れば、ウェブ公開で無料で読む人と、電子書籍を買って読む人と、書店で本を買って読む人は、それぞれほとんど重なっていないのではないかとも考えられる。もちろん境界線にいるような人らはタダならタダの方がいいのだろうが、そうでない人の方が十分に多いのだろう。それを証明するためにも実験してみたいと思う。

ひとまず、BCCKSの機能を使って電子書籍として出してみよう。

価格は作品のボリュームを鑑みて、500円(税別)としよう。電子書籍の傾向としては安い価格設定ではないが、これなら1冊350円の著者印税なのでわずか571冊売れるだけで、20万円のもらいそびれた賞金を補填することが可能だ。俺にとっては決して悪い話ではない。

セルフパブリッシングとしては、最近まで文フリで活動していた方から、すでにKDPでの出版代行を打診されているので、これには応じたいと思う。彼の費用もちで印刷物も作ってくれると言うことなので。これはむしろありがたい。ただ、この約束は印税が発生しないものなので独占まではさせてあげられない。あくまで実験としての契約になるだろう。KDP以外のストアはBCCKSのマルチストアで出すことになると思われる。

BCCKSでの取り扱いがないストアに関しては、おつきあいのある他の方の協力を仰ぐ可能性もある。EPUB文書ができ上がった時点でいくつか販路を増やしたい。

今すぐできる試みとしてはこのぐらいだろうか。

いや、待てよ。

カクヨム編集部からは売れる本として評価されることはなかったが、他の選定基準であれば選ばれる可能性が少しはあるのかもしれない。

いずこかの出版社から初版2000部以上10%印税のオファーがあれば、前向きに話を聞いてもいいのではないだろうか。

あるいは、出版社を探してきたら5%よこせとか言うありがたい話が舞い込んだ場合には、その人が初版4000部以上10%印税という条件をいずこかの出版社から引っ張ってこられたなら、仲良く山分けにしていいとも思う。

その他興味深い提案があった場合には話を聞いてもいいのではないだろうか。いや大いに聞くべきである。聞きます。


以下宣伝。

波野發作『我輩は本である 〜白紙が紙くずになるまで〜』
Print

BCCKS版(E-PUB版同時発売) 540円(税込)

というわけで、本稿の公開と同時にBCCKSにて先行発売しました。全体に加筆修正など施しております。他のストアについてはオイオイ追加になっていくと思いますので、そちらをご希望される方はしばらくそのままでお待ちください。

また、無料でお読みになりたい方には、引き続きカクヨムでの掲載を継続しておりますので、こちらをご覧ください。こちらは応募当時のままで公開しております。

オンライン版はまだ読めます。

我輩は本である ~白紙が紙くずになるまで~

南阿蘇村の駅舎の本屋さん「ひなた文庫」訪問記

2016年10月18日
posted by 和氣正幸

「ひなた文庫」は熊本県南阿蘇村にある小さな本屋だ。中尾友治さんと竹下恵美さんの二人によって運営されている。「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」という日本一名前の長い、南阿蘇鉄道高森線の無人駅舎を店舗として使っていて、営業時間は週末のみ。平日は別の仕事をしているそうだ。

ひなた文庫遠景。

ひなた文庫遠景。

名前を聞いたことない人がほとんどだと思うが、ぼくも9月3日に下北沢の本屋B&Bで行われた「伽鹿舎とひなた文庫 九州で本を売るということ」というイベントで、その存在を初めて知った。九州でしか売らない本を出版している伽鹿舎という出版社とひなた文庫が、「九州で本を売るということ」について語るイベントだったのだが、出会ってまず驚いたのがその若さだ。二人とも20代らしい。本屋をはじめたい若者がジワジワと増えているのだろうか。

「出版業界の未来は厳しいけれど本の未来は明るい」と内沼晋太郎氏が『本の逆襲』に書いていたけれど、本当にそうなのかもしれないと嬉しくなってしまう。 面白い本屋を見つけたと浮かれながら話を聴いていると、9月の3連休にひなた文庫で宿泊イベントがあるというので、勢いで「参加します!」と約束してしまった。これが九州縦断弾丸ツアーの始まりだった。

9月17日。前日発の夜行バスに乗って福岡に到着し、ひととおり本屋をめぐったあと、熊本に着いたのが夜の11時。翌日は5時起きで早朝から始まる藤崎宮例大祭を見物後、伽鹿舎の加地さんと合流して熊本市内の本屋めぐりをした。

熊本といえば今年の4月に起きた地震の影響が気になる。聞いてみると、見た目は問題なさそうに見えるが、まだ人が入れない建物も多いようで、やはり影響はまだまだ残っているとのこと。たとえば河童の像で有名な「金龍堂まるぶん店」や「長崎次郎書店」の2階カフェ部分、「橙書店/orange」の書店スペースは地震の影響により閉鎖されてしまっていた。だが、考えてみればまだ地震から半年ほどしか経っていないのだ。そんな中で年に一度のお祭を盛り上げようと多くの人が参加している。熊本市民の芯の強さみたいなものを感じた。

 地震の影響で閉鎖されてしまった金龍堂まるぶん店。シャッターにはお客様からの応援の声が貼られている。

地震の影響で閉鎖されてしまった金龍堂まるぶん店。シャッターにはお客様からの応援の声が貼られている。

長崎次郎書店。1階の書店スペースは開店しているが2階のカフェ部分は地震の影響で休業中である。

長崎次郎書店。1階の書店スペースは開店しているが2階のカフェ部分は地震の影響で休業中である。

時刻は夕方。いよいよ、ひなた文庫に向かおう。

熊本市内からひなた文庫まで車で1時間ちょっとだ。阿蘇の方まで来ると地震の影響は未だ色濃く残っているのがわかる。通れない道。崩れた家。観光客として訪れるぶんにはいいが、生活している方々はまだまだ大変だろう。そんな景色をしばらく進むと見えてきた。かわいらしい木製の無人駅がひなた文庫だ。

遠くに見える阿蘇の山々。聞こえる虫の声。満天の星空。八角形の駅舎の中には本棚の数はそれほど多くない。だが、並べられた本は宇宙の本や自然の本、文学などこの場所だから読みたい・選びたい本ばかりだ。本棚のほかには宿泊イベントのために用意されたドリンクとなんと自作の即席テント風ベッド。聞いてみると水道も自作らしい。「ものづくり」はこのあとでひなた文庫の二人に聞いた話でもキーワードになってくる。

 夜のひなた文庫。

夜のひなた文庫。

何かを始めるキッカケになるような本屋にしたい

約束していたとはいえ、東京からわざわざ来たのには理由がある。出版業界がこれだけ厳しいと言われている状況で、かつ、都会でもない場所でどうして本屋を始めようとしたのかを聴きたかったのだ。熊本地震の影響も気になる。もっとゆっくり、二人に話を聴きたいと思った。東京でのイベントで写真を見せてもらったこの店は、どんな雰囲気なのか、どんな空気感なのか、実際に自分の身をひなた文庫に置いて感じてみたかった。

まず、二人に聴いたのはそもそもなぜ本屋をやろうと思ったのか? ということだ。

なにより不思議だったのは、中尾さんの活動理由である。竹下さんのほうは学生時代から書店員として働いており、就職先も出版営業。家業(本屋とは別)を継ぐことになった中尾さんについて南阿蘇に行ったが、本にずっと携わっていきたい気持ちがあったということだし、厳しい状況ながらも自分で本屋をやろうと思う気持ちは理解できる。根っからの本好きなのだ。

だが、中尾さんの話を聴いていると、根っからの本好きとも少し違う気がする。家業もあるのだから、わざわざ本屋をやる必要なんてない。ひなた文庫は、本好きの竹下さんだけでやっていてもおかしくないように思えるのだ。ところが、中尾さんは積極的にひなた文庫に参加し、イベントの企画をするのはもっぱら彼なのだという。なぜなのか。

中尾さんはこう言う。「本はかけがえのないものだと思うからです。」

中尾:南阿蘇村には気軽に行ける本屋がなかったこともあり、自分自身、大学に入るまで本をそんなに読んでいませんでした。いまでも本好きというほど読んでいるわけではありません。ですが、本を読まない生活より、読む生活のほうが絶対に面白いと思うんです。

というのも、自分は「ものづくりをする人」だと思っています。ものづくりにはアイデアが必要ですが、そのアイデアはゼロからは生まれない。必ず何かと何かの組み合わせで生まれる。いろいろな知識が詰まっている本という存在は、アイデアを生むためにかけがえのないものなんです。

本に囲まれた空間って、アイデアが生まれやすいじゃないですか。南阿蘇村にもそういった場所をつくりたくて、ひなた文庫を始めることにしました。続けていく中で、来てくださったお客様が何かを始めようと思うキッカケになれればと思っています。

ひなた文庫と出会ったことがキッカケで、自家用車を使って移動本屋「310ブックス」という活動をはじめた方がいる。本屋をやりたいと思っていたときにひなた文庫に来店。情報交換をしているうちに移動本屋を開くことにしたそうだ。

とはいえ、移動本屋とひなた文庫のような実店舗では何もかもが違うだろう。「やる」と思ってもすぐにできるわけではない。中尾さんたちの場合、キッカケは何だったのだろうか?

中尾:家業を継ぐために南阿蘇に帰ることになり、恵美もついてくるとなったときに、本に携わる何かをやろうとは決めていました。そんなときに南阿蘇鉄道の駅舎が格安で借りられることを知りました。そこで、すぐに企画書をつくって持ち込んだところ、運良くすぐにOKをもらうことができ、そこからはトントン拍子でした。開店したのは2015年5月から。平日は実家の仕事があるので、おもに週末に開店しています。

選書はどうしているのか?

中尾:開店当初は自分たちの蔵書が半分、開店が決まってから揃えた本が半分でした。開店後はお客様が寄贈してくださることも増えましたが、主にせどりで仕入れています。ごくふつうの「町の本屋」でもありたいと思っているので、ジャンルが偏らないよう、南阿蘇に旅行に来て立ち寄ってくださった方が帰り道に読んでくれそうな旅やエッセイ、熊本についての本に加え、地域のお客様のための本も揃えています。

本を買ってくださるのは旅行で来てくださった方が多いので、そこで得た売上で地域のお客様のための本を仕入れる、というスタイルでやっています。ひなた文庫の目標の一つは、“いまはまだ小さい子供たちが、自分で本屋に来られるようになるまでは続けたい”。自分たちがそれまで長く続けられるためのスタイルをさぐるうち、いまのようなかたちになりました。

 本棚の一部。雑誌、本の本、文学、エッセイ、色の本と幅広い品揃えだ。

本棚の一部。雑誌、本の本、文学、エッセイ、色の本と幅広い品揃えだ。

今年の4月に熊本では大きな地震があったが、震源に近いひなた文庫は大丈夫だったのだろうか?

中尾:地震の影響で、南阿蘇鉄道がひなた文庫のある駅まで来られなくなりました(10月18日現在も断線中)。地震の直後は、橋が落ちてしまったので村から出られず、お店を開くこともできませんでした。生活には困りませんでしたが、何もしないでいると落ち着かない。早く日常のサイクルに戻したいと思って、一週間後には、家業をしている商店の駐車場の空きスペースで、ひなた文庫を再開しました。雨風もしのげない小さな店舗ですが、嬉しいことに、駅舎に来ていただいていたお客様が、閉めてしまうのではないかと心配して、わざわざ仮店舗に来てくれたんですね。これには気が引き締まりました。

実は、開店から1年近く経ち、マンネリというわけではないですが、良くも悪くも慣れてきてしまっていた時期だったんです。それに、もともと駅自体がかなり有名なこともあり、ひなた文庫自体を目あてに訪れるお客様がどれだけいるのかも、よく分からなかった。そんなときに地震が起きて、自分たちも大変なのに、店のことを心配してくださるお客様がたくさんいたんです。自分たちがやってきたことが、考えていた以上に、南阿蘇村の人たちにとってかけがえのないものなのだと実感しました。

駅舎での開店はしばらくできなさそうだったので、求めてくれるお客様がいるなら、と駐車場の仮店舗をパワーアップ。手作りで小屋をつくって雨風をしのげるようにしたんです。このときには同じ熊本在住のアーティスト、坂口恭平氏による「0円ハウス」の発想に背中を押されました。本にとって雨風は大敵です。でも、店舗を借りるのは難しい。なら作っちゃえばいいじゃんって (笑)。

ひなた文庫の小屋。取材当時は台風が上陸していたため厳重に保管されていた。

ひなた文庫の小屋。取材当時は台風が上陸していたため厳重に保管されていた。

ものづくりへのフットワークの軽さに驚いた。ぼくが同じ状況だったら「どこか空き家がないか?」とか「軒先でやらせてもらえないか」とかを考えてしまうだろうに、小屋とはいえ、まさか自分で作ってしまうとは。こういった身軽さは、お店の場所が駅舎に戻ってからも発揮されている。簡単な造りだが、手作りのベッドや水道も自分たちでどんどん作ってしまうところは、ぼくにはとても真似できない。

南阿蘇村に移住する人が増えてほしい

左から、真ん中の絵をライブペインティングしてくれた手嶋勇気さん、ひなた文庫の竹下恵美さん・中尾友治さん。

左から、真ん中の絵をライブペインティングしてくれた手嶋勇気さん、ひなた文庫の竹下恵美さん・中尾友治さん。

ぼくたちが訪れた9月18日には、駅舎での開店も不定期ながら復活していた。宿泊イベントの当日は、地域のお客様やコーディネートしてくださった伽鹿舎・加地さん(とそのメンバー)、東京から同行した知人らと手作りのベッドに座って、夜遅くまで語り明かした(ぼくが寝てしまった後も、残りの皆は朝方まで話し込んでいたらしい)。

ひなた文庫の目標は、「ひなた文庫がキッカケになって南阿蘇村に移住する人ができること」だそうだ。これを聞いて、この目標は近いうちに達成されるに違いない、と素直に思った。なにせ「また訪れたい」と、この村にはじめて来たぼくが思っているのだから。

ひなた文庫は、11月までは不定期営業。12月から第2、第4金曜日の営業となる。秋の夜長に静かに読書したり、語らったり、手作りベッドでウトウトしたり。贅沢な時間を過ごすのにこんなに良い場所はない。きっとかけがえのない時間を得ることができるはずなので、ぜひ訪れてみてほしい。

最後に。この記事の前半部で「出版業界の未来は厳しいけれど本の未来は明るい」という言葉を、内沼晋太郎氏の『本の逆襲』から引用した。ここまで書いてきて、あらためて本の未来は明るいとぼくは思い直している。ひなた文庫だけであれば、「そういう人もいる」という一例に過ぎない。だが、彼らに影響を受けて行動を起こした310ブックスがいる。ひなた文庫は少なくとも一つは本の活動を広めたのだ。

こうした動きが積もり積もって、10年後には、もしかしたら南阿蘇村が「本の村」になっているかもしれない。ここ南阿蘇村に、ひなた文庫という本屋がある。そのことにぼくは希望を感じずにはいられないのである。

ひなた文庫
http://www.hinatabunko.jp/

いま「翻訳出版の危機」はどこにあるか?

2016年10月7日
posted by 大原ケイ

9月24日、「翻訳出版の危機」というただならぬ見出しに、慌てて読んでみたコラム。未来社社長の西谷能英氏が「出版文化再生」と題したブログで書いたもので、「未来」2016年秋号に「出版文化再生26」として掲載予定だという。

折しもこの時期、再出発を狙ったという「東京国際ブックフェア」が開催されていた。だが今年は完全に「一般消費者向け」のイベント化しており、翻訳権売買に関わる者としては完全に締め出されたような思いもあった。なので、このブログ記事もブックフェアのあり方を問う内容かと思ったら…。そこにはこんなことが書いてあったので、かなり驚いたのだった。

ここ最近のことだが、人文系専門書の翻訳出版において、原書にはない訳者解説、訳者あとがきなどの収録にたいして原出版社側ないし原著作権者側から(あらかじめ版権契約の段階で)厳しい制約が課されるようになってきたことであり、そうした文書を付加する場合には事前にその内容、分量、そうした文書を付加する理由書を原出版社に提示し、著作権者の許諾を得なければならず、しかも通常はよほどのことがなければ、承諾を得られないだろうというのである。かれらからすれば、日本語で書かれたその種の文書はそもそも判読が困難であり、場合によっては原書の内容を損なうものになりかねない、というのがその理由のようである。(西谷能英「出版再生」ブログ、「「翻訳出版の危機」より)

以前から日本国内での紙書籍・雑誌の売り上げ低迷にいちいち文化論を振りかざし、「本が死ぬ」だの「出版の危機」だのと煽る「文化人」の方々の論調には辟易しているのだが、西谷氏のブログ記事からも、かなり一方的で短絡的な議論であるような印象を受けた。もちろん私個人の視点はどうしても欧米の出版社の立場に寄り添ったものになりがちなのは重々承知で、もう少し掘り下げてこの問題を考えてみたい。

未来社社長の西谷能英氏が、「翻訳出版の危機」と題して公開したブログ記事。PR誌「未来」2016年秋号にも掲載の予定という。

国際市場における日本の存在感の低下

欧米諸国の出版社にとって、とくに人文系翻訳書の分野において、長らく日本の出版社は優良なクライアントであり続けてきた。明治維新後、あらゆる知識を国外から取り入れようと、貪欲に翻訳出版に尽力してきた出版関係の先駆者に対し、感謝と賛辞を惜しむ気は毛頭ない。加えて、日本の高い識字率、勤勉さ、律儀さといった美質を欧米の出版社が評価してこなかったとは思えない。

日本では翻訳者が単なる言語のプロに留まらず、その本の専門分野の権威ある学者である場合も多く、訳者によるあとがきや解説が、翻訳書の売れ行きを左右する重要な要素となっていることは否めない。だが残念なことに、この20年間に渡る経済的低迷によって、優良クライアントとしての日本の座は揺らいでいる。人文書の分野に限らず、翻訳書の刊行点数が減り、初版部数が減り、翻訳者の印税率が減り、このビジネスに関わる誰もが辛い状況に立たされていることは想像に難くない。

その間、日本に代わって台頭してきたアジアの翻訳権輸入国の代表といえば、もちろん中国と韓国だ。どちらも政府が全面的に出版事業をバックアップして、有益と思える翻訳書の版権を買い漁り、あらゆる分野で次々と本を刊行している。私が5〜10年前に「ブックスカウト」(海外の著書の中から日本市場でも売れそうなものを早い時期に探し出す仕事)をしていた頃でさえ、両国の翻訳出版への貪欲さには驚かされたものだ。

中国では本の平均単価が日本の10分の1だし、韓国は人口が日本の半分しかないにも関わらず、この二つの国が欧米の出版社からの翻訳書に提示してくるアドバンス(印税の前払い金、どれだけその本の権利を欲しているか、コミットしているかを示す)額は、日本のそれを上回ることも多かった。日本の出版社から刊行される本に対しても、最近はめぼしいタイトルについては必ずと言っていいほど、韓国、台湾、中国から翻訳出版のオファーがある。日本の人文系出版社も、少なからずその恩恵を受けているはずだ。

欧米出版社が強硬な態度をとる理由

ただしこの両国の一部の出版社は、自国の威信高揚のために都合の悪い部分を捻じ曲げるという、歴史修正主義ともいうべきマイナスの側面をも抱えている。日本のように長い時間をかけて翻訳文化を築いてきた歴史を持たず、自由な出版が許されるようになってからの歳月が浅いため、その綻びがこうしたところに表れていると言えるかもしれない。

具体例を挙げよう。いちばん広く知られた一般書の案件でいえば、2003年にサイモン&シュスターから刊行されたヒラリー・クリントンの自伝、「Living History」(日本語版は『リビング・ヒストリー』早川書房、2004)が中国でもベストセラーとなったことがあった。日本を始めとするアジア各国に外遊し、対中関係をはじめアジアを重視する「Pivot to Asia」と呼ばれたオバマ政権の姿勢をハッキリさせた、国務長官としての彼女の初仕事を覚えている人も多いだろう。その頃の心情なども赤裸々に綴られ、外交の舞台裏やアメリカの外交政策の内情も知ることのできる秀逸なノンフィクションだった。

ところがこの本の中国語版には、大きな問題があった。1989年の天安門事件に関する記述や、獄中で20年近くも強制労働をさせられた後、アメリカ市民権を獲得し、今年4月に亡くなった中国出身の公民権活動家、ハリー・ウー(呉弘達)に言及した約10箇所が、削除されたり、変えられたりしていたことがのちに明るみに出たのである。

中国語版を刊行した訳林出版社は、「より多くの読者を獲得するために、ごく一部を、表面的に変更した」、「(海賊版の氾濫を防ぐため)急いで刊行したので、事前に変更を伝えられなかった」と釈明した。さすがにこれには、当のクリントン国務長官も驚きを隠せず、「落胆した」とコメントを出した。版元サイモン&シュスターは中国側の出版社である訳林出版社に、これが「契約違反」であることを伝え、削除された部分をウェブで読めるよう、英語と中国語でアップロードする事態に発展した(現在は非公開)。

韓国でも昨年、ノーベル経済学賞受賞者のアンガス・ディートン米プリンストン大学教授の著書「The Great Escape」(日本語訳は『大脱出:健康、お金、格差の起原』)の韓国語版に、勝手に原文が変えられたり、削除されている箇所があるとして、翻訳書の版元であるハンギョンPB社が、原著の出版社から販売中止と再出版を要求される事件があった。この本の韓国語版では、著者の序文部分も勝手に短くされており、翻訳監修を担当した自由経済院の院長が書いたものに差し替えられていたという。

こうした背景があるために、欧米の出版社にしてみれば、送られてきた翻訳書の見本を見たら、原著より大幅に本文が短かかったり、何やらオリジナルにないものが足されていたりするうえに、その内容がまったく理解できない状態というのは、きわめて大きな不安材料なのである。

アジア圏の言語への翻訳書のクオリティ・チェックに関しては、これまで欧米の出版社はお手上げ状態だった。チェックをしたくてもできなかったので、やむなく放置してきた部分もあるだろう。しかし、翻訳権を海外の出版社に売る場合、著者が出版社に対しauthor’s best interest(著者にとっての最善を尽くす)義務を課す一文が必ず出版契約書に含まれている。出版社としても、契約外の勝手な削除や加筆を放置することは許されない。

「日本の特殊性」という議論は通用しない

西谷氏の言うような、「近代日本文化形成の特殊性」を振りかざした「日本だけは特別」という議論は通じないどころか、日本の出版物だけを特例扱いすれば、それは他のアジア諸国に対する差別とみなされかねない。もし、日本の出版社がこれまでと同じように、訳者による解説やあとがきを加えたかたちで翻訳書を作りたいのであれば、「こういう内容の文章を付け加えたいのだ」と、原著の版元に堂々と主張すればいいだけの話である。彼らが求めているのは「説明責任」なのであって、日本の出版慣習を変えろと一方的に要求しているわけではない。

もし、そうした「説明」ができないとしたら、それは外国語から日本語への一方的な翻訳だけに力を注ぎ、日本の出版のあり方や、それを出版文化と呼ぶだけの根拠を示してこなかった、日本の出版社の落ち度だろう。結局のところ、いままでは「お目こぼし」で許されていたことが、出版におけるグローバル化の進展によって、もはや許されなくなっただけのことなのだ。欧米の出版社がこれまで以上にアジア圏への翻訳に関心を持ち、その内容を理解しようとするからこその措置なのである。

西谷氏は、

また出版の条件として、刊行間際にならないと提出しづらい本文訳文や装幀プランの提出、付加文書の内容説明ないしその訳文提出も課され、それらの点検をするために二週間から一か月ぐらいの待機時間を必要とするとなると、出版社も刊行予定が立てにくくなってしまい、そこまでするのなら面倒な翻訳書出版を断念してしまう方向に傾いてしまいかねない。(同前)

とも書いているが、その程度のことで断念してしまうのだとしたら、なんとも情けない。それよりも、もし、本当に訳者あとがきや解説が翻訳版に付けられない事態が起こっているのなら、副読本や、電子書籍を利用してそれらを補足するのはどうだろうか? 人文書の読者の中には、本文は原書で読み、解説だけを別途に入手したい者もいるだろう。こうすれば、訳者による解説を先に読んで、本文は原語のまま読むか、翻訳版を待つかを判断することもできる。

訳者解説のようなものは思い切って電子化し、オンデマンドで印刷もできる環境を整えれば、原書の版元も納得するにちがいない。それさえもできないほど旧態依然としたままでは、翻訳出版が停滞するのも当たり前である。人文系出版社の奮起を期待したい。