3 インターネットがあれば図書館はいらない?

2014年6月4日
posted by 「マガジン航」編集部

グーグルは「パブリック」といえるか

吉本:もうひとつ、図書館という場所はオープンであるべきか、という問題もあると思うんです。すごくインターネット的ですけど、一つの考え方として「誰でも入れるような場にしておいて、あまりにひどいようなら排除する」というのがある。もう一つが、入場券があってお金を払った人じゃないと入れない、という考え方。そういう意味では、書店もオープンな場所ですよね。

高橋:長尾さんの文章(『未来の図書館を作るとは』)からも「知のユニバーサル・アクセス」というか、図書館への普遍的なアクセスへの志向性が感じられました。

河村:でもそれは、インターネットがすでに実現してる気がするんです。

高橋:え、そうですか? 私はインターネットは全然オープンじゃないと思いますよ。「玄関」までは入れても、その先に行けないプライベート・リポジトリとか、ネットからはアクセスできないところがいろいろある。でも図書館は、建前としてはユニバーサル・アクセスを保証することになっていて、「閲覧も禁止」という特殊な例外を除けば、きちんと手続きさえ踏めば見られます。

河村:そうか、いまの話は「グーグルで検索できないものは、この世に存在しないのと同じ」という感覚とちょっと似てるのかも。僕らのようなオープンソース系の人間は、ふだん世の中にパブリックになっているものを享受しつづけているせいか、他のものの存在をけっこう忘れてしまっている。だから、いま高橋さんに言われて「そうだよな」と思ってハッとしました。

吉本:カーリルの原点はまさにそこの部分なんです。「図書館の本をインターネットに載せる」というのが、カーリルを始めたときのコンセプトでした。

――(司会・李明喜)いまの話はとても大事ですね。カーリルは図書館の蔵書をネット上に拡げ、「オープン」や「ユニバーサル・アクセス」を一部実現したかもしれない。でもインターネット自体がそれを実現したと言えるんでしょうか。

吉本:インターネットがそれを実現しているか、というのはすごく難しい話なので、いったん「パブリック」という話に戻します。たとえばグーグルにとってのパブリックとは、パーマリンクを持っているかどうか、つまりそこにいつでもアクセスできるということだと思うんです。でも、そこまでをパブリックとしてしまっていいのか……。

内沼:カーリルで本を探すと、「その本はこの図書館にありますよ」という情報が出てくる。でも、いまここでその本は見られない。もしもグーグルで検索できるところまでがパブリックなのだとしたら、その本に書いてある中身は、インターネット上ではパブリックだとは言えないし、ツイッターなどの鍵がかけられた場所で起きている議論もパブリックじゃない、という話になります。

河村:たとえば、その鍵はお金を払えば開けられるとしたら、それもパブリックだと言っていいんですか?

内沼:アマゾンで電子書籍を買うのは、「お金を払えば鍵があく」ということと一緒だと思います。

――長尾さんが岡本さんとの対談で仰っていたのは、グーグルはあくまでも私企業なので、もし将来なにかの理由でグーグルがなくなったらアクセスできなくなる。そういうものはパブリックとは言えない、ということでした。

吉本:僕はそこにはちょっと異論があります。グーグルはもう、一種の公共だと言ってしまっていい。向こうにとってはビジネスでも、そこには僕らの求めているものがあるのだから。

河村:むしろグーグルは国の枠を越えているわけだから、ある意味、国以上にパブリックですよね。

吉本:そう、よりパブリックだと思うんです。カーリルも図書館の人からは、「企業がやってるサービスだから続かない」と言われ続けてきたんですよ(笑)。でも僕は、そのところでは図書館の人たちとかなり違う考えをもっています。パブリックを担うのが企業なのか国や地方公共団体やコミュニティなのかは、もうあまり関係ない。企業だからといって好き勝手やっていいわけじゃなくて、パブリックをかたちづくる要素は散在しているんです。

――仮にグーグルという会社がなくなったとしても、グーグルが築いた環境は残ると思います?

吉本:なくなったら、こんどは僕たちが作ればいい。それを再現するための知識も、ライブラリーもすでにある。技術的に「できる」ということがわかっている以上、もはや未踏の道というわけではないんですよ。

河村:もしグーグルがだめになっても、百度(Baidu)をはじめ検索エンジンが他にいくらでもありますからね。

内沼:そう。グーグルが潰れたとしても、検索エンジンがなくなるわけではない。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、李明喜さん(司会)、河村奨さん、吉本龍司さん(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

インターネットと「自由」

河村:ところで、みなさんは普段の生活のなかで公共との接点はありますか? こういうぼんやりした質問をなぜするかというと、私は起業してから10年経つんですが、その間に「公共に関わった」という意識をもったことが皆無なんですよ。公共サービスを利用する機会も多くないし、選挙に行くときだけ突然パブリックと対峙させられて、そのあとまたずっと断絶があって……という。でも、ここでコワーキングスペースを始めたときに、むしろここにパブリックがあるな、という感覚がしたんです。

内沼:そのときの「公共」「パブリック」ってなんでしょうね。そこがまだ、ふわっとしている気がします。さきほど「スターバックスはある種の公共性を含むサードプレイスだ」という話が出ましたけれど(Part2参照)、スタバにはお金を払って入りますよね。そこにコミュニティが存在するようには思えない。じゃあ、スタバはパブリックなんでしょうか?

――コミュニティとパブリックの間というか、先ほど話したとおり「部分的にパブリックな場」ということではないでしょうか。

吉本:マクドナルドは限りなくパブリックに近いかも(笑)。

内沼;そうそう、たとえばそういう話なんです。

――場所の公共性」のような意味でパブリックについて考えるなら、国や地方自治体が運営主体かどうかが一つの基準としてあるでしょう。その意味では、私企業はパブリックの担い手ではない。でも現実的にはコマーシャルな消費の空間で、部分的な公共性を担うようなことが様々な場面で起こっています。たとえばカフェやショッピングモールなどもそうですよね。「公共の場」と「消費の場」の差が曖昧になって、現実では混じりあっているという状況があります。

吉本:だからこそ、図書館の人から「公共性が」と言われると、すごく嘘くさく感じてしまうんですよ(笑)。

内沼:そのときに図書館の方が仰る「公共」というのは何か、ということですよね。たとえば国や自治体は税金を集めて、それを使ってみんなのために何かをする。図書館の本はタダで読めるけど、元をただせば誰かが払っている税金です。その一方で、私企業であるグーグルが限りなく「公共」に近く感じられるのも、彼らのサービスが無料で使えるのは広告収入のおかげで、本来は広告宣伝費として回り回って商品に乗っているのだけど、そのことを利用者が感じにくいからなんでしょうか。

吉本:それはすごく正しいかも。「お金を払ってる感」がない、というのは図書館も同じです。

内沼:税金を払っている自覚のある人からすると、グーグルのほうが図書館よりもずっと「お金を払ってる感」はない。なのに、もちろんグーグルは私企業で、しかもどんどん大きくなっていますよね。ひょっとしたら僕がいちばん「公共」的なものを日常に感じるのは、インターネットを使っているときかもしれません。

――高橋さん、そのあたりはどうですか?

高橋:ちょっと違う話になるかもしれないけれど、「インターネットと公共」という話を聞いていて思ったのが、やっぱり「自由」の問題なんですよ。オープンソース・ソフトウェアという言い方に対して、もうひとつフリー・ソフトウェアという言い方がある。じつは私はフリーソフトウェアイニシアティブ(FSIJ)の会員なんですけど、最近あまりみんなが「自由」って言わなくなっている。インターネットからも自由がなくなりつつあって、ソフトウェアもどんどん自由じゃなくなっている、という話がFSIJでは話されたりしています。

これまではたとえばリナックスで頑張ってデスクトップOSを作ることができていたわけだけど、スマートフォンの時代になったときに、スマホのOSはあんまり自由じゃないとか、最近デバイスでも自由に起動させない仕掛けが入れられたり……というのが一般的になっているんです。そういうなかでネットの自由はどうやって守っていけばいいのか、いや、もう守り切れないのではないか、という感じの暗い話が、私の半径10メートルの狭いところではされている。そういうなかで聞くと、インターネットの明るい可能性みたいな話には、だいぶ違和感がありますね。

吉本:最近、本の書影を撮るためのプログラムを作っていたときに、ロシアの人たちがキヤノンのデジカメをハックしていることを知ったんです。ファームウェアまで全部ハックして解析しているから、デジカメで自由自在になんでもできる。量産型のデジカメで自由にソフトウェアが組める時代が到来していて。これがすごく楽しい(笑)。つまり、限りなくハックは続けないといけない、ということなんだろうと思います。

ただ、それがパブリックとか、オープンにする方向に寄ったところでは、まだされていない。ある程度のところまではできるようになっているんだけど、たとえばiPhoneをジェイルブレイクするのは流行らない、みたいなことがあるわけで。

――インターネットが現実の嫌なところに近づいてきて、高橋さんの仰る「自由がどんどんなくなっている感」もそこから来ている、と。

河村:ただ、現実の方から見たときには、インターネットはまだ全然自由な感じがします。リブライズの文脈から言うと、街の中に埋もれて「クローズ」な状態になっている本棚を救い出して、「オープン」にしたい。そうやってインターネットに現実をくっつけることで、ずっとオープンな世界になるだろうと思っているんですよ。「2ちゃんねる」が始まったときのような自由奔放さは、きっといまのインターネットからは失われてきているんだろうし、あの自由さがこれからまた訪れるのかどうかは、もうわからない感じがありますが。

――「自由さ」と言ったときに、もう一方には「見られない自由」のようなものもあります。たとえばウィキリークスは「弱者にプライバシーを、強者に透明性を」といった理念で活動していますが、そこにはプライベートなものを守るという「見られない自由」も含まれています。しかし、元CIA職員スノーデン氏の告発によって、我々の「見られない自由」が既に失われていることが明らかになったわけです。

河村:そうですね。実はオープンソースでの開発も、オープンソースのコードを入れてしまうと、逆に自由にソフトが作れないというジレンマがある。全部オープンにしなくちゃいけないために、開発における自由度が失われるんです。そこはたぶんトレードオフなんでしょうが、「オープンにしない自由」はつねにあるべきだと思います。

「固体」としての知識から、「水」のような知識へ

――最初のほうで内沼さんが仰った「本」の定義にも関わるんですが、「本」というものを、中身としてであれモノとしてであれ、「単体」としてとらえる考え方があるのに対して、長尾さんが考えている図書館のベースにあるのは、「本は、それ自体よりも大きな知識の一部である」という感覚だと思うんです。だからこそ、そこには「第二のステップ」としてのネットワークが必要だし、さらにその先に、我々の「知」や情報との関わり方として「視点ごとに見えるものが変わるネットワーク」のような壮大な夢を語っておられる。「本」というものを単体として考えていたら、こういう概念にはならないと思うんですよ。

知識はもともとは現実世界、現実の環境にあったもので、それを所有したいという欲望のもとで、「本」として固定化していったわけです。その歴史は木の葉や粘土板から始まり、革やパピルスの時代を経てグーテンベルクの活版印刷術の発明があって、次第にいまのような「本」になった。そうやって知識が固定化されたことには、知識が社会化していく上で大いにメリットがあったし、いまもあるわけです。でも長尾さんはそれとは別の観点から、「知」を固定化された状態からもう一度解放することを提案している。というのも紙の本でネットワークを作ることはすごく難しいし、電子書籍も既存の紙の本を電子化しているだけの状況ではネットワークを完全に作っていくのは難しい。

河村:ネットワークを作るのは、そんなに難しいのかなぁ、という気がします。紙に固定されたものに、リンクのような技術的な意味でのネットワーク性をあとから作ろうとすると大変だけれど、あいだに人が介在すると、あまり難しい感じがしないんですよ。たとえばこの場所には、放っておいてもプログラム関連の人が来て情報交換している。本棚に置いてある本も、面白いといわれる本が勝手に集まってきていて、固定化と収集が成り立ってしまっている。ある意味で、長尾さんの仰る「第二ステップ」と「第三ステップ」の段階に踏み出している。

これは長尾さんがお書きになった文章に出てくるintellectual commonsに相当すると思うんです。そこでは網羅性ではなく、「普遍的にあるものなかから、どういう本を選書してくるのか」という編集能力的なところから図書館が捉えられている。なにかテーマを決めて切り出しさえすれば、あとは人がそこに勝手にリンクしてくれるという意味で、網羅性とは逆であるような気がするんです。

吉本:いまの話を概念的に聞いてると、情報の粒度が「本」という個体より下がってきていて、たとえて言うなら「水」みたいなものになってしまっている気がします。これまでは個体の本に対して、たとえばISBNのようなIDをつけて流通性をよくしよう、というふうに考えられてきたけれど、「水」は液体だから置いておくと混ざっちゃうし、いったん混ざるとそれだけを取り出せない(笑)。知識や情報が個体から液体になってしまうと、図書館のほうでも、こぼれちゃうからそれはうちじゃ無理です、という話になって保存できずにいるわけです。

河村:粒度が細かくなりすぎた情報や「知」を受け止めきれるのは、いまは国立国会図書館しかないのかもしれません。

吉本:あるいはグーグルですね。グーグルは、ある意味で「水」の中から「欲しいもの」を取り出す技術なんです。でも図書館では、あくまでモノとしての「本」でしか知識や情報が流通していかない。アマゾンもその点では図書館に近くて、「水」の部分は扱い切れていない。でも、ツイッターではもっと粒度の細かいものが流れているし、グーグルならそこも全部すくえてしまう。そういう流れで言うと、図書館もこれからは「水」を受け止めるべきなのか、という話だと思います。

――本や図書館の発展の歴史は、もともとは「水」のままでは知識を扱えないから、「本」や「図書館」として固体化する、という手続きだったわけです、でもそれが、いまは技術の発展によって、「水」も扱えるようになってきた、と。

吉本:そうですね。アメリカの議会図書館(LC)が、世界中すべてのツイッターのつぶやきを収蔵しているのも、とりあえず水を貯蔵するタンクを国が設置しました、という話なのかもしれません。

河村:いわゆるダーク・アーカイブですね。実際に使うかどうかはともかく、とりあえずとっておく、という。

――長尾さんの仰るデジタル・アーカイブも、思考の原点は同じだと思うんです。ちなみに、「水に近いような」電子書籍を扱ってる達人出版会さんは、国立国会図書館に納本していますか?

高橋:いや、していません。する予定もないですね。いままではISBNがつけられてる本じゃないと納本できないんですよ、電子書籍に関してはそこをオープンにしましょう、という話になっているんですが、いまは無料の本に限られている。だからうちの電子書籍も、有料のものは納本できないんですよ。

吉本:それなのに、僕の作ったプレゼン資料は無料だから納本義務がある…というヘンな話になってくるわけですよね(笑)。

――有料の電子書籍でも納本できるようになれば、そうしたいですか?

高橋:そうなれば納本することになると思います、たぶん。

河村:いまでも都立の図書館には納本できますよ。郷土資料のようなものにはISBNはつかないので。

吉本:公共図書館の場合は「納本」ではなく、「寄贈」ですね。

――2014年1月から、国立国会図書館が電子化した200万点以上の大規模デジタル化資料が、他の図書館でも閲覧できるようになります(すでに実現。詳細はこの記事を参照)。基本的には著作権保護期間が切れたものが対象ですが、いままでは国立国会図書館の端末でしか見られなかった資料を、地方の公共図書館や大学図書館、それらに準ずる施設でも端末を置けば見られるようにする。まだその程度なのか、という話でもあるのですが、公共図書館にとってはかなり大きな一歩です。その枠のなかにフリーの電子書籍からでも入ってくれば、より広く読んでもらえる場になる気がします。

高橋:でも、もともとインターネットはオープンなので、ネット上に転がしておけば、図書館に入れる必要はあるのかという……。

内沼:そう、そこがやっぱり疑問なんです。

――これはさきほどの東京と地方の違いという話(Part2参照)と近くて、インターネットにしか存在しないと、見られないという人がまだまだたくさんいるんですよ。年配の方だけでなく若い人でも、デジタルネイティブ世代と言われていても、モバイルだけの限定的なインターネット利用ということも多い。そういう人たちにとっては、ただネットに置いてあるだけでは出会うことは難しいです。

吉本:ただ僕は地方にいるからすごく感じるんですが、現実として、人々が物を買う手段はすっかり楽天やアマゾンになっている。他に買う手段がないんですよ。世代に関してもだいぶ様変りしていて、うちの祖父母も70代を過ぎてますが、イー・トレードで株の取引をやっています(笑)。

河村:そのへんは逆に、うちの実家は遅れてますね。買い物は新宿に行けばいいや、と思ってるから(笑)。

内沼:さきほどから何度か同じことを言っているような気がしますが、ネット上にあるものを収集するという流れが向かう方向がよくわからないんです。大事なのは、むしろ「消えてしまうものをアーカイブする」という役割じゃないですか? 放っておくと消えてしまうから、図書館がそれをアーカイブして集めたい、という話ならわかるんです。インターネット・アーカイブの考え方はそうですよね。でも、みんなに見せるために図書館がわざわざ無料のものを集める、インターネット上にあるものまで集めるというのは、ネットにアクセスできない人のためにオープンにする、という話とも違うでしょう?

――それをしなければならない理由の一つは、日本にはアメリカのインターネット・アーカイブに相当するものが、まだ民間にないからですよね。

紙の本に次のイノベーションはあるか

高橋:既存のものを保存・保管・所蔵するアーカイブは大事だ、ということのほかに、長尾さんのテキストには博物館の話が出てきますよね。ある意味で、図書館には「本の博物館」みたいなことが期待されている。つまり「モノとしての本が、その時代にはこういうかたちで使われていたんですよ」ということを未来まで保持しつづける役割までが、図書館に期待されている。それとは別に、モノとしての本は措いて、情報だけでいいから電子で頑張りましょう、という考えもある。この二つは別の次元の話なんですが、図書館の役割として両方とも大事です。

吉本:ところで紙の本には、次のイノベーションがありうるんでしょうか。とくに印刷機とか、ハードウェアの面で。いままでの印刷業のビジネスモデルは、大きな印刷機や製本機を買い、大きな工場で回してきた。でも印刷業自体、コスト感覚がすっかり転換してしまって、ペラの印刷物はパーソナルプリンターでもっと安い値段で作れるから、町の印刷屋さんはもういらない、という話が現実化しています。それに対して本の印刷・製本の現場がどうなっているのかが、あまりよく見えないんです。

高橋:ひとつはプリント・オン・デマンドですよね。

――ただ、プリント・オン・デマンドはある意味、流通の話ですよね。吉本さんが仰るのは、もっと純粋に技術的な革新という話じゃないでしょうか。

吉本:実は最近、韓国で印刷したらすごく安い値段で入ってきて、桁が全然違うんですよ。桁が違うというのはすごく大きくて……。

内沼:日本でも、コストをさげるために本をほとんど中国で印刷・製本している出版社があります。その代わり、制作のスピードを早めてるんですよね。11月に出す本の場合、日本で刷るなら10月に入稿すればいいものを、安く上げたいから8月には入稿して中国に送って、出来上がると船で運ばれてくる。

――いまの話はプリント・オン・デマンドより、技術的にはさらに新しくない(笑)。もともと他の業界ではやられていたオフショア化を出版にも導入しただけの話ですよね。

吉本:でもコストが桁違いに安くなると、開発面でも大きいんですね。たとえばプリント基板を日本でつくると、いままでは20万円必要だったんですよ。それが中国に発注すると、けっこうな数を作っても1万円でできる。そのことが、じつは試作の速度を圧倒的に速めている。大手はそういうことをやらないから、いまだに2カ月かけて50万〜100万も払ってやってるけれど、小さなところはその値段でできるようになると、すごくメリットがあるんです。

河村:個人が動かせる価格帯に落ちてくるかどうかは、とても大きいですね。

内沼:どこまでを「本」と言うかによりますが、コンビニにもあるコピー機でzineをつくってきた人たちが昔からいるわけで、本の場合は個人のレベルでも昔からやられてきたことですね。ちなみに個人が作る本でいちばんすごいのは、「一点もの」なんですが、それを国立国会図書館に納本しろと言われたら、作った人は当然「一冊しかないからいやだ」と言うはずです。

河村:個人がつくるzineや「一点もの」もふくめて、「本はパブリックである」と言えるのか、という問題が残りますね。

――ところで、知識や情報は「パブリックである」と言いやすいけれど、「本はパブリックだ」というのは、どこか言いづらい部分があるのはなぜでしょう?

吉本:「本はパブリックだ」と言われてきたことに根拠があるとしたら、それは量産されていたからですよね。

河村:しかも本がパブリックなものになったのは、歴史的にはまだ比較的に新しい話ですよね。図書館というものが作られたときの時代背景を考えると、本や知識はむしろクローズドなものだったわけです。

「人」と「場所」をどう生かすか

――そろそろ締めくくりに入りたいと思います。皆さんはこれから図書館に対して、どういう関わりをして行きたいですか。なるべく具体的かつ固有の話を順番にうかがえるとありがたいです。

吉本:僕の場合、これからやりたいことははっきりしています。正直に言って、公共図書館は斜陽産業なんですね。いまカーリルがやっているようなことは、この先はなくなっていく仕事だと思っている。そもそも自分自身がそれほど公共図書館を使っていないことからしても、本の貸出返却のような、いまの公共図書館の仕事に対しては、それほど大きな意義を感じていないんです。

ただし図書館には必ず窓口があり、そこには人もいる。そういう「場所」であることを武器として、図書館の人たちは次に何をやっていくのか。僕は図書館についての体系的な知識や技術はもっていないけれど、カーリルを始めたときから図書館の人に応援してもらうなかで、彼らとはいろいろな議論をしてきたから、そこにはとても興味があるんです。

たとえば、かつて炭鉱で働いていた人たちは、炭鉱がなくなったときどうしたのか。これまでの知識や経験を活かして次の仕事ができたのだろうか、という観点で考えてみるといいかもしれない。「生業」ということでいえば、うちの実家も時代の変化とともに家業の業態を変えてきたんです。でもそうした変化が起きること自体はいいことだし、僕らが図書館が変化する場面に立ちあえたら面白い。そのときに「図書館」という名前や場所はまだ残るかもしれないし、あるいはなくなるかもしれませんが。

内沼:それはとてもよくわかる話ですね。

河村:図書館が「場所」として残ったとき、最後に期待されるのは、自由を標榜する「コモンズ」としての機能だと思うんです。個別のお店でやっているかぎりは、いくら「ここはライブラリーだ」といっても、実質はコミュニティどまりになってしまう。少なくとも、こういうカフェのような場所では、「そこでは自由が保証されている」という言い方はしない。だけど公共の図書館ならば、一種のファンタジーかもしれないけれど、コモンズとしての自由を描ける余地が残っている。そこに対してリブライズの側で協力できることがあったら、どんどん支援していきたいんです。

それからもう一つ、公共図書館の蔵書はカーリルが一気にオープンにしてくれたけれど、近所にある小中学校の図書室にどんな蔵書があるかは、外には見えてこない。つまり、まだ電子化されてない「図書館」や「ライブラリー」は無数にあるんです。とくに学校というクローズドな場所を、まわりにいる人たちで見守っていく手段の一つとして、図書館の蔵書をオープンにすることには意味がある。そこの部分もリブライズでやっていきたいですね。

高橋:私は基本的に紙の本が好きなんですが、紙の本の図書館というものにはあまり接点がなかったし、正直に言うと、これから期待するところもあまりない。あと、人にもあまり興味がないんです(笑)。

じゃあ何に興味があるかといえば、アーカイブです。たとえば電子書籍はちょっと前まで、アプリで作っていました。そうしたアプリのなかには、もう動かない「読めない電子書籍」がたくさんある。こういう問題は昔からソフトウェアではあったことだけど、電子書籍の場合、さらにDRMをかけてわざわざ読めないようにしてあって、しかもそれを破ろうとすると刑法にひっかかる。そんな世界でどうやって電子書籍を未来に遺していけるんだろう、と思うんです。

その一方で、電子書籍もウェブページと同じようにどんどん消えていきます。作った本人が消したくて消えていくものもあれば、いつの間にかなくなっていくものもある。それらをどうやってアーカイブしていくか。当分はダーク・アーカイブにしておいて、誰もアクセスできなくてもいいけれど、すごく時間がたったあとで誰かがアクセスしたいと思っても、そもそも存在が知られていなければアクセスできない。だから少なくとも「そこに何かがある」ことはわかるようにしておきたいんです。

図書館にはこれまで100年、1000年の単位で本を遺してきた実績がある。そうした経験は電子書籍にはまったくないわけで、図書館がもっている技術的な蓄積は、紙の本以外のものを遺していく上でもすごく役に立つ気がします。

――紙の本に対して図書館が1000年単位でやってきた経験のなかに、電子書籍のアーカイブが参照すべきことがあるということですか?

高橋:ええ、ないはずがないと思うんです。ただ、いきなり図書館の現場の人を連れてきて、「なんとかしてください」と言ってもダメでしょう(笑)。そのために何が必要なのか、まだよくわからないけれど、図書館がもっている技術や人材とテクノロジーを上手くあわせて行けば、なんとかなる気がします。

河村:図書館に、これまでに出た電子書籍が再生できる完璧なエミュレーターを置けばいいと思うんです。ある世代の電子端末が使えなくなったら、それらを包含するエミュレーターを作る。何十種類かのエミュレーターがあれば、100年前に出た電子書籍であっても、読めるようにするのは技術的には難しくないはずです。

吉本:それはやりたいですね。

内沼:すごくいいと思います。

河村:たとえば、さきほど紹介した少女まんが館の館長は、電子書籍の出版をやっていたこともある人なんですよ。だけど電子書籍は2,3年たつと読めなくなってしまうので嫌になって、最後には少女マンガを紙の本で保存する蔵を建ててしまった(笑)。でも、電子書籍のエミュレーターをつくるとなるとDRMの話が入ってくるし、そもそもiPhoneのエミュレーターを作っていいのか、という微妙な話も出てくる。

実は開発者向けにはアップルからiPhoneのエミュレーターが配られているんですが、それはアップルストアが使えないので、アプリが買えない。したがってインストールもできないし、当然エミュレーションもできない。そうした事態を回避するには、開発者用のエミュレーターとは別に、実機とほぼ同じ動作をするものを図書館向けに作ってもらわないといけない。

任天堂のファミコンやDS、ソニーのプレイステーション用にはオープンなエミュレーターがあって、これらはだいたい実機と同じ動作をするところまできています。でも、電子書籍のエミュレーターはまだみたことがない。Kindleは中身が基本的にリナックスらしいので、エミュレーターが作れないはずはないのですが、Koboとかも含めて、現時点では電子書籍のエミュレーターをつくるはメーカー側の協力がいりますね。

内沼:この完璧なエミュレーターがあれば、どんなデータでもそこに持ってくれば読める、という安心感がありますね。すべてのメーカーに協力を仰がなければならないという意味でも、公共事業に相応しいと感じます。

高橋:もう一つ障害があるとしたらライセンスですね。エミュレーションとは、ようするに通常の商品に与えられているライセンスに則らずに使うということです。電子書籍のコンテンツは単体アプリや、リーダーにダウンロードして読むかたちなどいろいろとあるわけですが、「このコンテンツは正規のビューワーで読んでください、正規のビューワーは正規のIDでログインしてください」というライセンスになっているものを別のやり方で使おうとすると、「その権利をあなたはもっていません」という話になる。だからメーカーだけでなく、アプリを作っている人や、コンテンツの権利を持っている人たちの協力も必要になります。

河村:ネットワークに依存しているタイプの電子書籍の場合、サーバーが落ちていると開けない。

高橋:さらにそのサーバーでDRMの認証をしている場合には、もうやりようがないんですよね。

河村:達人出版会で売ってる電子書籍のように、EPUBやmobiやPDFのようなオープンなデータ形式になっているものは、いつでもエミュレーターできるでしょう?

高橋:うちの電子書籍はDRMがかかっていないので、エミュレーターがなくても大丈夫です。とくにPDFはISOの規格になっているし、公共機関のデータもPDFでつくる方向になってきているので、将来も読めなくなることはなさそうです。

河村:いまの世代のコンピュータがまったく残っていない時代がいつか来ます。そのときのことを考えると、EPUBはまだ怪しい。ブラウザ依存があって、たとえば最新のSafariじゃないと見られなかったり、表示が崩れてしまったりしますから。

内沼:昔のワープロ専用機のフロッピーからデータを救い出すサービスがありますが、そういうことが図書館でできたらとてもいいですよね。全てのデータを集めようという理想よりも、まずはどんなデータでも読めるサービスを提供することのほうが、公共性が高いような気がしてきました。僕が年をとったときに、もう開けなくなった東芝ルポのフロッピーを持っていったら、データを救い出してもらえる……といったことは、図書館がやるべきことの一つという感じがします。

高橋:サービス業者のなかには、自前でコンバーターを作ってるとこがありますね。古いワープロ専用機をちゃんと動くようにメンテナンスしていて、なにかあったときにはそのソフトを使ってコンバートするという。ただ、許可をとれなければ難しいこともあるかもしれませんし、メーカーの協力にも限界があるかもしれません。そういう意味では、ネットワークが発達してなかった頃のほうが障害は少なかったんですよ。ネットワーク認証が前提だと、サーバーが動かないと本当にアウトなので。

河村:ネットワーク越しのものをエミュレートする、もう一つ別のエミュレーターが必要になってしまう(笑)。それに、コンテンツにDRMが付いているかぎりはアーカイブできないんですよね。DRM付きのものは、国立国会図書館が画面を全部スクリーンショットして標準フォーマットにすることを認める、といった合法化の必要がでてきます。

――国立国会図書館の存在意義は、その時代ごとに変わっていくでしょうね。「長尾ヴィジョン」はまだ実現できてはいませんが、国立国会図書館の館長がヴィジョンを打ち出したのは画期的な話でしたし、その結果として、大規模デジタル化資料もできた。いまはまだその段階にとどまっているけれど、電子書籍のアーカイブを実現できる唯一の可能性をもっていることが、国立国会図書館の新たな存在意義という気がします。

リファレンスの未来

――内沼さんからも、これからの図書館とご自身の関わり方について最後にひとことお願いします。

内沼:吉本さんと同じで、一つは図書館にかかわっている「人」が今後どうなるのかで、もう一つが「場所」です。図書館のこれまでの役割が失われても、その建物や場所には、かならず別の役割が残る。これから先、僕が図書館に関わるとしたら、その場所に新たな魅力を付与していったり、その意味を変えていくためのお手伝いをすることになると思います。

たとえば図書館における「選書」という話が長尾さんのテキストに出てきますが、いまの公共図書館では選書や棚づくりがができる部分はとても限定的です。最初のほうで吉本さんが、「図書館では本の置場が場所が決まっていて、面出しするだけでも大変だ」と仰っていた(Part1参照)けれど、それでもみなさん苦労して、図書館でも特集コーナーを作ったりしている。けれどこれからは、B&Bみたいに毎日イベントやる図書館があってもいいかもしれないし、一館一館が地域の魅力を生かした独自のサービスやセレクトをして差別化をはかろうという意思を示していくこともあると思うので、そういったお手伝いをする機会がありそうだと考えています。

――この座談会は、長尾真さんがお書きになった「未来の図書館を作るとは」というテキストを皆さんに読んでいただくところから始めたわけですが、これまでにいろんなご意見が出たとおり、長尾さんご自身も揺れながらも進まれていると感じました。きょうお集りいただいた皆さんは、それぞれ立ち位置は違うわけですが、つながる部分、共有できる部分もあったと思います。また皆さんはすでに「図書館的なもの」――それを「図書館」と呼ぶかどうかは別として――を作っていらっしゃるので、それら同士がネットワーク的に広がっていけばいいと思いました。

最後にひとつ、長尾さんがいまお考えになっていることとして、図書館用のスーパー・レファレンス・エンジンというものがあるんです。図書館にとってレファレンスはとても重要なサービスです。ただ、人の能力だけに依存するようなサービスには、持続性がない。だったら図書館の本のレファレンスに徹底的に特化した人工知能を作れないか。もちろん、それはとても難しい話ですが、ある種の制限を設ければ部分的には可能じゃないか、というんです。

そのヒントになったのが、IBMが作った「ワトソン」です。「ワトソン」が人間のクイズ王を破った直後に長尾さんにお会いしたのですが、すごく悔しがっていらした。そのときは国立国会図書館長になられた後だったので、ご自身で挑戦できないのが歯がゆい、でもいつかそういう強い人工知能を作りたいと仰った。だったら、その人工知能を、図書館のレファレンスに特化したものとして作れないか、ということで、まだちょっと妄想的な部分もあるんですが、長期的なプロジェクトとしてやってみたいと思っています。

河村:私にとって、いまはフェイスブックとこの場所がレファレンス・サービスみたいなものなんです。知りたいことを投下すると、誰かが答えてくれることが多くて、そこそこ「集合知」が機能する状態にはなっている。

内沼:それは、すごくいいレファレンス・エンジンを作るのと、フェイスブックのようなSNSに問いを投下するのとでは、どちらのほうがいい答えが返ってくるか、という話ですよね。

河村:フェイスブックやこのカフェがそこそこレファレンスの機能を果たしてくれるのは、もちろん特殊な話題の場合であって、普遍化できることかどうかはわからない。いわゆる「強い人工知能と弱い人工知能」の問題でいうと、レファレンスのためにはやはり「強い人工知能」がいるのかもしれない。そのあたりはいつも気になっているんです。

内沼:図書館の現場でレファレンスをしている人同志は、つながってないんですか? 「強い人工知能」を否定する気はないんですが、レファレンス業務をしている人間が何万人もいるとしたら、単純にその人たち全員をSNSでつなげて、「こんな質問がきたんですけれど」と書きこんだら、すぐに誰かが返してくれるようになるのが、いちばん早いように思うんです。

河村:仮にレファレンスの司書さんが数万人いるとしたら、クラスターごとに100人ずつ程度にわけて、その人たちを専門分野やテーマごとに勝手に分類する部分は「弱い人工知能」がやっていけばいい。

内沼:この人だったら、このテーマはわかりそう、というところを人工知能がやるわけですね。

――既存のSNSの中でそれをやってもいいけれど、「これはレファレンスのみで成り立っています」という専用のSNSを作ったほうがわかりやすいかもしれないですね。

内沼:それがあれば、日本中のどの図書館に行っても、一定レベルのレファレンス・サービスが受けられるようになりますね。

河村:かつ、それぞれの司書さんが自分の強い分野を明確にもつことにも意味がでてきます。

内沼:ただ、それがインターネットで公開されてしまったら、図書館にわざわざ行く理由はなくなりますね(笑)。

河村:この仕組みが作れたら、たぶんそれこそが「パブリック」なんですよ。

――「電子書籍のエミュレーター」と「レファレンス専用SNS」という、具体的にこれから作れるものが二つも見つかったので、これを各々の環境で、時には集まって、実装に向かえるといいですね。座談会の続編ということに限らず、この座談会の続きがどのように展開していくのか、とても楽しみです。今日は長い時間、 皆さんありがとうございました。

(編集協力:伊達 文)

執筆者紹介

「マガジン航」編集部
2009年10月に、株式会社ボイジャーを発行元として創刊。2015年からはアカデミック・リソース・ガイド株式会社からも発行支援をいただきあらたなスタートを切りました。2018年11月より下北沢オープンソースCafe内に「編集部」を開設。ウェブやモバイル、電子書籍等の普及を背景にメディア環境が激変するなか、本と人と社会の関係をめぐる良質な議論の場となることを目指します。