我はなぜ論文YouTuberとなりしか

2017年12月13日
posted by 荒木優太

YouTubeで勝手に連載している「新書よりも論文を読め」が20回の更新を超えた(初回を下に動画埋め込み)。このシリーズは、論文(大学紀要や専門誌を中心に、ときに批評や評論とも呼ばれもする論理的なタイプの文章)を毎回一本取り上げて、三つのポイントに分けて5分から8分くらいで要約するという、論文紹介動画である。取り上げる論文の分野は、私が近代文学専攻ということで日本の人文系に偏っているきらいはあるが、できるだけ多方向から学ぼうと努めている。

なぜこのようなことを始めたのか。勿論それは論文の読者が増えてほしいと思ったからだ。

「それは研究でやってください」って言い過ぎだろ

よく知らない人のために自己紹介しておくと筆者は文壇でささやかなな賞を得、また2016年に在野研究に関する単行本も出版したことで一部界隈で話題になり、物書きとしてほんの少しだけ出世している新進気鋭の文学研究者である。

結果、原稿を依頼する少なからぬ編集者と交流する機会が増えた。それはそれでめでたいことなのだが、困ったことに、原稿が欲しいということで近代文学に関するアレコレを書いて提出すると、みな判を押したように「そういうのは、研究でやってください」と答える。どこそこの誰それがという悪口ではなく、本当にみなそういう反応をする。

いささか理解に苦しむのだが、在野研究者に原稿は依頼するものの専門的・研究的であってもらっては困る、というのが彼ら共通の見解のようだ。私からすると、牛丼屋の看板でオープンした店に入ってきたお客が「並ひとつ」というので牛丼の並を出したら「おいおい、こりゃあ牛丼じゃねーか!」と言われた気分である。そりゃそうだろ。

要するに、マニアックでニッチな研究の営みは、現代的でもなく、読者もついてこず、そして(これが一番大きいだろうが)売れない……ので一般的=商業的な出版にはふさわしくない、ということだ――ちなみに、彼らは近代文学にはかなり否定的で、哲学になると割と好意的だ――。

紋切型の研究観にいささか辟易もするが、とまれ、ある個人だけが主張しているわけではないのだから、そこには出版界に流通するなにがしかの真理が反映されている、と考える方が適当だろう。とりわけ、想定可能な読者のヴォリュームが大きくない、故に売れない、というのはかなり実態を素直に現わしているようにみえる。

貧乏に優しい論文

別の角度からいえば、専門的な論文も装いを改めることで商品になれる。勿論、それ自体は喜ばしいことだ。が、そのお色直しでなにか重大なものが削ぎ落されてしまっているのではないか、或いは、そのお色直しは本当にニーズがあってなされたものなんだろうか、と問うことも同時に忘れてはならない。

出版点数が予め決まっており、著者に十分な執筆期間も与えない新書商法はその象徴のようなものだ。出したいから出すのではなく、出さなければならないから出すというサイクルが常態化して久しい。そのような環境下でまともな本が生まれないだろう(或いは、もっと完成度を高めることができただろう)ことは容易に想像がつく。どうして人々は消費行動を通じてああいったビジネスを支えてしまうのか。よく分からない。

私の経験では、新書の著者が研究者ならば彼の書いた論文を第一に読んでみることをお勧めする。より凝縮された仕方でその中核になるアイディアが簡潔に述べられている。そして、論文のいいところは、発行後相当期間経った――月刊誌なら一ヵ月、季刊誌なら三ヶ月――雑誌に掲載されていたものならば、著作権に抵触せずに図書館ですべてコピーできるということだ。加えて、大学のウェブサイトにあるリポジトリでは多くの論文が公開されていることは既に周知のこと。

貧乏人にはありがたい知の泉がそこにある。

こういったものを十分活用するまえに、どうして読者たちは700~900円もする愛のない新書など買って出版社による自分都合のビジネスに手を貸してしまうのか、やはりいささか不思議だ。とまれ、一般の読書人にとって、もし論文の読書という可能性が未開拓のものであり、それに自覚的になれるのならば、衆目は集めるだろうが特に専門性もないアレヤコレヤに無責任に首をつっこんだ(つっこませた)ような文章が跳梁跋扈するこの世界を少しづつ変えていけるのかもしれない。

百歩譲って、新書を読むのもいいし(細長い判型の本自体が悪いわけではない)、こざかしい商売を応援するのも自由だが、そのあとで論文にアクセスするクセをつけると読者にとっても著者にとってもよき知的循環が生まれるのではないか。

前置きが長くなったが、そんな思いから動画の連載を始めたのだった。

読むために読むことと喋るために読むこと

わざわざYouTube、つまり動画の表現を選んだのは、文字ならば既に様々なメディアで発信しているので、自分自身が少し新しいことをやりたくなったからだ。文字よりも音声・映像に親和的なユーザーにもリーチを伸ばして自分の仕事を伝えたいという企図もあった。

とはいえ、文字中心のユーザーと動画中心のユーザーがそれほどかけ離れているとは思っていない。研究書に代表される通俗的な娯楽性の乏しい、改行が少なくて註がついているようなタイプの書物は読んでいるとかなり疲労が溜まる。そこから逃避するように、適当なラジオや動画をナガラ見(聴)し、そして本末転倒なことに勉強が一向に進まない事態が大学生や院生にはしばしば生じる。いや、学生に限らずこういった現実逃避は誰にでも経験があることだ。

そういったとき、同じ動画コンテンツでも、学術性の高いものならば仮に時間を浪費したとしても、あとで後悔とともに襲ってくる罪悪感をかなり小さくできるのではないか。視聴のハードルを低くするために、10分を超えないよう、かなりコンパクトにまとめたのは、何かと何かの「合間」を埋めるくらいの手軽な学問があってもいいだろうと考えたからだ。

連載を始めてみて自分で新鮮だったのは、いつもの論文の読み方が紹介のモードを前提にするとかなり大きく変わったように感じられたことだ。

通常、論文を読むさいは(私の場合は)自分の関心や主張との距離を意識しながら文字を追っていくが、この後に喋って説明せねばならない、ということが念頭にあると、いかに本質的なアイディアを抽出して、それをできるだけ分かりやすい言葉に翻訳できるか、そういったことを意識して読書に臨むようになる。すると、論文全体の格好に目がいくというか、文章としての論文がもつ端正さの度合いが実感できるような気がするのだ。

情報の器としてではなく文体の問題として論文が立ち現れてくる、といってもいいのかもしれない。

きっとこの感覚は自分が文章を書くときにもかなり役立つものになるのではないか。そんな予感がする。思わぬ儲けものだった。

「イタい」で闘う

勿論、弊害もあるだろう。要約という行為一般につきまとう様々なニュアンスや細部を無化して、ある簡潔なテーゼ(「~は~である」)に単純化してしまうことの危険は、三つのポイントで整理するというこの連載の形式も手伝って、完全に回避できるとはいいがたい。

だが、おそらく余り心配することはない。なぜならば、基本的に誰も再生しないからだ。一部のYouTuberのように広告報酬で儲けるような事態も、だから決して訪れない。そして、それで構わない。

言及された多くの研究者も、仮に動画の存在に気づいたとして、特別な理由がない限り言及を控え知らなかったフリを突き通すだろう(例外的に第23回で取り上げた伊藤未明さんからはTwitterで反応をいただいた、どうも恐縮です)。

どうして、人が避けていくのだろうか。編集作業を怠けているだとか、ポピュラリティのある論文を採用していないとか、理由は色々考えられるだろうが、核心となっているのは、要はこういうことだろう。即ち、特別な訓練を受けたわけでもなければ資格をもっているわけでもない、単なる目立ちたがり屋でお調子者の言葉など聞いているとこっちが恥ずかしくなるよ……端的にいえば「イタい」からだ。

この「イタさ」を、私は或る程度理解できる(つもりだ)。私が大学生だったら、確実にいま私のことを軽蔑にするだろうし、ああいう無様な人生を送らないようにしようと胸に誓うに違いない。大学生というのはそれくらい生意気な方がよい。

ただ、年長の落伍者の側から少しばかりアドバイスしておけば、第一に、人間は人間を常に馬鹿にする生き物なので、馬鹿にされることを怖がっていたら何もできない。そして第二に、人生というのは(また大きく出たな!)失敗の連続であり、失敗において修正可能性を見出して次のトライアルに臨むことだけが漸進的な正解に近づく唯一の道なのだ。

よく連載を追っている(極めて少数の)視聴者は、取り上げる論文の多くがプラグマティズムに関係することにお気づきだろう。正しく、パースやジェイムズに由来するアメリカ産のプラグマティズムとは、神になれない有限な人間が、何度も転びながらうまい転び方を段々覚えていく過程的成長肯定の思想であった。

YouTuber TAKIJI?

最近、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)という増補新版を出すために、『小林多喜二と埴谷雄高』という自費出版で出した初の自著を読み直し、どれくらい多喜二が自分たちのテクストを――「芸術的価値に乏しい」とかdisられながらも!――読者に届けようと齷齪していたかに、改めて胸を打たれた。

もし多喜二が生きていたらYouTubeを使って自分の本の宣伝をしていたかもしれない!

処女作の末尾において埴谷ではなく多喜二の可能性に賭けた私が、このつまらない世界に対して「イタさ」を回避して、「そんなことは自明、何故ならば」と業界人ヅラで自分の知恵者ぶりをいかにディスプレイするかのゲームに淫することは、自分の本に対する裏切りのように思えた。

考えてみれば、在野研究にしろ電子書籍にしろ自費出版にしろ、他人から無様と思われながらもそういう連中をちゃんと無視して、自分がいまできることをコツコツやってきたからこそ現在の私があったのだ。それができるからきっと私は強かったのだ。

明らかに失敗するに決まっていて、やっぱり人々は相変わらずどうでもいい新書を買ってゆるやかに業界がシュリンクしていく予見された未来が変えられないのだとしても、文句があるのなら、やれることをやってからぶつくさ言う方がずっと気分がいいだろう。

私は私のために、私の気分がよくなるために喋る。

大学は下らないし、出版社も下らないし、なにもかも下らない。が、学問だけは下らなくない。面白い。ほんの少しでいいから人々がもう一歩難しいものにチャレンジする機会が増えてくれればいいなと思う。

執筆者紹介

荒木優太
1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo