第5回「ひとり」の覚悟

2014年11月30日
posted by 清田麻衣子

退社から3ヵ月経ち、夏が終わり、秋も終わろうとしていた頃、私はまた生活費を稼ぐベースづくりに身も心も完全に奪われていた。

個人事業主登録をし、2冊目の本を出すことまで決めたものの、会社を辞める直前まで日々の仕事をこなしていたら漠然と不安を抱くだけで退社日になり、出版社の準備はおろか、フリーランス編集の仕事の準備もできていなかった。会社を辞めた途端、翌月以降の入金の目処が立っていなかった。翌年の目処を自分で立て続けることに馴れるまで、結局2年近くかかった。

突きつけ続けてきた言葉

一人で家に居ると、考え込むというか、自分でつくった穴に嵌る、ということが何度もあって、それが怖くて会社員でいたようなところがあった。

意を決して会社を辞めた途端に、自分の思考パターンが変わるかもと期待したが、まったくそんなことはなく、会社を辞めてひとりで出版社をやるということは、むしろその恐怖と向き合うということでもあった。

ひとりで出版社をやろうとしていると話すと、親切にしてくれる方が増えた。出版関連の知人が、編集者や書店員など、本界隈の人たちが集まる飲み会があるから是非来なさいと誘ってくれた。大勢の飲み会はあまり得意ではないが、ひとりになって人との繋がりが恋しい気持ちも増してきて、参加した。

会も中盤に差し掛かった頃、同世代くらいの、某中堅出版社の男性編集者と偶然隣になった。初対面だったので、ひとりで版元を始めるつもりだと自己紹介すると、出したい本を尋ねられた。田代一倫さんの写真集と、井田真木子さんの本について話した。ヒットの香りがしなかったのか、その人は、ふーん、と言っただけであまり食いつきがなく、「その次は?」と続けた。言葉に詰まった。

「うーん、正直、そんなにいっぱい出したい本ないんですよね……」

もっと泉のように企画が湧き出してきておこすのが出版社なのではないか、というようなことを言った後、その人は苦笑しながら、

「何も出版社やることないんじゃない?」

と言った。カチンときた。

「まあでも、そんなに出さなくてもいい本ばっかり溢れてるから書店が飽和状態になってるんじゃないかなと思うんですよね」

身も蓋もないセリフを吐いてしまった。沈黙。ほろ酔いの明るい声と熱っぽい空気に包まれて、しらけた空気が重かった。業界の人が集まる酒の席だ。編集者として実のある会話がしたかっただけなのかもしれない。その人は「まあねえ……」と歪んだ笑顔を浮かべ、「ま、頑張ってください」と、そそくさと別なテーブルに去って行った。

その場では「あー、せいせいした!」と思ったものの、帰りの電車でもさっきの言葉が離れなかった。そもそも私が過剰に反応したのは、その人の指摘は、私が仕事を始めてからずっと、もっと正確に言えば、それ以前からずっと自分にナイフのように突きつけ続けてきた言葉だったのだ。

「なんでそんなに興味のあることが湧いてこないの?」

と。腹の奥までぶすりと刺さった。

「得体のしれない世界」に触れた体験

仕事で自分を限界まで忙しい状態に追い込んで、身動きをとれなくしてホッとする感覚は、子供の頃、風邪を引いて熱が出ると、平日の昼間から寝ていても良いという免罪符をもらったような気持ちになるのと似ていた。

でも子供の頃は、友達と遊びを開発するのも楽しかったし、ひとり遊びにも熱中した。それ以上に、小学生の頃は勉強が楽しかった。特に、小説の一部をみんなで読み込んで、自由な感想を口々に言い、それを先生がすべて受け入れてくれる国語の授業は、友達と遊んでいる時よりワクワクした。

だが友達の真似をして、遊び半分で通い始めた学習塾が中学受験専門の塾で、あれよあれよという間に受験をすることになり、私立の中高一貫教育の女子校に入学した。しかし、中学入学と同時に、大袈裟ではなく世界が変わってしまったと思った。

中1から大学受験をゴールにカリキュラムが組まれ、いちばん悲しかったのは、現代国語が「正解」を求めるばかりの授業だったこと。そのスタイルも答えも納得いかず、意を決して授業の方法について教師に相談しに行ったこともあったが、まったくピンと来ないままかわされた。

国語以外も授業中は身が入らず、楽しくないから予習復習もせず、入学当初は同程度の学力だった同級生の中で、すぐに落ちこぼれた。中1からほとんどの教科で追試を受け、中3で遅刻も常連になった。部活動にも興味が湧かず、周りの友達が夢中になっていたサブカル、オルタナティブといわれるジャンルの本や音楽に少し触れつつ、でもそこまでのめりこめなくて、結果、再放送のドラマばかり見ていた。気の合う友達も居たし、イジメらしいイジメもなかった。でもどこか冷めていて、消化不良のまま毎日が終わっていく感じだった。

とにかく記憶が薄い中高時代、ずっと「もっと楽しくなるはず」という言葉が浮んでいたのは覚えている。子供の頃のように、自分への意識が無くなるくらい何かに夢中になる状態を欲していた。「暗黒」ではないけれど、中の上の偏差値で、中の上の生活レベルの、しかも女だけの波風の立たない空間で、「空白」の中高時代はあっという間に過ぎた。

しかし映画好きの父の部屋に落ちているチラシの中に惹かれるものがあり、映画はたまに観に行っていた。中でも、原一男監督の『全身小説家』という、小説家、井上光晴の虚実にまみれた人生を解き明かすドキュメンタリー映画は、当時、内容をちゃんと把握できていたわけではなかったが、人間の底知れなさと、得体の知れない世界に初めて触れた、気味の悪い体験だった。また、高校時代の授業の中で唯一、「現代社会」というその時の社会問題を扱う授業に興味を持ったこともあり、自分の中でぴくりと動いた針を頼りに、社会学科と映画関連の学科がある大学を受け、結果、芸術学科の映像専攻に進んだ。

そして大学で、それまで触れてきた「サブカル」の域を超えた文化に初めてちゃんと触れた。ダラダラしていたのは相変わらずだったが、千本ノックのように古今東西の映画を観た。授業も楽しかった。そして、3年生の時から始めた卒論の準備に夢中になった。その時のワクワクする感覚は、大袈裟ではなく小学校以来だった。

「郊外の町」からはみ出す道

先にも書いたが、その時の興奮をもう一度味わいたいと思って、卒業後、本を作る仕事を始めたが、今振り返ると、私が欲していたのは、自分の内に眠る感覚と世界を繋ぐものを一度とことん探し出すことだった。しかしそれは試行錯誤を繰り返して、海に飛び込んで、身を委ねないと探り出せないものだった。もし見つけられたとしても、数多ある商業出版社の中で、それを形にすることは難しかったと思う。

だがそれを阻むもうひとつの壁は、社会人になってそんなことをしていたら、「まっとうな女性の幸せな人生」からどんどんコースアウトしてしまうのではないかという恐怖だった。

小学校2年生の春、80年代なかばのバブル期に福岡から越して来て、以来住んでいた東急田園都市線沿線の横浜市郊外の家は、東京の谷中から遊びに来た友人が「アメリカ(アメリカのホラー映画に出てくる郊外の町)みたい!」と叫んだように、モデルルームがそのまま並んだような新興住宅地だった。それは駅に貼ってある住宅のポスターのイラストとまったく同じ――緑の並木道、水色の空に浮かぶ色とりどりの風船、整然と並ぶ建売住宅を忠実に具現化したもの――で、その「幸せ」を形にした不純物のない世界は、いつの間にか私の原風景になっていた。

クリーンで光溢れる世界から外れたら、得体の知れない世界は暗く、不幸に足を取られてしまうのではないかという感覚が身体の中に染み込んでいたような気がする。

自分自身は、そこからはみ出す汚さや複雑さを抱えながら、自分の外の世界の多様さには免疫がなく、恐れてもいたのだと思う。思春期からくすぶってきた相反する気持ちに挟まれて繰り返したのは転職だった。自分の奥に踏み込んで、それを外にひきずり出そうとするたびに立ち止まり、じっとしていると、自分の底は抜けていて、引き出しは空っぽだとしか思えなくなってしまう。その感覚はものすごく恐ろしかった。

会社は辞めた。出版社を始めることは決まった。しかしそう簡単に私自身が変わり、ひとりでやっていく覚悟が決まるわけではなく、一連の恐怖の感覚は、会社を辞めるとそれまで以上に激しく、そして何度も私を襲った。なぜ出版社をやろうと思ったのか、と、何度も聞かれたし、自問自答もし続けたが、やりたくてやろうとしているというよりも、避けて通れないような気持ちになっていたのだ。

家の近所に、作り上げた町並の中でわずかに残された、地主の農家が住み続ける小さな里山があった。畑の間をクネクネと細い農道が通り、そこを抜けると池が広がっていた。ほんのわずかな一画なのだが、人の営みを感じられるその一帯を散歩していると、心が溶けていくような気持ちになることがあった。出版社を作ろうと思った時に、コンセプトなどそんなに深くは考えられなかったので、ただ自分の好きなもの、として思いついたのが、「里山社」という名前だった。

ひとりで出版社をやることで、何度も恐怖の感覚が襲い、そこからなんとか行動することで、気持ちも落ち着きを取り戻す。そしてそのたびに、「里山社」という名前にして良かった、と思った。ひとりでやっていく覚悟はほんとうに少しずつ、その繰り返しをしながら固まっていった。

次回につづく