ノンフィクション作家はネットで食えるか?

2017年2月15日
posted by 渋井哲也

ノンフィクションの書き手が発表する場(雑誌)が少なくなっているのは、今に始まったことではない。書くメディアの確保とともに、どのように調査・取材のための資金を調達するのかが課題になっている。

この10年近く、少年犯罪や犯罪被害者遺族の取材を中心に取材、執筆を重ねているノンフィクションライターの藤井誠二さんの場合、どのような模索や葛藤があるのか、お話をうかがった。

藤井誠二さんの場合〜有料メルマガをはじめた理由

2016年はテレビ情報誌「テレビぴあ」(ウィルメディア)、情報誌「クーリエ・ジャポン」(講談社)、30代の女性向けファッション誌「AneCan」(小学館)、「小学二年生」(小学館)などが休刊した。一方、新しい雑誌が誕生したという目立ったニュースはなかった。現在は、原稿料をどう得るのかだけでなく、取材費の確保も書き手自身の課題となってくる。以前よりもマネタイズ、マネージメントへの関心が出てきている。

取材に応じてくれたノンフィクション作家の藤井誠二さん。

有料メルマガは、収入を得るための選択肢の一つだ。藤井さんが有料メルマガをはじめたのは、2010年7月のこと。タイトルは「事件の放物線」(14年からは「The interviews High」と改名)。価格は月2回の配信で540円。配信会社は「フーミー(foomii)」だった。有料メルマガをはじめた経緯について、藤井さんはこう話してくれた。

藤井:もっと以前から(有料メルマガを)出そうと言われていたんです。でも、当時は大阪でテレビのコメンテーターの仕事があったり、東京でもラジオのパーソナリティの仕事もあり、書く仕事以外にも複数の仕事を抱えていましたので、メルマガを書いている時間もありませんでした。しかも、当初は「週刊で」と言われていたので、とても無理でした。ただ、単行本のベースになればいいと思って、発行することにしたのです。

書きためたものが単行本のベースになればいい。それは、どんなフリーのライターでも一度は考えることだ。藤井さんのメルマガは、それを意識した内容を配信していた。

第一回から本格的な内容(「死刑という罰の『手触り』 第一回 大阪姉妹殺人放火事件の遺族」)が掲載されていたことからも、藤井さんのメルマガへの意気込みがよくわかる。この内容が象徴するように、特に遺族の視点にこだわった事件物の記事を配信していたのである。また、藤井さんはパニック障害の当事者でもある。2011年7月25日に配信された「わがパニック障害記…ぼくにとって『パニック障害』とはなんなのだろう」では、自らの体験を赤裸々に書いている。

ニコ生、ヤフー個人にも参戦。発信の場が広がる

藤井さんはそもそも、自分から積極的にネットで配信しようとは思っていたわけではない。メルマガを始めたのも、たまたまフーミーのスタッフが熱心に声をかけ続けてくれたためだ、と言う。しかしこれをきっかけに、ネットで発信していく機会が他にも生まれた。ドワンゴが運営するニコニコ生放送内で、「ニコ生ノンフィクション論」という番組の司会と企画を担当することになったのだ。この放送は毎月第4水曜日だった。

第一回は2010年10月18日放送の「被差別部落を行く」 。『日本の路地を旅する』(文藝春秋)で大宅賞を受賞したノンフィクション作家の上原善広さんらを招いて、「取材魂」をインタビューしていた。私もこの番組に出させてもらったことがある。11年10月26日放送の「若者自殺大国・ニッポン」だ。このときは『リストカットシンドローム』(ワニブックス)の著者・ロブ@大月さんとともに、若者が自殺したがる背景を語り合った。

こうした取り組みを考えると、2010年頃の藤井さんはネットでの発信の場が少ないほうではなかった。その後、「Yahoo!ニュース個人」でも13年3月から配信を始めている。ここでも最初のころは、絶版になった『暴力の学校 倒錯の街――福岡近畿大付属女子高校殺人事件――』(雲母書房、1998年11月)を連載という形で公開していた。こうしたことを考えると、藤井さんは、ネットの発信の場としては、恵まれた場所を得ていたと思われる。

「発行ペースが守れない」と、有料メルマガをやめる

一方、これまで独自のニュース番組を製作してきたドワンゴが、その方針を見直す動きが出てきた。2011年12月、藤井さんの「ニコ生ノンフィクション論」も放送が終わってしまった。内にある動機とは別のところで、藤井さんは発信の場を失うことになった。

フーミーでの配信も、順調に続いていたように思えたが、そうではなかった。実は、藤井さん一人でメルマガを作っていたわけではなかった。配信記事はインタビューをもとにしたものが多いが、そのインタビューの文字起こしは“外注”していたのだった。

藤井:大学で非常勤で教えているのですが、インタビューの起こしのために、卒業生を2、3人雇っていたんです。単発のアルバイトとして頼んでいました。長さにもよりますが、一回で5千円から1万円を支払いました。

しかし、メルマガの会員は100人前後で頭打ちとなり、減りもしなければ、増えもしなかった。月数万円の収益のうち、その半分近くをインタビューの起こしに使っていることになる。これでは、メルマガを、仕事の主力として考えるわけにはいかない。生活のために他の仕事を優先しなければならなくなった。

藤井:そうしているうちに、発行のペースを守れなくなったんです。本当はもっと早くやめる決断もありえたのですが、少数でも応援をし続けてくれた方々への恩義もありましたし、他の仕事をやりながら、メルマガにどれぐらい労力や時間を割けば、細々ではあるけれど、もっと継続していけるのかを自分なりに実験しているうちに時間が経っていったという面もありました。

その結果、藤井さんは有料メルマガを2016年7月にやめることになった。最後の配信は16年7月28日配信号(「『裁かれなかった罪と、罰・漫画喫茶従業員はなぜ死んだのか』取材ノート その4」)。当時、月刊誌「潮」で連載していた記事について書いているものだった。

クラウドファンディングで取材費を集める

それでも他のノンフィクション作家に比べると、藤井さんはネットを使っての仕事に積極的に絡んでいるように見える。2016年4月には、沖縄の消えた買春街を追ったノンフィクション本をつくるため、クラウドファンディングのサービス「キャンプファイヤー」をつかって取材費を集めた(「沖縄アンダーグラウンド」戦後70年続いた買春街はなぜ消えたか」)。目標額は30万円だったが、1ヶ月弱で約51万円(パトロン数112人)が集まった。

クラウドファンディングでの出資は目標額を上回った。

出資を募るノンフィクション作品の一部はネット上で公開された

これは、もともと藤井さん個人の企画ではなく、講談社の編集者が留学していたニューヨーク市立大学ジャーナリズムスクールでの実験企画として行われたものだ。この試みは、欧米で行われるようになったジャーナリズムに特化したクラウドファンディングを、日本で導入する場合の課題を探るものだった。

藤井:最初からの取材経費と見れば、この額では赤字です。ただ、このときは追加取材の費用の捻出でしたので、その意味ではよかったです。

今後、こうしたクラウドファンディングによるジャーナリズム支援はうまく行くのか。藤井さんはこう見ているという。

藤井:資金を出していただいた方と交流会を持ったりするなど、書き手と読者が水平で付き合っていくということも実感したし、事前にテーマに関心がある多くの方々に原稿を章ごとに送って読んでもらいながら一冊に仕上げていくという方法論を取りましたから、作品の持つポテンシャルが出版前にかなりわかった。事前に批評が聞けるわけですから、かなり貴重な体験でしたね。

どういうものに(資金が)集まるのかは、企画によるのではないでしょうか。おそらく、書き手の知名度に頼るだけではキビしいでしょう。私の企画の募集した時期には、元海兵隊員が沖縄で女性を強姦し、殺害した事件がありました。こうしたタイミングもあり、私のテーマへの関心が高まった時期でもありました。

2016年4月、沖縄県うるま市で、強姦殺人事件が起きた。ウォーキング中の女性(当時20歳)が棒で殴られ、首を締められ、刃物で刺されるなどして殺害されていたのが見つかったのだ。容疑者は14年まで海兵隊に所属していた、沖縄の基地に駐留経験のあるアメリカ人だった。除隊後は、日本国籍の女性と結婚し、妻子がいた。この事件で、沖縄の米軍基地からの海兵隊の撤退を求める声が高まった。藤井さんがクラウドファンディングの募集を行ったのは、まさにこの時期だった。

ただし藤井さんは、クラウドファンディングによるジャーナリズムの可能性についても、楽観的には見ていない、という。

藤井:ネットだけで食べていけるのは無理でしょう。私自身、メルマガやクラウドファンディングを含めて、ネットを使って仕事をどのようにしていくかは模索中です。もし、これまでの形で有料メルマガを発行するとしたら、最低でも月10万円の収益はほしい。そのためには、300〜400人の会員、理想的には500人の会員は欲しいですね。ただ、個人でそれを実現していくには書き手によほどのカリスマ性や影響力がないといけないし、あるいはメルマガだけに集中するような仕事のスタイルをつくる必要があると思います。それができるのは一握りの書き手だけではないでしょうか。

藤井さんは当面、有料メルマガの発行は考えていないと言う。これほど実績のあるノンフィクション作家でさえ、メルマガ単独での運営は難しいのが現状なのだ。私も「私が有料メルマガ配信をやめた理由」で書いたが、個人の名前で運営されるメルマガは一部を除き、収益性から考えて、現状では維持できないと判断している。その意味で、藤井さんには同意するところが多い。

ライター経験が長く、書籍も多く出し、知名度もあるのに、メルマガ運営は難しい。ネットではやはり、固有の知名度と瞬発力が必須だ。時間がかかるノンフィクション作品中心ではユーザーを満足させられない。ましてや有料媒体は難しい。アーティストのファンクラブ会報のようにはいかない。ただ、個人を支援するのではなく、書き手が複数参加し、かつ編集に責任を持もつ体制を作れれば、可能性が広がるのではないかと思っている。

本屋とローカリティと切実さと

2017年2月1日
posted by 仲俣暁生

出版科学研究所の調査による「2016年出版物発行・販売概況」が『出版月報』1月号に掲載され、書籍市場・雑誌市場・電子出版市場(電子書籍、電子雑誌、電子コミックの三分野)の現況が明らかになった。

同調査によれば、2016年の書籍と雑誌(コミックスを含む)を併せた紙の出版物の販売金額は1兆4,709億円。うち書籍が7,370億円、雑誌が7,339億円とほぼ同程度ではあるが、僅差とはいえ書籍が雑誌を上回った。これは同調査では1975年以来、41年ぶりの出来事だという。

他方、電子出版市場は1,909億円まで成長し、紙と電子を併せた出版物販売金額は1兆6,618億円と前年比99.4%の微減となった。ことに成長著しい電子コミック(1,460億円、前年比27%増)、電子雑誌(191億円、前年比53%増)が牽引役となったかたちだ。しかし、マンガを除いた文字物の電子書籍は前年比13%増の258億円にとどまっており、このままでは来年以後、電子雑誌市場と逆転して「雑高書低」となる公算も高い。

「2016年出版物発行・販売概況」によると、同年の書籍の推定販売部数は6億1,769万冊と前年比1.4%減。「価格上昇の影響で金額よりも減少幅が大きく、前年に引き続き、文庫本の不振が響いた。文庫本は約6%減、3年連続の大幅マイナスとなり、市場の低落が目立つ」と報告されている。

雑誌・コミックスが電子出版物へと急速に移行し、安価かつ、事実上の「定期刊行物」であった紙の文庫市場が急速に減速するなかで、本の平均価格が上昇し、かつ単行本書籍においては電子化があまり進展していない。ようするに、単行本のような高価格の本は、基本的に紙で買う習慣が根強く存在しているということだろう。

替えがきかない「切実な本」を売る

そんな出版業界の片隅で健闘する、小さな新刊書店の経営者が綴った二冊の本が、先月にほぼ同じタイミングで刊行された。ソーシャルメディア上でも両者を併せて紹介する記事がいくつも見られたので、私もさっそく読んでみた。

一つは東京・荻窪で本屋Titleを経営する辻山良雄さんの『本屋、はじめました』(苦楽堂)、もう一つが福岡市でブックスキューブリックを経営する大井実さんの『ローカルブックストアである〜福岡ブックスキューブリック』(晶文社)だ。

このうち荻窪のTitleには、私自身なんどか足を運んだことがある。駅からやや離れた青梅街道沿いの、元は肉屋さんだった古い一戸建てを改装した、カフェスペースを含めても15坪程度の小さな「町の本屋」である。先日もここで行われたトークイベントに参加し、心地よい時間を過ごすことができた。日本中のローカルメディア(リトルプレスをはじめとするさまざまな地方の出版物)を手に取ることができる、貴重な場所でもある。

福岡のブックスキューブリックはまだ訪れたことはないが、「ブックオカ」という本の催しの話は以前からよく耳にしており、とても気になる本屋だった。実は2008年のブックオカには、私が当時、下北沢でつくっていたフリーペーパー「路字」を出展させていただいたご縁もあり、いつか行ってみたい本屋の筆頭だ。

二冊を読み比べて、いくつか気づいたことがある。まず、二つの本屋(ブックスキューブリックは現在「けやき通り店」のほかに「箱崎店」があるから、合わせれば三つ)はどれも、13坪から20坪という小さな本屋だ。カフェを併設していたり、ギャラリーがあったり、トークイベントなどを開催するといった点でもよく似ている。だが、これらは他の「町の本屋」でも行われているので、それだけなら特筆すべきことではない。

驚いたのは、このくらいの規模の本屋でも、本を売る大きな力があるということだ。昨年1月に開業したばかりのTitleで、10月までの10ヶ月の間にいちばん売れた本は若松英輔の『悲しみの秘義』(ナナロク社)で、のべ302冊を数えるという。この本をめぐっては、開店間もない時期に関連ギャラリーイベントが行われたという事情を加味しても、わずか15坪ほどの本屋としては立派な数字である。

一年弱の間に一つの本屋で300冊も売れたら、出版社としては御の字だろう。中堅出版社の出す単行本でも、初版1500部〜2000部というケースは昨今めずらしくない。その他、10ヶ月で100冊以上売った本が、さらに3タイトルあるという(気になる人は、ぜひこの本をお買い求め頂きたい)。

Titleではどういう本が売れるか。辻山さんはTwitterにこんな書き込みをしたことを、この本で明かしている(以下はそのツイート)。

実はほぼ同じことを、ブックスキューブリックの大井さんも著書のなかで語っている。「まちづくりの当事者として」というコラムのなかで、新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書)が「人文系の新書としては異例のヒットとなった背景」に、「実体験から発した『切実な』思い」があったことを指摘していた。こちらはブックスキューブリックで売れた本という文脈ではなかったが、「切実」という言葉のニュアンスは近いものがある。

本屋とは書き手にとっても読み手にとっても「切実な」本を受け渡す場である、という自己定義が、この二人に共通しているように私は感じた。

町のなかにあるローカリティ

ブックスキューブリックの大井さんは1961年生まれで50代半ば。2001年に同店を開業する以前に書店経験はない。一方、本屋Titleの辻山さんは1972年生まれ。大井さんのひとまわり下の40代半ばである。1997年にリブロに入社し、同社池袋本店の閉店時まで統括マネージャーを務めたベテランだが、書店員になった時点で出版業界のピークは過ぎていた。二人とも、本屋の「よき時代」をユーザー側としては経験しているが、書店員になってからは、厳しい時代だったといっていい。それでもなぜ、彼らは「本屋」でありつづけようとするのか。

そのヒントは、ローカリティにあると私は思う。どちらの店も東京と福岡という大都市にあるが、そのなかにある、より小さな「町のローカリティ」に根ざしているのだ。土着性の強い博多と、地縁の希薄な福岡は「別の国」である、と大井さんはいう。東京のなかでも中央線沿線、とくに西荻窪から三鷹にかけてのエリアには、本を大事にするような空気が街にある、と辻山さんはいう。考えてみれば当たり前のことだが、「都会」対「地方」という図式の中でこれは見失われがちな視点ではないか。

ローカルとは「地方」という意味ではなく、そこの場所でしかありえないということだ。以前にこのエディターズノートで、「ローカリティから生まれる声」という記事を書いたことがある。そのなかで私はこう書いた。

ローカルとは、具体的な足場のあるコミュニティのことだろう。地域コミュニティだけでなく、ひとつの企業や、ある地域の産業全体が(たとえば東京の「出版産業」がひとつのコミュニティであるように)、ローカリティを体現していることがある。物理的な「地域」を越えた関心(それは文化的なものである場合も、それ以外のこともあるだろう)が結びつけるコミュニティもあるだろう。そうしたコミュニティにも、一種のローカリティ(局所性)は宿っているはずだ。

いまならこの「局所性」という言葉を、思い切って「切実さ」と言い換えてもいいように思う。

こうした本屋とローカリティのつながりへの着目は、たんなる懐古趣味ではない。ITテクノロジーをもちいたローカルメディアの可能性は、影山裕樹さんの連載「ローカルメディアというフロンティアへ」の第5回で紹介されていた、山口情報芸術センターでの「データマイニング×ローカルメディア」というワークショップでも、その端緒を感じることができる。

また1月28〜29日には、取次大手の日販とデジタルハリウッドの共催による「新たな書店体験を提案するIoT ハッカソン」が開催されていた。このハッカソンは「モノのインターネット(LoT、Internet of Things)」と呼ばれる技術を利用し、書店という空間や本というメディアのもつ価値を多様化する試みを競うものだ。ハッカソンで生まれた優秀プロダクトは、文禄堂高円寺店・荻窪店及びパルコブックセンター吉祥寺店で実際に設置し、 ユーザーに提供するという。

このハッカソンの二日目の途中から選考会までを取材したが、書店と地域の関係に着目した企画もあり、各参加者のプレゼンテーションを大いに楽しんだ。選考結果はすでに明らかになっているが、こちらについては、別の記事であらためて報告したい。

多和田葉子さんインタビュー
〜ビルドゥングスロマンとしての〈ライター・イン・レジデンス〉

2017年1月26日
posted by 檀原照和

近年、アートイベントが盛んだ。都会でも村落部でも、それこそ日本中がアートで埋め尽くされてしまった感がある。それに伴い、イベントに招聘されたアーチストたちが現地で滞在しながら作品制作を行う「アーチスト・イン・レジデンスという制度の存在も、徐々に知れ渡ってきた。

このレジデンス制度だが、源流となったのは17世紀に始まったフランスの「ローマ賞」だと言われる。「ヴィラ・メディチ」と名を変えた同賞は、現在もつづいている(日本からも詩人・翻訳家の関口涼子さんが2013年〜14年にかけて参加している)。

日本のアーチスト・イン・レジデンスは「アートをつかったまちづくり」と呼応する形で広まってきた。そこで活躍するのは、いわゆるアートやパフォーマンスアートの作り手たちだ。

一方、欧州では参加アーチストのなかに小説家、詩人などいわゆる「物書き」とよばれる人たちの顔ぶれもある。日本では文学とアートは棲み分けされており、別の世界に属している。アートと文学が同居する空間は希だ。したがって「アートをつかったまちづくり」の場に、文学が関わる機会は非常に少ない。

ところが欧州では、日本に比べて文学とアートの垣根がずっと低いようだ。

文筆家が参加するレジデンスは、特に「ライター・イン・レジデンス」と呼ばれるが(*英語で「writer」は小説家、詩人、戯曲作家など主にフィクションの書き手を指す。日本語の「ライター」は article writer)、こうした作家たちのレジデンス制度には、どんな意味や意義があるのだろうか。

成人後ドイツに移住し、30年にわたって日本語とドイツ語で作家活動を行っている小説家・詩人の多和田葉子さんに、さいたまトリエンナーレ参加のための帰国時にお話を伺った。


(写真:檀原照和)

多和田葉子(たわだようこ)
小説家・詩人。1960年東京生まれ。ベルリン在住。早稻田大学第一文学部ロシア文学科を卒業後、渡独。ドイツの書籍取次会社に勤務しながら、ハンブルク大学大学院修士課程を修了。1987年、ドイツで出版した2か国語詩集『Nur da wo du bist da ist nichts:あなたのいるところだけ何もない』でデビュー。芥川賞、泉鏡花文学賞、伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞ほか受賞多数。2016年、ドイツ屈指の文学賞クライスト賞を日本人として初めて受賞した。

さいたまトリエンナーレに出品した多和田さんの作品の一部。会場にあるもの、会場から見えるものなどを作品の一部として利用した。

職人が放浪しながら腕を磨いていくという文化

――レジデンスについてまったく知らない一般の方に説明すると、「それはなんの役に立つの?」「面白いの?」などあまり必要性が理解されていないようです。ドイツではどうでしょうか?

多和田 元々ドイツには、職人が各地を転々としながら腕を磨いていくという伝統がありました。一所に居着くのは農民だけ。一つの町に落ち着いちゃダメなんです。煙突掃除人だっていろんな町に行ったんですね。

それからミンネジンガー(Minnesinger)という吟遊詩人みたいな文化もありましたから、文学者であっても職人であっても同じ町にずっといることはありませんでした。これは中世の話ですが現代また別の意味で移動する人が増えてますね。

ドイツの作家もいろいろな町を転々としている人が多いし、現在の作家であっても「何ヶ月かどこかに行ってみない?」と誘われたら、「行きます」と答える人が多いですね。

日本の場合を考えてみると、かつてほとんどの人が農民だったし、職人であっても移動の自由がなかった。江戸時代は藩の外に行けるのはお伊勢参りのときくらい。そういう時代が長かったので、移動はいけないみたいな雰囲気がある。もし東京の人に「北海道に三ヶ月行ってみたら?」と言ったって「え? それ何のために行くの?」とまず訊かれるし、受け入れる住民側にも「その人、私たちの県をもりたててくれるの?」と訊く人がいるのは、歴史のせいだと思います。

――ドイツには職人が放浪しながら腕を磨いていくというビルドゥングスロマン的な伝統があるので、作家が各地を転々とするレジデンス制度に懐疑的な声が上がることはないということですね。

多和田 いろいろな土地に行って人格ができていく。だからわざわざ動きながら働くのね。

日本で言えば、松尾芭蕉のような人は特別ですね。江戸という誰もが住みたいと思う所に住んでいたにも関わらず、「白川の関を越えないとダメなんだ」と考えて、東北に向かう。すばらしいですね。江戸に住んでいた作家が敢えて地方へ行くということは、それまでなかったかもしれません。京都や大阪に住んでいた人たちも、そのままそこで書きたかったでしょうし。地方の人が自分の土地を離れて東京にちょっと来る、ということならあったかも知れませんが。歴史的に日本だと難しい部分があったんでしょうね。

――確かに欧米と日本とでは、遠方からやって来た作り手に向ける眼差しに違いがあるようです。ヨーロッパではレジデンスの枠に囚われずアート好きなパトロンがアーチストを居候させることがあり、レジデンスの現場では「どこの誰を訪ねれば居場所を提供してくれるのか」という口コミ情報が伝わっていると聞きました。

多和田 ハンブルグに住んでいたときのことですが、文学センターの館長の女性がハンガリーの作家を泊めてあげていたことがありました。パトロンというと金持ちのようですが、普通の家に普通に泊めてあげていました。そして異性であっても泊めてあげて、別に面倒なことにならない。そういうところがいいなと思いました。これは広い意味で「客を温かくもてなす心(ガストフロイントリヒカイト(Gastfreundlichkeit))」なんでしょう。ドイツ人のいいところです。

難民を受け入れるのも同じ考え方で、「逃げてきた人は必ず泊めてあげなければいけない」という意識がある。アーチストは逃げてくるわけじゃないけど、遠方の人が滞在して文化が混ざるのは基本的にいいことだ、という歴史的記憶みたいなのがあるのかな。

アーチストや作家を当たり前のように受け入れる姿勢はドイツのみならず、他所の国でも見られる光景だという。ときにはまったく言葉が通じない外国の作家や詩人をホームステイさせてあげることさえあるそうだ。

日本語で詩作する中国の詩人・田原(でん げん、ティエン・ユアン)さんが多和田さんといっしょにデンマークの文学フェスティバルに呼ばれたとき、彼は病で言語障害から回復したばかりの中年女性の家にホームステイしたという(そのフェスティバルでは、作家はみんなボランティアの家にホームステイすることになっている)。田原さんは日本語が達者だが、英語はあまり話せない。しかし快活でお喋り。逆にその女性は本当は英語もドイツ語も流暢なのだが、充分に発話できる状態ではなかった。そんな二人が一つ屋根の下で過ごすうちに女性はどんどん元気になり、ホームステイは有意義なものになったという。

多和田 でも日本の小説家は「行きたくない」という人が多いですよ。国際交流基金の人が言っていたんですけど、カナダなどの国際文学祭の主催側が「日本からももっと作家に来て欲しい」と言っているにも関わらず、招待されても断わる人が多いという話も聞きました。

個人差はあるのかもしれないが、日本の作家は異世界との積極的な交流を避ける傾向があるようだ。

多和田 名古屋市立大学教授の土屋勝彦さんという人がいます。彼はオーストリア文学専門のドイツ語文学研究者で、これまでたくさんのオーストリア人を名古屋に呼んで長期滞在してもらっているんです。名古屋ですよ。京都みたいにおもしろいものを見学できる街ではなくて、一見私たちにとって日本の日常みたいな名古屋の街をみんな毎日散歩して、それぞれ独自の目で物干し竿とかお地蔵さんとか飲物の自動販売機とかを観察する。彼らはみんな名古屋への思い入れがあって、ウイーンに行くと名古屋の話で盛り上がります。

そもそも大学を通して呼んでいるということもありますが、直接住民の役に立つのかどうかということは問題にしていないという感じでした。ドイツ語学科がある限り、ドイツの作家が来ること自体に意味がありますから、大学主催のレジデンスは説明しやすいかもしれません。

逆に住民の役には立っていないのかもしれませんが、こんなことがありました。

ある女の子が「名古屋でおばさんたちが参加するブドウ狩りのバスツアーに参加した」って言うんです。日本語は全然分からないけど、みんながいろいろ教えてくれて「こんな楽しいことはなかった」と。

そういう変なところに突然変な人が現れて会話するだけでも、日本という滅多に外国人がいないところでは、素晴らしいことかも知れません。外国人排斥のネオナチ青年などには実際に外国人に触れたことのない人が多いそうですから。

過去に遡れば、ラフカディオ・ハーンが日本に来たことによって、英文学が得たものは少なくありませんでした。日本に来てくれる人は当時ほとんどいなかったのですから、日本側から見てももちろんハーンが来てくれたのは嬉しいですよね。でもただ来ただけでなく、文学と言うかたちでそれが残ったことが大切だと私は思います。

多和田さんがドイツに30年いること自体、ある意味レジデンスのようなものなのかもしれない。

およそ10箇所にのぼるというレジデンス場所をあげていくと、スイスのバーゼル、フランスのボルドー、トゥール、ソルボンヌ大学、それからロサンゼルスのパシフィックパリセーズ、コーネル大学、スタンフォード大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)、ケンタッキー大学、NYU(ニューヨーク大学)といったアメリカの大学などなど。そのほとんどがドイツ国外だ。お膝元のドイツにもレジデンス・プログラムは多いものの、自分の家にいた方が居心地がいいので、ドイツ国内のレジデンスにはあまり参加したくないという。

多和田 ドイツ人がドイツ国内のレジデンスに行くのは、家族がいて、その日常からちょっと離れて一人になって書いてみたいからなんですね。私には家族がいないので、別に行く必要がないんですよ。

それから生活費が出るところがあるんです。スイスの場合、とくに義務もないのにいるだけで月に30〜40万円くらい貰えるところもあります。それで行くという人もいます。

そんなわけで、多和田さんはレジデンスに招待されると「いるだけでお金が〜」「でも期間中ずっといないといけないし」「やっぱりベルリンから動きたくない」と、逡巡することがちょくちょくあるそうだ。

多和田さんがレジデンスしたのは、切手になるほど由緒あるヴァルスローデ修道院。その歴史は10世紀まで遡る(切手は西ドイツで1986 年に発行)。

レジデンスはなにかが来るのを待っているイメージ

多和田 昨日テレビを視ていたら『白い巨塔』の山崎豊子さんのことを取り上げていました。昔のことだから編集者を引き連れて取材旅行をがんがんしている。今日は誰々さんにインタビュー、明日は誰々さんにインタビュー、という具合にカレンダーにびっしり書いてある。

レジデンスなんてものはもうちょっとのんびりした作家が、「なにが書けるかな」みたいな感じで行くので、長編小説の計画をたててバンバン取材するような作家は「レジデンスなんてやってられないよ」って感じじゃないかな。

私のなかでは、レジデンスは1ヶ月よりももうちょっと長い間まさに名古屋みたいな場所にいて、せかせかするのではなく、普段の自分の忙しい執筆活動から解放されて、毎日なんとなく何が来るか待ってるみたいなイメージなんですよ。

例えばドイツのシュライハンのような田舎は、何にもない所ですよ。滞在した人の話では、自転車で1時間かけてスーパーに行って野菜を買って自炊していたけど、本当に不便でそれがなぜかよかったそうです。そういう所で面白かったのは、なにかを見るんじゃなくて自分の内部の活動だけで創作するっていうのかな。その場所について書くんじゃなくて……そういうのもあります。

――逆に『尼僧とキューピッドの弓』(2010年)を書いたときのように、修道院という戒律に縛られた施設に1ヶ月間レジデンスして書くというスタイルは、どうでしたか?

多和田 結構キツかったですよ。すごい緊張感のなかで過ごした1ヶ月でした。自由がないし、いつもあの人たちと喋っていると距離が近づいていって、苦しいんです。思わぬことで相手にショックを与えたり、してはいけないことをしてしまったり(笑)。でも自分を追い詰めることで書けたので、最終的には日常的な自分を突き放して笑って、やって良かったと思いました。私、そういう場所が結構好きなんですよ。

――日本ではまちおこしや地域振興の一環として行われているレジデンスですが、欧州ではどうなっているのでしょうか? 日本同様、ご当地を舞台にした作品を書くことが期待されているのでしょうか?

多和田 Non-Profit(非営利)というか利益のためにやるんじゃなくて、「(面倒な制約抜きで)ただ来て下さい」というのが主催する側の基本的な態度です。でも地方に行くと、町によっては「うちの町が出てくる小説を書いてくれたら嬉しいな」みたいなことをちょっとだけ匂わすという所もあるにはあります。ただ小説家を芸術家として招待するわけですから、「何をしても良い」ということは前提ですよね。バーゼルのような都会では、全然(書いてくれという要請は)なかったですね。

――地方によっては、そういう事例もあるんですね?

多和田 ありますよ。義務ではないですが、「でも出てこないですか……?」みたいなことはあるそうです。しかし強制しなくても「そこにいるとやっぱり書きたくなる」ということがあって、結果的には出てくるケースがあるようです。

――レジデンスでご当地小説が書かれた場合、根付くものですか?

多和田 修道院で書いたものはドイツ語で、それを元にして日本語で書いたんですけど、当の修道院では喜んだ人と怒った人に反応が割れて、ちょっとした騒動になったらしいんですね。「うわあ素晴らしい」と言って感激した尼さんが「ぜひ朗読会に来て、その本から朗読して欲しい」という連絡があったのに、なぜかその話がなくなって、反対した尼さんがいたそうです(笑)。

文学者としては、変わった人や意地悪な人のほうを詳しく描写したいじゃないですか。いい人や普通の人というのは最良の部分が隠れているだけで面白くないですよ。でも書かれた本人は不快感を持つこともあるので、難しいですよね。

ドイツで私と同じ出版社から本を出している作家がカナリア諸島のパルマ島に住んでいて、その島の話を書いたんですよ。フィクションなんですけど、「自分がモデルだ」と考えた人がたくさんいて、その作家の家に火が付けられてしまった。根付くどころじゃないですよね。それがテレビでニュースになって、結局その本が非常によく売れて炎上小説になった(笑)。

ライター・イン・レジデンスで、「土地のこと、人のことを書く前提で」というのは、おかしいですよね。作家の側が書きたければ書いてもいいですが、「とにかく来て欲しい。なにが起きるか分からないけど来て欲しい」というような心の広さと余裕が受け入れ側にないと。それで来て貰ってどうなるかな、というのがよいんじゃないでしょうか。

村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」が北海道のある町から猛抗議を受けた事件は多くの人が知るところだが、同じような事件がレジデンスの先進地域でも起こりうるようだ。

多和田 レジデンス事業を経済的な尺度だけで考えると、つづけられないんですよ。スイスにシュピーツ(*スイスの中央部ベルン州の町。トゥーン湖の畔にある。人口1万1千人。標高600m。ワイナリーを持つお城がある)という保守的な小さな町があるんですけど、そこには税金で賄われていたライター・イン・レジデンスがあったんですね。ところが「これは無駄ではないか」という人がいて、直接選挙をしたんですね。そうしたら「無駄だ」という人が多くて、結局レジデンスはなくなってしまいました。

その一方、小さな町でありながらレジデンス制度をつづけ、作家が来てくれるのを楽しみにしている例もある。

日本国内で言えば、城崎温泉の旅館の若旦那たちが仕掛ける「本と温泉」プロジェクトなどがこれに該当するだろう。「現地に行かないとレジデンスの成果物が買えない」というスタイルに多和田さんは、大いに感心していた。

今のところ日本国内には公募制のライター・イン・レジデンス制度はないと言っても過言ではなく、アートと結びついた形で指名制の民間プロジェクトが散発的に行われているだけだ。

多和田 ドイツのライター・イン・レジデンスは個人が始めて定着したんじゃなくて、お役所から始まっているから、つづけるのは簡単なんですよ。お役所に勤めている人がやっているわけだから。日本はすごく大変だなと思います。

たとえば日本の地方でジャズのフェスティバルを立ち上げたという人の話を聞いたんですが、3年くらいでお金も体力も使い果たしてしまったそうです。町がやっていれば疲れないじゃないですか。伊藤整文学賞(*小樽出身の作家・伊藤整を記念した文学賞。1990年〜2014年まで25年間つづいた)でさえなくなっちゃったものね。「もう無理です。つづけられません」と言う声が聞こえてくるみたいで悲しかった。個人が始めたプロジェクトが有意義なもので第一回目がうまくいったら、国か町が経済的に援助すべきです。

ドイツにはハンブルグ市の文学奨励賞や「いま私はこういう小説を書いています」という要請書を国に出すと一年分の生活費を出してくれる制度など、作家に対する手厚い助成制度があるという。

その一方、日本には雑誌がたくさんあり、そこにエッセイなどの雑文を書くと原稿料をくれるという仕組みがある。ドイツにはそういう場がないのだそうだ。

ドイツの書き手、とくに詩人にはプライドの高さがあり、「普通の雑誌に書いたら恥」という意識があるのだという。日本だったら総合誌や娯楽誌、青年誌、料理雑誌、果ては競馬の雑誌まで多種多様なフィールドが用意されており、雑誌間には明確なヒエラルキーがほとんどない(あるとしたらエロ雑誌くらいか)。日本は世界有数の出版大国で雑誌の数が極端に多いのだ。

逆にドイツの物書きはお金を稼ぎにくいので、その代償として助成金制度が発達しているという側面があるようだ。レジデンス制度もその一環なのだろう。

日本で作家に対する助成制度が必要とされてこなかった理由の一つとして、「国からお金をもらうと口を出してくるから嫌だ」という拒否反応があげられるだろう。また日本の場合は「売れるように書かなければならない」という目に見えない束縛もある。芸術的な作品の執筆を後押しするレジデンス文化とは、折り合いが悪いのかもしれない。

ドイツの場合は、役人がアートや文学の意味を理解していなくても、とにかく作り手を信頼して一任してしまう傾向があるのだという。なかには人知れず口を出す人もいるのかもしれないが、文学と政治の結びつきのレベルがちがう。ドイツは大学の博士論文で「実験詩の研究」を書いたインテリ文化人(クリスティーナ・ヴァイス)が文化大臣になる国である(2002年就任)。一方、日本では1999年に小説家が東京都知事になったが、東京の文化レベルが向上したようには見えなかった。

レジデンスではアーチスト間の交流が重要

三田村光土里というアーチストがいる。愛知トリエンナーレやオーストリアの「ウィーン分離派館ゼセッション」で作品を発表するなど国際的に活躍しているが、彼女のプロジェクト(作品)の一つに「Art & Breakfast」(朝食を通じてアーティストや様々な人々とコミュニケーションを楽しむイベント)がある。

人と人の出会い、交流というのはそれ自体が大きなエンターテインメントである。刺激は大きいし、勉強にもなる。作り手であれば創作の糧にもなるだろう。

レジデンスには他者との出会いを組み込んだものが少なくない。

多和田 ヴィラ鴨川(「ゲーテ・インスティチュート」というイギリスのブリティッシュ・カウンシルのような、国家による在外文化交流機関のドイツ版が運営するレジデンス施設)には日本に関するテーマ、または京都でやることに意味のあるテーマ、あるいは日本のアーチストとの共同製作プランを提出して入選した人がレジデンスします。みんな行きたがりますから競争率は高いです。そのレベルでは必ず交流がある。

カリフォルニアのサンタモニカに近いパシフィック・パリセーズ(エレガントな豪邸が断崖の上に立ち並び、太平洋の青みが一望できる高級なエリア。建築デザインの巨匠イームズ夫妻の邸宅があることでも知られる。かつてトーマス・マンもこの地区に住んでいた)という所には、第二次大戦中にアメリカに亡命したユダヤ人のリオン・フォイヒトヴァンガーという作家の大きなお屋敷だったところ(Villa Aurora)があります。そこにドイツに住んでいる人(国籍は問わない)が、三ヶ月滞在できるんです。その場合もなんらかの形でカリフォルニアと関係するプロジェクトでなくてはいけません(*このレジデンスに関しては多和田さんの著作『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』の第3章を参照のこと)。

――ライター・イン・レジデンスで作家たちがあつまったとき、知名度があるとかないとか、売れているとかいないとか、上下関係ができやすいので一つ屋根の下に一度に人が集まるとやりづらいという話を聞いたことがあります。どうでしょうか?

多和田 作家だけだとあるかもしれないですね。あの人のほうが知名度が高いとか、あの人の書き方が気に入らないとか。リオン・フォイヒトヴァンガーの家では同じ分野の人は同時に滞在しないようになっていて、私がいたときはアーチストと映画監督と三人でした。ぜったい作家二人がかち合わないようにしていました。

――むかしよく新宿の飲み屋で作家同士がケンカしていませんでしたか?

多和田 ああ(笑)、文壇ケンカ。中上健次に殴られた、とか。いまは野球を一緒にやることで解消してるみたいですね(笑)。でも私は日本に住んでいないので全く知らないんです。作家を三人呼ぶというのは、あんまりよくないかもしれませんね、国籍に関わらず。

異分野のクリエイターが集まって刺激し合うことは、しばしば試みられているようだ。一例として、多和田さんは次のような事例を挙げてくれた。

ケルン、ベルリン、アムステルダムといった場所に呼ばれた学者たちが半年間レジデンスする。各々が自分の研究をつづけるが、ランチはいっしょに取る。その枠のなかで、ケルンでは一週間だけいろいろな作家が来ていっしょに食卓を囲み、ともに時間を過ごすというワークショップのようなものがあるという。この集まりにはとくに決まった呼び名はなく、制度として確立されているわけでもないそうだ。もっと気安いものなのだろう。

同様に文学フェスティバルの一環として、参加者がいっしょに過ごすということも行われるそうだ。その際、コーディネーター役の作家が一人選ばれ、自分の関心がある作家、または「この人たちを一緒にしたら面白いんじゃないか」と思われる作家たちを指名して、呼び寄せるのだという。その際、集まるメンバーは国境をまたぎ、数カ国からやってくるのが通例とのことだ。(*多和田さんは参加を打診され漠然と話を聞いただけなので、この件の実情は不詳と言うことだが、フェスの枠外でいっしょに過ごす作家を集めるわけではなく、あくまでもフェスに参加した作家が集まるという形を取るそうである)

東京国際文芸フェスティバルではこういうことは行われているだろうか?

一般論になるが、アジアでのレジデンス事業の多くは、アーチストが作品を制作・発表することに期待していると言われる。つまり、投資や助成に対し、分かりやすい結果が求められている。

一方、アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC ニューヨークに本部を構える非営利の財団。アメリカとアジア、またはアジア諸国間におけるアートを通した文化交流を支援している)のプログラム・オフィサー、サンドラ・リウ氏によると、米国のレジデンスでは、アーチストが作業するための時間と空間を提供すると共に、他のアーチストなど「同じような領域で活躍する人々と知り合い、刺激し合うような出会い」を与えることを趣旨としているところが多いそうだ。アーチストが参加費を負担することはなく、かつ有能なアーチストが招聘されるので一種のフェローシップ(研究奨学金、あるいはネットワーク)として機能しているとのこと。それゆえ、米国のレジデンスには「シンクタンク」のような性格があるという。(典拠:株式会社ニッセイ基礎研究所『諸外国のアーティスト・イン・レジデンスについての調査研究事業報告書』 P386 平成24年度文化庁委託事業)

地元への還元というよりも、特定文化分野への支援としての側面が強いようだ。

レジデンスと言語的刺激

多和田さんには「日本語とドイツ語の間に立つ人」というイメージがあるが、レジデンスでフランス語圏や英語圏に出向くと、言語的な刺激や発見が大きいという。

例えば数回にわたりレジデンスしているフランスのボルドー。参加資格として「フランス語が出来ること」という条件があったそうだが、ゲーテ・インスティテュートの担当者の女性が「この人を呼びなさい。私が通訳するから大丈夫」と言ってくれたそうだ。ところが現地に到着してみると、彼女は家族の事情でその月ドイツに戻らなければならなくなり、不在。事務所に電話したところ、向こうがすごいパニック状態で「あああ! 葉子、葉子から電話! 彼女、いないのぉお」と唯一英語のできる人を捜してみんながおたおたしているのが聞こえた。

必死の片言で生き延びることによるすごい刺激を経験し、その苦労が結実して言語を主題にした『ボルドーの義兄』(2009年)という作品が生まれたとのこと。

滞在しながら書くということは、単なる滞在とは別のものだ。旅行記を書くのともちがう。大きな楽しみが待っている半面、ある種の苦行なのかもしれない。

ドイツ語と日本語のみならず、多和田さんにとって言語的な刺激はひじょうに重要だそうだ。ドイツ国外でのレジデンスを積み重ねることで、得るものは少なくないのだろう。

ドイツ語の世界で生活するようになってから、ドイツ人が造形理論的な思考パターンの上にドイツ語を乗せて喋っているということを見い出し、影響を受けたと言う。

日本にいたときは日本語しか話しておらず、流れで発話しながら考えていた。しかし現在はものを考える時点で「言葉の物質化」という作業を経て、積み木のように造形的に言葉を組み立て、それをドイツ語にしているという感覚があるそうだ。

多和田 日本語という言語も外国語と出会わなかったら、いまの形になっていなかったでしょう。現代日本語のなかには、ヨーロッパ的要素が入っていると思うんですよね。現代語って、江戸時代の日本語とは全然違うじゃないですか。明治の人たちの言葉は、英語やドイツ語やオランダ語を読んで苦労して訳す過程を通して変化してきた。夏目漱石とか森鴎外の日本語ももちろんそうだし、(日本的な美や官能を耽美的に描いた)谷崎潤一郎でさえ、フランス語の小説などを読んだ上で書いている。先人たちが自分たちなりにヨーロッパ語と対決した上でつくった日本語というのが、現代日本語というものになっているんじゃないかな。

そういうものを読まなくなった今の人には、インターネットなどから別の形で情報が入ってくる。でも生身の人間と出会うことは、情報だけの外国とは違います。やはりライター・イン・レジデンスは大切だと思いますね。

(インタビュー日時:2016年9月15日)

海の見える一箱古本市のこと

2017年1月11日
posted by 佐藤友理

「一箱古本市」とは、「素人からプロまでが同列に古本を販売するフリーマーケット型の古本市」である。出店者は「店主さん」と呼ばれ、それぞれに好きな屋号をもち、一箱分の本を持参して、その日限りの本屋さんを開く。どんな本をいくらで売るかは自由。

はじまりは2005年に東京の谷中・根津・千駄木で開催された「不忍ブックストリートの一箱古本市」で、「一箱の本」を通じたコミュニケーションの形が評判を呼び、現在は全国各地で開催されている。谷根千ではじまった経緯は、一箱古本市の産みの親である南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)さんの著書『一箱古本市の歩き方』(2009年、光文社新書)に詳しい。

瀬戸内・高松の一箱古本市

香川県高松市で開催している「海の見える一箱古本市」は、今年で3年目を迎えた。初開催は2015年9月。東京でスタートしてから10年後ということになる。この10年で全国に広がり、昨年(2016年)1〜8月だけでも約80箇所で開催されたらしい(後述する雑誌『ヒトハコ』創刊号掲載の集計より)。毎週末、どこかで一箱古本市が開催されている計算になる。店主さんとして参加していた人が新たに主催者になったりして、新規参入も増えているようだ。一箱古本市に関わる人口は、どんどん増え続けている。

2015年9月21日に開催された、第一回「海の見える一箱古本市」の会場風景。

2015年9月21日に開催された第一回「海の見える一箱古本市」の会場風景。

「海の見える一箱古本市」はこれまで、3ヶ月に一度程度のペースで、計5回行った。遠方からも旅行がてら参加してもらえるように、主に大型連休に開催している。初回はシルバーウィーク、2回目は11月の3連休、3回目はゴールデンウィーク、4回目はお盆だった。

そして5回目は、会場を高松港近くの大きな広場に変更し、規模を拡大して開催した。3年に一度行われる現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の期間中だったため、普段よりたくさんの人に来てもらえるのではという狙いがあった。このときは、同会場で「せとうちART BOOK FAIR」というものを開催したり、本やZINEにまつわるトークイベントを終日行ったりして、大いに盛り上がった。

2016年10月に開催した第5回目は、高松港近くの大きな広場で開催。

「プラットフォームのような本屋さん」が舞台

この「海の見える一箱古本市」を主催しているのは、わたしが働くBOOK MARÜTEという本屋である。古い倉庫をリノベーションした商業施設「北浜アリー」の中にあり、店の窓からは、毎日たくさんのフェリーが行き交うおだやかな瀬戸内海が見える。店では新刊の写真集やアートブックを取り扱い、併設のギャラリーでは写真展などの展覧会を常に行っている。地方の小さな本屋だが、本屋を軸にしながら本以外のさまざまなプロジェクトもあり、住む場所を問わずいろいろな人が関わってくれている。雑誌やコミックは置いていない。いわゆる老若男女が通う「まちの本屋」では、ない。

BOOK MARÜTEの店内。店の窓からは瀬戸内海が見える。

わたしがこの店で働くようになったのは2015年の春。それ以前は東京で働いていた。生まれは東北である。それがひょんなことから高松に住むことになり、引っ越してすぐに縁あってスタッフになった。一箱古本市をはじめることになったきっかけも、この頃にさかのぼる。

当時BOOK MARÜTEは働く仲間を募集しており、わたしが入ったすぐ後に、SNSに求人情報を掲載した。ありがたいことにたくさんの人が拡散してくれたおかげで、全国から70名ほどの応募があった。半数近くが香川県外からの応募だったと思う。これを機に移住したいという方もいた。

BOOK MARÜTEは会社ではなく、個人事業主がそれぞれに関わるプラットフォームのような場所だ。関わり方に決まりがあるわけではない。この場所をつかって、いろいろな人が特技を活かしながら、これまでにない展開をしていけたら理想形だ。

決められた関わり方がないのだから、まず実際に会って話をしてみないと何もはじまらない。しかし、いざ面接をするとなっても、県外の方に面接のためだけに香川にきてもらうのはなかなか難しいことがわかった。高松にくるタイミングがあれば連絡ください、というメールのやり取りで終わってしまうことが多かった。しかし、地方の小さな本屋に共感してアクションを起こしてくれた方々が、全国にこんなにいるのだ。その得がたい縁を無駄にしてしまうのはとてももったいない。まずみなさんに会う機会をつくれないかと思った。

応募者の中に「一箱古本市をやりたい」という兵庫県在住の女性がいた。運営経験をもつ神奈川県在住の女性もいた。それならば、彼女らに協力してもらい高松で一箱古本市をして、そこに他のみなさんも参加してもらってはどうだろう。きっかけをこちらが作れば、そのタイミングで高松に来てくれるかもしれない。

顔が見える相手に大事な本をわたす

いま思うと最初から、高松のブックシーンを盛り上げようとか、地域活性化に貢献しようなどの考えはなかった。その点が、ほかの地域で開催されている一箱古本市とは違っているところなのかもしれない。高松には人を惹きつける不思議な力がある。わたしもその力に導かれてここにやってきた。だから、全国の本好きが高松にきて、ここでつながったら何か面白い展開になるんじゃないかと思っていた。

余談だが、「海の見える一箱古本市」という名前にしたのも、高松に来たいと思ってもらうきっかけになると思ったからだ。一箱古本市の会場に決めた場所は、北浜アリーの中にある広場で、穏やかな瀬戸内海がすぐ目の前にある。

風を感じながら瀬戸内海を眺めるときの開放感や不思議な安心感は、唯一無二の財産だと思う。この心地よさの中で本のイベントができるということが、他のどこにもない、この一箱古本市の大きな魅力だと思ったとき、「海の見える一箱古本市」という名前がしっくりきた。

やると決めてからは、経験者の方から運営のことなどいろいろ教えていただきながら、準備をすすめた。わたし自身は一箱古本市に参加したことがない。話を聞いていたら、どうやら一箱古本市の醍醐味の一つに「一箱という制限の中で本をセレクトする難しさと楽しさ」というのがあるようだ。もともとの目的が、不用品のフリーマーケットとは大きく異なっているのだ。

高松では一箱古本市の認知度がまだ低かったので、告知ページには以下の一文を明記した。

このイベントは、店主がセレクトした本を売る古本市(新刊も可)です。手から手へ本が渡る、顔が見える相手に大事な本をわたす、そうしたイベントです。不用品販売やフリーマーケットとは異なりますのでご注意ください。

こう書いてはみたものの、参加へのハードルが上がってしまうのではないかと、少し心配になった。

各地の一箱古本市の募集要項や、経験者の方からの情報を元に「店主さんの手引き」も作成した。「これさえ用意すれば大丈夫」という、できるだけ親切な内容にすることを目指した。たとえば、「すべての商品に値段をつけること」「ブースのどこかに屋号を掲示すること」「釣銭を用意すること」など。箱のディスプレイについては、いろいろ工夫してもいいし、ただ箱に本を入れるだけでもいいよ、ということが伝わるように、経験者の方からいただいた過去の画像を参考として載せた。

出店料は1,500円とした。告知方法は主にSNS。加えて地元の新聞にも情報を載せてもらった。

会場づくりについては、コンパネでつくる簡単な組み立て式のテーブルを用意した。天板のサイズは90cm×180cm。1店あたりのブースサイズを90cm×90cmとしたので、一つのテーブルに2店舗がならぶ計算だ。このスペースに収まれば、レイアウトは自由。本の量は一箱分。「一箱」の量に厳密な基準は設けず、「両手で持てる程度」とした。遠方からでも気軽に参加してもらえるように、箱の事前預かりも受け付けた。これなら、当日は手ぶらで来てもOKだ。

いざ募集をかけてみると、半数近くが県外からの応募だった。集まったのは27箱。会場がほどよく埋まる数である。求人に応募してくださった方も何人か応募してくれた。まだ見ぬ出店者さんに思いをはせつつ、はじめてのイベントに不安を抱きつつ、緊張しながら当日を迎えた。

「大人の本気の遊び」

イベントがはじまってすぐに、あらゆる心配は杞憂だったとわかった。

わたしが手厚くサポートをしたり気を回したりしなくても、それぞれの店主さんや来場者の方々によって、あっという間に会場の雰囲気は出来上がった。

一箱古本市は、主催者がつくるイベントではなかった。その場に集まった売る人や買う人が、おのおのに工夫して、交流して、勝手に面白くなっていく。初参加という方が多かったのに、箱のディスプレイもとても個性豊かで驚いた。それぞれのブースを面白くしたいという健全なエネルギーが会場全体に蔓延していて、負の要素なんて全然なかった。午前10時にスタートして、終了する15時まで、ほとんど人が途切れなかった。大成功だったと思う。

面白いイベントになったのは間違いなく、主催者ではなく参加した方々のおかげだったのだが、終了後はたくさんの方にお礼を言われた。とても嬉しかったのだが、イベント中、わたしは本当に何もする必要がなかった。ただ会場を回り、おしゃべりしながら本を買って、写真を撮っていただけだった。つまり主催者の役割は、ただ人が集まる場所を用意することだけなのだと気がついた。

店主さんは、普段は本とは関係のない仕事をしている人がほとんどだった。もしかしたら本業ではないからこそ、純粋に楽しむことにエネルギーを注げるのかもしれない、という気もする。そして基本的に利益はあまり求めていないと思う。売上については、毎回報告を受けていないし、わざわざ聞かないようにしている。でも会話の中で出てくる話によると、2,000〜3,000円だったという人が多いし、1万円近くかけてイベント用の什器を自作した人もいたりして、出店料や交通費などいろいろ考えると赤字になることも多いのではないかと思う。2万円売れたぞー!という人もいたけれど、たぶん稀だ。売上ありきで考えたら、きっと一箱古本市には参加しない。第一に、楽しむこと。これは「大人の本気の遊び」という感じがしている。

最初は「求人に応募してくれた方に会いたい」というだいぶ変わった目的のために開催したイベントだったが、第1回目を終えてみて、このイベントの自体の面白さに目覚めてしまった。一箱古本市は、とても奥深い。これは続けていこうと思った。

普段は本を享受する側の人が能動的になれる場

思えばたぶん、これまでわたしは、人が本を楽しんでいるところを目の当たりにしたことが、ほとんどなかったのかもしれない。本の楽しみは、著者と読者の無言のコミュニケーションの中にあるという固定概念があった。

以前頭の中に描いていたブックシーンの構成図において、自分もふくめた読み手はいつも「一般大衆」とか「消費者」だった。いつだってブックシーンを変えていくのは、著者や出版社や本屋だと思っていた。

しかし、一箱古本市では、普段は本を享受する側にしかいない人たちが、個性をもって能動的にいきいきと登場してくる。とても刺激的な光景だった。一人一人が本というメディアとそれぞれの形で付き合っている、そんな当たり前のことが想像できていなかったことに驚きもした。そして一箱古本市に出店する人たちは、心が健やかなのだ。もしかしたらいつもは違うのかもしれない、ネガティブで卑屈な性格の人もいるかもしれない。でもあの場所にいるとき、少なくともわたしは全身でそう感じたのだった。本当に心地よい体験だった。

店主さんの中には、家から読まない本をもってくるのではなく、このイベントのためにわざわざ本を仕入れている人もいる。一箱のなかに独自の世界を作り上げるのだ。たぶん彼らにとって箱を作り込むことは、自己表現の手段でもあるし、他人と共感しあう最強のコミュニケーションツールをつくることでもある。何も話さなくても、箱の中の本を見れば、相手と気が合うかどうかがすぐにわかるからだ。よく「本棚を見れば人となりが分かる」というが、まさにそんな感じだ。普段はなかなか他人の本棚を見る機会は少ないが、一箱古本市では堂々と覗きこむことができる。

ただの妄想だが、わたしは、本棚を見せ合うお見合いなんかがあってもいいなと思っている。一箱古本市のとき、店主さん同士は、職業やライフスタイルや、会社でどれくらい偉いのかとか収入がどうとか、そんなこととは関係のない次元でコミュニケーションを楽しんでいる。多くの場合、名前すら知らない(屋号は知っている)。本を介すことで、興味のあることや、ふだん考えていることなどを感じ合うことができる。初対面なのに、この人がおすすめする本ならぜひ読んでみたい、と思って買うこともよくある。どんな本が好きかという視点で相手を見るというのは、とてもロマンがあるなと思う。

海の見える一箱古本市は、回を重ねるうちに、地元高松からの参加も増えてきた。これまではお客さんとして来ていた方が店主さんになってくれることも多い。地域を盛り上げるなどという大それたことは言えないが、自分の街で一箱古本市が行われることが、何かのきっかけになれていればいいと思う。

個人的には、本を通じて新たな出会いがあり、そのつながりが日常にも反映されて世界がひろがっていくのは、単純に嬉しい。本をきっかけにつながった人とは、なぜか長い付き合いになる気がしている。ほかの方にとってもそうであったらいいなと思う。

一箱古本市から生まれた雑誌『ヒトハコ』

『ヒトハコ』創刊号(発行: 書肆ヒトハコ、発売: 株式会社ビレッジプレス)

2016年11月、全国の一箱古本市関係者を中心につくる雑誌『ヒトハコ』が創刊された。編集発行人は冒頭でも紹介した、一箱古本市の産みの親であり、全国の一箱古本市や本屋を行脚し、たくさんの本好きとのネットワークを持つ、南陀楼綾繁さんである。雑誌をつくるにあたり、それぞれ違う場所に住む5人の「地域編集者」が召集され、恐縮ながらわたしもその一人に入れていただいた。「本と町と人をつなぐ」がテーマのこの雑誌には、さまざまな地域の本好きたちが生き生きと登場する。まさに、わたしが実際に目にしたような楽しさが、紙面ににじみ出ている。読んでいて、また一箱古本市やりたいな、と思った。

「海の見える一箱古本市」は、今後も継続予定だ。正直いって、規模を大きくしたいなどという野心はない。ただ、人と人が健やかに出会いつながる場所を作れることがとても楽しいと知ってしまったから、できる範囲で続けていきたいと思う。もっとまだ見ぬ本に出会いたいし、いろいろ教えてもらいたい。発見したい。健やかなエネルギーに包まれたい。つまるところ、ただ目の前で楽しいことが起きてほしい、それだけのような気もする。

次回は春に開催予定。今度はどんな人に、どんな箱に出会えるのか。いまからとても楽しみだ。

梅棹、マクルーハン、ケリーあるいは不思議の環

2017年1月10日
posted by 服部 桂

ネットやITが日常化した現在、情報化や情報産業、情報社会などという言葉を聞いて(少々古びてきてはいるが)違和感を覚える人はいないだろう。これらに共通する「情報」は、いまではデジタルテクノロジーが表現するコンテンツを指し、現代社会に不可欠の要素として空気や水のような存在だ。ところがおかしなことに、40年ほど前にこれらの言葉が広く使われるようになったときには、世間はまるで違う反応をしていた。いまでは想像もできないだろうが、そこには何か得体の知れない、いかがわしさが付いて回っていたのだ。

「情報」という言葉は、19世紀にフランスの歩兵の演習マニュアルを訳した際に「敵情を報知する」という言葉から派生して使われるようになったと言われており、戦後の冷戦期においても、敵国の国家機密を探る情報局のような機関がこの言葉を冠していたことからもわかるように、常に軍事機密や陰謀の臭いがする何か影のある言葉だった。特に冷戦が激化した60年代はスパイ映画が多く作られ、「情報戦争」とまで言われ、暗いイメージが付きまとった。

「情報産業論」の先駆者・梅棹忠夫

この情報という言葉を日本で正面切って、現代的な意味で最初に取り上げたのは、文化人類学者の梅棹忠夫だろう。1960年にカラー本放送が始まって間もなく、テレビ局で働く人々を「放送人」と名付けて注目された梅棹は、大阪朝日放送が刊行していた月刊「放送朝日」1963年1月号に「情報産業論」を寄稿し、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスメディア(マスコミ)を、情報を組織的に提供する産業という意味で「情報産業」と呼ぶことで世間を驚かせた。さらにその概念を、マスコミを超えて「興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで」、情報を商品として扱っているサービス業にまで広く適用して論を展開することで物議を醸した。

1960年前後、40歳頃の梅棹忠夫。北白川伊織町の自宅(現ロンドクレアント)1階北側の居間に付属した狭い部屋。書斎をつくる前、そこで執筆していた。(写真:梅棹家蔵)

梅棹は情報産業が従来の産業のように、手で触れることのできる<もの>を相手にする「実業」ではなく、情報という<ものではない>何かを扱う「虚業」であることを認め、情報というものは、コンニャクがそれ自体で意味がないものの食品としては意味があるように、実体(栄養)がなくても受け手によって意味が生じるものだとした。そして、そうした何かが産業として成り立つための商品価値は、送り手と受け手の関係性によって左右される「お布施の原理」で決まると説いた。情報の価値は、<もの>の経済のような需要と供給の単純なバランスではなく、坊さんの格やありがたさでお布施の値段が変化するように融通無碍だという説に、世間は度肝を抜かれた。

当時のコンピューターは「電子計算機」と呼ばれ、給与計算や科学計算などのデータを処理して結果を出すことが主な使い方で、電子化したデータ自体を情報や商品として扱うことはほとんどなく、あったのは海外の化学物質や特許などのデータベースを国際回線でアクセスするぐらいのものだった。大量のデータを記録できる媒体はリールに巻かれた大きなテープで、いまの100万分の1程度の伝送速度しかない当時の回線では大した情報を送ることはできず、テープ自体を郵送している時代だった。

梅棹忠夫は1920年生まれで、若いころから探検や登山が好きだった。京大で今西錦司に師事し、朝鮮半島や樺太、内モンゴルなどを探査していくなかで、動物学から生態学、文化人類学へと興味を移していき、ユーラシア大陸を周辺部(第一地域:西欧と日本)と中心部(第二地域:中国、インド、ロシア、地中海・イスラム)とに分けて文明を生態学的に論じたユニークな『文明の生態史観』(1967)は大きな波紋を呼んだ。フィールド調査の記録や情報整理から考案した京大式カードなどの手法を公開した『知的生産の技術』(1969)で広く知られるようになり、大阪万博の企画にも関わり、その後にできた国立民族学博物館で74年から初代館長を務めた。86年に失明したが、文明や日本人、日本語のあり方などに関する著書を精力的に口述で出し続け、2010年に没した。

梅棹の同時代人、マクルーハンの「メディア論」

世界の秘境を調査して言葉の風習もわからない相手の世界観や歴史を探り出す文化人類学的手法を、まだ得体の知れない何かと思われていた情報に当てはめ、まるで異星人のような目で時代の思い込みを排し、マスメディアを情報産業と見切った梅棹の見識に当時の人々は驚いたが、いま振り返るとそれは慧眼であったのと同時に既視感も覚える。

それは梅棹の同時代人で、やはり当時はまだ市民権を得ていなかった「メディア」という概念を論じて、世界的に論争を巻き起こした、カナダの学者マーシャル・マクルーハンのアプローチだ。マクルーハンは工学から文学に転じ、英ケンブリッジ大学に留学し、中世文学を研究した。帰国後にアメリカの大学で教鞭をとることになり、大量消費とポップカルチャーで花開いた若者文化に衝撃を受け、中世文学を研究する手法でその意味を探ろうとして『機械の花嫁』(1952)という本を書いた。彼には中世の教会での説教やステンドグラスなどによる表現が、アメリカの広告や情報文化に重なって見えた。

彼はそこに通底する何かを、「メディア」という言葉で総括し、『メディア論』(1963)で、当時の新しいメディアの代表だったテレビが、活字文化に無意識に支配された近代の呪縛を解く、電子メディアの雄であると説いた。梅棹の言う「情報」とマクルーハンの唱える「メディア」はほぼ同じ領域を相手にしており、そこには文化人類学と文学という別々の分野から、まだ研究の対象として意識されていなかった時代の変節に鋭く切り込む、新しい知の挑戦が浮かび上がってくる。

情報が現代的な意味で学問的対象となったのは、戦時中のレーダーや通信研究から、ベル研究所のクロード・シャノンが提唱した「通信の数学的理論」(1948)が最初だとされる。また、MITのノーバート・ウィーナーが「サイバネティックス」という言葉で人間と機械の情報的結合を理論化し、人間と計算機の関係が定式化された。そして1959年には情報処理国際連合が結成され、日本でも60年に情報処理学会が設立されている。そして60年代の大型電子計算機によって国鉄や銀行業務のオンライン化が始まった後に、70年代には計算機の小型化によるビジネス分野でのOA(オフィス・オートメーション)化も始まり、コンピューターの利用が一般化することで、情報という言葉が少しずつ世間で論議の対象になっていった。

コンピューターはただの科学技術の数値計算や給与計算から、より広い分野にも応用されるようになっていった。70年にできた世界的なシンクタンクのローマクラブは、地球環境のシミュレーションを行った結果を「成長の限界」という報告書で72年に発表し、資源採取や環境汚染が続けば21世紀前半に世界が破綻すると説き世界に衝撃を与えた。77年にはフランスで、社会の情報化を「テレマティーク」と表現したシモン・ノラとアラン・マンクによる「ノラ=マンク報告書」が出され、80年にはアメリカの未来学者アルビン・トフラーが、人類の歴史で三度目の大変革として農業革命、産業革命に次ぐ情報革命が起きると説いた『第三の波』が出版された。

おりしも欧米各国は戦後の産業発展を受けて、公共事業の民営化や自由化を推進し始め、日本でもNTTの前身である日本電信電話公社が85年に民営化されることになった。この時点で、米国も世界最大の通信会社AT&Tを自由化し、英国やドイツもその流れに続き、規制が厳しかった通信事業が情報産業と接続されることになる。パソコンも売り出され、一般人が公衆回線を介しての通信、いわゆる「パソコン通信」を始めた。日本ではこうしたコンピューターと通信の融合を「情報通信」と呼んだ。一般向けの電話とテレビをつないだ情報端末サービスのキャプテンや、テレビの文字放送なども始まり、そうした新しい動きが「ニューメディア」と呼ばれた。

これらの新たな動きのなかで、80年代には情報という言葉がコンピューターを応用したサービスと関連付けられていった。「21世紀に入る頃にはニューメディアが一般化した情報社会が実現する」という、いまのネット社会論のような論議が各所で語られるようになった。梅棹の「情報産業論」などの論考を再録した『情報の文明学』(1988)は、こうした時代の節目に再度注目されて広く読まれるようになった。

ケヴィン・ケリーの「テクニウム」概念

しかし本格的な変化が起きたのは、1990年代にインターネットが一般化したときからだ。それまでの情報化は、あくまでも公共事業や企業のシステムが中心で、家庭や教育現場、個人の利用は限られたものだったが、ウェブによって一般人が情報端末としてのパソコンを操るようになっていった。そしてその中を流れる文章や音楽、映像などが、本やレコードといったパッケージのないデジタル形式のコンテンツとして商品になっていく過程で、情報というものが、何かの代替ではなく、それ自身が意味を持つようになったのだ。

90年代にデジタルをただのテクノロジーやビジネスとしてではなく、新しい文化として扱った初の雑誌「WIRED」の編集長だったケヴィン・ケリーは、梅棹やマクルーハンが大型電子計算機の普及時に感じた変化を、80年代からのパソコンの普及やインターネットの中に見た。マクルーハンはテクノロジーを人間の意思を伝える手段すべてと考え、それが作る環境をメディアと呼んだが、ケリーはテクノロジーをもっと広い概念に拡張した。テクノロジーは人間の意思の道具であるばかりか、人間の意思自体も生み出す環境を創造する宇宙全般を動かしている、もっと基本的な原理と見たのだ。

テクノロジーを国家や企業が人々を支配する手段として敵視していた若い頃のケリーは、ヒッピーとなってアジアを放浪していたが、「ホール・アース・カタログ」で60年代にカウンターカルチャーのカリスマとなったスチュアート・ブランドの元で、80年代にWELLというパソコン通信の会議システムを運営することで、コンピューターが人々を結び付けるメディアを作るテクノロジーであることに気付いた。そして90年代のデジタル化を「WIRED」で体験し、テクノロジーの本質的な意味とメディアや情報について深く考えるようになった。2010年には『テクニウム〜テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)を書いて、テクノロジーが生命現象の上にあるレイヤーとして宇宙全般に存在するものであることを説いた。

そのケリーが昨年発表した『〈インターネット〉の次に来るもの〜未来を決める12の法則』(NHK出版)では、ネットの持つ基本的な12の力や傾向を分析して、これから30年間に起きるインターネット環境の変化について、情報をアクセスしたりシェアしたりリミックスしたりすることで、人工知能やVR、IoTと社会がいかに関連していくかを具体的に説いている。

情報、メディア、テクノロジーをめぐる新たな宇宙論

この本は個別のプロダクトやサービスを深掘りするのではなく、ネットの持つ本来の性質を明らかにすることで、これからの社会を展望するものだ。彼がアジアを放浪していたときに、失われつつある現地の文化を写真に収め、個々の文化に深く立ち入ることなく全体に流れる本来的な精神を感じたように、デジタル化社会の現象そのものではなく、一歩裏側に入ったテクノロジーの生理を解き明かしている点で、梅棹がモンゴルで感じて書き留めたメモや、マクルーハンが違和感を覚えた戦後のアメリカの若者文化を見るような視線と問題意識をを共有する。

ケリーはこうしたデジタル社会の基本的力学を、『テクニウム』で展開した広い意味でのテクノロジー論から導き出している。彼のテクノロジー論は梅棹の情報、マクルーハンのメディアを成り立たせる問題意識の延長線上にあり、現象として目に見える時代や歴史の奥にある、普遍的な何かを言い当てようとしている。

それは、とりあえず情報と呼ばれる、まだ評価の確定していない、物質世界の個別性や関係性を言い表す何かを多角的に探り出す一つの試みだ。ケリーは『テクニウム』の中で、宇宙を支配してきた基本的な力が、ビッグバンの時点における「エネルギー」から、徐々に銀河や星という「物質」へと移り、その物質が有機的に生命の形態を生み出すことで、個別の関係性の集合体が生まれて、「情報」が優位に立っていくと説く。エネルギーが物質に転化していく関係については、すでにアインシュタインがエネルギーと質量の関係を定式化した。もし物質と情報の関係が定式化されれば、エネルギー、物質、情報を統一的に記述する、物理学における大統一理論のようなスキームを構想することが可能だろう。

話が飛躍するようだが、2010年にアムステルダム大学の理論物理学者エリック・ヴァーリンデ教授が発表した「エントロピック重力理論」は、重力は自然の基本的な力ではなく、「物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力である」と考える。物体の位置が変動することによって、情報量としての乱雑さを表現するエントロピーが変化し、この変化が見かけ上、重力に見えると主張するものだ。そして、この理論は三次元空間内の情報はすべて二次元平面に保存されるとする物理学上の仮説「ホログラフィック原理」とも深く関わっている。こうした発見が、物質と情報の関係を明らかにしてくれれば、情報を中心に考えたまるで新しい宇宙観を論議することも可能になる。

梅棹やマクルーハンが時代の変化の裏に見た情報やメディアの変化を、ケリーがさらにテクノロジーという概念で止揚した姿を、ダグラス・ホフスタッターの名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(1979)ならぬ、「梅棹、マクルーハン、ケリー」なる論で展開できないかと、密かに考えては思い悩むことも、それほど荒唐無稽ではないような気もする。

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旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントでのトークイベント風景。奥野卓司氏(左)と筆者。

本稿は、昨年12月に京都で開催された、展覧会とシンポジウムシリーズ「梅棹忠夫と未来を語る」で、18日に北白川の旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントで、情報人類学者の関西学院大学教授の奥野卓司氏と筆者が、梅棹情報学とメディア論について論議した内容を補足するものです。もともと、東大情報学環の暦本純一教授に、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』の類似性を、雑誌AXISの書評で論じていただいたことがきっかけで実現した企画です。