『文學界』編集部に贈る言葉

2021年2月12日
posted by 荒木優太

担当していた「新人小説月評」の末尾が削除されるという事件を経て、2月8日、『文學界』編集長から「最低限必要な寄稿者と編集部との信頼関係が失われた」という理由で月評からの降板が命じられた。とりあえず、担当編集者と決して多くないだろう拙評読者に感謝したい。

私が執筆できたのは2月号と3月号の計2回。最初の話では一年間=12回分を依頼されていたため、いささか不本意な退場となった。改めて確認するまでもなく、私は私の主張がいまなお正しいと思い、『文學界』編集部は明確に道義に反していると思う。とはいえ、人の愚かさには際限がなく、たんに様々なことを間違えるだけでなく、間違いを間違いと認知できない二重の間違いすら犯しがちなことを考えれば、あまりに自己を過信するのも危険なことだろう。

というわけで、以下、私に決定的な落ち度があったとしても通用可能なメッセージを『文學界』編集部に贈りたい。道は二つに分岐する。(ルートa)本当は荒木のいうことに理があると思っているのに体裁上それを認められない場合(ルートb)心の底から自分たちが正しくて荒木が間違っていると思う場合だ。

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(ルートa)本当は荒木のいうことに理があると思っているのに体裁上それを認められない場合

このルートを選んだことはやはり残念に感じます。ただ、文藝春秋という大会社のサラリーマンであるみなさんには、フリーターである私とは無縁なタイプの守るべきものがあり、本音をいえば今回の処置の乱暴さを批判したいのに、それを実行できない忸怩たる想いを抱えているのかもしれません。私からみれば『文學界』編集部は大きな権力をもった組織体に見えますが、少し視点をずらして、文藝春秋社内における文芸担当の立ち位置などをかえりみれば或いはまた別の光景が広がっていることでしょう。

そのことを承知のうえで、お願いがあります。今度から人に批評の原稿を依頼するときは、やってはいけないことをきちんと伝えてあげてください。

最初、副編集長(の役職だったはずですがいま違っていたら失礼)から月評依頼のメールをいただいたとき、第一に私は原稿料とともに「取り上げる/取り上げない作品に関する自由はどれくらいあるのか?」「文体的な不自由さがあるのか?」と返信で尋ねました。文芸誌の人々は、自由に書いていいというわりには、のちのち無理筋な要求を重ねがちなことを経験的に知っていたからです。お答えとしては、「敢えて取り上げる/取り上げないという選択も、批評行為の一環とします」「作品表記のフォーマット、半期のベスト5選出、という決まり事はありますが、それ以外は評者の自由です。無論、編集者として気になったことをお伝えすることはあると思いますが」ということでした。

また、依頼をくれた副編集長とは別の担当編集者と西大島駅前のロイヤルホストで初対面したさい、私は開口一番「やってはいけないことはありますか?」と尋ねました。人が変われば考え方も違ってきてしまうかも、と考えたからです。お答えとしては、半期ごとにベスト5を選ぶ形式性があるがあとは自由に書いて構わない、とのことでした。

でも、これらの言葉は実際には嘘であったわけです。やってはいけないことは明確に存在し、これに違反すれば、著者の意に反した仕方で原稿の一部を削られ、また一方的に仕事を下ろされることになるわけです。私の書き手としてのイメージもひどく傷つけられました(荒木と仕事するとめんどくさいことになる!)。

私とて、原稿をなにがなんでも変えない頑固さで生きているわけではありません。私が今回の月評を提出したのは、予定された締切日になるより前でした。すぐに「面白かった」という感想のメールを担当編集者より頂戴しました。そこから4日経って、校閲の指摘が入った初校がきました。二つばかり漢字の間違いの訂正を指示しました。さらにそののち、「故に」の漢字を開くかどうかというメールがきて、どちらでもかまわないと返しました。そして校了直前のことです、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)の一文を削るか変更せよとの要求が担当編集者からきたのは。

ゲラは基本的に印刷することを前提にして、誤植をなくしたり細かな表現を改めるために刷られます。問題の一文は最初からあり、読み直す時間も十分にあったのに、よりにもよって校了直前に要求がきたのです。私が編集部に不信感を抱き、さらには自分の主張の正しさを心底信じることができるのは、このような処置は誰がどう見ても乱暴としかうつらないと思うからです。

もし初稿の段階で上記の提案をされていたら、私は頷いていた可能性が高いと思います。別に編集者に意地悪をしたくてやってるのではないのですから。

戻ります。文芸誌という場で暗黙に共有されている、「やってはいけないこと」があること自体の是非はいまは問いません。お願いしたいのは、そういった暗黙のコードを自分たちのなかできちんと言語化しておいてください、ということです。《〇〇という作家は声が大きい人だから批判しないでね》といった露骨なものを期待しているわけではありません。たとえば、《作品をくさすとき××字以上を用いてください、そうでない場合は変更の要求をします》といったようなものです。最低限、《編集部による指示に従わない場合は、こちらで勝手に手をくわえ、担当から外れてもらうこともあります》の事前注意は、実際に起きてしまったことなのですから、ぜひともしてあげてください。

特に若い方に依頼するときは、その種の配慮が大切かと思います。若い人はまだ業界に不慣れなぶん、みなさんの使用している「自由」が特殊なものであることを理解せず、字義通りに受け取ってしまう危険性があります。面倒だなあ、と思われるかもしれませんが、ちゃんと教えてあげることが結果的には双方の満足につながるはずです。教訓として活きるのであれば、この小さな事件も決して無駄ではなかったと思えます。

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(ルートb)心の底から自分たちが正しくて荒木が間違っていると思う場合

このルートが選ばれたこと自体をとても残念に思います。とはいえ、自分の正しさを決して譲れないという点で私たちは鏡像的な関係に立っています。その正しさを私が追認することはいっさいないにせよ、信念の強度が拮抗している点に最低限のリスペクトを払いたいと思います。

今回みなさんは「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)という表現を評者である私が反対しているのを知っていながら削除してしまいました。これは今後、次の二つのことを受け入れる……少なくとも要求されるストレスに耐えねばならないことを意味しています。

第一に、荒木のような弱小の書き手ではなく、社会的に認められ大きな力をもつ書き手、または編集部の人々と仲がよくて仲違いしたくないような書き手……つまりは、編集の側から見て原稿に手を入れることに躊躇するようなタイプの書き手であっても、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)を撥ねる編集水準を決して落としてはならないということです。非情に徹して、文言を削除したり、ときには彼らから仕事を奪う選択をせねばなりません。

第二に、今回は岸政彦さんの作品を──川上未映子文学との比較のなかで──評すことで事件に発展したわけですが、彼とは違うまだ有名でない作家、賞をとることは望み薄に見える作家、気弱な性格で反論をしてこないような作家……つまりは、編集の側からみて批評家に貶されても特に問題が発生しないようなタイプの作家に対しても、「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」(p.307)の水準で批評されることは絶対に避けねばなりません。仮に興味がなかったとしても、彼らを全力で守るよう努めてください。

もしこの要求が呑めないのならば、みなさんは、文壇内のパワーバランスに準じるかたちで編集方針を風見鶏のように変えていく縁故主義者であると言わざるを得ません。確固たる信念に基礎づけられた一貫した規範で動いているのではなく、贔屓するものにおもねってそうでないものを足蹴にしても素知らぬふりをする虐めをしているだけだと見做さざるを得ません。

少し前に「忖度」の政治に注目が集まり、大いに議論されたものですが、縁故主義者や虐めっ子はこれを批判することができません。社会一般において、その弊害は深刻なものと認められたので──少なくとも私は「忖度」で動く政治は克服されねばならないと考えています──、ぜひともその道を採らないことを願っております。

改めて断っておけば、私自身はそういった編集方針はひどく窮屈に感じます。批評家に対してにせよ、作家に対してにせよ、言いたいことはちゃんと言わせて、喧嘩になったらきちんと喧嘩させてあげたほうが、あらゆる点で──法的・道義的な問題だけでなく編集にかかる心理的コストなどもふくめて──よりよいと思いますが、とはいえ、他者とは私とは異なるから他者であることもまた承知しているところです。はい、お好きになさるとよいでしょう。

ただ、一つ注意していただきたいのは、いくら他者とはいえ、自分たちが選ぶ規範が、状況や属人性によって変幻自在になるもの、端的にいうと恣意的なものであるのならば、非難は必至といわねばなりません。ゆめゆめお忘れなく。

これからの「新人小説月評」は勿論、『文學界』誌面全体のゆくすえを楽しみにしております。

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編集部がどちらのルートを選んだのかは、いうまでもなく私からは確認することはできない。いずれにせよ、もし仕事に真剣ならば、どちらか一方の「お願い」を聞いてくれることはそれなりに期待してよいだろう。

私は文芸誌とその編集者たちに決して多くのことを求めていない。言葉を奪って無かったことにして、問題が解決したかのように取り繕うその欺瞞が許せないからこそ削除の要求を呑まなかったのだ。たとえば、もし言葉の場を滅ぼすことで満足を得るようならば、私は私が敵対していた卑劣をわが物と認めなければならなくなるだろう。

最後に。この機会に荒木という変な著者を知った新顔の方々にちょっと宣伝する。もし私の書いていることに説得力を感じ、私を応援したいと思ってくれるならば、ぜひとも私の本を買ってほしい。六冊ほどある。

『これからのエリック・ホッファーのために──在野研究者の生と心得』(東京書籍)
『貧しい出版者──政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)
『無責任の新体系──きみはウーティスといわねばならない』(晶文社)
『仮説的偶然文学論──〈触れ‐合うこと〉の主題系』(月曜社)
『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(編著、明石書店)
『有島武郎──地人論の最果てへ』(岩波新書)

私はいわゆる正義漢のような人間ではない。世俗的なことをいえば、もっとカネがほしいただの俗物にすぎない。が、それであらゆる勝手が許されるとも思わない。私をふくめて多くの人が目指すべきは、道義にかなうことと経済的な豊かさが決して背反しない社会、もう少し低いレヴェルだと、道義にかなったからといって経済的に不利を押し付けられることがないような社会である。

本を買って、読んで欲しい。いうまでもなく、批判歓迎である。

執筆者紹介

荒木優太
1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo