〈カタリココ文庫〉がはじまったわけ

2022年3月10日
posted by 大竹昭子

文庫サイズの本をシリーズで刊行している。
名称は〈カタリココ文庫〉といい、ちょうどいま写真家・畠山直哉さんとわたしの対談と彼の随想が入った第8巻『見えているパチリ!』が出たところだ。ポケットに入れて、電車の中とかランチの後などにさっと取り出して読み終えられる80ページくらいのものである。このような手軽な形にしたのは、ケータイ文化に抵抗するには本にまとわりついた重たいイメージを払拭する必要があると思ったからだが、薄いのは厚みだけで、中身の濃さは保証付きである。

〈カタリココ文庫〉の最新刊には写真家・畠山直哉さんの随想に、筆者との対談を収めた。

『見えているパチリ!』の企画は、文芸誌『新潮』の大震災特集号に畠山直哉さんが寄せた「心の陸前高田」を一読してすぐに思いついた。畠山さんは、東日本大震災の津波で母と実家を失って以来、それまで国内外に向けてきた視野を転換して故郷の陸前高田に絞り、ほとんどすべての時間を町の様子を観察し、撮影して、発表することに充ててきた。書かれた文章は、その時間のなかで去来したさまざまな問いや思いを、どっしりと構えながらも写真家らしい歩行のリズムで綴った稀有な読み物だった。

これは〈カタリココ文庫〉に入れて残したい、それに加えて彼の近況を伝える新たな対談を載せたい、と瞬時に本の全体像が浮かんできた。彼とは大震災のあとに数回にわたってトークし、『出来事と写真』という本をまとめたことがあったが、その続編が作れたことは格別のよろこびであった。

本をもう一度、場にもどす

〈カタリココ文庫〉のよさは、このようにわたしが出そうと思えばすぐに出せることである。会議を通したり営業の顔色を窺ったりすることなく、自分のいまの関心を本の形にくるっと包んでさっと差し出せる。その率直さとスピード感がわたしには好ましい。

もちろんまわりには心強い協力者がいて、デザイナーも校正者も一流の仕事をしてくれるし、共著者の力添えも大きい。ちなみに、『見えているパチリ!』という意表を突くタイトルを考えてくれたのも畠山さんで、彼がおずおずとこれを口にしたとき、即座に、いただき!と思った。歩きながら、考えながら、ファインダーを覗く彼の姿が、パチリという音とともに浮かびあがってくるようで魅力的だ。

〈カタリココ文庫〉はいま、年3冊というかなりのハイペースで出しているが、そうなったのは2020年からである。つまりコロナの感染拡大という事態と重なっている。そうでなければ、出したいときに出す、というようなもっとのんびりしたペースになっていただろうから、改めて日常がとどこおりなくつづいていると発想の転換はしにくいものだと思う。

「カタリココ」とは「語り」と「ここ」を合わせたことばで、かなり前にトークと朗読のイベントをはじめたときに考えついたものだ。調べてみるとこれがスタートしたのは2007年で、ということはもう15年もつづけてきたのかと自分でも驚くが、この試みの背景には本が売れなくなったという社会事情があった。本はどこにでも持っていけて自分ひとりで読める完成度の高いメディアだが、その完成度がかえってあだになり、個人にこもりすぎて他者とのつながりを生みにくくなっているのかもしれないと感じていた。物語の発生は、声に出して語る人とそれを聞く人が出会う、というもっと身体性を伴ったものだったはずで、もしそれならば本をもう一度場にもどして身体との結びつきを深めてみることが出来るのではないか。

というように理路整然と考えたわけではないけれど、直感としてはそういうことで、本を介してなにかできそうだという予感をもったのである。15年前と言えば、新刊が出たら著者のトークイベントが企画されるのが当たり前になっているいまとは状況がちがい、作家が人前で自作について語ることは少なかったし、ましてや作品を読み上げるということはなかった。カタリココで恒例の自作の朗読も、当初はそうお願いするとゲストに「えっ!」と絶句されたものだ。朗読は小学校のとき以来していないし、ましてや自作を声に出して読むなんて恥ずかしい!と激しく抵抗されたが、いまはそんな人はいないから、この十数年でずいぶんと変わったものだと思う。

緊急事態宣言下にイメージが広がる

話を2020年にもどすと、カタリココでは毎年春に一年分の予定を決めてチラシを作り告知していた。その年の春、ゲストもほぼ決まりかけてほっとしていた矢先に非常事態宣言が出て、人が集まることが出来なくなったのは周知のとおりである。

本を介して場を作ろうというカタリココの試みは、ココ=場を奪われて梯子を外された格好になってしまった。行動は制限されるし、予定がなくなって時間とエネルギーはありあまっているし、でもそれを散歩と料理だけに使うのはなんだし、と思っていたある日、〈カタリココ文庫〉のイメージが降って湧いたようにやってきたのである。

実は〈カタリココ文庫〉には前史があって、その前年に『「私」のバラけ方』という高野文子さんの特集号を出していた。そのさらに前には福田尚代さんの『美術と回文のひみつ』の企画と制作に携わったこともあった。これは福田さんとわたしのカタリココの対談を彼女が所属する小出由紀子事務所が出版したもので、版元はわたしではないが、それを作る過程があまりに楽しくて自分でもやってみたくなり、高野文子さんの号は自前で出したのだった。

〈カタリココ文庫〉の前史となった0号と1号。いずれもカタリココのトークを再録。

ただし、この段階では定期刊行するつもりはなかったのである。
作りたいものがあったらまた出そう、というくらいの悠長な気分で、内容もカタリココの再録という位置づけだったのだ。

ところが、非常事態宣言下でいきなりイメージは拡大し、カタリココの再録に限らず、新聞雑誌に発表後に単行本化されずに宙に浮いている自分の文章もどんどん出していけばいいじゃないか、カタリココの枠外でトークをして一冊作ったり、丸ごと書き下ろしにしたり、だれかと往復書簡を交わしたり、内容も形式も自由に選んで作ったらいいじゃないか、というように一気に広がっていったのである。まるで道を歩いていたらいきなり間欠泉が噴き出したような具合であり、自由に本を作れるというのはこんなに楽しいものなのか!とびっくりしたのだった。

緊急事態宣言下では3冊を同時に仕込んだ。簡単にそれぞれの内容に触れておくと、まず手を着けたのは『室内室外』である。雑誌『Paper Sky』に「場所」というゆるいテーマで連載していたものを一冊にまとめようと加筆改稿していくうちに、テーマは「室内室外」だと閃いた。外出がままならない状態で「室内」「室外」の境界をいやがおうにも意識させられたし、体の内と外という含意もあり、うまいタイトルを思いついたものだと自画自賛したのだった。

つぎに出した『スナップショットは日記か?』は、わたしが『新潮』に寄稿した随想で、内容は2019年、森山大道がハッセルブラッド賞を受賞したスウェーデンのヨーテボリの式典をドキュメントしながら、スナップショットという手法と日本の日記文学の伝統とのつながりを自分なりに考えてみたものだ。これもタイトルがフックになり、とてもよく読まれている。

3つ目の『絵のうら側に言葉の糸をとおす』は、美術家・鴻池朋子さんの特集号である。東日本大震災の直後、物書きの友人知人に呼びかけて「ことばのポトラック」というトークイベントをはじめ、その後もさまざまなゲストを招いて継続してきたが、その2017年春の回のゲストが鴻池さんだった。

彼女は大震災以降に絵が描けなくなり、美術の概念を広げて新たな模索をはじめたが、そのことを語ったトークの音源を自粛期間中に聞き直したところ、心に強く響くものがあり、これは本にしたいと思ったのである。初回から「ことばのポトラック」を一緒に担ってくれている堀江敏幸さんも含めて3人での鼎談で、美術の枠を超えて活動する鴻池朋子さんの思考の軌跡を知るには欠かせない一冊になった。

おわかりのように、この3冊はどれもカタリココのイベントとはちがう文脈から生まれている。もしもあのまま日常がつづいていたらこういうラインナップは思いつかなかっただろうから、改めて2020年は大きな分岐点だったと思う。

2020年の緊急事態宣言下でアイデアが広がり、この3冊を刊行した。

ノンジャンルの活動に居場所ができた

またこの3冊があぶり出したもうひとつの事実として、ジャンルが一つに絞られていないということがある。実はこのことは15年前にカタリココをはじめたときから意識していた。朗読イベントというと、ふつうは小説や詩をイメージしがちだが、考えをことばにするという意識があり、朗読できる著作のある人ならば、どんなジャンルの人もOKという方針でゲストを選んできたのである。

ジャンルは社会が物事をまわしていくのに後から作られたものであり、個人の思考の道筋とは関係がない。わたし自身の執筆もそうで、写真について書くことは多いが、写真界の動きを追っていくようなことには関心がないし、美術にも興味はあるけれど、あくまでもわたしの関心の網にひっかかってきたものへのこだわりだ。

つまり物事を横断的に考えていくことに惹かれるのであり、軸足をジャンルに置くことは考えてこなかったのである。それは、常に枠の外側に立って自由度を確保しようとする、自分の癖としか呼びようのない行動様式だが、〈カタリココ文庫〉はそうした自分の本質にたしかな居場所を与えてくれた。

イベントはひとつ終わると次のものが来るというように流れの力が強く、静止画像として眺めることがしにくい。だが、本の制作はちがう。流れを止めて堰を造るのに近く、溜まったことばを吟味し練り直す過程によって考えを蒸留できる。ジャンルの括りの底に流れているものに目を凝らすことに自分のパッションの源があると確認できたのは大きな収穫であった。

以前はジャンルを嫌がる自分を天の邪鬼な逃亡者のように感じていた。取り込まれそうになるとさっと身をかわして表通りを離れて路地に入っていく。だが、権威を生み出すヒエラルキーの構造に抵抗するならそうなるのは自然であるし、ジャンルを越境することは細分化された人間の機能をひとつに束ねて全体性を回復することだと主張できるようにもなった。

それには一冊ではだめだったし、ぽつりぽつりと出すのでもわからなかった。一定の速度をもって定期的に出すことにより、自分という人間の内部に蠢くものを編集できたのである。

こちらは2021年に刊行した3冊。

最後に、読者がもっとも興味をもつであろう採算の話をしておこう。印刷、デザイン、校正、印税などの費用は当初から売上で賄えている。ただし、そこにはわたしの編集作業代は含まれていないので只働き状態だったが、ようやくそれが改善しつつある。良質のものを継続して出していけば少しずつ上向きになっていくという予感を抱いている。ビジネスとして成立させられれば必ずやあとにつづく人が出てくるだろうから、これはうれしい希望である。こんなに楽しい作業をわたしが独り占めするのは惜しい。

あるとき脳裏に「30」という数字が点滅した。これは30巻だしなさいというお達しだろうと思い、その数を射程にいれて全体像を考えるようになった。30巻というと多いようだが、今年末には10巻に達するので道のりの3分の一は進む。これが完結するまでは死ねないなあと思う。

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執筆者紹介

大竹昭子
1980年代初頭にニューヨークに滞在、文章を書きはじめる。写真も撮る。文筆家。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆、著書に『図鑑少年』『随時見学可』『間取りと妄想』『須賀敦子の旅路』『東京凸凹散歩』『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』など多数。2007年より都内の古書店を会場にトークと朗読のイベント〈カタリココ〉をはじめ、現在、その活動から生まれた〈カタリココ文庫〉を刊行中。