ハフィントン・ポストにみる「編集」の未来

2013年5月13日
posted by 鷹野 凌

5月7日に六本木ヒルズ49階で行われた、この日に創刊したばかりのハフィントン・ポスト日本版の記者発表会を取材した後、翌日に編集長の松浦茂樹さんにインタビューをする機会を頂きました。

米国のハフィントン・ポストは、月間訪問者数4600万人(2013年1月現在、comScore調べ)、月間投稿件数800万件以上、寄稿ブロガー3万人以上というニュースメディアであり、同時に読者が活発に意見交換をするコミュニティでもあります(英、仏、伊、カナダ、スペインでも各国版を展開しており、日本でのローンチは世界で7番目)。

全米ナンバーワンのWebメディアが朝日新聞社と組んで日本上陸という話題性もあり、記者発表会には多くのマスコミ関係者が詰めかけ、TVカメラも何台も入るほどの大盛況でした。

「ハフィントン・ポスト」創業者で米国版編集長のアリアナ・ハフィントン氏。

「ハフィントン・ポスト日本版」編集長である松浦茂樹氏も登壇。

ところが、翌日の新聞系のWebサイトをみると、読売・毎日・共同通信には記事が見つかりません(産経、日経、時事通信系にはあり)。掲載しないところがあったのはライバルの新聞社が関わっているからか、それともWebメディアなので軽視しているのでしょうか?

逆にWebメディアはこの強力なライバルの出現を、むしろ歓迎しました。

このように、既に紹介記事はたくさん出ているので、同じようなものを「本と出版の未来を考えるメディア」である「マガジン航」に書いてもしかたありません。そこで本稿ではハフィントン・ポストにおける編集方針をもとに、「編集の未来」について考えてみたいと思います。

「編集」の意味は時代とともに変化している

「編集」という言葉に対し人が思い描くイメージは、インターネットの登場以後、多種多様になってきています。例えば、「Naverまとめ」や「Togetter」のように、インターネット上に散らばるコンテンツをひとつの意図のもとに「まとめ」る行為も、新しい「編集」の形と言っていいでしょう。

ちなみに「岩波国語辞典」の第七版では、「編集」は次のように定義されています。

へんしゅう【編集】諸種の材料を集め、書物・雑誌・新聞の形にまとめる仕事。また、その仕事をすること。映画フィルム・録音テープなどを一つにまとめることにも言う。

「岩波国語辞典」は2009年に改訂されて、現在の第七版になっているのですが、それにしてはえらく定義が古めかしい。この定義では、Webメディアに関わることは「編集」の範疇外になってしまいます。

ところで、ハフィントン・ポスト日本版の松浦編集長は、インタビューで「編集」についてこう語ってくれました。

ぼくらにとって原稿は「書いていただく」ものではなく、(ブロガーが自発的に)書いたものを「お預かりする」というスタンスなんです。お預かりした原稿には手を加えませんし、「載せない」という判断をする場合もあります。

そのかわり、ぼくらは記事についたコメントを「編集」することで、言論空間を作ることを意識している。でもそれはべつに「検閲」ではありません。ポジティブなコメントが集まるコミュニティを作るのも、「編集」の仕事だと思っています。

この話を聞いて、「それって編集なの?」という思いを抱く方もいるのではないでしょうか? しかし、デジタル化・ネットワーク化によって「編集」の意味は拡張されているのです。

読者の投稿を選別することも「編集」

限られた紙面という「場」に、選び抜いた文章や写真・イラストなどの情報素材をレイアウトし、パッケージ化して流通へ載せるという行為が、従来の紙メディアの「編集」でした。

それに対し、Webメディアはクリックひとつで簡単に他のサイトへ飛べてしまうような、フワフワとした「場」です。画面はいくらでもスクロールできるので、記事の文字数に事実上制限はありませんし、コメントという形で寄せられた読者の声をすべて載せることも可能です。

そういうわけで、Webから生まれたメディアの多くは、記事に付いたコメントもコンテンツのひとつとして扱っています。この「マガジン航」にはコメント欄がありませんので、読者の反響をダイレクトに見ることはできません。それはそれでひとつの方針でしょう。同様に、新聞社系のWebサイトはどこもコメント欄を設けておらず、情報を一方的に配信するに留めています。というのも、多くの人の声が集まる場を維持運用していくには、非常に大きな労力を必要とするからです。

自分のWebサイトやブログ、mixiのコミュニティやFacebookのグループ機能などをオープンな形で運用したことがある人なら理解できると思いますが、人がたくさん集まれば集まるほど、その場にそぐわない妙な意見や攻撃的な煽り、誹謗中傷なども増えていきます。

しかもそれを放置すれば、場が荒れる一方になります。雰囲気の悪くなった場は良識のある人を遠ざけ、ますます荒れるスパイラルに陥ります。場の雰囲気をコントロールしきれなくなり、閉鎖してしまったウェブサイトやコミュニティを、私もこれまでいくつも見てきました。

荒れている場には、荒れた場所が好きな人が集まる

いくら荒れても場を無理にコントロールしようと思わなければ労力は最小限で済みますし、荒れる場というのも、エンターテイメントとして捉えれば面白い。ですから、労力をかけずに「活発な議論の場」を用意しようとすると、おのずと「残念な」インターネットの言論空間(梅田望夫)になります。

建設的な議論ではなく、ただの罵り合いや誹謗中傷合戦になります。炎上し野次馬が集まるとPVだけは伸びるので、週刊誌の中吊り広告のようにタイトルで釣るような行為がスタンダードとなり、記事の内容もどんどん残念な方向になります。

であれば、建設的な議論ができる場を提供するために、労力をかけて載せるコメントを選別するというハフィントン・ポスト日本版のやり方も、「編集」に他ならないわけです。紙面という限られたスペースで一定の間を置いて行われるかわりに、Webというスペースの縛りが緩くてリアルタイムに更新される場で行われる、というだけの話です。

WIRED.jpに掲載された松浦氏のインタビューによると、本国アメリカのハフィントン・ポストでは月間約30万件のコメントが寄せられ、そのうち3分の1は不採用になるとのこと。また選別はある程度自動化されていますが、それでも約7割は手作業で落としているそうです。

ハフィントン・ポスト日本版のコメント欄。「投稿されたコメントは、ハフポスト編集部の確認後に表示されます」との注意書きがある。

芸能人ブログなどでよく見かける「コメント承認制」は、徹底的に都合のいいコメント以外を排除するというやり方で見た目を綺麗に整えていますが、異論・反論まで排除していては建設的な議論の場を作り出すことはできません。

承認制のコメント欄を採用しているあるビジネス誌系のWebサイトに、何度か記事に対する批判的な論調のコメントを投稿してみたことがあるのですが、1度も載りませんでした。なのでそこにコメントを書くのはやめ、Twitterなどに元記事のURLを付けて自分の意見を流すようになりました。コメント欄が、議論の場としては機能していないからです。

もちろん、TwitterやFacebookなどにURLを付けて意見を投稿することで、そこから議論が広がっていくこともあります。ただそれは、TwitterやFacebookという別の場における議論であって、記事元がそれに関わろうとしなければ切り離された議論になってしまいます。言ってみれば、TVで政治討論を観ながら、居酒屋談義をしているようなものです。やはり記事のある場において直接議論をするからこそ、相互理解や合意形成が図れるのではないでしょうか。

「編集」の未来

本国アメリカのハフィントン・ポストが建設的な議論の場として機能しているということは、そのあたりのバランス感覚がうまい、ということなのでしょう。そして、大変な労力を使って場のコントロールをしつづけているという点が、ハフィントン・ポストの凄さなのだと思います。

議論をスムーズに進めて相互理解や合意形成を図るには、優秀なファシリテーターが必要です。情報を発信するだけのメディアにそういう役割は必要ありませんが、ネットワーク社会における双方向メディアの編集者にはそういう能力も求められるということでしょう。

これからは制作物の送り手と受け手の間の緩やかなつながりや、コンテンツの内と外の間で起きる相互コミュニケーションのあり方までを想定して、メディアをつくりあげていく能力が編集者にもとめられます。従来の「強い」コントロールに対して、一種の「弱い」コントロールとしての「編集」の力が求められる時代といってもいいかもしれません。(仲俣暁生、『編集進化論』

しかし、こういったいわゆる「弱い編集」の時代がこの先も続くのでしょうか? ちょうど本稿執筆中、ハフィントン・ポスト日本版にこのような記事が載りました。

Google「検閲システム」の特許を取得 – ハフィントン・ポスト

Googleが、文章表現をアルゴリズムによって自動解析し、「問題のある表現」に警告をするというものです。ハフィントン・ポストが採用しているコメントの自動選別アルゴリズムも、恐らく今後ますます磨きをかけて、人の手が介在する割合を減らしていくでしょう。

つまり、単純作業の労働者が機械化によってその職を失ったように、「弱い編集」はアルゴリズムによって置き換えられる運命にあるとも言えるのではないでしょうか。そうなったとき、「編集」という言葉の意味はまた拡張され変わっていくのでしょう。

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