前回は、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』の執筆陣の世代に着目しながら、同書が描く「ブックオフ像」を考えた。同書の執筆者は、全員が「ロスジェネ世代」であり、その世代からのブックオフ像が描かれていた。今回も引き続き『ブックオフ大学ぶらぶら学部』が描くブックオフ像を考えたい。
「男性」とブックオフ
「ロスジェネ」に続いて私がここで提示したいのは「非モテ」とブックオフの関わりについてである。2000年代中頃には「ロスジェネ」とは別に、インターネットを中心に「非モテ」という言葉も生まれていた。「非モテ」については、西井開が『「非モテ」からはじめる社会学』(集英社新書、2021年)等で探求しているが、「恋人がいない」、あるいは「女性から好意を向けられない」といった人々のことを示している。「非モテ」とブックオフはどのように交わるのだろうか。
ここで参考にしたいのが、同書を企画した夏葉社(岬書店)の編集者、島田潤一郎の記述である。島田は自身の青春時代を回顧しながら、以下のように書いている。
店にはぼくと同じような若者がたくさんいた。お金がなさそうで、付き合っているパートナーもいなさそうで、ゲームとマンガとサブカルチャーが好き。二〇〇〇年代前半は景気がめちゃくちゃ悪かったし、みながみなパソコンをもっているわけでもなかったから、お金がなくて、時間だけがある文化系の若者たちはこぞってブックオフに足を運んだ。
ぼくと同じように学校にも仕事にも行っていなさそうな人たちを見るとほっとした。
前回、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』の中でロスジェネ世代の「貧困」とブックオフが強い結びつきをもって語られていることを確認した。島田の証言は、そうした「貧困」とブックオフの結びつきを顕著に語っているが、それ以上に注目したいのは、そこに集っていた若者たちは「ぼくと同じような若者」で、具体的には「お金がなさそうで、付き合っているパートナーもいなさそう」な人々だった、ということだ。ここからは、このような「非モテ」と当時呼ばれるような人々と『ブックオフ大学ぶらぶら学部』の親和性もどことなく読み取れる。
もちろん、島田の個人的な回想だけから「非モテ」とブックオフをつなげて語ることは、危うさを孕んでいるだろう。しかし、私が「非モテ」という言葉とブックオフのつながりを強調するのは、「非モテ」が持つメンタリティーに注目したいからである。
「孤独」とブックオフ
「非モテ」のメンタリティーとはなにか。精神科医の熊代亨は自身のブログで「非モテ」論壇を回想している。熊代によれば、「非モテ」のメンタリティーの底には「『いっぱしの人間として社会で扱われている感覚の欠如』や『あるべき自分と現実とのギャップ』のような、なにやら心理学的な概念に親和性のありそうな、そういったニュアンスが多分に含まれていた」という。ある種の社会との相いれなさや社会の中で「孤独」であるという感覚を「非モテ」論者が共有していたことが伺える(ちなみに、熊代は非モテ論者たちの集会にも顔を出していたというので、この記述の背景には、熊代自身が感じた非モテ論者の雰囲気があっただろう)。
こうした「非モテ」のメンタリティーに通ずる観点を『ブックオフ大学ぶらぶら学部』の執筆陣は持っていたのではないか。例えば、先に紹介した島田潤一郎はブックオフのオウンドメディア「ブックオフをたちよみ!」で次のように述べている。
僕は孤独なときや暗い時期にブックオフに救われたんですよ。決してウキウキしながら行っていたわけじゃないけれど……心の拠りどころでした。僕みたいに「ブックオフしか行くところがない」という人は今も全国にいると思うので、そういう人に(引用者注:『ブックオフ大学ぶらぶら学部』を)読んでほしい。
島田は「孤独」を癒すためにブックオフを訪れていたという。ここでは、「非モテ」のメンタリティーである「孤独」を救う存在としてブックオフが描かれているのである。
こうした論調は、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』でホホホ座の座長・山下賢二がブックオフについて「居てて安心するんです。ぼくみたいな『オッサン』がいつまでもいていい場所ですからね」と述べていることにも通じるだろう。あるいはブックオフのオウンドメディア・「ブックオフをたちよみ!」で元プロニートであるphaが「ブックオフはどんなときでも僕らを受け入れてくれる」と書くことにも通じている。
「非モテ」が持つ「孤独」の感覚とブックオフを利用していた人々の感覚の近さは、こうしたメンタリティーの面でも指摘できるかもしれない。そしてそれは「貧困」であることに由来する、ある種の劣等感とも結びつき、ブックオフの位置付けを独特のものとして描き出しているのではないか。
「ロスジェネ」と「非モテ」は時代的な重なりはあるものの、一致するものではない。しかし、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』の語りは、2000年代に表れたこの2つの思想との強い連関を感じさせるのである。
ブックオフの肯定とはなんだったのか
『ブックオフ大学ぶらぶら学部』でのブックオフ像は、良くも悪くも2000年代という時代相との親和性が高い。その意味においてその偏りが指摘できる。つまり、次のように言えるのではないか。
すなわち、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』におけるブックオフの肯定は、2000年代のブックオフの肯定ではあっても、それが同時に現在の変容を続けるブックオフを肯定するものにはなっていないということである。
実際、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』には全体的に回顧的な論調が多く見られる。例えば、セドリ(ブックオフで買った本をAmazonなどで売り、利益を得る行為)を行う「せどらー」であるZの論考「ブックオフとせどらーはいかにして共倒れしたか」は一見すると「ロスジェネ」や「非モテ」とは関係ないようにも見えるが、この論考の最終的な着地点は、かつてせどらーが大量に存在していたブックオフへの回顧である。
たとえ、ブックオフが「ブックオフなのに本ねーじゃん!」とCMを打ち、総合リユース店へ変わっていこうと、せどらーは慣れ親しんだブックオフに固執することでしょう。ブックオフの店頭から最後の一冊が消えるまで、せどらーはせどり続けるに決まっています。
ここでは、現在の「総合リユース店」になっているブックオフをどのように肯定できうるのか、という視点はない。ここに2000年代的なるものとの連関が非常に強い『ブックオフ大学ぶらぶら学部』が描くブックオフ像の偏りがよく現れているのではないだろうか。
そこで次回以降は、どのようにすれば『ブックオフ大学ぶらぶら学部』が持つ肯定的な目線を現在のブックオフに向けることができるのかを考えてみたい。
執筆者紹介
- ライター。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業後、早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。デイリーポータルZ、オモコロ、サンポーなどのウェブメディアにチェーンストア、テーマパーク、都市についての原稿を執筆。2022年2月に初の著書『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)を発表。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。2017年から2018年に「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。
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